はてなキーワード: ウィキペディアとは
撮り鉄界隈よりはマシだが正直似たりよったりだと思う。
大半がどことなく冴えない小太りのザ・オタクで、独身30代~50代も多い。
せいぜいサバゲーでイキってるのが関の山で大方はネットでウィキペディアの記事を読みながら後出しじゃんけんで軍師様を気取っている。
その卑小さは出来の悪いなろう小説のイキリ系主人公を彷彿とさせるが、何故か彼らはアニオタを嫌悪し見下している事が多い。
実際はそこらのアニオタ以下なのにね。ハッキリ言って軍事趣味・サバゲー趣味なんてアニメなんかよりよっぽど異性から敬遠され嫌われていますよ?
身内でホモソーシャルを形成し身内でしか通用しないワードで語るが界隈外の人間と会話する時も平気で使用するものだから会話が成り立たずキモがられる。
そんな様子を見て「論破してやった!!!」とイキるの浅ましさは軍師様どころかそこらの一般人よりも悲惨。
兵器のスペックや軍隊の規模など、『数値』に拘るその姿勢は、鉄オタが『同じ構図』に異常に固執するのとよく似ている発達障害しぐさ。
軍事大好きな癖に捻くれてるのか保守にもネトウヨにもならず日本sageや出羽守ムーブを愛好する。
まともな保守からはチンカスの蛆虫扱いされているが自分達は国を憂う国士様(笑)を自認しているから救い様が無い滑稽さ。
オタク嫌いアニオタ嫌悪を隠さない癖に、ふと気づけば銀英伝やガンダムで政治を語っちゃう幼稚さは
ラブライブや推しの子を観ている一般アニメオタクよりも随分「オタク」しておりその異様さと幼稚さを敬遠されている。
同族嫌悪なのだが謎のプライドが彼らを「オタクなのにオタクを叩く」という、ヨxist並の気色悪い自age他sageをするので
ネガティブな話題を嫌うネットユーザーからはますます相手にされなくなる。
中流階級かそれ以上のパパ・ママに甘やかされた大人子供が大半なのに、どっかの軍事小説の主人公にでも憧れているのか
親子関係が上手くいっておらずクラスでも孤立した孤高の青年を自認している。
実際は良い歳して親に甘え反抗し普通にキモいし性格も口も悪いから嫌われているだけなのにね。
月曜のりきって火曜平日になれてきた夜になぜこんなテンプレサスペンスがよさそうだ!ってなったのか
そもそも平日の火曜の夜に2時間も、映画と違って出来のよしあしもわからないドラマをそんなに見る人間がいたのか
本番組初期のプロデューサーだった小坂敬は「哀しくなければサスペンスじゃない」が最初のコンセプトであるとして、「単なる謎解きに終始せず、きっちりとした人間ドラマを作ろう」ということで、登場人物はみんな何か重いものを背負っていることをじっくり描くことが最大のテーマだったと話している[1]。
第1回放送は、島田陽子主演の「球形の荒野」(松本清張原作)。1980年代は、松本清張作品などの日本の推理作家や海外ミステリーなどを原作として、ベテランのスタッフが映像化する重厚な作品が多く、全盛期には視聴率もしばしば25%を超える人気を誇った。日本テレビにとっては、1980年に放映の始まったよみうりテレビ制作の『木曜ゴールデンドラマ』に次ぐ2時間ドラマ枠であり、1988年からはさらに『水曜グランドロマン』を設けるなど、日本テレビ系列では2時間ドラマ枠が多くなったが、『火曜サスペンス劇場』はその中核であり、最も息の長い枠となった。1990年代以降は、主に50歳代から60歳代の女性を視聴者に絞り定番シリーズを放送する安定路線が敷かれた[要出典]。特に1990年代は、日本テレビの視聴率が全国的に好調になっていた年代でもあり、日本テレビのドラマ枠としては、最も高い視聴率を殆どの回で記録しており、ドラマ視聴率ランキングの上位にもしばしば食い込んでいた。
この番組の開始によって、『木曜ゴールデンドラマ』が、読売テレビ一社の制作に変更された(それまでは、日本テレビと読売テレビが交互に制作していた)。また、札幌テレビ放送やテレビ岩手や福岡放送といった系列局が制作することがあったり、系列局の地元の“お国自慢”などに絡んだ作品が制作されたこともある。
また、大林宣彦、神代辰巳、鈴木清順、実相寺昭雄ら劇場映画で名声を博している旬の監督たちを起用して演出家主導の意欲作を撮らせる試みもしばしば行われた。その結果、難解なストーリーや前衛的演出も辞さず、2時間ドラマのみならずテレビドラマの枠をも破るような作品群が少数ながら生まれている。
番組のスタッフロールは、当初は「最後に『制作(製作):日本テレビ、(担当の制作プロダクション)』」とクレジット表記されており、1985年4月以降は、「最初に『制作:日本テレビ』、最後に『製作・著作:(担当の制作プロダクション)』」当とクレジット表記されていた(同時に日本テレビ製作番組が製作から製作著作に表記が代わった)。当枠終了後、日本テレビは製作プロダクションとの制作を打ち切り関係も絶縁し、視聴者層を若年層に絞った路線に変更した。
一時期は視聴率が20%を超えることもあったが、2000年代に入ってからは視聴率低下に歯止めがかからず、2005年9月27日の放送をもってを24年間の歴史に幕を閉じた。最終回の放送内容は火サス最多出演俳優の水谷豊主演の「事件記者・三上雄太III 逃走援助」で、放送時刻は19時からの3時間特番により通常より1時間遅い22時 - 23時54分であった。
