はてなキーワード: ポテンシャルとは
これはマジ。
当方30手前のおばさんだが本当にそう。
(その為寂しさだとかよりも、誰かと共に何かをすることの煩わしさが勝るようになってしまう)
②結婚に夢を持てなくなる
(年齢を重ねるに比例し、異性との交際経験が増えるためそうした結婚生活だとか異性へ対する一種の良い意味での幻想・ドリ〜ム・期待が薄れる)
③キャリアを中断するのが恐怖
(自分の出産育児におけるポテンシャル等が未知数なため、復帰できるか、また復帰した後のキャリアが不安でたまらん。同じ様に働けたらいいのだが)
上記のように年を取ると屁理屈をこねるようになっていけないというのもある。物を知るとどうにも目の前の課題から逃げたくなるものだ。まあ、私だけかもしれんが。
これを打破し結婚するか〜に至った理由は次の一点です。参考までにドゾ。
①子どもが欲しい
(キャリア中断の不安と、出産可能年齢等諸々考え天秤に掛けた結果、前者が勝った。生き物としての性なのだろうか)
やっぱりそれかよ〜〜〜!と思った皆さん。石を投げないでください。本当にすみません。だって可愛いじゃん子ども。ビビっててもしようがないので、やるしかねえ!と腹くくった次第です。共同親権とか暗雲立ち込めつつあるけど、分かりもしない先の事にずっと怯えていてもしようがないので。せめてそういう事に触れずになんとか生活できるようやっていきたいなと思ってます。家族は仲が良い方がいいだろうしね。
ただ、最初にも戻るけど私的にはもう少し早めに腹決めて結婚出来てたら良かったのかなとは思う。出産育児にあたっての身体への負荷とか、パートナーとの新鮮味とか。色々考えて後悔しているおばさんからのぼやきでした。
伏字だから検索引っかからないしいいでしょ?って感じなのかな。いや全然誰のこと言ってるのか丸わかりなんだけど。本気で界隈外にはわからないと思ってやってるんだとしたらアホすぎる。し、バレてもいいと思ってるならなぜ伏字にするのか。なんなら普通に写真とか使ってるよね?(伏字の意味無)
発言内容も本当に酷い。書いてる内容は誹謗中傷どストレート。百歩譲って鍵垢で身内だけでやるとかヲチスレに行ってくれればいいのに、(それもアカン)こんなのXに垂れ流しにしたって誰も幸せにならないだろ。表に出ていい存在じゃない。伏字界隈のポスト、界隈外にもすげー流れてくるのよ。なんなら公式とかオタクの発信より先に伏字界隈のポストでそのメンバーを知ったって人もいるくらい。そんなに多くに人の目に触れてるわけだから、本人に届くリスクも訴訟リスクもそれなりだと思うのですが……
やっぱり客観視できない感じの人が多いのかな。自分の発言がどれだけの人に届いているのか、本人にも届いてるかも…とかそういうのが実感としてないのかもしれない。発言内容だって、自分では正当な批判だと思っているのかもな。そうじゃなきゃあんな堂々としていられるか?
伏字界隈は害でしかないとは思うけど、なんか可哀想にも思えてくる。嫌いなメンバーがいるグループでも必死に追いかけ回すほどアイドルが好きなくせに、自分自身はアイドルになるほどのポテンシャルなくて、それなのになんであいつが…みたいなのがちょっと透けて見えるというか。多感な年頃なんだろうな。(これでいい大人だったらマジで引く)顔面コンプレックスとか同族嫌悪みたいなのも感じて本当に哀れに思う。私も中学生の頃はインキャブスだったから、こういうところが癪に障るんだなっていうポイントはわかっちゃうんだよね。
フォロワーが増えて、マロがたくさんくると自分も人気者になった気がして気持ちいいのかな。そうだとしたらまあ鍵垢じゃなくてわざわざ公開垢でやってることも辻褄が合う気はする。
しかし、誹謗中傷で承認欲求満たすのは不健全すぎるということにはやく気がついてほしい。まあ彼らは客観視出来ないようだから無理かもしれない。一回開示請求でもされてみたら反省するのかな〜
それ燃料のエネルギー密度だよね。それが電力供給に何の関係があるんだ?
むしろ、例の北海道大停電以降、集中型で密結合の送電網は大規模停電時の復旧に難があるため、疎結合で分散型の電源に移行する施策がとられてるんだぜ。
ちなみに経済産業省が試算した保守的なシナリオでも、日本の太陽光発電の導入可能量(ポテンシャル)は、日本のピーク時、総必要発電出力に対して4倍以上、
いわゆる地面に設置するメガソーラーを除いた、建物の屋根などだけに限っても3倍近くある。
もちろんこれは最大出力だから、実効出力に変えていくともっと落ちる事になる。だから蓄電池が必要で、そのためのV2Hの実用化と高度なスマグリが必要になるという議論がある訳よ。
さらに風力や既存水力発電ダムの増強、地熱発電の開発なども続々と控えている。これらは燃料のエネルギー密度は低いが、得られるエネルギーはものすごい量になる。
エネルギー密度が問題になるのは、自動車などモビリティ(移動性の装置)な。同じ体積・重さでどれぐらいエネルギーを持ち運べるかが勝負になる分野。
バッテリーでは物理的に限界が来ると考えて、水素社会を指向して色々な所が研究をやってるわけよ。
その重要性を理解しているイーロンマスクが、いつものように商売のためにポジショントークして馬鹿にしてみせたわけだけど、それを真に受けている人が多すぎ。化石燃料に変わる「燃料」は水素系しかないというのに。
就活の早期化、なぜ起こり始めたのだろう。
本当に良い迷惑だ。
早期化することで大学の研究が意味をなくしつつあるのではないかと感じる。
研究が内定先の業務と結びつくなんてことはほとんどない。なので大学生活は修論(卒論)が書ければ十分である。そこに優劣はない。
仮に研究をちゃんと行ったとして、就活の「勉強」ができなければ行きたいと思った場所に行けない可能性がある。
なぜなら、数多くの日本企業様にとって研究の成果よりも「人柄」の方が大事だからだ。
将来を最適化しようとすると、「成果」と「人柄」をよくする方がよい。
実際周りの人を見ていても、いかにして手を抜いて研究をしようかという風潮が見受けられる。
「研究を就活のモチベにするのはいかがなものか」という意見もあるかもしれないが、モチベがないよりもマシであるし、大学生活に意義ができるから良いことではないのか。
モチベがあることで研究をやり、面白さを見出す人がいるかもしれない。
少なくともバイトリーダーをしたことを鼻高々に自慢しあっているようなクソキモ異常光景よりはマシだろう。お前どうして大学いってんだ?ってことを聞けよ。
もちろん、「勉強」より研究が大事だという雰囲気を感じるような企業はある。私にとってそういったところの面接は非常にやりやすい。
しかしそのような会社に行ける保証はない。そのため多くの学生にとっては行けないと仮定した上で生活した方が合理的だ。
大学での成果が全てではないという意見や、人とのコミュニケーションが大事だという意見には同意する。
そしてこのような面接が完全に機能しそうだと思われる業界もあるとは思う(営業とかまあねこういうの求められてそう)
しかし全体として、この「勉強」は本当に日本企業にとって理想的な流れなのだろうか。
ダイイチシボウデス‼️と言えることが人柄として優れている証なのか?
