はてなキーワード: 植民地支配とは
https://note.com/lingfieldwork/n/nefd96c0b8e71
いや、物事がなくなるのは悲しいことだ。言葉が失われることはその文化や人種が消えてしまうともいえるだろう。
これは植民地支配や同化政策とも同じで民族の多様性を失わせることにもなるだろう。
が、だ。
なんか、ピンと来ない。関西弁だってなくなるって言う。テレビの影響かしらないけど。みんな東京弁になる。
しかし、アマゾンの奥地の少数民族やチベットの少数民族だっていなくなる。自分たちが気づかないうちにいなくなる。
むしろ、そうやって文字も残さず消えていった民族だって多かったはずだ。
なくなることははかない。だが、それをすべて押しとどめるには私たちに力はない。歴史に血を通すのは言葉だろう。しかし、なくなることに情緒を見出さなきゃならんのだろうか?
勿論タイトルは釣りで、カフカは全世界に影響を与えたユダヤ人かつオーストリア(チェコ)人なわけですけど。
独文学というとカフカ、カフカというと独文学。そんな感じですよね、実際のところ独(語)文学においてはトーマス・マンとかゲーテとか他にも様々な著名な作家がいるわけですけれど、カフカはその研究テーマとしては比較的ポピュラーな御仁であります。ユダヤ人の家庭に生まれ、生地である現在のチェコ=プラハの言語に依らずドイツ語にて創作を目指したカフカの、ミステリアスな人間性はその作品群に対しても同様に、謎めいたベールを投げ掛けています。
カフカの文学をお読みになられたことはございますでしょうか。まあ僕もそれほど熱心な読者とは言えないかもしれないのですが、とりあえず『変身』・『城』・『審判』のほか幾つか著名な短編を読ませて頂きました。まあカフカの作品の特徴は、感情的な部分を敢えて抑制するところにあります。勿論十分に感傷的な部分を持った短編とかも散見されるのですが、基本的に、感情の伝達、あるいはその伝達の手段としての文学というものをカフカはあまり信頼していなかったのではないかとも思われるのです。というのは、基本的に作中人物達は様々な問題に取り囲まれていることが多いのですが、弱音を吐くことがあまりなく、ついでに言えば仮にその感情というものが滲み出るにしても、基本的にそれはレトリックや暗喩といった形によって示されるので、はっきりとした感情というものが作中に表れるということは稀なんですね。この辺に、カフカの抑制的な人格と、コミュニケーションそれ自体に対するカフカの立場というものが表れているように思われます。カフカは基本的にコミュニケーションというものを信用しておらず、また、コミュニケーションを通して自分自身の人生をくつろげるものに変える努力に関しても、冷ややかな見方をしてきたように思われるのです。
コミュニケーションという営みは人間と基本的に切り離せないもので、人間はそれを用いて自分の人生や他人の人生をコントロールしようとします。しかし、そのような一般的なコミュニケーションの立場と、カフカのコミュニケーションに対する立場は明らかに違うように思われます。とはいえ、カフカの立たされていた環境を考えれば、我々が用いるようなコミュニケーションのあり方と、カフカにおけるコミュニケーションのあり方との乖離は、さして驚くべきものではないでしょう。
つまり、カフカはユダヤ人でありかつオーストリア人でありかつチェコ人と呼べる極めて国家や国民性というアイデンティティが複雑に錯綜した人物であったからです。これはカフカ研究においては極めて一般的な基礎知識ですが、カフカは現在のチェコに当たる地域で生まれたにも関わらず、その日常においてはチェコの土着言語を用いずにドイツ語を用いました。また、当然のことながら創作においてもドイツ語を用いておりました。チェコで生まれながらにしてチェコ語を使うことを許されない――つまり、カフカは自身の持つ言語によってさえ一種の疎外を受けていたと言えるわけです。超基本です。
カフカにとってコミュニケーションとは――なかんづく、コミュニケーションを根本的に支える言語というものは――自身の人生をリラックスさせ、他者との間に健全なコミュニケーションを成立させる、我々における言語のあり方とは少しばかり違うものだったということです。カフカは生まれながらにして一種の異邦人であった、ということですね。この「異邦人」という記述はもはや陳腐な言い方なのでしょうが、しかしやはりこの視点はカフカを理解する上では切っても切れない重要な点となります。カフカはそのアイデンティティの複雑さ故に、生粋の異邦人でありましたし、そして彼が用いる言語やレトリックは基本的に、一種の生存戦略だったのです。要は、植民地支配を受けた国家の国民が土着言語を用いず宗主国の言語を用いるのに近い、生存戦略の一環として言語を用いる生活を送ることが、彼の人生においては定められていたのです。我々にとって言語と人格は複雑に結びつき、そして、自身の人格や感情を表す際に、極めて重要な役割を演じます。恐らく、この世界におけるほぼ100%近い人類が、言語に対してそれと同じ感覚を抱いていることでしょう。しかしカフカにおいてはそれは事実ではありません。
カフカの作品群において、カフカは言葉によって感情を語ることはありません。カフカが語る感情は、物語の構成に依存しているか、ないしは物語中における舞台装置によって、つまりは暗喩によってのみ語られることとなります。その、感情表現の大いなる欠落が、カフカの文章における特徴ですらあるのです。あるいは、それは仏教における「見立て」の感覚に近いかもしれません。つまりは、一種の擬似的な曼荼羅と言いましょうか、物事や物質をある特定の配置に並べ変えることで、何らかの物質を超えたメッセージを贈ろうとする試み。枯山水が現実の自然を表すように、カフカはある種の機械や道具立てによってのみ自身の感情を説明しようとし、翻って言うならば、カフカは直接的な表現によって感情を説明しようとなどしなかったのです。感情の欠落。
この「感情の欠落」が文学の特徴であることは明らかにカフカが作り上げた文学の一潮流と言えると思います。後年の作家であるトーマス・マンの文学においても、感情や内省と言うべき人間の心のあり方が、敢えて描かれない抑制的な文体の影を見ることができるように思われます。感情とはなんなのでしょうか? コミュニケーションや言語は、我々にとって慰めと言えるものなのでしょうか? カフカはそれに対して否と答えます。言語は、必ずしも我々に結びついていない。同時に、言語を基底として成り立っているコミュニケーションもまた、我々に属していない。我々は、根本的に言語によってコミュニケーションを取ることができない。
しかしそのコミュニケーションへの失望が結論ではないのです。何故ならカフカは、コミュニケーションに失望をしていてさえなお、小説をものしたのですから。
