はてなキーワード: スライドとは
どうかと感じるポイントをまとめた。
ワールドトリガーは胸のカップ数(バストサイズ)表記をやめてほしい。
最初ここ読んで期待した。
ようやくこの手のこと「自分の感情」として整理してきちんと言える人が出てきたのかなと。
けどすぐにずっこけさせてくれる。
倫理観!
自分の感情と「自明で万民が従うべき正義」みたいな妄想を区別しておくことが出来ない。
なら最初から「自明の倫理に沿って葦原大介を糾弾する!」って書き出しをすればいいのに、たぶん表現規制派のお気持ち規制への批判見て表面的に学習して対応したんだろう元増田は。
「自分の気持ち」→「これは議論の余地なき倫理」といういつもの規制派スライドをキメてしまう。
でもせっかくだし読んでいく。
本筋と関係ない、バストサイズ表記などで弾かれてしまって欲しくない。
(弾いてるのはお前だろ? という指摘を頂くかもしれないが、『倫理観的に良くない』という評価がどれほどマイナスになるかは皆さんご存知かと思う)
それでいいのかなー?」
だってさ。
カスが。
自分のお気持ちと同方向の「価値観の変化」というものがあり(それ貴方の妄想ですよね)
その変化に追従しないことは許されないのであり
葦原は変化に追従せずに自分の『性癖』で描いてるからダメなんだってさw
このカスが。
一番卑怯で腐ったやり方を選んじゃうんだよね。
いっつもそうなんだこの人達。
この「世間がそうなっている!」「未来はそうなっていく!」的な言い方すれば
自分の責任は回避できるし表現規制の誹りも回避できるはずだという
そういう甘い考えで何度も何度も見え透いた同じトライを繰り返してる。
どうしてもこの責任逃れしながら表現規制するという誘惑から逃れられねーみたいなんだよな。
そのお前が主張している「価値観の変化」や「今の価値観」の方が優位で従うべきだって言う根拠は何なの?
しかもさあ
仮にそういう「価値観の変化」「今の価値観」が閣議決定された実在の法令であってもそんなもんクソだと思うけど
実際のところはそんなもんないっつうか、お前が自分のお気持ちを正当化権威化するためにそう言い張ってるだけだよな?
アホが。
で、改めて、
作者の葦原のシュミより優先されるんだよ?
「葦原のシュミでは?」とか言い出すなら全てがとっくに葦原のシュミじゃねーか。
未成年が戦って緊張し喜び悩み恐怖し挫折や成長するところを描きたい。
未成年の肉体が躍動したり傷ついたりするところを描きたい。
どこまでも葦原が選ぶ葦原のシュミじゃねーか。
好き好んで葦原のシュミを何十巻と読んできたくせに
一か所気に入らないところがあったら
「これ葦原のシュミで描かれてない?」って言いだすのなに?
ってのは本当に、ワートリを何だと思ってる発言なんだろうか?
たとえば北朝鮮の刊行物に載ってる漫画ならそういう指弾はありだ。
「これ作者の趣味で描いてないか?」「党の価値観に従え!」ってな。
独裁者か幼稚園児にしか持てないはずのマインドをいい歳こいて開陳しないでほしいんだよな。
頭プーチンフレンズならさっさと義勇兵に行ってクリミアをウクライナの魔の手から救って来いよ。
当然表現規制派十八番「差別を助長する!」も実績解除してくれてる。
「繋がりかねない」って何?
・漫画の表現からどういう機序でジェンダー差別やルッキズムに繋がると主張するかの論立て
ぐらい揃えてから規制根拠にしてくれっていつもいつも言われてるよな?
じゃおめーの好きなもん並べてみせろよ。
そんなガバでいいなら1個につき1秒で捻りだしてやるよ。
お前がお前の好きな物を楽しめてるのは
お前みたいなモノ考えるの苦手なバカに規制権力渡さないよう先人が抵抗してきたおかげだぞ。
というかさあ
お前は本当にお前が楽しんでるものにルッキズムがないと信じてるのか?
例えば、
本当にルッキズム的な要素を「細心の注意」払って取り除くなら
なぜ事細かに身長が設定され公開されてる?わかりきってるよな?
「このキャラは背が高くて格好いい」
「このキャラとこのキャラが話すとこれくらいの目線差が出て萌え」
なんてこと作者も読者も楽しんでるからだろ?
身長データで萌えるなんてまさに「ルッキズムに繋がりかねない」んじゃねーか?
コナンの犯人みたいに描こうぜ。それか隊服を男女ともブルカにする。
なあ。
お前が気軽に言うルッキズムの正味本当に考えてる?って話なんだよ。
自分は容姿の好みを楽しむけど自分の気に入らない好みは取り締まりたいっつー恣意的バカの妄言だろ?
お前が好みのキャラの細かい設定読みたいのと同じ次元でバストサイズ読みたい奴もどっかにいる。そこに上下も貴賤もねーだろが。
なるほど、実際にいわゆる『腐女子』である私は、男女ともにキャラクターを性的な目で見ることもある。
かっけーw
「ルッキズムに細心の注意を払った表現です。各々心の中で想像で頑張ってください」
おめーそれでもワートリ買うのか?
買わねーくせによ。
人に要求する時だけ高い水準の努力と「細心の注意」を求めるけど自分の欲望や快楽にはノータッチ、それどころかちょっとでも嫌なことあればピーピーいう。
自省や自発言の反転チェックみたいなことって表現規制派の精神活動には存在しないわけ?
そこに『推奨してる』と因縁付けるなら
作者はあらゆるキャラに対し読者が欲情することを『推奨してる』と思うよ。
お前は違うの?
お前の推しキャラへの感情に性的なものが無いと言える?言えねーだろ?
作者の提供する絵、エピソード、設定、描写、すべてがキャラに欲望を持つことを『推奨』していてそこには性的感情も含まれてるよな?
お前の論理ならワートリに細かいクレーム付ける迂遠な方法よりもっと簡単で根本的な解決方法がある。
全ての漫画において。
キャラ萌えと実在社会の未成年への性犯罪みたいなものと区別つけられないお前みたいな人は、未成年が出る漫画を一切楽しむべきではない。
未成年が出る漫画の一切はお前の言う「未成年を性的に見ることを推奨する漫画」そのものだ。
お前がお前の論理を本当に信じてるなら
お前の目から見て殆どの漫画が汚らわしい罪に満ちた汚物のはずなんだ。
原理主義イスラム教とか統一教会とかに既に入ってるならお前の話わかるよ。
でもそうじゃないだろ?色々楽しんでるんだろ?
つまりお前の論理は口先だけ、因縁付けの為に後から捻りだした浅い屁理屈であって、「細心の注意」なんかどこにもねーんだよ。
ただただ自分の気に入らない物を抹殺できないかって無い知恵絞って理屈をこねたというだけ。
(もっと人の役に立つことに脳使えよ)
未成年を問題にする時お前の論理だと「葦原は14歳が戦争に行くことを推奨している」とかも言えるはずなのにそこにも反応しない。
屁理屈なりに自分でチェックして「上手く行くかな?」ぐらい考えることもしねーのかお前は。
結局「我々の進歩についてきていない反動である!」というバカ進歩派のテンプレが始まる。
ジェンダー観とは何か、何故正しいか、何故従わせることが許されるか、
論理一切なし。
自分と同じ意見だけを「ファン」とし自分と違う意見自分の意見に反対する意見は無視し「ファン」に勘定せず客観的データはない。
ならなんで最初だけ、自分の頭と責任で発言する人間の振りをした?