「嘘も方便、こんな簡単なことも言えない人はどこか問題がある」というが、問題があるのはこんな茶番をやってしまうあなたたちではないのか?
人事とかいう専門のかけらもないやつに評価される就職。なにがポテンシャル採用だ。お前のいう「ポテンシャル」はどういう意味なんだよ。
一体大学生活とはなんだったのだろうか。コロナで途中から友達数のグラフ横ばいだしよ
こっちはまだほとんどオンラインでやってんだよ。研究室同期とか合わねえのにどう思われているかとか知るかよばーか
学部生だとしても大学生相手に就活させてんだから、面白かった授業とか、最近読んだ本とか土日やったこととかそういうの聞けば良いんじゃないの?
ChatGPT
はい、「才能の民主化」という表現は、翻訳、お絵描き、プログラミングなど特定のスキルが特権階級や特定の才能を持つ人々に限定されていた時代から、AI技術の進化によって一般大衆もこれらのスキルを使えるようになった現象を表すのに適しています。この表現は、AIが提供するツールやサービスが、従来は特定の知識や経験を必要としていた活動を、技術的な背景や専門的な訓練を受けていない人々にも可能にすることで、スキルや才能を社会全体でよりアクセスしやすくしていることを捉えています。
「才能の民主化」は、情報技術の進化がもたらす教育の機会の平等化、創造性の促進、そして人々が自分のポテンシャルを最大限に引き出す手段としてのAIの役割を強調します。この現象は、個人の創造性や生産性を向上させるだけでなく、経済的、社会的障壁を低減させることにも寄与しています。
AIによる才能の民主化は、多様な分野でのイノベーションの加速、新しい職業の創出、そして教育や仕事における新たな機会の開拓といった、広範な影響を持っています。このような変化は、技術がどのように社会に組み込まれ、人々の日常生活や職業に革命をもたらしているかを示す良い例です。
そういえば旅行好きにしばしばみられる行動として、訪問場所の事前チェックがある、とふと思った。
旅行に行く前の準備行為として、絶対に逃すべきではない場所や食べ物を入念にチェックする。
現地でセルフィを撮って、インスタなどSNSで送る、という行動、最近では、インバウンドで来日する外国人にとてもよくみられる光景だ。
映え写真をとっては、憧れのいかにもNIPPON!な光景に興奮して即座にSNSで送る。
旅行好きの人たちにみられるこれらの行動は、スタンプラリーとほぼ同じ意味を持つ。
日常との差異の体験やよその世界とちょっとだけ繋がったりできたことの証明と自己顕示が欲しいのだ。
その意味で、他の人のインスタと同じ構図で撮影することが現地に到達したことを証明するうえでとても重要。
このような形で消費される、「日常では手に入らない新しい体験」は、要するに、「ごっこ」であり、エコツアーにしてもアグリツーリズムにしても何しても、
現地との関係性を一瞬だけ体感できる、という意味で、旅行者が憧れていた「日常との差異」や「関係性」を消費する行動なんだろうな。
さて、それが近年の傾向なのか?というと恐らくそうではなく、これは、かつての絵葉書を送るというスタイルから変化した形で、
東海道五十三次の時代からそうであっただろうし、男女にも差がなく、古今東西それほど大きな違いはなさそうだ。
日常との差異を消費し、疑似的な関係性に癒されるというのは、昔からあったのだろう。
ところで、僕は男性で、わりと旅行好きというか、仕事柄、年がら年中、スーツケースをころがしている。
そんな男性の立場からみて、女性のほうが傾向として強く、逆に男性に弱いことでひとつだけ思い当たることがある。
それは、旅先で一時的に体験する関係性を、その後も持続させようとする傾向だ。
旅先で知り合った人とその後も連絡を取り合ったりとする傾向は女性のほうが強い気がする。
「おもいでぽろぽろ」というジブリの高畑勲監督の映画(1991)がある。
都会育ちのOL女性が田舎暮らしに憧れる、というところからスタートするこの物語は、農家体験をしてゆくうちに気持ちが変化し、
この映画の場合、旅先の地に女性を迎え入れる男性やその家族という存在があるが、
いろいろふりかえってみると、必ずしも現地にそのような迎え入れるひとや団体がなくとも、旅先で憧れた現地に、そのまま飛び込んでいく女性というのをアジア、アフリカ、中南米でしばしばみてきた。
かつて、「なんでこんなところに日本人」という世界の片隅で暮らす日本人を紹介するテレビ番組があったが、その番組で紹介しているのも、若い女性の活動が目立っていたように思う。
「男女差」という視点で、いろいろ参考情報をみていくと、例えば
海外留学の男女比も女性のほうが10ポイントくらい高いのだそうだ。
また、男女管理職別で見ると、男性は自社内のキャリアアップの意向が高いのに対し、女性は男性よりも転職でのキャリアアップ意向が高いのだという。
男性は女性よりも保守的で、外に関心がない、という傾向はそこから見て取れるのだが、
だが!しかし、、、、
果たして、そんなふうに男女差を単純に断じていいのか?とも思う。
それでも確証はないけれども、これらの数字が出ている以上は、それにむすびつく何かしら男女差のような背景はありそうだ。
まずは、男女共同が叫ばれつつも今をもって日本は男性社会であるという事実から出発してちょっと考えてみる。
突飛な発想かもしれないけど、1970年代初めごろの歌謡曲で「瀬戸の花嫁」という歌を思い出した。
瀬戸内海の小島へ嫁が嫁ぐ様・心情と、新生活への決意が歌われている。
「あなたの島へ お嫁にゆくの 若いと誰もが 心配するけれど 愛があるから 大丈夫なの」
当時、女性が他の家に嫁ぐということは、程度の差こそあれ、この歌が表現しているように、
ホームからアウェイに飛び出してゆくことであり、その後一生アウェイで暮らす覚悟が必要だった。
アウェイといえば、ドラマ「おしん」(1983年)。朝の連ドラとしては異例の一年間の長編ドラマとなった「おしん」。
そこでは、さらにもっと幼少のころから嫁ぎ先へとひたすらアウェイで過酷な人生が描かれ、しまいには終戦時に夫が自殺し、どん底な半生が半年くらい描かれている。物語の後半では、敗戦後、残された子供を抱えて女手ひとつで小売店を立ちあげ、自立してゆき、やがて息子へ引き継いでゆく姿が描かれ、多くの女性の共感を呼んだ作品だった。
