はてなキーワード: 政権運営とは
以前は夢物語を語る傾向があったが、最近は随分と現実的になりつつある。特に経済政策では国民民主党よりも現実的だが、経済政策の説明が下手すぎてポピュリストからは少しだけ距離を置かれてしまってる印象は受ける。
共産や社民系の人はできるだけ排除して左派版自民党みたいになれば選択肢に入るかな。
典型的な右派ポピュリズム政党。民主党時代の反省を口にしながらも、現実的でないか実現困難か将来世代にツケを回すような公約が多い。宣伝が上手いために支持を得てるものの、その内容は耳触りの良い言葉で飾られたもので、詐欺の手法を変えただけとも言える。
身を切る改革という名目で必要なところまで削減してしまってる印象。日本には数少ない小さな政府論者で、経済右派。日本の社会主義政策が限界を迎えつつある中で、経済政策には期待を持てるか。団体がバックにいないのにも注目。
論外。典型的な左派ポピュリズム政党。少しの教養があれば騙されることはないような政策を掲げてる。日本円をジンバブエドルに、日本の財政を火の車にさせたくて仕方がないらしい。
参政党
「右派版れいわ」とも言える存在。陰謀論を基にした政党。論外。
ポピュリストでさえも騙されないような夢物語ばかり語る。昭和時代の左翼の亡霊。論外。
論外。外国や左翼への攻撃で現実逃避している印象。特に百田尚樹の品のない発言は、保守のイメージを下げるための左翼のスパイさえ疑わせるレベルに達している
キャスティングボード(Casting Board)とは、映画や舞台などの制作現場において、配役やキャスティングの情報を整理・表示するために用いられるボードのことである。一般的には、役名、キャストの名前、スケジュール、役どころの説明などが記載され、現場で簡単に確認できるようになっている。プロダクションチームやキャスト、スタッフが、いつ、誰がどの役を演じるのかを一目で把握できるよう、視覚的に整理された情報を提供する。派生して「キャスティングボードを握る」という慣用句が生まれた。
一般的には、以下の情報がキャスティングボードに記載される:
キャスティングボードの役割は、配役の情報を一覧化し、プロジェクト進行をスムーズにすることにある。伝統的にはホワイトボードやコルクボードに情報を記載し、マグネットや付箋などで変更や調整ができるように工夫されてきたが、近年では専用のデジタルツールやクラウドサービスを使って管理されることが増えている。
意味:最終的な決定権や重要な選択権を持つ立場にあることを意味する。元々は映画や舞台などの制作現場で、キャスティングディレクターや監督が配役や出演者の選定において決定的な権限を持つことから生まれた。このボードに載るキャストの名前が作品の方向性や成功に大きく影響するため、転じて、「重大な決断や方針を左右する立場」を指す言葉となった。現代では、この表現は芸能業界を超えて、組織運営やプロジェクトマネジメントなど、他の分野でも広く使われている。
使用例:「キャスティングボードを握る」という表現は、単に決定権を持つだけでなく、その人物がプロジェクトやチームの運命を左右するほどの重責を担っているニュアンスも含む。このため、企業のリーダー、イベントの総責任者、国家の政策決定者といった、影響力が大きい役職にいる人物に対してしばしば使用される。
「内閣改造を前に、首相がキャスティングボードを握り、新しい閣僚を慎重に選定している。次の政権運営がスムーズに進むかどうかは、この人事が鍵を握ることになるだろう。」
「国の安全保障政策に関する重要会議では、与党のリーダーがキャスティングボードを握り、今後の外交方針について最終決定を行う。この判断が日本の国際関係に大きな影響を与えるだろう。」
今回の自公連立が過半数を失った状況では、以下のような政界再編が現実的に安定的な政権運営につながる可能性があります。
自民党内でのリーダーシップ交代が進む場合、中道寄りの政策を重視するリーダーが台頭し、他の中道・中道右派と連携する可能性が高まります。具体的には、自民党内でリベラルなスタンスを持つ議員が台頭し、国民民主党や立憲民主党内の保守的な議員との連携を模索することで、幅広い支持層を取り込みやすくなります。この形態では、自民党・国民民主党・立憲民主党の保守系という連携が現実的です。このアプローチは、政策の実現力を重視し、経済や社会福祉に関する柔軟な政策が期待できます。
