はてなキーワード: 世俗とは
九州から集団就職で都会に出てきた母方の祖母が創価学会の会員となり、母方の祖父、彼らの2人の子供も会員となる。
父親は元々別の宗教の家に生まれたが、大学入学で上京した際に勧誘され会員に。
父は地元に帰ってからも活動を続け、そこで出会った母と結婚。姉と俺が生まれる。
そこまで極端な教育を受けた覚えは無いが、子供の頃(3歳ぐらい?)からの毎朝15分ぐらいの唱題という名のお経上げと地域の学会イベントへの強制参加はあった。
ただそのような創価公式イベントにおいても、また両親の口からも、創価についての体系的な教え、つまり世界はどのようなものであると創価学会は考えており、毎朝唱えている意味不明な漢字ばかりのお経には何が書かれており、我々がそれを唱えるという行為はどのような意味を持ち、またそのような営みを支える背景にはどのような宗教的歴史があるのか、といったことは全く教えられなかった。ここら辺は俺がまだ子供だったから教えられなかったという可能性もあるが、理屈っぽく素直で無かった俺には自分のしている行為の意味不明さが子供ながらに大変苦痛であったのを覚えている。
で、だいたい俺と同じ創価体験を受けた姉は両親の言うことを良く聞くとても良い子だったので熱心な信者となり、創価大学までいった。俺は中学ぐらいから唱題をあげるのを拒否するようになり、たまにある地域イベントなどにはなんとなく参加したが創価との関わりはそれぐらいで大学のに進んでからはそれも辞めた。
両親と姉は当然今も熱心な信者で、家庭内で俺だけ完全に無宗教といった感じだが、家族中は大変良好である。両親とも創価大学→学会幹部といったガチガチの家庭でない限り、まあだいたいそんなものではないだろうか。周りの3世を見てもそう思う。
俺が創価学会に関して思うのは、よく言われることだが創価学会の本質的な役目は戦後日本で解体された地域互助組織の都会における再構築であったということである。両親や姉、周りにいた学会員の方々を見て、とても善人が多いとは思うが、特に宗教的な人間が多いとも思わない。教え自体は日蓮宗ベースだろうが、キリスト教ベースだろうが、浄土真宗ベースだろうが彼らにとっては本質的には変わらないのでないだろうか。本質は池田大作というカリスマ信仰に基づく強固な人間関係組織の構築である。
創価学会の教えのとても特徴的な点だと思うことは、極端とも思える現世利益主義である。創価学会の教え(あるいは日蓮宗の教え?)では、宗教的成功と世俗的成功は同一であり、このことは学会のイベントでも何度もよく聞いた。難解な宗教的教義を多くの人間に理解させることは難しいが、世俗的利益のことは誰もがよく理解しているため、創価学会はこんなに会員がいるんだろうな〜と大人になって気付いた。
あ、あと体系的教義の説明がないとは言ったが、ある程度の大人になると教学試験などを通してそこら辺は勉強することになるし、家庭によっては親が教えることもあるかもしれない。だけどその場合でも日蓮宗の歴史よりは創価学会の歴史に重きが置かれていることは間違いない。
世俗って言葉は神聖とかそういう概念に対置されるものだと思ってる。聖書の解釈とか信仰の問題とかそういう宗教的なものに対して、社会問題や日々の労働、娯楽だとかいった実生活の問題を包括する言葉。それこそバッハの曲が宗教楽曲と世俗曲に大別されるみたいに。
でも世俗って言葉を低俗だとか通俗的みたいなニュアンスで使う人が割といる気がする。「低俗」の筆頭たる酒ギャンブルセックス的なものをまとめるような言葉として、「高尚」だったり「生産的」だったり「有意義」なものの反対の概念として。
そんでそこには芸術や学問を高尚とするようなスノビズムだったり、労働を善とする拝金思想だったり共同体主義とかがあって、「世俗的」なものとの間に優劣があるかのようなニュアンスを強めに感じる。
世俗って言葉で括るなら、ストゼロがぶ飲みするのもソープ行くのも大学で研究するのも美術を嗜むのも刺客の勉強するのも全部世俗的じゃねって思う。
もちろん文脈に応じた使い分けみたいなのはあるんだろうけど、その手の使い方をする人って例えば聖俗一致みたいな言葉のニュアンス掴めるんだろうかって思う。
実際おれも、宗教というものをいまいち理解してなかった時はピンと来なかった。
宗教が、居やしない神様をダシに金を毟り取られるバカの盲信ではなく、謎や不条理に対して「正解」を用意してしまって納得を得るためのものであること。自然法則については科学がより蓋然性の高い推測を導くようになって神様の出番は無くなったけど、人間存在の不条理や規範についてそうはいかないみたいな、そういう……
https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/189/054189_hanrei.pdf
これは引用しないの?
一般に、政教分離原則とは、およそ宗教や信仰の問題は、もともと政治的次元を超えた個人の内心にかかわることがらであるから、世俗的権力である国家(地方公共団体を含む。以下同じ。)は、これを公権力の彼方におき、宗教そのものに干渉すべきではないとする、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を意味するものとされている。
憲法は、政教分離規定を設けるにあたり、国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたもの、と解すべきである。
社会的・文化的諸条件に照らし、国家は実際上宗教とある程度のかかわり合いをもたざるをえないことを前提としたうえで、そのかかわり合いが、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で、いかなる場合にいかなる限度で許されないこととなるかが、問題とならざるをえないのである。右のような見地から考えると、わが憲法の前記政教分離規定の基礎となり、その解釈の指導原理となる政教分離原則は、国家が宗教的に中立であることを要求するものではあるが、国家が宗教とのかかわり合いをもつことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが右の諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものであると解すべきである。
憲法二〇条三項は、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」と規定するが、ここにいう宗教的活動とは、前述の政教分離原則の意義に照らしてこれをみれば、およそ国及びその機関の活動で宗教とのかかわり合いをもつすべての行為を指すものではなく、そのかかわり合いが右にいう相当とされる限度を超えるものに限られるというべきであつて、当該行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきである。その典型的なものは、同項に例示される宗教教育のような宗教の布教、教化、宣伝等の活動であるが、そのほか宗教上の祝典、儀式、行事等であつても、その目的、効果が前記のようなものである限り、当然、これに含まれる。
政教分離の射程範囲を、条文と学者の本の引用と議会の議事録だけによって、「宗教が政治上の権力を行使するかどうか」の話に矮小化するのはよろしくないと思うよー。
https://shonenjumpplus.com/episode/14079602755425726897
はてブにしろジャンプラにしろ、読者の感想では、リアリティが無いだの漫画だろ楽しめよだの、ちょっと揉めてたりして。
最初は自分も細かい設定の粗を突っ込みたくなったけど、読み返すと、この漫画への突っ込み欲求はそれ以上に、本質的な主人公の人物像の気持ち悪さに起因しているのだと思った。