孫までいるおばあちゃんとなったおしんだったが、このドラマは、事業を引き継いだ息子が無謀な事業拡大を始めたことで経営リスクに直面し、育て方を間違えたと自信を喪失したおしんが、過去を振り返るために原点である山形への旅に出るというシーンから始まっている。一年近いドラマの終盤300話くらいから、その伏線を回収し始めるという、息の長いドラマで、橋田壽賀子、すげえという感じしかない。
アウェイな世界でたくましく生き抜くおしんとは対照的に、登場する男性はどいつもこいつもダメな男ばかり、というのも印象に残った。(補記:特におしんの夫は軍組織に尽くし、結果として多くの命を亡くした責任を感じて自殺したという筋書きだが、拠り所となる国家、軍などのホームベースが敗戦により瓦解したことのショックが実際のところの引き金だろう。)
「嫁ぎ」に象徴されるように、簡単に引き返せないような事柄に身を投じる女性のエネルギー、勇敢さ、芯の強さは、男性社会のなかで女性に文化的に育まれたものなのかもしれない。
昨今では、結婚を就職になぞらえる向きもあるけれど、かつての日本社会はいったん他の家、姑の支配下に入ったら最後、そんなに生易しい現実ではなかったはずだ。
一方で、男性は芯がないくせに保守的で臆病だ。外の世界を渡り歩いていて、仮に失敗してもギリギリ、ホームグラウンドにもどってこれる、みたいに何か安全弁のようなものを男性社会そのものが仕組みとしてもっていた。だからその範囲でしか外に出歩かないのだ。ふるさとの家業を継ぐなんて選択肢が30代くらいの人生の岐路に用意されているとかね。逆に成功を収めれば、故郷側が自分をほめてくれる。【故郷に錦を飾る】というのは男性的な価値観だ。
女性はというと、嫁ぐにしても出戻るにしても自分の居場所を確保するには厳しい世界。
「嫁ぐ」という習慣、因習、宿命から生まれた、抑圧されてきた女性の生きるエネルギーが、むしろ社会を変える力になってゆく。
山崎ハコの「望郷」で歌われる故郷は、帰る家もない、戻るに戻れない場所としてうたわれた。これは失敗すれば帰って慰めてくれ、成功すれば褒めてくれる男性の故郷観とは対照的だ。これはなかなかパラドックスだと思った。
翻って、旅行好きの女性について思うことは、ホームグラウンドからアウェイな世界に飛び込むという意味で
かつての日本によくみられた嫁ぐという宿命と旅は似たところがある。嫁ぐ行為が違うのは、それが片道切符であり、二度と戻れない覚悟が必要だということだ。
若い女性にとって、日常空間から飛び出す、という旅行体験は、やがては「嫁ぐ」という運命が現実世界で待ち構えていた時代には、疑似的に自分の覚悟や能力を試す場としてより大きな意味があったかもしれない。
嫁ぎ先である日本社会、日本人男性に漠然と失望している場合、希望がもてなければ、いずれにしてもアウェイな世界で生きる宿命ならば、
いっそのこと、旅先の現地でとどまって残りの人生を過ごすことも選択肢としてはあり、くらいの感覚が深層心理にあるのではないかと妄想する。
一方で、男性のほうは、ホームグラウンドである故郷というものが概念として存在していた時代は、旅というのは、違った意味を持っていたと思う。都市に何世代も定着した人口が急増したここ四半世紀より前の20世紀の話だ。
かまやつひろしの歌で「どうにかなるさ」というフォークソングがある。
「見慣れた街の明り 行くなと呼ぶ」
この世界観は、瀬戸の花嫁のようなアウェイな世界で生きる覚悟は感じられない。アウェイでもどうにかなると思っているのだ。
なおかつ、ホームグラウンドを出て行ってもなお、ホームから温かい視線を旅人である自分に向け続けてくれていると信じているのであり、「男はつらいよ」のフーテンの寅さんとほぼ同じ世界観だ。ボヘミアンを気取って出て行っても、いざとなったらただいまといって帰れる場所がある。
そういえば、寅さん映画も、旅先での関係性を持続できないということがひとつの大きなテーマになっていることに気がついた。
民俗学者の宮本常一は、故郷を捨てて放浪する旅人を考察した文章のなかで、そうした旅人が
地元を去って放浪した末に、やがてひょっこりと故郷に戻ってきて、旅先で得た経験や新しい知識を広め、地域の活性化に寄与する機能を果たしていたことを、
世間師という言葉で表現した。フーテンの寅さんのことを考えていたら、そんなことも思い出した。
世間師というのは、故郷側の人間が出戻りの人間に対して名付けた呼び名で、一種の敬意が込められている。
嫁ぐということが待ち構えておらず、ゆくゆくは地域社会でリーダーシップをとっていかなければならない男性の潜在的な意識として、旅は武者修行であったり、広く見聞を広め、世の中の解像度を上げるための行為だったのかもしれない。会社組織が全国各地の赴任経験を重視しているのも同じ価値観といえる。
かつて東南アジアへのセックスツアーなどがあったように、赴任先、旅先で恥をかき捨てるのも主に男性だ。
男の旅というのは、ちまちましたもので火遊びのようなもの。家から離れて外の空気を吸いたいというものだ。近所のスナックだったり、家庭が壊れないようにという不安があるからあまり大きなことはできないが、脇が甘いから夫が捨てたラブホテルのマッチを妻がゴミ箱から発見してしまう。やまだ紫の「しんきらり」という漫画では、そんな情景が描かれていたのを思い出した。
しかし、この四半世紀、女性の社会進出や、結婚観は大きく様変わりし、嫁ぐということを前提としない将来像を女性が模索する時代になった。
テレビドラマも、90年代以降、女性の社会進出を反映して、トレンディドラマに代表されるように、キャリアウーマンがオシャレなレストランで食事する、みたいなシーンが増えた。
東京ラブストリーとか。憧れのロールモデルが描かれるようになったということだ。ドラマの世界にあこがれる、ということが90年代まではあり得た。
しかし、現実の女性の社会的地位はどうだったかというと、総合職課長以上に登れるのは一握りで、相変わらず賃金格差があり、お茶くみやらと男性社会における旧態依然とした女性の役割が押し付けられていたのが現実だ。その現実を90年代のドラマ「ショムニ」でよく表現されていたように思う。
しかし、さらに時代は変わって、憧れの東京に向かって、急速に人が流入しつづける時代は終わりつつあり、受け入れるキャパもなくなってきた。「おもいでぽろぽろ」の主人公の少女時代(1970年代)は、都会の夏休みのラジオ体操に二人しか参加していないほど、ふるさと=田舎をそもそも持たない世帯が少なかった。今では想像もできない光景だ。
