はてなキーワード: 最判とは
【証明の程度】
主要事実について、どのような状態(心証の度合い、証明度。41 頁参照)になったとき
に、当該事実が認定できるといえるかにつき、判例(最判昭50.10.24 民集29-9-1417、最
判平12.7.18 集民198-529)は、因果関係の証明に関し、経験則に照らして全証拠を総合検
討し、特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認し得る高度の蓋然性を証明する
ことであり、その判定は、通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ち得るも
主要事実について立証責任を負う者は、当該主要事実について高度の蓋然性をもって真
実であるとの確信を抱かせる程度の立証を要する(本証)。これに対し、当該主要事実につ
いて立証責任を負わない者は、その事実の存否について真偽不明の状態に持ち込めば足り
ることになる(反証)。上記の事実認定の構造のイメージ図(8 頁)は、主として本証につ
https://www.courts.go.jp/saikosai/sihokensyujo/sihosyusyu/syusyugaiyou/minsaikyoukan/index.html
ざっとよんだ限り、裁判は真実を追求する場ではなく、レスバトルすると解釈することもできるな
むろん、レスバトルの過程で真実がわかることがあるが、大阪王将事件のように晒した側が嘘つきの前科者で、直接証拠がない状況だと裁判所の判断もそういうのに引っ張られることになる
→わかる。
→わからん。暇空はそれを止めろって言ってた側じゃね?これを認めると、味方のフリをした鉄砲玉を送り込むなんてことができてしまうが裁判官はそれをアリと考えたのか
内部通報にしろ公益通報にしろ告訴にしろ告発にしろマスコミへのタレコミにしろ、かなりの部分が私怨を含むしそれでも良いのでは。
例えば課税逃れ目的の養子縁組ですら、課税逃れが主目的だったとしても養子縁組の意思を認め、節税を認めている(最判H29.1.31)
暇空だって「俺の税金こんなことに使うなよ」などと言っていたはずで、これまでの判例からすると意思の併存を認めてよさそうだがそれを無視しているのは謎。暇空の場合は私怨100%とでも判断したのだろうか。(たぶん裁判官ではなく立証の問題な気がするが)
→そりゃそう。一般的に裁判所(官)は自身の都合で全てが動くと考えてるので、求めを拒否するとめちゃめちゃ心象悪い
(例えば東京地裁の裁判長は中央省庁の局長級(いわゆる高級官僚)よりも偉いので、内部では言うことはほぼ何でも通るエライ人なのよ)
白黒の結論はともかく、理由付けは法学的に非常に興味深い(オブラート)ものなので高裁待ちかな、と
候補者以外の安倍へのヤジが合法な時点で、候補者である俺らが違法なわけがない
北海道のヤジも、俺らがやったヤジも全く同じ
音量がデカかろうがなんだろうが定義が曖昧な以上、ヤジであると一括りにされる
https://twitter.com/nemoto_ryosuke2/status/1790019943834227068
つばさの党・根本良輔氏「安倍氏へのヤジが合法で俺らが違法なわけがない」 選挙妨害疑い
https://www.sankei.com/article/20240514-MEYMGQ723FF3ZIBV7ZBVDTKSJI/
これなんだけど、これを読んで成程と思う人も結構いるらしいけど他人のいうことを純粋に信じちゃう人の良さなら嫌いじゃないし悪でもないよ
まともに問題も理解してないのに、グダグダと話をひっくりかえすしかしないためにこの言説を使う人は悪かもしれんがな
信じちゃう人はともかくとして仮にも政党の幹事長がこれを言うのはどんなもんよと思うので見てみるよ
公職選挙法の選挙妨害は225条で今回はおそらく1項1号と2号の問題となると思うけど、とりあえず2号の方で見るね
第二百二十五条 選挙に関し、次の各号に掲げる行為をした者は、四年以下の懲役若しくは禁錮こ又は百万円以下の罰金に処する。
二 交通若しくは集会の便を妨げ、演説を妨害し、又は文書図画を毀き棄し、その他偽計詐術等不正の方法をもつて選挙の自由を妨害したとき。
演説を妨害して選挙の自由を妨害した場合に罪となるという規定であり、妨害の方法は別に規定してないわけだ
と言っても意味なくて、せめて言うなら「ヤジのせいで安部氏の演説が妨害されたのに合法だった」なの
一応言っておくと、この事件で選挙妨害は争点になってないので選挙妨害の事案として持ち出すのは不適切なんだけど、なんであいつは逮捕されないのっていう部分で持ち出したのでまあいいか
別に法律とか知ったこっちゃない層ならヤジが問題なんだで吹き上がってもいいけどまがりなりにも政党の幹事長なら公職選挙法の条文位は知っていないと困るでしょ
