はてなキーワード: 洋裁とは
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おしんの物語の根底を流れているのが、「恩」であり「仁義」であるということをこれまでの感想でも書いてきた。おしんイコール辛抱する精神というイメージが広く流布するなか、金儲けに走った息子の根性を叩き直すために、田倉家を滅ぼしてでもライバル会社に利する行動に出た、という物語のハイライトは、意外にもあまり注目されていない。私も正直なところ、全話を通してみるまで知らなかった。
おしんは一代記ものとしては、タイムスケールがとても長い。おしんは1901年、昭和天皇と同年に生まれた設定である。
そしておしんが生きた少女の時代から後期高齢者の83歳になった1984年まで、それぞれの時代があまりにも違い過ぎるので、1983年の田倉家のシーンから明治の回想シーンに時代を一気に2世代くらい遡るときのタイムトリップ感が半端ない。
1983年、おしんが息子・仁を裏切って、並木商店への説得どころか、積極的に大手スーパーへの並木の土地の売却を進めてくれとお願いした背景には、並木商店の隠居の大旦那・並木浩太に対する並々ならぬ恩があるからである。
それは、どのような恩だったのか。おしんは息子たちには何も過去を語ってこなかったので、仁には知る由もなかった。そもそも並木浩太とは何者なのか。
おしんも誤解されるのが嫌でそれまで息子には一度も語ってこなかった。しかし、前年の1982年、17号店進出を知ったおしんが息子の行動を阻止しようとしたとき、仁は、それが母の初恋の人への配慮であることを悟る。そして、仁はいう。商売ってそういうものじゃない、「母さん、みっともないよ。」と。今風にいえばいい歳してエモいことを言い出してんじゃねえよと思われたのであろう。案の上、誤解されてしまったおしんであったが、なすすべなく工事は進み、ついに開店当日を迎える。おしんはこれまでの人生の回顧の旅に出るのである。
おしんと浩太のいきさつをかいつまんでかくのも、がっつり書くのもいずれもけっこうしんどい。しかし、今回のテーマの「股旅物」がわかるように、ややガッツリ目に書いておこう。股旅とは、大正時代に生み出された物語の類型のひとつで、一宿一飯の義理・人情に従って流浪する物語であり、多くは渡世人・やくざなどが主人公である。股旅物の元祖・長谷川伸は、その後の日本の小説や戯曲、そして映画やテレビドラマに至るまで多大な影響を与えた人物である。「飢餓海峡」で知られる水上勉は、長谷川伸の「夜もすがら検校」を読んで作家を志したことはよく知られている。「夜もすがら検校」を発表したのは1924年である。明治が遠く過ぎさり、大衆が大正デモクラシーの自由への過大な期待から人々が少しずつ醒め始め、もう一度生き方を見直そうしていた時代である。
2000年代になると、日本の映画やドラマの潮流は変わり、義理人情といったテーマは陳腐なものとして忘れ去られてゆく。20世紀末までのドラマでいえば、「北の国から」が長谷川伸的な一宿一飯の義理・人情の世界観でつくられた恐らく最後のドラマだろう。吹雪の中を助けに来る馬、泥付きの一万円札などに表現される世界は、まさに長谷川伸の系譜なのである。
おしんは回想シーンだけをみると、浪花節にあふれた、まごうことなき股旅物である。しかし、おしんの物語の面白いところは、浪花節が陳腐化し、古臭いものになってしまった現代(1980年代)と交差している点である。
並木浩太とおしんの最初の出会いは、おしん16歳、山形酒田の米問屋・加賀屋へ奉公へ来てから7年が経った頃だ。おしんは、加賀屋の跡取りの長女・八代加代と姉妹同然に育ちながらも、大奥様・八代くにからは、肉親の孫娘・加代よりも商売のイロハから茶道・裁縫など良家の子女としての教養を徹底的に教え込まれていた。このときくにの指導によって身に着けたものの考え方や教養が、のちのおしんの人生で役に立つのである。加代はというと、将来は良家から婿をもらって加賀屋をどうせ継がさせられる自分のつまらない運命にうんざりしていた。絵画が好きだった加代は、東京で別の”自由”な人生があるのではと夢をみる少女だった。そんな折、農民運動の活動家・浩太と出会った。酒田に訪問した際、官憲の目を逃れるためにおしんとお加代に助けを求めたのが最初の出会いである。おしんとお加代は同時に、浩太に恋心をもってしまう。大正デモクラシーの時代だった。インテリかぶれした加代は平塚雷鳥の本を手元におき、人形の家を著したイプセンなどに憧れを抱いていた。当時、大衆のなかで勃興していた人権運動を先進的だと中身もわからず憧れていたのである。農民運動、カッコいい!加代は浩太の活動にロマンを感じて恋に落ちてしまった。一方、おしんは、土地を持たない小作農民の自立を助けたい、という浩太の純粋な思いに心を打たれていた。おしんも小作の娘であった。小林綾子が主演した「おしん少女編」では、おしんの母・ふじが冬の川に下半身を沈めて妊娠中絶を図ったり、小作農民の悲哀がこれでもかというくらい暗く描かれていた。そしておしんは冬の川に入った母の姿をみて、6歳で材木問屋へ奉公へ行く決心をしたのである。いかだに乗って、母ちゃんと叫ぶ、有名なシーンのアレである。
ともあれ、加代とおしんは同時に同じ男性に恋をした。そしておおらかで情熱的な性格の加代は恋心を隠すことができず、おしんに打ち明けていた。そしてやがて加賀屋の跡取り娘でありながら、何もかも捨てて浩太へ会いに東京へ家出してしまう。しかし、おしんは、奉公先の跡取り娘であるお加代様の恋を大切に思い、自分の思いはそっと封印した。一方の浩太は、東京に出てきた加代の猛烈な求愛を受け止めつつ(東京で加代と同棲までした)、本心は最初からおしんが好きだったのである。
おしんは加代の家出の理由を加賀屋に伝えることが忍びなく、おしんは加賀屋から暇をもらって帰郷する。帰郷したおしんを待っていたのは、おしんを女郎部屋へ売り飛ばそうとする父・作造と口利きの男であった。さらに実家で目にしたのは、奉公先の製紙工場の過重労働で健康を害し、肺結核で放り出され、今や死を目前にした姉・はるの姿であった。いまわの際に、はるは女衒に騙されそうになっているおしんを救うべく、自分の夢が髪結いになることだったことをおしんに告げ、東京の知人の髪結い師匠・長谷川たかの住所を訪ねるように、伝えて息絶えた。
一方、加代は、浩太の心がおしんにしか向いていないことを悟り、浩太のいない東京を去り、加賀屋を継いで見合い結婚する。
こうして、はる姉ちゃんが叶えなかった夢を託されたおしんは東京へ出た。女郎部屋を売り飛ばそうとした父のいる故郷に心を残すものはなかった。髪結いの師匠・たかは、江戸時代から続く髪結いの昔気質な職業観を持った女性だった。一人前になるための6~7年の下積みの苦労は当然であり、弟子には甘えを許さなかった。
しかし、大正という時代は、江戸から明治まで続いてきた日本髪の伝統の衰退期であった。大正浪漫とか大正モダンと言われる時代が到来しており、洋髪が東京で流行し始めていた。おしんが修業している3年間の間に大きく時代が変わりつつあったのである。
大衆は身分から解放され、より自由な髪型を求めるようになっていた。髪型をみれば、人妻なのかそうでないのか、はたまた、その人の職業や身分がわかる、という時代は終わりつつあった。弟子入りなんてせず洋髪の専門学校をでて、理髪を仕事にする時代がきていた。おしんには洋髪のセンスがあった。たかはおしんに独立をすすめる。たかはいう。「昔は厳しかったんですよ。6年も7年も修業してやっと一人前になったら、それからまた、お礼奉公をして。10年近くもただ働きをして覚えたもんなんですよ。そんなことは今は通んなくなっちまったけど。やっぱりご時世ってもんですかね」。これは紆余曲折を経ておしんがたかの元から独立し、その後、客先で出会った男性・田倉竜三と結婚の挨拶にたかを訪れたときの言葉である。その時、5人いたたかの弟子はついにたった一人だけになっていた。
田倉商店を竜三の妻として支えるようになったおしんであったが、商売は順風ではなかった。おしん夫婦を陰で支えていたのはたかであった。田倉の経営が傾くと、おしんはたかを訪れ、髪結いをして夫を支えた。たかもまた、洋髪の時代におしんの才覚を必要としていた。客商売は人の縁、ひととのつながりを大切にすることだと心に刻んだのはこの頃である。