中長期的には東京一極集中のトレンドは変わらないものの、それは不動産価格のトレンドに連動したもので近隣県から流入が中心。一方で、田舎というベースをもち帰省が必要な人というのは減っているのではないか。首都圏の人は首都圏で世代を重ねるし、地方の人は地方で価値を見出し、仕事をみつけ、結婚し、次世代を育てる、という人口流動の安定期になってきたようにも思う。帰省という形でつながっていた地方(ふるさと、ホーム)との関係が途切れてきているといってもいい。
そうなると、都会の人間が地方に見出す価値というのものというのは、失われた関係性そのものに重きがおかれるようになるのは自然なことだ。
その結果、その後に続くドラマの傾向としてみても、(都会で活躍するキャリア)女性の理想像ではなく、もっと実態に即した現実を映し出す、自分探しのようなドラマが増えていったように思う。
一昨年のドラマ「ファーストペンギン」とか「ユニコーンに乗って」なども、スタートアップ企業をテーマに女性の自画像を模索した作品で、近年の傾向を象徴しているように思えた。
「ファーストペンギン」のように地方移住をテーマにした作品は、アウェイな環境で女性のポテンシャルを試そうとするという意味では、「嫁ぎモデル」の延長線上にあるような気もするが、都会との関係性が交錯しながら物語が進むところに、考えるヒントを与えてくれるドラマではあった。
そんなことをおもった。そもそもの旅行の話からはかなりズレてしまったけれど、女性が旅に何を見出しているのか、というのは女性の人生観ということと絡めて考えてみると、興味深いテーマだとは思う。
とりとめもないメモです。
上記の書きなぐりをAIが次のように要約したので感心した。ここまで断言できないからゴチャゴチャ書いてたのに。
旅行好きの女性の特徴と男女差
旅行好きの人々は、事前に訪問地の情報をチェックし、SNSでの共有を楽しむ傾向がある。これは、日常からの脱却と、新しい体験への憧れを表している。特に女性は、旅先での関係性を持続させることに価値を見出すことが多いようだ。
歴史的に見ても、男女間で旅行に対するアプローチに大きな違いはないものの、女性はより積極的に新しい環境や文化に飛び込む傾向があると言える。これは、社会的な役割や期待に対する反応として、女性が自己実現のために旅行を利用していることを示唆している。
一方で、男性はより保守的で、旅行を通じて得た経験を故郷に持ち帰り、地域社会に貢献する傾向がある。これは、男性が社会的なリーダーシップを担う役割を果たすことが期待されているためかもしれない。
故郷と都会の関係性の変化
現代の日本では、故郷と都会の間の伝統的な絆が薄れつつある。かつては、人々は故郷を離れて都会で働き、定期的に帰省することで地方とのつながりを保っていた。しかし、今では都会で生まれ育った世代が増え、地方への帰属意識が低下している。これにより、都会の人々が地方に求める価値は、失われつつある関係性そのものになっている。
この変化は、地方と都会の間の人口流動の安定化を示しており、それぞれの地域で価値を見出し、生活を築く傾向が強まっている。結果として、地方への憧れや関係性の再構築は、新たな形での自己探求や社会的な動きに影響を与えている。これは、女性が旅行を通じて自己実現や自己探求を行う動機に影響を与えていると考えられる。
旅行は、日常からの一時的な脱却を提供し、新しい環境や文化に触れる機会を与える。特に女性にとっては、旅行が自分の居場所を見つける手段となり、故郷とは異なるアイデンティティを探求するプラットフォームになることがある。
県二位の人口22万人の中核市であり、太平洋に面する港町、臨海工業地帯、外航・内陸航路の工業港を有し、東北新幹線八戸駅、東北自動車道八戸線、三陸復興道路の北の終点がある。東北有数の商圏63万人の街。
しかし、八戸市にはイオンモールがなく、イトーヨーカドーは2024年の夏に閉店する。
八戸市の映画館はかつて7館あったが、現在は完全になくなった。
2000年代前半4万平米級のイオンモール計画が立ち上がるも、中心市街地の地権者や有力者等で構成する市の商工会が大反対運動を展開。当時の市長はイオンモール反対を表明するも次の選挙で市民の支持を得られず落選。
イオンモールを待望した市民は、官僚出身の新市長を当選させた。しかし、外部の反対派寄りの専門家や学識経験者を交えた委員会を開き、最終的にイオンは過剰な商業施設であり不要と決定。そして、八戸市は事実上の1万平米以上の商業施設立地規制条例を制定し、イオン予定地は、当初計画を大幅縮小した売場面積7千平米級の中途半端なイオンが開店した。
さらに、市はそのイオンの隣により大きな建坪で市の総合検診センターを建設。土地区画整理組合への補償のためだと思うが、未来永劫、増床してイオンモールにすることはできなくなった。
その結果、市民は昔からある隣町のイオンまで車で約15kmから20km車で行く。
車がない高校生は1日に4便しかない直行バスに長い行列をつくり30,40分かけていく。
街の顔である中心市街地は、税金や補助金を投入し続けたが商業エリアとして魅力は下がり続け集客力は改善せず、事実上シャッター街に近い状態になった。
かつて市民のデパートとして親しまれたヨーカドーは市内に2店舗あった。1980年中心街の再開発ビル(地下1階、地上7階建、屋上遊園地)にヨーカドー八戸店出店計画が出て、当時の市商工会議所は大反対をした。市民には大歓迎されて開店してから東京の有名なデパートとして八戸の目抜き通りのシンボルとなった。その後2003年閉店。
古いビルは壊され屋台村になり、かつての長崎屋は1階がタリーズコーヒーで、2階から13階建のマンションになった。
市は20年ぐらい前には既に中心市街地活性化対策に乗り出し、再開発計画が出ては消えを繰り返し、最終的に新市長が市営の箱物をたくさん新設したり、建て替えた。
中心街は仙台に次ぐ飲み屋街として名高く、屋台村のみろく横丁周辺が酒豪の呑んべいたちで賑わう。新幹線開通後、新たなホテルやマンションはいくつか建設された。
市内は、北東北を中心に展開する売上高1300億円、58店舗を展開するスーパーのユニバースが本社を置き市中を治めつつ、他社も含め無数にスーパーとドラッグストアがある。イオン系列マックスバリュー、ホームセンターのサンデー、ヤマダ、ケーズデンキ、ユニクロ、GU、しまむら、西松屋、ワークマンもある。日常の買い物には困らない。
しかし、市民は屋内一体型モールのイオンモールが欲しかったのだ。大規模な市総合検診センターでもなく、市の観光文化交流施設や、市民屋内広場ではなく、イオンシネマやゲームセンターやボーリング場や、未来屋書店や、東京のアパレルテナント、東京で話題のある飲食店のフードコートが欲しかった。