なぜ火曜の夜だったのか。
以下のエントリにぶら下がったはてな民によるブコメを読んでいて、「ああやっぱりいつのもはてな民達だ…」などとぼんやり考えていたらふと、芥川龍之介の蜘蛛の糸を思い出した。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2023/07/post-509289.html
血の池地獄で他の罪人と共に浮き沈みを繰り返していたカンダタは、生前にたった一度、蜘蛛を殺さなかった。たったそれだけの「良いこと」をその血の池地獄の様子をたまたま眺めていた天上界のお釈迦様が思い出し、天界から蜘蛛の糸を垂らしてカンダタを地獄から救ってあげようとしたが、その蜘蛛の糸を上っていたカンダタは、自分の後から続々と上ってきた他の罪人に気づき、「こらっ!落ちてまうやろ!上ってくんな!」と叫んだら、その瞬間、糸はプチッと切れて血の池地獄に真っ逆さま、というあの話だ。
ていうか、田野氏の2年前のツイート炎上の時もそう思ってた。芥川龍之介が始めた書いた童話だそうだが、芥川が伝えたかったことは曖昧で何か教訓めいたものがあるのかないのかよくわからない、と聞いたことがある。ただしかし、私は単純に、「ナチスは良いこともしていたのでは?」なるよくある言い分は、この蜘蛛の糸にそっくりな気がずっとしていたものだ。
蜘蛛の糸を喩えとみなせば、そのような一般的な言い分を認める人たちは、2派に分かれる。一派は、「ナチスは実は良いこともしていたじゃないか」として、絶対悪の淵から救い出そうとする勢力だ。これがおそらくそのような主張をする人たちの大半であろうと思われる。だから、それらの一派は蜘蛛の糸を絶対に切ったりはしない。たとえばそれらの良いことの実例の一つや二つ否定されたからと言って、それらの人たちは次から次へと蜘蛛の糸を垂らしてナチスを救い上げようとするのである。
もう一派は、蜘蛛の糸の話そのもの、みたいなものだ。良いことをしていたかもしれないことは認めるが、ホロコーストなどの悪行のせいで絶対悪の淵からは救い出せぬ、とするのである。まるでその人達は、天上界のお釈迦さまそのもののようでもある。
id:NOV1975 対戦相手を全否定するのって中々の悪手で、観客にその否定の一部でも「いやそれは正しくね?」と思わせてしまえば全否定という主張の根幹が崩れる、という最大級の弱点を無視する人多すぎ問題。
このブコメなどはまさにお釈迦さま視点である。このブコメの裏を取れば、全否定しなくとも、ナチスは否定できると言っているようなものであり、どんなにナチスに良いことがあろうとも、ブチっと蜘蛛の糸を切って血の池地獄に落としてしまえさえすればいいだけじゃないか、となるのである。
話は少し変わるけど、私自身がしょっちゅうはてな民は、お釈迦様みたいなものかもしれん、と思ってたりする。とにかく「偉そう」な物言いを常にするからだ(笑)。いや、ネット民なんてはてなに限らず、ほとんどそんなもんなのだけれど、はてな民は若干だか平均して知性が高いように思わせる「何か」があるので、その分だけお釈迦様度は高いように思われるのだ。
さて、話を戻すと、一つ言いたいのは、これらブコメを書いたはてな民たちの何人が一体、『ナチスは「良いこと」もしたのか?』を読んだのか?って話だ。この本は共著であり、およそその半分を小野寺拓也氏が著述しているのである。小野寺氏はウルリッヒ・ヘルベルトの『第三帝国』の翻訳者でもある(それがどうしたとか言わないでね。知る人ぞ知る名著です)。流石に二人とも現役のドイツ現代史研究者であり、『「良いこと」もしたのか?』は、極めて実証的に著述されている。もちろん、現代の学術的見解にも精通しているお二人だ。その観点で、記述内容自体は必要十分には詳細であり且つ正確だと考えられる。ナチスの経済政策や、労働政策、環境政策や健康政策などなど、それらが具体的にどんなものであったかを知るための入門書として非常に良書であると思われる。実際、このようにナチスの具体的な政策について概括的に知ることのできる本はこれまであまりなかったからである。『ナチスの発明』?あんなもんただのクソ本だ。ハーケンクロイツをデカデカと表紙にするセンスがそもそも信じ難い。
したがって、まずはちゃんと読んでほしいと言いたいところではある(たかだか100ページ程度の本だ)のだが、実は、同著は別に全否定しているわけでもない。確かに、田野氏は「ひとっつも良いとこなんてないですよ」とツイートでしたからこそ炎上したのだけれど、同著の記述方法は、まずは一般に言われるような「良いこと」を具体的に一つずつ、項目としてあげて丁寧にそれを「良いこと」として詳述するところから始めている。つまり、そこだけ読んで、その後の説明さえ読まなければ、ナチスは良いことばかりしていたかのように読むことさえ可能な本なのである(笑)。その辺が、小野寺・田野氏両名の学者として誠実なところではないかとさえ言い得る。つまり最初からナチスの政策を腐しているわけではないのだ。