長期間不死で虚無的になった人物が有限な生を持つ人間とのふれあいで変わる、というのは割と使いまわされたプロットだ。
この漫画が変わってるのはそこからで、彼女と長年共に過ごしてそして彼女が死んでも特に主人公は変わらない。(主人公が既に3000年生きてきたならともかく、350年のうち50年は短い期間ではないだろう)
数百年ぶりに温かい言葉をかけてもらっても、自分を描いた小説を読んでほしいと言われて喧嘩しても、主人公はゲームやろうぜとしか言わない。
死んだ時も涙も流さないし、彼女が一生をかけて書いた全50巻の原稿を書斎で見ても、片づけるの面倒だ、もっとゲームしろよとしか言わない。
彼が変わるのは、娯楽を探している時に街中で小説がベストセラー化しているのを見るのがきっかけだ。
それまで数百年にわたり他人や社会を拒んでいた主人公は、"売れている"・”売れているなら面白いだろう”という極めて当時代的な価値観を突如受け入れて、それを以て急激に変貌する。
字も数も読まず他者とろくに交流しなかった主人公が、ベストセラーになってるのを見ると急にそれまでの生きざまを翻してしまう。
彼女の思いよりも、過去300年の生涯で築かれた自分の人格よりも、世間で売れていることの方が主人公にとって重要な事実だったということだ。
彼女が死んだ後にうず高く積まれた原稿を見て、そのまま書斎で読みだし自分と彼女を顧みるなら、ツッコミはあったろうがここまでは多くはなかったのではと思ってしまう。
彼女の視点を仮定すると、自分の生涯を費やした作品でありあれだけ言葉を尽くして読んでほしいと願った作品なのに読んでもらえず、世間で売れてるからって理由で初めて読んでもらって嬉しいのかとも思ってしまう。
不死の人物と有限な人間のふれあいで変わるというありふれたプロットは、最初の数ページで読み手も暗黙のうちにある程度展開が予想できるし、一定の像を期待して読み進む。
読み手もこなれていて、このような設定にハイコンテクストな昨今では、世代を超える不死といえば世俗的な死生観・倫理観・社会観を越えたものを過去の経験から纏っているのだろうと読者は(勝手に)補完する。
しかし、多くの作品に比べるとこの作品の主人公の変貌のあり方はあまりに収まりが悪い。
そしてもう一つ、主人公の元々の人物造形は極めて幼児的だ。彼女が生涯をかけた創作には50年に渡り目もむけず、彼女が亡くなっても動じず、ゲーム・ボウリング・カラオケ…出てくる言葉は相変わらずこれらばかりだ。
不死ゆえの虚無性や刹那主義もあろうし、誰しも大人になっても怠惰に流れることはあるが、共感を普遍的に得られる人物像ではない。
後半生は変わるし、本来はそこにカタルシスがあるべきシナリオなのだが、上に書いたようにその変貌はあまり説得性が無い。
作品には細かいツッコミどころが多くあり、突っ込みやすさ故にそこを主に突っ込まれている。
しかし、この主人公の人物像の気持ち悪さや変貌の説得性の低さがツッコミを招く本質なのだろうと思った。
付)この作者の前の作品「ぼくははやくなっていく」、「お兄ちゃんと抱き枕」も読みましたが、これらは当作とは逆の”時間が止まる”モチーフですが上の様な点の無い面白い作品だという感想です。
きっかけは職場起因の適応障害でしたが、今はそれは治っていて、今後同じことが起きても適応出来るように認知行動療法を通じて自身の耐性を高める為に通っています。
認知行動療法の中にはコラム法と呼ばれる手法があるのですが、そのワークの中で
という指摘を頂きました。
これは正に仰る通り。
職場内のチームチャットにAさんが投げかけた質問に対して、その他チームメンバーが反応していなかったのを見て「冷たい人たちだ」「なんで助けようとしないんだ」と憤りやら不信感を勝手に覚えたり、
「何らか困っている人がいればそれは助けるべきだろう」という価値観に基づいて、それに反した(ように自分は捉えている)Aさん以外のチームメンバーに対して冷たい人間、ク◯共、と捉えて見下したりしていました。
自分はいじめられっ子でコミュニケーションにコンプレックスがあったことから、ネットに落ちてる情報やら心理学、果ては哲学の本も読んだりして、
的なパターンを結構頑張って勉強していて、それを元に動いているからです。
ワーク後に私は健全な人間関係を築けるように「自分にとって安心出来る関係はどのようなものか?考えてみて下さい」という宿題を貰いました。これは非常に難しい。
自分の人間関係を検討すると、ネットの情報や心理学やらの勉強のお陰でそれなりの人間関係は築けるようになったと思うし、社会人になった今は一緒にいれば楽しめるみたいな関係性の人もそこそこいると思ってます。
でも、どこまで行っても安心なんて出来ないんですよね。
世俗的には実の親との関係は安心出来るものという考えがあるのかなと何となく思っていますが、自分にとってはこれは当てはまらないので除外されます。
仲のいい人、昔からの友人、酒をよく飲む関係性、いずれを検討しても、楽しさはあれど安心は出来ない
今の自分にとって人間関係と安心は絶対に相容れない関係に思えるんですね
私にとってその答えは間違いを冒さないように神経を使わなければいけないからです
私にとって人付き合いは、その場その場で相手が求める内容を会話の流れに応じて間違えないように返答することです。
会話の流れから逸れる返答だったり、相手の求めているものと違うレスポンスを間違いと私は捉えてます。
ですが、ある程度のルールのもと成り立つのが人間関係なのではないか、という観念も同時にあって、それはもっともらしい風にも感じています。
守らなければ死ぬ!法律と同じレベルの拘束!義務!ではないにしても、互いができるだけ守りましょうねという形で定められた努力義務レベルの効力はあるものではと捉えています。
そして、それを守ることは、やはり私にとっては安心出来るものとは言えません。神経をとても使います。
守るのが苦しいのであれば
守らない方面であれば簡単な結論が一つ思いつきます。自分が何をやっても許されるってことです。
傍若無人に振る舞ったって何だって誰にだって許される。それは安心でしょう。
ただそれに対して思うのは、そんなん非現実的すぎるということと、それが私の望むような関係だろうかということ。
自分の中のいい子ちゃんが反射的な反応を示しているようにも思えますが、常識的な対人場面を想定した時に、他人に対して「あんなことこんなことやってやりてぇぜ」みたいなことはあまり思いつきません。
てかきっと気持ち悪さを感じる。なぜ相手がそんな自分を許す必要があるのか疑念が湧くだろうし、疑心暗鬼になり、そんなものは安心とは言えない。
ただ、自分はきっともう1人の自分にも気を遣うと思う。その時の私は出来るだけもう一人の自分が辛くならないように「まぁ気にしないでよ」みたいな声をかけるでしょう。
ただ、その声をかけられるもう一人の自分はきっとその声を受ける前に「マジで気にしなくていいからなんでも好きなこと言ってよ」と先制してくるでしょう。もう一人の自分なのだから気を遣ってくることは想像出来るので、相手が変に気を遣ってくる前に先制をします。
ただ、そうやって先制してくることはやってきそうだな、と私はもう一人の自分からの先制を読んで……
私がもう1人という無理筋で勝負したとしても安心には辿り着かないように感じます。
1人はとても安心します。なぜ1人は安心なのか。それは何も気を使う必要がないからだ、とすぐに返答できます。
何か試される訳でもない、求められる訳でもない、それは非常に安心します。何をやってもいいということだからです。
では、その自由さが私にとっての安心出来る要因だとして、それを通常の人間関係に適応出来るものなのか?と考えると、そんな気はしません。
気を使わないことなんてありえなくないか??と感じて袋小路に感じてしまいます。ここまで来て、手詰まりを感じて今こうやってブログにしています。
人付き合いで安心ってするんですか?
