はてなキーワード: ウィキペディアとは
解説しよう。元増田が言うように「たかがかぶが、人間二人がかりでどうして抜けんのか」。
ウィキペディアによればあらすじはこうだ。
「おじいさんが一粒のかぶの種を植えた」
驚くべきことにおじいさんはたった一粒のかぶしか植えてないのだ。そんなことってあるか?
「おじいさんはかぶの種を一粒植えることのできる体力しか持たないのだ」と
それはつまり「おじいさんは実はすごくちっちゃいおじいさんだった」ということを意味する
これは昔ばなしだ。すごくちっちゃいおじいさんがいても何の不思議もない
謎はすべて解けた
例えば、架空の物質とか、架空の国家とか、架空の作家だとか、そういうこと。
ChatGPTは素直に、その架空の存在に対して長々と何らかの文章、それも、ちゃんと意味の通る文章を返してくる。
私はそれを読んで「ほほーっ、こんな物質があるんだな。素晴らしい物質だな」といった感じで、心から感心するのだけれど、
そのうちに、「そうだ。こんな物質は存在しないんだった。危ない危ない」と気づく瞬間が、なんか楽しい。
実際には存在しないとわかっているのに納得してしまう、という自分の心の動きが、なんか興味深く思えてしまうのだ。
頭では不存在をわかっているのに、心は納得を感じてしまうのが素朴に面白いのだ。
ちなみに、ChatGPTが「架空の○○」として出力する事項は、○○という事項についての抽象化、
つまり、私たちが「こういうことを書けば、○○ってぽいなぁ」というイメージを書き連ねたものなのだと思う。
だから、その出力自体は全くの架空であったとしても、○○に対する概念自体を身につけるには良い手段ではないかと思ったりはする。
(それは、本やWEB(ウィキペディアなど)で学んでもいいのだろうが、それらの記述は事実によって制約されている。
例えば、本質的でない事実で記述が迂遠になることもあるだろう。だから、架空化することで、逆にその本質が見えやすくなることはあり得ると思う。)
Cloudberry Jamのウィキペディア・スウェーデン語版→「グループは輸出で成功を収めた(日本で10万枚以上のアルバムを売り上げた)にもかかわらず、国内で大ブレイクすることはなかった」(DeepL訳)
12時から映画が始まるのでめずらしく11時以前にベットから起き上がり、準備をする。
ぎりぎり5分前に到着することができた。奇想天外映画祭2023の上映作品の1つだった子供たちをよろしくを観る。
この作品は、当時全米一暮らしやすいと言われていたシアトルに集まってくるストリートチルドレンの生活を撮ったドキュメンタリー映画である。フィルム撮影のどこかぼんやりとしたあたたかい質感やシアトルの賑やかな雑踏によって生まれた浮世離れした空気感のなか、ストリートチルドレンの常に死と隣り合わせの過酷な現実とそんな暮らしの中でも彼らの一抹の輝かしい青春を映し出した作品だった。どの子供達も家庭に居場所がなく街に流れてきて、同じような背景を持った者同士集まり、物乞い、売春、ドラックディーラー、ゴミ漁りで生計を立てていた。そういった生活を送っているせいか、女の子は特にスレた雰囲気を醸し出し、世を見る沈んだ目は中学生には見えないが、何気ない言動や行動、笑っている姿はやっぱり年相応で、どうかこの子供達が安住の地にたどり着いてほしいと願わずにはいられなかった。タイニーという痩せた14歳の女の子が売春で留置場に捕まった時、アルコール依存症の母親は施設に入っており面会に来れず、来てくれた好きな男の子がフロリダへ旅立つと知った彼女の噛み締めるように泣いた顔、同じく留置所に入ったが父親は逮捕されていて会いに来れず、ただ一人きてくれたのは児童指導員だけでその後自殺してしまった17歳の男の子。彼らの抱える深い孤独。観終わった後、暗い気分になる。
帰宅後、英語版ウィキペディアを読むとなんと子供達のその後が簡単に書いてあった。売春婦のまま殺されてしまったり、喧嘩の最中刺されてそ致命傷となったり、AIDSで亡くなったりと20代のうちに命を落とすものもいれば、生き延びて親となった者もいた。80年代の作品ではあるが、どの国・時代にも彼らのような子供たちはいるのだろう。私が育った田舎町では、家庭環境が良くなかった子は中卒のまま街へ流れていくケースが多い。小学校の同級生で一人いるが、元気にやっているだろうか。