結果的には評価として、ナチスの政策は良いところなんて一つもなかったと、結果論として評せざるを得ないことは確かである。その象徴が、現在もバルト海沿岸に残されている『プローラの巨人』と呼ばれる、ナチスドイツの歓喜力公団(Kraft durch Freude)が建設していた巨大リゾート施設である。同著では詳しい記述はないが、同施設は労働者が無料で使用できるリゾート施設になるはずだった。が、戦争が始まると、建設は中途で中止されてしまい、使用されることはなかった。現在は歴史的建造物として、廃墟のまま放置されている(以下追記)。しかし、ナチは確かに労働者に喜びや活力を与えようと、余暇を十分楽しめるように政策を実行しようとしていた証拠ではあるのだ。詐欺集団が実際には存在しない投資物件への投資を求めるのとは訳が違う。ただしそれもこれも、戦争の波の前に全て頓挫してしまったので、「夢」としては良いことかもしれないが、「現実」には良いことがあったとは言えないことになる。しかしその全てを台無しにした戦争を始めたのもヒトラーなのである。
個人的には、お釈迦さま視点など要らないと思う。個々人が個々人自身によって、ナチスにも良いところがあったのでは?と思うのであるならば、批判的視点を忘れずに、それを可能な範囲で自ら学ぶべきだと思う。否定・肯定を抜きにして、『ナチスは「良いこと」もしたのか?』は、知性高いはてな民にとってすらも良書だと思うのだが。1000円未満で買えるんだぞ(笑)。
追記:プローラの巨人については私自身の記憶が曖昧且つ古かったようで、再利用化が進んでいるようだ。以下、英語版ウィキペディアから機械翻訳そのまま(修正なし)でコピペする。
売却と再開発
2004年、10年以上にわたって敷地全体の売却が試みられたが失敗に終わった後、建物の各ブロックは様々な用途のために個別に売却され始めた[1]。 2004年9月23日、ブロック6は入札者不明で62万5,000ユーロで落札された[1]。 2005年2月23日、旧ミュージアム・マイルのブロック3はInselbogen GmbHに売却され、同社は建物をホテルとして使用すると発表した。2006年10月、ブロック1とブロック2はProra Projektentwicklungs GmbHに売却された。しかし、ブロック1は2012年3月31日に競売にかけられ、ベルリンの投資家が275万ユーロで購入した。
2006年11月、連邦不動産庁がブロック5を購入した。連邦政府とメクレンブルク=フォアポンメルン州からの財政支援を受けて、この建物にユースホステルを設立する計画だった。複合施設の最北端に位置するこの建物は、5つの連続した部分に分割された。
2008年末、プロラが本来の目的を果たし、近代的な観光リゾートに生まれ変わる計画が承認された。同協議会は、3,000人が住めるだけの居住スペースとユースホステル、観光客向けのアメニティを建設する計画を打ち出した。地元議員のケルスティン・カスナー氏は、プロラの海岸を「カリブ海のビーチ」に例えた。しかし、この決定は、すでにこの地域には観光客が多すぎると感じていたビンツの地元住民や、プロラの歴史家であるハイケ・タゴルド氏からは懐疑的な意見もあり、また、町の過去の歴史から観光客には不適切な場所だとも言われた。とはいえ、2011年には、かねてから計画されていた96室402ベッドの大型ユースホステルがオープンし、ドイツ最大のユースホステルとして人気を博している。低予算志向の観光客に向けた施設の拡張の可能性も提案されている[8]。
2010年9月、ドイツとオーストリアの投資家グループにより、1号棟と2号棟を高齢者向け住宅として改修し、テニスコートとスイミングプール、小規模なショッピングセンターを備えた300ベッドのホテルを建設する計画が発表された。投資額は1億ユーロと見積もられている。
2013年、ドイツのメトロポール・マーケティング社がプロラを改装し、サマーハウスとして販売する権利を購入した[9]。その年までに、いわゆるコロッサスの改装済みアパートメントが1戸70万ユーロ(90万米ドル)で販売された[4]。2016年、ブロック1に新しいアパートの第一号がオープンした[10] ブロック2のホテル「プロラ・ソリテア」は2016年夏に合わせてオープンし、2017年半ばには同ブロックで再建されたアパートの一部が売りに出された。当時、建物のうち4棟は再開発の過程にあり、5棟目はユースホステルとして使用され、残りの3棟は廃墟のままであった[4][11][12]。
2017年11月の更新によれば、ブロック1のユニット(フラット)のほとんどは、ハンブルクやベルリンに住む人々のための夏の家として販売され、売却されていた[7]。多くの所有者は、Airbnb[13]やHomeAway[14]などのサイトに短期賃貸として掲載していた。
江戸時代に異世界から召喚されてそれいらい現代まであがめられているエルフと、
その神社の巫女をやってる女の子の日常ドタバタと下町の人々との交流とか江戸トリビア
アニメは一切みてない
アニメみるのたるいから、アニメかされてるならまず原作かコミカライズを読む人間なので
面白い面白くないという次元じゃないかもだけど、ちょこちょこギャグシーンみたいなのもあるしなあ・・・
それが面白くなかったから、まあ面白くなかったということになるだろう
何よりもつまらない要因として思ったのは、作者が計算して狙って書いてるように感じられのが透けて見えてしまう気がしたこと
そのせいで、おまえらこういうのがすきなんだろ?最近こういうのが受けてんだろ?みたいなのを作者が意図的にかいてる気がして、