本当に知らないんじゃなくて知っているけどあえてそう言っている可能性もあるけどさ。トランプとかと同じで正しいことより金を出す層に受けるアジを振りまいているって可能性
これでも分からんと言う人がいるかもしれんので、ヤジを持ち出すことのおかしさを別のケースで例えてみよう
人を殴って殺した奴が殺人罪を問われているときに「俺じゃなくてあいつも人を殴ってるのに殺人罪になってない。間違ってる」と言うの変でしょ
人を殴った結果、傷つけたなら傷害罪かもしれないし暴行になるかもしれないし、あるいは殴ったという語感の問題で触れた程度なら罪に問われることもないよね
人を殴って殺したから殺人罪であって、殴ったかどうかが問題ではない
それと同じでヤジが問題ではなく、ヤジの結果選挙の妨害になるのが罪になる
だからヤジで一括りにしてるわけでもないし、ヤジの定義が曖昧だから困ることは何もないの
ヤジってる時点で選挙の妨害じゃねーか、と言う人もいるやもしれんが妨害になるのは
と言われてるの(正確に言えば公職選挙法ができる前の衆議院選挙法についてだけど)
だから
音量がデカかろうがなんだろうが
と言われようと音量がデカけりゃその分演説の邪魔になるんだから、当然有罪へのプラス評価になって関係ないわけないんだよ
聴衆がどの程度の妨害で聞き取ることを不可能になるか分かんねーだろ、やっぱ曖昧じゃないかと言われたら
お前がそう思うならそうなんだろう。お前ん中では
ああ「ヤジのせいで安部氏の演説が妨害されたのに合法だった」以外にも言えることあったぞ
「つばさの党は聴衆が演説を聞き取ることを不可能又は困難にはしていない」
これなら正しい反応だと思う。それが実際にどうだったかは別として
スーファミの試作機がネットオークションに出されて話題になっているが、一部では任天堂がその気になれば所有権に基づき試作機を取り戻せるのではないか、と指摘されている。
当方は法曹でもなければ法学部卒でもないが、民法の教科書を読む限りは、任天堂は遅くとも2015年11月23日にはスーファミ試作機の所有権を失い、試作機占有者が正式に所有者になっているのではないかと推測する。以下、条文の当てはめを示す。
占有者の所有の意思(自主占有)はいつ発生するか。この発生時期が取得時効の起算点になるため重要である。
試作機の使用貸借の終了により代理占有関係が消滅しても、任天堂は試作機をなおも代理占有し続ける(204条第2項)。他方で学説は、占有代理人に「自己のためにする意思」も存在するときは、占有代理人において他主占有に加えて自主占有も併存しうるという(潮見佳男 民法(全)(第2版)(pp.245-246))。これに合わせて、所有の意思の有無は、占有取得の原因となった客観的事実(占有権原の性質)から外形的に判断される(最判昭45.6.18)という判例理論を考慮すると、試作機返還債権の消滅という占有権原の性質の変化から、占有代理人には他主占有に加えて自主占有も併存し、この債権消滅日を取得時効の起算点と自分は結論した。
(追記)
ブックマークコメントの指摘の通り、所有の意思が占有取得の原因となった客観的事実(占有権原の性質)から外形的に判断されるならば、試作機返還債権が時効消滅しても占有取得の原因となった客観的事実は変わらないのだから、引き続き占有代理人には所有の意思なしと考えるべきかもしれない。
しかしその場合、占有権原(使用貸借契約)に起因する債権(試作機返還債権)が全て消滅時効にかかってもなお任天堂が永遠に代理占有し続けうるということを意味し、法的な不安定性を社会にもたらしうると思う。別の解釈として、試作機返還債権を本人(任天堂)が行使せずに時効により消滅させたことを、黙示に代理人に占有をさせる意思を放棄(204条第1項第1号)したと位置付け、任天堂の代理占有が消滅し占有代理人から他主占有が消滅した、こういった具合に法律構成することができるかもしれない。但し、ざっと調べた限りこれを支持する判例や学説は見つけられなかった。
もっとも、オークション売主の言動を見る限り、ゲーム開発会社に勤めていた父親が退職の記念に持ち帰った試作機を相続により承継した子息が売りに出した、こういった経緯が目に浮かぶ。この場合、退職により父親が持ち帰った日にゲーム開発会社(占有代理人)は占有物の所持を失うことになり、任天堂の代理占有は消滅する(204条第1項第3号)ので、退職日が取得時効の起算点になるだろう。また、ゲーム開発会社が解散して試作機が外部に流出した場合は、同様の理由でその流出日が取得時効の起算点になるだろう。いずれにしても、取得時効の起算点は1995年11月22日よりさらに遡る可能性が高い。