それくらいウィキペディアを見ればええやろ
GP(ジーピー) ゲームはふれあいというボードゲームシリーズがある。
見ているとリバーシのようなゲームからどうもオリジナルのようなゲームもある。
このオリジナルらしいゲームはどのように遊ぶのだろうか。駒や動物が配置されてサイコロが付いているシンプルなゲームのようだが。
買ってみて説明書を読んだ。
一見オリジナルゲームのように思ってしまったが私が知らなかっただけでこれは昔からあるゲーム。
ライオン役一名と、ネズミ役二名か三名必要。ルール補足の紙が入っているがこの補足は日本語のみ。
ネズミはサイコロで緑マスを自由に動く。ライオンはライオンサイコロでオレンジマスを動く。
ネズミはライオンの近くまで移動するがライオンの隣に移動すると、ネズミはライオンによりスタート地点に戻される。
ライオンはライオンサイコロのバツが出たとき漁師の網に捕らえられる。(真ん中の黄色い穴に入れる)
捕らえられたライオンのいる穴にネズミが移動した場合ネズミがライオンを救出しそのプレイヤーの勝利。
ハシゴはハシゴのあるマスにぴったり止まったら上の段に移動する。
池は3以上の目で飛び越える。池はオレンジの窪みの事らしい。
他のプレイヤーを飛び越えた(追い越した)場合は飛び越えられた(追い越された)プレイヤーが下の段に下がる。
他のプレイヤーと同じマスに止まったら前からそのマスにプレイヤーは1マス後退する。
※ちなみにこのゲームはパンダ人形はなくても良いのではないだろうか?
ルールが力作。入っているものが結構細かい。コマにシールを張るなど事前準備が必要。
プレイヤーはキーパー1個と、他の選手4個の、計5個の駒を持つ。その他、ゴールポスト駒を1個持つ。
シールがどれをどう貼るか迷った。
準備
ゴールポストに1枚
上にある選手5、6,9,10はその下にあるシルエットにそれぞれ対応する。
つまりシールは下記のようになる。【】無しはシールに数字の記載あり、【】有はシールに数字の記載なし。
青5 青6 青9 青10 【赤5】【赤6】【赤9】【赤10】ボール
【青5】【青6】【青9】【青10】 ゴール ゴール
【青キ1】青キ1【赤キ1】赤キ1 赤5,赤6,赤9,赤10
まず先攻と後攻を決める
残りの選手は自分の陣地の好きな位置へそれぞれ配置する(攻撃側は3個、守備側は4個)。
キーパーも攻撃に参加できるがゴールキーパーマスより移動した場合はシュートされやすくなる(後述)。
〇なら成功。ボールを持っている選手とボールコマを一緒に1マスまたは2マス移動する。
×なら失敗。ボールを持っている選手に一番近い守備側選手にボールが移動する(つまりボールは相手チーム選手が持つことになる)。
〇なら成功。味方一人を選び、そのマスにボールコマを移動する、
パスする先はどれだけ離れていてもよい。
×なら失敗。ボールを持っている選手に一番近い守備側選手にボールが移動する(つまりボールは相手チーム選手が持つことになる)。
(2)ドリブルやパスの後で攻撃側プレーヤー(今ドリブルかパスを行ったプレーヤーと思われる)はボールを持っていない選手を
1マスずつ動かすことが出来る。選手を移動させなくても良い。
※ドリブルやパスでボールが移動するが、移動後のボールで考えるものとする様子。またボールを持っていない全選手の様子
(3)守備側が選手コマを1マスずつ移動させることが出来る。移動させなくても良い。
(4)守備側が選手コマを移動させ終わったら、攻撃側が成功している限り再びパスかドリブルを行う。
※簡単に言うとこのような流れらしい
↓
↓
↓
↓
↓
↓
上記のパス・ドリブル(1)が成功(〇)の場合は同じプレーヤーが再びパス・ドリブルの実行(1)
上記のパス・ドリブル(1)が失敗(×)の場合は違うプレーヤーがパス・ドリブルの実行(1)
移動(2)(3)は恐らく、パス・ドリブルが失敗して攻撃側が変わっても最初の攻撃側が先に移動するのではないだろうか?