作者自身のこだわりとか好き、みたいな感情が感じられない気がした
そのせいで常に構えて読んでしまって、常に白けてるような感じだった
とってつけたような江戸時代うんちくも特に教養になるというレベルじゃないし
そもそも江戸からずっと生きてきてるなら江戸時代だけじゃなくてもっといろいろあんだろと思う
もとの世界とかのこだわりとかホームシックみたいなのもないんかいと
実質軟禁じゃんみたいな
そこらへんの事情がほぼノータッチでスルーなのももやるってのもある
まあこっちの世界のほうが娯楽あるから居着いたとかその程度なのかもだけどさあ
まあこれはほのぼの系だからいいんだよといえばそうなのかもだけども
つねに目をかっぴらいててて黒目部分が全部みえるっていう真顔のシーンが多くてマジでこわい・・・
作者(もしくは編集)の計算高さ、恣意的なマンガづくりがすけてみえると感じてしまったらもうハマれない
そんなマンガでしたん
id:YokoChan バーテンダーさんの事をバーテンと言うと殴られるよ。バーテンさんも駄目。日本人で言うとジャパニーズとジャップくらい違う。
こういう人たちがいる一方で
id:toribard バーテンだけど奢られるの20人いたら1人くらいだから奢らない人が普通。(後略)
自分の肌感覚では、「バーテンダー→バーテン」は「サラリーマン→リーマン」くらいの感覚。
当人に対して面と向かって使うことは避けるが、それ以外の場所で総称として使うぶんにはセーフ、というレベル。
例に挙げたとおり自分で自分のことをバーテンと呼ぶ人いるくらいなのでジャップと同等はちょっと言い過ぎ感をおぼえる。まして、それに食って掛かるのはいかがなものかと。
実際にバーでバーテンダーに向かって「バーテン(呼び捨て)」とか「バーテンさん」と呼びかけてる人を見たことがあるかというとないし、そう呼ばれた瞬間に殴りかかるようなバーテンダーも、私の知る範囲ではおそらくいない。内心ムッとはするかもしれないが、これで手が出るような性格ではそもそもバーテンダーは勤まらないだろう。
語呂が悪くて縮めただけで蔑称認定になってしまうなら社労士(社会保険労務士)とかもNGじゃないかと思う。
そこで調べてみると、ネット上で「バーテン=侮蔑語」とする言説の大半は「教えてgoo」とそれを紹介するこの記事をベースにしているようだ。ジャップも同然と言っている上のブクマもおそらくこのコタツ記事(あるいはその孫引き)を見たのだろう。
https://www.sankei.com/article/20161119-T4CNGH433ZIZNOWVJ3CBXDLHOY/
ヤフー知恵袋やウィキペディアに載っているまことしやかな言説は眉唾だと知っていても、それが全国紙のサイトに転載されると鵜呑みにしちゃうんだから呑気なものだ。
いや、この記事にしたところで「略称を面と向かって使うのは失礼」くらいの常識的なことしか書いてないんだが、上のブクマカたちのような人々の目を通すとこれが「バーテン=侮蔑語」に変換されてしまう。まあ、わからないでもない。
よくある「ネットの知ったかぶりがバズッて通説化」してしまうやつだな。マナー講師が失礼クリエイターと呼ばれるのと同じプロセスで世の中に侮蔑語がひとつ増えたかたちだ。
根拠が聞きかじりの知識でも、人を攻撃する楽しさのほうが勝ってしまうんだよな。
この件の教訓は、
ではなく、
ウクライナでは体操着のことをСпортивний купальникと呼ぶ。ウクライナ語のкупальникはロシア語のКупальникと同じく、水着も意味する言葉だ。ロシア語とスペルは同じ。Спортивнийとはスポーツを意味する。
19世紀には、レオタードは、体操選手、強者、曲芸師などのサーカスでのみ使用されていました。原則として、その上にショートパンツまたはスカートが着用された(たとえば、パブロ・ピカソの絵画「舞踏会の少女」)
伸縮性のある生地がなかったソ連で、最初にニットレオタードで練習やリハーサルを始めたのはバレリーナのマヤ・プリセツカヤ。海外ツアー中に自分用に購入した。彼女は、 1973年にフランスの振付師ローラン・プティ(衣装デザイナーのイヴ・サンローラン)によって彼女のために上演されたバレエ「薔薇の死」で、伸縮性のあるレオタードをベースにした衣装を着てソビエトのバレエの舞台に初めて登場したそうである。
マヤ・プリセツカヤは先日の亜留間次郎さん(@aruma_zirou)に言及した記事で、レオタードを特注していた人のことだ。
一応通販でブルマを見つけたが、訳語の関係上ブルマか水着かはわからない。
(купальник、burumaで検索)
https://shafa.ua/women/nizhnee-bele-i-kupalniki/kupalniki/125510273-plavki-zhinochi-kupalni
https://shafa.ua/women/nizhnee-bele-i-kupalniki/kupalniki/125446756-trusiki-vid-kupalnika-batal
また、ソ連時代のものを画像検索しても、ロシアのものと資料が混ざっている。
所でグーグル検索って、言語設定を変えると検索結果が若干ぶれる。どういうアルゴリズムなのだろう?
