はてなキーワード: 福島正則とは
城内に響く浪人のため息、どこからか聞こえる「今日で落城だな」の声。
無言で逃げ始める兵士達の中、日本一の兵・真田信繁は独り曲輪で泣いていた。
上田合戦で手にした栄冠、喜び、感動、そして何より信頼できる仲間たち・・・
「どうすりゃいいんだ・・・」信繁は悔し涙を流し続けた。
どれくらい経ったろうか、信繁ははっと目覚めた。
どうやら泣き疲れて眠ってしまったようだ、冷たい甲冑の感覚が現実に引き戻した。
「やれやれ、帰って調練をしなくちゃな」信繁は苦笑しながら呟いた。
立ち上がって伸びをした時、信繁はふと気付いた
曲輪から飛び出した信繁が目にしたのは、大坂平野まで埋めつくさんばかりの大軍だった。
千切れそうなほどに旗が振られ、地鳴りのように鬨の声が響いていた。
どういうことか分からずに呆然とする信繁の背中に、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「源二郎、出陣だ、早く行くぞ」声の方に振り返った信繁は目を疑った。
「た・・・太閤殿下?」「なんだ信繁、かってに関白殿下を隠居させやがって」
「三成殿・・・」 信繁は半狂乱になりながら陣立てを見渡した。
一番備:福島正則
二番備:加藤清正
三番備:堀秀政
四番備:前田利家
五番備:小早川隆景
六番備:真田昌幸
七番備:大谷吉継
八番備:石田三成
九番備:豊臣秀吉
暫時、唖然としていた信繁だったが、全てを理解した時、もはや彼の心には雲ひとつ無かった。
「勝てる・・・勝てるんだ!」
追記:Twitterでの話です。色々な人を混乱させて申し訳ない。
結論から述べる。四男の検索よけに「市松」を使うのはやめてくれ!!!頼む!!
もう、おそ松さんが流行りだしてからずっと我慢してきたが、言わせてもらう。勘弁してくれ!
私は歴史が好きだ。それはもう幼稚園児の頃に歴史にハマり、今では近現代史を中心に学んでいる大学生である。それぐらいに歴史が好きだ。その中でもハマったのが、戦国時代の福島正則という人物である。功績や人物像は本件とは関係ないので置いておくが、福島正則の幼名は「市松」である。
そして私は、おそ松さん及びBLが大の苦手である。おそ松さん自体には悪いことはないので私怨だ。これは申し訳ない。ただ苦手なだけである。ただ、「市松」と検索かけてBLツイートが引っかかるのは我慢ならない。BLはパンピの目に入らないのが前提だと思う。好きなものを調べて、ファンアートの域を大幅に超えたものが飛び込んでくる現状には誠に遺憾である。なにより、私が今まで積み上げてきた福島正則、「市松」像にヒビが入った。
検索よけの精神は大切だと思う。思うが、自己グループ内でのモラルを守る反面、無関係な人が巻き込まれているのはどうだろうか。検索よけをしたがために、無関係な人が迷惑している。私だけだとは思うけど。私怨なのは承知している。でも、もっと他の検索よけの仕方はなかったのだろうか。私はおそ松さんのことをよく知らないが、四男でもよかったじゃないか。普通に壱松とかにしてほしかった(壱松ってワードが既存の場合はすいません)。何故、わざわざ「市松」とか凝った検索よけにしたんだ。今回はおそ松さんを取り上げたが、結構検索よけって無関係な人を巻き込んでるよ。
ここまで言うと、「まーた歴史クラスタが喚いてるよ」となるかもしれないけど、これは私1人の意見である。おまけにほぼ私怨みたいなものだ。歴史クラスタは関係ない。戦国クラスタ、福島正則クラスタは関係ない。私個人が抱えている大問題だ。「これだから歴史クラスタは…」ってなることだけは避けたい。それこそ無関係な人を巻き込んでしまう。
話を戻すが、腐女子の方の文化というより、検索よけの時に、誤変換をして発言するという文化があるのは知ってる。ただやり方を考えてほしい。「市松」は福島正則の幼名だけじゃない。市松模様、市松人形、割と使われている。これらを検索する人は、大体がおそ松さんとは関係ない。
おそ松さんクラスタの中でも、「市松」って検索よけの仕方はダメなのでは?と言っている人も何人か見かけた。ありがたいことだ。甘えていいならもっともっと言ってほしい。
増田 長盛(ました ながもり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。豊臣政権五奉行の第三席。父母は不詳、弟に増田長俊、子に盛次、長勝、新兵衛。官位は従五位下・右衛門少尉。
