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2023-03-16

最近読んで面白かった・つまらなかった漫画

初恋ゾンビ

ウィッチクラフトワークス

書きすぎて2作品しかはいらなかったよ。

面白かった

初恋ゾンビ

https://www.shogakukan.co.jp/books/09126440

https://seiga.nicovideo.jp/watch/mg165284

少年アビスが思いのほか完結しないのでこっち読んじゃった。

江火野、江火野ですよね…。

このっ露骨なっ海老で鯛を釣るような餌っ!!

人間っ!わかっていてもっ!釣られクマー

がたいがよくてデカパイ高身長黒髪ロングストレート幼馴染という明らかに誘引剤かつ負けヒロインにどっぷり引き込まれ、連載当初それがあまりにも(勝手に)露骨に感じたので読むものかと序盤で本を置いておりました。

このたび完結まで読みまして、面白かったです。

改めての江火野さんですが、必要キャラだったかな、と。

特に序盤は主人公恋愛があまり動かず、ヒロイン指宿くんは正体を隠して敵対初恋ゾンビストーリーの動き出しも遅い感じで、江火野というどストレートな魅力がなければ序盤をいい感じに引っ張れなかったかなと思いました。

そんな江火野のすごいと思ったところ。それは彼女が体にコンプレックスが(たぶん)一切、ほとんど?ない・描かれてなかったところ。

彼女高身長で悩むことも大きな胸に悩むこともない。たとえ服や水着が小さかろうが胸で隙間に詰まろうが体を嫌ったり極度に恥ずかしがったりしないんですよね。服が破けて見えたり胸が他人に当たったりすることは常識として恥ずかしがって嫌がるけれど、コンプレックスとしてではない。(胸が当たっても人を支えるとかの付随だと恥ずかしがらない)

恋敵はいろいろ正反対指宿くんになるわけだけど体を比較しないし、胸で勝負しかけたりもしないのはすごかった。(プランは練ってたけど)

ただただ彼女は背が高くて胸が大きいキャラクターだった。でもそんなあまり体に言及しないキャラは他にもいるのだけれど、初恋ゾンビメタ的に読者に江火野の性的魅力を江火野ゾンビ含めてガンガン押し出してくるわけですよ。21話なんか白いシャツに光が当たってシャツは胸で膨らんで真下に落ちる寸胴系のシルエットだけど胸の影で形がはっきりわかるのがもうね、やりすぎ!≧≦おいおいおいマジかよご褒美すぎるだろという気持ちとスケベ要員じゃないまともな恋愛キャラをこんなに影で、キャラが知らないところでエチエチできる作者の脳はどうなっているんだ!?とあきれかえりました。

やすごい作者だよ。知ってたけれど。どういう意図で作っていたのかこれは知りたい。

そんなわけでレースはおそらく負けヒロインである江火野をやや応援してましたが、やっぱり負けましたね…。

プレゼント手袋をしてくれない時点で怪しんでいたとはいえ、決定的な瞬間まで自分はもしかしたらありえるんじゃないかと期待はしていました。

初恋特別だとしてもそれはそれとして初恋に決着つけつつ今の恋を取るルート全然アリだよねと思っていたので。そっかーダメだったかー。と。大きな失点もなかったので粛々と受け入れております


ラブコメものひとつパターンはいかに主人公恋愛を進めず恋愛エッセンスをお出しするか。のようなものがあるのかなと思います。当然僕ヤバのようにゆっくりと着実に進んでいくラヴも非常によろしいものではあるのですが。

今作は初恋(失恋)ゾンビの実害を回避する名目他人の恋を推し進めるというパターン主人公ではない恋を進行させつつ、そばには常に主人公ラブなイヴを配置している。

ほぼ擬似人格自分じゃない恋愛を進行する神のみぞ知るセカイのようなやつにお供のエルシィもっとラムちゃんToLOVEるなどの恋愛要素が高い押しかヒロインとして、一方的に好かれる心地よさも用意してある。

サブキャラの個々の恋愛ストーリーも良くできていて非常に楽しめた。

とはいえ周囲の障害を排する目的である以上、くっつける対象は身近な友人やクラスメイトになってしまって話が進むとサブキャラカップルが増えてごちゃってくるしデザイン空間は狭まるしで息苦しさもすこし。

この巻数でまとめるならちょうど良い感じだったけれど、もっと主人公積極的だったり指宿くんが初恋ゾンビ知識を持ちすぎず調査のために他所恋愛を観察したりすると2年目ルートもあったのかなと。でも「初めて」がキーならクリスマス誕生日を繰り返すのもなぁ。単純にもっと見たくなる魅力的なシナリオからでしたと。


ラブコメなら主人公ロウの恋の結末はそれとして読者としてはこのキャラの恋が成就してほしいってのはあると思う。そして他のキャラも不幸にはなってほしくない。

初恋ゾンビはその点イヴというキャラを通して非常に悩ましい関係であった。

他人に見えないイヴエンドなら世俗から離れて孤独に過ごすことになり、江火野エンドならイヴは視界で眠り続け、指宿くんエンドなら初恋は叶って、しか指宿くんとも仲良くなったイヴ消滅