YouTubeでパレスチナとイスラエルの歴史を学ぼうと思ったら、英語で検索するに限る。
(本当はアラビア語とヘブライ語もわかれば最善なのかもしれないけど、ハードルが高すぎる)
ここ数日でたくさんたくさん視聴したので、中でも良質なものを紹介していきたい。
(実際に動画を見ずとも、紹介文だけでも読んでって)
1920年のパレスチナ: もう一方のパレスチナ人の物語 (字幕なし)
Al Jazeera English - Palestine 1920: The Other Side of the Palestinian Story | Al Jazeera World Documentary (47:17)
今でもユダヤが盛んに引用する、かつてのスローガン「土地のない人々のための、人々のいない土地 (A land without a people for a people without a land)」は、シオニストによる幻想である、というのが動画の主題だろう。パレスチナで健全な経済活動が発展していた証として、1934年の地元のアラビア語の新聞で「鉄道が5分遅れた」ことが報道されているというのが興味深い。
また、「パレスチナ人は国家を持ったことがない」との主張もよく見られるが、それには「今のイスラエルがしているような土地の奪取や抑圧がなかったからだ」という反論もまた定番で、この動画内でもオスマン帝国時代にパレスチナが議席を持っていたことが紹介されている。
イスラエル - 国家の誕生 (公式英語字幕あり = 自動翻訳の日本語字幕に切り替えても精度が高い)
DW Documentary - Israel - Birth of a state | DW Documentary (51:56)
※11月11日現在、動画が非公開になっている。直前までTwitterで言及があるので、ごく最近に非公開になったばかりか?ただしチャンネル内のイスラエル関連の動画全体が非公開になっているわけではなく、批判的な内容の動画も残されている。→DW Documentary - Israel Palestine
イスラエルの建国をイギリスによるお墨付きとしたバルフォア宣言の、但し書きとも言える「もちろん、パレスチナにもともと住んでいる非ユダヤ人の市民的・宗教的な権利が侵害されるべきではないことは明白である」という一節が、現代にむなしく響いている。
ドイツならホロコーストへの負い目があってもおかしくないとも思えるが、番組としてはユダヤ人のシオニズムに批判的である。もっとも、「ユダヤ人の排斥」という共通の関心の元に、パレスチナとナチスドイツに親交があったという歴史の側面も紹介されている。
なお、動画の公開は今年の5月だったが、ハマスの奇襲攻撃を受けてなのか10月13日に動画のタイトルが「Birth of a state (国家の誕生)」から「Story of a contested country (論争を呼ぶ国の物語)」に替えられたあと、10月20日にふたたび元に戻されたという経緯があるようだ。
どうしてイスラエル人入植者は紛争地であることを気に留めないのか (公式英語字幕あり)
Vox - Why Israeli settlements don’t feel like a conflict zone | Settlements Part II (10:56)
アメリカ新興メディアVoxによる、今も進むイスラエル人による西岸地区への入植の解説と当事者インタビュー。
大きく分けて、イスラエル政府やアメリカ資本の支援を受けた大規模な入植事業によるものと、宗教的信念に駆り立てられた個人・家族レベルの草の根入植が同時に進んでいる。エルサレムを含む西岸地区全体が「神が我々に与えた土地なのだ」という理念が、世俗的な入植動機の建て前としても、シオニズム信奉者の原理主義としても、お上から下々まで一貫していることに恐怖さえ感じる。
アメリカ新興メディアVICEによる、エルサレムにおける強権的な入植活動の実態。
いわゆる「入植地」とは違って、エルサレムにおいては一軒一軒の家単位での入植が進んでいる。一等地にはパレスチナ人に対して大金を提示することもあるようだが、この動画で紹介されているのは、入植者に都合よく作られた法律と軍隊に守られて、パレスチナ人を追い出してユダヤ人が住み着いてしまうという事例。
イスラエル側の副市長が、悪びれもせず「(イスラムの聖地である)岩のドームのある場所に、(ユダヤの悲願である)エルサレムの第三神殿を建てるのが夢だ、我々の世代のうちに」と語っている。
Rick Steves' Europe - Rick Steves' The Holy Land: Israelis and Palestinians Today (56:46)
ヨーロッパを中心に各国を旅する人気番組。この回では現代のイスラエル・パレスチナの各地を訪れ、ガイドや地元の人々との会話を交えながら、歴史と文化を紹介している。
近代の戦争の歴史やヨルダン川西岸地区での入植や抑圧の問題にもしっかり触れているが、全体としてはイスラエルとパレスチナの人々の活気にあふれた明るい側面を見せてくれる点で、YouTubeの中では貴重な資料。しかしいっぽうで、このイスラエル・パレスチナ回だけコメント欄が閉じられているのは、動画に暗い影を落としている。
イスラエルのアパルトヘイトが、いかにして私の故郷を破壊したのか (公式英語字幕あり)
アルジャジーラによる2022年のドキュメンタリー。パレスチナ出身の父を持つアメリカ育ちの二世ジャーナリストが、イスラエルの隔離政策のせいで変わり果ててしまった父の故郷を訪ねる話。
イスラエルの元軍人の助けを借りて「パレスチナ人立ち入り制限区域」を歩くが、パレスチナ人に対するイスラエル人入植者や駐留イスラエル軍の露悪的なふるまいは、過去のユダヤ人や黒人に対する差別と迫害そのもの。ウイグルにも近いと感じる。
パレスチナ暫定首都の市長と会おう (ドキュメンタリー映画) (英語字幕ありだがYouTubeの字幕ではないので日本語翻訳にはできない)
VICE News - Meet the Mayor of the Unofficial Capital of Palestine (Full Documentary) | The Short List (2:13:43)
2020年公開の、パレスチナの暫定首都であるラマラの市長の日々に密着したドキュメンタリー映画。本編は1時間30分で、残り40分は監督のインタビュー。
文化的で明るく楽しい街の一面もたくさん紹介されていて、イスラエル軍による監視や抑圧と自治権や移動の自由の制限さえなければ、よい街のよい市長だったはずだろう。市役所の幹部には女性も多く、先に紹介した旅番組でもパレスチナの大学は女子学生のほうが多いと語られていたが、日本より女性が社会に進出している感がある。