一方、田倉商店は開店休業状態に陥るほど経営が悪化していたが、おしんが髪結いで稼いでいたので竜三はプライドを傷つけられ、すっかりおしんが稼ぎ出した金で遊び歩くようになってしまった。師匠たかに相談すると別れちまえという。「ダメな男はどこまでいったってダメなんだよ」とすっぱり切り捨てるが、おしんは亭主をダメにしたのは自分だとと気が付いた。夫の更生のために妻の自分は黙って夫についていく姿勢を示すことを決意し、長谷川洋髪をやめることをたかに申し出る。稼ぎ頭のおしんに辞められるのはたかにとってもつらいが、受け入れる。やがて蓄えもつき、明日食べるコメもないどん底におちて初めて竜三は再起を決意する。しばらくは順調に田倉商店の再生が進んで、おしんの洋裁の才能も手伝って、田倉は子供服店を開店することになった。しかし、その直後、関東大震災がおしん夫婦の夢を完膚なきまでに打ち砕いてしまうのである。工場を火災で焼かれ、絶望した竜三は「佐賀でゆっくり休みたか。おしん佐賀はいいとこばい。。。」といって佐賀への帰郷の心を固める。竜三は大地主の三男坊なのである。こうしておしんにとって地獄の佐賀編がスタートすることになった。
さて、佐賀に三男の嫁として入ったおしんを待ち構えていたのは、姑による徹底的な虐待だった。数か月もすると、おしんは佐賀地獄からの脱出を心ひそかに誓い、東京の師匠たかのもとに、東京に戻りたいと手紙を書くのである。たかの元にいけば助かる、自分の腕一本で生きていると信じた。必死の決意で脱出し、やっと髪結いを再開しようとするも、さらなる不幸がおしんを絶望に突き落とす。佐賀で夫に振るわれた暴力が原因で、右手の神経に麻痺が残ってしまっていた。髪結いを諦めざるを得なくなった。
こうしておしんの流転の人生が始まる。屋台出店から始まり、故郷の山形、酒田と流れ流れ、ついに浩太の紹介で三重の伊勢の魚の行商に落ち着き先を見出すのである。佐賀に残った夫といつかは一緒になれると信じて手紙を書き続けるのである。
【キーワード:浩太の恩】
浩太の実家は貴族院議員の父を持つ、太い実家だと先に書いた。しかし、浩太にとって本当のやすらぎのふるさとは、おばの伊勢の実家、網元のひさの家であった。浩太は、流浪の人生を送るおしんを見かねて、伊勢で網元をやっているおばのところに下宿し、行商を勧めるのである。これまで米問屋での奉公に始まり、ラシャ問屋、子供服洋裁、洋髪・日本髪、農家の嫁地獄、酒田の飯屋をやってきたおしん。めし加賀屋は加代とおしんが切り盛りし、おしんにとって加代の元気な姿をみた最後の思い出となった。その職業遍歴に今度は魚売りが加わることになった。
伊勢に来て、笑顔を取り戻したおしん。竜三もおしんと魚屋をやる決意をしてくれ、おしんの人生は好転し始めていた。
一方、加代の人生は、暗転した。加賀屋本体が夫の先物取引の失敗で負債を抱え倒産した挙句、夫は自殺してしまう。八代家の両親は過労で衰弱、入院費を工面するために加代は借金のかたに売春宿に沈められてしまう。両親は相次いで亡くなり、生まれたばかりの希望を抱えた加代をみて、おしんは救出を誓うが、借金の額に手が出せなかった。加代は翌日酒を煽って死んでしまった。希望は田倉で引き取ることにし、加賀屋の再興を果たしたい思いから、養子にはせず、八代の苗字も変えなかった。
一方、浩太は長く続けてきた農民運動に行き詰っていた。治安維持法により、弾圧が厳しくなり、ついに6年間も投獄され、苛烈な拷問の末、転向を迫られた。敗北者となった浩太は、心身の傷をいやすために伊勢のおばのところに帰るのである。すっかり引きこもってしまい、おしんとも口を聞こうとしなかった。やがて、浩太は実家の縁談に応じて、並木家へ婿入りすることになって静かな人生を送るのである。やがて少しずつおしんとも再び心を開くようになるまで十数年を要した。
田倉家では、雄、次男の仁、そして希望がすくすくと育っていった。雄は戦争で亡くなるが、戦後も仁と希望は兄弟のように母おしんの魚屋を支えていた。大人になった仁が商才を発揮する一方で、希望は商売に向いていない自分を見つめ直し、自己実現のために陶芸の道を歩みだす。
屈折10年、陶芸の師匠の元で修業した希望がようやく独り立ちできる時期が来た。そのときに、希望のための釜・新居の支援をしたのは浩太である。お加代さんとの縁を思い出してのことである。浩太は、折に触れて田倉家のおしんを見守るように生きていた。おしんがセルフサービスの店に挑戦するときも、銀行からの借り入れにあたって、浩太は並木の自宅を抵当にいれてくれたこともあった。
さて、長いことおしんの半生を振り返ってきたが、一旦冒頭の仁のセリフ(1983年の場面)に戻りたい。
仁が17号店の出店を並木商店の近くに計画していることを知っておしんが反対したときのことである。初恋のひとに迷惑がかかる?「母さん、みっともないよ。」というのが仁の反応であった。しかし、もし仁が母おしんの半生をもう少し知っていればそんな言い方はなかっただろう。おしんは人の恩に深く支えられて生きてきたのである。田倉スーパーの出発点となったセルフサービスの店にしても浩太の支援があってこそであった。
ドラマの構成として興味深いのは、おしんの半生を、徹底的に(一年間のドラマの大半部分を費やして)一宿一飯の義理人情で「世話物」的に(つまり当時の生活感覚として)描いておきながら、おしんが戦後~現代にいたる高度経済成長でおしん自身が義理人情を忘れてしまったことに気が付く、というメタで重層的な構成である。おしんにしても、商売は食うか食われるかだ、という厳しい姿勢で戦後を突っ走り、16号店までたのくらスーパーを事業拡大させてきた戦犯なのである。それが今になって17号店は昔に世話になった人に迷惑がかかるから反対、はない。突然反対し始めた母を見た1983年の仁の目からは、義理人情なんて古臭いものだという感覚であり、母の物語は「世話物」ではなく完全に「時代物」なのである。大切なものを置き忘れてしまった気がしたおしんは問題の17号店開店当日、失踪する。この世話物と時代物が交差する、ところもドラマおしんの魅力である。
増田はず〜っとオタクだけど描けない人間だからオタクの中でも底辺の底辺にいる。
中学生の時にオタクになり、当然ながらオタクグループに属することとなった。その中にひとり、めちゃくちゃ絵の上手い子がいた。我々絵の描けないオタクたちはその子が履修しろと言った作品は有無を言わさず履修し、放課後はその子の語りたい言葉を聞いて帰った。その子が気まぐれに描いた二次創作絵を見せてくれるのが楽しみだった。
その子は妙に精神が不安定で、急に一言も口を聞いてくれなくなったかと思えば辛いことがあると泣きながら抱きついてきたり、逆に機嫌悪い時は露骨にやつあたりしてきたりしてきた。
絵が描けない人間って身分低いなあと思わなくもなかったが、楽しい時は楽しいし、じゃあ離れるもん!なんていう勇気も行動力も無かったので社会に出るまでそのグループにいた。
しかし大学生、社会人になって出来た新しいコミュニティで絵が描けないのが悩みだというと「なにそれ?」みたいに言われることがちょいちょいあり、絵が描ける描けないで身分が変わることはないのでは?と少しずつ思うようになった。
そんなある日の飲み会で、絵が描ける子もやはり社会が辛かったらしく、就職について延々グチった後「まあクリエイティブじゃない増田たちには分かんないだろうけどさ!」みたいな謎の見下しやつあたりをぶつけてきたので、ふとこのコミュニティへの未練がなくなりフェードアウトした。ちなみに他の絵の描けない子たちもそうだったようで、グループは事実上瓦解した(特に親しくしていた子たちとはまだ交流があります)。
という思い出があるので昨今のAI絵の論争見ててもあまり絵師側に加担することが出来ない。見下してた連中があなたたち側になだれこんで来るのが嫌なんだろ?と思ってしまう。n=1の話なので非常識な考えなのは重々承知ではあるが。あるが、ノーミソで理解していることと心に思ってしまうことは別なんだよな。
あの子にクリエイティブじゃないと言われた増田は社会に出てからまさかの洋裁にハマり、小物や服を縫って遊んでいる。仕事終わりに洋裁学校にも通い、簡単な型紙ならおこせるようになった。自分が楽しいからミシンを踏んでいる。別に周りの友人が針と糸に抵抗があろうともなんとも思わない。絵の描けない周りをバカにしてたあの子は、絵を描くことが楽しいことではなかったのか?多分もう一生会わないから分からないけども。
