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2022-10-10

ワートリ胸カップ増田へのレスポンス

ワールドトリガーは胸のカップ表記をやめてほしいという話

https://anond.hatelabo.jp/20221008200247

どうかと感じるポイントをまとめた。

長い文に長いレスを付けたから読むのは3まででも十分。

  

  

  

1.「徹頭徹尾私のお気持ち」→「結局は倫理観問題

ワールドトリガーは胸のカップ数(バストサイズ表記をやめてほしい。

これから文章はただ上の事を言いたいがために書いたものであり、

私の主観に基づく、徹頭徹尾お気持ち』だ。

最初ここ読んで期待した。

ようやくこの手のこと「自分感情」として整理してきちんと言える人が出てきたのかなと。

   

けどすぐにずっこけさせてくれる。

結局、この件は倫理観価値観問題なのだろう。

倫理観

 

なんやこいつ結局は自分感情が「倫理」かよ。

自分感情と「自明万民が従うべき正義」みたいな妄想区別しておくことが出来ない。  

なら最初から自明倫理に沿って葦原大介糾弾する!」って書き出しをすればいいのに、たぶん表現規制派のお気持ち規制への批判見て表面的に学習して対応したんだろう元増田は。

  

でも本当のところで何言われてるのか全然理解出来てなくて

自分気持ち」→「これは議論余地なき倫理」といういつもの規制スライドをキメてしまう。

  

でもせっかくだし読んでいく。

  

  

2.自分お気持ちをアウトソースする卑怯

私は『ワールドトリガー』という作品が読み継がれて欲しい。

本筋と関係ない、バストサイズ表記などで弾かれてしまって欲しくない。

(弾いてるのはお前だろ? という指摘を頂くかもしれないが、『倫理観的に良くない』という評価がどれほどマイナスになるかは皆さんご存知かと思う)

「私の気に入らぬ当該描写は「非倫理的」ー

 私はいいけどキャンセルされてしまうぞー?損だぞー?

 それでいいのかなー?」

だってさ。

  

カスが。

 

 

『昔の価値観のままで出力したもの』と、『今の価値観理解して、その上で出力するもの』には天と地ほどの差がある。

結局自分要求と主張の論拠を全部アウトソース

  

自分お気持ちと同方向の「価値観の変化」というものがあり(それ貴方妄想ですよね)

その変化に追従しないことは許されないのであり

葦原は変化に追従せずに自分の『性癖』で描いてるからダメなんだってさw

    

このカスが。

 

結局自分意見要求を表明するうえで

一番卑怯で腐ったやり方を選んじゃうんだよね。

いっつもそうなんだこの人達

 

この「世間がそうなっている!」「未来はそうなっていく!」的な言い方すれば

自分責任回避できるし表現規制の誹りも回避できるはずだという

そういう甘い考えで何度も何度も見え透いた同じトライを繰り返してる。

  

どうしてもこの責任逃れしながら表現規制するという誘惑から逃れられねーみたいなんだよな。

 

    

3.自分気持ちに人が従うべきだと無邪気に信じ込んでいる  

葦原大介先生がいわゆる『性癖』のままに描いているのか、または現在価値観ジェンダー観を考慮した上で好みと天秤にかけ、

その上でバストサイズなどの描写を行っているのかは一読者の私にはわからない。しかし、私には前者のように思えてならない。

葦原大介が『性癖』のままに描いてたら何が悪いの?

そのお前が主張している「価値観の変化」や「今の価値観」の方が優位で従うべきだって言う根拠は何なの?

  

しかもさあ

仮にそういう「価値観の変化」「今の価値観」が閣議決定された実在法令であってもそんなもんクソだと思うけど

実際のところはそんなもんないっつうか、お前が自分お気持ち正当化権威化するためにそう言い張ってるだけだよな?

アホが。  

    

で、改めて、   

なんでおめーみたいな頭悪いカスお気持ち

作者の葦原のシュミより優先されるんだよ?

「葦原のシュミでは?」とか言い出すなら全てがとっくに葦原のシュミじゃねーか。

隊員を未成年にすること自体葦原のシュミじゃねーか。

未成年が戦って緊張し喜び悩み恐怖し挫折や成長するところを描きたい。

未成年の肉体が躍動したり傷ついたりするところを描きたい。

どこまでも葦原が選ぶ葦原のシュミじゃねーか。

 

好き好んで葦原のシュミを何十巻と読んできたくせに

一か所気に入らないところがあったら

「これ葦原のシュミで描かれてない?」って言いだすのなに?

どんな草キメてたらそこまでマヌケ発言できるの?   

 

「葦原のシュミで描いてないか?」「価値観の変化に従え!」 

ってのは本当に、ワートリを何だと思ってる発言なんだろうか?

    

たとえば北朝鮮刊行物に載ってる漫画ならそういう指弾はありだ。

「これ作者の趣味で描いてないか?」「党の価値観に従え!」ってな。

お前はそのレベルバカなことを言っている。

  

何故創作物で作者のシュミよりお前の気持ちが優先される?

独裁者幼稚園児にしか持てないはずのマインドをいい歳こいて開陳しないでほしいんだよな。

プーチンフレンズならさっさと義勇兵に行ってクリミアウクライナの魔の手から救って来いよ。

  

     

    

4 「差別助長する」と示唆する

当然表現規制十八番差別助長する!」も実績解除してくれてる。

そして、少年漫画であり、今から大人なる子どもたちが読む漫画からこそ

ジェンダー差別ルッキズムに繋がりかねない描写には細心の注意を払うべきではないだろうか。

「繋がりかねない」って何?

 

漫画表現からどういう機序ジェンダー差別ルッキズムに繋がると主張するかの論立て

漫画表現による悪影響を確認できるエビデンスデータ

ぐらい揃えてから規制根拠にしてくれっていつもいつも言われてるよな?

  

ボンヤリ「差別に繋がりかねない」で規制唱えていいの?

じゃおめーの好きなもん並べてみせろよ。

全部に同レベルの難癖を見事に付けて見せてやるから

そんなガバでいいなら1個につき1秒で捻りだしてやるよ。

 

お前がお前の好きな物を楽しめてるのは

お前みたいなモノ考えるの苦手なバカ規制権力さないよう先人が抵抗してきたおかげだぞ。 

 

 

5.よく考えず「ルッキズム批判

というかさあ

お前は本当にお前が楽しんでるものルッキズムがないと信じてるのか?