妄想(とずっと言うには序盤から知覚外の情報を得すぎだが)の存在ながらイヴキャラクターもヒロイン候補と言っていいぐらいに仕上がっていたために彼女存在にみんなが悩み、読者の自分も最適解がずっと見出せないでいた。

人格があるとはいえ人じゃなく初恋成就を願う初恋ゾンビだという点は途中から見落としちゃっていたぐらいであるし、ラストの展開にもいい意味で裏切られたものである。なるほど。


総括として、この漫画主人公ロウ自分初恋と向き合うまでの物語だった。翻って、通常のラブコメのようにタロウと真ヒロインとの恋愛が主眼ではなかったと感じた。指宿くんとの典型的イベントはあるけれど、終始男の指宿くんが実は女じゃないのかという疑いベースドギマギが多くて、成長後の二人の恋愛はあまりなくて初恋が焦点だったかな、と。もし普通恋愛モノなら自分場合主人公キャラを好きにならないと気分がノれないのだけれど、この物語初恋のせいでそこそこひねくれた性格になったタロウが徐々に戻ってく話で、そのタロウはあまり好みではない。だけど初恋を見つめるからがっつりとはタロウ恋愛はせずだったので、好きじゃない主人公イチャイチャラブコメしてるわけでもなくて。自分恋愛モノの読書経験では中々異色の、主人公をそんなに好きにならないまま完結まで読みきった不思議バランス作品だった。全体ではストーリーリブンで読めた名作だと思います

まらなかった

ウィッチクラフトワークス

https://pocket.shonenmagazine.com/episode/3269754496884229720

がたいがよくてデカパイ高身長黒髪ロングストレート幼馴染というキャラに惹かれて(ん?)連載当初に少し読んでいました。なんか読みにくいなと序盤で投げてましたが、完結したし画力キャラは魅力的だったので今回読みきった。

んー…一言で言えば、大いなる茶番…。

魔女が秩序と混沌派閥に分かれてヒロイン(誤植ではない)の多華宮くんを奪い合うお話なんだけど…

から書けばいいのかまとまらない。

多華宮が秘めている力はヤヴァイものらしい。しか世界全体はぽややんとしているんだよ。

敵の混沌側、塔の魔女たちは混沌勝手に言ったけど利己的で研究のためには他者を厭わないという方向の人たちなので、キャラ自体コミカル寄りなんだわ。

そんな人たちが襲ってきてはヒーローの火々里さんが一蹴するって話が基本構成

敵味方で分かれてるはずの派閥は作中ではひたすら馴れ合ってて、封印解除の時間経過を待つクロノワールはともかく同級生の初期敵のケモミミ(KMM)団はサブキャラとして居つく。KMM団の師匠メデューサも顔見せ一戦少ししたらシリアスは終わり一時の共闘関係を結んでKMM団の母親ポジになってご近所づきあい。作中、規模とシリアスで言えば一番頑張ってる爆弾魔のウィークエンドも負けたら学園の"いい先生"にあっさり落ち着く。秩序の工房側のアルシナ言わずもがなで、ほぼ全員理事長関係者でちっさく回してるだけ。

ラスボスの火陽すら目的達成の手段は多華宮くんとの結婚式と緊張感の欠片もない。ラストラスト、後処理のフルカネルリの采配に暗い予想をした読者がはたしてどれくらいいただろうか…。

世界保護システム一般人危害は及ばないのだが、もっと上位のメタ的な意味で「この漫画は人が死なない」。キャラがほぼ減らない漫画なのだ(星組やウィークエンドの部下にすら後でほんのちょっと出番をもらえるし)。

こんな作品で表面上シリアスやられても茶番しかならない。一番シリアスで怖いのが名前もないモブの火陽の娘達ってどういうことよ。

これは想像になるけど、作者がキャラ愛着ありすぎるから切り捨てできないんじゃないのかと思う。この作者はめちゃくちゃ設定を凝る人で、カバー裏解説があるけど読みきれないほど世界キャラに設定がある。自分は途中から裏表紙を見ることをやめた。

ひとりひとり凝りに凝ったキャラから使い捨てができないのかなと。そのせいで

襲そう

負ける

居つく

というサイクルが出来上がってぬるま湯が完成するのである

モミミが好きだからたんぽぽちゃんは残したいとしてもKMM団のほかメンバーはばっさり切っちまえばよかったのよ。結局たんぽぽちゃんだけ多華宮家に居つくし。まあメデューサキャラがいいからKMM団家族の話も悪いわけじゃないけどさー…。

結局、捨てられずもてあましにもてあまして最後最後に今まで全然活かせなかった虎徹に超雑に出番作ってさ、あれにはマジあったまキたかんな!あんな設定なら出番無しのほうが良かった…そっとしておいてくれ…。