ワールドトリガーの『良さ』は綿密に錬られた世界観や読者の発想のさらに上を行く展開、
「だから四肢欠損描写をなくすべき」ということにはならんし余計なお世話だ。
少なくとも私は、「ワールドトリガーはキャラクターを性的に見ることにも重きを置く漫画である」というメッセージを受け取れない。
「ワールドトリガーはキャラを性的に見ることが主題の漫画」になるのか。
「単行本の片隅に記載されてるのすら我慢ならなくて抹殺したいんです!」って。
何が「主題」だこのアホタレが。
うへっ。
あのさあ!
腐女子界の外に持ち出してくんのやめよう?
お前みたいに越境干渉していいなら俺はむしろその胸糞わりい腐女子ワールドに攻め込んでクソみたいなお気持ちリンチ慣習滅ぼしてーわ。
なんでお前みたいなカスの支離滅裂で非論理的なお気持ちクレームが通って
漫画やら書いてる側がそれに屈して頭下げる?ほんと創作側腐女子には同情する。
お前が絶対視してるその不潔なルール、少しも自明でも普遍的でもねーからな?
本当にバカもいい加減にしてくれよ。
けどお前等のその腐れ腐女子学級会ルールで作品やファンや作者を支配しようとするな。
そもそも女性向けや腐女子感性からは出てこない少し外れたものが欲しくて少年漫画を見るんじゃないのか?
そこに腐女子感性のクレーム入れてどんどん自分達に同化させたら結局当初目当の差異のうまみもなくならね?
全てを腐女子の感性とルールに塗り潰すのって腐女子の幸せになるか?
「時間が無かったのでラクガキです;;」って言いながら絵を出す奴か?
お前は自作絵アップしてんじゃなくて葦原大介とワートリにここまでアヤ付ける文を公開している。
せめて「私の全力でチェックし全能力を込めました!」が礼儀じゃね?
そもそもここまで見てきたお前のカスな責任回避とアウトソースと0エビデンス因縁付けの、
どのあたりに「勇気」なんか示されてたんだ?
まさか「自分の文がボコボコに反論される可能性の恐怖に耐えましゅうぅ」なんてことを勇気とか言っちゃってんの?
好きだと言うワールドトリガーやその作者のことすら本当のところお前の世界の中に他者として実在しない。
けど自分しかいない世界に生きてるので他者に通用するプロトコルや論理なぞ操れず、
「なんやこいつアホなんか」と読む人を呆れさせる。
この繰り返し。
ずーっとずーっとそういうことやってるよな。
入浴して子育て以外にやることのない私は、毎晩クロッキー帳に西洋ファンタジー風BLを落書きし、スマホで写真を撮って彩色していた。
夫もオタクで自分が腐女子であることは公言していた…つもりだった。子を放棄してシャニマス、ウマ娘に夢中になっていて、こっちの事など興味すらないと思っていた
ある日、大量の落書きが夫に見つかった。
「何これ」
そこには、屈強な男がひ弱な男性をあすなろ抱きしている絵。あすなろ抱きから手の位置をスライドさせていくシチュがヤバいくらい好きで、具現化してしまった。
PCの履歴は18禁ばかり。ひ弱な受が涙を浮かべて懇願するのが好きで好きで堪らなかった…
バレてしまったからには夫も同じ羞恥心を味わせなければならない。
そう考えた私は通販で貞操帯を購入した。とにかく辱めて自分の屈辱を忘れたかった。それを装着するように言うと、あっさりと断られた。ついでに別れも切り出された。どうしよう。困った。
中高生が金を払わなければ自分を認めて貰えないと当たり前のように考えている。
「親の無償の愛」があてにならない今誰が、何が彼女たちをケアするのか。
2022/09/18
どう考えたってちげーだろw
・「今」なにか特別に親子関係が破壊されてるみたいなデータとかあるんですか?
・なんで100文字中でも「中高生が」から「彼女たち」に主語がスライドするんですか?
・その理論では男子中高生も自己肯定感が低いはずなのに、なんで女子中高生にだけコンカフェ問題が問題が発生すんだろうね?
これに関しては自己肯定感なんて話じゃなくて
十代の子供なんて馬鹿だからこの手の恋愛的な刺激のある搾取スキームに簡単にはまっちゃうってだけ
でもガキからたいした金とれないので男のガキは積極的にはめ込もうとしない
これだけよ
自己肯定感の問題なんかではなく性的価値とヤカラビジネススキームの問題だろうが
お前等さあ、こんなんを「自己肯定感の喪失」みたいな話にしてヤカラスキームから目を背けるならさあ
それこそ統一教会だって何だって同じような処理に出来ちゃうってわかってる?
「信者の人達は教会にはまり込んでお布施をする以外に居場所が無かったんだ
自己肯定感を持てない社会で今誰が、何が信者たちをケアするのか」
↑
こんなんどう考えたってトンチンカンなの分かるよな?
教会がバカみたいなお布施を回収できるのは信者の自己肯定感にそれだけ巨大な穴が開いてるからではなく
そう仕向けるはめ込みスキームが回ってるだけだわ。わかるだろ?それは。
統一教会の問題への対処は自己肯定感についてポエム書くことか?
えげつない金集めスキームの摘発や規制とそれを妨害するような政治家の調査だろ。
○「問題はガキ相手に色恋営業して高額売掛つけて回収を図るビジネススキーム」
こんなん手を変え品を変え発生するんだから
どんな社会でもそういうのにはめこまれる若い女というのも一定数発生する。
それを激減させたいとか撲滅したいとかなら
「ホストクラブ的なものは広く規制」または「ガキ相手に営業した店一発取り潰し」で終わりよ。
この2つを実行する際の摩擦係数が少ないほど若い女を食い物にするスキームは肥える
害が大きくなっていて(というデータはあるのかもしらんけど)減らしたいなという事なら
摩擦係数を高めりゃ若い女を食い物にするダニは痩せるし数も減る
構造の話な
誰かに相手してほしいなら「今」はいっくらでもそんな相手は見つかるわいな
それで刺激が足りなきゃ変な配信で姫でもやってりゃいいじゃんよ
もっと品行方正がいいならふつーーーに勉強や部活を頑張ってりゃ手ごたえのある人間関係ぐらいいくらでも作れるよ
人とうまくやれないならネットでいちびっててもいいし、一方通行の推し活もアイドルからvまでよりどりみどりだ
わざわざメンズコンカフェだのホストクラブだの行くのは家庭状況がどうあれ
「独特の容姿とノリと対応をしてくれる若い男」に相手してほしいから行くんだわ
ソープに行くおっさんだって誰でもいいから相手してほしいんじゃなくて
「手軽にセックスしてくれる女」に相手してほしいからソープ行くんだろ
なんだろう要するにこういうポエマーって自分が感情移入する相手が
そういうつまんない下品な物への消費欲をもってること肯定したくないんじゃねーの
だから「自己肯定感のフンダララ」みたいな別の論点を作り出したい
それで話がどんどん現実から乖離した見当外れポエムになっていく
俺がこういうコメントに☆付けて1位にするコミュニティの何がムカつくってさあ
お前等は真面目に考える気が全くないんだよ。
ひどい目に遭う子のこと真面目に心配する気なんか一ミリもない。
なのになんかポーズだけ取りたがるじゃん?そしてその欺瞞の自覚もぼんやりしている。
人としてよいとこが1個もないやんけ。
改めて見てみろよこれ。ひでーだろ。内容空疎根拠ゼロ現実的ソリューションゼロ。
「今誰が、何が彼女達をケアするのか。」←明らかにポエムやんこれ。
ぜってーこれ書いてる時気持ちよかったんだぜこいつ。 ☆付けてる奴等もな。
人間が何かを切実な問題として考えてたら、たとえ結構頭が悪い人間でも絶対にこうはならない。
端から真面目に考える気が無い人間特有の思慮深げ意味深風社会派仕立てのポエムなんだわこれ。
こういう腐れポエムを書く人間それを賞賛する人間が「良心的ないい人」で、
それらを唾棄して罵る俺みたいなのは「根性の悪い荒らし」なんだろ。
いい人気分で集団オナニーしてたところにこんなん書かれると超気分悪いので
相手を悪人扱いにして罵ったり論点そらしのブコメで言い返したり増田で書いたからどーちゃらこーちゃらって喚くんだろ?