 

例えば、

本当にルッキズム的な要素を「細心の注意」払って取り除くなら

なんでお前はバストサイズは狩って身長データは狩らないの?

 

あの世界では体格は強さに繋がらないか

バトルを楽しむのに身長データ必要ない。

 

なぜ事細かに身長が設定され公開されてる?わかりきってるよな?

「このキャラは背が高くて格好いい」

「このキャラは背が小さくて可愛い

「このキャラとこのキャラが話すとこれくらいの目線差が出て萌え

なんてこと作者も読者も楽しんでるからだろ?

   

お前も絶対キャラに好きな容姿ってものがあるだろ?

なんでそれは取り締まり対象じゃないんだ?

身長データ萌えるなんてまさに「ルッキズムに繋がりかねない」んじゃねーか?

    

お前のガバ論法に従えばキャラの見た目は削除すべき。

コナン犯人みたいに描こうぜ。それか隊服を男女ともブルカにする。

   

なあ。 

お前が気軽に言うルッキズム正味本当に考えてる?って話なんだよ。

全然真面目に考えてる痕跡が見られないから。

  

イスラム教仏教は真面目に考えてるよ。

ムスリムは女に布被せて容姿わかんなくするし

出家比丘は髪剃って糞掃衣まとって見た目を放棄する。  

 

結局それぐらいにやらない人の言うルッキズム批判というのは

自分容姿の好みを楽しむけど自分の気に入らない好みは取り締まりたいっつー恣意的バカ妄言だろ?

  

お前が好みのキャラの細かい設定読みたいのと同じ次元バストサイズ読みたい奴もどっかにいる。そこに上下も貴賤もねーだろが。

     

なるほど、実際にいわゆる『腐女子である私は、男女ともにキャラクターを性的な目で見ることもある。

だが、バストサイズ表記が無いだけでキャラクターを性的な目で見ることが全くできなくなるのだろうか。

その程度の劣情なのか。読者が勝手キャラクターを性的に見る楽しみ方が根本から否定されるのだろうか。私はそうは思わない。

かっけーw

 

じゃあ烏丸かいちいちイケメンに描く必要もなくね?

マジでキャラコナン犯人でもブルカでもいいわけだ。

ブサメンに描いてもラクガキで描いてもいいな?

ルッキズムに細心の注意を払った表現です。各々心の中で想像で頑張ってください」

おめーそれでもワートリ買うのか?

買わねーくせによ。

 

人に要求する時だけ高い水準の努力と「細心の注意」を求めるけど自分欲望快楽にはノータッチ、それどころかちょっとでも嫌なことあればピーピーいう。

 

こういうダブスタ自分で気にならないの?

自省や自発言の反転チェックみたいなことって表現規制派の精神活動には存在しないわけ? 

  

 

6 「推奨してるから

 私がワールドトリガー女子の胸のカップ表記をやめてほしい理由は、

キャラクターを、たとえ未成年でも性的に見ることを『作者が推奨しているようで』】嫌だからだ。

そこに『推奨してる』と因縁付けるなら

作者はあらゆるキャラに対し読者が欲情することを『推奨してる』と思うよ。

 

お前は違うの?

お前の推しキャラへの感情性的ものが無いと言える?言えねーだろ?

作者の提供する絵、エピソード、設定、描写、すべてがキャラ欲望を持つことを『推奨』していてそこには性的感情も含まれてるよな?

 

 

お前の論理ならワートリに細かいクレーム付ける迂遠方法よりもっと簡単根本的な解決方法がある。

未成年キャラ禁止したらいい。

全ての漫画において。

  

どうしたってぜってーキャラ萌える奴は出るんだからさ。

キャラ萌え実在社会未成年への性犯罪みたいなもの区別つけられないお前みたいな人は、未成年が出る漫画を一切楽しむべきではない。

未成年が出る漫画の一切はお前の言う「未成年性的に見ることを推奨する漫画」そのものだ。

 

お前がお前の論理を本当に信じてるなら

お前の目から見て殆ど漫画が汚らわしい罪に満ちた汚物のはずなんだ。

 

実際そういう宗教の人は結構いるから。

原理主義イスラム教とか統一教会かに既に入ってるならお前の話わかるよ。

  

でもそうじゃないだろ?色々楽しんでるんだろ?

まりお前の論理は口先だけ、因縁付けの為に後から捻りだした浅い屁理屈であって、「細心の注意」なんかどこにもねーんだよ。

  

ただただ自分の気に入らない物を抹殺できないかって無い知恵絞って理屈をこねたというだけ。

もっと人の役に立つことに脳使えよ)

   

   

未成年問題にする時お前の論理だと「葦原は14歳戦争に行くことを推奨している」とかも言えるはずなのにそこにも反応しない。

屁理屈なりに自分でチェックして「上手く行くかな?」ぐらい考えることもしねーのかお前は。

 

 

7.「ジェンダー観が遅れているから」

ワールドトリガー作者・葦原大介先生ジェンダー観の遅れについては度々ファンからも指摘されている。

結局「我々の進歩についてきていない反動である!」というバカ進歩派のテンプレが始まる。

ジェンダー観とは何か、何故正しいか、何故従わせることが許されるか、

論理一切なし。

     

自分と同じ意見だけを「ファン」とし自分と違う意見自分意見に反対する意見無視し「ファン」に勘定せず客観的データはない。

から何までいつもの仕草だ。

   

ならなんで最初だけ、自分の頭と責任発言する人間の振りをした?