自公が弱体化した場合、国民民主党が連立の中心になる形での再編も考えられます。国民民主党が立憲民主党や維新の会と連携し、与党と対峙する立場を持ちつつ、政策協議を重視して安定的な連立を目指す形です。この場合、立憲民主党内でも現実路線を支持する議員と、国民民主党の政策の近さを重視して集まる可能性があり、広い政策の調整が必要になります。
維新の会や新たな第三勢力が独自の立場を保持しつつ、自公や立憲との政策ごとの協力を進める形も考えられます。維新は、改革志向や地方分権に重きを置くことから、特定の議題において連携しやすい点が強みです。この場合、明確な多数派が存在しないものの、是々非々で政策を進め、少数政党が影響力を持つ「政策協力型の安定政権」が実現する可能性があります。
・岸田さんが首相を辞めた理由があんまりわかってない。政治の金の責任は安倍派だと思っていたが。
・石破さんはいまいちパッとしない。傍流の人というイメージがあり、リーダーシップや刷新感がなかった。高市さんでなくてよかったとは思うけど。
・能力はさておき小泉さんが総理だったほうが若さのイメージで票を獲得できたんじゃないかなと思う。
・新内閣発足時は支持率が上がるというヨミのもとに解散に踏み切ったのは判断が悪かったとしか思わない。2,000万円の支援金への言い訳も厳しかった。
・今回の国民の全体の傾向として情勢が伯仲することという声を聞いた。私もそれに同感し、投票の受け皿になったよなと思う。
・政権運営能力は未熟、という印象が拭えないけれども、そこは二大政党制(一つの党が継続しない)みたいな感じになったらいいよなと思う。
・前述の理由から今回は立憲民主党に投票にしたけど、野田さんは紙の保険証を残したいらしい。それはやめてくれ。(このあたりは自分ははてな民だなと思う。)
・イマイチ実績のわからない泉さんから、首相経験のある野田さんに党首が変わったのはタイミングがよかったと思う。
・全然ウォッチしていなかったので、この躍進と20-30代からの支持の厚さにびっくりした。
・政治的主張についてはあんまり理解していないけど、音喜多さんが演説後に暴行を受けたという事件は悲しいなと思う。
・安倍さん暗殺、岸田さんへの未遂、先日の首相官邸への放火など暴力が増えていることは、非常に悪い状況だと感じる。
・3議席も獲得していることにびっくり。今後の政局の混乱を想像すると、変なところで3議席がめちゃくちゃ強い意味を持ちそうなのが怖い。
「悪夢の民主党政権」という表現は、日本において2009年から2012年まで続いた民主党政権時代を批判的に指す言葉です。このフレーズは特に自由民主党(自民党)の政治家たちが、民主党政権の実績を批判する際に使うことが多いです。この表現が生まれた背景には、いくつかの要因が絡んでいます。
民主党政権時代には、首相が3回も交代(鳩山由紀夫→菅直人→野田佳彦)し、それぞれが短期間で政権を降りることになりました。これにより、政権運営が安定しない印象を与え、リーダーシップの欠如が批判される要因となりました。また、首相が替わるたびに政策もぶれたり変更されたりするため、国民に不安を与えることも多かったです。
特に菅直人内閣時代、2011年に発生した東日本大震災への対応が大きな批判を受けました。地震、津波、福島第一原発事故という複合災害に対し、政府の対応が遅れた、指導力が不足していたとする見方が広まりました。これが政権に対する信頼を大きく損なったと言われています。
経済政策についても、民主党政権は「コンクリートから人へ」を掲げ、公共事業を縮小して福祉や教育に予算を振り向ける政策を目指しましたが、それがうまく進まなかったと感じる人も多かったです。経済の停滞が続く中で、具体的な成果が見えにくかったことから「成長戦略が欠如している」と批判されました。
鳩山由紀夫首相が普天間基地の移設問題で「最低でも県外」との発言をしたものの、最終的に公約を守れず、これが日米関係の信頼に影響を与えました。このような外交面での迷走も、政権の評価を下げた要因とされています。
もちろん「悪夢の民主党政権」という表現自体が、民主党の失策を強調し、支持層を取り戻そうとする自民党側の戦略でもあります。民主党政権の失敗を強調することで、自民党の安定性や経験の豊かさをアピールするという意図が含まれているのです。
民主党政権時代が「悪夢」と呼ばれる背景には、実際の政策運営の課題とともに、政権交代の経験が浅かったことや、震災という未曾有の事態への対応に直面した点など、様々な要因が重なっています。その上で、この表現が政治的なプロパガンダとして使われていることも考慮する必要があります。