心配する気もない女の子のこと心配してるふりする暇があったら自分のおつむと性格の心配をしたほうがいいぞ。
どんなちょっとしたことであれモノ考えたり書いたりする時はもっと真剣に考えたらどうなんだ?
…っていうこれも悪意の罵倒扱いで耳塞げばいいんだろ?
仕事帰り、駅のホームに降り立つと、ガタガタと騒がしく走る反対車線の電車を横目に疲れた足取りを進める。やがて正面に見えるのはホームに雑然と建てられた小さな建物。『あんスタ』とだけ書かれたシンプルな看板を一瞥すると、横開きのドアをスライドさせて中に入る。入り口横に備えられている薄汚れた食券機で「ぶっかけひいあい」の食券を購入すると、カウンター向こうにいる店主へ無言で受け渡す。
注文品が出来るまでの少しの合間、半分閉じかけた瞼で店内を見渡すと、大方いつもいるような層ばかり。一人でなにかぶつぶつと呟いているくたびれたコートを着たらびおじ、イヤホンで何かの音楽を聴きながら涙を流している流星隊Pの女子大生、高いヒールをカツカツと不機嫌そうにならすOL風のUNDEAD担。
何かを考える気力もないまま立ち尽くしていると、ドン、とカウンターに丼が置かれる。その丼を手に取って、私も無気力な有象無象の一人になることにする。
ただ木の板が壁から張り出しているだけの席へ着くと、備え付けの割り箸から無造作に一本選ぶ。たいした力も入れなかったため、割り箸は綺麗に割れなかった。
ささくれた木の棒を手に、ひいあいの攻略を始めることとする。僕の行為を気に留める誰かもいない今、わざわざ食事の挨拶をする必要もない。
箸で一つまみひいあいをすくい上げると、湯気が出ているわけでもないのに、なんとなく食べるときのくせでふうふうと息を吹きかけてしまう。そして口元へ運ぶと、ずるりと音を立てながらすすり上げる。
しょっぱい、と感じる。おいしいおいしくない以前に、味付けが濃くて判別できない。こんなもの、きっと家でゆったり家族団欒を楽しみながら口にするものではない。
ただ、座る席もないような立ち食いの店で、時間をかけずに食べるにはちょうどいい。疲れた心、疲れた体ではきっと舌も麻痺していて、繊細な味付けなんかされたところでどうせ今の僕には理解できないだろう。
僕は無心でひたすらひいあいを口に運んだ。
ーーあんさんぶるスターズを一言で表すと何? と友人から聞かれたとき、僕の脳裏によぎったのはありもしない立ち食いそば屋での記憶だった。
ありもしないという通り、実際には立ち食いそば屋なんて一度も入ったことがない。すべて妄想であるため、立ち食いそばの実情と大分食い違う点があるだろうことをご留意いただきたい。
そもそもどうして友人があんさんぶるスターズについて僕に聞いてきたかというと、僕があんスタに沼ってるからとか、推しがいるからとか、そういう類の理由ではない。
むしろその逆で、仲間内では「あんスタアンチ」で通っているためである。
僕はことあるごとに「最近のオタクが軟弱なのはあんスタのせい」と口にしている。
友人は、逆にあんスタ沼へ落ちている人と話す機会ができたから、僕のあんスタに対する意見も聞かせて欲しいという塩梅だった。
その質問に対して僕はこう答えた。
一言で表すならあんスタは立ち食いそばだ、と。
僕があんさんぶるスターズを初プレイしたのはリリース当日だった。キャラクターデザインも美麗で見目が好みのキャラもいたため、プレイ前は期待を抱いていたように思う。
けれど実際にサービスが始まり、プレイして感じた違和感。
どいつもキャラが濃い。
奇抜な口調、過剰な趣味、人間味のない受け答え。
まあでも、多キャラものを通ってきた身としてはキャラが尖るのはよくあることだよなと思う。
そのときの僕は、まあ自分向けじゃないよな、程度に収めてプレイを止めた。
ただし、皆さんご存じの通りあんさんぶるスターズの勢いはすごいもので、周囲にあんスタ好きの人は多数いたし、積極的に摂取しなくとも副流煙でストーリーが理解できる程度には定期的に何かしらの情報が流れて来ていた。
また、同居人があんさんぶるスターズのとあるカプに沼ったことで、身近に触れることにもなった(当の同居人は現在あんスタと袂を分けている)。
僕もmusicが始まった際は再びインスコしてALKALOIDにうつつを抜かしたりもした(今でもたまにカプ検索はする)。
けれど人間関係と一緒で、一緒にいる時間が長くなればなるほど嫌いな側面というのは見えてくるもので、嫌な部分が過剰に見えてくると耐えられなくなってくるものだ。
やがてただの一ジャンルから嫌悪の対象へとあんスタを昇格させた僕は、自分があんスタを受け入れられない理由を求めて考察するようになった。
実際に以前よりあんスタに触れてみて、考察してみて分かったことは、濃いのはキャラクターだけではないということだった。
ストーリーは大味で、基本的に繊細さはない。
まずそもそも、改めて考えてみるとどうしてみんなアイドルを目指しているのかが分からないしストーリー上で明かされない。さらに、アイドル活動らしいことをストーリー中でほとんどしていない。
ライブステージが始まったかと思えば、急に時空が歪んだのかと思うくらいステージ上でめちゃくちゃ喋ってる。
女性向けゲームといえばキャラクター同士の人間関係も重視されるかと思うが、その人間関係においてもカレーにケーキを乗っけたみたいな料理が提供される。
あんスタ制作人はどうもカップリングを乱立させるのが好きなようで、いたるところで男同士を絡ませて地雷持ちカプ厨の息の根を止めていく。
新しく形成された二人の関係が精巧に描かれていればまだいいものの、実験を楽しむマッドサイエンティストみたいな気分でシナリオが提供されるため、キャラクターを元あるグループと別ユニットに所属させるなど、ファンを不安にさせることに余念がない。
また、新しく激重感情が交わされる人間関係が構築される場合、基本的に他の人間関係をすべて無視した上で行われるため、一人の人間が人によって仮面を使い分けているというよりは、パラレルワールドや二重人格の様相を呈する。
つまり、あんさんぶるスターズは細かな調味料の調整によってストーリーが作られているのではなく、砂糖と唐辛子と塩を混ぜ合わせて作った味付けの濃いコンテンツ、だと僕は認識している。
けれどその大味のコンテンツが、流行しているのも事実だ。
僕視点から見るとクソみたいなコンテンツだったとしても、見る人によってその価値は変わってくる。
例えば、あんさんぶるスターズを舞台上で演出される戯曲だと解釈する。<br<br>>ストーリーが大味なのも、会話がやたら長いのも、キャラクター設定が繊細でないのも、すべて舞台上から観客に届けるための演出である。
細かな仕草で伝えても見えない観客もいるかもしれないし、細々した心理描写を入れるのは舞台には適さないため必然と会話は多くなる。俳優の藤原竜也は演技が過剰でそれがネットミーム化することもあるが、あの演技は舞台で育ったからに他ならない。
我々は舞台上の彼らのやり取りを鑑賞しているのだ、と考えれば過剰な演出もおかしくはない。
ではどうして戯曲的な大味コンテンツが流行しているかという問題になってくる。
結論から言うと、あんさんぶるスターズは今の時代に適した形態で提供されているからこそ、人の心を捉えているといえる。
今の時代、世の中にアニメやゲームをはじめとしたサブカルチャーコンテンツなんていくらでも溢れていて、一つのコンテンツに多大な時間や集中力、意識を割けないと考えている人は多い。
他にも、ストレス社会と言われる現代、ジャンルに沼っていたとしても私生活の問題で時間が取れないこともある。
そもそも立ち食いそばの味付けが濃い理由は、立ち食いそばは舌の上に食材がのっている時間が短く、一瞬でも満足感を得られるようにするためだ、と記憶している。
あんスタも同様に、味付けが濃いので舌の上にのっている時間が短くても満足感が得られる。
深く味を吟味するには向いていないが、短時間で楽しめるアトラクションではあるといえる。
あんスタは基本的に、一人のキャラクターが他のキャラクターとフラグを建てているときに、他のフラグをすべて忘失する傾向にある。
例えば、真白友也は氷鷹北斗の前にいるとき日々樹渉の存在が消えるし、逆に日々樹渉の前にいるとき氷鷹北斗の存在は消失する。瀬名泉において、月永レオと遊木真をそれぞれ相手にしているときも同様である。
逆に捉えれば、例えば特定のカップリングを追っているだけであれば、他のキャラクターとの関係性を一切履修する必要がないのだ。