この少し前に話題になった、日本マクドナルドの社内研修用ニンテンドーDSソフトの「クルトレ eCDP」について、同社が所有権を失うのはいつか。以下に示すように、遅くとも2039年頃にはマクドナルドはクルトレの所有権を失うだろう。
まず、スーファミ試作機の考察から、取得時効の起算点の特定のために、占有者の所有意思の推定(186条)を所有者が覆せなくなる日はいつかが重要になる。その日は、フランチャイズ店からクルトレが外部に流出しマクドナルドが代理占有を失った(204条第1項第3号)日になるだろう。この日からクルトレ占有者の所有意思の推定(186条)をマクドナルドは代理占有を根拠に覆せなくなり、取得時効が起算される(162条)。
クルトレが外部に流出した日はいつかはケースバイケースであろうが、報道によるとマクドナルドは2018年までクルトレを研修に使用していたとのことなので(ttps://www.j-cast.com/2024/03/27480390.html)、遅くともその翌年の2019年に外部流出したと仮定してよいだろう。
すると2019年の20年後の2039年に取得時効か成立し(162条)、クルトレの占有者は正式に所有権を取得する。その反射的効果としてマクドナルドは同所有権を失う。
(使用貸借)
第593条 使用貸借は、当事者の一方がある物を引き渡すことを約し、相手方がその受け取った物について無償で使用及び収益をして契約が終了したときに返還をすることを約することによって、その効力を生ずる。
第185条 権原の性質上占有者に所有の意思がないものとされる場合には、その占有者が、自己に占有をさせた者に対して所有の意思があることを表示し、又は新たな権原により更に所有の意思をもって占有を始めるのでなければ、占有の性質は、変わらない。
(期間満了等による使用貸借の終了)
第597条 当事者が使用貸借の期間を定めたときは、使用貸借は、その期間が満了することによって終了する。
2 当事者が使用貸借の期間を定めなかった場合において、使用及び収益の目的を定めたときは、使用貸借は、借主がその目的に従い使用及び収益を終えることによって終了する。
第166条 債権は、次に掲げる場合には、時効によって消滅する。
一 債権者が権利を行使することができることを知った時から五年間行使しないとき。
第186条 占有者は、所有の意思をもって、善意で、平穏に、かつ、公然と占有をするものと推定する。
2 前後の両時点において占有をした証拠があるときは、占有は、その間継続したものと推定する。
第204条 代理人によって占有をする場合には、占有権は、次に掲げる事由によって消滅する。
二 代理人が本人に対して以後自己又は第三者のために占有物を所持する意思を表示したこと。
相続人が、右各事実(被相続人の死亡の事実と自分が相続人になった事実)を知った場合であっても、右各事実を知った時から三か月以内に限定承認又は相続放棄をしなかったのが、被相続人に相続財産が全く存在しないと信じたためであり、かつ、被相続人の生活歴、被相続人と相続人との間の交際状態その他諸般の状況からみて当該相続人に対し相続財産の有無の調査を期待することが著しく困難な事情があって、相続人において右のように信ずるについて相当な理由があると認められるときには、相続人が前記の各事実を知った時から熟慮期間を起算すべきであるとすることは相当でないものというべきであり、熟慮期間は相続人が相続財産の全部又は一部の存在を認識した時又は通常これを認識しうべき時から起算すべきものと解するのが相当である。(最判昭和59年4月27日)
知っての通り、日本民法は重婚や一定限度の近親婚を禁止している。
通常は婚姻届が窓口でハネられるが、何らかの事情で重婚や近親婚が生じることがある。戸籍担当公務員のミスの他、たとえば重婚であれば失踪宣告の後に再婚したが前配偶者の生存が判明した場合や、近親婚であれば認知していない非嫡出子と婚姻したが実の父娘であることが判明した場合などが考えられる。
この場合、重婚や近親婚は、婚姻の取消事由となる。当然無効ではなく家庭裁判所で取消審判が下るまでは有効ではあるが(重婚について大判昭17.7.21新聞4787-15)、重婚は犯罪であるし(刑法184条)、取消権者は当事者に限られず公益的見地から親族や検察官にも取消申立権を与えているので、有効とは言っても法が許容しているという意味では無いとみるべきだろう(その意味では、行訴法学にいう公定力の議論に似ている。)。
第七百三十二条 配偶者のある者は、重ねて婚姻をすることができない。
第七百三十四条 ① 直系血族又は三親等内の傍系血族の間では、婚姻をすることができない。ただし、養子と養方の傍系血族との間では、この限りでない。
2 第八百十七条の九の規定により親族関係が終了した後も、前項と同様とする。