バカでーすって最初から書け。

 

8.「キャラ性的に見ることがワートリの主題なのか!」

 ワールドトリガーの『良さ』は綿密に錬られた世界観や読者の発想のさらに上を行く展開、

しっかり個性がある一人ひとりのキャラクターなどなど多岐にわたる。

バストサイズ表記が無くとも十二分に面白いのだ。

バストサイズが無くても面白い」が事実でも

バストサイズをなくすべき」という主張の論拠にならない。

無意味発言をするな。

   

四肢欠損描写が無くても鬼滅は面白い」が事実でも

「だから四肢欠損描写をなくすべき」ということにはならんし余計なお世話だ。

  

  

しかし、ワールドトリガー主題はそこではないと思うのだ。

少なくとも私は、「ワールドトリガーキャラクターを性的に見ることにも重きを置く漫画である」というメッセージを受け取れない。

単行本カバー裏バストサイズ記載されてたら

ワールドトリガーキャラ性的に見ることが主題漫画」になるのか。

 

言ってる意味が分からねえ。

  

ウソも下手なんだからせめて正直に書けよ 

単行本の片隅に記載されてるのすら我慢ならなくて抹殺したいんです!」って。

何が「主題」だこのアホタレが。

 

 

9.結局腐女子学級会文化の持ち込み

ワールドトリガーは『何でも許せる方向け』『嫌な方はブラウザバック』などの注意書きがある二次創作ではない。

うへっ。  

  

あのさあ!

そういう腐女子学級会特有受け手不快感絶対視で

すぐアヤつけてリンチするのが正義

攻撃側超有利で調整ミスったクソゲーみたいなルール

腐女子界の外に持ち出してくんのやめよう?

ねえ!女子中学生じゃねえんだから!!!

   

なんだただのバカ腐女子じゃねーか。

    

お前みたいに越境干渉していいなら俺はむしろその胸糞わりい腐女子ワールドに攻め込んでクソみたいなお気持ちリンチ慣習滅ぼしてーわ。

 

なんでお前みたいなカス支離滅裂で非論理的なお気持ちクレームが通って

漫画やら書いてる側がそれに屈して頭下げる?ほんと創作腐女子には同情する。

 

お前が絶対視してるその不潔なルール、少しも自明でも普遍的でもねーからな?

本当にバカもいい加減にしてくれよ。

頭悪さが天元突破してんだよ。

 

 

ワートリを腐女子が読むのはいい。

キャラホモ化して楽しむのも自由だ。

けどお前等のその腐れ腐女子学級会ルール作品ファンや作者を支配しようとするな。

  

そもそも女性向けや腐女子感性からは出てこない少し外れたものが欲しくて少年漫画を見るんじゃないのか?

そこに腐女子感性クレーム入れてどんどん自分達に同化させたら結局当初目当の差異うまみもなくならね?

  

全てを腐女子感性ルールに塗り潰すのって腐女子幸せになるか?

 

 

10.まとめ

今回勇気をだしてこの文章をアップする。

勢いのままに書き殴ったので、論理的な不足・破綻、誤字脱字等あるだろう。(中略)ご容赦願いたい。

時間が無かったのでラクガキです;;」って言いながら絵を出す奴か?

     

お前は自作絵アップしてんじゃなくて葦原大介とワートリにここまでアヤ付ける文を公開している。

差別助長する」みたいなことまで示唆した文だ。

せめて「私の全力でチェックし全能力を込めました!」が礼儀じゃね?

   

 

そもそもここまで見てきたお前のカス責任回避とアウトソースと0エビデンス因縁付けの、

どのあたりに「勇気」なんか示されてたんだ?

 

まさか自分の文がボコボコ反論される可能性の恐怖に耐えましゅうぅ」なんてことを勇気とか言っちゃってんの?

 

本当に徹頭徹尾自分のことしか考えない、

世界自分しかいないのな。

  

好きだと言うワールドトリガーやその作者のことすら本当のところお前の世界の中に他者として実在しない。

好きな物自分同化し異物は許せない世界

 

から気に喰わない要素見たら不正義だと確信して

赤ちゃんみたいなお気持ち発表に至る。

 

けど自分しかいない世界に生きてるので他者通用するプロトコル論理なぞ操れず、

どんなに頑張っても支離滅裂な非論理お気持ち長文になって

なんやこいつアホなんか」と読む人を呆れさせる。

この繰り返し。

  

ずーっとずーっとそういうことやってるよな。

2022-07-23

2022-07-23

創価学会3世で未活動関係も断っているが、公明党に票を入れてる

理由簡単、バチが怖いから。

物心つく前から「勤行しないとバチがあたるよ!!」と、幹部だった祖母仏罰の恐ろしさ刷り込まれ学生部男子部に上がるにつれそれが学会組織公明党になり、学会と疎遠になっても私は票田として機能している。

一定年代以上の福子は、絶縁されたり破門(って今は言わないのか?)される=仏罰が下る、という畏怖があって活動続けている人も多いと思う。

から創価学会カルト」って誰かに言われると、反射的に「いやそれは違うよ」と言ってしまうのは、否定しないと自分にバチがあたるという恐怖が少なくともあるから

距離を置いても、時間が経っても、この洗脳はなかなか解けない。どうしたらいいのかね?

anond:20220723204934

興味深い。

本物の仏教のほうは、とくにペナルティないみたい。

波羅夷罪(はらいざい)[1]、あるいは単に波羅夷(はらい、巴:梵:pārājika, パーラージカ、波羅市迦)[2]とは、仏教出家者(比丘比丘尼)に課される戒律具足戒)の内、僧団(僧伽永久追放に値する最重罪の総称

概要

上座部仏教のパーリ律の場合比丘男性出家者)は淫・盗・殺・妄の4つ(四波羅夷)、比丘尼(女性出家者)には更に触・八事・覆・随の4つを加えた8つ(八波羅夷)がある[2]。

もし、出家者にして戒律身分を捨てて還俗をしないで、この戒を破った際には、全ての資格ととを剥奪され、仏教教団から追放されて仏教徒では無くなり、二年間、一切の宗教活動禁止しなければならない重い罪となる。

また、後に罪を悔い改めたとしても、仏教徒に戻ることは許されるが、再び出家である僧侶となることはできない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E7%BE%85%E5%A4%B7%E7%BD%AA

2021-01-30

「実際、大乗仏教と比べて紛争なども絶えないし。」

emuaeda 仏教研究しても仏教からは何も学べなかったのかな。個人的感覚だけど、上座部仏教を学ぶ人は本当の仏教だと主張が激しく攻撃的かつ排他的な人が多い気がする。実際、大乗仏教と比べて紛争なども絶えないし。

2021/01/30

上座部仏教大乗仏教なら確かに前者が後者に対し批判的になりがちだと思う。

(そういう対立が出る場合はということであって、その二者が同席したって99%そんな論争なんかしないが)

 

なんでかというと上座部の方が今となっては教理があるから

大乗仏教って何をやるんですかっていうと、お葬式やって、ふにゃふにゃしたお説教して、いい加減なもんでしょ。

から地元檀家が減ったり葬式ビジネスが揺らいだりした途端に大乗仏教のお坊さんには売るものが無くなっちゃった

から上座部のお坊さんが売ってるような瞑想を急ごしらえで真似る大乗のお坊さんとかが増えてきた。

 

このあい増田でバズってたお坊さんだって出家比丘智慧と言えるようなものがどっかにあった?