あとケモミミ好きだからこうしたってところで言うとたんぽぽちゃんの出番が無かったかメデューサの使い魔?をケモミミにしたってのもすごくテンション落ちた…。


バトル方面もなんというか、戦略はあるけど戦術がないって印象で、だいたいバーンとやってドーンと終わるみたいなのが多いかなぁ。全員(というか作者が)、よく計画を練って行動しているように感じるものの、終端のやりとりが火々里さんのバーンや巨大人形のドーンで片がつくので…。いえね、絵としては非常に映えるものになってるし月刊誌でこまごまと攻防なんてやってられないとは思うのだけれど。アンバランスさ?空回り?結局茶番のような流れで気分が盛り上がらない。絵はいいんですよ絵は。ただ火々里さんの細かくある炎のレベル表現まで追いきる気分にはならないだけで…。そしてバトルの魅力がないってつまり魔法の魅力がないってことになって…この魔法好き!とかなかったなって…。摩訶ロンのキャラ好きは魔法好きとは違うし。


漫画世界がぬっるい茶番日常コメディでもわたくし全然よろしくてよ。普段ならね。

ただこの漫画、守るという名目で火々里さんが多華宮くんをプライベートガン無視の超絶監視体制を敷いてるんですよね。作中の他キャラや読者の自分ドン引きするぐらい。マジヤッベなそれも多華宮くんの、のほほんキャラでほぼ公認されてるわけですが…。いや引くわ~。

火々里さんの言い分はわかるんです。多華宮くんの日常を守りたい。大いに結構

しかしねぇ、君…この漫画世界茶番であるのだから…。(自分人生を生きてという幼少の多華宮くんの願いをやや無視しつつ)そんなにプライバシー侵害してびったり張り付かなくても悲惨なことにはならないんだよ…。

日常コメディで非常に過剰な警護・侵害をするならフルメタルパニックみたいにガチシリアスがあって影で実際にシリアスを防いでいてそれでもラスト付近ではコメディ凌駕するガチシリアスで守りたかった日常が一度破壊されてほしい…。

もしあらすじだけを読むと一見それは達成してるように見えるけどそれまでの積み重ねでこっちは茶番としてみてるし実際茶番だし本筋の根っこの根っこはちゃんまともな話をしてても描写が、キャラの動きが、セリフが、コメディなんよ。

そんな世界で一人、無駄ビリビリ気を張っている火々里さんがすごくノイズ無駄に一人シリアス気取って無駄プライバシー侵害して無駄学内外で多華宮くんに実害出てて…。正直、好きになれんかった。

換言すれば、火々里さんがここまでクールを通り越してド重い陰湿キャラじゃなかったら、こんなド軽い漫画本編の世界でも普通面白いのです。使命感込みで監視するんじゃなくてちょっと愛が重いクールおねショタ風味なキャラなら火々里さんも漫画もまるっとまるごと好きと言えるんですよ。逆に本編がドシリアスならこのキャラでも作品ごと好きになってたでしょう。

緻密な重めの世界設定と火々里さんが紐づいていて、その他全部はライトでポップな作風と他キャラがいる。致命的に両者がミスマッチ

愛が重いだけのヤンデレ気質もあるから最終回後も行動は変わらないだけろうけど、それでももう少しマイルドにしていただけると助かった。

キャラクターとしては唯一無二で好きな人はめちゃくちゃ好きになれるキャラだと思うが、自分には我妻由乃とかみたいな成功したヤンデレにはならなかったというお話です。


漫画にとって重要主人公の火々里さんが肌に合わず結果つまらない判定ですが、日常コメディキャラクターは好きなんですよ。

ちゃんやりのん先輩はすごく好きだし理事長メデューサ、アルシナ小町母さんたち歳増組みも好きで、決して悪い漫画ではないのです。ただただ封印された力をめぐるメインストリー絡みが合わなかっただけで…。

本編連載を終え、今は番外編のEXTRAが連載してるようです。重い話は終わり多分こっちはコメディ全振りで面白かった成分だけで構成されていてきっと気に入る内容になると思います。サブキャラの出番増えるだろうし。

本編自体日常コメディ割合かなり多いし、書いた悪い部分も刺さらない人の方が9割だろうから絵が好きな人にはおすすめしておくよ。もし合わなかったら…お家断絶グッバイフォーエバー。

2023-03-09

惜しみて余りある忠義の者共なれど、あの日の雪の如き純白の忠誠心世俗の垢に汚したくはない

今ここで法に従い、生命を捨ててこそ、彼らの忠誠心未来永劫絶えることなく、

永遠にこの国の人々に語り継がれてゆくことでございましょう。

2023-01-11

フェミニストってマジで「マチ子先生が~」って言うんだよ

マチ子先生フェミ実在した!