オスマン帝国時代の法律のなごりで、イスラム教徒が多数派の中にあって市長はキリスト教徒と定められているというのも興味深い。(もともとはオスマン帝国時代からキリスト教徒が多数派の街だったらしい)
なお、本題とは関係ないが、映画内の音楽は武満徹や芸能山城組による日本の曲が多用されていて、特に脈絡もなく日本語の子守歌が流れてきた(30:32)のには驚いた。
ちょっと世界一周してくる。by nojiken - #115【現在進行中の悲劇】 パレスチナで何が起こっているか僕が見たことを伝えたいと思います。パレスチナ問題はとても根深いです。(エルサレム、ベツレヘム、ヘブロン / イスラエル、パレスチナ) (30:25)
動画自体は2020年の公開だが、前半は歴史の解説で、後半は本人による2013年のヨルダン川西岸地区への旅行体験記。イスラエル軍に抑圧された厳しい環境下のパレスチナ人の一般家庭に泊めてもらったりしていて、日本人のふつうの観光系YouTuberの動画とは一線を画している。
欧米は親イスラエルだと思われるだろうけど、実際、YouTube上で「再生回数順」で検索する限りは、パレスチナに寄り添った動画のほうがずっと多い。
数少ないイスラエル寄りの動画は総じて、聖書や2000-3000年前の歴史に触れたあとはパレスチナやアラブを悪や下に見ることに主眼が置かれていて、もっとユダヤ人の悲しい歴史や難しい立場で同情を誘うほうが戦略としても優れるのではないかと思うのだが、そうした意味でのプロパガンダにはイスラエルとして興味がないか、成功しているとは言えない。
なお、聖書を持ち出すのは非キリストのイチ日本人としては全く理解できないどころか、2000年掛けの土地の所有権の主張にはどん引きさえするのだが、イスラエルを支持するアメリカのキリスト教福音派に対してはこういう話が最も好まれるようだ。なのでこの点は戦略としては正しいのかもしれない。
いっぽう、パレスチナの側は、古い映像では聖戦の主張や過激な言動が目立っていたが、2004年にPLO議長がアラファトからアッバスに替わったあたりからは、PLOやファタハはもちろんハマスからさえ、宗教的な主張はほとんど聞かれなくなり、抑圧からの解放と自由を主眼に訴えるようになってきている。どれほど意図しているのかはわからないが、これは第三者(特に非イスラム圏)の同情を得るという意味では、戦略としてとても成功しているように思う。
しかしイスラエルに対してミサイルを撃ち込み続けるハマスも、精度が悪いとはいえ目標を軍事施設に限ることはどうしてできないのだろうか。民間人を狙うことの効果が、差し引きでプラスになるとはとても思えないのだが…。
ガザ地区の様子については別の増田を書いているのでご覧いただきたい。
→ anond:20231017113202 ガザ住民の普段の暮らしぶりについて調べてみた。
紹介トラバ
→ anond:20231111160010 NHKスペシャル「ドキュメント エルサレム(前後編)」がすごかった
ブクマで「私の夫が~彼氏が~」って付いてるのが話したがらない答えだよ。
増田やブコメが言うまじめな話は高尚な話ではなく、世俗話と同じようにしょうもない話なんだよ。
所詮は同じ話題、同じ価値観を共有しているという毛づくろい的なコミュニケーションでしかない。
じゃあテレビが~俳優が~とか言う世俗話と何が違うかっていう所と他者が話したがらない点が繋がってる。
その手の話、と言うよりその話をしたがる人って言うのは、他人を見下して馬鹿にするやつが本当に多い。
これが誰も話さない話したがらない答えであり、ブクマで「私の夫が~彼氏が~」って付きまくってる理由。
夫や彼氏みたいな相手を否定しない、受け入れる事をロールとして求められるような立場じゃないと普通は傲慢で卑しい態度の人とは関わりたくないもの。
そして、この行き詰まりを乗り越えるために、私たちは私たちの種の歴史から何を学ぶことができるのか?
このような問いは、歴史を通じて真剣な思想家や活動家たちを駆り立ててきた。そして今、地球温暖化に直面している私たちは、緊急に説得力のある答えを必要としている。これらはグレーバーとウェングローも問いかけていることであり、本書が人々の注目を集めた理由であることは間違いない。しかし、私たちの多くが抱く3つ目の疑問がある:
意外なことに、グレーバーとウェングローはこの問いに関心がない。第1章のタイトルは「人類の幼年期よ、さらば」である:あるいは、なぜこれは不平等の起源についての本ではないのか」と。
この本の中心的な主張のひとつは、不平等、ヒエラルキー、暴力は、あらゆる人間社会を組織する方法として常にあり得たということだ。不平等以前の時代などなかったのだ、と彼らは言う。そして、「平等」や「平等主義」という言葉を多用するが、平等は空虚な関心事であり、おとぎ話であり、「平等主義社会」について語ることは何も語らないことだと主張する。
これには奇妙な解釈がある。グレーバーとウェングローは、霊長類の祖先や初期の人類が平等であることによって見出した適応、つまり生態学的ニッチについて説明する新しい注目すべき学問を無視している。つまり、かつて人類は平等であったのだから、再びそうなる可能性があるという古典的な無政府主義者やマルクス主義者の見解も無視しているのだ。
保守派の主張は、農耕や都市生活、経済の複雑化の結果として不平等が現れてしまえば、世界を変える希望はないというものだ。グレーバーとウェングローは、農業に関するこの議論に抵抗し、明らかに変化が可能であることを望んでいる。そして明らかになるのは、彼らの敵は不平等ではなく、国家だということだ。
彼らが問うのは、権威主義的、官僚主義的、中央集権的な国家に支配されるようになったのはなぜか、ということだ。そして、植民地主義、奴隷制、階級差別、人種差別、性差別といった不平等が本書の随所に出てくるが、これらは彼らの中心的な関心事ではない。
グレーバーとウェングローが主張する政治的論点は、太古の昔から、人は常に支配と自由のどちらかを選ぶことができたということだ。彼らにとって、人々は彼らが国家支配の「小規模な」行き詰まりから逃れ、「自由な人々」になることを選ぶことができる。
彼らが否定するのは、環境的・技術的な限界によって人々が選択できること、そして選択できることである。要するに、人々は自ら選択した状況で歴史を作るのである。
この立場の見返りは、政治的な意志さえあれば、革命を起こし、コンセンサスを通じて働く民衆の集まりによって社会を運営することができると主張できることだ。どれも素晴らしく、解放的に聞こえるが、その根拠には問題がある。
グレーバーとウェングローはこの本の冒頭で、善であれ悪であれ、「元来の」人間社会が存在したという考えを否定することを目的としている。そのために彼らは、ルソーとホッブズの間で長年続いてきた議論を復活させる。
