はてなキーワード: 増田町とは
地元アピタ。もう全く流行ってないアピタがあった。何故か立地が田んぼの真ん中で、隣にホムセンはあるものの、他に施設もない。
閑古鳥どころではなく過疎ってた。
テナントもどんどん逃げて「フリースペース」やら、不自然にベンチが置かれた謎の空間ができてた。
食品も微妙に高いし、土日に行っても人がいない。いても地元の老人というあまりうまみの無い客層。
それでもその地域にある唯一まともなスーパーであった。そのため、アピタが不採算店舗を撤収するという噂が流れると、町長と産業立地課長が雁首そろえてユニーの本部に出かけては、支援を約束するからどうか店を閉めないでくれ、と陳情にいっていたと言う話も噂で流れていた。なんか土地は一度町が借り上げて、いろいろと理屈をつけて格安で貸し付けているとかなんとか。なので地元では良く潰れないなーと話題になっていた。
それが変わったのが、去年の今頃である。
突然、その過疎アピタが「県内初のMEGAドンキホーテUNIに業態変更する」という話が降ってわいたのである!
今まで支援してきた町長以下町の職員はプチパニック。なにしろMEGAドンキどころか地元にはドンキホーテなるものは存在しない。いわば幻のような存在。
町の職員らはどんな風になるのか県外のMEGAドンキホーテUNIに視察に出かけるとか、なんかよくわからない行動を取った模様。
特に反対する理由は無いどころか、すごくいい話。よそでは業態変更で反対運動があるところもあるようなのだが、何しろ周りに家が無いような場所。
なんでこんな田舎の店舗がMEGAドンキへの業態変更の対象になるのかわからない始末で、ありがたいけど大丈夫ですかユニーさん、と言うノリであった。
アピタの食品売り場の責任者(副店長)、仮にMさんとしよう。Mさんは、人当たりのよいおいちゃんで、農産物直売コーナーを、一番お客さんが来る場所にどどーんと設置してくれるような、すごい人のよい方である。でもたぶんこんな不採算の店舗の責任者だとすると、あんまりこう、やり手では無いんだろうなー的な人である。
話を聞いたときに、俺はMさんに電話して聞いたところ、Mさんも詳しいことは聞いてないけど、半年ぐらい休業して店舗改装することになりそうだ、と聞いて、驚いたもんである。
そして、ついに改装が始まる。一部専門店はそのままだが、店舗内部は大規模な改修が行われた。
店舗内はお祭りでもやっているのかという大騒ぎで、人だらけ。ドンキホーテは品物を山に積むはずなのに売れすぎて無くなってドンキっぽく無い情況すら膿まれる。
待機列であふれるマクドナルド、フードコート、金が足りなくなり停止する農協のATM、今までこんなに人が入ったことがないので大混乱を引き起こす地元テナント服飾店にめがね屋。
呆然と立ち尽くすじいさんばあさんに、ドンキのペンギンの前で記念写真を撮り始めるおにいちゃん、地元のじじばばの足である軽トラ軽小型車の代わりに駐車場を埋め尽くファミリーカー。どう見ても地元の小学校よりも多い数の子ども達。
周辺の道どころか、そこに至る片側二車線の道に大渋滞が発生。しかし、どうやらドンキホーテ自身もそんなに客が来ると思っていなかったらしく、警備員の人数が足らなず周辺の道は大混乱。
そんな中で、俺が最も衝撃をうけたもの、それは…
実は、それを見たのは開店前である。産直組合に入っている俺は、できるだけたくさん出してくれというMさんからのメールに、たくさんの野菜を持って行ったのだ。
応援の見慣れない店員などもたくさんいて、すごい活気にみちていて、こりゃすごいことになった、と中を見ていたところ、そこにあったのである。
Mさんの、巨大なポップが。天井からぶら下がっていたのである。ドヤ顔でサムズアップし、「驚安番長M」とかかれた巨大ポップが。
衝撃だった。なんだこれは。
どうしてこんなことに。
思わずスマホで撮影してSNSに流したのは言う間でもない。彼のあだ名がその瞬間から番長になったが、俺は悪くないと思う。
現在、MEGAドンキユニーができてから半年がたった。売れるのは正直最初だけだと思ったが、週末になると駐車場がいっぱいになるほどお客が入るようになって、安定しているように見える。と言うか、むしろ駐車場が足りてない。
客層は明らかに違っている。前はじじばばばかりだったが、ファミリー層がすごい来ている。子ども連れがかなり多い。(なので、従来からいるテナントはちょっと浮いてる)
また、戦略も、地元愛を押し出すことでなじもうとしてる感じがある。例えば各コーナーには地元の名前をつけている。たとえば、増田町なら「あなたの待ちの電気屋さん、マス電コーナー」みたいなノリ。