【ここから本文】
私は神戸で生まれて育ちました。昔は裏六甲の北区で、今は海側の住宅街に住んでいます。
他の街は分からないけど、神戸は海も山も都会も田舎もあるいいところだと思っています。
子供のころはよく洋裁が得意な祖母が作ってくれたワンピースを着て、祖父に連れられて王子動物園と須磨海浜水族園に連れて行ってもらいました。
この夏は本当に暑くて、灘湾にもくもく立っている入道雲が憎たらしかったです。
神戸都市部の排熱が、全部六甲山から吹く風に淡路島の方まで流されて、雨雲になります。
こないだ、三宮でコーヒーと紅茶を買って、南京町で老祥記の豚まんを買いました。
山か海が見えると方角がわかるのですが、ビルに囲まれてしまうとたいてい、南北逆になってしまっています。どこにいても山が見えたらなあ。
湊川商店街は学生の頃と変わらずにぎやかで元気があります。湊川公園の、ちょっと怖い通路も実は好きです。
ずーっと下って新開地まで歩くと、西方面に大開通という道があって、とても懐かしかったです。高校生の時の通学路でした。
別の日。山に行きたくなって北区に行きました。
といっても地下鉄一本抜けたとこ周辺です。六甲山と丹生山系に挟まれた地域です。大切な風景です。
空が高くて、藁葺の屋根と田んぼの彼岸花を見ているとギューッとした気分になります。水路には赤とんぼがいました。
別の日。川に行きたいと思ったので住吉川を歩くことにしました。この川は地域の人達の協力もあってとてもきれいな川です。カモとかサギとかがのんびりしています。夏は子供さんが水遊びしてます。
別の日。山歩きがしたくなったので、少しだけ六甲山に入りました。新神戸駅の横から入ったけど、運動不足が祟って1つ目の滝をみてギブアップです。また、登りに来るねえ。
その日はフロインドリーブの焼き菓子を買ってバスで帰りました。
別の日。山に行ったら次は海!と思っていたので、海へ一目散。着いたのは六甲アイランドのマリンパーク。久しぶりに動いているガントリークレーンを見ました。子供のころはこれをキリンと思っていました。
阪神淡路大震災で、港は随分元気をなくしてしまったけど、まったく機能しなかった時からすれば、よく動いてくれてるなあと思うんです。
この日は帰るのが少しめんどくさくて、石段に座ってボーっと夕日が落ちていくのを見てました。
その日の夕飯は、スーパーで買ってきたコロッケと、作りおきの切り干し大根、卵のお味噌汁にしました。
お風呂に入っていると、夜、ボーーーーッという大きな汽笛の音が聞こえます。
昔祖父母の家に泊まった時も聞こえました。
別の日。買い物でハーバーランドへ行きました。神戸駅は東海道線の西終着駅です。大阪の梅田が終着駅だと思ってる人がいるんだとか。
それにしてもまた海です。ここはできた時からガラッと変わった部分が大きくて、まだ慣れません。
「かつてデートで来ていた二人がファミリーになってもう一度来る場所に」という感じのコンセプトでリニューアルしたそうですよ。
私、大きなモールの西側入口にあるディンドンというからくりが子どもの頃から大好きで、うっかり立ち止まってしまうとずーっと眺めてます。
ホールの東出入り口の近くに、モザイクに行くためのエスカレーターがあります。このエスカレーターは途中で平らになるんですよ。私のお気に入りです。
買い物を済ませて高浜岸壁に行くと、大きな船が入ってきていました。コンチェルトだったでしょうか。
夜は花火が上がるとのことだったので、混雑に巻き込まれないよう、早めに帰りました。
別の日。友達が来ることになったので、自分でパウンドケーキを焼きましたが、いまいち地味に仕上がってしまったので、急遽ケーキを買いに出ました。
日が落ちると友達が「今から夜景見に行かへん?!」というので、車に乗せてもらって、六甲山から夜景を見ました。お車代は断られたから、作ったパウンドケーキの半分をお渡ししました。
別の日。旦那と喧嘩しました。些細なことです。お箸たてにお箸をさすとき、どっちを上にするかで喧嘩しました。
現実逃避したくて、ずーっと部屋で犬を飼う構想を練っていました。朝起きるのが苦手な自分のことは棚に上げました。
犬がいたら、一緒に色んなところに行けそうなのになあ。
別の日。異国の寺院が見たくなって北野へ行きました。最初に頑張って北野神社に参りました。階段でいきなり足ガタガタです。
北野にはイスラム教寺院があります。とてもきれいな建物ですが、いまいちきれいに撮れるポイントがないです。でもここのモスクは日本で一番古いモスクなんですよ。
ジャイナ教の寺院があるのは日本でここだけです。どうしたらいいのか分からない度がすごいです。
輸入食品店でハルヴァという中東のおかしを買って、ちょっと西にそれながら坂を下って栄光教会を見上げました。この教会は阪神淡路大震災で崩れた煉瓦をもう一度組み立てて再建したという根性エピソードがすきです。
生田さんにお参りして終わりです。日本の神様は、他の神様にも参ったことを褒めてくれたらいいなあ。
この日は早めに帰って旦那と家で食事をしました。鶏モモを照り焼きにしたやつと、スーパーの高野豆腐と、トマトサラダと、卵の味噌汁です。
旦那の出身は神戸ではないので、こっそり、早く神戸好きにならんかなあと思っています。無理強いはできないけどね。
嫌な事件も多いし、どないなっとんねん!と思うこともあるけど、まあまあのどかで楽しいですよ。
ここまで読んでくれた人に、平和さが伝わってたら嬉しいです。
いろんな反応やコメントがあって嬉しいです。ありがとう。夜中に日記を読み返しながら書いたものなので、恥ずかしいはずかしい。
今日はいい天気なのもあって、嬉しかったし、なんとなくレスしたい気分なので、レスさせてください。
・固有名詞全部わかる~の人
→ありがとう。摩耶埠頭は私も好きです。県美のりんごには一人ではたどり着けません。なぎさちゃんもです。
・住んでたから分かる~の人
→ありがとう。住んでると身近なものばかり書いてしまいました。
・箸立て~の人のひとたち
→お箸の先が底になったら底の汚れが先に付きますよね。でも上にしてたら空気中の汚れが付きますよね。
そんな感じです。蓋付きのお箸立てを買えばいいことに気づきました。先端恐怖症ではないんですよ。
→怖い人とは関わりたくないなあと思いながら暮らしています。中学校は遠い昔の話ですけど、全員坊主はアカンかったなあと思います。関西弁、ごめんねえ。他地域の人にわかりやすく話したいとは思ってるんですよ。
・センタープラザ~の人
→カード屋も多いけど、最近はガチャガチャコーナーも増えてますね。うっかりすると小銭すぐなくなっちゃう。
シャッター、寂しいです。昔はもっと中古CDとか古本とかの店が多かったですね。
・イノシシの人
→ありがとう。夜道で遭遇すると「あれ?犬?」ってなります。うりぼうは可愛いけど近づきません。油断大敵です。
たまに小さい川の方に降りてきててカモと一緒にいると、鍋コンビやなあと思ってます。
・長田に行って~の人たち
→悲しい気持ちになるのは嫌だけど、切ない気持ちにはなります。シューズプラザの赤い大きなハイヒールを高校生の時に見て、もっと子供だったらすべり台にしてそう、と思ってました。
靴の青空市場で、一袋靴詰め放題1000円!というのがあって、さすがケミカルシューズの町!って思いました。
歌は謎だけどそばめし美味しいよね。長田は美味しいお好み焼き屋さんも多いんですよ。
・良い街なんだけど~の人
→ごめんなさい。そういう話し方をしたいわけではないんですけど、兵庫の言葉は押しというか、圧が強いみたいです。
敵意も悪意もないんです。私が話すのは神戸弁ですが、怖がらせてたら申し訳ないです。
・生まれ育った街が~の人
→いろんな街に住んで、それぞれの魅力が知れるのは、嫌だなと思う経験があったからかもしれませんね。
死ぬほど羨ましいと思ってくれるのはちょっと鼻が高いけど、でも死なないでください。いつか神戸に遊びに来てください。
・移住者だけど~の人
→住んでこそ楽しい街、本当にそうです。移住してきた方に言われると嬉しくなってしまいます。嬉しいなあ。
一緒に神戸に骨を埋めましょう。でも時々、生まれた街のことも思い出してくださいね。
あまりこういう日記を書かないので読みづらかったらごめんなさい。
エスカレーター、間違ってた!いやー!はずかしい!