どこにもないでしょ。

説教れいい話慣れした学校道徳先生とかが言いそうな話でしかなかった。

 

大乗仏教にも元から売り物がなかったわけじゃなくて

色んな呪術的な儀式や祭礼とその格式みたいなものは構築してた。

でもそういうのに檀家としてガッツリ付き合ってくれる人達が減れば立ち行かなくなってくるよね。

その儀式に何の意味があるんだって言われると文化財的な価値認めてもらえない限り「無」だしさ。

 

上座部の特徴は何かというと、理屈っぽい。

このあいだの増田のお坊さんに理屈があった?ないよね。

情念というか、元増田に対する寄り添いの感情で押し切るような話だってでしょ。

 

上座部のお坊さんはあんな風に「温か」くはなくて、結構突き放したようなことを言う。

もっとましなことで悩んでもらえませんか?ぐらい言うことだってある。

 

鈴木大拙大乗を情の仏教上座部を理の仏教だみたいに書いてたけどまさにそれ。

でも上座部立場から言わせれば、情でどうするんだと。

なんとなく寄り添って、肩入れして、励まして、あとはお経を唱えるだけで阿弥陀様が救ってくれるからねとかいって、それで解決するのかと。

ちゃん仏法を説いて、理屈説明して、実践手段を与えて、やらせて、指導して、時に「だらしねえぞ」としばいて、頑張らせる、当人が頑張るのが仏教でしょうと。

 

もともと大乗仏教という名乗りは上座部仏教を「小乗」として見下し自分達を持ち上げる名乗りだったわけ。

何が「大」なのかというと救う対象スケールが大だと。

念仏を一回唱えただけで極楽往生間違いなし!みたいなことじゃなきゃ世の中を広く救う、大多数のバカまで救う事なんてできないでしょうと。

 

これに対する上座部反論

いや念仏唱えて救われるってもう仏教でも何でもないし、呪術迷信凡庸宗教ですよねと。

そんな話を広めたって迷信広めてるだけで誰のことも救ってないじゃんと。

自分達の教えは自分で頑張る人しか救わないけど、でもお釈迦様の教えがそうなんだからさと。

釈迦さまは救い主じゃなくて教師だと名乗っていて、頑張るのはあんたらだよと言ってたよねと。

 

このような大乗VS上座部の激しめの論争がかつてはあり、(何百年以上前、さかのぼれば二千年前からの話よ)

大乗の方が後からできたものの常として勢いも鼻息も強くて攻める側だったの。

 

でも現代では大乗大衆向けヒット商品だった呪術的な儀式とか念仏とかが全部通用しなくなって

上座部の教えとか瞑想メソッドが「マインドフルネス」なんてパチモンが出回るぐらいに売れるようになったわけ。

から今は上座部側の方が理屈大乗に攻め込む立場で、大乗の方がそういう場面ではまあまあと誤魔化す、ぐらいになった。 

 

ただ大乗仏教紛争がないなんて言われるとそれはさすがにどうなのかってことで 

日本の歴史の中で寺同士で殺し合い燃やし合いした荒くれ坊主は全部大乗仏教ですからね。

今でも創価学会が仲間割れした兄弟みたいなとこと争いまくってるけどあれだってどっちも大乗仏教の中の近い宗派でしょ。

 

世界的に見れば上座部仏教仏教徒とイスラム部族と争ってるとことかあるけど

あれは上座部から大乗からっていうよりも政情とか民族とか経済問題なんじゃないのかね?しらんけど。

 

 

当人が頑張るのが仏教” こういう考えが嫌い。どうしようもなくなったときに、絶望しないためにあるというのは宗教の一つの機能の気がする。それがないなら、大乗でいいです

から上座部仏教宗教ではないという人が上座部のお坊さんにもいます

"文化財的な価値認めてもらえない限り「無」"なのは宗教みんなそうでしょ。

宗教そうかもしれないですね。

2019-05-28

ヴィーガニズムと「日本という宗教」の文化衝突について

https://hokusyu.hatenablog.com/entry/2019/05/28/004203

ヴィーガンが、他者に対しても肉食をしないよう勧め、ときにその主張も告発的なものになるのはやむを得ない。…

…われわれは肉食について問われることは覚悟しなければならない。…

まったくエヴァンジェリスト言い回しでありジハーディストの自己正当化論理である。預言の民が他者に対しても邪教を崇拝しないよう勧め、ときにその宣教暴力的ものになるのはやむを得ない。路上爆弾を設置し無辜の異教徒殺戮することも時には仕方がないのであるわれわれは涜神について問われることは覚悟しなければならない。邪教信仰した結果正しい宗教信徒殺害されることは受け入れなければならない。本当にそう言えるのだろうか? 私ならばそうした人とは距離を取りたいと思う。

ヴィーガン昆虫植物生命については無視しているではないか、などの主張である。はっきり言って、このような極論でもって相手ギャフンと言わせたなどと思うのは小学生のうちに卒業してもらいたい。これについては、すでに指摘がある通り「不完全かもしれないが、肉食をするより肉食をしないほうが倫理的である」「そもそも、すべての生命尊重を第一義とするヴィーガニズム以外には無関係」などの反論が思いつく。

違和感は後段に進むにつれ強まり個人的にはここで最も強まる。適当にググってWikipediaの肉食#仏教の項でも見てくるといい。

釈迦仏弟子であった提婆達多が違背した原因は提婆達多菜食主義戒律に含める主張を釈迦が明確に否定たかであると記されているだけでなく釈迦が亡くなった原因は豚肉食中毒であるとされている。(肉食を否定する大乗仏教においては豚の好むキノコを使った料理とされている。)