それから、地域産品にやたらと目立つポップをつけている。地元で流通している名物の品物があるのだが、そこにでっかい「やっぱり地元がいちばん!」と言うポップをつけて目立つようにしている。
それから地元で好まれる食材がアピタ時代より増えている。アピタ時代はどうも画一的な品揃えの所に、一部地場産品という感じだったのだけれど、ドンキホーテになってから地元にカスタマイズしてくるとは正直思わなかった。
これらは、できるだけ早く地元になじもうという戦略だと思われる。
正直、潰れかけの店舗をここまでやるとは思わなかった。駅前型のドンキホーテのイメージがあったが、郊外型店舗でもきちんとノウハウをもってやっている感じがする。
増田 長盛(ました ながもり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。豊臣政権五奉行の第三席。父母は不詳、弟に増田長俊、子に盛次、長勝、新兵衛。官位は従五位下・右衛門少尉。
目次 [非表示]
1 生涯
1.1 仕官以前
2 子孫
3 主な家臣
3.1 一門衆
3.2 重臣
3.3 その他
4 脚注
4.1 注釈
4.2 出典
5 関連項目
生涯[編集]
生地は2つの説があり、1つは尾張国中島郡増田村(現在の愛知県稲沢市増田町)[注釈 1]だったという説、もう1つは近江国浅井郡益田郷(現在の滋賀県長浜市益田町)[注釈 2]だったという説がある。上野国に存在した増田氏との関係は不明である。
秀吉に仕官する以前の経歴は明らかでないが、一向宗徒であったという説がある。永禄7年(1564年)側室との間に長男・長勝を儲けている。
天正元年(1573年)、28歳の長盛は、まだ織田信長の家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に召し出され[注釈 3]200石で仕えた[1]が、この時期に正室を迎えたと見え、天正8年(1580年)、嫡男・盛次が誕生している。盛次の誕生に際し、銘吉光九寸五分の短刀を与えたことが盛次討死後、乳母の口から語られて記録に残されている。
秀吉の麾下で中国攻めをはじめ多くの戦に従軍し、鳥取城攻めでは「陣中萬の物商の奉行」を命じられた。天正10年(1582年)には奏者に任じられ、上杉景勝との外交交渉などを担当した。同年の吉田兼見の日記に名前が登場している。
天正12年(1584年)3月、小牧・長久手の戦いでは先陣を務めて兜首二つを取る功を上げ、この功績で2万石に加増され、翌天正13年(1585年)3月の紀州攻めでは、大谷吉継と共に2,000の兵を率いて従軍、根来衆の津田監物、西谷延命院を斬った武功があったとされ(『根来寺焼討太田責細記』)、従五位下・右衛門尉に叙任されている。
天正18年(1590年)の小田原征伐においては里見義康担当の申次となり、安房国で差出検地の施行と知行宛行状の発給を行っており[2][3]、後北条氏が滅亡すると、さらに下野・常陸・安房の大名に対する豊臣政権の取次となった[4]。この年、中村一氏が駿河国駿府14万石に移封になったのを受け、近江国水口6万石を拝領している。
太閤検地では石田三成、長束正家らと共に中心的な役割を担い、近江国、美濃国、越後国などの要地の検地奉行を務めた。普請に積極的で、京都では鴨川に架かる三条大橋・五条大橋の改修工事にもあたり、三条大橋には今も長盛の名が刻まれる。伏見城の改修も分担した。
文禄元年(1592年)からの文禄の役では、石田三成、大谷吉継とともに朝鮮に渡って漢城に駐留し、奉行として占領地統治や兵站に携わった他、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いにも参加している。
文禄4年(1595年、豊臣秀次が秀吉の命で切腹する「秀次事件」が起きると、長束正家と共に秀吉との間に対立が生じた豊臣秀次の老臣を糾問するなどしている。文禄5年(1596年)にはサン=フェリペ号事件の処理で土佐に赴き、このときの対応が秀吉によるキリスト教(フランシスコ会)の弾圧(日本二十六聖人の殉教)の端緒を開いた。