第七百四十四条 ① 第七百三十一条から第七百三十六条までの規定に違反した婚姻は、各当事者、その親族又は検察官から、その取消しを家庭裁判所に請求することができる。ただし、検察官は、当事者の一方が死亡した後は、これを請求することができない。
2 第七百三十二条又は第七百三十三条の規定に違反した婚姻については、当事者の配偶者又は前配偶者も、その取消しを請求することができる。
重婚禁止の趣旨については、たとえば『新注釈民法(17)』(有斐閣,2017)で732条について解説する110頁はこのようにいう。
「定めるものである」という書き方は一夫一婦制が憲法上の要請ではなく民法の選択であることを示しているかもしれない。民法改正によって一夫一婦制を改めることができるかどうかは、憲法24条2項の解釈問題であろうか。
なお「重婚的内縁」というトピックがあるが、法律上の配偶者と別居して他の者と内縁関係を構築した事案の裁判例を中心に議論が発展したためか、一夫多妻または多夫一妻(さらには多夫多妻)的な重婚的内縁関係の議論はあまり活発ではなさそうだ。
近親婚の禁止については、同書で734条について解説する118頁はこのようにいう(太字引用者)。
民法は,近親者間(本条),直系姻族間(735条),養親子等の間(736条)の婚姻禁止を定めている。一定の近親者間の婚姻を禁じる規範は,古くから,多くの国に見られるものである。その範囲や形態は各国の文化や伝統により異なり,多様性に富んでいる。現代のわが国における近親婚禁止の趣旨は,優生学的な配慮と倫理観念に基づくものであると解されているが,家族形態の変化により,一方では禁止の範囲が広すぎ,他方では狭すぎるといわれるようになってきている(新版注民(21)214頁)。
また、同書120頁ではヨーロッパでは,禁止を兄弟姉妹間に留める国も見られる(ドイツ,スイス,オーストリア,オランダ,スウェーデン等)
とも紹介している。
また、別冊法セno.261『新基本法コンメンタール【親族】[第2版]』(日本評論社、2019)32頁は、近親婚禁止規定の問題についてもう少し詳しい。
近親婚の禁止は、現代では、婚姻自由・配偶者選択自由の要請と相反する。それゆえ、近親婚に関する規定を解釈する際には、近親婚禁止の優生学的配慮や社会倫理的観点と、婚姻自由・配偶者選択自由の要請のいずれをより優先すべきかが問われる。近親婚禁止の範囲自体を、社会の変遷に応じて見直すことも必要であろう。
なお、準婚理論との関係では、おじと姪の内縁関係について遺族厚生年金の支給を受けうる配偶者に当たるとされた例がある(最判H19.3.8民集61-2-518)。おじ・姪婚を認める地域慣習等が考慮されている。
大まかにいうと、重婚についてはあまり議論は活発でなく、近親婚についてはなるべく認める方向で議論が進んでいる印象である。
なお、民法では条文の立場が明確でありこれと異なる立場は条文の違憲無効を前提とするから、民法学よりもむしろ憲法学の領域かもしれない。増田は憲法学説の議論には疎いので(憲法論が関わる書面は数年に1度書くかどうかというレベル)、重婚禁止や近親婚禁止について憲法学説がどう言っているかは知らない。
そのブコメを書いた者なんだけども、100字の制限があるから基本的には医者は通報禁止
というちょっと歯に物の詰まった書き方で誤魔化しているところがあって。そもそもあんなに星がつくと思ってなかったし。
覚醒剤と無関係の疾患の治療中に覚醒剤使用が発覚した場合に警察に通報する行為については最高裁は適法と判断しています(最決H17.7.19刑集59-6-600)。
ただしこれには、そもそも最高裁がおかしいとする学説とか、当該事案と違って犯罪の守秘を前提として違法薬物中毒の治療を引き受けるような場合は守秘義務が優先する(つまり通報すると秘密漏示罪が成立する)とする学説とかがあります。最も権威ある逐条解説本である有斐閣「注釈刑法」は後者の説。
犯罪の通報や証言は秘密漏示に該当するものの,司法作用への協力という公益も含むため,違法性阻却の可否が議論されている。
刑事訴訟法上の違法収集証拠排除が争われた事案であるものの,治療中に覚せい剤使用が判明した場合に患者の同意なく警察に通報することを適法とする裁決平17・7・19刑集59巻6号600頁がある。本件については,重症の患者が医療機関を訪問することを萎縮する恐れに鑑みて,無制限に違法性阻却を認めるものではないとの解説が行われている(山田耕司・最判解(平17)270頁,日本医師会・医師の職業倫理指針<改訂版>(2008)11頁)。しかし,個別事案ごとに具体的な利益衡量を行うとすると,医療関係者は秘密漏示で処罰されるリスクを負うことになる。患者の秘密の保護を優先して通報行為は違法性阻却されないと考える(福山・前掲288頁)のでないのであれば,犯罪の処罰という公益に協力する医療関係者には特段の事情がない限り違法性阻却を認めて秘密漏示による処罰のリスクから解放するという考え方もありえよう。