【16:55 再追記】
こんなつたない散文がホットエントリに入ってしまったようです。念のため身バレを防ぐためにいくつかの箇所をいじりました。
内容は若干虚実入り交じっているし、別の日なだけで、時系列は過去未来様々です。
ブコメで懐かしいと思ってくださる方、良い文章だと言ってくださる方、本当にありがとうございます。
あまり他の都市のことは書かないようにしたいですが、神戸は近くに京都や大阪という大きな都市がある分、そしてそれ以外にも周辺に魅力的なまちがたくさんある分、旅行で神戸だけに長く滞在してもらうにはむつかしいのかなと思います。
でも暮らしていると、まあまあ平凡でぼんやりできるとこですよ、ということが書きたくて日記を読み返しました。
書いてない区のこと(西、垂水、須磨などなど)もちゃんと神戸です。読み返した分の日記の中には偶々なかったり、書くと身バレの危険がある部分だったりしたので内容には入りませんでした。
名谷駅のタイルの壁がなくなったの、ちょっとさみしいですよね。でも地下鉄の駅前はどこもにぎやかになっててすごいですよ。
書いていたら本当にキリが無くなるのでこの辺で。
父が死んだ。葬式もした。
喪主ではないし長々としゃべっても飽きられるだけだからここで自分の整理がてら、書いておこう。
父という人間のことはなんといって表現していいかいまだによくわからない。というのは母が強烈すぎるからである。
父は1940年代生まれの日本人男性である。出身地は西の方の川沿いの豊かとはいえない田舎町である。
6番目の息子である。工業高校に通うために下宿がてら養子に出されるまでは、兄の一人に小遣いや親の愛を搾取されていた。
(おそらくそのせいで自分へのいじめにはとてもドライである。いじめが嫌いだし、「ズルイ」という言葉も苦手である。)
工業高校卒業後は、工場のあった景気のいい化学系メーカーに就職した。読書が好きで(速読で)すこし本で勉強すればペーパーテストはたいてい受かる。
職場ではじまった国内留学のような制度の初年度生にえらばれて会社のカネで大学の化学科に進学した。
学費の足りない分や生活費は賭けマージャンで補っていたという。のんびり無口なくせにダマテンかメンタンピンか即降りの雀風である。
趣味は登山で、安くて黒いカメラも一応持っていた。(父が人生でもっともイケイケだった時代かもしれない)
そこで一学年年上にあたる女性と出会った(大学では同学年)。九州で育って浪人して偏差値で選んで入った教育学部にいた女性は、はきはきとしゃべり美人で笑顔が気さくだった。
怒るとまくしたてて手が付けられないが、おこっていなくても気を許した人間の前では延々とラジオのようにしゃべっている。
話すうちに多少の脚色も入って来る。それを父はわかっているのだがいちいち訂正しない程度にはおおらかな父と女性は気が合ったようだ。
1960年代?の大学には学生闘争が(東京でとくに盛んに)あった。田舎の大学にも多少の余波はあったが、両方とも危うきに近寄らずで敬遠していた。
父は卒業後化学企業にもどり、女性は数か月だけ「印刷会社の腰かけ事務職」をして寿退社。初任給で洋裁用ハサミと広辞苑を買ったという。
二人は親へ挨拶をすませ神前式で結婚式をあげた。新婚旅行(国内)ではパンタロンにネッカチーフなど流行の服をきたイケメンの父が観光名所の立て札の前でまぶしそうに笑っている。
1970年代。m市の社宅に二人暮らしで妊娠。里帰り出産でまるまるとふとった増田を生んだ。ぴかぴかの母の笑顔は(そのころまだモノクロ写真しかなかったので)モノクロームである。(追記:よく考えてると写真現像紙の質が悪くて色褪せてただけで新婚旅行も出産も一応カラーだ)
夏だが一般家庭にはクーラーがないころだ。産院にはあったそうだが、おくるみでぎっちりくるんだ写真をみるに母には赤ん坊を薄着にするという考えがなかったようだ。
(なお増田は今も超絶汗かきである。失うはずの汗腺が全部残っている)
二人目もm市在住で西に里帰り出産した。このときは増田も母実家に連れていかれた。
このころ叔父が浪人してから医大に入って実家から通っていた。叔父はマンドリン部に入ったといって増田になにかを弾き語りしてくれた。あと本好きの増田に学研の漫画の植物百科を買ってくれた。
三人目を生む前に父は関東のk市に転勤になった。おそらくこのへんで、父は化学から離れたようだ。(父、転身)
というのは、データベースで父の名を探したことがあるのである。染料の特許か論文かに1-2件だけ名前があってぷつりと途切れた。
というわけでk市で三人目が生まれた。そうして5人乗り自家用車を買っていろんなところにつれていってもらった(なおそのころベビーシートはない)。
だが車内で父はタバコを吸った。車内はひどい匂いでひどく揺れ、子供たちはぐったりしていたし従兄弟などはゲロを吐いたこともある。あまりいい思い出はない。
(母は父に「ニヒルなくせに私にだけやさしい大人の男性」というイメージを抱いていた。一時期はタバコも容認~勧めたことがあったようだ。実際は父のほうが年下で気弱ですらある)
そうしているうちに二人目がアレルギーという未知の病気にかかって(そう、1980年代にはアレルギーによる気管支喘息すら新規だった。父も母も本を買いあさった)、
そのころの(無鉛ガソリンとも限らない)車の排気ガスがアレルギーのもとだ、という説にすっかり怯えてしまい、「もっと田舎っぽい場所に家を買いましょう」となった。
とはいえ社宅だって、そこそこ郊外で、隣は竹の子がとれる竹林だったのだが。
まあ、3人の子育ての忙しさの中で狭い金魚鉢みたいな社宅でのハイソ自慢、愛され自慢だの、昇進自慢に母が飽き飽きしたんだろう。
そこで知ったのだが父はいつのまにか一級建築士になっていたそうだ。意気揚々と自宅を設計し現場監督がてら家族をつれてわくわくとみせにいった。
(このへんで、のこり全部の西にいる親類から「東京の叔父さん」と呼ばれはじめる。後日つくば万博やディズニーランド、成田への前泊などで宿をお貸ししたこともあるようだ。)
お礼にとめてくれる親戚をたどってお盆に西をめぐったこともあったがそう回数は多くない。いつも核家族の5人が一緒であった。
そのあと増田はなんとか就職して、ひきとめたがる母親と喧嘩しながら「自分の金で」一人暮らしをはじめ、あまつさえ恋人ができたというと、
母が「空の巣症候群」というやつでいろいろとヒステリックになりはじめた。
子供が「いやもう自分は大人だから口出しをするな、するなら人生の最後まで口出しする覚悟をしろ。恋人よりよい伴侶候補がいるならいますぐつれてこい」とブチ切れてやると、
父親に「ウエーンくやしい!」と子供のようになきついていた母を思い出す。
その後も「恋人を家につれてこい紹介しろ」というからそのとおりにしたところ「こんにちははじめまして」の二言目に「うちの教育方針は!」とはじめたのでみんなでドードーしたのをおぼえている。
子供を教育することが母の生きる目標だった。母には並列処理はできないのである。教育となったら教育だけをするのだ。
「もういいから子供にかかわらず好きなことをしな」というと……。
しばらくしてようやく、母は広い庭をいじりたいから、もう一軒家を建てて引っ越すといいだしたのだ。
庭で草花をそだてていれば嫌なことはすべてわすれられるという。
父は母のことを浪費家だと数度指摘した由来はこの辺にもあるとおもう。
(ほかにもファッションや作り付け家具など、彼女なりの「上質な暮らし」イメージを達成するために骨身をおしまなかった母だ。