その分他のコンテンツに時間をさけるし、キャラ理解を深めるために地雷カプへ突入する必要がない(公式PV爆撃で地雷を踏むことはあるが)。
あんスタくんは公式が常に二次創作してるようなものなので、よく燃える。それゆえに、ファンが二次創作するにあたって公式以上に悪目立ちすることはあまりない。
また、キャラクター性は特に味付けが濃いため、二次創作する上で多少の改変が行われても紛れて悟られづらい。
要するに、公式のキャラクターに見た目や口調が相似していれば全部そのキャラクターっぽくなる、という二次創作における最大の強みを持っている。
極論、つまりあんさんぶるスターズは今の世間に向いたコンテンツではあっても、僕向きではないという話である。
以前、僕は運営会社を同じくするエリオスライジングヒーローズに片足突っ込んでいたこともあるのだけれど、ジャンルを離れた理由は「設定が雑」「運営が信じられない」「キャラが守られていない」だった。
あまり詳細に書くと長くなるので割愛すると、つまり自分が求めている作品には、世界観がしっかりしていて噛めば噛むほど味が出るようなキャラクターやシナリオが必須であると認識している。
カップリング前提で見ているのではなく、そのキャラクターや仲間、背景を知りたいと思うしさまざまな関係性によってその「推し」が形作られていく過程を吟味したいと思う。
自分のオタク志向的に、あんスタは合っていない、と感じた。
ただ、not for meなだけなら、ここまであんスタアンチに近い発言を繰り返すこともなかった。
あんさんぶるスターズは確かに現代に適した形態でコンテンツが提供されているだろう。一瞬舌に乗っただけでアトラクションが楽しめる大味なあんスタというジャンルは、簡単に「オタクしてる」感が味わえる。
ただしそれは同時に、「味音痴」を作り上げる結果になっているのだ、と僕は主張したい。
あんスタは一大ジャンルなわけで、あんスタを通ってきた人は非常に多い。
ただしあんスタに慣れてしまった人にとって、作品やキャラクターを吟味するという行為は推しを推すために必要な行為ではない。濃い味付けに慣れきってしまって、自分から味わいに行くことはしない。味わわなくても楽しめるし、そもそもよく噛んでも良い味がしないという学習をしてしまっている。むしろ、二次創作においてはセルフで醬油やわさびを足して自分好みに都合よく改変しても、元がカレーにケーキを乗っけてるようなものなので違和感を覚えない。
周囲を観測したり、色々なジャンルを渡り歩いていると、明らかに味音痴のオタクが増えてきたと感じる。繊細な味付けが分からないため、その作品やキャラクターに対して食レポができない。二次創作しても、キャラクターの見た目や名前や特徴的な口調だけが一緒の何かになりさがってしまっている。
他ジャンルでキャラ乖離が激しい・キャラ解釈がない人の過去ジャンルを見てあんさんぶるスターズがあったとき、何とも言えない気持ちになる。
そんな周囲の状況を見ていると、僕はどうしても「すべてあんスタのせい」と言いたくなってしまうのだ。
作品の推し方、作品との接し方というのは人それぞれだと思う。こうしろと強制するつもりはない。時代の移り変わりであり、この流れを受け入れるべきなのかもしれない。
ただ、一オタクとして小言を許してもらえるのなら、たまにはその作品をあなたなりに深く味わってみてほしいと思う。
そしてその料理がなにで構成されているのか、自分なりに考察してあなたの解釈を深めて欲しい。他人と同じ解釈にならなくて良い、正解なんてない。人の数だけ解釈があり性癖がある。
大多数のオタクが味音痴にならないで欲しいと、強く願う。
この文書で何が批判されているか知りたいだけの人は、一番下の節「まとめ」までジャンプ。
清水先生の講演についてここ一週間くらい悪口をTwitterで書いてた江口先生に、それブログに纏めてよと言ったら気が乗らないと断られてしまったので
「うまい人びとは、前に書いた辞書的定義や約定的定義や明確化定義や理論的定義なんかを縦横に駆使して説得にかかってきます」
と最新のブログで書かれているのを、清水先生の講演を題材に自分なりにスケッチしてみる。
続き、というか中間にあたるのだが「(2) ポリティカル・コレクトネスってなんだろう」「(3)キャンセル・カルチャーってなんだろう」を書くかは未定。
つまり、この記事は書き起こしで言う「Part1 〜学問の自由とその濫用〜 」の検討が中心だが
最後の方で全体を対象にする前に他のPartの検討を書くべきところ、途中で力尽きている。
とはいえだいたいPart1の検討とほぼ同じものを繰り返すだけ
を先に見ていることが前提。
の説明はほぼ書かないので、分からなければブログを参照するように。
1998年 国際大学協会(IAU)声明「学問の自由、大学の自治と社会的責任」による定義です。
「学術コミュニティの構成員、すなわち、研究者、教員や学生が、倫理的規則と国際的水準に関して学術コミュニティが定めた枠組みの中で、そして外部からの圧力を受けることなく、学術的活動を追求する自由」
人びとがその言葉をどう使っているかを国語辞典の載っているような形で説明している。
「一般的には、〜〜、というふうに考えることができる。」
「従来はそして一般的には、〜〜、というふうに理解されています。」
世間一般の用法という文脈なわけですから、当然、スライドの引用の言い換えに相当する語釈が、聴衆には予期される、
同じく 辞書的定義 が与えられようとしているものと解釈されます。
実際に与えられた定義を見てみましょう。
ある種の公の定義であるIAU声明に対する言い換えとして、清水先生による定義を読んでみると一つ気にかかるところがあります。
と非常に具体的な形になっています。
世間一般の用法として紹介される割には、議論のあり得るところで
「こういうのは多数派も少数派もない、学問の独立って話なんですが、多数派からの圧力は特に抵抗しにくいので」
というふうに説明するほうが世間の認識とあっているように思える。
とはいえ、ここまでならば、代表的な「外部からの圧力」を並べただけ、ただの例示ゆえに言い換えの範疇であり、辞書的定義のままだと受け取ることもできる。
ただ、ここで私が書きにくくて困ってしまうのが、清水先生が「具体的に」何を批判されているのかさっぱりわからないことです。詳しくは後の節でも取り扱います。
「現代の誰かが主張している「学問の自由の侵害」とは、〜〜だ」と、清水先生が定義していると読める箇所を、少し文言を修正の上、抜き出します。
見事にすべて 説得的定義 ですね。江口先生のブログで挙がっている
「中絶とは、女性を望まない負担から解放する安全な外科的処置である」
などと同じ形式となっている。
ただ、読みながら何を論じているのかわからなくなって辛くなってしまうのは、
中絶の例ならば、中絶の 辞書的定義 は共有されているという前提のもとで、 説得的定義 を用いているのに対し、
清水先生は、この文脈での「学問の自由の侵害」とは 辞書的定義 の学問の自由の侵害とは全く異なるものだと論じていることです。
(下の2節は「どう論じているのか」という細かいレトリックの解説なので
どう辛いのかについては、「批判対象の曖昧さ、具体性の欠如」でページ内検索してジャンプ。)
これらは学問の自由の侵害の定義として読むことができるものであり、
先に導入された説得的定義「社会的少数派の側からなされる批判や異議申し立て」とは対義の関係にある。よって等号で結ばれることはありえない。
ゆえに、「従来から論じられてきた一般的な節(辞書的定義)」学問の自由ではない、という論証。
しかし、これはIAU声明にはなく清水先生が付け加えた箇所のはずですね。
先程はただの例示と見ればという限定をつけて辞書的定義と認めました。
逆に言えば、「そうでなかったら学問の自由でない」というふうに使うならば、もはや例示ではなく、清水先生の独自見解です。
すなわち、この時点で辞書的定義として導入された学問の自由という概念が
「学問の自由を〜と私は定義します!」という約定的定義へとすり替えられているのです。
一旦まとめると、
「よくわからないものを」「なんか悪そうに定義して(説得的定義)」、
「その悪そうな要素にぴったり当てはまらない要素を、一般的な定義の中に紛れこませる(定義のすり替え)」
学問の自由とは