何故カフカは文学を書いたのでしょうか? 文学は自己表現である、という一般的な見方と、カフカの文学的なあり方には乖離があるように思えてなりません。カフカにおいては寧ろ、文学は自己から自己への感情の乖離です。いわば自己の自己に対する乖離そのものです。
そのような営みは、恐らくカフカの人間性に淀みを与えているようにさえ思えます。自己の自己に対する分離、乖離を通して、恐らく彼の感情も一部彼から乖離し、分離していたからです。そのような営みが、彼にとって一体何だったのか? それは我々には想像するほかありません。短絡的に考えれば、その営みは、その乖離と分離の営みは、単純な自己破壊的行為であったと断じれるかもしれません。自己から自己を分離し、乖離させることは、明らかに自己にとって好影響を及ぼす行為ではないからです。とは言え、彼の行為は本当にその自己破壊を目的にしていたのでしょうか? あるいは、世の人々が芸術家や小説家に対してしばしば言うように、彼は文学というものを用いて、彼の生命と生活の痕跡を世界に残そうとしたのでしょうか? それも、疑わしいと僕には思われます。つまり、カフカの文学はコミュニケーションに対する諦観なのですから。そこには、コミュニケーションや言語に対する深い諦めの影の姿を見て取るほかないのです。
結論から言えば、カフカが文章を書いていたのは、恐らく乖離を目的とした、逃避行動だったと言えるでしょう。そして同時に、彼は自己から自己を乖離させることによって、一般論的に自己省察を深めようとしたのでしょう。敢えて、自己から自己を分離させることによって、自己を省察可能な対象として対置する行為が、彼の文学の目的の一部だったと言えるでしょう。
このような記述は文学における一般論の範疇を出たものではなく、彼の人生や文学の目的は未だもって謎に包まれています。カフカに限らず、一部の文学者は、そして小説家は、コミュニケーションの媒体である文字や言語を用いながらに、コミュニケーションを諦めているのであり、つまりは何かを伝えようとしながらに、我々に対して何も伝えようとなどしていないのです。あるいは、最終的には彼らのような小説家の目的は、一言によって表せられるのかもしれません。
ディズニー長編アニメで何が好き? と問われたら挙げるくらいに『ムーラン』(1998年)が好きだった。
『ムーラン』は中国の伝承をもとにした話だ。老いた父に代わり男装して従軍し武功を立てるも地位は断り故郷に戻る。最も古いのは詩と言われ、民謡、戯曲、小説の題材になっている。
時代によってどこに力を入れて語られるかは変わってくる。女で軍功を立てる力強さを描くのか、家族への孝行を尊ぶものなのか、国への奉仕を宣伝するものか。
ディズニーでのアニメ映画化にあたっては女性の自己実現という方向で物語はまとめられている。
主人公のムーランは、女は家でおしとやかにしているべきという風潮になじめない。老いた父を助けるため男装して代わりに従軍することになるが男ほどの力はない。しかし彼女自身の強みである知恵と機転を武器に自分を信じ、自分らしいあり方、誇りを見つけるのだ。
挿入歌『リフレクション』が名曲だ。映画のわりと最初のほうに歌われる曲で、含む意味が全編に影響してくる。家の名誉のためには仲人に気に入られて良い家に嫁がなければならない。でも失敗してしまった、という状況を受けて「水鏡に映った着飾った自分は知らない人に見える。ありのままの自分の心はごまかせないけれど、本当の私はいつか映るのだろうか?」と吐露する。
その後男装して(=別ベクトルで自分を偽って)活躍するわけだが女であることがバレてしまう。で、色々あって男だとか女だとか求められる役割だとかじゃなく、自分であることがいいよね! って結論に至るのだ。
さて、ディズニーのヒロイン像というのは時代によって移り変わる。おしとやかに待っていれば幸せ(王子様)が訪れる初期ヒロイン、自我がありパワフルながらやはり幸せはヒーローが運んでくる中期ヒロイン、恋愛から解放された最近のヒロイン。
ムーランは時代的には中期ヒロインに位置づけられる。とはいえロマンス要素は淡い。アジアが舞台で自己実現が主題という点が特筆すべきところだろう。
その頃のディズニーの非コーカソイドを取り扱った映画というのはエキゾチシズムあふれると言うかアメリカ解釈エスニック世界と言うか、なかなか文化描写が大味である。ご多分に漏れず『ムーラン』も西洋的なアジアであんまり正確ではない。突然念仏唱え出す登場人物が居るようなステレオタイプなオリエンタリズムである。また、男装のために長い髪をカットするシーンが山場のひとつだが、断髪して覚悟を示すことはとても西洋的な描写だ。古代アジアの人々は男女問わず長髪だからね。
それでも20世紀末にアジアが描かれたことは画期的で、東洋西洋の狭間で自分のあり方を考えていたアジア系アメリカ人二世三世に特に刺さったと聞く。また、脚本にはアジア系アメリカ人の女性が居た。そのあたりを思うにターゲットは西洋社会であったのだろう。
さて、そんな『ムーラン』が20年の時を超えて実写化されると言う。わくわくした。あの、魔法使いでもなんでもない同じ人間なのに圧倒的な力を持つかたき役、シャン・ユーの大軍勢が雪原に現れる絶望的なシーンが実写の迫力で見られるのか。ハリウッドに中国の方も増えただろうからオリエンタリズムの産物じゃなくてきちんと考証がなされた中国描写になるんだろうな。最近のディズニー映画のように現代の価値観を反映させるだろうから「異民族は悪、侵略者、だから防衛しなければならない」なんて単純な物語化じゃなく厚みを持って描かれるんだろうな。(アニメだと時代も場所もぼかされて相手はフン族という言及のみ。原典だとムーランは漢民族じゃなくて鮮卑の人っぽいし、北魏 vs 突厥 の戦争って遊牧民同士の戦いでつまり互いに侵略し合っていたってことだと思っている)アナ雪1でサーミの文化盗用と言われ、アナ雪2でサーミの監修を入れて文化盗用にならぬよう注意を払い、作中で植民地支配を彷彿とさせる歴史を描き、過去の過ちを直視し「今できる正しいことをしよう」と歌わせるディズニーだ。期待も高まるというもの。
そんな価値観も変わる時代の中にあっても輝く、自分らしく誇りを見つけるという変わらないメッセージ。名曲の数々、コミカルな相棒キャラクターであるドラゴンのムーシューと幸運のコオロギのクリキーのコンビ――彼らも「自分を偽っている」キャラだ。ムーランの物語は彼女だけではなく、ほかのキャラも自分を信じて自己実現する物語なのだ!――厳しくもきちんと実力は認めて義に厚く格好いいシャン隊長とムーランのほのかなロマンス。男装しているムーランに人間的に惹かれているっていうのがいいんだよねー。ああ、楽しみだなあ!