文禄4年(1595年)、豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が没すると7月、大和国郡山城20万石の所領を与えられる。高田一英・浅井井頼ら大和大納言家の旧臣の多くは長盛が召抱えた。長盛はまた郡山城に総堀をめぐらす大掛かりな普請を行った。東では秋篠川の流れを東に変えて水流を佐保川に落とし、西に多数の溜池を繋いで堀となすなどした。この普請のために大和中から夫役が徴発され、普請は翌文禄5年(1596年)に完成を見た。慶長元年(1596年)には紀伊国・和泉国の蔵入地の管理を委ねられている。秀吉の晩年には五奉行となる。慶長2年(1597年)には再び安房国を訪れて、総検地を施行している[2][3]。
慶長の役では開戦後国内にいたが、慶長4年(1599年)に予定されていた大規模攻勢では福島正則・石田三成とともに出征軍の大将となることが決定していた[5]。しかし、慶長3年(1598年)8月に秀吉が没したためこの計画は実現しなかった。
慶長3年(1598年)に秀吉が没すると、石田三成は反徳川家康の立場を鮮明にし、長盛もこれに与して打倒家康の謀議に参加。慶長5年(1600年)には長束正家や前田玄以など五奉行連判で家康の悪事を糾弾する弾劾書を示し、五大老の毛利輝元や宇喜多秀家を擁立して挙兵、西国大名に西軍加担を要請する文書を送るなど精力的に活動した。
伏見城攻めには自ら参加し[注釈 4]、重臣・福原清左衛門をして城内に籠る甲賀衆に寝返りを促し、落城に導いている(甲賀郡志)。大津城の戦いには一門の増田作左衛門を陣代として軍勢を派遣し、増田勢は大津城の湖水方面から城壁を越えて乗り込み攻撃した。同城の戦いではまた、家臣・中村金六が敵方の勇士・浅見藤右衛門と組み打ちし功名をあげた。 しかし、一方で家康に三成の挙兵を内通し、また三成の資金援助要請も渋るなど対東軍への保身工作も講じている。9月15日に行われた関ヶ原の戦いには参加せず、毛利輝元とともに大坂城守備部隊として西の丸に兵3,000を率いて駐屯。戦後の9月25日、出家して謝罪し、9月27日に大坂城西の丸にて沙汰を申し渡され改易となる。その身柄は高野山に預けられた。
後に高野山を出て岩槻城主・高力清長預かりとなる。慶長19年(1614年)8月、家康より召喚され大坂方への和睦の仲介を依頼されるもこれを断る。元和元年(1615年)、尾張藩主・徳川義直に仕えていた息子の増田盛次が長盛との相談の上で義直の了解を取り大坂夏の陣で尾張家を出奔して豊臣氏に与したが、戦後この責任を問われ自害を命じられた。享年71。
三白眼であり豊臣家を滅ぼした元凶ではないかと後世に語り継がれている。安藤英男は、長盛が三成失脚後に100万石以上に相当する豊臣氏の蔵入地を一括管理していた点を指摘し、長盛が家康に通じずに蔵入地の100万石がもたらす資金・人員を豊臣家及び西軍のために振り向けたならば、関ヶ原の戦況も西軍有利に転じた可能性があったとして輝元とともに西軍敗戦の原因と分析している。
墓所は埼玉県新座市の金鳳山平林寺。当初、騎西郡金重村にあった平林寺に葬られたが、松平信綱によって平林寺が移転された際、新座郡野火止に移った平林寺の境内に移された。明治年間、子孫が墓石を再度移転している。
ドストライクのムチムチ加減で、席を離れてしゃがんだ時のお尻のラインが素敵だ。
おっとりした話し方で、パチパチお目目で好きになりそうだっった。
「docomo○○店の、はて子ですが、携帯を紛失してしまったお客様がいらしていますので、紛失番号を教えていただきたいのですが、」
「証拠ですか?」
「電話番号で分かりませんか?」
「住所は?」
「そっか、じゃあ教えてやるよ。」
「ありがとうございます。お名前をお聞きしたいんですが?」
「は?なんで名前言わなきゃいけねーんだよ。」
「センターに報告しないといけないので。」(すでに顔はキレてる)
「いいよ、俺の名前なんか」
「言えないよ。」
「じゃあいいです!!!!!センターにそう報告します!!!!」
「オッケー」
「あんな警察いるんですか?めっちゃむかつきます!警察って舐めてますね!!!!」
とブチ切れていた。
確かに怪しい警察だ。
追記
昔から、そのコミュニティの異様な特性から「はてな村」なんて呼ばれているが、2chが板ごとに全然違う文化があるように、サービスごとにユーザーの特性が違う。だから「はてな村」というよりも「はてな郡」とよぶほうが実態に正しい。決してはてな州やはてな国でないのは、そこまでユーザーが多くないからだ。
#適宜追記修正します
#リクエストを受けて色々追記。