「力のある人たちとか多数派にとって都合が悪い、あるいはそこにとって利益にならないというだけの理由で、 研究教育を抑圧したり不当に妨げたりすることを困難にするはずのもの」
まさに、
「うまい人びとは、前に書いた辞書的定義や約定的定義や明確化定義や理論的定義なんかを縦横に駆使して説得にかかってきます」
そのものですね。
この一節は憲法学の理論を援用しているため、少し強引ですが理論的定義を示したものとも言えるでしょう。
実際、この定義を根拠に「学問の自由の侵害」を「なんか悪そうに定義した」説得的定義に対し
これは日本国憲法で保障される学問の自由からはかなりかけ離れたもので、何を言ってるんだというふうに思われるかもしれません。
なぜかけ離れているのかというのは詳しく述べられていませんが、
要は憲法学の理論「憲法は原則としては国家権力を監督するものであり、私人間効力の議論も私人相互に大きな権力差がある場合の話である」という話でしょう。
権力差をどう捉えるか、例えば「学界から事実上キャンセルできたというのは、権力差があったといえるのではないか」というのが憲法上の論点になるわけですが、
そこを 説得的定義 から導かれる「抑圧側 VS 被抑圧側における抑圧側が学問の自由を主張している」という構図でクリアするわけです。
ここまでいろんな種類の定義を用いたレトリックが使われてきましたが、
正直なところ、説得的定義から導かれる「抑圧側 VS 被抑圧側における抑圧側が学問の自由を主張している」という構図を用いた時点で
直感的にはそれは学問の自由ではないでしょうという話になります。
ゆえに最も問題になるのは、そう定義されるのが具体的になんなのかです。
清水先生は「こういった言説が具体的にどう現れてきたのかご説明したい」と30分近く説明してくださっているのですが、
書き起こしを全文検索してもらえればわかるのですが「学問の自由」を直接的に濫用している例として挙げられているといえるのは、
Horowitzによる、Academic Bill of Rights (ABOR) のみです。
ほか間接的な繋がりとしては「ポリティカル・コレクトネス」「キャンセル・カルチャー」の事例が話されているのですが
これも抽象的な定義の操作に時間を割いていて、具体的な文脈はほぼない。学問の自由とどう関係するかも全くと言っていいほど書かれない。
詳しくはそれぞれをどう定義しているのか、という点を検討する必要がありますが、
これは別の記事「(2) ポリティカル・コレクトネスってなんだろう」「(3)キャンセル・カルチャーってなんだろう」に譲り、
当記事「(1) 学問の自由ってなんだろう」では、直接的な例、ABORに絞ります。
清水先生はABORを曲解して参照しているのではないか、という指摘もあるのですが、
とりあえずここは論点にせず、清水先生の解説をそのまま採用します。
ABORの主張は、
「ナチスの政治哲学の擁護であるとか、あるいは進化論の否定であるとか、 そういうものを学術的に正当な主張の一つとして教えるべき」
「ナチス肯定論文を学問の自由で擁護することはできない(マルコ・ポーロ事件)」じゃないですよ?
むしろ、何が相手だろうと自由であると肯定する、過激な自由論者ほど否定する内容です。
「大学でナチスの擁護を正当な主張の一つとして教えるべき」、自由でもなんでもないじゃないですか。
まとめると、
最終的には、そして本質的には、清水先生は「学問の自由」について議論の余地のないことしか言っていません。
じゃあなんで議論になるのか。
清水先生の立場からすれば、「学問の自由」の濫用だと当然問題視しているであろう例が
清水先生にとって非常に身近な例であるはずのそれは2例あります。
このちょうどいい2人については講演では全く触れない。
特に後者の呉座先生については質疑応答で「学問の自由」を求めている人として名前が挙がったにもかかわらず、
「ちょっとわからない」「詳しくない」「法律の専門家ではない」「裁判をはっきりきちんと見ているわけではない」「労働争議であって学問の自由ではないんじゃないかなぁ」
との返事。
「そうです。呉座さんの事例こそが私が批判した「学問の自由」の濫用です」ではなく「詳しくない」。
訴訟の原告の1人であるからには詳しくないわけはないのですが、文字通り解釈するならば
この「学問の自由」の濫用批判において、呉座先生の事例は検討すらされていない、ということになる。
またこの回答の続きとして、呉座のことを言っているわけではないという注釈付きで、「学問の自由では擁護できない」例が出されました。
せめて多少は「学問の自由」と文脈がつながるように「酷いセクハラ・パワハラを長年犯してきた超一流哲学者が大学から追放されたことを、学問の自由で擁護はできない(ジョン・サール事件)」くらいにしましょうよ。
文脈がわかるくらい解説をつける具体的な例については、当たり前を超えてもはや関係のない例しか出さない。
それでいて、批判対象に対して一般に共有されるような辞書的定義には触れないで、
何を批判しているのかも厳密には不明確なまま、説得的定義に対する抽象的な定義操作を元に議論を行う。
音声の品質が悪く、ところどころうまく聞き取れなかったところがあった。その箇所は●●●と表記した。
anond:20220805225632 Part1 〜学問の自由とその濫用〜
anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略〜
anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜
anond:20220805230307 Part4 〜キャンセル・カルチャー批判〜
anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てたキャンセル・カルチャー批判のメカニズム〜
anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答〜
https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=9613s
2:40:13~2:45:40
私いくつか頂いていて割とまとまらないというか散発的な感じなので、すごく短くお答えしたいと思います。
最初に「日本政府のジェンダー・バッシングの背景に宗教団体のロビー活動がありますか」ということなんですけど、
これはあります。詳しいことは、っていうかご存知の方はご存知だと思いますけど、
先週末かな、にモンタナの山口さんと富山の斉藤さんが、これ出していいのかな、
どっかで、延々と何か全部で見ると4時間か何かの番組でお話になっているので、そちらを見ていただければいいと思うんですが、
ジェンダー・バッシングの背景に宗教団体は確実にあります。統一教会はちょっと新しくって、
もともとあったのは、どちらかというと日本会議系だったりとか、そっちにいたんですけれども、
それと関係して「今日出てきたABORの背後に●●●主義がありますか」ということですが、
ただ問題はいろんな議論が直接、原理主義とか宗教から出てきているかどうかではなくて、
そういうところと結びつくようになってきている、ていうところのほうがジェンダー系では大きな問題だ、
ということはお伝えしておきたいなと思います。
次ですが、
「フェミ科研裁判と同じく京都地裁で係争中の呉座勇一さんも学問の自由●●●を求める裁判をされています」ということなんですが、
私は呉座さんの裁判は労働争議だと思っているので、学問の自由ではないんじゃないかなぁと思います。
ちょっとわかんないんですけど私も、きちんと法律の専門家じゃないので、
他の●●●の裁判をはっきりきちんと見ているわけではないんですが、労働争議ということではないかなというふうに思ってはいます。
学問の自由っていうのは、研究者だったら何を言っても大丈夫ということではなくて、例えばある人が、
この場合は「女性蔑視が問題になっていますが、学問の自由は守られるべきだと思われますか」っていうのがあるんですが、
ここすごく大事なところなんですけど、
あるいは非常に女性蔑視的であったりとか、
あるいはそれを超えて性暴力に至るようなことがあったりとかていうときに、
それは当然、性暴力って考えたらわかると思うんですけど、学問の自由では守られないです。