生き物の殺生を禁止する仏教において肉食が禁止されていない事は矛盾であるとように思われるがこれは当時の肉食に関する宗教論争と関係する。仏教の起こった当時のインドにおいては仏教だけでなくジャイナ教などの多くの宗派がアヒンサー(不殺生)を標榜していた。特にジャイナ教においては畑を耕すことによって虫が殺されることなどを指摘し、肉食する、しないにかかわらず生存する限り間接殺を免れぬことを理由に、無食による自殺最上の行とした。これに対して仏教は間接殺を理論的に突き詰めることの限界理由中道を掲げ実際に生き物を殺す直接殺のみを明確に禁じ、間接殺においてはあくまでも貰い物の肉が、殺す所を見なかった肉、供養のために殺されたと聞かなかった肉、自分の為に殺された疑いの無い肉という「三種浄肉」であれば食しても問題はないとされた。さらにここで重要なのは古代仏教において比丘あくまでも家庭の余った食事物乞いすることによってのみ食を得るため、肉食=肉の購買による間接殺という矛盾が成り立たないことにある。

仏教において「ヴィーガン昆虫植物生命については無視しているではないか」「肉食をするより肉食をしないほうが倫理的とは言えないのではないか」という主張は釈尊から直々に出ているである開祖がやってたことは正しいに決まっている日本の「反ヴィーガン空間において先に挙げた2点への非難他国よりもはるかに強いこと、またその理由をぜひ直視していただきたいものである。これはヴィーガニズム崇拝者が「公の論理」でも「文明人の倫理」でもなんでもよいが崇拝しているドグマ旧約聖書(というのは、仏教の創始よりも後に書かれたものであるが)からの引き写しでありヴィーガニズム倫理的進歩した集団でもなく単にキリスト教系の新興宗教しかない事実裏付けものであると言えるのではないかと思う。反論があるものなら聞きたい。