ただし,犯罪の守秘を前提として麻薬治療を引き受けるような場合については,守秘義務が優先するというべきである。犯罪の守秘を前提としているのも関わらず秘密を漏示する行為は医療関係者の円滑な利用を害する程度が大きいし,また,守秘を前提とした医療の利用さえ裏切られうるとなると,犯罪を行った者に医療を受ける機会を完全に失わせることになりかねないからである。
この辺の理解には、そもそも刑法の秘密漏示罪が医療・法律・宗教関係者に限定された身分犯である理由に対する理解が必要で、その理由というのは医療・法律・宗教関係者を利用する際には,個人は秘密を知られることを甘受せざるを得ないことから…守秘義務に刑事罰をつけることによって,そのような専門的職業を円滑に利用することを可能にしている
(前掲書314頁)こと。たとえば弁護士が警察に通報するようだと弁護士に法律相談なんかできないよねって話で、医者の治療を受けるのもそういうことなのです。
あと、通報しても秘密漏示罪にならない場合があるからといって、通報義務があるわけではない。
なので、前掲最高裁決定の射程を広めに見たとしても、通報する・しないは医師の裁量ではあるので、そういうときに病者の医療アクセスを考えて通報しないか、それとも治安維持のため通報するか、そこに各医師の思想信条とか世間の風潮とかが影響してくる。
個人的には、刑法が医療関係者に特に守秘義務を課した刑法134条の立法趣旨から考えていくのが筋だろうと思っているので、通報しない方が遵法的な態度ではなかろうかと思っています。
ちなみに猥褻な文書・図画・電磁的記録に係る記録媒体は刑法175条で頒布や陳列を禁じられてるわけですが、ここでいう猥褻とは
いたずらに性欲を興奮又は刺激させ、かつ、普通人の正常な性的な羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの(最判昭26・5・10)
一般社会において行われている良識すなわち社会通念である。この社会通念は、「個々人の認識の集合又はその平均値でなく、これを超えた集団意識であり、個々人がこれに反する認識をもつことによつて否定するものでない」(略)かような社会通念が如何なるものであるかの判断は、現制度の下においては裁判官に委ねられているのである(最大判昭32・3・13)
ですよ。
既に法に書かれた内容ですら、突き詰めれば何かを言っているようで何も言っていないに等しい、結局裁判官がそう思えばそうなんだぞってだけのラインなのに「規制に然るべき理由とそのライン」を一体誰が明確に引けるというのだろうか
最近の表現規制の問題に関しては、建設的話題というよりは香ばしい話題となりつつあるので論点を整理したい。
似た趣旨の刑法175条(猥褻物頒布罪)は社会的法益が保護法益であると解されるのが専らであり、かつその規制対象は実在の人物を描写したものに限らない(仮想的創作物も含む)。
一方刑法175条に比して児童ポルノ規制に関しては重い刑罰を課しており、同一の法益の保護を目的にしたものと考えるのは難しい。加えて児童ポルノ規制において「性欲を興奮させ又は刺激する」かどうかの要件は記載されていない。そのため、自然な考えとして当該児童の人格権の保護を目的とする考えが生じてくるわけであり、現状においてこの点においてあまり争いはない。
筆者の見解:一般の児童を性欲の対象とする風潮からの保護を目的にする(社会的法益の保護は含まないが、拡大された個人的法益を保護する)。
単純所持も現在規制の対象になっているが、これは児童の人格権保護という観点のみからは正当化できない。何故なら頒布や児童への所持の告知なし、もしくはそれらを目的にせず所持している場合において、直ちに児童の人格権が害されるとは言えないためである(例えば、親族の遺品に児童ポルノがありそれをそのままにした場合など)。
そのため単純所持の規制の根拠としては児童を性欲の対象とする風潮からの保護を目的にしているためと解釈される。これはいわば抽象化された個人的法益とでもいうべきものであり、社会的法益と解釈できる余地があるように思えるが、これは明確に社会的法益を含まない。このことは判例としてもあり、「同条3項にいう「児童ポルノ」とは,写真,電磁的記録に係る記録媒体その他の物であって,同項各号のいずれかに掲げる実在する児童の姿態を視覚により認識することができる 方法により描写したものをいい,実在しない児童の姿態を描写したものは含まないものと解すべきである」(最判令和2年1月27日)
海外では非実在児童ポルノ規制が現実として行われている側面があり、この場合の規制の根拠として模倣説(児童ポルノが実際の児童への虐待を誘発する)及び市場説(児童ポルノの市場の形成自体を防ぐことによりさらなる流通を防ぐ)という2つの説によっている。翻って日本においては児童ポルノの規制が個人的法益の保護が目的であるという判例がでたため、非実在ポルノへの規制を行うには2つの方法があると思われる。