今度はもう少しウクライナのブルマについて調べるか、エアロビの衣装についてかな。
https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%9A%D1%83%D0%BF%D0%B0%D0%BB%D1%8C%D0%BD%D0%B8%D0%BA_(%D1%81%D0%BF%D0%BE%D1%80%D1%82%D0%B8%D0%B2%D0%BD%D1%8B%D0%B9)
※ネタバレ
特に映画に詳しいわけでもないけれど、現代社会が舞台で肩ひじ張らない娯楽映画が好き。
ただ、そういう映画って何かのランキングとかに紹介されることもなく、だんだん忘れられてく感じなので、とりあえず3本くらい選んでみる。
自分の中でプロデューサーというとこの映画のダスティン・ホフマン演じるスタンリー・モッツ。傲慢で厚かましく側にいたら絶対うんざりするだろうけど仕事は進めてくれるだろうという信頼感はある。「That's Nothing!!」
なお、この映画、例のビル・クリントンとモニカ・ルインスキーの件が公になる前に封切られてる。映画の演出がフィクションを強調している(飛行機が落ちて無傷…)のも妙に迫力がある。
イスラムテロリストと戦わないといけないけど、そのために先軍政治になってしまってはダメだよね、という今なら不思議でも何でもない映画の製作が同時テロ前という。00年代の予習みたいな映画。
一部俳優が大物過ぎてひっくり返る(名演というか迷演というか…)。
当時クライムアクションという触れ込みだったけど、アクションではない…(ただ妙に盛り上がる)。サスペンスでもない。とんでもなく悪意たっぷりの視線でアメリカの田舎をこき下ろした映画。
今だったら、ポリコレ勢と保守派の両方から袋叩きにされること請け合い。インモラルさ半端ない。ただ、自分はこの映画で、神と銃とピックアップトラックのアメリカがあることを知ったのも確か。
数ある法廷映画でもこの映画が好きなのは、やはり相手役のキャラが立っているから。良い仕事には、良い環境が必要。昼休みに電話をかけてくるものは滅びるべし。
イギリス映画といえば「フル・モンティ」や「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」が有名ですが、これもじんわり心が温かくなる佳作。ヤクザの高齢化問題を先取り。バイオレンスで夜の生活もばっちり。
会社で、上司のやる気がないってイキってる若い人にやさしくなれる映画。
高校の科学教師って電話組み立てられるんだという驚き(ネタ)。1条件でどんどん場面を転がしていくのに舌を巻く。題名通り携帯電話使ったギミックが沢山。
ともあれ着信音がうるさい輩は万死に値する。
ごめんなさい。ファンタジー映画でした。でもファンタジー世界でも、人は業から逃れられぬのよね。
無垢っぽいキャラクターで話を作っているところが意地が悪くて好き。
女賞金稼ぎって異世界にしかいないんじゃないの?という良識ある皆様を裏切るノンフィクションベースの映画。やっぱり人質司法はよくないよねって思う…かな?
自分は最高にハイだったけど、LSDキメてんじゃないかというポケモンフラッシュ系の演出があるので注意。
ごめんなさい。これもファンタジー映画でした。ウィキペディアにそう書いてあるし。ファンタジー映画です。でも、あまりファンタジー好きの人に受ける気がしないな。
近所のお兄さんの頭の傷は、ロボトミーじゃなくて脳梁離断術というのをきちんと分かったうえで演出しているのが良いですね。
これもトニー・スコット監督だった。悪役のキャラが立つのはよい映画。フェアであればその結果破滅してもいいよねっていうビジネスの狂気。
自分もいろんな投資に手を出してきたので、ちょっとこの悪役の気持ちがわからんでもない。
皆様大好き、ウェブの片隅に現れる胸糞漫画の広告。それの決定版みたいな映画。手心一切なしスカッと復讐。
スーパーエンジニアの主人公がスーパーすぎてそこに痺れる憧れる?