Anno Domini をまるで異教徒がすべて同意たかの如く common era とか改称しようとしている輩と一緒に地獄へ落ちてしまえ。

2018-05-03

anond:20180503190740

如是。我聞。一時。仏住。王舎城耆闍崛山中。与

比丘衆万二千人倶。皆是阿羅漢。諸漏已

尽。無復煩悩。逮得己利。尽諸有結。心得自在

其名曰。阿若?陳如。摩訶迦葉。優楼頻螺迦

葉。伽耶迦葉。那提迦葉。舎利弗大目?連。摩

迦旃延。阿?楼駄。劫賓那。?梵波提。離婆

多。畢陵伽婆蹉。薄拘羅。摩訶拘?羅。難陀。孫

陀羅難陀富楼那弥多羅尼子須菩提阿難

羅?羅。如是衆所知識。大阿羅漢等。復有学

無学二千人。摩訶波闍波提比丘尼。与眷属

六千人倶。羅?羅母耶輸陀羅比丘尼。亦与

眷属倶。菩薩摩訶薩八万人。皆於阿耨多羅

三藐三菩提。不退転。皆得陀羅尼。楽説弁才。

不退転法輪。供養無量。百千諸仏。於諸仏

所。植衆徳本。常為諸仏。之所称歎。以慈修身

善入仏慧。通達大智。到於彼岸名称普聞。無

世界。能度無数。百千衆生。其名曰。文殊

菩薩観世音菩薩。得大勢菩薩。常精進

薩。不休息菩薩。宝掌菩薩。薬王菩薩。勇施菩

薩。宝月菩薩月光菩薩満月菩薩。大力菩薩

無量力菩薩。越三界菩薩。?陀婆羅菩薩。弥

菩薩。宝積菩薩導師菩薩。如是等菩薩

訶薩。八万人倶。爾時釈提桓因。与其眷属。二

天子倶。復有名月天子。普香天子。宝光天

子。四大天王。与其眷属。万天子倶。自在天子

大自在天子。与其眷属。三万天子倶。娑婆

界主。梵天王。尸棄大梵。光明大梵等。与其眷

属。万二千天子倶。有八龍王難陀龍王。跋難

龍王娑伽羅龍王。和脩吉龍王徳叉迦

王。阿那婆達多龍王摩那斯龍王優鉢羅

王等。各与若干。百千眷属倶。有四緊那羅王

緊那羅王。妙法緊那羅王。大法緊那羅王

持法緊那羅王。各与若干。百千眷属倶。有四

乾闥婆王。楽乾闥婆王。楽音乾闥婆王。美乾

闥婆王。美音乾闥婆王。各与若干。百千眷属

倶。有四阿脩羅王。婆稚阿脩羅王。?羅騫駄

阿脩羅王。毘摩質多羅阿脩羅王。羅?阿脩

羅王。各与若干。百千眷属倶。有四迦楼羅王

威徳迦楼羅王。大身迦楼羅王。大満迦楼

羅王。如意迦楼羅王。各与若干。百千眷属倶。

韋提希子。阿闍世王。与若干。百千眷属倶。各

礼仏足。退坐一面。爾時世尊。四衆囲繞。供養

恭敬。尊重讃歎。為諸菩薩。説大乗経。名無

義。教菩薩法。仏所護念。仏説此経已。結跏趺

坐。入於無量義処三昧。身心不動。是時天雨。

曼陀羅華。摩訶曼陀羅華。曼殊沙華。摩訶曼

殊沙華而散仏上。及諸大衆。普仏世界六種

震動。爾時会中。比丘比丘尼。優婆塞。優婆夷。

天。龍。夜叉乾闥婆。阿脩羅。迦楼羅緊那羅。摩

?羅伽。人非人。及諸小王。転輪聖王。是諸大

衆。得未曾有。歓喜合掌。一心観仏。爾時仏放。

眉間白毫相光。照東方。万八千世界。靡不周

遍。下至阿鼻地獄。上至阿迦尼?天。於此世

界。尽見彼土。六趣衆生。又見彼土。現在諸仏。

及聞諸仏。所説経法。并見彼諸。比丘比丘尼。

優婆塞。優婆夷。諸修行得道者。復見諸菩薩

摩訶薩。種種因縁。種種信解。種種相貌。行菩

薩道。復見諸仏。般涅槃者。復見諸仏。般涅槃

後。以仏舎利。起七宝塔。爾時弥勒菩薩。作是

念。今者世尊。現神変相。以何因縁。而有此瑞。

今仏世尊。入于三昧。是不可思議。現希有事

当以問誰。誰能答者。復作此念。是文殊師利

法王之子。已曾親近供養。過去無量諸仏。必

応見此。希有之相。我今当問。爾時比丘比丘

尼。優婆塞。優婆夷。及諸天龍鬼神等。咸作此

念。是仏光明神通之相。今当問誰。爾時弥勒

菩薩。欲自決疑。又観四衆。比丘比丘尼。優婆

塞。優婆夷。及諸天龍鬼神等。衆会之心。而問

文殊師利言。以何因縁。而有此瑞。神通之相。

放大光明。照于東方。万八千土。悉見彼仏。国

界荘厳。於是弥勒菩薩。欲重宣此義。以偈問

2015-09-19

色々な瞑想まとめ

~ānāpāna-sati(安般念)によって紹介されている呼吸瞑想

Breathing in long, he discerns, 'I am breathing in long'; or breathing out long, he discerns, 'I am breathing out long.' Or breathing in short, he discerns, 'I am breathing in short'; or breathing out short, he discerns, 'I am breathing out short.' He trains himself, 'I will breathe in sensitive to the entire body.' He trains himself, 'I will breathe out sensitive to the entire body.' He trains himself, 'I will breathe in calming bodily fabrication.' He trains himself, 'I will breathe out calming bodily fabrication.'

長く息を吸っているときには「私は長く息を吸っている」とはっきり知り(pajānāti)、長く息を吐いているときには「私は長く息を吐いている」とはっきり知る。短く息を吸っているときには「私は短く息を吸っている」とはっきり知り、短く息を吐いているときには「私は短く息を吐いている」とはっきり知る。「私は全身の感覚を把握しながら(paisaṃvedī)息を吸おう」と訓練する(sikkhati)。「私は全身の感覚を把握しながら息を吐こう」と訓練する。「私は身行(=吸う息)を静めて息を吸おう」と訓練する。「私は身行(=吐く息)を静めて息を吐こう」と訓練する。

~Maha-satipatthana Sutta(大念住経)の瞑想方法

"And how does a monk remain focused on the body in & of itself?

では、比丘たちよ、比丘はどのようにして、体そのもの気づきを保ち続けるのでしょうか?

"There is the case where a monk — having gone to the wilderness, to the shade of a tree, or to an empty building — sits down folding his legs crosswise, holding his body erect and setting mindfulness to the fore [lit: the front of the chest]. Always mindful, he breathes in; mindful he breathes out.

ここにある比丘がいます — 彼は森へ行き、木の陰へ行き、あるいは空家に行き — 腰を下ろして足を組みます。背をまっすぐに伸ばし、そして気づきを(胸の)前部へと向けます。そして、常に気づきをもって、彼は入息します。気づきをもって、出息します。

"Breathing in long, he discerns, 'I am breathing in long'; or breathing out long, he discerns, 'I am breathing out long.' Or breathing in short, he discerns, 'I am breathing in short'; or breathing out short, he discerns, 'I am breathing out short.' He trains himself, 'I will breathe in sensitive to the entire body.' He trains himself, 'I will breathe out sensitive to the entire body.' He trains himself, 'I will breathe in calming bodily fabrication.' He trains himself, 'I will breathe out calming bodily fabrication.' Just as a skilled turner or his apprentice, when making a long turn, discerns, 'I am making a long turn,' or when making a short turn discerns, 'I am making a short turn'; in the same way the monk, when breathing in long, discerns, 'I am breathing in long'; or breathing out long, he discerns, 'I am breathing out long' ... He trains himself, 'I will breathe in calming bodily fabrication.' He trains himself, 'I will breathe out calming bodily fabrication.'

長く息を吸っているときには「私は長く息を吸っている」とはっきり知り、長く息を吐いているときには「私は長く息を吐いている」とはっきり知ります。短く息を吸っているときには「私は短く息を吸っている」とはっきり知り、短く息を吐いているときには「私は短く息を吐いている」とはっきり知ります。「私は全身の感覚を把握しながら息を吸おう」と訓練します。「私は全身の感覚を把握しながら息を吐こう」と訓練します。「私は身行(=吸う息)を静めて息を吸おう」と訓練します。「私は身行(=吐く息)を静めて息を吐こう」と訓練します。あたかも熟練したろくろ工、あるいはその弟子が、ろくろの紐を長く引っぱれば、「私は紐を長く引っぱる」と知り、紐を短く引っぱれば、「私は紐を短く引っぱる」と知るように。これと同じように、比丘が長く息を吸っているときには「私は長く息を吸っている」とはっきり知り、長く息を吐いているときには「私は長く息を吐いている」とはっきり知ります・・・「私は全身の感覚を把握しながら息を吸おう」と訓練します。「私は全身の感覚を把握しながら息を吐こう」と訓練します。

"In this way he remains focused internally on the body in & of itself, or externally on the body in & of itself, or both internally & externally on the body in & of itself. Or he remains focused on the phenomenon of origination with regard to the body, on the phenomenon of passing away with regard to the body, or on the phenomenon of origination & passing away with regard to the body. Or his mindfulness that 'There is a body' is maintained to the extent of knowledge & remembrance. And he remains independent, unsustained by (not clinging to) anything in the world. This is how a monk remains focused on the body in & of itself.

このように、比丘は内部から、体そのものに対して気づきを保ちます。あるいは、外部から体そのものに対して気づきを保ちます。あるいは、内部・外部両方から、体そのものに対して気づきを保ちます。あるいは、比丘は体に関する現象の発生に気づきを保ちます。体に関する現象の消滅に気づきを保ちます。あるいは、体に関する現象の発生と消滅に気づきを保ちます。あるいは、比丘の「体が存在する」という気づきは知識と想起の範囲で保たれます。そして比丘独立を保ち、世界の何物にも執着しません。これが比丘が体そのもの気づきを保つ方法です。

"Furthermore, when walking, the monk discerns, 'I am walking.' When standing, he discerns, 'I am standing.' When sitting, he discerns, 'I am sitting.' When lying down, he discerns, 'I am lying down.' Or however his body is disposed, that is how he discerns it.