1. 抽象化された個人的法益を保護法益としながらも、非実在児童ポルノへも規制する旨明記する。
2. 保護法益が個人的法益に加えて社会的法益も含む旨加えた上で非実在ポルノへの規制を行う。
1.は(流通するのが非実在児童ポルノである以上)模倣説を採用することにより正当化されることになるが、これは違憲審査基準と合わせて考えると違憲となる可能性がかなり高いと思われる。何故ならいわゆる模倣説は科学的に立証されたわけでなく、児童の人格権が直ちに侵害される、いわゆる明白かつ現在の危険を有しているとまでは言えない。加えて日本においては子供の入浴の写真を撮ることが一般的とまではいはなくとも受容されうるという現状がある以上、国民の一般的な通念上と照らし合わせてみても違憲である可能性が高い。
2.はおそらく現行憲法下において規制の理由とするのであれば最も妥当な論理になると思われる。再度述べるが刑法175条は健全な性道徳という社会的法益を保護することが目的であり、かつそれは合憲であるという判決が何度も出ている。そのため、同様に児童ポルノ規制の保護法益は「児童が健全に成長する社会」を保護するという旨を明記するのであれば、刑法175条と同様の論理で正当化されると思われる(再度注意しておくがこれは筆者の見解であり当然議論があると思われる)。また、保護法益は互いに二律背反ではなく、社会的法益及び個人的法益の双方が保護されうる(下級審判決などに判例がある)。そのため、この場合であれば児童ポルノ規制は個人的法益及び社会的法益双方を保護するものとして解される。
筆者の見解:現行憲法下でも新たな立法による表現規制を正当化することは不可能ではない(難しいかもしれないが)。
ポルノ規制に社会的法益の保護を根拠とするのはふさわしくないと考えている。そのため、
が私の考え方である。
ただ注意しておきたいが、この種の規制の問題に当たってはやはり児童の保護という観点を重要視して欲しく思っている。表現の自由はもちろん保障されるべきであるが、児童の目に触れないための厳格なゾーニングを求めたい。自ら謳歌する自由が他者の尊厳を損なうことがないよう、気をつけて欲しい。
また、議論の際には建設的な議論を求めたい。相手をナチス呼ばわり、もしくは戦士呼ばわりなど持っての他である。安易なレッテル貼りは議論を口論にかえてしまう。健全な民主主義は誰もが自由に参加できる建設的な議論を礎にしていることを忘れないでほしい。
[B! 司法] 「国民の一般的な宗教的感情」を害したので有罪。孤立出産で死産したベトナム人技能実習生、地裁判決の中身(望月優大) - 個人 - Yahoo!ニュース
この件、既にブコメでも言われてるから敢えて書く必要はないかもしれないが、「国民の一般的な宗教的感情」が持ち出されるのは仕方ないと思う。
誤解無いように言えば技能実習生だったリンさんに対して下された判決そのものを妥当だと言ってるわけではない。「国民の一般的な宗教的感情」の中身や適用範囲には議論の余地があるが、「国民の一般的な宗教的感情」という概念自体はやむを得ないというお気持ち。
Q. 「国民の一般的な宗教感情」概念自体は仕方ないにしても有罪に導くロジックはおかしいのでは?
A. 実際のところ実務的な論点はそっちの方が重要だと思うよ!このエントリは死体遺棄罪の保護法益は「国民の一般的な宗教感情」としか言えないしそこはしゃーないって話しかしてないからね。「殺人罪の保護法益は『人命』です」ってエントリだけじゃ実際の事件に対して殺人か傷害致死か過失致死か、正当防衛か緊急避難か、手術の失敗みたいな仕方ない事案なのか、責任能力はあるのか、そもそも被疑者が犯人なのかetcなんて語れてないというのと同じです。
ベトナム人元技能実習生に逆転無罪判決 死産児遺棄の罪 最高裁 | NHK | 事件
最高裁で逆転無罪判決が出たようです。かなり珍しい形ではないでしょうか。難しい判断だったかと愚考しますが個人的には良かったと思います。NHKのこの記事は論点を網羅していて良い記事ですね。技能実習生に対する妊娠・出産に関しての不適切な言動について「出入国在留管理庁が去年初めて……実態調査を行った」レベルなのは今まで行われてなかったのかと愕然とするものがありますが…。
制度に関する有識者会議が現在開かれています。この事件を通して技能実習制度が孕む問題について真剣な社会的議論が行われることを切に望みます。技能実習制度の抜本的な改革が叫ばれてもう20年以上経ちました。その間に訴訟が起き労働者性が認められ、法が変わり労基法も適用されるようになりましたし、外国人技能実習機構という新しい組織がなんかできたりもしました。もちろん状況の改善がなかったとは言いません。しかし一方でずっと同じ問題が指摘され続けてもいます。そろそろこの問題に決着をつけてほしいと願うばかりです。