※ アニメ版と実写版の差異、未見のためニュース等で分かる部分のみ
うおおおい。やりたいこととやっていることとターゲットがちぐはぐで全方位損だよ。東西どちらにもいい顔をしようとして大失敗では。誰が嬉しいんだこれ。
いやね、きっと通常の劇場公開をしていたらふらっと見てしまっていたと思う。事前情報仕入れず見るタイプなので。公開延期で配信も加入しないと見られないと言うので時間ができてしまって調べたらさあ、ねえ。心情的にこれはもう見られない。
アニメ版が中国本土であまり評判が良くなかったというのは聞いたことがある。自分探しをするヒロイン、自立したヒロインというのが儒教感覚としてはそぐわないらしい。だからってアニメ版の主題であった自己実現を切り捨てて家のため国のため「孝」「忠」の話にするか? [追記] トラバで教えて貰ったが、アニメ版は中国本土でも人気だったそうだ。確かにレビューサイトの点も高かった。自分は欧米メディアの記事から人気がなかったのだと思いこんでいたが誤りだったようだ。失礼しました。えっ、じゃあディズニーはどこを向いて脚本変更を決定したんだ?
アニメ版のファンなんぞ知らん、商業的には大きなパイである14億人+全世界の中国ルーツの方々がターゲットなんだ! と言い切ってくれるならまだ理解できた。でも中華圏の評判も悪くてさ。聞こえてくるのは「孝」「忠」はこんなんじゃねーよとか伝統的な任侠精神を西洋騎士道のテンプレートに雑にはめ込みやがってとかムーランをフォースっぽい謎の不自然なパワーを持つ西洋的スーパーヒーローにしたなとかドラゴンのキャラの代わりに鳳凰がシンボルになったが鳳凰が象徴するのは古式ゆかしい女性性だぞフェニックスと混ぜてねーかとか『カンフー・パンダ』のほうが中国の伝承や比喩を尊重しているぞとか、そんな感想ばかりである。
中国をターゲットに完全シリアスな『花木蘭』実写化がしたかったらアニメの看板は控えめに、スタッフ陣にもアジア勢を揃えて時代考証風俗考証手厚く入れて中華圏を唸らせてくれよ……。
新疆ウイグル自治区でのロケってのもさ……。「異民族、それもモンゴルあたりで活動した今のトルコにも繋がると言われる実在の民族を排除するために戦う」ストーリー自体センシティブで取扱注意なのに、文化が異なるが故に現在進行形で人権侵害が行われている新疆ウイグル自治区をわざわざロケ地に選ぶとは。映画撮影のためにディズニーは人権侵害に目をつぶり「新疆ウイグル自治区は海外のクルーが来られるような安全で風光明媚なところで海外で言われているようなことなど行われていませんよ」という中国の宣伝に乗ったのだと言われても否定できないだろう。
ディズニーとしては MeToo を受けてストーリーは変更するが民族浄化は容認するみたいな基準なのか?
自分は今まで作品と作者・出演者は別と考えてきていた。役者が不倫していたり薬物をやっていたりしても作品の価値が貶められることはないし配信停止にすべきではない。また、過去の作品で今の基準だとアウトなものがあることも認識している。奴隷制を肯定的に描いている『風と共に去りぬ』、子役を薬漬けにして演技させていた『オズの魔法使い』などなど。それらも配信停止にすべきではないと考える。描写については注意書きを添え、新たに作る時は現代の倫理観をもとにし、新規であえて描写する時は「あえて」である説明を加えれば良いと。
とすると、俳優の発言は個人の思想と割り切れても現在進行形の人権侵害は了承できないな。俳優はアメリカ国籍とは言え中国本土の方だから一族も本土に居るだろうし当局の意に反する発言をしたら命が危ないのだろうけれど、ディズニーはウイグルの件を全く知らなかったとは言えないだろう。
ディズニーがどのような声明を出すのか、出さないのか。注目している。
[追記]
誤字を修正。
また、中国国内の反応を知りたくてデータを確認してみた。ご参考までに。
9/15昼時点の豆瓣(中国の代表的なレビューサイト)のスコア
作品名 | 公開年 | スコア (10点満点) | 最頻値 (最大星5つ) | スコアの母数 |
---|---|---|---|---|
実写版ムーラン | 2020 | 4.9 | 星2つ | 約16万人 |
アニメ版ムーラン | 1998 | 7.8 | 星4つ | 約20万人 |
実写版美女と野獣 | 2017 | 7.2 | 星3つ | 約32万人 |
アニメ版美女と野獣 | 1991 | 8.5 | 星4つ | 約14万人 |
実写版アラジン | 2019 | 7.5 | 星4つ | 約26万人 |
アニメ版アラジン | 1992 | 8.2 | 星4つ | 約6万人 |
ヴィッキー・チャオ主演版ムーラン | 2009 | 6.2 | 星3つ | 約9万人 |
アニメ版ムーランは意外と[追記] トラバで教えて貰ったが「意外と」ではなかった中国でも健闘していたようだ。レビューも楽しく読んだ。翻訳ソフトありがとう。
実写版ムーランは当初スコア4.7だったが、星3をつける人が増えて4.9まであがってきた。とは言え他のディズニー作品と比べると極めて低く、ここから他作品ほどスコアを上げるのは難しそう。
一番下のヴィッキー・チャオ主演版はディズニー関係ない中国発の歴史映画。そう、既にシリアスな実写映画は存在するのだ。
ランキング | 作品名 | 公開日 | 初週興行収入 | 累計興行収入 | 猫眼口コミ (10点満点) |
---|---|---|---|---|---|
1 | 八佰 | 2020/8/21 | 約6.4億元 | 約26.9億元 | 9.2 |
2 | 実写版ムーラン | 2020/9/11 | 約1.6億元 | 約1.8億元 | 7.5 |
3 | TENET テネット | 2020/9/4 | 約2.1億元 | 約3.6億元 | 8.3 |
6 | かぐや様は告らせたい~天才たちの恋愛頭脳戦~ | 2020/9/11 | 約0.03億元 | 約0.03億元 | 8.0 |
日中戦争を描いた超大作『八佰』と比較するのは酷として、興行収入面は大コケしなかったといったところだろうか? 有識者の見解を聞きたい。 [追記] トラバより 少なくとも口コミ的には大コケの大コケだと思う
とのこと。『アベンジャーズ:エンドゲーム』が初週約22.3億元、『アナと雪の女王2』が初週約3.8億元ということを考えると厳しい結果になりそうだ。
[再追記]
同じ作品を見ていいな、好きだなと思っていたことが分かって嬉しい。コメントでアニメ版が好きと表明して下さった方々もありがとう。
防衛能力がなかったら輸入品が何も買えなくなって交渉国の面倒な仕事を全部させられるだけになるから最低限国際間で死ぬ人の準備が必要