相手チームのシュートマス(水色)にボールを持った選手がいる場合はパス・ドリブルの代わりにシュートを行う。
(1)攻撃側選手が選手サイコロ(パス・ドリブルのものと同じ)を振る。
ボールを持つ選手の近くに相手チーム選手がいる場合…2回サイコロを振り〇を2回出さなければいけない。×が出たらシュート失敗。
ボールを持つ選手の近くに相手チーム選手がいない場合…1回サイコロを振り〇を1回出さなければいけない。×が出たらシュート失敗。
(2)守備側はシュートに対してゴールキーパーさいころを振る。
ボールを胸で受け止めている絵が出た…守備側がシュートをブロックした。攻撃側の得点にならない。
ボールを受け止められずキーパー頭上を通過する絵が出た…守備側がシュートをブロック出来なかった。攻撃側の得点になる。
守備側のキーパーがキーパーマスにいない場合はゴールキーパーさいころを振ることが出来ず、
※キーパーがキーパーマスにいない場合とは、キーパーを攻撃に参加させ移動した場合。
シュート失敗またはシュートがブロックされた場合(つまりシュートで攻撃側が得点出来なかった場合)は、
ネタバレ注意!
この物語の基本的な原理は次の通りだ。「宇宙の資源は有限である。しかしすべての文明は成長し・生き残りたい。よって、自分が生き残るためには相手を皆殺しにしていい。さもなくば相手に殺される」。そこから出てくる結論は「相手の位置がわかったら即座に抹殺するのが最適解」。「相手と対等の立場に立って交渉するには、いつでも相手の文明の座標を全宇宙に晒す装置を作ればいい」。
これが適用されるのは地球人対エイリアン・三体人だけではない。宇宙戦争ののち、孤立した地球人の宇宙船同士も相互不信に陥り、突然殺し合いを始める。この原理原則に例外はない。
どうしても攻撃したくなければ、相手の脅威にならないと示すため、限定された空間の中に引きこもるしかない。
エイリアンのたった一つの水滴という兵器に、地球の最強の兵器であってもまったく歯が立たない。あるいは、エイリアンが数百年の偽りの平和ののち、地球人を何の共感もなくジェノサイドする・餓死させることを宣告する場面。主要なキャラであっても容赦なく殺してしまう命の軽さ。無意味に死んでいく人々。愛し合うカップルであっても、異なる早さの時間に引き裂かれる。この絶望感こそが本作の醍醐味だ。
さらに、地球人の文明が通りすがりの三体人とは別のエイリアンの作った名刺大の兵器で、三次元から二次元の物理世界に落とされて再起不能になるまで破壊されるシーン、これは最も美しく壮絶な太陽系・人類滅亡の場面だ。これを読むためだけに「三体」を買うだけの値打ちがある。
それだけではない、現在の宇宙が四次元時空で光速が有限なのも、本来は十次元で光速無限だった世界が、宇宙戦争で使われた次元兵器による「堕落」の結果だと示唆される。感動的なまでの悲観主義!
宇宙戦艦、超兵器、エイリアン、コールドスリープ、超構造体(メガストラクチャー)、ネトゲなど、絵になる風景ばかりだ。確かにSF的モチーフを大量に詰め込むと粗削りになりがちなので、作品によっては一つに絞ったほうがいいと思うこともあるんだけど、これはいい。
これは欧米のSFではほとんど見られない。中国が扱われるとしたら古代文明の謎であるとか、悪の共産主義陣営とかで出てくることが多いので、まず中国が舞台であるというのが新鮮だ。始皇帝とか荊軻とかいう名前が出てくるだけでもうれしい。中国から見た日本文化ってのも、なかなか見られないから楽しい(ケン・リュウも書いているけどね。あと、中国人からしても日本と言えばカミカゼと忍者と茶道なのね。あとは雀魂とか)。
関係ないけど、英語版のウィキペディアは概して日本よりも記事が多いし細かいことが書いてあるが、中国の歴史については日本語版のほうに一日の長があることもある。
あと、文化大革命が背景になる中国の小説とか映画とかって、面白いのが多い。
クラークとか小松左京とかじゃないとやらないくらいの発想がぽんぽん出てくるのが素晴らしい。
SFはリアルさを求めて、技術革命とそれによる社会の変化を描くこともあるし、現実の社会問題に肉薄することもある。雑食の僕はそれはそれで面白くて大好きなんだけど、定期的にSFのルーツにある「人類の、そして宇宙の終局的な運命とは」「不可解なるエイリアンとの出会い」みたいなテーマの作品をどうしても読みたくなる。