証拠がない時に言ったらネタだとか嘘だとか言われて悔しい思いをしたのでこの機会を逃せない。

ネタでも自演でもないちゃんとしたフェミの人のツイート

はてブで☆を集めて人気一位をとってるちゃんとしたブコメだ。

  

   

これについて、「漫画表現のせいで現実スカートめくりが発生した」のはほぼ事実です。これは発端になった漫画を描いた永井豪先生自分で認めてらっしゃいます。その後「まいっちんぐマチコ先生」でさらに大流行となり、女児被害者が多発、PTAが猛抗議し、連載差し止めになる等大騒ぎになりました。

https://twitter.com/sodium/status/1612993220979621888

自分実体験。マチ子先生流行子供だった。パンツまで降ろされそうになった。のちにしつこくめくってきた子に「好きだった」と言われた。彼はもう忘れてるだろう。やられた方は一生忘れられない

2023/01/11

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/sodium/status/1612993220979621888

 

  

ほーらな?

マジで言うんだからな?

マンガ叩くフェミニストってほんとにマチ子先生の話するんだよ。  

 

 

アラ還さんたちさあ•••

あのさあ、

マチ子先生流行って40年前だからな?

もう立派なおっさんの俺でもまだ生まれてもいねえっつうんだよ。

  

40年前の少女時代にマチ子先生のせいでスカートめくられたと。

それはご愁傷さまでした!辛かったね!

でもその話を現代マンガ叩きの根拠にするのは狂気の域だからな?

 

言ったらなんだけどマチ子先生流行時代スカートめくられてた人ってそろそろ還暦だろ。

そんな人の十代の頃の体験って、歴史的出来事として語るんならいいけど

その話で現代の話に普通に接続してこようとするのはやめてくれよ。

 

実害例で40年前の例ばっか出てくるってことはさ

マジでマチ子先生ってマンガアニメも見たことないんだよな。

それぐらい古い作品で元々どの雑誌掲載されてたのかすら謎。

絵とタイトルだけ知ってる。

なのになんでこんだけマチ子先生意識してるかと言うと

マンガの害」を語るフェミニストがマチ子先生例に挙げるのを何度も何度も何度も何度も見たからなんだよ。

マジでマンガ叩きフェミニストはマチ子先生マチ子先生って言う。

 

けど、現代マンガ有害だって叩こうとする話で例示がマチ子先生まで遡るんなら

そのあとの40年は大した「有害マンガ」がないってことじゃん。

そんならいまのマンガを敵視して萎縮させようとする必要なくね?

マンガがどうこうじゃなくてマチ子先生特別有害だった可能性濃いんじゃね??? 

 

 

自分老害性にも厳しい目を向けてくれよはてブ

で、はてブもだけど、

こんなコメントが一位になるってことは星つけてるのも大概中高年~高齢者ってことじゃん?

年長者に対して汚い言葉とか使いたくないから、自分分別を持ってくれよ。

あんたらの体験体感現代語るの無理だよ。

 

年取ってても、

ちゃんと新しいマンガ読んでキャッチアップできてて

エビデンスベースマンガ社会関係とか真剣に考えてます

っ人ならまあ現代マンガについて語ってもいいよ。

 

けどマンガの思い出で真っ先にマチ子先生出てくる人達マジで身も心も高齢者でしょ。

40年前に有害マンガがあったから今のマンガデータなしで叩いて規制していいのかよ。

なんかもうあんたら、脳の新陳代謝止まってるし現代にもマンガにもあんま興味ないでしょ。ほんとは。 

  

はてな老害叩きが辛辣な割に自分達の加齢ボケには無自覚すぎるんじゃないの?

こんな人達にあてずっぽうで現代メディアとか表現とか語られたくないし

こんな人達体感お気持ち表現規制なんかミリでもされたくないんだよ。

 

 

年寄りの話は話にならない

これは煽りでもなんでもなく言うけど

精神的に一定以上老いて現世に向けたアンテナが折れたんなら

それを受け入れて積極的世俗への興味を薄めて

寺社巡りとか盆栽とか内向きの精神世界に目を向けたらいいと思うんだよ。 

それだって豊かな人生だよ。

ネットとんちんかん社会もの申す老人やってる奴よりずっと格好いいだろ。

 

もう社会の話に入ってくるなよ。

40年前の体験の話でいまの話に入ってこられるのいくらなんでもウザいよ。

あんたらだって若かった頃そういう年寄りうんざりしたはずだろ。

 

 

実際なんかしらんけどマンガアニメ目の敵にしてるの老人ばっかだし

オタクだというだけで凄まじく見苦しい偏見吐いて差別するのも年寄りばっかだし

言ってる話がマジでタイムスリップしてるみたいな時差があって話になんないんだよ。

 

もう黙っててくれよ頼むから

下の世代迷惑かけんな。

庭に穴掘って死ぬまでマチ子先生の話してろ。

 

 

ブコメ1

んーだから悪影響を与える可能性はないわけではないけど規制は反対なら話が進むのだが、絶対悪影響与えないって言い張るからデータを出されてるだけでしょう。で今度は「現代漫画に悪影響は絶対ない」ですか。

2023/01/12

いやいやいやいやw

あのさ、表現規制という重めの人権制限を実現したい側が

現代マンガはこのように著しく有害なのです!」ってデータ証明する必要あんの。

 

マンガ読んだらなんらかの心理的影響あるはずだ!」?