さらに加えて、比丘が歩いているとき、この比丘は「私は歩いている」とはっきりと知ります。立っているとき、この比丘は「私は立っている」とはっきり知ります。座っているときには、「私は座っている」とはっきりと知ります。横たわっているときには、「私は横たわっている」とはっきりと知ります。あるいは、体がどのような状態になるのであれ、はっきりとその状態を知ります

"In this way he remains focused internally on the body in & of itself, or focused externally... unsustained by anything in the world. This is how a monk remains focused on the body in & of itself.

これが比丘が体そのものを内部から、あるいは外部から、あるいはその両方から気づきを保つ方法です。そして・・・世界の何物にも執着しません。これが比丘が体そのもの気づきを保つ方法です。

"Furthermore, when going forward & returning, he makes himself fully alert; when looking toward & looking away... when bending & extending his limbs... when carrying his outer cloak, his upper robe & his bowl... when eating, drinking, chewing, & savoring... when urinating & defecating... when walking, standing, sitting, falling asleep, waking up, talking, & remaining silent, he makes himself fully alert.

さらに加えて、比丘が前に進むとき・戻ってくるとき、この比丘自身に完全に注意を払います。何かに目を向けるとき・目をそむけるときも同様に・・・手足を伸ばすとき・曲げるときも同様に・・・自分外套コートなど)を運ぶとき自分の上着・お椀を運ぶときも同様に・・・食べるとき、飲むときに、噛むとき・味わうときも同様に・・・排尿するとき・排便するときも同様に・・・歩くとき、立つとき、座るとき、眠りに落ちる時、起きるとき、話すとき沈黙するとき比丘自身に完全な注意を払います

"In this way he remains focused internally on the body in & of itself, or focused externally... unsustained by anything in the world. This is how a monk remains focused on the body in & of itself.

これが比丘が体そのものに対して気づきを保つ方法です。あるいは体そのものを外部から・・・世界の何物にも執着しません。これが比丘が体そのものに対して気づきを保つ方法です。

2015-04-06

ヴィパッサナー瞑想とはなにか

瞑想とは何か・・・上座部仏教徒にとって、瞑想とはなにかというテキスト的な役割を果たすのは清浄道論です。しかしながら、より実践的な瞑想方法を学ぶためには他の仏典が参照されることもあります。今回は清浄道論でない仏典を参考にしつつ、より具体的に、瞑想とはどんなことをすればいいのかを見てみましょう。

さて、ヴィパッサナー瞑想の詳しい紹介に入る前に・・・そもそも、ヴィパッサナー瞑想はなぜ行われるのでしょうか。それに関して、例えば古代仏典であるMaha-satipatthana Sutta(大念住経)にお釈迦様の言葉があります

以下はブログ多摩丘陵林住記様による和訳版より抜粋

比丘たちよ、ここに一つの道がある。その道とは、人々を清め、悲しみと悲泣を乗り越え、肉体と精神の痛みを滅し、聖なる道を得、涅槃を観るための唯一の道である。それは「四つの念住」である

・この四つとは何か ? 比丘たちよ、比丘は、努力して、正しく知り、気づきをもって、そして世間の貪欲と憂いから離れて、「身」をただ(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)身であると絶え間なく知覚して住むことである

努力して、正しく知り、気づきをもって、そして世間の貪欲と憂いから離れて、「受(感覚)」をただ(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)受であると絶え間なく知覚して住むことである

努力して、正しく知り、気づきをもって、そして世間の貪欲と憂いから離れて、「心」をただ(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)心であると絶え間なく知覚して住むことである

努力して、正しく知り、気づきをもって、そして世間の貪欲と憂いから離れて、「法(ダンマ)」をただ(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)法であると絶え間なく知覚して住むことである

すなわち、ヴィパッサナー瞑想をすることによって、知恵(insight あるいは understanding)が強まり、「自身」という存在をより正しく知ることができるのです。そして、その道を極めることによって、最終的には悟りすら得られる瞑想です。

それでは、ヴィパッサナー瞑想とはどんな瞑想なのでしょうか。ヴィパッサナー瞑想・・・といったときに、もっとも有名なのが呼吸を対象とする瞑想です。この呼吸瞑想はどこで紹介されているのかというと、やはり古代仏典である、ānāpāna-sati(アーナパーナサティ)に記されています。このānāpāna-satiは、日本では安那般那念という名前で知られています

wikipedia - 安那般那念

Anapanasati Sutta(Thanissaro Bhikkhuによる英訳版)

さて、安那般那念の該当部分を見てみましょう。ここにはこう書いてあります。(以下はwikipediaから抜粋

Breathing in long, he discerns, 'I am breathing in long'; or breathing out long, he discerns, 'I am breathing out long.' Or breathing in short, he discerns, 'I am breathing in short'; or breathing out short, he discerns, 'I am breathing out short.' He trains himself, 'I will breathe in sensitive to the entire body.' He trains himself, 'I will breathe out sensitive to the entire body.' He trains himself, 'I will breathe in calming bodily fabrication.' He trains himself, 'I will breathe out calming bodily fabrication.'

長く息を吸っているときには「私は長く息を吸っている」とはっきり知り(pajānāti)、長く息を吐いているときには「私は長く息を吐いている」とはっきり知る。短く息を吸っているときには「私は短く息を吸っている」とはっきり知り、短く息を吐いているときには「私は短く息を吐いている」とはっきり知る。「私は全身の感覚を把握しながら(paisaṃvedī)息を吸おう」と訓練する(sikkhati)。「私は全身の感覚を把握しながら息を吐こう」と訓練する。「私は身行(=吸う息)を静めて息を吸おう」と訓練する。「私は身行(=吐く息)を静めて息を吐こう」と訓練する。

これは呼吸瞑想を紹介する部分です。

しかし、瞑想について具体的に紹介しているのはānāpāna-satiだけではありません。Maha-satipatthana Sutta(大念住経)にも瞑想方法が紹介されています。ここには呼吸瞑想以外の瞑想方法が紹介されています。それを引用してみましょう。以下は英訳版Maha-satipatthana Suttaから引用と、私による(英文の)和訳です。

"And how does a monk remain focused on the body in & of itself?

では、比丘たちよ、比丘はどのようにして、体そのもの気づきを保ち続けるのでしょうか?