一応はてな郡の中心地。アメーバ州アメブロ市やライブドア州ライブドアブログ市やFC2州FC2市に比べて人口も少なく、セレブ(芸能人・有名人)も少ないが、ブログ創世記から有る古都のため、技術ギーク系・ネット文化系・社会科学系などで独特な文化を形成する。はてな郡の他の都市に比べやや教育レベルは高め。id:aurelianoやid:Chikirin、id:finalventなど一般人がアルファブロガー化しやすい一方で、森見登美彦、平野啓一郎、博多華丸・大吉、笑福亭鶴光の公式ブログがあることは意外と知られていない。著名人でここの市民っぽくらしく振舞っているのはid:FUKAMACHIとかid:kawango(ドワンゴ州知事)ぐらい。ライブドア市やFC2市と違いスラム街(2chまとめブログ)や風俗街(エログ)は殆ど無いため治安は良い。ただしまれに放火魔(炎上マーケティング)がいる。
はてダ市の行政区。開設当初は喧嘩や暴動(炎上)や落書きが頻発しはてダ市の治安悪化の原因だったが現在は割と平和。Google合衆国からのはてダ市への訪問者を増やしている。Wikipedia国と競合するが、教育レベルは遠く及ばない。一時期はネット用語の流行の最先端であったが、近年は衰退している。近年はドワンゴ州ニコニコ大百科町とも競合する。
はてな郡最大の都市で玄関口。ライブドアクリップ市やヤフーブックマーク市よりも人口が多く、delicious市やGoogleブックマーク市に迫る。かつてははてダ市と同じような人口形成と文化だったが、人口の急激な流入により治安が悪化しており、教育レベルも低め。風俗街(エロホッテントリ)、スラム街(2chまとめブログ)や、ゲバルト(政治関連)や暴動(炎上)も有り、Twitter国と同じような問題を抱えている。
はてブ市の行政区。はてブ市内の流行が集まり、Googleニュース市やライブドアニュース市へ繋がる。基本的に住人ははてな郡の役人(はてなスタッフ)。
はてな郡最古の都市だが、近年はYahoo知恵袋市やOKWave市への人口流出が目立ち衰退している。最近は税金が安くなった(無料化)の影響かうごメモ村からの人口流入が目立つ。
はてな郡の中ではやや特殊な位置付け。はてダ市・はてブ市のベッドタウンであるが住民が偽名・匿名で生活している。そのため人口も不明。強いて言えば2ch国に近いが、人口も少なく地区割りも曖昧で住民の傾向もバラバラ。住民は匿名が前提のはずだが、閲覧者を集める目的で敢えて実名で生活するものもいる。
はてな郡の中ではのどかで田園風景が広がる。ここもはてダ市・はてブ市のベッドタウン。絵描き(イラスト系キーワード)や芸人(ネタキーワード)やカフェ(実況)も多く、人口の割には賑やか。近年はうごメモ村からの若い居住者もいる。女性も多い。Twitter国と似ていると言われるが別物である。
任天堂王国との連携(京都連合)により人口が増えている村。ハイク村・人力検索町以外のはてな郡の都市への人口移動は少ない。この村だけ突出して住民の平均年齢が低い。
はてダ市・ハイク村のベッドタウン。写真家が多く住んでいたが、最近はもっぱらアトリエという名の倉庫街となっている。
インフラが整ったオフィス街だが過疎化がすすみ空きオフィスが目立つ。オフィス街なのに村。Google Apps市と比べるまでもない。
人力検索町と並ぶ古都で、かつてははてな郡の中心都市の一つであったが近年過疎化がすすむ。
ハイク村から独立したハイク2村から更に分離独立した村。モバイラー向けの今風なコミュニティの割にいまいち地味な存在。
住民が買ったものを並べて売る商店街。モバイラー向けの今風なコミュニティの割にいまいち地味な存在。
はてな郡の自治体運営に唯一提言が出来る機関として設置されるが、基本的に不具合修正以外の要望はあまり通らない。
はてな郡内の通貨。1P=1円だが基本的にポイントから円の両替はできない。はてな郡内での買い物や住民同士の送金に使われる。
はてな郡内の贈答品。基本的に黄色だが他の色のものは珍しく送ると喜ばれるが、貰ってもなにか有るわけではない。地区によって価値が違う。
はてな郡の役人により設置された実験区。増田町も本来ここなのだが、近年は人口増加により特区的位置づけが薄れてきている。増田町以外の地域は過疎化がすすむ。
本格的な「こどもの国」として設立されたが、治安悪化(しかもリアルでも)が懸念され設立からわずか2週間で廃村。はてな郡の黒歴史の一つである。
アンテナ町に変わり新興住宅地として開発されたが、人口減少により廃町。
セカンドライフ国に対抗すべくハイテクヴァーチャル都市として開発されたが、人口が思うように伸びずラボ特区の一時自治区に格下げ。その後廃村。セカンドライフ国も規模的には市レベル(町レベル?)である。アメーバ州のアメーバピグ村は人口が増えつつある。
Youtube国への玄関口であったが、行政機能の停止により廃村。