さらに重要なのは、19世紀の社会ダーウィニズムや、より最近のスターリン主義的な「歴史の段階」理論に対する、彼らの完璧なまでの嫌悪が冒頭に示されていることだ。そしてここでもまた、ジャレド・ダイアモンド、ナポレオン・シャグノン、スティーブン・ピンカーのような進化心理学の現代ホッブズ主義者に対する深い軽蔑を表明している。歴史の段階説も進化心理学も、深刻かつ重要な対象であり、私たちはその両方を共有している。
社会ダーウィニズムと歴史の段階説。ハーバート・スペンサーとルイス・ヘンリー・モーガンの19世紀の社会ダーウィニズムと、それ以降のバージョンでは、最初の人類は原始人であり、次に未開人、野蛮な園芸民と牧畜民が続き、その後に農耕の出現、古代文明の発展、中世を経て近代資本主義社会の夜明けまで続く。それぞれの段階は、道徳的・知的進歩のシグナルであると理解されている。
しかし、社会ダーウィニズムはいたるところに潜んでおり、ほとんどの主流政治思想の醜い礎石であり続けている。そしてそれは、現代の人種差別主義や新植民地主義を支え続けている。
左派を含む多くの人々にとって、グレーバーとウェングローによる段階的な歴史理論の解体は目新しいものであり、啓示と安堵の両方として体験されるだろう。そして、その理由は容易に理解できる。
そして、グレーバーとウェングローの攻撃には、さらなる特効薬がある。彼らはこの本の中で、マルクスとエンゲルスの仕事についてはほとんど何も語っていないが、歴史の段階説を否定することで、伝統的なマルクス主義者の進化論的説明も暗黙のうちに否定しているのだ。
これはフリードリヒ・エンゲルスの著書『家族の起源 私有財産と国家』において最も顕著である。エンゲルスはそこで、人間は平等の中で進化してきたが、農耕の発明によってあらゆる形態の不平等が生まれたと主張した。ここまではいい。
しかし、エンゲルスはその枠組みを、白人差別主義に彩られたスペンサーとモルガンから直接学んだのである。例えば、エンゲルスがなぜ動物の群れを持つ牧畜民が他の未開の民族よりも人種的に優位に立つと考えたのか考えてみよう。
「アーリア人とセム系民族の発達が優れているのは、牛乳と肉が豊富に供給され、特にこれらの食物が子供の成長に有益な影響を与えるからであろう。ニューメキシコのプエブロ・インディアンは、ほぼ完全な菜食主義者であるが、肉や魚を多く食べる野蛮の下層にあるインディアンよりも脳が小さいという事実がある」[1]。
エンゲルスの著書にはそのような箇所がたくさんあり、このように書いているのは決して彼だけではない。
フランツ・ボアスグレバーとウェングローが、このような反感を買うような議論を破壊したいと思うのはまったく正しい。しかし、彼らはあたかも自分たちがそうする最初の一人であるかのように自らを装っているが、これは明らかに違う。フランツ・ボアスは、太平洋北西海岸のクワキウトル族に関する初期の民族誌で、グレーバーとウェングローはこれを大いに参考にしている。
フランツ・ボースは、ユダヤ人フェミニストで、1848年にヴェストファーレンのミンデンという町で起きたドイツ革命の指導者の一人であったソフィー・メイヤーの息子である。1851年までに、彼女の読書グループはマルクスとエンゲルスの『共産党宣言』を読んでいた。
ボースは人類学者になった。カナダではバフィン島のイヌイット族やバンクーバー島のクワキウトル族を現地調査し、最終的にはニューヨークのコロンビア大学の教授となった[2]。
1913年、彼は段階説の人種差別主義を打ち破り、近代人類学の基礎を築いた。ボースは『原始人の心』の中で、「原始人」は誰よりも賢く、賢く、創造的であると主張した。1913年当時、ボースは母親の政治を否定していたわけではなく、ユダヤ人として、またアメリカ先住民の党派として、人種差別を憎んでいた。
ボースは生涯社会主義者だった。母親の影響は、ルース・ベネディクト、マーガレット・ミード、ゾラ・ニール・ハーストンなど、多くの女性人類学者の世代を育てたことにも表れている。ボアスと彼の教え子たちは、人種差別的な段階という問題を、人類の文化の進化について話すのをやめるという単純な決定によって解決した。
しかし、私たちはもはや1913年の時代ではない。1982年、エリック・ウルフの皮肉なタイトルの『ヨーロッパと歴史なき人々』は、反帝国主義、反人種主義、そして歴史を真摯に受け止める人類学の波を起こした。
人類学者は長い間、単純と複雑、野蛮と文明、後進と先進、先進と後退、先進と未開発、高位と低位、世俗と宗教、伝統と現代といった二項対立から滴り落ちる人種差別に敏感に反応してきた。しかし悲劇的なことに、こうした二項対立は、アメリカ先住民の大量虐殺、アフリカの奴隷貿易、白人帝国による植民地支配、そして今日の対イスラム戦争を正当化するために展開され続けている。
人類学者や考古学者たちは、現在、人類の不平等の起源について、まったく妥当な説明を構築している。ケント・フラナリー、ジョイス・マーカス、ジェームズ・C・スコットがその中心人物である。
残念なことに、グレーバーとウェングローは、人類の進化に関する膨大な数の新しい学問に取り組んでいない。これらの新しい研究を無視することで、グレーバーとウェングローは、霊長類の比較進化とヒトの適応に関する、注意深く、そして現在では極めて十分に文書化された議論に逆らうことになる。彼らの問題は、この資料が「オリジナルの」人類社会は存在しないという彼らの主張を覆し、選択についての彼らの議論をむしろ愚かにしてしまうことである。
グレーバーとウェングローは、かつて人類が狩猟採集によって生活していたことを否定はしない。しかし、彼らは環境や人間存在の物質的基盤には深い関心がない。そして、これらの社会が必然的に平等であったことを否定している。
彼らの主張の第一歩は、人類の進化はすべて過去のことであり、当時何が起こったかを知ることはできない、というものだ。すべては推測にすぎない。しかし、これは単純に真実ではない。
過去40年間、科学革命は目覚ましく、人類進化の分野では膨大な研究が花開いた。今では、人間以外の霊長類や霊長類の行動に関する驚くべき新しい研究、初期人類に関する新しい考古学、近現代の狩猟採集民に関する新しい民族誌が数多くある。
化学的微量分析、DNAサンプリング、放射性炭素年代測定、質素な家庭での忍耐強い考古学のおかげで、私たちは先階級社会、そして初期階級社会に住んでいた人々について多くのことを学んだ。私たちのヒーローの中には、読み応えのあるクリストファー・ボーム、フランズ・デ・ワール、R・ブライアン・ファーガソン、サラ・フルディ、マーティン・ジョーンズ、ローラ・ライヴァルの広範な出版物がある。
このような研究は、人類の進化と人類史の研究を一変させつつある。その出発点は意外なものだった。私たちは平等になることで人間になったのだ。これは驚くべき貴重な洞察である。しかし、それはグレバーとウェングローの説明の根幹を突く洞察である。