第一部でエイリアンの軍勢を地球に呼び寄せてしまうのは人類に絶望した女性科学者・葉文潔だ。「いっそ愚かな私たちを滅ぼしてくれ」と宣言してしまう。第二部ではエイリアンに対抗するために地球の資源を使い放題にしていいと許可された「面壁者」羅輯が、どうすればいいかわからずに、かわいいだけの理想の妻を求める(一緒に問題を考えるパートナーではない!)。さらに、第三部ではエイリアンと和解した人類が、数百年の平和を経て穏やかになっており、「日本や韓国のアイドルのように」「女性化」していると描写される(前に「原神」のキャラとか”男らしくない”俳優とか実際に規制されてたよね)。
そして、コールドスリープから目覚めた主人公の女性・程心もエイリアンの文明を破壊するための報復装置を、弱気さから起動し損なう(これがさっき述べたエイリアンによる人類のジェノサイド宣言につながる)。
同時にコールドスリープしていた軍人は「この社会はもっと雄々しくあるべきだ」という趣旨のマッチョなことを述べる。2010年のSFだけどこれでいいのか。このシリーズを普通に面白いと褒めていいのかオバマさん。僕はジェンダー意識がかなり保守的なほうだと自覚してるけど、これはちょっと弁護できないな(というかこれだけ女性の扱いが悪いと、作者には過去につらいことがあったのか? って心配になる ※1)。
さらに、第三部の主人公・程心は、使者として脳だけになってエイリアン文明に入り込んだ恋人・雲天明が、エイリアン文明の中枢から伝えてきた、人類文明を救うための暗号化されたメッセージを解読し損ない、これも人類滅亡の遠因となる。
つまり人類の滅亡の契機は、ほぼすべて女性に起因している(いずれエイリアンに見つかっただろうけれども、直接の契機は女性)。寡聞にして、この点を検討している評論を見かけていないけれど、ググればどっかにあると思う。
三部作全部ドラマ化するとしたら、この辺テコ入れされるんじゃないかな。
※1 同じ心配をしているのが「たんぽぽ娘」のロバート・F・ヤングで、若くてかわいらしい女の子といちゃつく小説がやたらと多い一方で、「ジョナサンと宇宙クジラ」では年上の女性たちや・女性の上司に日常的に暴力を振るわれている描写がある。成熟した女性に対する嫌悪と恐れを読み取ってしまうのは、気のせいだろうか。
エイリアンとの戦争に勝つためにはどうすればいいかと軍人が議論する中で「エイリアンに負けるかもしれないという精神的敗北者を追放する」「エイリアンのシンパ・スパイを排除する」という結論が出てくるの、なんというか現実の中国共産党の発想なんだけど、エイリアンに対してこういう態度を取るのは欧米だと冷戦時代のSFが多い(この前のホーガンとかね。でもホーガンは「未来からのホットライン」が面白いよ。「シン・エヴァ」の元ネタだし)。なんというか、「三体」が悪いというより、中国政府がいまだにスパイ大作戦な冷戦の世界観で世界を見ているという感覚が生々しく伝わってきて幾分げんなりする。マジで共産党が「最善の防御は皆殺し」とか考えていませんよーに。さっきの女性の扱いと含めて、数十年前のSFを読んでいる気分になってしまった。
第一部からエイリアンの超粒子で地球文明が監視されて物理学の発展が阻害されるんだけど、これも敵のスパイに見られているという被害妄想的な感じがする。
深読みすれば、共産党に監視されている国民の恐怖・心象風景なのかもしれないけどね。
SFってのはある程度ブラフが必要で、トンチキな場面も出てくるんだけど(それをどうやって読者に悟らせないかが仮定の文学であるSFのテクニック)、たとえば第一部で地球文明を隅々まで監視できるだけの技術文明を、地球のナノワイヤで倒せるってのは、ちょっと無理があるんじゃないか?(追記。せめて向こうでナノテクが発展していないエクスキューズがほしいよね)
人類に対して敵意を持っている宇宙の中での、人類の行く末について最後まで描き切った蛮勇がとても好き。三部作の壮大さのおかげで、隠せない欠陥にもかかわらずこの作品を気に入ってしまっている。第一部よりも第二部、第三部の順で面白くなっているのもいい。自分の中では★二つから★四つ半くらいまで評価が上がっていった。作家として器が大きくなったって感じたよ。
ラストの逃避にも似た、小さな農園を備えた小宇宙も、中国の伝統的美意識・神仙思想・隠遁に繋がっていていい。美意識が共有できると嬉しいよね。