今言ったような、今おっしゃていただけたような、あるコミュニティの中の、学問コミュニティの中の手続きであるとか、
そこで積み重ねられてきた知見に則って、どういうような議論するか何を考えるか、
例えばすごく離れた領域っていうのを考えてみると、何でもいいんですけど、理論物理学の研究者がいて、
その研究者が非常に女性差別的なあるいは人種差別的なことを言ってそれが問題になった。
「いや学問の自由だよ」と言われたら学問の自由じゃないんですよ。
その人が女性差別的なことに言ったりとか人種差別的なことを言ったりとかっていうのは、
それは学問とは全く関係ないということなので、それは学問の自由では守られない。
そこら辺ちょっと、この件がそうだということではないんですが、
学問の自由っていうのが適用されるのは、そういう意味では結構狭いことになるので、
そこはちょっと注意したほうがいいんじゃないかなというふうには思いました。
次なんですが、「キャンセル・カルチャーという言葉を初めて聞いたんですが」、
何か今回のフェミ科研裁判とどう関係があるのかというご質問かなと思ったんですが、
一つは●●●さんもおっしゃってくださったように基本的には、その今●●●さんがおっしゃったこととも関係するんですが、
今回はすごく大事なんですね、この文脈では学問の自由は非常に大事なんですが、
学問の自由っていうのをとりあえず出しておけばいいということではなくて、
一体学問の自由っていうのが何を守ろうとしているのかとか、どういうふうに使われようとしているのかとかていうのを、
1回1回読み解いていく必要がある。
それを忘れて学問の自由なんだよという話をしていると結構足を掬われるって話を、
日本語圏はそもそもさっき「学問と見られていない」とおっしゃっていたのは、ほんとそのとおりだと思うんですけど、
そもそも日本語圏では学問の自由以前に、例えばジェンダーとかセクシュアリティとかそういう問題に関しては、
気にしようとも思っていない人たちが圧倒的に多いんですけど、でもその人たちが「気にしたほうがいいよ」って言われた瞬間に、
「学問の自由」って言い出す可能性は逆に言うとめちゃくちゃ高いと私は思っていて、すでに言い出している人たちはいっぱいいます。
なのでそこはやっぱり気を付けた方がいいよね、っていうふうに私は思いますし、
そのことっていうのは、例えば今回この学問の自由が大事だっていうのと、
それからある特定の別の学問の自由の使われ方に問題があるっていうのを、
同じ地平の上で、だけど、こっちは大事でこっちはまずいということを言えるような、
私たちが言説上の力をつけておかないと、ふらふらと引っ張られる可能性があって、それは非常に危険だってふうに思ってます。
一つの講演に対し、知る限りこの増田を含め三つの文字起こしが乱立している。
先行文字起こしが二つがあるなか、あえてもう一つを公開したのは以下の理由のためである。
なお、作業自体は滝本の文字起こしの公開前、Togetterまとめの文字起こしが中途で止まっている時から始めていた。
石畑隆氏版文字起こし(https://note.com/philo_radi/n/ne2da785c938c)が加わって乱立四つとなった。
質疑応答部がなく、またここではカットしたフィラーや言い誤りの訂正等も比較的再現されている。
小見出しを適宜挟んでいるところはここと近い。
公開先のnoteの組版の方がはてな匿名ダイアリーより読みやすい人はいるかもしれない。
anond:20220805225632 Part1 〜学問の自由とその濫用〜
anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略〜
anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜
anond:20220805230307 Part4 〜キャンセル・カルチャー批判〜
anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てたキャンセル・カルチャー批判のメカニズム〜
anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答〜
https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=3428s
57:08~1:05:19
抑圧側と被抑圧側との逆転の構図
抑圧側と被抑圧側とのこのような逆転の構図というのは、2010年代にはオルト・ライトと呼ばれる新興右派、
あるいはそれとも重なるミソジニーに満ちたオンラインの男性主義の主張などにおいて、幅広く利用されるようになっていきます。
もちろんマイノリティを、かぎかっこ付きの「私たち」の外部にある敵というふうに認定する、
その敵の攻撃から身を守らなくてはいけないという形で、当該のマイノリティへの抑圧や暴力を正当化していくっていう、
その形というのはもちろんその以前から、
例えば排外主義において、あるいはモラル・パニックにおいて広く見られてきたものではあります。
9.11の同時多発テロの後、対テロ戦争期の欧米各国におけるイスラムフォビアの暴力っていうのはこういうものだったわけですし、
あるいは70年代80年代に、同性愛者とりわけゲイ・バイセクシャル男性というのを、
当時は性的捕食者、セクシャル・プレデターっていうんですけれども、性的捕食者あるいはHIVウイルスの拡散元として、
非常に激しくバッシングしたのが英米のモラル・パニックっていうのになるんですが、これなんかがすぐ念頭に浮かぶと。
じゃあそのオルト・ライト勢力やオンライン・ミソジニー・アカウント群を巻き込んだ、2010年代の特徴っていうのは何かっていうと、
これ単にマイノリティ側を、自分たちを脅かす敵なんだというふうに認定するだけではなくって、
マジョリティ側が力のある側が、自分たちを「差別されている」「抑圧されている」、あるいは「自由を侵害されている」という形で、
はっきりと、私たちこそが「被害者である」「被抑圧者である」という形で、語り始める点にあると言えるかもしれません。
そういう語りのこの後もいろいろ出てくると思うんですが、
今のところ最新の形がいわゆる「キャンセル・カルチャー批判」というものになります。
- CAMBRIDGE DICTIONARY
- MERRIAM-WEBSTER
キャンセル・カルチャーという語が急激に知られるようになってきたのは、
2010年代後半のことで、したがってだから、数年なんですよね、
キャンセル・カルチャーの意味とか語法も、現時点で完全に固まってるとは言い難いところがあります。
実際、例えば辞書の定義を見ても、Cambridge Dictionaryだと、
「社会あるいは集団、とりわけソーシャルメディアにおいて、自分を傷つけ侮辱すること」、offendという言葉ですが、
「自分を傷つけたり侮辱したりするようなことを言った人を完全に拒絶したりとか、
あるいはその人への支持をやめたりする振る舞い方」、いうふうに定義している。
それに対して、もう一つ別の有名な辞書でMerriam-Websterなんかを見ると、
「不同意を表明したり社会的に圧力をかけたりする手段として、集団でキャンセル行為」、
このキャンセル行為というのは「公に、とりわけソーシャルメディアにおいて、特定の人や組織への支持を撤回すること」なんですが、
「集団でキャンセル行為を行う実践」っていうふうにしていて、だから重点がちょっと異なってるんですね。
またピュー・リサーチ・センターによる2020年時点の調査では、
リベラル寄りの人々は、
キャンセル・カルチャーというのは、ある人に自分の言動に対する責任を取らせるためのアクションと捉える傾向が強い。
それに対して保守派に寄っていく人ほど、
同じキャンセル・カルチャーを検閲であるというふうに捉える傾向があるということが明らかになってます。
つまりある人々が、差別的だったり暴力的だったりするなど社会的・文化的に問題があると思われる言動を、
放置しないために取るアクションだ、ってふうに考えているものが、
より保守的な別の人々にとっては、これがつまり「キャンセル・カルチャー批判」の文脈になるわけですけど、
そちらの人々にとっては、それが集団での圧力とか検閲とかっていう形で理解されている。
