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2017-05-19

増田 長盛(ました ながもり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名。豊臣政権五奉行の第三席。父母は不詳、弟に増田長俊、子に盛次、長勝、新兵衛。官位従五位下・右衛門少尉

目次 [非表示]

1 生涯

1.1 仕官以前

1.2 秀吉近臣時代

1.3 郡山城時代

1.4 秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後

2 子孫

3 主な家臣

3.1 一門衆

3.2 重臣

3.3 その他

4 脚注

4.1 注釈

4.2 出典

5 関連項目

生涯[編集]

増田長盛邸址(愛知県稲沢市増田町

増田長盛屋敷跡(滋賀県長浜市朝日町

生地は2つの説があり、1つは尾張国中島郡増田村(現在愛知県稲沢市増田町)[注釈 1]だったという説、もう1つは近江国浅井郡益田郷(現在滋賀県長浜市益田町)[注釈 2]だったという説がある。上野国存在した増田氏との関係不明である

仕官以前[編集]

秀吉仕官する以前の経歴は明らかでないが、一向宗徒であったという説がある。永禄7年(1564年)側室との間に長男・長勝を儲けている。

秀吉近臣時代[編集]

天正元年(1573年)、28歳の長盛は、まだ織田信長の家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に召し出され[注釈 3]200石で仕えた[1]が、この時期に正室を迎えたと見え、天正8年(1580年)、嫡男・盛次が誕生している。盛次の誕生に際し、銘吉光九寸五分の短刀を与えたことが盛次討死後、乳母の口から語られて記録に残されている。

秀吉の麾下で中国攻めをはじめ多くの戦に従軍し、鳥取城攻めでは「陣中萬の物商の奉行」を命じられた。天正10年(1582年)には奏者に任じられ、上杉景勝との外交交渉などを担当した。同年の吉田兼見日記名前が登場している。

天正12年(1584年)3月小牧・長久手の戦いでは先陣を務めて兜首二つを取る功を上げ、この功績で2万石に加増され、翌天正13年(1585年)3月紀州攻めでは、大谷吉継と共に2,000の兵を率いて従軍根来衆津田監物、西谷延命院を斬った武功があったとされ(『根来寺焼討太田責細記』)、従五位下・右衛門尉に叙任されている。

天正18年(1590年)の小田原征伐においては里見義康担当の申次となり、安房国で差出検地の施行知行宛行状の発給を行っており[2][3]、後北条氏が滅亡すると、さら下野常陸安房大名に対する豊臣政権の取次となった[4]。この年、中村一氏駿河国駿府14万石に移封になったのを受け、近江国水口6万石を拝領している。

太閤検地では石田三成長束正家らと共に中心的な役割を担い、近江国美濃国越後国などの要地の検地奉行を務めた。普請積極的で、京都では鴨川に架かる三条大橋五条大橋改修工事にもあたり、三条大橋には今も長盛の名が刻まれる。伏見城の改修も分担した。

文禄元年(1592年)から文禄の役では、石田三成大谷吉継とともに朝鮮に渡って漢城駐留し、奉行として占領統治兵站に携わった他、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いにも参加している。

文禄4年(1595年、豊臣秀次秀吉の命で切腹する「秀次事件」が起きると、長束正家と共に秀吉との間に対立が生じた豊臣秀次の老臣を糾問するなどしている。文禄5年(1596年)にはサン=フェリペ号事件の処理で土佐に赴き、このとき対応秀吉によるキリスト教フランシスコ会)の弾圧日本二十六聖人殉教)の端緒を開いた。

郡山城時代[編集]

文禄4年(1595年)、豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が没すると7月大和国郡山城20万石の所領を与えられる。高田一英・浅井井頼ら大和大納言家の旧臣の多くは長盛が召抱えた。長盛はまた郡山城に総堀をめぐらす大掛かりな普請を行った。東では秋篠川の流れを東に変えて水流を佐保川に落とし、西に多数の溜池を繋いで堀となすなどした。この普請のために大和から夫役徴発され、普請は翌文禄5年(1596年)に完成を見た。慶長元年(1596年)には紀伊国和泉国の蔵入地管理を委ねられている。秀吉晩年には五奉行となる。慶長2年(1597年)には再び安房国を訪れて、総検地を施行している[2][3]。

慶長の役では開戦後国内にいたが、慶長4年(1599年)に予定されていた大規模攻勢では福島正則石田三成とともに出征軍の大将となることが決定していた[5]。しかし、慶長3年(1598年)8月秀吉が没したためこの計画は実現しなかった。

秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後[編集]

慶長3年(1598年)に秀吉が没すると、石田三成は反徳川家康立場を鮮明にし、長盛もこれに与して打倒家康の謀議に参加。慶長5年(1600年)には長束正家前田玄以など五奉行連判で家康悪事糾弾する弾劾書を示し、五大老毛利輝元宇喜多秀家擁立して挙兵西国大名西軍加担を要請する文書を送るなど精力的に活動した。