第188条
1 神祠し、仏堂、墓所その他の礼拝所に対し、公然と不敬な行為をした者は、六月以下の懲役若しくは禁錮又は十万円以下の罰金に処する。
2 説教、礼拝又は葬式を妨害した者は、一年以下の懲役若しくは禁錮又は十万円以下の罰金に処する。
第189条
墳墓を発掘した者は、二年以下の懲役に処する。
第190条
死体、遺骨、遺髪又は棺に納めてある物を損壊し、遺棄し、又は領得した者は、三年以下の懲役に処する。
第191条
第百八十九条の罪を犯して、死体、遺骨、遺髪又は棺に納めてある物を損壊し、遺棄し、又は領得した者は、三月以上五年以下の懲役に処する。
第192条
まず刑法の建て付けとして死体遺棄罪を含む死体損壊罪等(190条)は「礼拝所及び墳墓に関する罪」という章の中にあるんだよね。同じ章にある第188条は「礼拝所に対し、公然と不敬」をした人間を罰するもの(礼拝所不敬罪)だったり第189条は墳墓の発掘者を罰するもの(墳墓発掘罪)だったりで非常に宗教的な内容。なので190条も宗教的な項目だと見るのはそこまでおかしくない。もちろん猥褻関係の罪のように同じ章でも個人法益の保護と社会法益の保護と分かれてるものもあるので必ずしもというところではあるんだけど。実際192条は明らかに性質が違うので。
第1条
この法律は、墓地、納骨堂又は火葬場の管理及び埋葬等が、国民の宗教的感情に適合し、且つ公衆衛生その他公共の福祉の見地から、支障なく行われることを目的とする。
関連して墓地埋葬法では宗教的感情を理由に墓地や埋葬に関わる規制を行うと明示している。
しかし、それでも死体損壊罪等は宗教的側面から逃れられないだろう。と、その前に感情を保護法益にできるのかという話をしなければならない。
確かに刑法において感情を保護法益にするのはあまり好ましく思われていない。例えば侮辱罪について保護法益を名誉感情とする説もあるが人気はない。刑法は謙抑的でなければならないのに安易に感情を理由にした規制を認めれば際限なく広がりうるからだ。社会秩序としての「国民の一般的な宗教的感情」が云々と言った時も何とかして法益の最終地点を社会秩序とか宗教的風俗とかそういうところに落とし込もうという謎の努力が垣間見られる。
しかしはっきり言えば第188-191条は基本的に「宗教的感情」を保護法益とするものだと理解されることが多い。礼拝所不敬罪についての高裁の判例を見てみよう。
……思うに、同条は、国民の宗教的崇敬ないしは死者に対する尊敬の感情を害する行為を処罰するものであつて、そのいかなる行為がこれに該当するかは時代によつて同一ではないであろう。しかしながら、今日のわが国の公衆一般の感情としては、特に清浄を保つべき場所たる墓所の区画内において放尿するがごときはなお明らかに墓所の神聖を穢すものと観念されるのであつて、このことからさらに推して考えるならば、たとえ現実には放尿しなくとも、放尿するがごとき格好をすること自体、見る者をしてその墓所に対する崇敬の念に著しく相反する感を与えるものといわなければならない。……
いや、判例がそう言おうとも礼拝所不敬罪(188条1項)と説教等妨害罪(188条2項)についてはあくまで宗教的自由の保障なんだという意見はありえる。墳墓発掘罪(189条)についても確かにそう言えなくもない。これらは他者の宗教的行為に対して害をなしていると言う立論もできなくもないからだ。
しかし果たして死体遺棄や損壊は他人の宗教的行為に害をなしていると言えるのだろうか?やはり死者への崇敬の念という宗教的感情で説明せざるを得ないのではないか(通常189条に対してもこう説明される)。
これはつまりそもそも何故死体はここまで保護されるのだろうかという問題である。何故器物損壊罪では飽き足らず、死体損壊罪を特別に規定したのだろうか。感情を持ち出したくないなら死者の生前の人格権の延長と見なすという方法はある。それでも権利主体でもない死体が法益の帰属主体となりえるのかという疑問は湧く。しかもこれだと生前の火葬を拒否していた人間を火葬したら人格権の否定として死体損壊罪の構成要件に該当する可能性まで生まれてしまう。
実際のところ死体が敬意を伴って丁重に扱われ慰撫されるのは生きている我々でしかない。死体が傷つけられたのを生命への侮辱と見るのはそれこそ素朴な「宗教的感情」ではないか。無宗教を自認する人間の多い日本では宗教的感情と死者への敬虔を別と考えたくもなるかもしれない。ナイーブな気がするが、まあ宗教的でない普遍的な感情としてもやはり「感情」が保護法益であることを否定はできていない。「国民の一般的感情」としても問題は変わるわけではあるまい。