現在、さまざまな類人猿やサルを対象とした何十回もの長期野外調査プロジェクトによって、それぞれの種について、特定の複雑な適応が、特定の環境で生き残ることを可能にしていることが明らかになっている。その適応には、主食、悪い時の代替食、脳、手、足、胃、歯、生殖器、うなり声、歌、支配関係、共有関係、子育て、攻撃性、愛情、毛づくろい、群れの構造がどのように組み合わされているかが詳細に含まれている。[これが基本であり、人類の進化を理解するための私たちの方法でもある。
時を経て、新しい適応のいくつかの部分が組み合わさって、現代人が誕生した。要するに、初期の人類はちっぽけな霊長類だったということだ。生き延びるためには、肉や野菜を共有し、育児を共有し、性的な喜びを共有することを学ばなければならなかった。そのためには、いじめっ子を懲らしめ、霊長類の祖先が持っていた支配階層を超越しなければならなかった。そして少なくとも20万年もの間、彼らは男女も平等である平等主義的な社会で生きてきた。
K子との出会い
私がK子と出会ったのは、まだ雪の残る3月上旬、札幌のすすきのでのことであった。
K子は、私がごくたまに寄るカフェ兼バーでウエイトレスをやっていた。
年は30歳、身長157cm。体型はややガッチリタイプに見え、いわゆる固太りに近かった。
顔はまぁまぁ整ってはいたが、頭部はアメフトのボールのように大きかった。
完璧なメイクを追求してるようで、白塗りの土台が厚く、丸い輪郭が、さらに強調されていた。
キッチリ描いた眉に、メリハリをつけたアイライン。目元周りには、そのひとのお化粧への設計意図が表れるものだがK子の場合それは、顔の大きさを、目を拡大させることでごまかそうとする意図だった。
それとK子のメークには、悪い意味でのバランス感覚という特徴も見られた。
あちらとこちらの均衡を保とうとして、薄くするのではなく、厚く盛る方にいってしまうのである。
さらにK子は勤務中はロングヘアーをタイトに縛ってるので、目元が上がって鋭角的になるのだが、これがふしだらで好色な印象を与えかねない外見になってしまうのだ。
それはせっかくのよい素材での料理を、調理でなくソースで惑わし、お門違いの高級感を添えたつもりの洋風メニューのようだった。
白人の風貌という、ないものねだりを追いかけた挙句、醜くなってしまったマイケルジャクソンのようであった。
K子は、そんな女だった。つまり、どこにでもいるひとだ。
K子はその日も普段どおり給仕をしていた。時刻は夜の9時。私のオーダーはグラスビールだった。
私のテーブルにもやってきた、そこで2人は始めて目を合わせた。
するとK子は私の顔を見るなりハッとした顔をして上背をやや引いた。私は「ああまたか」と思った。
なにが「またか」なのか。それはその時の私の顔が彼女にはイケメンに写った、ということの了解である。
断っておくがこれは自慢ではない。なぜなら、こうしたことは4年に一度、つまりオリンピック開催と同じ頻度でしか、私に訪れないからだ。「またか」と感じるのは、4年がさほど長くも感じられない私なりの時性であって、傲慢の致すところではない。
毎日のようにこういうことが起きる人を、真のイケメンというのだが、この程度のいわば「プチ・イケメン」なら今のご時世、結構いそうである。
私の顔は、それどころかまぁどちらかといえばブサメンである。口が飛び出た造作が特徴で、唇も厚い。佐藤浩市の2倍は厚い。
このせいで、顔の下部にボリュームが出てしまい、シャープには見えないモヤッとした風貌になっている。
たとえるなら、ガリガリ君のような輪郭であるし、佐藤浩市の親父の三國連太郎みたいでもある。
芋というか、類人猿、合わせればゴリライモ。私はそんな顔なのである。そしてもちろん、あなたに「そんなことないよ」といってほしい、そんなケチな性分も持ち合わせているのだ。そこがまた醜い。
ここ20年ほどで男もするようになった「化粧」とは、もともと目立たないもの(一重まぶたなど)を、まやかしの力で輝かせる補正技術だと思うが、私の口元のように、はじめから飛び出ているものを、平たく目立たせずに抑制する用法には、それはまったくといっていいほど役立たない。
しかし男の場合、三國連太郎がそうであったように、また、佐藤浩市がそうであるように、絶対的なブ男というものはいない。バナナマンの日村も最初見たときはびっくりしたが、慣れれば愛嬌がある顔である。
男は、風貌をある水準(清潔感と常識のあるファッションセンス、そして似合う髪型、できれば細身)まで満たせば、異性にアピールできてしまうのである。ここらへんが女子と違う。無愛想でもある程度はイケてしまうということだ。かくして私のような者でも、こうしたラッキータイミングが巡ってくるときがあるのである。
さて私にハッとして頂いた女子に対しては、私はだいたい挨拶をするようにしている。
ここでいう挨拶とは、店や本人の迷惑にならぬよう気を遣いながら、名刺を手渡すことだ。
できれば一言添える「もし、よろしければ、お近づきになれれば…」みたいなことだ。
ハッとする、させるというのは直感の神秘である。人間のあまたある能力のうちでも一二を争うような、めちゃめちゃものスゴい、宇宙の誕生レベルの認識だ。
人間(じんかん)にヴァイヴレーションが伝播する。あるひとがある人の存在にピン!とくれば、その相手にも同じピン!が、誤解も曲解もなく瞬時に伝わる。だれも解明できない感覚。こうした体感に対しては対象化なぞハナから諦め、人として素直にしたがい、謝辞を述べるのがスジというものであろう。
とりあえず自分を規定する第一歩として世の中には名前というものがある以上、名乗る。
「4年に一度」がいつなんどき訪れるやもしれない。そんなときのために財布に名刺を2~3枚入れておく。
こうしたなんでもない普段の心がけが、出会いを引き寄せる具体的な手段なのだ。
こうした縁で、私はK子と付き合った。世間には「よくまぁこんなサエないのと一緒になったなぁ」というのが男女問わずいるが、なんのことはない自分もその仲間入りであり、K子の方でもそう思うときがあったかもしれない。つまり、サエないのはお互い様だったのである。最初のうちは。
だがしばらくすると私にはK子の大きい顔と太い骨格が、次第にいとおしく写ってきた。
そして次に、それがかけがえのない尊さに思えてきた。
というのも付き合い始めてすぐに気づいたことだが、K子は私と最初に目が合ったホンの0.1秒の閃き、焦点で、自分の開削に成功した、まったく優れた女だったのだ。
私との邂逅によってポン!と新規開設された自我内の回路に、まったく純粋に従った。
世俗的な疑いとは、私と付き合うことのメリットデメリットやコスパを考えることや、趣味や好みが合う合わないというような話などである。
K子はそれらを考えもしなかった。だから、デートで会ってもあまり話さず、肩を寄せ合い、手を握り腕をさすり、見つめあったりするだけだった。それでどちらも了解した。ドンと存在が大きいのである。100%ピュアな肯定性の塊。
そしてそうしたK子の態度は、私の細胞のすみずみにあまねく影響を与えた。小さな自分に固執していた私を、彼女は開放してくれた。
