京大卒、東大卒文学部の方々の文章を読んだ。どちらも有意義な文章だが社会において文系の価値が軽視されがちになってきている趨勢を感じるこの時代に書き残しておきたいことがあります。
何のために学問をおさめるのか、主婦になるのは大学教育は必要ない?東大卒はプライドを捨てなければ自己肯定できないのか?
どちらも境遇が違うのですが共通して言えることがあるので増田に書いてみたいと思います。文学部が存在する大きな意味のひとつに「無限の文脈」を得るためということがあるでしょう。
たとえば仏教は人生は苦しみであると説きます。しかし人生は苦しみであるという言葉だけではなにをもって人生が苦しみなのかわからないので人生とは~~~ゆえに苦しみであるという~~~を獲得するのを助けるのに文学ほど有用な学問はないと確信しています。これは論理や実験では決してうまらない人間の人間たる存在の問題であるのでバッチリこれが答えだなんて言いいきれるものではありません。それが理系と文系の決定的な違いなのではと思うのです。文系の学問は経済学や社会学、政治学などを含めて全て勉強すればするほどに断定的な物言いが難しくなる側面があります。文系は人文系とも呼ばれますがまさに文学は人間の混沌を理解するため、ではなくどう見つめるかのその過程を追求するためにあるのではないでしょうか。
だから社会的な実益を生むわけではないので文学は時に軽視されることになります。しかし自らの人生を追及するために文学ほど役にたつものは存在しないのです。それは一般的な労働に従事するかぎりにおいてはほとんど役にも立ちませんがそれでも個人の人生という物語を形成する重要な要素にはなるのです。
おそらくそれが京大の文学部を出て主婦になった方が感じる最も根幹に感じる違和感の正体ではないのでしょうか?大学を出て社会的な成果を出さないとは何事かと人は言います。けれど文学は人間の外面ではなく内面をどう料理するかを学ぶ学問なのですから主婦になろうがどうしようがそんな社会的なことは甚だどうでもいいものでしかないのです。むしろその京大で学んだ文学的素養を発揮するのに主婦や子育てほど適した職はないとも私は思っています。
文学の価値というのは学生の時には傾倒し教授と談義にふけったりそれはそれはとても面白いものですが社会に出れば時に忙殺されてしまいます。実務に追われ気づけば学生の時に追求した私は~~~だから私であるの幼い文脈すら仕事の一言に置き換わってしまいます。それは理系も文系も京大もFランも高卒も関係なくです。しかしそんな何のために働くかわからなくなった名もなき乾いた砂粒のような人間にこそ文学は必要なのですよ。
こういうゴミ文章と狭い世界観しか書けないから、言われれるんだろうな。 文学部…というか思想系が即物的にもそうだし、人間の理解が結局、自然科学の認識を表している事、そし...
http://anond.hatelabo.jp/20160524230525 http://anond.hatelabo.jp/20160524234046 句読点が同じなんで同じ人が書いたんだろうけど文学部に恨みでもあるの?
最初のトラバ書いたもんだけど、俺自身もど文系野郎なので恨みなんて無いけど、昨今の予算削減だなんざの話で、世に出てくる文系の学者達があまりに目に余る酷さだなと思うことは...
本当にゴミ文章だった。 >たとえば仏教は人生は苦しみであると説きます。 >人生とは~~~ゆえに苦しみであるという~~~を獲得するのを助けるのに文学ほど有用な学問はないと...