"There is the case where a monk — having gone to the wilderness, to the shade of a tree, or to an empty building — sits down folding his legs crosswise, holding his body erect and setting mindfulness to the fore [lit: the front of the chest]. Always mindful, he breathes in; mindful he breathes out.

ここにある比丘がいます — 彼は森へ行き、木の陰へ行き、あるいは空家に行き — 腰を下ろして足を組みます。背をまっすぐに伸ばし、そして気づきを(胸の)前部へと向けます。そして、常に気づきをもって、彼は入息します。気づきをもって、出息します。

"Breathing in long, he discerns, 'I am breathing in long'; or breathing out long, he discerns, 'I am breathing out long.' Or breathing in short, he discerns, 'I am breathing in short'; or breathing out short, he discerns, 'I am breathing out short.' He trains himself, 'I will breathe in sensitive to the entire body.' He trains himself, 'I will breathe out sensitive to the entire body.' He trains himself, 'I will breathe in calming bodily fabrication.' He trains himself, 'I will breathe out calming bodily fabrication.' Just as a skilled turner or his apprentice, when making a long turn, discerns, 'I am making a long turn,' or when making a short turn discerns, 'I am making a short turn'; in the same way the monk, when breathing in long, discerns, 'I am breathing in long'; or breathing out long, he discerns, 'I am breathing out long' ... He trains himself, 'I will breathe in calming bodily fabrication.' He trains himself, 'I will breathe out calming bodily fabrication.'

長く息を吸っているときには「私は長く息を吸っている」とはっきり知り、長く息を吐いているときには「私は長く息を吐いている」とはっきり知ります。短く息を吸っているときには「私は短く息を吸っている」とはっきり知り、短く息を吐いているときには「私は短く息を吐いている」とはっきり知ります。「私は全身の感覚を把握しながら息を吸おう」と訓練します。「私は全身の感覚を把握しながら息を吐こう」と訓練します。「私は身行(=吸う息)を静めて息を吸おう」と訓練します。「私は身行(=吐く息)を静めて息を吐こう」と訓練します。あたかも熟練したろくろ工、あるいはその弟子が、ろくろの紐を長く引っぱれば、「私は紐を長く引っぱる」と知り、紐を短く引っぱれば、「私は紐を短く引っぱる」と知るように。これと同じように、比丘が長く息を吸っているときには「私は長く息を吸っている」とはっきり知り、長く息を吐いているときには「私は長く息を吐いている」とはっきり知ります・・・「私は全身の感覚を把握しながら息を吸おう」と訓練します。「私は全身の感覚を把握しながら息を吐こう」と訓練します。

"In this way he remains focused internally on the body in & of itself, or externally on the body in & of itself, or both internally & externally on the body in & of itself. Or he remains focused on the phenomenon of origination with regard to the body, on the phenomenon of passing away with regard to the body, or on the phenomenon of origination & passing away with regard to the body. Or his mindfulness that 'There is a body' is maintained to the extent of knowledge & remembrance. And he remains independent, unsustained by (not clinging to) anything in the world. This is how a monk remains focused on the body in & of itself.

このように、比丘は内部から、体そのものに対して気づきを保ちます。あるいは、外部から体そのものに対して気づきを保ちます。あるいは、内部・外部両方から、体そのものに対して気づきを保ちます。あるいは、比丘は体に関する現象の発生に気づきを保ちます。体に関する現象の消滅に気づきを保ちます。あるいは、体に関する現象の発生と消滅に気づきを保ちます。あるいは、比丘の「体が存在する」という気づきは知識と想起(注1)の範囲で保たれます。そして比丘独立を保ち、世界の何物にも執着しません。これが比丘が体そのもの気づきを保つ方法です。

"Furthermore, when walking, the monk discerns, 'I am walking.' When standing, he discerns, 'I am standing.' When sitting, he discerns, 'I am sitting.' When lying down, he discerns, 'I am lying down.' Or however his body is disposed, that is how he discerns it.

さらに加えて、比丘が歩いているとき、この比丘は「私は歩いている」とはっきりと知ります。立っているとき、この比丘は「私は立っている」とはっきり知ります。座っているときには、「私は座っている」とはっきりと知ります。横たわっているときには、「私は横たわっている」とはっきりと知ります。あるいは、体がどのような状態になるのであれ、はっきりとその状態を知ります

"In this way he remains focused internally on the body in & of itself, or focused externally... unsustained by anything in the world. This is how a monk remains focused on the body in & of itself.

これが比丘が体そのものを内部から、あるいは外部から、あるいはその両方から気づきを保つ方法です。そして・・・世界の何物にも執着しません。これが比丘が体そのもの気づきを保つ方法です。

"Furthermore, when going forward & returning, he makes himself fully alert; when looking toward & looking away... when bending & extending his limbs... when carrying his outer cloak, his upper robe & his bowl... when eating, drinking, chewing, & savoring... when urinating & defecating... when walking, standing, sitting, falling asleep, waking up, talking, & remaining silent, he makes himself fully alert.

さらに加えて、比丘が前に進むとき・戻ってくるとき、この比丘自身に完全に注意を払います。何かに目を向けるとき・目をそむけるときも同様に・・・手足を伸ばすとき・曲げるときも同様に・・・自分外套コートなど)を運ぶとき自分の上着・お椀を運ぶときも同様に・・・食べるとき、飲むときに、噛むとき・味わうときも同様に・・・排尿するとき・排便するときも同様に・・・歩くとき、立つとき、座るとき、眠りに落ちる時、起きるとき、話すとき沈黙するとき比丘自身に完全な注意を払います

"In this way he remains focused internally on the body in & of itself, or focused externally... unsustained by anything in the world. This is how a monk remains focused on the body in & of itself.

これが比丘が体そのものに対して気づきを保つ方法です。あるいは体そのものを外部から・・・世界の何物にも執着しません。これが比丘が体そのものに対して気づきを保つ方法です。

基本的には上記がヴィパッサナー瞑想だと考えればよいでしょう。このヴィパッサナー瞑想近代指導者たちに、さまざまに解釈されています

注1 ここで、「想起」という言葉は「思い出す」という意味です。

http://surleconomiejp.blogspot.jp/2015/04/blog-post_5.html

 
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