全体として思ったのは「これって炒飯とラーメンと餃子の特盛セットじゃん」ってことだった。みんながSFと聞いて思いつくネタをがっつり取り込んでいる。読んだSFの冊数が増えると、青椒肉絲とか麻婆豆腐とか黒酢酢豚とか、燕のスープとかフカヒレとかいろいろあるのがわかってくるし、全部乗せを馬鹿にしたくなる気持ちも出てくるけど、なんだかんだで小さい頃に食べた大味な全部セットが無性に食べたい日もある。
時々どうしても受け入れられない価値観に出会うこともあるけれど、なぜそう考えるようになったのか? なぜ自分は不快と感じるのか? と考えると、共感的に理解できるかもしれない。少なくとも自分の価値観があぶり出される。
過去は批判し、そのうえで現代をよりよくしていこうと思うが、だからといって過去を見くだしたいとは思わない。好きなところ、好きになれないところ、両方を検討するのは楽しい作業だ。
本を読んだときはたった一つの気に入った言葉があればいい。映画を観たときは一つでも好きな場面を見つけられたら良しとする。美術展に出かけたら、一枚だけでも気に入った絵があれば外に出た甲斐がある。
こうして欠点もあるけれども面白かった作品について書いてみて、「もういいや」って思ってた外伝にも、手を出したくなってきた。
それではまた。
「三体」人気すごいなあ。久しぶりにバズったよ。
これは外国文学を読むときの鬼門で、自分は三国志にゲームとか小説とかで親しんでたからなんとかなったけど、そうでないとしんどいかも。
おすすめのロシア文学もなかなか読んでもらえないのもこの辺りに理由がある。
基本的にはメモしたり声に出したりしてその国の言葉のリズムに慣れるのがおすすめ。マニアになってくるとジョンとヨハネとイワンが同じ起源だとか気にし出すけど、これが通用するのはアラブ世界までだしね。
SFじゃないのも含むけど、
必読書コピペにマジレスしてみる・自分のオススメ41冊編(1)
必読書コピペにマジレスしてみる・やっぱりオススメの21冊編 (1)
あとは、
これはちょっと思った。原初のSFにある奔放な想像力、よくそんなネタ思いついたな! みたいなのがたくさんあるのが「三体」のいいところ。
で、それがモヤモヤする理由でもある。SFが洗練されてくると科学的正確さとか政治性とかを無視するわけにはいかなくなる。自分と異なった属性に対して誤った知識が広まらないよう、表現にルールがあるのは大切だと信じる一方、気持ちの面では想像力が羽ばたくのを少しも邪魔されたくない自分もいる。だから、反発する人の気持ちもわかる。
なので、正確性とかに気をつかったSFに慣れた身からすると「こんな粗削りでもウケるんだ! 売れるんだ!」という意外さと、先を越された悔しさがある。だから、元増田みたいにSFの外にまで広がった作品を「センスがない」とディスりたくなるのかも。
でも、僕も最初はそういう作品から読み始めたわけだし、重箱の隅をつつくような外れ値の古参よりも、作品を買ってくれる新しいファンがどんどん増えたほうがジャンルは育っていくし、若いファンは「にわか」呼ばわりするのを恐れずどしどし読んでほしい。
そういえば第三部でアボリジニのおっちゃんが出てくるけど、欧米の作品だったらもっと白人文化に対して批判的だっただろうし、なんだったら三体人に押さえつけられるときにももっと痛烈な言葉をはかせていただろうな。より強い文明と出会ったことによる悲劇のメタファーとしては扱いが若干雑だ。
以上。
ひにん
非人は、主に、 日本中世の特定職能民・芸能民の呼称であり、次第に被差別民の呼称となる。 江戸時代の賎民身分の呼称である。 いわゆる士農工商には属さないが、公家や医師や神人等と同様にあくまでも身分制度上の身分とされ、人別帳の枠内にある。 ウィキペディア
自分が日本とイギリスのブルマーについて調査してからすでに3年以上が経過したが、自分の興味関心というか性癖がほぼぶれていないのには笑ってしまう。pixivのお気に入りを見返してもそれは同様だ。ブルマ、CFNM、CMNF、混浴、ヌーディズム、野外露出と、十年単位で一貫している。
このうちの野外露出、野外で裸になりたい衝動は継続していて、合法的に実現するために混浴サウナだとかヌーディストビーチを訪れている。裸になって海で泳いだときには、もうこれだけ裸になりまくったのだからもう飽きただろうと思ったのだが、どうもそうでもないらしい。
困ったもんだ。