明治時代に日本鉄道が東北本線を八戸町の中心部に伸ばすかどうかで議論になった。
当時は他の町と同じく蒸気機関車忌諱説があり、流行病の懸念や軍部の要望があり外国軍上陸の脅威を減らすべく、市街地から4kmも内陸の尻内(しりうち)という辺鄙な場所に駅をつくった。あとで町民たちは鉄道は便利だと知ることになり、数年後に本線から分岐して八戸線が開通し中心市街地の800m北寄りに旧八戸駅、現在の本八戸駅を開設する。
そのあと100年以上が経ち、尻内駅は八戸駅に駅名が変わり、やがて新幹線駅に昇格した。しかし、あまりに市街地から離れすぎた立地のため、郊外の地方空港の様相であるかのように、22万人都市の玄関口としてはお察しくださいの状態である。
大正末期に八戸大火が発生し中心商業地区が焦土と化したが、田舎町には後藤新平のような都市計画家はおらず、当時の八戸町議会は多額の予算は出せないとして狭い道は藩政時代のままとなった。
太平洋戦争では基幹産業の日東工場爆撃が海側の地域で爆撃を受けるも、中心市街地の空襲被害はほとんどなかった。
市の北側に位置する旧日本軍の飛行場と基地は米軍に接収され、3,200人の米兵により飛行場を拡張し基地の街と化す。その後、陸海自衛隊基地として運用される。
八戸の中心市街地は、戦後しばらくして、東映、東宝、テアトルなどの7つの映画館が開店し、地元百貨店が開店し、緑屋、ニチイ、丸光(さくら野)、長崎屋、そしてイトーヨーカドー、地元資本のファッションビルが開店し、中心市街地は岩手県北を含め商圏62万人ともいわれ栄華を極めた。私はその時代を生きていないのでよくわならない。
八戸は昭和30年代に新産業都市に指定され臨海都市建設工事が始まり、八戸鉱山の石灰石産出、三菱製紙工場、八戸火力発電所、非鉄金属の精錬所、鉄工所、造船所が建設された。
漁業は栄光を極め、八戸港の水揚げ量・金額が日本一を記録し、第一・第二・第三魚市場は全国の漁船が集まったという。浜の景気は大変良く、飲み屋街や風俗街も発展した。北海道室蘭・苫小牧港へのフェリー航路が開設され北への玄関口となった。中心市街地を迂回する国道45号バイパスが整備され、市道の4車線の環状道路が次々と開通し、田畑の区画整理が次々と進み新興戸建住宅地や住宅団地は郊外に市街地は拡大し、市営バスは路線網を拡大し小中高校は増設を続けた。
一方で、青森寄りの天間林村(現七戸町)の上北鉱山は銅が枯渇のため閉山。また、八戸から60キロ北の六ヶ所村では新全国総合開発計画による巨大石油化学コンビナートや製鉄所を中心とした、1万7000ha開発計画は発表されたが、二度のオイルショックで完全に頓挫した。石油備蓄基地のみがつくられ、のちの日本原燃による核燃料サイクル施設建設を待つことになる。
青森県議会は東北新幹線建設に際し、八戸経由か弘前経由か決められずに結局盛岡駅止まりのまま以後八戸延伸まで20年待ちとなる。あの頃、早く決めていればとおもうと悔やまれる。
1991年に長崎屋が郊外に移転。屋内遊園地つきのラピア長崎屋が開店
1994年 年末に三陸はるか沖地震(震度6)が発生、旧市庁舎、旧市民病院に大きな被害、中心市街地のビルが倒壊し死者発生、道路の崩落、水道管破裂など多数被害
1995年 隣町にイオンモール下田が開店(現在は売場拡張し53,277平米)県南地域では最大の売り場面積を持ち、当時は大観覧車があり田んぼと山がよく見えた。
1997年 中心市街地の市民病院が郊外に移転し、いよいよ中心市街地の危機が地元紙で叫ばれるようになる
1999年 八戸臨海部の神戸製鋼の敷地にピアドゥ(売場面積25,400平米)が開店。核テナントはイトーヨーカドー、ホームセンター、のちにヤマダ電機、スーパー銭湯開店
2002年 東北新幹線八戸駅開業。北の玄関口として栄華を極める
2003年イトーヨーカドー八戸店が閉店、跡地に地元出資チーノオープン。市民映画館が開店
2009年 臨海部の八戸魚連跡地、ピアドゥの隣接地にシンフォニープラザ(現在の売場面積17,000平米)が開店
2000年前半イオンモール八戸田向店40,000平米級の建設計画が持ち上がる
当時建設中の4車線の県道八戸環状線沿い一帯の田んぼを区画整理し、中心街から八戸市民病院が移転した付近に立地計画。
市民の多くは歓喜に沸いたと思う。わざわざ隣町のイオン下田まで行く必要がなくなるからだ。
しかし、中心市街地の商業者を中心とした商工会が猛烈に反対し、当時の市長も大反対。
地元新聞の投書には、商店街関係者と思しき女性が「イオンが来たら中心街がシャッター商店街になってしまう。そんなところで祭り(八戸三社大祭という由緒ある山車の祭り)は見たくない!」などと書いていた記憶。
ほかに、市民病院の近くが週末渋滞して救急車が到着できなくなるから反対との投書もあった。
その後、市長は1期で落選し、新市長が当選し立地規制条例を制定
2012年 郊外にイオン田向ショッピングセンター開設(7000平米級)
新市長は、空洞化した市街地を再建すべく、市営の箱を次々と建設。
2011年 市営のポータルミュージアムはっちが開設、中心市街地にタリーズコーヒが初出店
2016年 ガーデンテラスが竣工し市営の八戸ブックセンターが開設、Yahoo八戸センターが同ビルに拠点開設
2019年 国際大会用の屋内スピードスケートリンクが開館(中心市街地から徒歩圏の運動公園に建設)
2020年 元長崎屋跡地にDEVELD八日町が竣工 13階建で2階以上はマンション
2023年 イトーヨーカドー八戸店跡地のはっちが閉店。解体されマンションになる予定
2023年 八戸港の水揚げ量が昭和19年レベルに激減(戦後最悪水準、金額ベースで最盛期の10%の漁獲高)
2025年 青森銀行とみちのく銀行が合併し青森みちのく銀行設立予定
東日本大震災のあと、国の復興予算で約10年で三陸復興道路が完成し、県道の環状道路は大半が開通した。市内のロードサイドにはセブンイレブンも、タリーズも、コメダ珈琲も、スタバもできた。新しいスーパーやホームセンターがあちこちにできた。
中心市街地は市営の観光施設や屋内広場、箱物と、市営書店ができて大変モダンな空間になった。
地元商工会議所は、中心市街地活性化のために、巨大イオンモール進出を阻止に成功し、街中に新たな商業施設として、ローソンとファミマが合計6店舗できた。モスとドトールしかなかった街中にタリーズができた。