自公政権にお灸をすえる意味でも一度下野させないとだめだと思っている
その間の数年間、現野党が政権運営をしてもそこまで国は傾かないと思うし
与党が過半数とれるかどうか、各社の世論調査では微妙な状況らしく、専門家の間でも見方が分かれている
ただしこれは「首班指名選挙で野党が協力して対抗馬(野田など)を選べば」ということなので、すぐには現実的ではない
とはいえ政権運営の状況によって「交代があり得る」という状況が続くのは自民党に相当なプレッシャーになる
政府与党が出す予算案や法案を可決するためには過半数が必要だが、与党で過半数に足りない場合は案件ごとに他党に協力を求めるほかない
当然議論はスムーズに進まず、他党の案を入れるなどの必要も出てくる
上記のような状況を避けるために、現在の自民公明の連立に他党を入れて過半数を維持する可能性がある
連立に入れば、野田、玉木、馬場などが大臣として内閣に入る可能性がある
上記のように、結果次第で状況が大きく変わるのが今回の選挙である
今までの選挙と異なり、事前の予想で大勢が判明しているわけではなく、今まだ投票していない、投票先を決めていない人たちが状況を変える力を持っている
この意見にはいくつか妥当な点がありますが、同時に問題点や矛盾点も存在します。
妥当な点:
1. 不満がある人ほど野党を支持する傾向: 現状に不満を感じている人々が、与党に対して失望し、野党に期待を抱くという傾向は理解できます。特に、発達障害の子どもを抱える家庭や、経済的に困難な状況にある家庭は、与党が彼らの問題を十分に解決していないと感じやすく、野党の政策に希望を託すことがあります。
2. 2012年の民主党政権への反感: 民主党政権時代に経済的打撃を受けた経験が、現在の立憲民主党に対するアレルギー反応として残っているという点も現実的です。当時の政権運営に対する批判が強く、一部の人々にとってトラウマとなっていることは事実です。
1. 与党と野党の選択が単純化されている: 野党支持者を「不満を持っている人々が夢を見ている」という形で単純化している点が問題です。野党を支持する理由は多様であり、単に「現状に不満があるから」という理由だけではなく、政策面での期待や理念の共有など、複数の要因が絡んでいます。野党を支持することが必ずしも「夢を見る」行動とは限りません。
2. 発達障害の家庭に関する偏見の可能性: 発達障害を持つ子どもの親が特に不満を抱えているとする一方で、それを野党支持と結びつけるのはやや偏見的です。発達障害の子どもを持つ家庭は、支援制度や福祉政策に強い関心を持っていますが、それが必ずしも与党に対する反感から来るものとは限りません。むしろ、どの政党が自分たちの生活を改善できるかを冷静に判断するケースも多いです。
3. 麻雀のオーラスとの比較が適切か: 麻雀のオーラスにおける「負けている人が大物手を狙う」という例えを、野党支持に当てはめるのはやや強引です。政治的な選択は麻雀のギャンブル的な要素とは異なり、特に子育てや生活に直結する問題については慎重な判断が求められます。現実の問題解決を求める有権者を単に「一か八かの選択」として描くことは、彼らの判断力を過小評価していると言えます。
まとめ:
この意見は、与党への不満から野党に期待を抱く層がいることや、民主党政権への過去の反感など、現実に基づいた妥当な点がある一方で、野党支持者や発達障害の家族を単純化しすぎており、根拠に欠ける部分もあります。また、麻雀の例えは状況を正確に反映していないため、慎重な分析が求められます。
筆者は議会制民主主義の複雑なメカニズムを強調していますが、この主張は、民主主義における「国民の信頼」という最も基本的な要素を過小評価していると言えます。例えば、連立政権の形成を例に挙げて「必ずしも国民から最も信頼される政党が政権を担うわけではない」と述べていますが、このような連立は多くの場合、選挙制度の制約や政党間の妥協によるものであり、国民の真の意思を反映しているとは限りません。これでは、「選ばれた」政権が必ずしも「信頼されている」とは言いがたい状況が発生しやすくなります。
2. 信頼の相対化
筆者は「自民党よりも信頼されていない政党が政権を取ることはありえない」という考えを「信頼の評価を単純に考えすぎている」と批判していますが、これは民主主義の根本的な性質を無視した議論です。最も信頼される政党が政権を握るべきだというのは、民主主義における選挙の基本的な原則です。少数派の選択肢があるにしても、最も広範な支持を得た政党が政権を握るべきであり、それこそが民主主義の正当性の根幹を成します。この点で、筆者の議論は、真に信頼されるリーダーが存在すべきだという重要な原則を軽視しています。