殺されたら被害を届けて国の集まりで多いほうが交渉を有利に進めようと判断してもらえるので軍隊は必要
日本が独自の文化と日本人の安全を願うのだったら団結して国防を含めた国益に貢献すべき
外国ではみんなやってる自民族の確立のための努力をしてないのは南国パラダイスの古民族と日本人くらいなもの
日本は何度か受けた空襲で民間人の死者被害を戦争法違反で訴えるべきだったが戦争で勝とうとして被害届をださずに腕に覚えのある知人をたよってみんな負けたので結果負けた
第二次世界大戦はアメリカが警察を押さえてた 日本を降伏させたのは「UN」アメリカではなく国際連合 国際間組織が実質降伏させたので悪いのは日本という事
(いまは国際連合を中国が抑えているので数年来抑圧してるチベットとかウイグルとか最近の香港などは中国の正義がまかり通ってる)
戦争で死ぬ役割がでると意見として死なせるなという風潮がおきて国民の何割くらいまで被害がでると戦意が喪失されるという結果に至るのであらかじめ死んでもよいまたは死ぬため死なないようにする訓練を受けたものが必要になるので死なない国民をつくるために兵隊を組織する
人間が人間を殺すという行為自体は効率が非常に悪く一人が一人ないしは三人程度を相手にすることくらいが限度 そのため数千の大軍に数百の軍勢が勝利したり中央突破できたりする
これを全否定するのが核兵器 つづいて大量殺りく兵器 人を殺すのが戦争なのになぜ効率化がよくないのか 暴力の勝ち負けが戦力の維持が不能になることだから 第二次大戦では戦力自体は日本は底なしだった(一億総何々)
日本は何割まで死ねば戦意を喪失するかという基準がアメリカの想定をはるかに超えていたため脅威とされそれを人道的と称して講和にもちこんだ(原子爆弾による民間人の大量殺戮で上層部の情に訴えた)
戦争のルールを覆すので日本は降伏後そういうのはダメと教育に盛り込まされた ベトナムでは軍備量だけでは勝ててない ベトナムは民間人を含めてやたらと殺しても許されない程度に世情がうごく情報網の発達があった 中国は情報統制がうまくいってる(と思ってる)のでこそっと民族殲滅をしてる(ばれても国連に食い込んでるので黙殺)
軍備合戦になると天井知らずになるという危惧について、軍備合戦の天井は相手が戦力の維持が難しいと思わせるところまででよい
国際協力や単体の戦力などで、もし状況が悪化した場合安全維持の名目で他国が護衛に入ってくるとそれに見合った戦力を維持することが難しいとなるところで十分
また軍事目的の産業で国内生産があがる 国力の増加で内需を軍需にまわせる この循環のための一次産業は金属と油でよいため生産性が高い
生産性の低い弱小食物輸出国が植民地支配を免れているのは国際的な連携において面倒な生産部分を担っているため 近代化するといやがらせをうける
軍備の生産をつづけると償却材がでてくるので紛争地帯が必要になる 金属と油のあるところには軍事介入が容赦なくされる
日本語がわからない人に簡単に説明すると、防衛目的で人の壁を築ける人がいないと被害届を出せる状況にもっていけないので、敵がきたら前にたって死なないように抗う人が必要なだけ それが防衛の人の仕事
境界線に敵が軍事力をもってきたとき、アルバイト募集で「最前線で生活する人募集」でも軍隊と同じ役割ができる(国際組織が正常に機能していたら、国際法違反とかで訴える)がそんなのだれもこないのであらかじめ死ぬように(死なないように)訓練されて、死んでほしくない人のかわりになる仕事がいる(兵力)
毎回殺されてから被害届をだすのもなんなのであきらかに国際的に定められてる蛮族がくると攻撃してもよいため攻撃手段はほしいところ
人が人をころさないという事が絶対的に保障されたら、被害が発生しないので、補償の必要はないので、補償を履行させるための力が必要なくなる 人が人をころさないとはいえないから力が必要でそれが殺される局面において抵抗するだけの軍備
欧州の国みたいに国単体では軍事力はないがほかの国から出してもらってるところもある
永久に戦争しないって宣言してる国が軍隊をもっているのは攻め込んで戦争する、悪い奴は積極的にやるとかのためにあるわけではなく、攻撃されてもみんなの役に立っている事は自力で防衛するのでわたしの国をいろんな国むけに使ってほしいという事のため
永久に戦争しない宣言の国の銀行員が不正な行動をしたとき軍隊がないので国際的な介入がされたとき実質支配権が安全確保のためという名目の上でその軍事力の国がもつことになる(その時々の違反を正しい「保安部隊」が維持するため)
巨大な兵器や新しい武装や洗練された技術者(兵員)が必要なのは その場所まで移動する手段が必要なため巨大な引っ越し業者(生活もできる)という隊が必要なだけ(兵隊)
最新設備や強い武力は相手が攻撃してきた場合それに耐えかつ攻撃者を撃退することが可能であるようにするため(できるだけ自軍は死んでほしくない相手は正当防衛で事の次第による)
海や陸や空においてそこで人が活動しなおかつ問題に対処する能力が必要な人にそこにいてもらうための能力が軍事力
日本はそんなに気にしなくていいよアメリカがそれ出してあげるから(問題があった場合は正義と平和のために「アメリカのルール(アメリカ軍)が動くけどね)というのを国際間協力という名目で沖縄とか全国に基地(被害者となってくれる率先して前線に引っ越してくれる役の拠点)を設けてる
もちろん日本に問題があった場合は、国際協力として「アメリカ軍が日本の拠点を制圧する」ってことがあってもしょうがないよね(しょうがなくないので自衛は必要だと思われる)
巨大な軍備があれば国は守れる それはたしかに守れる それは人が人を殺すのは効率が非常に悪いという点から人が多く兵器の数があれば強いわけではない
現に核兵器がそれを示して結果を出している しかたなく民間人を殺すけどというのを武力というなら兵力としてそれを備えないのが核非武装 防衛はあくまで自衛の手段で攻撃をしてくる民間人ではない敵対者(時に人間という前提でほぼ人間)
どの戦争でも核保有すればいいだけ ただ核兵器の使用目的が破壊と殺戮のみなのでこれほど純粋に目的を完遂するものはないので保有国はほかに保有国がふえることを厳しく制限している
内戦や移民のつづく国は軍備を高めて核を保有すれば近隣国との交渉もしやすく豊かになっていくが一般的な兵器が余る国はそれを消化したいしその的を国際協力という名の元に他国から募りたい
中国が国連でアメリカソ連の兵器の消化を紛争地帯でしないよう根本的な解決を試みたら具体的な中国の問題に実力を行使するかもしれないが国防費の循環とGDP成長を握られているのでおおよそ悪いとは言えない