今で言う「お値段以上」なのだろう、「モノはいいモノだから3人の子供に使うのならこの値段は惜しくない」という言葉を母から何度も聞いた。
学校の縄跳びなんか子供向けのすぐ切れるプラスチックじゃなくてボクサーが訓練に使うようなものをもたされ重かった。)
母にしてみれば教育費を払いきれたのは自分の塾のおかげもあり、父はケチだというのである。どちらが正しいかは…。
ところがしばらくすると、父自身が肺の難病にかかった。タバコは肺にはよくないということはわかっていた。
父は早期退職制度で、ただ社外顧問で数回きてくれればという職だけをのこして闘病に入った。
幸い年金ももらえる。子供への仕送りもぱったりとまってお金には余裕がある。
郊外というよりもはや森の中を切り開いてつくった庭の広いおしゃれハウス(建築中)は、たちまち父の療養ハウスに方向転換となった。
手すりやら風呂やら改築し、母は断捨離をし、こだわりより健康を優先し…。
そこで難病なのに20年も生き延びたのは確かに母のおかげであろう。
ただ母はだんだん父が自分より弱い生物になりさがっていくことがなかなか納得できなかったようだ。
母にとっては子供は庇護すべきで、父は母を庇護すべきだったのに、すべてが逆転してしまったのだ。
母の癇癪は昔からものすごく、感情の嵐の生のままの奔流であって、いうことがよくまとまっていない。
Aといった直後にいいかえすとじゃあ反Aだと躊躇なく言えてしまう。もちろんきっかけはあるのだが。
母がなんでタバコを吸ったの!と責めて、理由をはっきりいわないと納得しないので父は「母も勧めたではないか」と言い返すのではなく「社内政治に参加するためだ」と説明した。
「なんで私を浪費家だというの!」「なんで感謝してくれないの!」には、
それぞれ「幼少より母の愛に飢えていたため」などの適当な理由がつけられ、反省書となった。
反省書はなんども日記にかきつけられ、こどもたちへも父がこんなに反省したとメールで送った(母もいつでも読めるようccつき)。
まるで自首後の犯人に動機を言えと迫る刑事のようなやり取りである。さしずめ母は愛情刑事であった。
この「なんで」期の母は2人だけの蜜月のはずがいきなり愛情が枯れ果てたかのようなふるまいをしたので子供たちにも影響があった。
あるときなど増田が呼び出されて母と東京のカフェであった遠かったねよく来たねの二言めで「今日ね、おとうさんをいじめてきたの」というのである。
どのように苦しめたか。それがどれだけ自分の恨みを買った人間の正当な末路なのか。話はじめると30分以上いきつぎもしないでとうとうとやる。
増田や父は、そういう手の付けられない母をどうしていいかいつもわからないで黙っている。
ただただ、ああ、となりのテーブルの客が居心地悪くて逃げたなあときょときょとしながら口をはさむ隙を探す。
やめてくれ。あなたたちは善良で努力家で思いやりある人間だっただろう。泣きたかった。
カフェの次は庭園つきフランス料理で父もいるときにニコニコと「お父さんに遺言をかかせたの。私に全部残させるって」というのである。
増田は遺産も愛も父からはあたえられない子供になったのだと、増田当人にむかって心から嬉しそうにいうのである。
理由を聞いてほしかったようだが「ふーんそう」というのがせいぜいだった。
後日やっぱり何十回もしつこく聞かされた。あれもこれも、…、わたしはケチといわれたのよ!!父は母に愛情がない!
父は平謝りするしかなかったらしい。
でもその場で諭そうにも耳も悪い。
「その話は今聞きたくない」と穏やかに告げるとまるっと無視された(なんなら常にセリフを母にカブせられているし慣れてるけど)。
もう一度はっきり言うと「え?」といわれ、もっと大きい声でいうと「大きな声を出さないで!心臓がどきどきする!」と泣き出すのである。
補聴器をすすめたけど、ぼわんぼわんして不快だとつけたがらない。
それに庭に出ている間も補聴器をつける必要がない(むしろつける必要がないから庭がすき)だから悪くなる一方だ。
子供たちは私を味方してくれない、おとうさんばかり味方して、おとうさんがだましているからだ!ということで本当に手が付けられなかった。
でも素直な母は、父をいじめるだけではなくまっとうに、増田ら子供たちに直接説得も試みた。
ところが増田も子供がうまれて送迎などで忙しいのに、携帯(業務用)に電話をかけることがつづいたのである。
運転中は出られない。うるさくて運転に集中もできない。ガチャギリするしかない。それでもかけてくるのでやむを得ず「固定電話にかけて」と携帯ではブロックをした。
このことは増田に子供の送迎がいらなくなりガラケーとアイフォンをのりかえるまで続いた(のりかえたときにブロックは解除した)が
半ボケ?もとから機械音痴?の母は下の兄弟や増田の伴侶に「増田ちゃんがわたしをブロックしたの!解除するようにいって」と何年も頼み続けた。
父はじわじわと悪くなった。3年に一回ほどのペースで入院するたびに母から死にそうな声で「おとうさんが入院したの、もうだめかも」といわれて子供たちが全国から新幹線などでとんでいった。
父は母に「浪費家だ」といったことを老後一生かけて平謝りし続けた。
酸素マスクが一日中必要になっても、下の世話はしないからと母にいいわたされると一回30分かけてでも一人で家のトイレにいった。
母はトイレにいく父の血中酸素モニターが鳴る音だけはよくきこえたらしくて「いつもピーピーうるさいから本当に止めさせたかった」のだそうである。
ほかにもブザー音がなると死んでいるかもしれないし、地震があると停電したら酸素送風がとまってしまう。そうすればすぐに酸素濃度がさがって窒息死だ、ということで不眠ぎみであったという。
なるほど不眠であれば気が狂うほど老々介護はつらいだろうというのはさっせられた。
途中で増田は「あなた(母)はもう後期高齢者だし、父はさっさと介護認定を受けるべきだ。他人を入れろぜひ入れろ、入院や介護施設はないのか」とアドバイスをしたりもした。
父も早く「介護認定を」といえばよかったのだが母だけに甘えていたかったのかもしれない。
母親の認識は古くて「介護=認知症=施設にいれられ毎朝チーチーパッパと歌わせられる」というなんかアレな印象しかなかったのだが、
父も「自分=強い=介護うけられない」とおもってた節がある。いいコンビだよあんたら。
まあ、実際、肺病で介護認定がそんなに高くなった父という存在はチバラギ地方では珍しく、認知症むけばかり取り揃えられている施設からは選びづらかったようだ。
母は一度、「もうすべてをほうりなげたい。お父さんなんか死んで良い」と増田にドライに告げたので増田は市役所を通じてケアマネに緊急電話をした。
実際病状がすすんでいるのも理由にあったようだ。
父は身の回りを手に取ることすらおぼつかない。あれをとって、かわりにこれを置いて、の命令の繰り返しの24時間。そりゃ気が狂う。
頭がはっきりしているだけに介護をうけておきながら「あの礼状は出したか」などと口うるさいこともこまごまという。
ケアマネ介入後はデイステイのできる施設をいくつかめぐって、母に介護休暇をあたえ父の入浴はステイ先で複数人で介護をうけることにして解決となった。
他人の手が入ったあとはなんとか母の忍耐がたもったようだ。
ラインでこまめに連絡をとると、お互い聞き取れない・聞いてもらえない長話のストレスと徒労感も解消された。
コロナのおかげで世の中全体が肺病に警戒しており、
ストレスのたまった母親の消費欲やお出かけ欲も「コロナは怖いから」と唱えるだけでだいぶ抑制された。
母はユーチューブをおぼえた。
コロナワクチンはふたりともいち早くうけられた。怪我の功名である。