3. 選挙制度の影響を過剰に強調
筆者は小選挙区制の特徴を挙げ、「少数派の意見が反映されにくい」という問題点を指摘していますが、これをもって自民党の政権を正当化するのは論理的に飛躍しています。小選挙区制は国民の意思をある程度反映しており、その結果として自民党が多数を占めることになっている以上、それが民意の反映でないとは言えません。むしろ、選挙制度は国民の総意を反映し、特定の政党が国民の支持を集められないなら、それはその政党が政策的に支持を得られていない結果として正当化されるべきです。選挙制度の欠陥を主張するよりも、政党自身が国民から支持を得られる政策やビジョンを提示すべきです。
少数意見の尊重は重要な民主主義の原則ですが、政権運営において少数意見を過剰に尊重することは、多数派の意思を軽視する結果にもなりかねません。多数決は民主主義の基本であり、少数派意見は尊重されるべきですが、それが政権運営に直接的に影響を与える形で過度に強調されるべきではありません。筆者の主張するように、少数政党が政権を取ることが健全な政治を促進するという考え方は、実際には不安定な政治体制をもたらす可能性があります。政権は、最大多数の支持を受けた政党が運営するべきであり、それが政治的安定と国民の信頼に繋がるからです。
まとめ
筆者の議論は、民主主義の原則や選挙制度の実際を過度に技術的に捉え、国民の信頼や支持の重要性を軽視しています。政治の安定やリーダーシップの信頼性は、単なる制度上の技術的な問題に還元されるものではなく、国民の広範な支持に基づくべきです。
安倍氏の政権運営について問われた村上氏が国葬に欠席する意向を示したうえで「財政、金融、外交をぼろぼろにし、官僚機構まで壊した。国賊だ」と述べた
国賊以上かもしれません。
村上氏は安倍晋三元首相の死去後、安倍氏を「国賊」と呼び、1年間の党役職停止処分を受けた。
先の総裁選では石破氏の推薦人を務めた。
ふざけた野郎
ふてえ奴
総務大臣?
石破がどんどん本性をあらわす
石破さん、選挙勝つ気あるの?
まだいたのか…
固辞しろ
中選挙区の時代に自民党内で派閥が入れ替わってたのは日本的民主主義の一つの形だったと思うんだよな
主流派にならなかった人たちも多少は政権運営に関わってノウハウを身に着けておいて、自分らが主流派になった時に実務に困ることがない仕組みに(意図せず)なっていた
事実上の政権交代は出来ていたのに、政権交代が起こりやすい仕組みとして小選挙区制が導入されて、却って政権交代が起こらないようになってしまったように見える
たまには自民党以外に政権任せてみるか、ではノウハウを持たない素人集団が政権を担うことになってどうせうまくいかない
アメリカ式に頻繁に2大政党が政権交代するか(これを目指して上手くいかなかった気もするが)、ヨーロッパ式に多数の党が連立政権になるか、昭和の日本方式で行くか、そのあたりが答えになるんだろうか
決められた政策によって動くことになるのは官僚であり、企業であり、国民であるというところが重要なわけ。
決めた内容がいくら素晴らしくて理想的でも実現不可能では意味がない。
政策の実施までの道筋をつける能力が「政権運営能力」ってものなんだよ。
自民党以外は政権運営を経験したことがなく、まともな政権運営能力を持ってない。
官僚を手懐けるノウハウはないし、企業とのパイプもないし、国民からの信頼もない。
政策に不満があろうとなかろうともう国家を動かす力は自民党しか持ってないんだ。
日本国が現代の日本国の制度になって初期の頃であれば政権交代して様々な政党に経験を積ませるという選択もありえたが……。
「振り返ると、あの時代はやはり、日本の近代政治において最も暗い時期だったと思います。」
203X年、政治学者や社会評論家たちは、202X年に起こった日本共産党(JCP)の政権奪取について語る時、その口調には重い沈黙が伴う。彼らは、あの時代がどれほどの混乱と失望に満ちていたか、そしてその後遺症が今なお日本社会に影を落としていることを痛感している。