言い換えれば、「キャンセル・カルチャー批判」という形でのキャンセル・カルチャーってのは、そもそもの最初から、
しばしば多数派である鉤括弧付きの「私たち」の言動を、差別的とか抑圧的などと非難することで、
「私たち」の言動を検閲する抑圧する、あるいは「私たち」を差別する圧力というふうに定義することができる。
だから先ほどからお話ししている逆転の構図を含み込んだ用語っていうのが、キャンセル・カルチャーだと言えると思います。
「正義と開かれた議論についての書簡」(通称「ハーパーズ・レター」2020)
153の署名: ノーム・チョムスキー、サルマン・ラシュディ、マーガレット・アトウッドなど
「人種的、社会的正義を求める強力な抗議運動」や「とりわけ高等教育、報道、慈善事業、そして芸術活動など、社会におけるより一層の平等と包摂を求める声」というような「必要な過去の清算(reckoning)が、同時に、開かれた討議と差異に対する寛容さという規範を弱体化させ、それよりもイデオロギーの一致を求めるような、一連の新しい道徳的態度と政治的コミットメントを強化してしまっている」
保守派による「キャンセル・カルチャー批判」の事例というのは、とりわけ2020年代になってからはほとんど枚挙にいとまがない。
毎月のように何か出てくるんですが、ただ時間がないので、
ここでは学問の自由に関わる、そして最も知られた例の一つを挙げておきたいと思います。
何かというと、2020年に公開された「正義と開かれた議論についての書簡」というものです。
一般的にはハーパーズ・レターと呼ばれるんですが、その公開書簡なんですけども、
この公開書簡は、当時のトランプ大統領に代表される右派の動きというのは民主主義の脅威であるというふうに位置付ける一方で、
同時に右派はまずいと、だけど同時に左派の間にも異なる見解に対する不寛容がまん延しつつあるというふうにして、
ここの何か不寛容とかそういう表現が、先ほどちょっとお示ししたブッシュ・シニアのポリコレ評価と、
用語としてこう微妙に近似しているのは非常に興味深いところなんですが、
とにかくただこれだけ見ると何でもない主張に見えるんですけれども、
この公開書簡、例えばノーム・チョムスキーとか、サルマン・ラシュディ、マーガレット・アトウッドなど、
非常に有名な人たちを含む153名の研究者・作家・ジャーナリストが署名しているんですけども、
この公開書簡、何でもない、割とこう、どうでもいいというか普通のこと言ってるように見えるにもかかわらず、
公開されるとすぐに「キャンセル・カルチャー自体をキャンセルしようとする公開書簡である」っていう形で、
人種的・性的マイノリティを中心とする若い左派層から大きな批判を受けることになります。
キャンセル・カルチャーという用語は、それどころかキャンセルっていう用語も1回も使われてないんですね。
じゃ何で批判が来るのかっていうと、ここ(=スライド)にあるんですけども、
「とりわけ高等教育、報道、慈善事業、そして芸術活動など、社会におけるより一層の平等と包摂を求める声」というような
「必要な過去の清算」、この清算というのはReckoningという言葉を使うんですが、これが同時にそれは必要だと、
だけど同時にそれが「開かれた討議と差異に対する寛容さという規範を弱体化させ、それよりもイデオロギーの一致を求めるような、
一連の新しい道徳的態度と政治的コミットメントを強化してしまっている」というふうに言うと、
この表現が、とりわけBlack Lives Matterを通じて、
Racial Reckoningって人種的な過去の清算の盛り上がりを迎えていた英米両国においては、
人種主義への批判そのものを不寛容だと見なす「キャンセル・カルチャー批判」の文脈につながる書簡だというふうに受け止められた。
同時に、キャンパスにおけるポリティカル・コレクトネスの批判者として知られていた、
ハーヴェイ・ワインスタインの弁護を引き受けたことで、学生から抗議を受けてハーバード・ロースクールの学部長職を退くことになった、
この公開書簡の公開時にはトランス排除言説の支持者として知られていて、その言動に批判が集まっていた、
この公開書簡が「キャンセル・カルチャー批判」の一翼をなすものと受け取られた一因ではあったと思います。
この書簡は、先ほどもちょっと申し上げたように、例えば左派の代表的知識人と見られてきたチョムスキーが署名をしている。
同時に、ネオコンサバティブの論者である、例えばフランシス・フクヤマみたいな人も署名してるんですね。
つまり従来の分け方で言えば、まさに右も左もなく同意できる原則を語っているように見える。
にもかかわらず先ほどから申し上げているように、
実際には、より若手のマイノリティのライターとか研究者から強い批判が出る結果になった。何でか。
恐らくこれは、後者に当たるより若いマイノリティの人たちというのは、
近年では力のある地位にある人々が、自分たちの差別的・抑圧的な言説の責任を問われたときに、
その批判や糾弾を振り払うために使う枠組みになってしまっている、ということを感じ取っているのに対して、
フクヤマにしてもチョムスキーにしても、ある程度は地位が固まった偉い人たちっていうのは、
その事実をあまりきちんと把握できてなかった、いうことではないかと思います。
2022.7.24 一般公開シンポジウム 「フェミ科研と学問の自由」
https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI
長いため講演部Part1~Part5+質疑応答の6部に分割する。
分割の境界はスライドにある番号に従うが、副題は増田の判断である。
スライドはすべて図表のない文字ベースのものであったため、引用記法を用いて本文に組み込んだ。
講演部については、「女性スペースを守る会」が公開している文字起こしをベースに、
増田が誤字の修正や、句読点の変更、改行の追加などの編集を行った。
まず、江口聡先生による、8/9のブログ記事は必読だと考える。
加えて、講演に対する批判として書かれたものではないが、一般論として「キャンセル・カルチャー批判」的な立場で書かれたベンジャミン・クリッツァー先生の記事、
なども参考になる。これら2記事は、江口先生も講演に欠いている「ミルのタイプの言論の自由の擁護」として紹介されている。
また、あまり整理がされていないが、この講演に対するTwitter上の批判的な反応を一覧できるものとして、
他、法学の専門家による分析という点で他になく注目に値するものとして、
(あと、この書き起こしを編集している私自身も手前味噌ながら批判記事を書いている。「清水晶子先生の講演を読んで見る (1) 「学問の自由」の定義ってなんだろう」anond:20220809001101 )
anond:20220805225632 Part1 〜学問の自由とその濫用〜
anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略〜
anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜
anond:20220805230307 Part4 〜キャンセル・カルチャー批判〜
anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てたキャンセル・カルチャー批判のメカニズム〜
anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答〜
https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=2457s
40:57~48:23
清水さんは東京大学大学院総合文化研究科で教鞭を執られています。
研究関心としては非規範的な身体と性の政治、とりわけ身体の他者性、自己表象と生存の戦略、可視性を巡る問題などがあります。
最近は英語圏のフェミニズムおよびクィア理論史を改めて辿ることにも興味があるとのことです。
主な著作に、
Lying Bodies: Survival and Subversion in the Field of Vision、英語の本です、2008年、
「埋没した棘――現れないかもしれない複数性のクィア・ポリティクスのために」、2019年、