目次 [非表示]
1 生涯
1.1 仕官以前
2 子孫
3 主な家臣
3.1 一門衆
3.2 重臣
3.3 その他
4 脚注
4.1 注釈
4.2 出典
5 関連項目
生涯[編集]
生地は2つの説があり、1つは尾張国中島郡増田村(現在の愛知県稲沢市増田町)[注釈 1]だったという説、もう1つは近江国浅井郡益田郷(現在の滋賀県長浜市益田町)[注釈 2]だったという説がある。上野国に存在した増田氏との関係は不明である。
秀吉に仕官する以前の経歴は明らかでないが、一向宗徒であったという説がある。永禄7年(1564年)側室との間に長男・長勝を儲けている。
天正元年(1573年)、28歳の長盛は、まだ織田信長の家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に召し出され[注釈 3]200石で仕えた[1]が、この時期に正室を迎えたと見え、天正8年(1580年)、嫡男・盛次が誕生している。盛次の誕生に際し、銘吉光九寸五分の短刀を与えたことが盛次討死後、乳母の口から語られて記録に残されている。
秀吉の麾下で中国攻めをはじめ多くの戦に従軍し、鳥取城攻めでは「陣中萬の物商の奉行」を命じられた。天正10年(1582年)には奏者に任じられ、上杉景勝との外交交渉などを担当した。同年の吉田兼見の日記に名前が登場している。
天正12年(1584年)3月、小牧・長久手の戦いでは先陣を務めて兜首二つを取る功を上げ、この功績で2万石に加増され、翌天正13年(1585年)3月の紀州攻めでは、大谷吉継と共に2,000の兵を率いて従軍、根来衆の津田監物、西谷延命院を斬った武功があったとされ(『根来寺焼討太田責細記』)、従五位下・右衛門尉に叙任されている。
天正18年(1590年)の小田原征伐においては里見義康担当の申次となり、安房国で差出検地の施行と知行宛行状の発給を行っており[2][3]、後北条氏が滅亡すると、さらに下野・常陸・安房の大名に対する豊臣政権の取次となった[4]。この年、中村一氏が駿河国駿府14万石に移封になったのを受け、近江国水口6万石を拝領している。
太閤検地では石田三成、長束正家らと共に中心的な役割を担い、近江国、美濃国、越後国などの要地の検地奉行を務めた。普請に積極的で、京都では鴨川に架かる三条大橋・五条大橋の改修工事にもあたり、三条大橋には今も長盛の名が刻まれる。伏見城の改修も分担した。
文禄元年(1592年)からの文禄の役では、石田三成、大谷吉継とともに朝鮮に渡って漢城に駐留し、奉行として占領地統治や兵站に携わった他、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いにも参加している。
文禄4年(1595年、豊臣秀次が秀吉の命で切腹する「秀次事件」が起きると、長束正家と共に秀吉との間に対立が生じた豊臣秀次の老臣を糾問するなどしている。文禄5年(1596年)にはサン=フェリペ号事件の処理で土佐に赴き、このときの対応が秀吉によるキリスト教(フランシスコ会)の弾圧(日本二十六聖人の殉教)の端緒を開いた。
文禄4年(1595年)、豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が没すると7月、大和国郡山城20万石の所領を与えられる。高田一英・浅井井頼ら大和大納言家の旧臣の多くは長盛が召抱えた。長盛はまた郡山城に総堀をめぐらす大掛かりな普請を行った。東では秋篠川の流れを東に変えて水流を佐保川に落とし、西に多数の溜池を繋いで堀となすなどした。この普請のために大和中から夫役が徴発され、普請は翌文禄5年(1596年)に完成を見た。慶長元年(1596年)には紀伊国・和泉国の蔵入地の管理を委ねられている。秀吉の晩年には五奉行となる。慶長2年(1597年)には再び安房国を訪れて、総検地を施行している[2][3]。
慶長の役では開戦後国内にいたが、慶長4年(1599年)に予定されていた大規模攻勢では福島正則・石田三成とともに出征軍の大将となることが決定していた[5]。しかし、慶長3年(1598年)8月に秀吉が没したためこの計画は実現しなかった。
慶長3年(1598年)に秀吉が没すると、石田三成は反徳川家康の立場を鮮明にし、長盛もこれに与して打倒家康の謀議に参加。慶長5年(1600年)には長束正家や前田玄以など五奉行連判で家康の悪事を糾弾する弾劾書を示し、五大老の毛利輝元や宇喜多秀家を擁立して挙兵、西国大名に西軍加担を要請する文書を送るなど精力的に活動した。