頑張って2本探してみたけど、最後の一本は紹介してくれたらうれしい。
ブコメへお返事
原罪とか楽園とか聖書ワードで楽しむ物語として創ったんだとは思うけど、けなげな主人公はそれだけで応援したくなるよね。
法廷ものだと『ザ・ファーム 法律事務所』『ペリカン文書』『評決のとき』等々、90年代に数多く制作されたジョン・グリシャム原作作品が好きでよく観てたなあ。
3っていくつだっけ……
1、2、…たくさん
増田の例はあんまり社会派感感じなけど、社会派娯楽映画ならマイケルマンのインサイダーが好き。社会派抜きならヒートのが好きだけど
「ニュースの天才」ヘイデン・クリステンセンの闇堕ちが、スターウォーズ以外でも見られます。
エリン・ブロコビッチ好き。あと女神の見えざる手も
うん好き。ちょっと重いけどね。
映画は主にかっこいい俳優目当てで見るので、マーシャル・ローはブルース・ウィリス、ロンドン・ドッグスはレイ・ウィンストン、完全なる報復はジェラード・バトラー目当てで見た。完全なる報復はラストが超胸糞。
ラスト胸糞と思うのは筋が通っていてよい。クズを殺してすっきり、でもその後はやりすぎじゃね、で主人公を殺してすっきり、という定見のない観客をあてこする映画と思うので。
確かに1回しか見てない映画もあるし、歴史の試練に耐えるかというとそうではないだろうけど、たまに思い出す系映画。
soro_bea
@soro_bea
ウィキペディア「日本における同性愛」の8割「日本のGLBTの権利」の8割は私が書きました。「新宿2丁目」の8割、「ゲイビデオ」「◯◯場」等のほぼ全ても書きました。他にwikiのゲイ関連記事の多くを立項しました。ネット社会になる前は新聞10紙(在京6紙、日経流通、政党機関紙)総合月刊誌7,8冊を定期購読してました(笑)
返信先:@news_allabout
#窪田順生 甘い!末端社員、タレントも後輩被害見殺しにし、もみ消しに加担してきた共犯者。トップだけ代っても無意味。事務所解体しかない。他事務所への移籍もダメでタレントは芸能界引退だ。 ■ジャニーズ事務所は生き残れるのか? 危機管理のプロが考える3つの最低条件news.yahoo.co.jp/articles/48c53
https://twitter.com/soro_bea/status/1663286791296921602?s=20
益 どうして知っているのか
A 1に推定無罪原則がある、2に立証責任が検察にある(被告人は否認だけで済む)、3に裁判所に調査主義がなく二者対立主義(裁判官はどちら側の調査にも関与しない)、4に被告人が有罪を認めたら減刑する制度がない(そっちの司法取引制度がない)
調査主義?と調べたら日本語ウィキペディアで調査主義 inquisitorial system が弾劾主義と誤訳されていた
心の声:こりゃまた自民法○会の誤訳活動家か何かか、いいかげんにしろやと思わざるを得ない(誰だ) 日本人てどんだけ誤訳に騙されてるんだ? 日本語AI会話だったらどうなったんだろな?
ちな裁判所調査は日本でも出来ることにはなっているが、あのひとたちは調査しないのがデフォである(原本証拠調べすら省略したがる)
帝王切開の語源の項目を数年前に執筆した当人である、雑兵ウィキペディアンが通ります。
誰も悪くないって元増田は言ってるけど、これはイシドールスが悪いよ。
カエサルという語はユリウスに由来する。内戦が勃発するや、彼はローマの貴族として最高の地位を得た。他方で彼は死んだ母の切り取られた(caeso)胎内から引き出されたために、もしくは生まれつき豊かな髪(caesarie)を靡かせた子供だったために、カエサルとも呼ばれた。それ以来、彼の跡を継いだ皇帝たちもカエサルと呼ばれることになった。そして切り取られた子宮から取り出された者は、Caeso あるいは Caesar と呼ばれることになった。
カエサルが帝王切開で生まれたってのも嘘(というか、語源の因果関係が逆)だし、フッサフサだったってのも嘘。与太話すぎるっしょ。
イシドールスの『語源』は、数々の言葉の由来について、キリスト教世界でのソースになっていて、中世においては権威そのものだったんだが、ぶっちゃけ信頼性が低いということが最近わかってきた。
『語源』のおかげで、多くの古典時代の著作の記述が断片的に散逸を免れた一方、この著作が原著作よりも重んじられることが多かったために、原著作で散逸してしまったものが多いくらい。
私はいま大学で教えてるんだけど、レポート書かせたら「ウィキペディア調べ」ばっかりなの。史料批判どころか、一次史料に当たることなんて全然しない。
あんまりひどいから、私はレポート読んでからウィキペディアを直すボランティアをしている。
ちなみに、イシドールスはカトリック教会における「インターネット利用者およびプログラマー」の守護聖人でもある。おあとがよろしいようで。
食べ物の辛さは含まれるカプサイシンという物質の量に左右されるが、スコヴィル値はこのカプサイシンの量を表す。