『フェミニズムってなんですか?』、2020年、などがあります。
清水晶子:
はい、ご紹介ありがとうございます、清水晶子です。もうそのまま入っていきますが、
本日は「学問の自由とキャンセル・カルチャー」というタイトルで報告をしたいと思います。
少し方向性が違うかもしれないんですが、よろしくお願いします。
学問の自由とは
「学問の自由という原則は、学術コミュニティの構成員、すなわち、研究者、教員や学生が、倫理的規則と国際的水準に関して学術コミュニティが定めた枠組みの中で、そして外部からの圧力を受けることなく、学術的活動を追求する自由と定義できる」
学問の自由というところからいきたいんですが、学問の自由とは何を指すのか。
政府なり場合によっては非常に強力な宗教だったり経済的な権力だったりというところからの圧力を受けることなく、
さらに言えば個々の研究者が、大学当局だったりとか大学の経営陣あるいは多数派の社会的通念・経済的な要請などからの
不当な干渉や抑圧を受けることなく、学問的良心と手続きとに従って真理を探究する自由、というふうに考えることができる。
例えば、1998年の国際大学協会声明「学問の自由、大学の自治と社会的責任」という文書があるんですが、これによると
「学問の自由という原則は、学術コミュニティの構成員、すなわち、研究者・教員・学生が、
倫理的規則と国際的水準に関して学術的コミュニティが定めた枠組みの中で、
そして外部からの圧力を受けることなく、学術的活動を追求する自由と定義できる」というふうにされています。
学問の自由というものの基本がここにあるというふうに考えると、フェミ科研裁判の文脈における学問の自由の主張というのは、
ある意味まさにここに相当するもの、王道の部分というふうに言うことができるというふうに思います。
「過激な性教育・ジェンダーフリー教育調査プロジェクトチーム」
残念ながら、日本でフェミニズムとかマイノリティの政治に関わる研究者にとって、
今言ったような意味での学問の自由というのは、必ずしも安定して保障されてきたものではない。
だからこそ、その必要性というのはしばしば痛感もされてきましたし、主張もされてきました。
2000年代前半のフェミニズム女性運動へのいわゆる「バックラッシュ」いうのがありまして、
ここでは与党自民党のプロジェクトチームにおいて、ジェンダーという語それ自体の使用に疑義が提示されたりしている。
2014年には、いわゆる「従軍慰安婦」問題を取り上げた広島大学の研究者の授業というのが、
先ほども産経新聞出てきましたけど、ここでも産経新聞ですが、産経新聞によって吊し上げにあって、
批判や抗議が大学に殺到し、日本科学者会議広島支部幹事会が学問の自由の侵害であるというふうにして、
産経新聞に抗議をする、声明を出すという事態になったりもする。
もちろんさらに記憶に新しいのは、2020年日本学術会議の会員任命拒否ですね。つまり当時の菅内閣総理大臣が、
日本学術会議が会員候補者として推薦した内の6名の任命を拒否した、というかしなかった件ですよね。
この任命拒否については、憲法23条の保障する学問の自由を脅かすものであるというふうにして、
2011年11月に、日弁連が「日本学術会議会員任命拒否の違法状態の是正を求める意見書」というものを総理大臣に提出をしていると。
この意味での学問の自由の重要性というのは、本日のシンポジウムのいわば前提になっているものだというふうに考えます。
差別的・抑圧的な言説に対して政治的・経済的に力のない側、社会的少数派の側からなされる批判や異議申し立てを「学問の自由の侵害」とする言説
その前提をご確認いただいた上で、私の報告は少し角度を変えて、学問の自由という主張や枠組みがどう利用されているのか、
もう少し強く言うと、どう濫用されているのかでもいいかもしれないんですが、それを考えたいと思います。
今申し上げたように、従来はそして一般的には、学問の自由というのは、
国家とか、強力な宗教団体、経済団体、多数派の社会通念や経済的要請、などなどの圧力を受けることなく、
研究者の社会的通念と研究の手続きに則って真理を探究する自由を指す、というふうに理解されています。
力のある人たちとか多数派にとって都合が悪い、あるいはそこにとって利益にならないというだけの理由で、
研究教育を抑圧したり不当に妨げたりすることを困難にするはずのものです。
ところがこの学問の自由の主張が、全く逆のベクトルで利用されることがある。
すなわち差別的・抑圧的な考察や言説に対して、政治的・経済的に力のない側、社会的少数派の側からなされる批判や異議申し立てを、
これは「学問の自由の侵害」であるというふうにする言説、というのが見られるようになっている。
これは日本国憲法で保障される学問の自由からはかなりかけ離れたもので、何を言ってるんだというふうに思われるかもしれません。
けれども法的な解釈とは別のところで、こういう言説上の戦略というのが一定の効果を持ってきているのも事実です。
二面での闘い
結果として、フェミニストとして学問の自由を考えるにあたって、
私たちは一方では、フェミ科研裁判のように国家による学問の自由の明白な侵害というものと闘わなくてはいけない。
けれども同時にもう一方で、学問の自由というのが、差別的あるいは抑圧的な現状を追認し、
抑圧されてきた側からの異議申し立てを封じる目的で動員されるということに対して警戒をしなくてはならない。
学問の自由を巡っては、フェミニストには現在そういういわば両面での闘いというものが要請されている。
この現状は忘れるべきではないと思います。
実は今日、私からお伝えすべき論点はそこに尽いているので、ここで報告終わってもあんまり問題ないっていう感じなんですが、
ちょっとさすがにそれでは簡便過ぎるので、この後の時間を使って、
こういうタイプの、マイノリティの権利主張を抑圧する目的で動員される「学問の自由の侵害」という枠組み、
この言説というのが具体的にどう現れてきたのか、
これが非常に大きな論点になってきた英語圏の動きというのを中心に、簡単にまとめてご説明したいと思います。
anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略〜
https://twitter.com/koichi_kawakami/status/1549380484190597120
元首相の襲撃犯の動機として、にわかにクローズアップされているカルト宗教団体の問題は、大学の教員には長年にわたり身近な問題である。
阪大では、新入生の入学ガイダンスで詳しく説明し、また一年生の授業担当教員は授業の中でも注意を喚起することになっている。
私は昨年まで過去20年以上、 一年生の細胞分子生物学の授業を担当していたので、その中で必ず夏休み前にこの件に関する注意をする習慣になっていた。というのは、夏休みの初期に、 彼らは合宿と称して洗脳の会を開催するからだ。
下写真に示すようなスライドを使って注意を喚起するのだが、 ある年、授業が終わって部屋に戻ると受講生の一人から電話がかかってきた。
「自分が参加しているサークルの活動が、先生が例にあげた活動そのものなので心配になった」というのだ。
私の部屋にすぐに来るように指示し、 学生が来るまでの間に、学生相談室担当の教授に電話を入れ、 サークル名を伝えると、 「藤田先生、ドンピシャです。 ○○○○が関わると私どものリストに載っている(非公認) サークルです。学生の携帯電話を電源オフにし、 先生同伴で学生を私のところへ案内してください。 私に引き渡すまで、 トイレを含めて学生が一人になることがないようにお願いします」 という返事だった。
その後、 サークルからの脱会(もちろん、教員が行い、本人がサークルメンバーと接触しないようにする)、携帯電話の番号変更、アパート引越しなど様々な対策がとられた。 聞けば、 その学生が私に連絡をしてきた一週間後に、当該サークルによる 「聖書の勉強会」と称した数日間泊まり込みの合宿が予定されていたのだった。
一旦、洗脳が成立すると、 彼らは「向こうの世界」へ行ってしまい、元に戻すことが家族や友人をもってしても困難であることは、 オウ○の例を見ても、今回の襲撃犯の母親の例を見ても明らか
であり、本当に危機一髪だった。
そのような年齢のお子さんをお持ちの方はご注意を。