伏見城攻めには自ら参加し[注釈 4]、重臣・福原左衛門をして城内に籠る甲賀衆に寝返りを促し、落城に導いている(甲賀郡志)。大津城の戦いには一門の増田左衛門を陣代として軍勢派遣し、増田勢は大津城の湖水方面から城壁を越えて乗り込み攻撃した。同城の戦いではまた、家臣・中村金六が敵方勇士・浅見藤右衛門と組み打ちし功名をあげた。 しかし、一方で家康に三成の挙兵を内通し、また三成の資金援助要請も渋るなど対東軍への保身工作も講じている。9月15日に行われた関ヶ原の戦いには参加せず、毛利輝元とともに大坂城守備部隊として西の丸に兵3,000を率いて駐屯戦後9月25日出家して謝罪し、9月27日大坂城西の丸にて沙汰を申し渡され改易となる。その身柄は高野山に預けられた。

後に高野山を出て岩槻城主・高力清長預かりとなる。慶長19年(1614年)8月家康より召喚され大坂方への和睦の仲介を依頼されるもこれを断る。元和元年(1615年)、尾張藩主・徳川義直に仕えていた息子の増田盛次が長盛との相談の上で義直の了解を取り大坂夏の陣尾張家を出奔して豊臣氏に与したが、戦後この責任を問われ自害を命じられた。享年71。

三白眼であり豊臣家を滅ぼした元凶ではないかと後世に語り継がれている。安藤英男は、長盛が三成失脚後に100万石以上に相当する豊臣氏の蔵入地を一括管理していた点を指摘し、長盛が家康に通じずに蔵入地100万石がもたらす資金人員を豊臣家及び西軍のために振り向けたならば、関ヶ原の戦況も西軍有利に転じた可能性があったとして輝元とともに西軍敗戦の原因と分析している。

墓所埼玉県新座市の金鳳山平林寺。当初、騎西郡金重村にあった平林寺に葬られたが、松平信綱によって平林寺が移転された際、新座郡野火止に移った平林寺の境内に移された。明治年間、子孫が墓石を再度移転している。

2016-02-17

埼玉県ダサい歴史的必然性を考察する

埼玉県ダサい

都道府県魅力度ランキングで、毎度ワースト争いをするのも致し方ないといえる程度にはダサい

埼玉県に生まれ育った自分が言うんだから、間違いない。

そもそも、律令国時代には「武蔵国」として、埼玉県東京都と一体だったのだ。

で、武蔵国から東京を分離した「あまりの部分」が現在埼玉県なのだから、これがダサくなくてなんであろう。

(余談ながら、ことあるごとに埼玉はおろか、東京すらも下に見る、あの鼻持ちならない「横浜」という地域の大半も、

かつては「武蔵国」であって、そういう意味では、横浜埼玉兄弟であって、ペリーの来航による開港がなければ、

せいぜい千葉と同程度の存在だったはずである)。

日本の各地に行くと、県庁所在地がもとは城下町であって、

かつての城跡あたりに県庁やら市役所やらNHKやらが集まっている地域が多い。

そこには、それぞれに領主がいて、城下繁栄させ独自文化産業をはぐくんでいたのだろうが、

埼玉県県庁所在地であるさいたま市城下町ではない。

合併前の県庁所在地たる旧浦和市は、ただの小さな宿場町だ。

さしたる文化的な蓄積がない。

そもそも幕府の直轄領だったらしいから、まあ、東京江戸)の一部みたいなもので、独自性へったくれもない。

埼玉にある「城下町」で、かつて最も栄えたのは川越だろう。

実際、小江戸と言われたこの街には、日本百名城の一つがあるし、寺社仏閣や蔵造の街並みが観光資源として使える程度には残っている。

にもかかわらず、今一つ存在感が薄いのは、この地をがっちりと育ててきた大名存在しないからではないか。

川越藩というのは藩主がたびたび替わっている。

大坂の陣江戸留守居役を務めた酒井重忠とか、家光・家綱に仕えた酒井忠勝とか、

知恵伊豆こと松平信綱とか、綱吉の寵愛を受けた大老柳沢吉保とか

それなりのビッグネーム藩主だったりするのだが

これは要するに、徳川政権高級官僚が、江戸の手近のところに領地を与えられたという話であって、

川越の殿様」というより「江戸幕府の重臣」だろう。

これはつまり高級官僚官舎埼玉県にあったみたいな話で、

「優秀な人ほど、東京通勤していて、地元にそんなに愛着がない」という

現在埼玉県と一緒じゃねえか。

かくて江戸時代から現在に至るまで、

埼玉県は「東京を支える」役割を、地味に担わされてきた。


西武線沿線東武東上線沿線JR東北・高崎線沿線東武伊勢崎線沿線と、

東京と各地を結ぶ鉄道沿線沿いに都市圏が発達し、住民はなにかと東京のほうを向いていて

県内の各地域の「横の連携」が弱く、それ故に県としての一体感が弱いのも埼玉県の特徴だ。

たとえば「埼玉西武ライオンズ」といっても、さいたま市あたりの住民などは、ほとんど愛着がない。

なにしろライオンズ本拠地たる所沢に行こうにも、鉄道で行くとなると、

いったん、池袋埼玉県であるとの説もあるが、行政区画としては東京都)に出なければならないのだ。

愛着なぞ沸くはずもない。

こうした地域の分断も、江戸時代以前に起源を有する。

なぜなら、各地域の基盤となっている前述の鉄道路線が、おおむねかつての街道筋に沿っているかである

かくて、独自文化も今一つ発達せず、地域が分断されている埼玉県ダサいのは、

歴史的必然なのである

 
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