しかし、市経済の低迷も相まって中心街へ商業施設誘導を果たせず、三春屋とチーノは閉店し、今やさくらの百貨店が残るのみである。かつての商業ビルはマンションへ建て替えが進む。
商業地としてのポテンシャルが低下してマンションになるのであれば、郊外に予定通り40,000平米のイオンモールを建設してもよかってのではないか。
結果、GMSは衰退し臨海部のヨーカドー八戸沼館店は閉店。後継テナントは未定で、市民は1991年開店の江陽のラピア長崎屋と、臨海部のシンフォニープラザ、2012年開店のイオン田向(リテール)のみになる。
よく巨大郊外型モールが撤退したあと社会問題になるため開発抑制が必要だという。都市計画的には正しいが、近隣県を含め広域自治体レベルで規制誘導しない限り、一自治体が規制をかけても無意味だった。
結局、市民は1995年以降、隣町のイオンモール下田まで行き、買い物客が流出し続けた。
中心市街地の地権者はコンビニ6店やマンション1棟やホテル2棟をオープンさせたが、新たに集客力のある商業施設を建てたては言えず、中心市街地の魅力向上のため、市営の文化的施設の建設に資金が投入され続けている。
2050年までに、八戸市の人口は社会保障人口問題研究所の推定で14万人台になるとしている(最盛期より10万人減少する)
人口減少社会は、かつての拡大した市街化区域を減らし、都市軸の再形成、まちなか居住、コンパクトシティの形成、魅力ある歩いて暮らせるまちづくりをするなど、さまざまなメニューがあるものの、あまりにも中心市街地再興への道のりが長すぎる。その過渡期に過ごす市民は、これからもイオンモール下田に通うことにになる。
せめて20年前に八戸市や市商工会議所は、イオンモール立地に反対しなければ、あの長い行列をつくりバスを待つ市内の高校生たちは、自転車でいける距離でイオンモールに遊びに行けただろう。
顔がかわいい
声が可愛い
明るい性格
でもちょっとだけ奥に闇を抱えてそう (俺みたいにうつにはならないでほしい)
運動は苦手そう
スタイルがいい
だけどそのスタイルの良さをあまり見せつけない (良くも悪くも)
多才でいろんなことができる
ゲームが好き
一緒に話してて楽しそう (話したことはない)
歌が上手い
毎日忙しいのに頑張ってる
しっかりものなところ
だけどときどきガキっぽいところが見え隠れする
また、ファンしか見てないような番組やイベントでは弱みやだらけたところを見せてくれる
信念があってちょっと頑固っぽい
ショートヘアもロングヘアも似合う
原作ももろちん好きなんだけど、アヤ・ブレイアが主人公のゲームシリーズ相当好きだったわ。
1とかは当時PSだったけどCGムービーの美麗さにおったまげたし
2で同じPSなのにグラフィックが向上した結果、なぜかバイオハザードの新作になったのもおったまげたし
3がなー、売れたら据え置きの続編作る予定だったらしいけどあれじゃあなー
1のRPGアクション路線でも、2のバイオハザード路線でもどっちでも続編見たかった。
俺は1のほうが好きなんだけど、2は圧倒的にゲームとしておもしれーんだよな。
なんか久々にシリーズやりたくなったけどゲームアーカイブスってPS3とVITAじゃなきゃダメなのか……
もう終わりだ横の国
外国語がある程度できる人間だが、日本は女性の見た目が非常に重視される「ルッキズム」文化が最も強い国の一つなのは間違いないと思う。
例えば海外のインスタやフェースブックを見ると、さまざまな業種で「プロフェッショナル性」が高い人は女だろうが男だろうが老人だろうが子供だろうが認められる気風がある。とくに欧米、アメリカ。中国もアジアでは実力主義だと思う。
対して日本はどうか。いまだに「かわいい子を採用しようデヘヘ」といったはげたおっさんが管理職としてのさばっている。
これは恥ずかしいことではないか?
現時点では、まだ日本は立派に世界に顔向けができる国ではないといえる。
コロナ騒動でリモートワークが発展したことでそのようなおっさんはかなり減ったが、自分の見立てでは達成度は60%くらいである。
まだまだ、「可愛い子を秘書につけようデヘヘ」みたいなカッコワルイ頭の悪い昭和おじさんが、労働シーンに残っている。
だからビックモーターの軍隊式パワハラや、〇産の下請けイジメのようなことが許容されてしまうのだ。
こないだのなんとか村の村長が99件のパワハラで辞任するのだ。
能力とポテンシャルで相手を判断しろ。外見や属性ではなく、個人の才能を見ろ。
そしてもう一つ。臭いおっさんは「新入社員のコ、彼氏いるのかなデヘヘ」みたいな、家族構成とか交友関係をさぐるマインドも臭い。
馬鹿はこの違いがわからないから、マインドセットを昭和から進化できない。
いい加減進化しろ。令和も6年目だ。日本が飛躍するためにルッキズムや、家族と仕事をミックスする低民度の日本人から脱却しろ。
以上。
お書きの通り
18禁コンテンツゆえ、少年ジャンプのように一般的に認知度の高いメジャー誌が存在しないことが最も大きな理由だと思う。
潜在的に人気があった(あるいは人気になるポテンシャルがある)としても公に語りづらいというのもその通り。ゆえに口コミで広がることもないし、社会現象にもなり得ない。メディアミックスもされない。
加えて、ジャンプ漫画に求められているのは「友情・努力・勝利」であり、魅力的な登場人物への憧れや感情移入であり、心躍るストーリー展開であり、人気があれば連載は長期に渡る。
思春期に他人の人生を擬似的に追体験し、ときに励まされ、勇気づけられ、作品やキャラクターへの思い入れは深くなる。
一方、エロ漫画は基本的に即物的なもので、射精までの極めてインスタントな性的興奮以外は要求されない。自慰行為のために何週間もキャラクターのセックス以前の関係性を追って気分を盛り上げたいなんて変わり者はまずいない。
いちご100%やi's、ToLOVEるに本格的な18禁性描写があったとして、少年ジャンプに掲載できなければやっぱり公に語ることができないコンテンツになってしまうし、そもそも違う作品になっちゃうよなあ。
予算があんまりなかったので動物園前近くの結構値段がするほうの簡易宿所に宿泊したときの感想
西成には6回目、ここ最近利用したのは去年の2023/11の警察署前のもっと安いところ
西成簡易宿泊施設としては高額な2400円/日(土日休2800円/日、宿直接)、今回は楽天経由で10250円でポイント(平日2350円x1、休日3950円x2)
風呂は時間製で、朝も営業中、シャワー室は男女別でサウナもあった(男湯だけ?)