当たり前。映画だってドラマだってこの文章だってなんかの影響はあります

そんな当たり前のこと言って表現規制根拠になると思ってるならそいつがやべーだろ。

  

影響があいまいなら規制は出来ません。

「ほんの少しなら影響あるはずだ!」で規制できるなら

この世に規制できないものはないだろ。

 

頼むよ。

お爺ちゃんかお婆ちゃんしらねえけど日本語道理くらい理解して。

 

ブクマ2 会話が成立しない

影響ないわけなくて、漫画スカートめくり描写自分スカートめくりたからな 増田

Q「お爺ちゃんお婆ちゃんの十代の体験談って

  現代漫画規制する議論においてなんか意味あるんですか?

A「ワシも十代のころスカートめくりした!」

    

もうこのお爺ちゃん会話が成立しねえだろ。

頭要介護状態社会議論に参加するのやめてくれよマジで

そして、この人だけじゃなくこういう状態の人が大勢いませんか?って話な。

 

ブコメ3 お爺ちゃんお婆ちゃん自身の精査は済んでんのか問題

houyhnhm うーん、実際どういう感じで影響があったのかがマトモに考えられてないのがなあ。 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E3%82%81%E3%81%8F%E3%82%8A そこで発明された訳でもないんだよ。

2023/01/12 リンク

それな。

そもそも40年前のマチ子先生伝説自体まともに精査されてないんじゃね?

たとえば「単にこいつらの世代性犯罪に対して甘かっただけ」なのでは?

という可能性についてきちんと調査されて却下されてもないわけじゃん。

  

あともう一つ「単にこいつらの世代フィクション現実の切り分けガバだっただけ」なのでは?説もきちんと検討してほしいよね。

東京リベンジャーズがあれだけヒットした後で暴力事件が激増したって話もないわけじゃん。

鬼滅の刃社会現象になったあと刃物刃物のもの使った傷害事件が激増したこともない。

何よりお爺ちゃんお婆ちゃん体験のような性犯罪の大流行が起きたことなんか一度もない。

 

「実は単に40年前が青春時代だった世代特別カスだった」可能ちゃん検討した?

その世代特別性犯罪に甘くて、特別フィクション現実区別ガバくて、

自分達がヤバかっただけなのに下の世代説教して規制しようとしてる」って可能性は?

 

上で得意気に「ワシもスカートめくったぞ!」つってるお爺ちゃんもだけど、

それを自分恥部としてんじゃなくて下の世代を殴る鈍器にしてる感じあるじゃん

 

なんでお爺ちゃんお婆ちゃん聖痕スカートめくり」で下の世代が殴られたり抑圧されたりしなきゃならんのよ。

自分達を総括してろよ。

現役世代迷惑かけんな。

 

 

ブコメ4 受信ベース議論の驚異

40代後半のおばちゃんは、実害があった記憶があるけど、その下の世代になるに従って漸減していってる(良くなってる)と思うし、一方で絶滅してる訳でもないのよねと思うのよ、現にこういうクソ増田絶滅してないか

えっ論理が全くわかんねーんだけど

俺の文章によって性犯罪絶滅してないと確信するってどゆこと?

フェミニストを批判するなんてこいつは性犯罪者に違いない!」……ってコト?

  

なんかもうコメント不能だけど

こういうレベルの”感覚”で何かを確信する行為って俗語では「受信」とか表現されるよね。

この感じの人が社会について何か発言することの意義がわかんねーんだよな。 

 

あと性犯罪絶滅する日なんてこねーと思うので(あらゆる種の犯罪がそうだろ)

もしも「性犯罪絶滅するまで表現規制必要がある」という規制論者が居るとすれば

それも会話になんないよね。

マンガ八つ当たりしたいだけじゃん? 

  

ブコメ5 ガチで古老だった

こういう態度こそが歴史から学ばないってやつか。たかだか40年前を古いと言うのなら、戦時中戦前に起きた自国の過ちを省みる事なんて到底無理なんじゃなかろうか。

2023/01/12

マジで古老の箴言なのかよw

 

な?こんなの相手する必要ある?

エビデンスベースで影響を語るつもりなんか元からねーの。

「40年前に一件そういう事例があれば現代表現根拠省略して規制していいんです!」

こういうのは「歴史大事にしてる長老」っていう表現も違うよね。

科学的な思考が出来ないのでフィードバックが適切でなく迷信撒き散らすだけの残念な年寄り 側なんじゃねえの?