こういう女に慣れると、小顔ブームとか、華奢な女子やスタイルに固執するのは、矮小なことと知れる。しつこいようだが慣れればあの日村ですら、ファニーフェイスである。
K子はやがてメークが薄くなっていった。コスメへの依存を減らしていった。
単なる身だしなみ以上のそれは、まやかしだと気づいたのだ。
食事や運動に、それまで以上に気を遣い、毎日しっかり生活を積み上げていくよう、意識的に自分を導いていった。
現代人はただ毎日暮らしてゆくだけで、目に見えない「不純物」が、アカのようにたまってゆく。
人はいつも意識的に「みそぎ」をしなければならない。するとみそぎなんてしなくていいんだ、そのままのあなたでいいんだと社会その他は全力で否定する。だがそれは違う。甘言に引きづられてはいけない。やつらはあなたから銭を引き出したいだけだ。
メイクはそうした「不純物」の象徴であった。それがズバッと削ぎおとされた。
人の本来的な美しさや輝き、魅力は、外から取ってきて付け足すものでない。自分の内面から湧き出させるものだ。
こんなことは実に当たり前のことだが、不純物の洪水の中にいると気づかない。
自分から「湧き出させること」が自然に出来る人は、この世にいながら永遠を手にしたも同然なのである。
理想のカップル、なるものは知らない。知らないがそれは「人それぞれ」ではない。
以上この文は、まだ見ぬあなたと、まだ顕在化してない私を想って書いた。
<了>
K子との出会い
私がK子と出会ったのは、まだ雪の残る3月上旬、札幌のすすきのでのことであった。
K子は、私がごくたまに寄るカフェ兼バーでウエイトレスをやっていた。
年は30歳、身長157cm。体型はややガッチリタイプに見え、いわゆる固太りに近かった。
顔はまぁまぁ整ってはいたが、頭部はアメフトのボールのように大きかった。
完璧なメイクを追求してるようで、白塗りの土台が厚く、丸い輪郭が、さらに強調されていた。
キッチリ描いた眉に、メリハリをつけたアイライン。目元周りには、そのひとのお化粧への設計意図が表れるものだがK子の場合それは、顔の大きさを、目を拡大させることでごまかそうとする意図だった。
それとK子のメークには、悪い意味でのバランス感覚という特徴も見られた。
あちらとこちらの均衡を保とうとして、薄くするのではなく、厚く盛る方にいってしまうのである。
さらにK子は勤務中はロングヘアーをタイトに縛ってるので、目元が上がって鋭角的になるのだが、これがふしだらで好色な印象を与えかねない外見になってしまうのだ。
それはせっかくのよい素材での料理を、調理でなくソースで惑わし、お門違いの高級感を添えたつもりの洋風メニューのようだった。
白人の風貌という、ないものねだりを追いかけた挙句、醜くなってしまったマイケルジャクソンのようであった。
K子は、そんな女だった。つまり、どこにでもいるひとだ。
K子はその日も普段どおり給仕をしていた。時刻は夜の9時。私のオーダーはグラスビールだった。
私のテーブルにもやってきた、そこで2人は始めて目を合わせた。
するとK子は私の顔を見るなりハッとした顔をして上背をやや引いた。私は「ああまたか」と思った。
なにが「またか」なのか。それはその時の私の顔が彼女にはイケメンに写った、ということの了解である。
断っておくがこれは自慢ではない。なぜなら、こうしたことは4年に一度、つまりオリンピック開催と同じ頻度でしか、私に訪れないからだ。「またか」と感じるのは、4年がさほど長くも感じられない私なりの時性であって、傲慢の致すところではない。
毎日のようにこういうことが起きる人を、真のイケメンというのだが、この程度のいわば「プチ・イケメン」なら今のご時世、結構いそうである。
私の顔は、それどころかまぁどちらかといえばブサメンである。口が飛び出た造作が特徴で、唇も厚い。佐藤浩市の2倍は厚い。
このせいで、顔の下部にボリュームが出てしまい、シャープには見えないモヤッとした風貌になっている。
たとえるなら、ガリガリ君のような輪郭であるし、佐藤浩市の親父の三國連太郎みたいでもある。
芋というか、類人猿、合わせればゴリライモ。私はそんな顔なのである。そしてもちろん、あなたに「そんなことないよ」といってほしい、そんなケチな性分も持ち合わせているのだ。そこがまた醜い。
ここ20年ほどで男もするようになった「化粧」とは、もともと目立たないもの(一重まぶたなど)を、まやかしの力で輝かせる補正技術だと思うが、私の口元のように、はじめから飛び出ているものを、平たく目立たせずに抑制する用法には、それはまったくといっていいほど役立たない。
しかし男の場合、三國連太郎がそうであったように、また、佐藤浩市がそうであるように、絶対的なブ男というものはいない。バナナマンの日村も最初見たときはびっくりしたが、慣れれば愛嬌がある顔である。
男は、風貌をある水準(清潔感と常識のあるファッションセンス、そして似合う髪型、できれば細身)まで満たせば、異性にアピールできてしまうのである。ここらへんが女子と違う。無愛想でもある程度はイケてしまうということだ。かくして私のような者でも、こうしたラッキータイミングが巡ってくるときがあるのである。
さて私にハッとして頂いた女子に対しては、私はだいたい挨拶をするようにしている。
ここでいう挨拶とは、店や本人の迷惑にならぬよう気を遣いながら、名刺を手渡すことだ。
できれば一言添える「もし、よろしければ、お近づきになれれば…」みたいなことだ。
ハッとする、させるというのは直感の神秘である。人間のあまたある能力のうちでも一二を争うような、めちゃめちゃものスゴい、宇宙の誕生レベルの認識だ。
人間(じんかん)にヴァイヴレーションが伝播する。あるひとがある人の存在にピン!とくれば、その相手にも同じピン!が、誤解も曲解もなく瞬時に伝わる。だれも解明できない感覚。こうした体感に対しては対象化なぞハナから諦め、人として素直にしたがい、謝辞を述べるのがスジというものであろう。
とりあえず自分を規定する第一歩として世の中には名前というものがある以上、名乗る。
「4年に一度」がいつなんどき訪れるやもしれない。そんなときのために財布に名刺を2~3枚入れておく。
こうしたなんでもない普段の心がけが、出会いを引き寄せる具体的な手段なのだ。
こうした縁で、私はK子と付き合った。世間には「よくまぁこんなサエないのと一緒になったなぁ」というのが男女問わずいるが、なんのことはない自分もその仲間入りであり、K子の方でもそう思うときがあったかもしれない。つまり、サエないのはお互い様だったのである。最初のうちは。
だがしばらくすると私にはK子の大きい顔と太い骨格が、次第にいとおしく写ってきた。
そして次に、それがかけがえのない尊さに思えてきた。
というのも付き合い始めてすぐに気づいたことだが、K子は私と最初に目が合ったホンの0.1秒の閃き、焦点で、自分の開削に成功した、まったく優れた女だったのだ。
私との邂逅によってポン!と新規開設された自我内の回路に、まったく純粋に従った。