トイレは使用感はかなりあるが一応キレイ、大便用は全部洋式でウォシュレット付
久しぶりに駅前の宿にしたがやっぱり高いだけあってちゃんとしてるなあという印象
11月に止まったところは、トイレのとなりに台所があり、大便器はほとんどぶっ壊れるとかだった
ここはトレインスポッティングに出てくる便所かよと思った
部屋は教説に変な腐敗臭がしてたので窓開けて寝てた
眼の前に警察署があって治安は比較的安全だが奇声が偶に聞こえてた
連泊だったら交換可能だったし、(比較的)高級シャンプーの貸出とかもやっていた
去年も思ったが動物園前駅や新今宮駅前は結構海外からの観光客をよく見かける
昔ながらの日雇いのおっちゃんのほうが少ない(もっと安いことに行くわな)
まあ、ホステルとかよりは広くて風呂やサウナもあるし値段はホステルより安いとなったらこっちに泊まるのは普通かな
エレベーターで降りてたら下の階で日本人カップルが乗ってきてビビる
こっちはバスガウンで1階の大風呂に入りに行く途中で気まずくなった
なお、東洋系のカップルや白人のカップルなどもロビーにいてすげえな此処と思ってしまった
洋式部屋ならまだしも畳の和式部屋に女性が泊まるもんかと思った
まあ一人は洋式部屋だったがグループで西成に泊まるとかすげえなと思った
逆にこっちが怖くなった
帰る際、幼い男子2人を連れた家族4人が和式部屋2つから出てきてビビった
子供連れが泊まれなくは無いぐらいの施設ではあるが西成でかと思ってしまった
バリバリ背中に入れ墨入れていたのを大風呂で見てしまったので怖かったが
難波からも複数ルートで来れる地域ではあるし、基本平坦ではあるでキャリーバックをもって移動するには良い地域ではある(新今宮駅前は狭いが)
動物園前の9番出口付近はまだ昔のドヤ街の雰囲気を残している場所もあるが
駅前はちょっと古いホテルって感じでそこさえ我慢出来るならかなりいい場所なんだろう
鶴橋、難波、梅田には電車で気軽に行けるし、新世界に行くには最適な場所だしな
近くにドンキやダイソー、大型スパ施設もあるから西成のポテンシャルは実は高いのかも
今後世代交代が起こって色々更新されていく形になると思うがどうなっていくんだろうね
日本の再開発ってダサいから一辺倒にしちゃう方式になるからなあ
まあちょっとだけディープな看板とかみたいなら動物園前商店街のアーケードを南下すれば
中華系カラオケスナックばっかりになっているところに「居酒屋で覚醒剤を売るな!」の標識を見れたりはするが
まあ泊まった簡易宿所はどっちも「あーアソコね」ってなると思うが一応伏せて書いた
小中学生の頃の自分はそこまで不満もなく生きていた記憶がある。
蓋を開ければ毒親、祖父からの性的虐待などそれなりに不幸だったのだけれど、当時はなんとなく嫌と思いつつ今ほどの絶望感は確実になかった。
通ってた中学自体の閉塞感やら、筋肉神話モリモリ、勉学への無関心さを実感して危機感を覚えた。
名前書けば入れるような高校にクラスの大半が進学するような環境で過ごした自分からしたら、カルチャーショックがすごい。
高校にいったらみんな大学のことを考えていて、親から勉強しなさい!って言われて育てられたような子ばかりだった。
専門に行くにしてもやりたいことがあり、それを親と話し合えるような子たち。
このままじゃまずい!と思い、「大学なんて行っても無駄、地元の市役所職員を目指すのがいい」という親をおしきり、勿論塾なんて行かせてもらえなかった中でなんとか地方駅弁へ進学した。
更にそこでカルチャーショック。
高校時代に留学してたような子がちらほらいたり、親が同じ大学卒だったり。
うちの親は大卒どころか中卒。
もうこの時点で親は全く頼れなかった。
会話のベースになる知識(教養)量が自分と圧倒的に違った。みんながやりたいことを話していても半分はわからなかった。
COOP留学?じゃいか?とびたて?なにそれ?状態の自分を置き去りに、同級生たちは続々とやりたいことに励んでいた。
自分はバイトを頑張れるほどの熱意もなく、奨学金と免除制度を使って生きるので精一杯で、あっという間に落ちこぼれた。酒とくだらない恋愛に酔って時間を無駄にした。
就職先には趣味のゲームで日本〇位、とあるジャンルで有名ブログ運営、海外で教員をやっていた方、独立を目指す方など、仕事以外にもめちゃくちゃ面白い人ばかりだった。
お金を稼いで日々生きる以外のなにかをしてる人で溢れていた。
優しいパートナー、尊敬できる職場の仲間、趣味の時間を得たのに、どんどん虚無感が増していく。
こんな自分は生きてる価値あるのか、みんなもっと頑張って何かを成し遂げているのに、自分は、とずっと追い立てられている感覚がある
金ない、教養もない、祖父に性的虐待を受けている、それを自分のせいにしてくる親がいる状況より絶対今の方が幸せなはずだ
現に地元に帰れば、同級生のなかで自分が1番エリートな自信がある
でも満ち足りなさはステージを進めば進むほどましていく
このままの自分じゃ足りない、まだ何もできてないって
結局、似たような人たちで固まって、それしか知らずに地元最高!してる人たちの方が圧倒的に幸せなんだろう
海外旅行なんて行ったことない、センター試験なにそれ?(今は共テか)高卒すぐにデキ婚して親と同居!手取り15万でローンで車買いました!子供の教育費?なにそれ?