202X年、日本は長年の自民党政権が突如として崩壊し、JCPが第一党となった。この大転換の背景には、経済の長期停滞、深まる経済格差、そして自民党政権に対する国民の信頼崩壊があった。特に、若者たちは未来に希望を見出すことができず、自民党の保守的な政策が彼らの生活を改善することはなかった。就職難、住宅価格の高騰、少子化の進行、そして年金問題が絡み合い、多くの若者は「変革」しか道はないと感じていた。
「JCPが政権を取ったのは、国民が積極的に共産主義を支持したわけではなく、既存の政党に絶望した結果です。彼らは、もはや失うものがないと感じていたのです」と、ある政治学者は語る。国民の多くがJCPに託したのは希望ではなく、破壊的な変革によって何かが変わることへの淡い期待だった。しかし、それがどのような結末をもたらすか、誰も理解していなかった。
JCPが政権を取ると、直ちにその理想主義的な政策が打ち出された。最低賃金の大幅引き上げ、労働者の権利強化、累進課税の強化、大企業への規制強化が次々と施行され、政府は「労働者のための新しい時代」を謳い上げた。しかし、その影響はすぐに経済に現れた。中小企業は増大するコスト負担に耐えられず、倒産が相次ぎ、雇用が急激に縮小した。
「労働者を保護しようとする政策が、逆に労働市場全体を破壊してしまいました。企業は資本を海外に移し、失業率は急上昇。残された労働者たちは、希望があったはずの政策に失望していました」と、当時の経済学者は述懐する。失業者の増加は、JCPが掲げた「平等な社会」という理想とは程遠い現実を突きつけ、社会的な混乱が一気に広がった。
国内の経済問題に加えて、JCPの外交政策もまた重大な転換点を迎えた。日米安保条約の廃止という政策は、彼らが政権を握る前から掲げていたが、政権奪取後にそれが実現に向かって進み始めると、国内外で強い反発が生じた。アメリカ政府は日本の防衛義務を放棄するかのような動きに対し、厳しい態度を取り始め、日本は一気に国際社会から孤立し始めた。
「防衛の空白をどう埋めるのか、政府は明確な答えを持っていませんでした。非武装中立を掲げたものの、現実の脅威に対して無策であることが露呈しました」と、元防衛省高官は述べている。中国や北朝鮮の軍事的脅威が増大する中、日本は自らの安全保障を担保できなくなり、防衛力強化に急遽乗り出す必要があったが、それはJCPの理念と大きく矛盾していた。
さらに、JCP内部では早くから対立が生じていた。理想主義を貫こうとする急進派と、現実路線を模索する穏健派の間での争いが激化し、党内の団結は次第に崩壊していった。当初、改革の旗手として国民の期待を集めたJCPであったが、内部の混乱が続く中で政策は一貫性を失い、党内の一部は離党を示唆するに至った。
「党が掲げた理想が実現できず、むしろ国民生活を悪化させてしまったという自覚が、党内の若手議員たちに広がり始めました。改革が進まないどころか、全てが行き詰まっていたのです」と、元JCPの党員が当時を振り返るように、政党内部での分裂が政権運営に大きな打撃を与えた。
こうした混乱の中で、国民の間には急速に幻滅が広がった。JCP政権に期待をかけていた層は、経済の悪化と外交問題に直面し、自分たちの選択が間違っていたことに気付き始めた。特に、地方経済は完全に崩壊状態に陥り、失業率の上昇と福祉の低下が重なり、国民生活は次第に悪化していった。
「私たちはあの時、変革が希望になると信じていました。しかし、現実は違った。私たちの選択が、むしろ日本をさらに苦しめる結果になったのです」と、当時若者だった国民が述べるように、社会全体が「変革の失敗」を痛感するに至った。もはや希望はなく、政治に対する信頼も完全に失われていた。
「あの時代は、私たちがいかに無力だったかを象徴している」と、203X年の社会評論家は語る。JCPの政権運営は理想と現実の乖離によって破綻し、日本社会は深刻な分断と停滞に陥った。この経験から得た教訓は、「政治の選択がいかに国の未来を左右するか」という厳しい現実であり、今後の日本社会がこれを乗り越えるためには、あの「悲しい時代」の失敗を忘れてはならない。
「日本があの時、何を失ったのか。そして、それを取り戻すのがいかに難しいか。それを思い出すたび、私は胸が痛むのです」と、識者は静かに言葉を結んだ。
「どうすれば変えられたのか、悔やんでも悔やみきれない」
多くの識者がこのように反省の念を抱きながらも、振り返れば、それはもはや手遅れであることを知っている。あの時、何かが変わっていれば――もっと早くに、目の前の問題が見えていたならば――日本は、異なる未来を手にしていたかもしれない。だが、その「もしも」は、今となっては叶わない夢であり、選び取った結果の重さを受け入れるしかないという現実に、人々は否応なく直面している。