海外有名ゲーム雑誌ポリゴン記者ハシモトカズマさんのゴーストオブツシマ評
「安倍政権下で右傾化する日本は日本会議、桜井誠、靖国、歴史修正主義、教科書問題など数多くの問題を抱えている」
「右傾化する日本人政治家の軍国主義と侍の概念は深く結びつき切り離せないものとなっている」
「安倍はファイナルファンタジーのアーティストに自身を侍として描かせた」
「大日本帝国が利用した武士道は安倍を筆頭とする歴史修正主義者達に受け継がれている」
「名誉・伝統・勇気と言った武士道精神は実際には日本の軍国主義が生み出したモノ」
「背景を知らない西洋は侍を美化すべきでない」
「ゴーストオブツシマは日本のナショナリズムを増長させるために作られたとは思わないが・・・」
https://twitter.com/Polygon/status/1286300088315318273
「『あつまれ どうぶつの森』は日本の植民地支配を正当化するゲーム。日本政府が少数民族に何をしたのか知るべき」
https://blog.usejournal.com/animal-crossing-new-horizons-and-japanese-colonialism-6008d2e30574
まずさあ、あんな一党独裁の強権国家に返す時点でなし崩し的にこうなることぐらい、97年の時点でだいたいみんな予想ついてたと思うんだけど
一国二制度の50年維持なんて、それこそ虎に肉渡して噛みつくなっていうぐらい無理だってわかってて返還したんじゃねえのかな
もちろん現地住民の皆さんがムカつくのは本当にわかるんだけど、だからって俺ら外野が今になって「中国は国際的な約束を守るべきだ」とか言ったって仕方ないだろ
だいたい中国の側にしてみりゃさ、元々てめえら欧米の植民地支配が原因なのに、ようやく返してもらった自分の領土が自分の自由にならねえ方がおかしいって思うだろ普通に
別に民主主義の聖域として香港が存在しているわけじゃなくて、そもそもの始まりはそこなんだから
結局、今香港で起こっていることがおかしいんじゃなくて、そもそも中国の全部がおかしいんだろうが
そう言う覚悟をきちんと持てという話だよ
トランプぐらいじゃんそこまで堂々と言えるの
Ayam
@MakitaAya
大学生の娘の勉強見てたら次の課題コレって…どうしよう…本当にどうしよう…ガチで怖いんですけど😱
手に変な汗かいた💦
Fラン大学が現代文の時間にやるなら仕方ないけど、もし歴史学だったらいくら何でもやばすぎる。
歴史学で日本語の要約させるってのは学問の体を成してない。史観の問題じゃないよ。
高校世界史の教科書で圧倒的シェアを誇る、山川出版社の「詳説世界史B」では、大日本帝国の東南アジア政策について、
「…東南アジアの占領地では、当初、日本を欧米諸国の植民地支配からの解放者として迎えたところもあった。しかし、日本の占領目的は資源収奪とそれに必要な治安確保であり、軍政のもとで、日本語教育や神社参拝の強制など、現地の歴史や文化を無視した政策がおこなわれた。さらに、シンガポールやマレー半島、フィリピンでは住民への残虐行為や捕虜を含む強制労働が多発したため、住民の激しい反感を呼び、日本軍は各地で抵抗運動に直面した。」
また、世界史資料集でも、これも受験向きとされシェアが大きい帝国書院の「タペストリー」では、
「④泰麺鉄道の建設 日本軍が占領した東南アジアなどの南方地域でも、日本文化が押しつけられた。また、日本軍は、多くの現地の人々や連合軍捕虜を、鉄道建設などの過酷な労働に動員した。」と、写真付きで紹介している。
これらのことから、課題文の日本の歴史教育disは、完全に根拠のないものだということが分かる。
さらに課題文の、「『3年半の日本占領期は350年のオランダ植民地時代よりも残酷だった』という文句は広く人口に膾炙している。」は本当かよ。
19世紀前半、イギリスを筆頭に奴隷制廃止の機運に逆らって、ベルギーを失ったオランダはその経済的損失を埋めるべく、ジャワに事実上の奴隷制である強制栽培制度を実施し、19世紀後半にはオランダ領東インドから得られる利益はオランダの歳入の1/3から1/2を占めるまでに至ったと言われている。それほど搾取は過酷だった。
その後も搾取を強めたオランダに対し1873年から始まったアチェ戦争では、アチェ側の死者は10万人を超えている。
また日本敗戦後、デヴィ夫人の旦那スカルノが中心となって、オランダを相手に戦われたインドネシア独立戦争では、およそ10万人のインドネシア人が命を落としている。(ちなみにこの独立戦争には約900名の旧日本兵が参加してもいる。)
オランダは国際世論の抵抗に逢い、アメリカにマーシャルプランの停止をちらつかされて、しぶしぶインドネシアを手放したんだよ。(佐藤弘幸「オランダの歴史」河出書房)
アフィから。
『あつまれ どうぶつの森』は日本の植民地支配を正当化するゲーム! あの政府が少数民族に何をしてきたか知るべきだ!https://t.co/fhsWyZi8xL— ユルクヤル、外国人から見た世界 (@Yurukuyaru) 2020年3月23日
毎日は当時の児童ポルノ禁止法においても創作物規制やネット規制を扇動していた変態新聞と当時呼ばれるほどの連中であったし、今だ漫画は児童ポルノだとか言う悪質な事を言っていたりしたのを指摘されていたのは事実なので、日本の創作物そのものを潰したくて仕方ないのだろう。
何にしてもアイヌや琉球問題とどうぶつの森は結びつく点自体存在しないし、これでもし任天堂が本気で怒る事になればトンでもない目に合うだろう。
漫画『ワンパンマン』で黒人差別表現か!「なぜ今の時代これが通用すると思ったのか」と批判殺到!!https://t.co/6ZpdhSwDck— ユルクヤル、外国人から見た世界 (@Yurukuyaru) 2020年3月24日
しかしポリコレやフェミニスト、LGBTと言ったリベラル界隈の人達はコロナ禍で世間が大変なのに空気読まないよね。
最も欧米でも反差別なリベラルこそ黄色人種差別をやったりして、この人達こそ差別主義者である事がばれて以降、より先鋭化したからか、この手のレイシストぶりをもはや隠さなくなったけど。
日本のフェミのJR東日本のAIに噛みついた件と言いこの人達とことん自分本位で世間なんてどうでも良いのだなと思う。
だから嫌われる。
こういうのを書くのは蛇足なのであまりよろしくないかもしれないけれど、「なんでこれが入ってないんだ!」という異論が出てきそうなので、ベスト10選出にあたって考慮した作品とベスト10から除外した理由を挙げて供養しておく。