そんなんばかりだけど、彼らは人生に満足してそうで虚無感、満ち足りなさなんて微塵も感じない
例えば世間の平均の箱が100だとして、その人が10しか持っていなくても、周りも10しかもってなきゃその人の中で10が普通になる
100あることを知らなきゃ十分満たされる
自分は身分不相応なところに来てしまったんだな、自分にそのポテンシャルはないのに、運良く100とか500とかな人たちに囲まれてしまったと強く思う
でも100を知ってしまった以上地元にも戻れないし、100の周りにも追いつけない
心から満足することなんて一生できないんじゃないかと思うと、もう終わりにしたくなる
仕事の境目と責任の分限が曖昧だから自分で判断していいのはどこまでなのか分からなくなってそうなるんだよな
欧米で働いたことないからイメージだけど、お前の仕事の範囲はここからここまで!!自己判断していいのは課長の決済が必要のないことまで!!!それ以外は一切触るな!!!みたいな欧米型にできればいいんだろうけどな~
まあやる気が有るのはいいことだ
この手のさ、常に何か手を動かしていたい人、効率を上げたい人ってバリバリ仕事したい欲が空回っちゃってるからさ
受付みたいな暇ができる内務的な仕事じゃなくて、営業としてお客さんの間を飛び回ったりとか
やる気がある奴を有能に変えられるかそれとも潰してしまうのか
量子力学における観測者問題についてはよく知られるように、人間の主観性が量子実験の結果に重要な役割を果たしている。
ドイツの物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルクによる有名な引用がある。
「私たちが観察するのは現実そのものではなく、私たちの質問の方法にさらされた現実です。」
例えば有名なダブルスリット実験では、スリットの後ろに検出器を置かなければ電子は波として現れるが、検出器を置くと粒子として表示される。
したがって実験プロトコルの選択は、観察する行動パターンに影響する。これにより、一人称視点が物理学の不可欠な部分になる。
さて、数学にも一人称視点の余地はあるか。一見すると、答えは「いいえ」のように見える。
ヒルベルトが言ったように、数学は「信頼性と真実の模範」のようである。
それはすべての科学の中で最も客観的であり、数学者は数学的真理の確実性と時代を超越した性質に誇りを持っている。
ピタゴラスが生きていなかったら、他の誰かが同じ定理を発見しただろう。
さらに定理は、発見時と同じように、今日の誰にとっても同じことを意味し、文化、育成、宗教、性別、肌の色に関係なく、今から2,500年後にすべての人に同じ意味があると言える。
さて、ピタゴラスの定理は、平面上のユークリッド幾何学の枠組みに保持される直角三角形に関する数学的声明である。しかし、ピタゴラスの定理は、非ユークリッド幾何学の枠組みでは真実ではない。
何が起こっているのか?
この質問に答えるには、数学的定理を証明することの意味をより詳しく調べる必要がある。
定理は真空中には存在しない。数学者が正式なシステムと呼ぶものに存在する。正式なシステムには、独自の正式な言語が付属している。
つまり、アルファベットと単語、文法は、意味があると考えられる文章を構築することを可能にする。
その言語には、「点」や「線」などの単語と、「点pは線Lに属する」などの文章が含まれる。
次に正式なシステムのすべての文のうち、有効または真実であると規定した文を区別する。これらは定理である。
それらは2つのステップで構築されれる。まず、最初の定理、証明なしで有効であると宣言する定理を選択する必要がある。これらは公理と呼ばれる。
公理からの演繹は、すべての数学がコンピュータで実行可能な印象を生む。しかし、その印象は間違っている。
公理が選択されると、正式なシステムで定理を構成するものに曖昧さがないのは事実である。
これは実際にコンピュータでプログラムできる客観的な部分である。
例えば平面のユークリッド幾何学と球の非ユークリッド幾何学は、5つの公理のうちの1つだけで異なる。他の4つは同じである。
しかしこの1つの公理(有名な「ユークリッドの5番目の仮定」)はすべてを変える。
ユークリッド幾何学の定理は、非ユークリッド幾何学の定理ではなく、その逆も同様。
ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学の場合、答えは明確である。これは、単に説明したいものに対応している。
数学は広大であり、どのように公理を選択するかという問題は、数学の基礎に深く行くと、はるかに感動的になる。
すべての数学的オブジェクトは、いくつかの追加構造を備えたセットと呼ばれるものであるということだ。
たとえば自然数のセット1,2,3,4,...は加算と乗算の演算を備えている。
集合論は特定の正式なシステムによって記述される。Ernst ZermeloとAbraham Fraenkelと、選択の公理と呼ばれる公理の1つに敬意を表して、ZFCと呼ばれる。
今日の数学者は、すべての数学を支える集合論の正式なシステムとしてZFCを受け入れている。
彼らは、無限の公理と呼ばれるZFCの公理の1つを含めることを拒否する。
言い換えれば、有限主義者の正式なシステムは、無限の公理のないZFCである。
無限大の公理は、自然数の集合1,2,3,4,...が存在すると述べている。すべての自然数に対してより大きな数があるという声明(「ポテンシャル無限大」と呼ばれる)よりもはるかに強い声明である。
有限主義者は、自然数のリストは決して終わらないことに同意するが、いつでも自然数の集合の有限の部分集合のみを考慮することに限定する。
彼らは一度にまとめたすべての自然数の合計が実在することを受け入れることを拒否する。
この公理を取り除くと、有限主義者が証明できる定理はかなり少なくなる。
正式なシステムを判断し、どちらを選択するかを決定することができるいくつかの客観的な基準...なんてものはない。
「時間と空間を超越した何かを象徴しているので無限大が大好きだ」と言えば無限大の公理を受け入れることができる。
ゲーデルの第二不完全性定理は、十分に洗練された正式なシステム(ZFC等)は、自身の一貫性を証明することができないと述べている。
数学者は、今日のすべての数学の基礎であるZFCが確固たる基盤にあるかどうかを実際に知らない。
そしておそらく、決して知ることはない。
なぜなら、ゲーデルの第二の不完全性定理によって、より多くの公理を追加することによってZFCから得られた「より大きな」正式なシステムにおけるZFCの一貫性を証明することしかできなかったから。
一貫性を証明する唯一の方法は、さらに大きな正式なシステムを作成することだけだ。
数学を行うためにどの公理を選択すべきかについて、実際には客観的な基準がないことを示唆している。
要するに、数学者が主観的に選んでいるというわけである。自由意志に任せて。
公理のための主観的な基準というのは、より豊かで、より多様で、より実りある数学に導くものを選ぶという人は多い。
これは自然主義と呼ぶ哲学者ペネロペ・マディが提唱する立場に近い。
特定の公理のセットを選択する行為は、量子物理学の特定の実験を設定する行為に似ている。
それには固有の選択肢があり、観察者を絵に導く。