世俗的な疑いとは、私と付き合うことのメリットデメリットやコスパを考えることや、趣味や好みが合う合わないというような話などである。
K子はそれらを考えもしなかった。だから、デートで会ってもあまり話さず、肩を寄せ合い、手を握り腕をさすり、見つめあったりするだけだった。それでどちらも了解した。ドンと存在が大きいのである。100%ピュアな肯定性の塊。
そしてそうしたK子の態度は、私の細胞のすみずみにあまねく影響を与えた。小さな自分に固執していた私を、彼女は開放してくれた。
こういう女に慣れると、小顔ブームとか、華奢な女子やスタイルに固執するのは、矮小なことと知れる。しつこいようだが慣れればあの日村ですら、ファニーフェイスである。
K子はやがてメークが薄くなっていった。コスメへの依存を減らしていった。
単なる身だしなみ以上のそれは、まやかしだと気づいたのだ。
食事や運動に、それまで以上に気を遣い、毎日しっかり生活を積み上げていくよう、意識的に自分を導いていった。
現代人はただ毎日暮らしてゆくだけで、目に見えない「不純物」が、アカのようにたまってゆく。
人はいつも意識的に「みそぎ」をしなければならない。するとみそぎなんてしなくていいんだ、そのままのあなたでいいんだと社会その他は全力で否定する。だがそれは違う。甘言に引きづられてはいけない。やつらはあなたから銭を引き出したいだけだ。
メイクはそうした「不純物」の象徴であった。それがズバッと削ぎおとされた。
人の本来的な美しさや輝き、魅力は、外から取ってきて付け足すものでない。自分の内面から湧き出させるものだ。
こんなことは実に当たり前のことだが、不純物の洪水の中にいると気づかない。
自分から「湧き出させること」が自然に出来る人は、この世にいながら永遠を手にしたも同然なのである。
理想のカップル、なるものは知らない。知らないがそれは「人それぞれ」ではない。
以上この文は、まだ見ぬあなたと、まだ顕在化してない私を想って書いた。
<了>
セレブや有名人などの社会的地位で女が群がってるのを「チビやおじさんでも顔や金や喋りがあればそれだけで女が吸い寄せられる」と解釈するのがチビおじさん
社会的地位があるやつはコミュ力か顔か金のどれかが伴ってるってだけで、女は男の社会的地位や全身トータルを見るから一点突破じゃ通用しない
街コンや婚活やマッチングアプリも170cm未満男性は顔やスペックを見る前に女からフィルタリングされるシステムが可視化されてるし
手越祐也を見ればわかるが、同じ容姿でも大手事務所所属か否かで女が集まったり散ったりする
一方で街コンでググればわかるがフリーターや非正規でも高身長だと街コンの参加条件で大手企業勤務や高収入や公務員と同じ扱いにされるほど女からの需要が高い
581 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (アウグロ MM63-NznT) sage 2023/03/07(火) 13:40:34.36 ID:59E8svdMM
世俗から離れすぎて、女は金よりも社会的地位や所属先を見るという現実に気づけなかった
そして社会的地位や所属先が大手の連中は金も伴ってることも多いからよけいに「女は金に釣られる」と誤解する
582 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (アウアウエー Sae3-OlHQ) sage 2023/03/07(火) 15:08:47.96 ID:iiz2ro0La
いろんなタイプの女がいるけど、少なくとも「大将」以外には興味示さないよな。
・暴力革命
日本共産党はいまだに暴力革命を放棄してないとみなされていることを知らないひとが結構いる
世界では言うまでもなく、日本でも共産主義を掲げてどれだけ多くの血が流されたか考えたら普通に解散でいいはず
意外と知られてないけど、先進国を見渡すと共産党が国政として存在してない国も普通にある
何なら禁止されてる国まであるから、日本で解散させても別に誰も文句言わないような政党なんだよな
しかも、日本は西側諸国で一番共産党が勢力持ってる国になってしまってる
普通に、解散、解散じゃなくても社民と同等ぐらいの存在に抑え込むのが世界の趨勢だろう
権力は必ず腐敗するというのは、はてなでも支持されてる価値観だけども、一番トップが変わってないのは共産党
共産党は腐敗もいききってるからもうすでに変えたくても変えられない段階にある
・言ってることとやってることが違う
共産党は自民党と対立する形で綺麗事をたくさん言うんだけど、それはあくまで世俗ウケを考えてのこと
独裁者は言うまでもなく、労働者の味方と言いながらパワハラする幹部、女性への性犯罪許さないと言いながら盗撮する議員
国を批判するのは当然必要だけど、少なくとも批判する前に我が身を正すことから始めたほうがいい
もちろん得意の内ゲバはノー
上げれば切りがないし、この他にもここが駄目だよ共産党ってみんなもたくさん挙げられるでしょ
タイトル通り。
飲み会で1人1万円取るようなクソ高ぇ場所に行ってボトル何本空けただの、
宗門の中で偉くなりたいから根回しして他の奴らを蹴落とすだの、なんかこう良くも悪くも世俗に染まりすぎているんよ。
そのカネがどこから出てきているもので、その檀信徒の方々はどんな気持ちで坊主に寄進したのか考えたことあんのかなマジで。
しかもさあ、こういうこと言うと坊さんの中で煙たがられるんよ。「真面目すぎる」とか。
お前らが不真面目すぎるだけだろうがよ。
仏教はどうしても小難しい分野になりがちだし、俺も完璧に教えを理解したわけじゃないけどさ
一番宗門を牽引すべき40代50代のお前ら坊主が酒と女と政治に狂ってるから坊主が信用されないんだよ、わかる?肩書きだけ一丁前になりやがって。
「宗教離れ」?「寺離れ」?「墓離れ」?当たり前だろ。お前らがそんなだから信用されねえんだよ。
価値観のアプデも疎かにしてるから、ずっと檀家ガー墓ガーで止まってんだよ 周回遅れすぎるだろ
またぞろワナビが喚いている
なろう(これはカクヨムとかアルファとか含む)は、その有り様として「素人投稿」を主軸にしてる
受賞作家様や、ベテラン様の、世俗を驚かせる高尚で意識高い「純小説」とかの発表の場じゃねぇんだよ
みんな好きに書けって場なわけ
で、人気作品には後追いがかならず出る
だって書きたいだろ?
構成のここをこう変えて、こうしたらどうだろう
僕ならここをこうする、私ならこうだ
その頃にはもう、ゴクドーくんのような、外しや反転がガンガン創作される
ここで「恥ずかしい」とか言って書けない奴はワナビになるんだよ
そのくせ言うことだけは高尚でいようとし
中村某が文句言う相手は、少なくともアウトプットはしてる卵の方じゃねぇだろ
手抜きしてるのはランキングからしか作品を世に出せない編集やら出版の側で
そっちにこそ「恥ずかしくないのか、お前の仕事は何だ?」と問うべきで
ゴクドーくんのどこにオリジナリティがあったよ
書けなくなったとしたら、ラノベ脳がなくなったんじゃないよ