足の作画にこだわった実にフェチい映像化であり、映像化不可能と言われていた歯磨きプレイを完璧に原作再現してみせたのはただただスタンディングオベーションするしかない感じだったのだが、自分の中で『化物語』(2009年)のファーストインパクトを超えるものではなかったので除外。シャフト時空と「君の知らない物語」の衝撃は10年経った今でも色褪せていないんだ……
2012年に1期が放映され、2019年に完結編となる5期が放映された、まさにテン年代を駆け抜けたアニメシリーズの第1作。「急に歌うよ~♪」に代表される外連味あふれる演出はほんと好きだし悠木碧も水樹奈々も良い仕事してるなって思うしひびみくは尊いし「Synchrogazer」ほんと名曲で大好きなのだけれど、他の作品が良すぎてベスト10入りは厳しかったみたいな感じ。
アニメとしてのクオリティは確かに良いし、熱血シーンも多かったし(「改変完了…!」が好きすぎて何度も聞いてしまう)、穏乃が最高に可愛かったのでそこだけ切り取ればベスト10でもよかったのかもしれないけれど、原作改変してレジェンドを無能キャラにしてるのは許されざる感じ。原作だとレジェンドは色々裏で手を打ってたわけだけどアニメ版では控室で解説聞いて「知らなかった」みたいに驚いてるシーン付け足されちゃったところが何箇所かあって、まあアニメだけ見てるとレジェンドが無能に見えてしまうよな……なんもかんも原作改変が悪い。あと千里山の関西弁もうちょいどうにかならんかったんか……
え? 実写化? やだなあ『咲-Saki-』は実写化なんてしてないですよ何言ってるんですか冗談が下手だなあHAHAHAHAHA。
なんとも評価に困る作品である(氷菓だけに)。確かにアニメとしてのクオリティは高かったし、原作を尊重もしていたと思う。でもやっぱりあちらこちらで「ええ~……」という感じになる改変箇所があった。キャラデザの段階で原作ファンをざわざわさせていたのだが、それはまあ解釈の問題なので別にいいとして、「わたし、気になります」の謎エフェクトはいったい何なの? 『クドリャフカの順番』回で奉太郎が真相を解き明かす場に里志がいたのは個人的には微妙。その場にすら居合わせられなかった辺りが福部里志なんじゃない? ただまあその辺は宥恕できる範囲だとして、ファーストシーズンのEDは本当に許せない。なんなのあれ? 〈古典部〉シリーズにああいうEDとか人を馬鹿にしてるのかと思う。セカンドシーズンのEDはまあ良かったけど反省したのかね。OPは完成度高かったのになあ……。そして数年後に『氷菓』が実写化したときに「京アニのイメージが台無し」とか「またアニメの実写化かよ」とか言い出す連中(末代まで祟ってやる)が出てきたのでやっぱりアニメ化しなかった方がよかったんじゃない? と思ってしまった。いや、アニメ化きっかけによねぽ作品全部揃えたとかいう友達もいるから安易に否定するのはよくないのだが、高校の図書室の片隅で読んでいた僕たちの〈古典部〉シリーズを横取りされた感はなんか強い。この辺のモヤモヤがあって手放しには褒められないので除外(ところで実写どんな感じでした? よねぽ作品初の映画化なのにまだ見てないというのは忸怩たる思いがあるのだけど、ちょっと見るのが怖い)。
最後に。細かい話になっちゃうけど、時代背景は原作発行当時にしてほしかった。作中でみんながスマホ使ってるのにチャットとかサイトとかあのへんの描写がすごいスマホ以前の時代の匂いを漂わせていて、なんというか違和感があったんだよね。だったら時代を2001年とかそのへんにしてキャラには一昔前のガラケー持たせればよかったんじゃない? と思う。スマホ以前の時代に中高生活を送った者として、同時代に読んでいた小説の空気感はそのままに一部の小道具だけ現代になってるのはやっぱりなんか変な感じがするんだよな。時代考証がちぐはぐというか。この点、出来はともかくちゃんと舞台を1990年代のままにしていた『この世の果てで恋を歌う少女YU-NO』(2019年)は賢明な判断だった。
文明崩壊後世界を原作通りに丁寧に、しかも我々の予想を超える形でアニメ化してくれてチョベリグだったのだが、競争相手が多すぎてベスト10に入れなかった格好。いやーほんとね、原作で描写された未来の異形の生物たちをあそこまで丁寧にアニメ化してくださったのは素晴らしいですよ。そして浪川大輔さんの演技が最高だった。『新世界より』で一番輝いてた声優は誰って言われたら浪川さんを挙げる。ほんとすき。
ただアニメオリジナルの大歓喜帝の即位シーンはどうかと思った。「大歓喜帝となられる!」っていう台詞があったけどあれは諡号なんだから生前そう呼ばれることはありえないと思う。もちろんそれは伝統的な王号の話であって未来に適用できないのでは、という議論もありうるけれど、慈光帝にしても大歓喜帝にしても生前のおこないを皮肉る形でつけられてるんだからやっぱり諡号なんじゃないかなぁ。まぁこれは些細な点で、これ以外はケチのつけようもなかった。良アニメ化の見本みたいな感じ。
単体で見れば良い出来なのかもしれないけど割と大胆に原作の時系列を改変していて微妙な気分になるので除外。龍之介とリタの関係とかさぁ……。
アニメを使ったCMの最高峰だと個人的に思うので最後までベスト10に入れるかどうか迷った。
映像としてのクオリティ、百合作品としての密度、キャラのかわいさ、どれを取っても高品質で良い作品なのだが、原作と描写違いすぎませんかね……? という理由で除外。だって原作で完璧超人なキャラがアニメ版で脳筋おバカキャラになってるのはちょっと擁護不能じゃないです? ゆうかのかえでへの思いが全然違うものになっちゃうじゃん……
良い作品なんだけどちょくちょく原作の描写変えてるんだよね。最大の問題はなぜ標準語にしたのかという点。原作では方言で喋っててかわいいし漫画版もそれを再現してるのに! あと『2』であすか先輩の実家がなんで豪邸になってたのかがわからん。あんな豪邸じゃああすか先輩が育ててくれた母親に恩を感じる理由が微塵もなくない? どう考えてもアニメ版であすか先輩がこれまで生きてこられた理由は実家パワーであって暴力をふるう親に感謝しなければいけない理由が見えてこないよあれじゃ。あすか先輩もひとりの高校生であり、特別な人間なんかじゃない、という意味が原作のつつましやかなお宅には込められていたと思うんだけど、そこ変えちゃうかー、という残念さはあるよね。夏紀先輩が大天使だっただけにこれをベスト10に入れないのは割と断腸の思いではあるが(でも夏紀先輩の描写も原作と違う……ぐぬぬ)。