増田の残りの二人の兄弟も子育てに忙しい中でガス抜きに付き合ったらしい。なんとか二人の生活はつづいた。
そうして2*年の闘病、*年の介護認定と酸素マスク、90日の入院のあげく父は体重が半分になって逝去した。
母は感情が高ぶると耳が全くなにも聞こえなくなるので、増田は葬式の打ち合わせに逐一ついていってすべてをメモにして渡してやった。
父がなくなって重荷が下りても母はやはり理不尽であり、やはり葬式の相談のあとにも爆発した。
かねて希望していたように「全部の遺産を母の元に相続させつつ凍結などの不愉快な事態にさせない」ためにはなるべく資金を動かさないほうがよいのに、
母はいますぐ資金をすべて自分の口座に動かそうというのである。
それなら司法書士とか頼んだ方が楽だよというと、母の感情は爆発するのである。「高いでしょう!?」3万でいける「デモデモダッテ」。
今すぐにでもATMにいってお金をおろしてあつめたいというのである。(父は箪笥貯金を高額な葬式分くらいはおいてあったし互助会にも入っていたから葬式費用ではない。)
なぜと問うと、「子供たちに私からお金を送りたいから」。はあ~~~???だよ。じゃあ法定相続割合でよくない?父もそれが一番簡単だからのぞんでいたんでしょう。
おっさんだけど、今日仕事で電車乗ったんだ。ずっとリモートだったから久しぶりに。
もう週末で結構街中賑わっていて外国人観光客と思しき人達も沢山いたんだけど、
アジア系の、タイとかカンボジアとかの感じの若い女の子達がいて、ピンク色とか緑色の髪色なんだけど、
めちゃくちゃロマンチックメルヘンチックな白いレースのワンピースとか着ててちょっと驚いた。手入れがすごく大変そうだから。
日本の女子は今あんまり洗濯とか大変そうな服着ていないと思っていたので。
それとは別に、アニメのイベントがどこかであったようで、アニメっぽい服装の女の子が電車に沢山乗っていた。
よく見るとあからさまに自作っぽい。2,30年前だとあからさまに自作っぽい服を街中で着ている人はあんまりいなかった。
当時は服の偉さが序列化細分化されていて、「ピンクハウス着ているような奴」とか「コムデギャルソン着ているような奴」
みたいな細かいシナリオパターンに分割されていて、安い手作りの服着ているのは貧乏人か、水商売と決めつけられていた。
今はサンカクヤとかで生地とか買ってデジタルミシンでがーっとアニメのお姫様ファッションを普通に作ってピンク色の髪色で
かわいく着てしまう人たちがたくさんいるのだ!なんと!とちょっと感動した。戦後のドレメ式洋裁教室もびっくりではないか。
ユザワヤに男がいた。この件でモヤモヤしているのでここに吐き出します。
ユザワヤを知らない方のために説明すると、ユザワヤは生地や糸の専門店です。
たまに小さい店舗もありますが、基本的にはユザワヤに行けば、コスプレ衣装一式を作れるくらいは揃います。
もちろんユザワヤは女性限定ではないですし、手芸が趣味の男性がいても問題は無いはずです。
しかし、正直に言えばモヤモヤします。手芸はほぼすべてが女性ターゲットのはずなので、
女性の下着屋に男性がいるのとほぼ同じ感覚です。入店に規制は無いですが、「なぜ男性がここにいるのか」とモヤモヤします。
しかし現代のジェンダー感ではユザワヤに男性がいることも受け入れなければならないでしょうし、
それを不満として声を上げることも許されないでしょう。
そのモヤモヤした感覚をここに記します。なぜあなたはわざわざユザワヤに来るのでしょうか。
それは邪な気持ちは全く無いと言えるのでしょうか。
「ユザワヤに男性が来ないでほしい」と考える私に問題があるのか、ユザワヤに来る男性に問題があるのか。
正直どちらが正しいか悩ましいところではあります。ただ、いずれにせよ表立って言えることではないとはわかっています。
OP曲と映像が好き。最終話まで一度もスキップしなかったのはもちろん、作業中にサブモニタで延々ループ再生するぐらいに。第一印象は「AKBっぽい」。「いやむしろ乃木坂とか欅坂とかか? 1曲も聞いたことないけど」と思いつつ作曲家で検索すると実際に乃木坂46をメインにAKBグループに楽曲提供してる人だった。ワイの耳も捨てたもんじゃないね。
つーかそもそもオーダーが「AKBっぽく」だったのかもしれない。原作は未読で分からんが、少なくともアニメは秋元康の世界観に片足をつっこんでる感じがある。象徴的なのはOPで70秒ごろに流れる、3組の女の子たちが目をつぶりながら体育館のステージに座ってるシーン。OPで流れる映像は、基本的に蝋梅学園での日常を切り取った物と言えるが、あそこだけはその見方が成立しない。日常の中で、16人もの少女が、素足の制服姿で、目をつぶりながら身を寄せ合い、体育館のステージに座る、というシチュエーションが自然と起こることはありえないからだ。平たく言えばあれはフェチズムであり、少女、制服、教室への信仰である。
本作を見た人であれば少女や制服に対するフェチズムが詰まった作品という評価に異論はないだろう。少女の脚を接写するアニメといえば『けいおん!』を思い出すが、あれはフェチズムからやや遠い。アニメ『けいおん!』における手や脚の描写は、感情やキャラクター同士の距離感や場の空気の表現であり、我々は、手の微妙な動き、スカートから伸びた脚の並びなどからそれらを読み取ることを要求される。それは『けいおん!』が、というより監督の山田尚子の癖と言って良い。『リズと青い鳥』でより直截的に用いられたことは記憶に新しい。
一方の『明日ちゃん~』はフェチズムのそれだ。かきあげた髪束からこぼれる何本かの細い髪、制服用のハイソックスを穿く時の布擦れ、口元から髪を払う時に撓む唇の柔らかさ。それらに読み取るべき意味はなく、ただそうあるように受け取ればいい。
ストーリーに目を移せば、コミュ強の小路がクラスメイトたちを次々と篭絡していく無双モノといった趣がある。優れた容姿や持ち前の行動力は元より、相手に興味を持って積極的に話しかけるスタンスが小路を圧倒的コミュ強にしている。
まだ何も知らない同士なのに
どうしてなの もう君のことが好き
君に思っていたの 密かにずっと
OP『はじまりのセツナ』の歌詞だが、これは特定の誰かではなくクラスメイト全員に対する小路のスタンスを示している。OPで小路がクラスメイトの誰かの手を引いて駆け出すシーンがあるけど、相手が映っていない点が実に示唆的だ。いろんなクラスメイトと談笑するカットが並ぶのも小路のコミュ強表現のひとつだろう。
小路は同学年の生徒がひとりもいない小学校時代を送ったからか、教室という社会の常識からやや乖離しており、周りがブレザーの中でひとりだけセーラー服を着ていくという浮きっぷりから先行きを心配させたが、蓋をあければコミュ無双というプリミティブな気持ちよさがあった。その結実が最終話の後夜祭であることは言うまでもないだろう。
CGDCT(かわいい女の子たちがかわいいことをする作品を指す海外のスラング。日本で言う日常系に近い)の系譜に違いはないけど、部活というインナーサークルが舞台の中心になる日常系部活モノからはやや距離を置く。氷室冴子作品やマリみてのような少女小説の趣もあるが、キャラクター間のヒエラルキーが排除されている点では逆に日常系に近い。そして全体を貫くフェチズムを勘案すれば男性向けファンタジーとしての少女小説、という辺りに行き着くのではないか。