最近の激辛ブームや、クイズブームでマイナーな専門用語がフィーチャーされることも多くなったので、聞いたことある人は多いと思う。
ではこのスコヴィル値はどのように決まっているのか気になった人はどれくらいいるだろう。
たとえば「この唐辛子はスコヴィル値100万!」とか言われても、何が100万なの?と思わないだろうか。
100人中99人は思わないだろうが、増田のような定義オタクは専門用語の定義が気になって仕方ないので調べてみた。
Wikipediaより:開発当初は、トウガラシのエキスの溶解物を複数(通常は5人)の被験者が辛味を感じなくなるまで砂糖水に溶かし、その倍率をスコヴィル値としていた。この測定方法では、カプサイシンをほとんど含まないピーマンのスコヴィル値は 0 とされ、一方、ハバネロのスコヴィル値は 30 万とされた。
これは最初の定義である。今ではもっと定量的に分析できるようだ。
が、具体的な定義は日本語版ウィキペディアや日本のサイトには書いてないため、英語版や論文を参考にした。
<方法>
1. どのご家庭にもあるHPLC(高速液体クロマトグラフィー。物質の中の化合物を測れる)を用意する
2. 図りたい唐辛子を乾燥させてアセトニトリル(どのご家庭にもある有機溶媒)に溶かす
3. カプサイシン+ジヒドロカプサイシンの量をHPLCで測る。純粋なカプサイシンも標準として測る。
4. キログラムあたりのカプサイシンミリグラムを出してppmHとする。
5. ppmHを15(なぜか16という話もある)倍するとスコヴィル値(SHU)が出る
つまり1万スコヴィルは666ppmH(1kg中に666mgのカプサイシン)、純粋なカプサイシンは1500万スコヴィルということだ。
世界一辛いグミ「Lil' Nitro」は900万らしいので、半分はカプサイシンである。本当か?
それにしても、各唐辛子農家やデスソース販売者がちゃんとスコヴィル値を出しているとは思えないので、結構みんな適当に自称しているようである。
ではこのドラゴンボールみたいなスコヴィル値インフレは純粋なカプサイシン=1500万が最高値かというと、そうではない。
普段から由来やどうでもいい知識を調べるのが好きなのだが、帝王切開の語源(由来)については何度も調べて分かった気になって2日後には忘れて再度調べる、というのをすでに8億回くらい繰り返している。それほどこの帝王切開という言葉の語源について複雑、かついろんな説が出回っており、その説すべてで「この説が正しい。他は間違い」というスタンスなのでわかりにくい事この上ないのである。
なので自分なりにわかりやすくまとめたものをここに置いておく。ソースはウィキペディアやどこかの医学系のサイトなど複数から取ってきて多数決を取った。同じ疑問を持つ人の目に止まれば幸いである。
これが本当に正しいかどうかは知らない。
Q 帝王切開(妊婦のお腹を切開して赤ちゃんを取り出す術式)ってなんで帝王っていうの?
A ざっくりこんな流れっぽい
①フランス語「opération césarienne」(切開する術式、的な意味でこう呼ぼう)
↓
②ラテン語「sectio caesarea」(切除して取り出す、的な意味。ここのcaesareaには帝王というニュアンスが無いことに注意。古代ローマのcaedere(切り取る)に由来。)
↓
③並行してcaesareaには「分家」という意味があり、これがカエサルさんが有名になったことで後世では「皇帝・帝王」という意味を持つことになる。同時に切り離す的なニュアンスが薄れていく※
↓
④ドイツ語「Kaiserschnitt」(Caesareaってなんや?皇帝?まあ適当に直訳すればええやろ。schnitt(切開)も付けとくか)
↓
⑤日本語「帝王切開」(Kaiserってついてるから帝王って意味やろな。直訳して帝王切開でええやろ)
Q つまり誰が悪いの?
A しいて言えば「意味を深く考えず直訳した適当な単語を作ったドイツと、それを勝手に単語をバラバラにして安易に直訳した日本」である。
でも"Kaiserschnitt"を訳せと言われたら"帝王切開"以外に訳しようがないのも事実。
一番の元凶はcaesareaが皇帝という意味を持ってしまったことである。これがすべてをややこしくしている。つまり誰も悪くない。
Q ドイツ人がcaesareaをKaiser(皇帝)に間違えたんじゃないの?
A 間違えたというよりcaesareaを訳せと言われたらKaiserとしか訳せなかったのであろう。
Q ドイツ語kaiserには「切り分ける」という意味もあるので日本が間違えたのでは?
Q 結局どういうこと?
A そもそも誰も「誤訳」や「間違い」なんてしていないのだ。歴史と言語に翻弄されただけである。彼らは忠実に訳していっただけ。
A これはめちゃくちゃデマ。
Q 帝王切開にはハサミを使うからシザー→シーザー、なのでは?