「私たちは無力だった。しかし、もっと無力だったのは、あの危機が目前に迫っていたにもかかわらず、誰もがそれを本気で直視しようとしなかったことです。無知や油断、そして過信が日本をあの道へと進ませたのです。」
振り返って見えるのは、自らが選び取った決断の結果であり、それを避けることができたはずだという後悔の念に駆られた国民の姿だ。もしも当時、もっと冷静に、もっと現実を見つめていたら――この反省は未来の日本に引き継がれなければならない。
識者はそう締めくくりながらも、その言葉には、深い屈辱と悔恨がにじんでいた。失われた時代に何もできなかった無力感が、未来への一歩を踏み出すべき教訓として刻み込まれた。そしてそれは、次の世代に託された希望への道標となることを願っているかのように、静かに語られていた。
この意見にはいくつかの誤解や偏見が含まれています。以下に、具体的な反論を示します。
まず、「候補者が派閥に分かれて競い合うことで選択肢を与えられる」という主張についてですが、これは表面的には民主主義の一形態に見えますが、実際には日本の政治システムにおける派閥政治は、透明性や公正性を欠くことが多いです。派閥間の競争は、しばしば利益団体や特定の利権に基づいており、一般市民の意見やニーズが反映されにくい構造になっています。これにより、選挙結果が特定の派閥や利益集団の影響を受けやすくなり、真の意味での選択肢とは言えません12。
次に、「自浄作用が生まれる」という点についてですが、自民党内での競争が必ずしも自浄作用を促進するわけではありません。むしろ、派閥間の結束が強まることで、問題が内部で隠蔽されることもあります。例えば、過去にはスキャンダルや不正行為があっても、党内での調整によって問題がうやむやにされるケースが多々ありました。このような状況では、自浄作用は期待できません34。
また、「統一教会と仲良くしておけば良かった」という意見は、倫理的な観点から問題があります。特定の宗教団体との関係を優先することは、政治的中立性や公正性を損なう可能性があります。政治家は国民全体の利益を考慮すべきであり、一部の団体との関係を重視することは、その責任を果たしていないと言えます56。
共産党についての批判もありますが、共産党はその組織構造上、異論を認めないという点で批判されることがあります。しかし、共産党もまた民主主義的なプロセスを持ち合わせており、その中で意見交換や議論が行われています。異論を認めないという点は他の政党にも当てはまる場合があり、自民党内でも異論が抑圧されることがあります78。
最後に、「結局自民党が一番優秀」という結論についてですが、この評価は非常に主観的です。自民党には長年の政権運営による経験がありますが、その結果として生じた問題(例えば、経済格差や社会保障制度の不備など)も多く存在します。優秀さは単なる政権維持だけでは測れず、国民生活の質や社会全体の幸福度など、多角的な視点から評価されるべきです910。
以上から、この意見には多くの誤解と偏見が含まれており、日本の政治システムや各政党についてより深く理解する必要があります。
こうやって候補者が派閥に分かれて競い合うことで、選択肢を与えられるわけじゃん
競い合って選ばれる
トップを選んで決めるなんて出来ないし、異論が出ようと認めないだろう
結局自民党が一番優秀なんだよ
進次郎総理爆誕したら虚脱がやってくる気がするな。ちょっとしたアパシー状態が。
ちょっと政治に興味ある人間で、積極的な意味で進次郎がこの国の舵取り役を担うべきだと思ってる人間なんか一人もいない。
なのにそうなることを誰も止められない。
正確にはそうと決め込んでいるのだ。自分の選挙の心配しかしていないしみったれた与党政治家たちが。
「もうどうでもいいや」ってなるだろう。
やる気のなさそうなオッサンの間で首相ポストやったりとったりしてたあの時代に自民への信頼は地に落ちた。「どうせお前らの内輪で勝手にやるんだからもうどうでもいいわ」
「アホくさ」というアパシーから「もうどうでもエエわ」というアノミーへ。
進次郎本人が何かやらかすだろうという話ではなく、軽い神輿を担いだ側の鼎の軽さが露呈するのだ。
また政権交代が来るという話でもない。
政治団体としての派閥がなくなったぶん、まったく誰にも見えないところでの隠微な談合でしか何事も動かない、国民のニーズが全く響かない沼みたいな政権運営が続くんじゃないかな