ガルパンはいいぞ。……とだけ言って終わらせるのはあまりにアレだけど、実際にそうとしか言いようのない感じはあり。とにかく戦車アクションのキレが良く、それを映画の尺で濃密にやってくれたもんで大満足の出来だった。ベスト10に入れるつもりでいたけど気づいたら11作品くらい挙がってたので泣く泣く削った感じ。
俺たちの新海が一気に一般人にも知られるアニメ監督にのし上がるなんて予想もできなかったが、流行るだけのことはある作品だった。新海誠が『天気の子』(2019年)とかぶるからバランスを気にして外した、以上の意味はなく、もちろんテン年代アニメ映画ベスト10に余裕で入る傑作である。これぞ新海誠という感じの映像美にこれぞ新海誠という感じのガバガバSF要素が加わりやっぱり新海誠じゃねーかとなる感じの恋愛模様を前面に出しつつも東宝とかいう拘束具を得た結果オタクだけでなく一般人からも支持される作品に仕上がったのは本当にアニメ史に残るサクセスストーリーではあるまいか。いやだって『言の葉の庭』の興収とは文字通り桁が違うというか……あのセカイ系がどうたらこうたらみたいな論を立てるめんどくさいオタクに大人気だった新海誠が国民的アニメ監督になる日が来るだなんて2010年の自分に言ったら失笑されるだろうと思う。
映像表現としては素晴らしいの一語に尽きるのだが、重要なところで謎の原作改変を複数していて微妙な気分になってしまうので除外。リンさん関係の省略で妊娠を疑うシーンが意味不明になってたのもそうだし(これはこないだ公開されたバージョンではちゃんとリンさんの出番あったらしいのでそっちに期待)、なんですずさんの慟哭シーンの台詞を改変したか未だに納得がいかない。そもそも原作では、「米軍の空襲という暴力には屈しない→自分たちも暴力で他人を従えていたのか→だから暴力に屈するのか」という一連の流れになっていたのに、映画では「米軍の空襲という暴力には屈しない→植民地の食べ物を食べて生きてきた→だから暴力に屈しなければならないのか」と改変されていて流れが途切れている感。もちろん真ん中の部分も自分たちが植民地支配という暴力を振るってきたんだと気づかせる意図ゆえの改変でだというのは理解するけれど(そしてそういう気づき方の方が一主婦であるすずさんの立場からは自然だという論にも一理ある)、やっぱり「暴力に屈するものかね」という台詞を踏まえると原作の台詞を維持すべきだったと思っちゃうんだよね。というか、原作そのままの台詞にも改変後の台詞にも一定の合理性がある以上、原作を変えるべきじゃないでしょう常識的に考えて……アニメ化は原作の婢ですよ……
すごーい! 君は下馬評の低さ、1話切りの嵐からソーシャルネットワークの勢いで覇権に上り詰めた2010年代を象徴するような流行り方のアニメなんだね! 最初はなんだこれって思ったけど、普通に面白くてびっくりしちゃった! 最終話を待ってた1週間はとーっても長かったんだ! ……ということでベスト10に入れても良かったのだが、多くの人を満足させて終わった放送終了後にとんでもない騒動が(コンテンツホルダー側の責任で)巻き起こったのを思うとベスト10に入れるのを躊躇われ、最終的に外してしまった。アニメ外の要因で評価するのは邪道だろうけれど許してほしい。
で、こういう話をするなら『けものフレンズ2』(2019年)についても語る必要があるだろうけれど、途中で切っちゃったんだよな。解釈違いというかちょっとそれはどうなのって思うところが多々あったので。ただその私がどうなのって思ったところも他の人の考察とかを読む限りでは最終的に「なるほどそういう問題意識に基づいていたのか~(私と立場は違うけどそういう立場に立脚するのは理解できる)」みたいな感じに落ち着いて終わったっぽいので、完走すりゃよかったかなとちょっと後悔している(某所の感想を読んで「つまり『けものフレンズ2』は『ソラリス』だった……?」というある種の納得を得た)。でも是非以前にクオリティの問題で見ててあんまり面白くなかったんだよ『けものフレンズ2』……
あと私もたつき監督の作風は好きだけど、吉崎観音がコンセプトデザイン(≒原作)であってたつきはあくまでアニメ版の監督に過ぎないっていう前提を忘れてまるで1期が原作であるかのように振る舞う2期批判派の人は生理的に無理。実際のところはどうだか知らないが、仮に吉崎観音とたつきが対立して前者が後者を追い出したというゴシップの内容がすべて正しかったのだとしても、原作者とアニメ版の監督が対立しているのなら普通は原作者の肩を持っておくのが良識だろうと思っていたのだが……?
単体で見ればとても良い出来なのだが希美とみぞれの関係性あるいは夏紀とみぞれの関係性に関し解釈違いというか原作と違う箇所があって微妙な気分になるので除外。原作の久美子が夏紀や優子に置き換わった結果関係性が変わっちゃってるんだよなぁ……。原作で希美が久美子に弱さをさらけ出すシーンを夏紀&優子相手に変えたら原作の夏紀先輩が見せた気遣いはどこに行ってしまったの? ってなるし、クライマックスの台詞にしても原作とはニュアンスが違ってきちゃうわけで……。そもそも希美先輩はなかよし川相手にあんな弱音を吐くキャラではなかろうし(あれは相手が久美子であったことに意味があるのであり)。あと夏紀先輩が謎にみぞれ先輩に優しいのはなんでだ。原作では割と冷ややかに見てたよね……? というか原作と明らかにクライマックス後のnzmzの距離感が違うじゃないですかァーーーーーッ!!!(いや短編集まで含めての話です。希美の誘いをきっぱり断ったみぞれ先輩はどこいっちゃったの?)公開直後に「のぞみぞ添い遂げて」とか言ってる人たちを見て、はぁお前らどこに目ン玉つけてんだいったい原作のどこに添い遂げる可能性を感じられるんだ、と思ってたけど、映画見てみたらそう言いたくなる気持ちもわかってしまった……ともかく関係性が原作と違う……
キャラデザも意見が分かれるところだろうと思う。個人的に傘木希美のキャラデザはTVアニメ版の方が好き。地に足が着いてる感じがする。リズ版は軽薄さが強調された感じに見えて傘木希美のモンペとしてはこう微妙な気分になってしまうのです(二次創作その他での傘木の扱いがあんまりにもあんまりすぎてモンペ化した。リズ青の傘木が! 無神経に! 見えるのは! 原作の気遣い描写を削ってたり! 余計な改変をしてたりするからです!)。逆に鎧塚みぞれはリズ版の方が良い味出してたと思う。みぞれの儚さを引き立たせるためのキャラデザなんだなと思えば納得(いや、原作とはそもそも髪型違うんだけどさ)。みぞれ先輩の視界むっちゃ狭いな! っていうあの演出は本当に傑出した映像表現であって素晴らしいなと思うところ。これで原作に忠実ならベスト10に入れてた。