 

要するに自分達の世代独自のぐにゃぐにゃなナラティブで下の世代に話になんねーこと言ってるだけ。

きちんとした議論なんかする気もないんだよこいつらは。 

死ぬほど不真面目で怠惰なの。

  

すごいシームレス反戦左翼イシューなだれ込むところもポイント高いよな。

こういうのゲンブツが無いと「そんなのいない、藁人形論法!」って言われるし

idがないとこで検出しても最悪「自演」って言われるからな。

 

そしてこの古老がそこそこ星とって上位に来るのが

この皴皴コミュニティはてなブックマークなんだよな。

お前等二度と老害叩きで盛り上がったりすんな。

 

ブコメ6 宅八郎ガー

証拠はないが宅八郎ヤンキー漫画は実社会に悪影響及ぼした、証拠はないが性差別表現には一切悪影響はない、がオタク村の常識なんだけど論理思考が苦手な一般人にはこれちょっと難しんだよなろんりてきに。

ヤベエまた訳わかんねえ皴皴反論

宅八郎って誰?ってWikipediaで調べるとオタク戯画化的な格好でテレビに出て活躍したライターで全盛期は33年前。

数年前に亡くなってて生きてたら60歳。

 

からさあ

現代の話だっつってるのにナチュラルアラ還タイムスケールレスしてくんのやめてくれよ!

30年以上前の人の話で当て擦りされてもわっかんねーんだよ!

 

さんざん「あんたらの時間感覚は狂ってる」って話をしたのに、生きてたら還暦の人の33年前の全盛期のネタ反論風の何かをしてくるの凄すぎるだろ。

 

ねえ、これ見てる人達客観的に少しは気付かないか自覚のない高齢化時間感覚の解離がヤバすぎるだろこの村。

 

ブコメ7 この村ヤバすぎ 匙投げたわ

当時の証言者です「スカートめくり」も流行ってたし「ボインタッチ」はそれ以上に流行ってた。アニメ放送してた時期に被害集中。クラス中の男子がやってた。やめろ言うてもやめないんだよ猿だから。あまりにも胸糞 被害がなかったことに されてるのはスカート と違い成長期で胸の 大きくなり始めた子 だけに被害が集中する 構造から普通に犯罪なんよ

??????

 

俺の話聞いてた?

「40年前当時スカートめくり流行などなかった!捏造だ!」的なこと1ミリも言ってないと思うんだが

なんで当時を知るハルモニの証言が人気1位になるの?

これがどう俺へのレスポンスなり反論なりになってんの?

 

これが1位に押し上げられるの

話が通じなさ過ぎて真剣ビビるというか

はてブ民て老害どころかマジもんの〇〇〇入ってんじゃねえか?   

 

A「あなた達の40年前の体験はいいけどそんなんで現代規制かけようとするのはやめて」

B「当時を知る証言者です!スカートめくりはありました!犯罪なんです!」

B'「うおおおお!ハルモニが生き証人だ!歴史修正はさせない!!☆☆☆!!!

 

あんま長くこいつらの相手してると頭狂いそうで怖いわ

 

年齢層高いとはいえここまでコミュニケーション不能とは思わなかったわ

正直まだまだ見くびってた

やっぱ怖いスね超高齢化社会は 

2023-01-06

anond:20230106175148

益田追記

チャールズテイラーカナダ)は博愛主義(philanthropy)を世俗主義(secularism セキュラリズム政教分離、信教自由宗教差別禁止原則)という形にもっていった

プロテスタントは一方で、共和党トランプポピュリズム政治(populism 大衆権利尊重人気取り)をくさすようなので

セキュラリズム世俗派(非宗教派)と、ポピュリズム大衆派)との違いは意識すべきだと思うのだ

  

プロテスタント異端差別は嫌なので、セキュラリズム宗教差別禁止)を「世俗派」と和訳したのかもしれないが

まり世俗資本家ノブレス・オブリージュでない)の宗教といった風でもある

 

アメリカではプロテスタントは(大衆であるかのように)中絶自由を求め、カトリック堕胎禁止(皇統ぽい)を求めるという争いがあり

日本ではポルノ規制しろフェミと、表現規制するな派の争いがあるので、ベクトルが反対ではあるが、企画者は同じようにも思える(CIA?)

結局は利権維持のために、医師業界法律業界優遇拡大するのかな

真面目な業界人に逢えるといいなあ(棒)

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

2022-12-26

相対してるべきだよ

https://togetter.com/li/1869089

こういうまとめ見ててもさあ、単純に「ロシアは蛮族なんだ、野蛮なんだ、おかしな連中なんだ」(=自分達は正しく西欧側・自由民主主義側の枠内にいられるんだ)みたいなコメントばっかり出回ってるわけだけど

西欧自由民主主義側が絶対正義で疑ったりしてはいけないことになってるのか、なぜ自分安心できてるのか(ロシア人・〇〇人はそういうもんだって嫌韓の焼き直しみたいなことをいえるのか)、そこまで踏み込んで考える奴全然いないよね

別にロシア万歳ロシア戦争正義!とか、大日本帝国万歳アメリカ倒せ!みたいなことを言いたいわけじゃなくて(ロシア国内で今「何でロシア戦争正義なの?なんで俺達が徴集されなきゃいけないの?」と思ってる人は大勢いるだろうし)

もうみんな忘れてるだろうけど数か月前にアカデミー賞の式典でウィル・スミスが妻を侮辱したコメディアンを殴った時の日米の反応の差の時(反応差があること自体が悪い、みたいな)も思ってたし、前々から機会があればずっと思ってたんだけど