この作品がファンタジーを志向しているのは小路の家がメルヘンに出てきそうなレンガ造りをしているところからもうかがえる。母親はセーラー服を仕立てるレベルで洋裁が出来、車はしっかり2台あって、しかしレンガ造りの家からは雨漏りがする、というのはリアリティラインの設定に興味がないからだと思われる。生徒が1人しかおらず廃校が決定している小学校と同じ地域に生徒150人規模の女学園があり、かつバスで行ける範囲にショッピングモールがあるという設定からも同様の指摘ができる。しかしそんなことはどうでもいいのだ。『明日ちゃんのセーラー服』は「16人もの少女が、素足の制服姿で、目をつぶりながら身を寄せ合い、体育館のステージに座る」光景へのときめきを満たしてくれる作品なのだから。
あと自分のために泣いてくれる他人がいるのって救われるなって心底思った。そういうのをスルッと出してくる、シーン強度への意識がこの作品の魅力だとも思う。
最近、ずっと前から欲しかった可愛いぬいぐるみを買った。ので、洋裁を始めようと思った。
裁縫は高校生以来だが、誰よりも針の進みが遅かったのと、ミシンの扱い方を何回やっても覚えられずダメだったことから、教室に頼ろうとネット検索した。
だがしかし、私が想像するより遥かに高く、そしてどこも満席だった。
勿論、私も違う分野のクリエイターの端くれなので、技術を売ることを下に見ているわけでもなければ高くて当然であることは理解している。それに満席と言うことは腕や教え方も上手いのだろうし、プロフィールを見ても"服飾学校卒業"や"ファッション業界で○年経験し"という文字が並んでいた。そんな人たちに直接教えてもらうと考えれば、逆に安くも感じる。
ただ現実問題、私の大学初任給以下の薄給ではどうしても定期的に払えるわけもなく、泣く泣く諦めて本を買うことにした。
本を読んでみた、が、やはり分からない。服は何着も持っているはずなのに、何故わからないのだろう。そういえば、私は昔から立体物の理解や展開図が苦手だった。
そもそも服の単価は非常に安いと聞くが、こんなに複雑な工程を経て作られた服が二束三文で叩き売られることに衝撃を受けた。生地がペラいのだから安いのはわかるけど、高いブランドだろうと安いブランドだろうと、私より遥かに服飾について専門的な知識のある誰かがミシンをダーーっと動かして作ったのは間違いないのに。
私の祖母は副業で洋裁の仕事をしていたらしく、幼い頃はワンピースや甚平をよく送ってくれた。偶に会うと採寸を取り直したりしてくれて、そして少し経つと今度は新しい服が贈られてくる。
私は中でも、水色のクシャクシャとした生地のワンピースがお気に入りだった。ゴムが入っていてとても着やすく、しかも袖が丸かったのだが、私が「こういう袖が良い!」と祖母に話したからだった。私にとっては今も思い出せるくらい特別な一枚だった。
ある日母に何気なく服の所在を尋ねたところ「とっくの昔に捨てた」と言う。驚き何故かと尋ねたら、理由は"小学生になった(私)が周りの子が既製品の服ばかりで急に自分の服が恥ずかしくなり、母に頼んで祖母にもう作らないで欲しいと言ってくれ、既製品の服を買ってくれと頼んだから、いらなくなったから捨てた"んだそうだ。
幼い頃とはいえ、なんて事を言ってしまったんだ…と非常に後悔した。これを聞いた祖母は何を思ったのだろう。そして実母の作った服を捨てる母は何なんだ…。
けれども、もう過去のことは過ぎてしまったので仕方がないし、祖母ももう居ないので謝るに謝れない。だから考えても無駄だ、とついこの間までは思っていた。
洋裁は本当にめっっちゃ難しい……。
ぬいぐるみの服を作るために縫い物の勉強を始めたけど、一生覚えられる気がしない。針が手に当たって痛い。というか、ミシンが高い上に置く場所がなくて買えない。布もパーツも拘るほど材料費が嵩んでいく。趣味のつもりが修行みたいになってる。
改めて考えてみれば、祖母は誰からも教わらず独学で洋裁を始め、それがいつしか人に売れるまで極めた人だ。しかも本業の合間に作った洋服を。そんな祖母に作ってもらった服を私は無知とはいえ蔑ろにし、あまつさえ『ありがとう』も言えなかったのか。
何とも言えない気持ちが腹の中でぐるぐるして、なんて言ったら良いか分からないけど、とにかく悔しかった。後もう少し長く生きていてくれたら、洋服作ってくれてありがとうって言えたのかな。水色のワンピース大好きだったんだよとか、型紙の見方がわからないから教えてとか、どうして洋服を作るようになったのとか、まだまだ言いたいことあったのにな。
個人的に思うのは、私が大人になるのが遅すぎた。祖母が亡くなる最後の方に何故か謎の思春期が爆発して、あまり会わなかった。でも会ってたら今より少しはまだ言いたいこと言えてたような気はする。
あと最近は晩婚化傾向にあるらしいけど、やっぱり祖父母が早くに亡くなると寂しい。友達とかから最近の祖父母のエピソードを聞くと笑って相槌を打つけど、心の中では良いなーって思ってる。まあ交流を早々に断ちたいクソ野郎だったら良いのかも知れないけどね。
とりあえず、洋裁の方はまだまだ始めたばかりなので頑張ります。さすがに祖母のように売れるまではいかないとは思うけど、でも今年中に一つは完成させたい。
時間 | 記事数 | 文字数 | 文字数平均 | 文字数中央値 |
---|---|---|---|---|
00 | 73 | 9114 | 124.8 | 41 |
01 | 68 | 8771 | 129.0 | 39 |
02 | 18 | 2470 | 137.2 | 57.5 |
03 | 20 | 1959 | 98.0 | 82.5 |
04 | 17 | 1190 | 70.0 | 47 |
05 | 18 | 2674 | 148.6 | 62.5 |
06 | 33 | 2338 | 70.8 | 39 |
07 | 38 | 2499 | 65.8 | 31.5 |
08 | 78 | 4937 | 63.3 | 29.5 |
09 | 80 | 8514 | 106.4 | 48 |
10 | 61 | 6578 | 107.8 | 64 |
11 | 68 | 8161 | 120.0 | 39 |
12 | 108 | 13731 | 127.1 | 42 |
13 | 90 | 7412 | 82.4 | 41 |
14 | 120 | 12758 | 106.3 | 49 |
15 | 104 | 11570 | 111.3 | 47 |
16 | 116 | 23840 | 205.5 | 34.5 |
17 | 73 | 8947 | 122.6 | 54 |
18 | 101 | 15264 | 151.1 | 49 |
19 | 154 | 13888 | 90.2 | 37 |
20 | 132 | 10037 | 76.0 | 34.5 |
21 | 141 | 15669 | 111.1 | 46 |
22 | 153 | 23516 | 153.7 | 56 |
23 | 129 | 18920 | 146.7 | 55 |
1日 | 1993 | 234757 | 117.8 | 44 |
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通うかと思って通い始めた
が、ワイと同じ時期、コースに入って人に
めちゃくちゃ理解力の高いすごい人がおり、
払い続けるというシステムなので
ワイが授業止めてるとかではない
教えた分だけグングン上手くなるその人に
ある日ワイの遙か先の工程でその上手い人が
どうやるか分からず詰まっていた
開け、それを使いながら「こうするのよ〜」と
説明を始めた
ちなキットは5000円で買わされるやつである
上手い人はワイの方には(まあ当然か)見向きもせず
上機嫌にワイのキットを返してきたが