伏見城攻めには自ら参加し[注釈 4]、重臣・福原清左衛門をして城内に籠る甲賀衆に寝返りを促し、落城に導いている(甲賀郡志)。大津城の戦いには一門の増田作左衛門を陣代として軍勢を派遣し、増田勢は大津城の湖水方面から城壁を越えて乗り込み攻撃した。同城の戦いではまた、家臣・中村金六が敵方の勇士・浅見藤右衛門と組み打ちし功名をあげた。 しかし、一方で家康に三成の挙兵を内通し、また三成の資金援助要請も渋るなど対東軍への保身工作も講じている。9月15日に行われた関ヶ原の戦いには参加せず、毛利輝元とともに大坂城守備部隊として西の丸に兵3,000を率いて駐屯。戦後の9月25日、出家して謝罪し、9月27日に大坂城西の丸にて沙汰を申し渡され改易となる。その身柄は高野山に預けられた。
後に高野山を出て岩槻城主・高力清長預かりとなる。慶長19年(1614年)8月、家康より召喚され大坂方への和睦の仲介を依頼されるもこれを断る。元和元年(1615年)、尾張藩主・徳川義直に仕えていた息子の増田盛次が長盛との相談の上で義直の了解を取り大坂夏の陣で尾張家を出奔して豊臣氏に与したが、戦後この責任を問われ自害を命じられた。享年71。
三白眼であり豊臣家を滅ぼした元凶ではないかと後世に語り継がれている。安藤英男は、長盛が三成失脚後に100万石以上に相当する豊臣氏の蔵入地を一括管理していた点を指摘し、長盛が家康に通じずに蔵入地の100万石がもたらす資金・人員を豊臣家及び西軍のために振り向けたならば、関ヶ原の戦況も西軍有利に転じた可能性があったとして輝元とともに西軍敗戦の原因と分析している。
墓所は埼玉県新座市の金鳳山平林寺。当初、騎西郡金重村にあった平林寺に葬られたが、松平信綱によって平林寺が移転された際、新座郡野火止に移った平林寺の境内に移された。明治年間、子孫が墓石を再度移転している。
まず、勝手に動いたわけでもないし西軍につくつもりだったわけでもないよ。
当初は家康からの要請を受けて手勢率いて伏見城に向かったわけ。
でも伏見城に着いたら城将に「聞いてない」とか言われて、
この無礼に怒った義弘は「じゃあ西軍についてやる」「ぶっ殺してやる」って言い出して、
本当に西軍に走った。
「夜襲でぶっ殺すからやらせてくれ」とか攻撃的な作戦をいろいろと献策したんだけど
例の茶坊主や首脳陣が保守的な方針ばっかり好むから却下されてしまった。
茶坊主の腹心である島左近も積極襲撃策を提唱して却下されてる。
せっかく当時最高レベルの凄腕の戦争屋を手勢に置きながら、茶坊主は使いこなせなかったんだね。)
関ヶ原本戦では積極的に行動するでもなく傍観。
その頃までには茶坊主の戦下手と煮え切らなさを何度も目の当たりにして
もう西軍全体での勝利に見切りをつけていた。
茶坊主達本隊が決戦しないで逃げ出すもんだから殿軍を受け持ったりも。
気付いたら西軍が敗走、戦場に取り残される。
取り残されたんじゃなくて、西軍が負けるまで残ってた。
やる気がなくなってるんだからもっと前に勝手に撤退すりゃいい(そういう大名は一杯居た)んだが。
プライドの持ち方が狂ってるとかあたまおかしいという批判ならその通り。
サラッと書いてあるが
だが後ろは山道だったので、ジジイが「難路だるいわー」「それなら正面の徳川本陣ぶち割るわー」と言い出して、
本当に正面に向かって撤退した。
福島正則に見逃してもらい、
「あいつらなんかあぶねーからよけよう…」と交戦を避けた福島は命を拾い、
真面目に追いかけた徳川四天王の1人井伊直政は命を落とす事になった。
他にも譜代の家臣やら兵やらたくさん捨石にしている。
義弘は命をなんだと思ってるのか。
まあ消耗品だと思ってるよね。
連絡ミスされたぐらいで西軍について弓を引くという行動は完全にクレイジーだが、
おめおめと後方に逃げたりその場で自害したりせずに
マジキチな武威を見せ付けたことで
「西の端まであのマジキチ一家を成敗に行くのは危ないな」と家康に思わせた。
ただの脳筋ジジイが勝手にピンチになって周囲に迷惑をかけまくっただけ。
冷静でも勇敢でもない、ただの馬鹿だ。
島津オタという奴等は義弘の頭がおかしいことぐらいはわかってる。
人の命を鴻毛の如く考える畜生ぶりもよく知っている。
「超頭悪い」
「だからかっこいい」
もう少し研鑽を積め。