何でそう、何か「日本」という国名が付いてるだけで後の中身はヨーロッパ北米のごく一部からしか発していない風習に染まり切らなきゃいけないのか、それがごく当然の事となってんのか、全然分んないんだよな

「今、そうなってるから」「今それで発展してるから」ってのは追認とか気休めであって説明じゃないよな

西欧諸国アメリカもある時点までは海外に力で自分達の力を押し付けまくって(戦前日本もその列に加わったり、都合が悪くなると看板替えて「大東亜共栄圏」とか言ったりして)た時期があって、別にその時点で「自由民主主義」が正義だった事は無いわけで

そんである時点から「なんか力ばっかり押し付けるのは止めにしたることにしたわ、ウチの若いもんも死にまくるし評判悪いから」ってなって一応西欧の一部諸国勝手に体面だけ取り繕うようになっただけだよな

(旧植民地はそれに感謝しないといけなくて、感謝しなかった国は解放時に事務机まで取っ払われないといけなかった)

枝末になるけど別にアメリカイギリス自由民主主義」が無くても中国日本世俗的には発展してたし、独自政治参加や人命尊重概念は発展させてたし、アメリカインディアンアメリカ独立フランス革命と何ら関係なく自前の高度な民主主義を持っていたわけで

そんで侵略とかは一応しなくなった後も、「アメリカでは親は子どもと同じお風呂に入りません!」(までならともかく)→「同じお風呂に入る日本は野蛮!」みたいなバカみたいな文化解釈押し付け宮城遥拝の押し付けと変わらん)を官民一体でしてくる訳だろ

(あとこういう時に引合いに出される「アメリカ」ってごく一部のWASPセレブのものであって絶対インディアンラテン黒人や混血の文化なんて参照されないよな)

相対主義って最近叩かれがちだけど、それも程度問題で、何でここまで卑屈とすら言えるレベルしかも「前からロシア人は気にくわなかったんだ」みたいなスネオ精神丸出し)で自分境遇に満足したり疑いを持たなくなるのかを考えると、

やはり相対主義は一つの入り口として確保されてるべきだと思うんだよね

2022-10-31

陰の実力者になりたくて!とか言う糞アニメ

本当に評判悪いんだけど。俺、今の所割と好きなんだよなぁ

こういうイタイきしょ童貞ムーブするキモキャラとか好きなんよな

ゴミみたいな世界に対する態度ってやっぱり舐め腐ってゴミみたいに適当相手するほうが誠実じゃん?っていう気持ち、超わっかるー。みたいな

みんな真面目っていうか世界に対する誠実に接していこう見たいな姿勢大事にしてるんだな。ある程度は分かるし他の糞系なろう作品ときは俺も同じように、フーやれやれいつもどおりしたんだけど、きゃーさすが〇〇君、見たいなキショ光景キモくて見てらんないんだけど、この作品は見れるんよな。結構重要な違いな気がする

多くのレビューだと主人公舐めプしていることが最悪らしいんだけど、俺主観だと別に舐めプとか世界を軽く見ている見たいな感覚に見えないんだよな。あの主人公には「世界ゲームのように見えているタイプ」のガチの人に見える。

過去に似たようなイタイ人間を何人か見たことあるのが原因だろうか?それに、そういう狂っている部分多くの人間はもっているんじゃないのか?俺は

世俗に染まりきっててそれの人生の99%はヴァーチャルであるし、俺の目から見る限りあのキモ主人公と俺らお前らの違いなんて、車の前に飛び出して自殺するくらいの実行力が歩かないかだぞっていうのな

じゃあおすすめできる作品かって言うと、全然進められない。伊集院光ホヤが好きであのクッサイのがたまらんと言っていたが、他人には進められないらしい

俺も陰の実力者は、個人的には面白いけど、これはアニメ化までするような作品家と言われるとわからん。いらない気もする

まー原作とか漫画版読んでないかわからんけど、アニメだけを初見で見た感じだと個人的にはオモシロんだよなぁ

でも今後主人公キモイタムーブ祭り上げて、世界主人公を賛美するためにワッショイワッショイし始めシリアス路線推し進めていくのであれば吐き気必須手のひら返しにはなりそうな気はする

まーでもこんなアニメ見るくらいならチェンソーマン見とくのが確実ではあるな

2022-10-17

anond:20221016164943

これは言えてるね。日本自由民主党だって左右社会党が合併して大きくなったのに対抗して結成されたに過ぎないのだから吉田茂岸信介じゃあソリが合わないのも当然だったし、安倍と岸田でもやっぱりそうだ。