A これもめちゃくちゃデマ。
毎年6月24日や8月6日を不謹慎だ叫ぶ人々や、3月11日を「何らかの記念日だし普通の日とすべき」と書かれたアンサイクロペディア、これら全てに怒りを感じたので増田は何ならそういう日の幸福な側面を扱ってやるというリストを作りました
それがオールラッキーデイズ(All lucky days)です
今日は何の日か分かってるよナ
本番は翌日に発表するゼ
https://kai-you.net/article/83849
要約すると「タレントのファンネルになったオタクが記事を荒らしたけど、合意形成を図ったら方向性が一致したのでめでたしめでたし」という話からウィキペディアの既知の欠陥を発見してしまった。ウィキペディアオワタ。という記事。
新規アカウント(※1)で、ろくでもない内容とは言え、出典ある記述(※2)を丸々一節、無言で削除したらこの時点で荒らしと思われてる。差し戻しで妥当。削除は破壊的な行為なので加筆より厳しい目が向けられる。
差し戻されたのを再度編集すれば(編集合戦)、初期状態に差し戻されるのも納得できるはず。
「本人の希望で削除」は通らないので差し戻しされたのは、これはウィキペディアの理屈だから初見でわからなくても仕方ないけど、複数名ないしソックパペットで編集合戦(というか荒らし)を継続したら記事が保護されるのも当たり前。
「『本人の希望』での削除は通りません」という点以外はwikipediaに限らずスプレッドシートでもOSSでも同じだと思う。知らんけど。
初手でノートに投げていれば、通った可能性はあった(※3)でしょう。
繰り返しになるけど、突然削除するな編集合戦するなノートで合意形成しろとかはwikipedia入門編だし、wikipediaでなくても共同作業するなら普通じゃないかね。
逆に「ディストピア」にならないようにルールを排して議論を排して有象無象の書き放題無法地帯の方がいいのか。
違うっしょ。
引用されてる「コミュニティの問題」があるのはみんな知ってて、それでも最善を考えて今はこの形になってるわけでしょ。
この件のように編集に関わった「有象無象の流れ者」から参加者が増えていくことを期待するしかない。
つーかよ、「有象無象の流れ者」が議論に加わってんなら「ウィキホリックのディストピア」とは真逆じゃねーかよ。
それとさ、「ウィキホリックのディストピア」なんて引用元のようには始まらないよ。オタクが集まるところでは特に。
通常荒らしや編集合戦でもなければ制限できないのに少数者しか編集できず死ぬなんてことはない。
こんな普通のアイドルの記事を編集してるの大部分はwikipediaにはたいして興味なくてタレントには興味ある熱心なオタクだよ。見てるのもそう。
履歴調べてないけど「雨女」と書いたのも流れのドルオタでしょうよ。真っ当にwikipeってたらそんなこと書かないし、みかけたら削除を検討するよ(※4)。
日々追加されるタレントのエピソードトークやらなんやらほとんどは雑多で無用な記述・独自研究なんだけど、形だけでも出典があるともともと削除コストの方が高いのにそれが跳ね上がるから面倒なんだよ。これはたまたまご本尊から削除せよと下知があって方向が一致したけど、普通削除しようとすると「特筆すべき雨女なのは事実」「周囲も認めるB型なのは事実」「3回も共演しているのは事実」などと言った挙句「ウィキの理屈なんか知らない(俺の信じる)事実を書かせろ」などと主張する「流れ者」のファンとガチる可能性があるわけ。クソ面倒。
松井玲奈の記事も比較的ましだけどファンの熱意がランダムに書き足されて、松井玲奈が何者か誰かに伝えるような内容じゃないでしょ。
既にwikipediaの記事を書こうという人に比べて、wikipediaでファン活動しようって人・いつまでも「有象無象の流れ者」のままの人が多すぎんだよ。
「たどりうる道筋は二つある」じゃないのよ。流れ者が多すぎてとっくに押しつぶされている。
※その他雑多なツッコミ
「譲歩」じゃなくて無言削除は非推奨だし編集合戦はダメだし本人の意向は削除の理由にならないし記述するようなことでないなら記述しないというだけ。
「両者」の協議というのも変。
議論の容量がすごいみたいに書いてるけど、議論をすれば長くなるの当たり前だし、議論なくて決定だけある方がマシってこたないでしょ。
この件は論点は明確で類似の前例もあるし、さくっと状態確認して合意をとって終わっているので、たいした議論はしてない。
あとさー「Wikipediaの抱える構造的欠陥」とぶちあげてるのに、その構造的欠陥が既知でwikipediaに書いてあってそれを引用してるのは記事としてどうなの。
※1 記憶違いでなければ今はアカウント作ると「いきなりでかい編集するんじゃないよ細部から始めろよノートで合意とれよ」って注意があって投稿時にも言われるはず。
※2 削除された部分を見ると、雨エピソード雨女記事が出る度にリンク貼って「~のとき雨が降った」と書き連ねた働き者たちがいる。
※3 俺の松井は特筆すべき雨女だと主張する別のファンがいなければ。そして往々にしてそう言う人はいる。
※4 デスブログの件などを念頭に。今回の件は個人的には雨女言及記事がかなりあるようなのであってもいいように思う、問題化するとwikipediaが原因で記述する価値が大きくなってしまうのでバッサリはあり。