今作、耳が孕みそうになるイケボのシェーンコップや立体機動装置を使ってそうなオーベルシュタインやヤンチャしてそうなキャゼルヌといった新しいキャラデザが輝いていたし、ショタハルトさまの破壊力すごすぎてキルヒアイスが人生狂わされたのも納得してしまったし、フレデリカが一部オタクの性癖を鋭角でえぐる見た目になっていてたいへん素敵だったのだが、MVPはなんといってもアンドリュー・フォーク准将だと思う。顔立ちは整っているが陰気、という原作の描写を完璧に再現してくださっている……! しかもCV神谷浩史の流れるような詭弁も聞けて本当に耳が幸せ。3,000万将兵の命を無謀な作戦に費やす勇気。俺たちの求めていたフォークはこれだよ感が素晴らしい。
ただキルヒアイスがことごとく解釈違いで……いや、流石にカストロプ動乱はあんまりにもあんまりというかキルヒアイスがああいう策を弄せるならオーベルシュタイン要らないじゃん感がすごくないです? 戦闘は得意だけど策とか謀略とかそういうのは不得手、というのがキルヒアイスの美点であり弱点でもあったと思うのだけれど。というかなんであんな鋭い目つきなの? もっと温和な感じじゃない? ただでさえラインハルトの目つきが鋭いんだから相方であるキルヒアイスはもっと穏やかな感じにしてくれた方がバランス取れない? 道原かつみ絵で産湯を使った人間なのでキルヒアイス描写は不満が多かったけど、キャラデザの部分に関しては単に解釈が違うという話で原作と違うという話ではないのでまあ許容範囲内ではある。でもやっぱりカストロプ動乱はおかしいと思うんですよ(しつこい)。
空戦シーンは文句なしに最高の出来なのだが、やっぱりキャラもそれで動かすのは微妙というか……いや本当に空戦シーンは素晴らしいんだよ……でもキャラの顔とかが……空戦シーンは2010年代で最高なんだが……
anond:20191109191407で紹介されているやつな。機械翻訳にかけたあと適当に修正しただけなので誤訳勘弁。
大正ロマン(大正浪漫)。日本の大正時代 (1912〜1926)をロマン化した(romanticized)視点で表現する風潮のこと。
(中略)
本来、大正ロマンは韓国で特に批判される要素がなかった。しかし、2016年の『アイドルマスター ミリオンライブ!』右翼議論の後に、大正ロマンが間違っているという主張が一部のオタクの間で提起され、急速に伝播されて、いくつかのインターネットコミュニティを中心に大きな議論を呼ぶようになった。
韓半島の歴史的には、大正ロマンの前半は、日本植民地時代の武断統治期、あるいは文化統治期初期に該当していた時期で、躊躇なく野望を曝け出した民族抹殺統治期よりは相対的に良いが、知ってのとおり制服を着た日本の憲兵/巡査が韓半島で悪名を轟かせていたので、大正時代をひたすら肯定的にのみ見ることには無理がある。軍服だけ除けばどうかという人もいるが、明治以降の西洋化は日本政府と軍隊が主導して民間に広がったものであり、また大正ロマンにおいて日本軍と制服は概ね必須要素だ。それが無ければぎこちなく感じられる。少なくともマントを羽織った学ランは出なければならない。
これらの背景には、日韓両国の時代を眺める視点の違いがいくつかあるが、韓国は帝国主義時代の日本全体を否定的に見る傾向があり、日本は軍部が政権を掌握した昭和時代以前の帝国主義については一面的に否定的な評価をしない。そのために、日本のメディアでは「あの頃のように帝国主義に戻って大きく強く豊かな日本を作ろう」といった極端なメッセージを含んでおらず、単に「ユニークで美しい時代だった」という意味しかなくとも、周辺国では拒否感を覚える場合がある。
本来、韓国で大正ロマンは批判される要素ではなく、いくつかのインターネットコミュニティを除けば、大正ロマンの批判はない。特に植民地支配を擁護する要素がないのであれば、韓国の一般人にとって大正時代は何の変哲もない時代であるだけだ。ポン・ジュノ監督は、鈴木清順の大正ロマン3部作のブルーレイBOXを購入したとインタビューで述べたが、誰も問題にしなかった。日本へのパッケージツアーで大正ロマンのコンセプトカフェに行くこともあるし、大正ロマンを題材にした日本の文学作品が流通することもある。そもそも韓国でもこのようなものが存在することを知らない人が大半である。
韓国でもその時代を扱った作品を見ると、大正ロマンの必須要素がすべて登場する場合が多い。大正ロマンの説得力のある描写とされている要素が、日帝時代、特に1920〜30年代を舞台にした作品でも、同様に美化されて描写される。主に日本植民地時代を時代背景にした作品の中で、日本の悪行や独立運動のような重い素材ではなく、恋愛や芸術などの軽い素材を扱った作品で、このような要素が著しく現れる。パク・チャヌクの『お嬢さん(映画)』の衣装監督は、最初から大正時代の反物を探して駆け回った。しかし、これをもって、その時代を美化したと批判する人はいない。これは、韓国でも三・一運動後から太平洋戦争以前の時期までは、文化統治と経済の好況という流れがあったからだ。
実際、韓国オタクのなかでも、大正ロマンの批判をする風潮は、あまり古くからあるわけではない。2000年代後半、さらに2010年代初頭までは、韓国オタクたちも大正ロマンは良いという話を公然とした。この時期に、韓国でよく挙げられた代表的な作品としては『るろうに剣心』がある。ツイッターなどを検索すればログが残っているので確認可能である。大正ロマンが問題視され始めたのは2010年代中盤だと言うことができ、この時期に起きた事件は、2016年1月の舞台『あんさんぶるスターズ!』 右翼議論である。正確に何をきっかけに突然大正ロマンがタブーになったかはわからないが、概ね韓国の成長と民族主義化、日本の右傾化が原因と思われる。
とりあえず、昔からタブー視されてきた日本帝国と日本の軍服要素に対する批判が、大正ロマン全体に対する批判に拡張されたものと思われる。大正ロマンに批判的ではないコミュニティでも、日本軍の要素については批判的な態度をとる場合がほとんどである。
また、『ヘタリア』(ウェブコミック) 、『進撃の巨人』(作者がプライベートにおいて自分の政治的・歴史的な見解を発言した)などの後に、「避難所ドットコム」などの女性向けのコミュニティで、右翼的な要素が徹底的に検閲された影響もある。おりしも2010年代中盤に入って際立ったコミュニティの先鋭化も少なからぬ影響を及ぼした。現在は、男性の多いコミュニティでは日本軍服など軍国主義要素は批判しても大正ロマンに対しては問題を感じない人々が大半だが、ツイッターおよび女性の多いコミュニティでは大正ロマンは軍国主義の美化および戦争の美化と同一視して、徹底的に排斥しなければならない要素として扱われている。
(後略)