ワイはなんかどうでも良くなってしまった
先生にやって欲しいんじゃなくてワイは
「一個手間が省けて良かったわね」ちゃうわい
券無くなった月に当たり前のように追加購入
手続きさせられかけたが持ち合わせがなくて...で
乗り切った(10回分とかなので数万円かかる)
もう知らん
ちょうど良かったのかもしれない、と思ってる
みたいに思ってたし
今は結局ググって出てくる親切なサイトと
買った本を見ながら洋裁を楽しんでいる
ベビー服を作れるだけ作ってあげたいんです
先生に使われたキットのところだったので
ふと思い出し記念カキコ
今時ステイホームなんてもう誰もしてないかもしれないけど、ミシンはずっとやってみたかったのでいいんだ。
やってみてすぐに飽きるかもしれないし、ミシン本体以外はとりあえずメルカリで安く揃えようという算段だった。
ところがすぐに妙なことに気づいた。メルカリを見てるとなんだかどれも高いのである。
同じものが普通のネットショップでメルカリよりでずっと安く売られている。
考えてみてほしい。
Amazonで新品のルレットが660円で買えるのに、どうしておばちゃんの手垢のついた同じメーカーの中古を900円で買わなければいけないのか。
手芸店はどれも定価で売っている。奴らは値引きなんてしない。
手芸店はめちゃくちゃ高い。あそこには300円以下で買えるものなんてない。
でもおばちゃん達はそこで買う。
それが普通だと思っている。
もしかしたら昔通っていた洋裁教室で買わされたのかもしれない。
いつ買ったかも記憶が曖昧だ。10年くらい前に買ったのを2-3年前と勘違いしているのかもしれない。
(ついこの前だと思ってたんだけど、あらあら、そんな前だったかしらねえ…)
そしておばちゃんたちは断捨離のついでに、しまっていた洋裁道具を取り出して、ふとメルカリで売ってみようかと思い立つ。
テレビでCMを流しているからだ(ほら、あのタモリさんが出てるやつ)
メルカリのCMにタモリを起用したディレクターは天才だと思う。
そして自分が手芸店で馬鹿高い定価で買ったやつをちょっとだけ値引きして出品する。
でもそれを買うおばちゃんもいる。
Amazonとか楽天と比較して、なんてきっとやらないんだろうな。
業者らしき出品者もたくさんいる。
業者は大喜びだろう。楽天より高くてもメルカリなら売れるんだから。
自分が言いたいのは、おばちゃんたちもっと安くしてくれ、それだけ。
Amazonで新品600円なのをメルカリで400円で出してくれたらちょっとくらいカビ生えててもそっち買うから。
・映画鑑賞...7年くらい
バイト先で知り合った友達とミニシアター系はしごしてたりした。
映画好きが高じてシナリオライターを目指すも、半年くらいかけて書いた作品がゴミのように捨てられるのを目の当たりにして挫折。
・カメラ...5年くらい
シナリオライターに挫折した反動で、シャッターを押すだけで写真が撮れるなんていいなあと思って始めた。
街歩きしながら写真撮るのサイコー。現像にまで手を出してヨドバシの兄ちゃんに教えてもらいながら暗室機材一式揃えた。
写真のワークショップにも通い始めてあまりにも自分の才能の無さに気づいて挫折。
・カラオケ...3年くらい
テレビの採点番組見ているうちにどうしても挑戦したくなり、毎週末ヒトカラに通い詰めて歌いまくる。
ボイトレにも通い始めるも先生とウマが合わず、ちょうどコロナの来たタイミングでフェードアウト。
どの趣味もはまっているときは本当に楽しいし、今でも好きなのには変わらないんだけど、一回飽きちゃうと不思議ともう一度チャレンジしようという気が無くなっちゃうんだよなあ。
よく子供の頃から鉄オタで、とか、プラモデル作って何十年、という話を聞くと、すごいなあと思っちゃう。
ずっと同じことやってて飽きたり、他のあっちの方が楽しそうだとよそ見したりないんだろうか。
趣味を長く続けるコツはなに?
自分は毎回こんな感じなので、友達には「あーあ、また始まったよ」と呆れられているし、最近では自分も「まあいつかは飽きるんだろうな」と思ってたりする。
ちなみに仕事はちょこちょこ職場は変わりつつも同じ業種で続けています。仕事LOVE。
---------
【以下追記】
思ってもみなかったほどたくさんのコメントついてびっくりした。
すごく参考になったし、逆に改めて考えると趣味って何なのかなとわからなくなったりした。
とりあえず趣味で3年とかは別に短くないと知ってちょっとホッとしてます。
結構指摘が多かったけど、承認欲求が強いのは自分でもそうなのかなあと思う。
でも趣味なんだから何でもありなわけだし、承認欲求のためとか探究心のために趣味をやったってそれもありなわけでしょ。
それでもし自分自身も含めての誰からもどんなかたちの何の評価も無かったらそれってやってて楽しい?
40年プラモ作り続けている人だってきっと「今回のはなかなかいい出来だ」と思って嬉しかったりするんだろうし。
あと自分の場合は趣味を長く続けるって言うのもまた他人に認めて欲しい承認欲求の一つになってしまうんだよなあ。
趣味にどんどんはまっていくうちに途中からもう趣味では無い何かに変わってしまっているっていうの、本当にそうだと思う。
考えてみたらもう前みたいにフルスロットルで突っ込んでなくても、映画鑑賞は普通に好きだし、写真はそれまで興味がなかった写真展とかに行くようになったし、たまにスマホで写真撮ってインスタにアップするぐらいはするし。
カラオケだってコロナが落ち着いたら前ほどじゃなくても時々は行くだろうし。
あの熱量で飽きずに今でも続けていたら、それなりの何かになれたんじゃないかと思わなくもないけど、継続が必ずしも力になるわけではないみたいだと今回のコメみて学んだ。
映画は当時まだ仕事が不安定だったこともあって、シナリオ書いたりしてたころは何ならこの業界で食ってこうと半分本気で思ってたし、そんなこともあって7年続いたんだと思う。これはもう趣味とは言えないか。
前に話題になった「カメラを止めるな」を見たときは制作側の映画愛に圧倒されて、あーーやっぱり続けてれば良かったと一瞬思った。
人生長いし、もしかしたらどこかでワンチャンあるかもと今でも心のどこかで思っている。
仕事が趣味と言うコメントもあったけど、どんなに仕事が好きでも仕事100%にはなれないんだよなあ。
脳がそういうつくりなんだろうか。
何かをやりながらまた別の何かをやりたくなってしまう。
歳取って退職したらきっと今仕事でやってるようなことが趣味になるのかも。
それでそもそもこのスレを投稿したのって、実は新しい趣味が始まりそうだからなんだ。
NHKでやってる「ソーイングビー」という番組が面白くて、男の人もソーイングとかやってるのを見てへーーと思っているうちにすっかりはまってしまった。
でもどうせまた飽きるだろうし金ばっかつぎ込んでも、とちょっと躊躇してたんだけど、今回のコメ見たりしていろいろ考えてやっぱり挑戦することにした。
それでも何とか職業ミシンを買うのは思いとどまって、初心者用の安いやつにした。
で、例によってさっそく近所の洋裁教室もリサーチしてコロナが落ち着いたら通ってみようと思ってたんだけど、これはしばらく様子みることにした。
いきなりトップギアではなく、ゆっくりやって長く楽しむようにしようと思う。
まずはマスクでもぼちぼち作ろうかな。
まあ基本暇なのかもね。
この人は読書を趣味にしたら小説を書くのかと書いた人、爆笑しました。それは俺だ。
そう言えば小説書いてた時期もあったわ。いいなと思って突き詰めていくと、どうしても作る側に回りたくなってしまう。