ブルマー姿の女の子といちゃつきたい願望もあり、かなり願望の再現度が高いプレイを5年以上前にイメクラだったかM性感だったかでしたことがある。その時は先に脱がされてCFNM願望も叶えた。そのときの記録をネットのどこかに放り投げたのだが、それは消えてしまっている。書き直してもいいのだが、増田に書いたところでしょうがないだろうと自分にツッコミを入れたい気分だ。
また行けばいいのではという意見もあるだろうが、風俗には飽きている。嬢は皆親切だったが、もう十分に楽しんだ。
先ほどヌーディストビーチに行ったと書いた。
実はこの夏、地中海をあちこちうろついていた。その際に、現地のへそ出しファッションをいろいろと見た。シャツが短い物、ほとんどブラトップのもの、へそだけ露出しているもの、前だけを覆って背中は紐だけ(びんぼっちゃまみたいなスタイル)、さまざまだ。同じへそ出しと言っても色々ある。他にも、レオタードの下にズボンをはいて腰の部分の素肌が見えている格好の人も見かけた(アニメ版攻殻機動隊の少佐みたいなスタイル)。
面白いのはモデル体型どころか、ふくよかであってもためらわずに着ている点だ。良い意味で、日本よりも人の目を気にしていない。
確かに欧州のリゾートはおばあちゃんでもビキニを着るし、トップレスも多い。
教会であってもへそ出しで入ってくる人は多い。一応ドレスコードが看板に書かれており、男性でもノースリーブはやめてくれとガイドラインがあるのだが、観光客はほとんど気にしていない。
これが地中海のむこう側のイスラム圏になると、異教徒の女性にはモスクの中でまとうスカーフを貸してくれる。短パンの男性も腰に布を巻かないと入れない。
好きなものを着るファッションの自由・権利と、伝統への敬意との衝突を目の当たりにしたわけだ。
地中海を越えてイスラム圏から出たときには、その温度差に風邪をひきそうになった。
そのへそ出しファッションについてだが、英語版のウィキペディアにMidriffとして記事がある。他にも西洋やインドの文化でのへその立ち位置を詳述した記事もある。ここから抜粋して記事を書こうとも思ったのだが、なんだか面倒くさくなっている。どうせウィキペディアを訳すだけなら、個人的に斜め読みをすればいいのだし、なんだったら自動翻訳にかけたっていい。まとめる必要もない。
同じ理由で、トップレスとか世界の文化における全裸・女性器についても記事を書きあぐねている。
ウィキペディアから訳すだけなら各自で読んでもらえればいいし、それで閲覧数やブクマを稼ぐのも馬鹿馬鹿しい。何か新しい知見が欲しい。
例えばクレオパトラはカエサルと対面したときはトップレスだったのか。そんなことも調べたい。しかし、この辺はハリウッド映画によりつくられたイメージも強く、画像検索も難しい。そもそもプルタルコスの時点で裸のまま袋だか絨毯だかに入って寝床に忍び込んだという話があるが、実際当時のエジプトの服はどうだったんだ。
面倒くさいなと思う理由は他にもある。
あれだけブルマーに関する記事がバズっても、ネットの世界ではほぼ常に日本でのブルマーについての議論が中心で、自分が提起した 「学校体育でのブルマーは日本のみならず、英連邦・共産圏でも見られた」という主張はそれほど広まらなかったからだ。
ネットの議論など、結局は自分がどういう経験をして嬉しかったとか腹が立ったとかの感情が中心なのだから、当たり前といえば当たり前であろうが、一つの事実が広まらないのは幾分残念であった。
増田から外部のSNS・ネット文化圏に広がるには、全く別の内容で達成したように、1000以上のブクマが必要なんだろう。
はてな匿名ダイアリーというのが辺境のサービスだということなのかもしれないが、増田全体に特に広がった様子もない。あるいは僕も含めて読者は忘れっぽいのか。
それにブルマーについてのフェチは薄れなくても、それについて書く情熱は薄れつつある。情念が薄れたせいか、全く関係のない記事もバズりにくくなった。
不思議の国のアリスは言うまでもなく
そうしてアリスに寄贈された「地下の国のアリス」は加筆修正されたのち
ルイス・キャロルの本名はチャールズ・ラトウィッジ・ドジソン。
ウィキペディアでは彼のことを
として解説している。
撮影し続けている。
それは彼が存命中に破棄されたか寄贈されたかして数枚が現代に残るのみである。
このような事跡から、彼はときに小児愛者であると断罪されるのだが、それが真実であるとは断定することはできない。
それがどうあれ、彼とアリスの交流がなければ「不思議の国のアリス」という児童文学史上の画期なった作品は生まれなかったことは事実である。