アメリカでもキリスト教保守派世俗保守派政治家に期待して支持しては幻滅を繰り返してきている。ネオコン福音派じゃあ共通点はそう多くはないだろうからね。

2022-10-04

anond:20221004200910

モモ小学生の頃に読んだときは、経済的合理性人間性よりも上に置くことの愚かさという教訓をすんなりと受け入れることができた

大人になってから読んだなら「でもあなた汚らしいホームレスですよね?」などと言って、金銭利益を軽視するのは世俗から遊離した詩人的発想だと拒絶したことだろう

2022-10-01

エロサイトエロアニメ見つつも賢者タイム中に仏教思想書を読んで異世界ハーレムも良いが

世俗との関係を断って梅妻鶴子な生活を営む僧侶仙人も楽しそうだーってその狭間で迷う

どっちにしろここではないどこかに救いを求めてる時点で逃げなんだけど

2022-09-20

anond:20220920110007

権力ではなく反(世俗の)権威ということならまあわかる

生産流通金融等々の経済活動芸術活動を支えるために従属するものとみなす芸術至上主義な作家が、それに共感する権力者に金を出させて自身思想作品体現したということはままあっただろう

2022-08-18

これじゃキリスト教イスラム教カルトワロタ

信仰思想教義儀式等が「変わっている」「おかしな事をしている」からカルト宗教ではないのです

世俗社会との関わりで、人権侵害刑法民法等での不法行為をなしているかカルト宗教なんです

伝統宗教側もこの辺を誤解してはいけません」

これに納得してしまブクマカの頭のレベルにため息しかでないわな

前々から馬鹿の納得感に価値はないとなんとなく思ってたけど、これではっきりした

良い教会モスク紹介するからカルト認定してしっかりブコメに書かれてるような罵声浴びせて来てほしい

2022-08-17

anond:20220817164731

自由原則イスラムに反しない程度に狭められて、世俗的な学校はなくなるけど

2022-07-30

anond:20220730013252

自分年金健康保険が今まで通り使える事の方がメリットじゃない?

イスラムが増えて世俗的な事が言えなくなるのが嫌だから子供簡単に産むな!って元増田は主張してるの?

言えなくなったらそんな世の中はいやだなぁ、くらいじゃなくて?

2022-07-20

anond:20220720233127

あかんっていうか生きづらいやん

「ほんまにあかんのか?」って思考の海に浸ったけど多分世俗と合わない点であかんやろ

小規模集団になればカルト化するし

2022-07-14

anond:20220714201332

統一教会に合同結婚なるもの存在したとしても、世俗社会で女がいっこうに下方婚してないのはわかりますか?

2022-07-13

奈良の銃撃に関するSNSのあれやこれで傷ついた人にむけて(覚え書)

奈良の一件以来なんとなくイヤなことが続くので自分落ち着けるために書く。覚え書。

カルト」の定義あいまいなので使用を控えたほうがいいという意見に関しては、統一教会グレーゾーンにあるような生易しい集団ではないというのが応答として妥当。ここは曖昧さをゆるしてはダメ。なにも許容できないし、しちゃいけない。

ただ、いまSNSを騒がしている言説の多くが、統一教会以外のグレーゾーンだと見なされる宗教者やその近親者にたいして(すくなくともジェンダー人種部落などの属性、あるいは自死いじめなどのセンシティブテーマと同程度の)配慮があるものになっているかといえばなってない、というのはちゃんと気をつけたい。

このあたり、ネットの方々もできるだけお願いします。

宗教二世」という言葉も、現状のジャパンではあまりいい言葉ではない。これは世俗側の言葉で、自分意志ではないものによって「受動的」にその属性にさせられた、というニュアンスがある。近代主体観が前提。

別の言い方をすると、「宗教二世」は宗教を背景とした虐待をうけた人をケアすべき対象として取り上げる枠組みではあるけれど、同じく「宗教二世」ではあるけれど自分がその宗教メンバーであることに疑問を持ってないひとや、より自覚的にその宗教を選びなおした人をケアすべき対象から除外するものとして論じることを含意しているところがある。

自分意志で選びなおしたのなら問題ないではないかという向きもある思うけれど、今回のような事件のなかで「統一教会カルト宗教宗教一般」という形で批判先が拡大していった場合(すでに拡大してるけど)、「宗教二世」というワーディングを被害から救済すべき対象としてことさらに強調することは、そうした言説のダメージからケアを受けるべき人」と「ケアを受けるに値しない人」を社会が選別することを容認することになる、という話。

まぁこのあたりは長い話になるので割愛。分かる人が分かればいいと思います

ここまで読んで、そもそも(新)宗教や「カルト」の信仰者はケア対象ではない、あなた宗教の話をしているわけではない、嫌ならやめればいい、という言葉がおもいうかんだ人、すでに地獄の5丁目くらいにいると思います。気をつけなはれや。

ここで処方箋としていえることがあるとすれば、社会宗教という属性に十分配慮しろ、ではなく、たぶん絶対に世の中は配慮するようにはならないので、社会承認ない宗教に近しい人は自分を傷つける言説からできるだけ距離をとってほしい、というわりと消極的ものかなと思います。逃げていい。向き合わなくていい。

あと「宗教政治」の枠組みで語れることもあるけれど、現状の報道をながめるかぎり「宗教家族」のほうがまだ適切な印象。いずれにせよ過度に「原因」をもとめる言説から距離をとったほうがいい。

まぁ逃げましょう。生きのびましょう。

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