まあネットでは「お気持ち」カード切ればゲームに勝てる感じだしまあネット上の議論なんてそんなものでもいいのだが、現実を見るとそう簡単に割り切れるものでもない。今回は刑事なのでちょっと違うが民事の名誉毀損では「名誉”感情”」が保護されることになっている。「お気持ち」と法で言う「感情」は同じじゃないと言えるかもしれんが…本当にそうかなあ。実務的にはどういう感情というかお気持ちが保護されるべきかみたいな方が喫緊の課題なんじゃないかな。ネット上の議論はその辺り無視して話をできるからやりやすいですな。建設的になってるかは知らんけども。でもはてブのAPIも非建設的なコメントを建設的と認識してる気もするからまあヨシ。
「一般的」とか勝手に言うなというのは分かる。ところが刑法判例を見ると「普通人」だの「通常人」だのという言葉もそれなりに見る。
最高裁様が決めた悪名高き刑法175条「わいせつ」概念の定義を見てみよう。
「普通人」「正常な」ってなんだよ。そもそも羞恥心みたいな感情を害することを軽々と要件にしていいのか。何らなら「善良な性的道義」もよく分からないが、しかしまあこの定義は脈々と受け継がれている。ただ、正直に言えばこうした罪状はこういう言い方しかできない部分が無いではない。
もう少し言えば他の罪状でも「通常人」を持ち出すしかない部分はある。例えば過失の認定をするのに危険が発生することを予見できたのか、という思考実験を行わざるをえない時もある。その際に通常人から見て予見可能性はあったのかと考えるのである。そうでなければ、被疑者が「自分には危険は予期できなかった」と言えばそれに反する証拠を提出できなければ全て無罪になってしまう。過失犯は立証困難になり死ぬというわけだ。
それと実際上の問題としてわいせつ概念や死者への敬虔の発露の方法が時代や社会によって大きく異なることは留意せねばなるまい。わいせつに関しては女性の胸の扱いとか見ると分かる気がするんだけど、下着姿の女性が公然わいせつになったりというのはある時代ある社会ではありえないことだろう。今の日本では実際に逮捕されたりしてるけどね。死者の扱いもやはりその場所その時の習俗に大きく左右されるのは分かるだろう。だからこそ「一般」「普通人」みたいな限定をかけておいてあまりにも硬直的で時代遅れにならないようにしてる部分はある…のかは分からないんだけどたぶんそう。
ただまあ「一般」も「普通人」も「通常人」も裁判官の想像上の産物しかないので注意を向けなければならないのも確かではある。どうしても恣意的になるしそうなると罪刑法定主義からしてどうなんだって話にはなるし。今回の件も宗教的感情という言葉そのものよりそういうとこが問題なんじゃないかな。
これはもう労働法が妊娠による不利益取り扱いを禁じていて、その労働法が技能実習生に適用されるよう法改正した時点で自明なことなんだけど、何故か未だに妊娠禁止とか恋愛禁止とか決められてたりするんだよねえ…。技能実習生に対しては日本人労働者と同じ扱いしなくていいと思ってるのか、そういうヤバイ労働環境だから日本人が来なくて技能実習生で代替せざるをえないのか分からんけど。
裁判例としては最初期の2013年の地裁判決の内容を紹介しておく。
(事例)
中国人技能実習生の女性は中国の送り出し機関と妊娠禁止の規定を結んでいた。ところが来日し食品加工会社で働き始めてから6ヶ月後に妊娠が判明した。
すると日本の受け入れ団体(監理団体)は妊娠を理由に強制帰国させるべく抵抗する当該女性を拘束して空港に連行した。なおも女性は抵抗し空港で保護される。
こののち女性は流産。女性はこのことで記者会見を開いたため会社に解雇された。
(結論)
技能実習生に対しては非人道的な行為がわりと行われてたりするので法の限界事例みたいなのがしばしば起こる。会社所有の寮にカメラがあって盗撮されてたという事例なんかははてブでも話題になってたが実は日本の法体系の間隙を突いた問題なんだよね。迷惑防止条例は公共の場に限定してることが多いから会社所有の寮みたいな私的空間には適用できず、そういう時に拡張して使われる建造物侵入罪は所有者が被害届を出さないと適用できない。軽犯罪法の窃視の罪にはなりそうだけど、迷惑防止条例と拡大解釈した建造物侵入罪でとりあえず対応しておくという実務というかちゃんと法整備してないツケ。閉店した後の店とかも公共の場ではなくなるので実は真摯に議論する必要がある部分だと思うんだけど、まあこういうことが技能実習制度で分かるというのは平常人間が受けない仕打ちを技能実習が受けやすいということでもあるんだろうなあ。違法状態が常態化してるのおかしいですよ。
防衛省に予約を受け付けさせたのが間違いだった。
大規模接種センターの接種能力を毎日別の近隣自治体に割り当てて、各自治体の予約サイトで選べる接種会場の中に自衛隊が運営する大規模接種会場も出てくるようにすれば良かった。その日の受付業務はその自治体の職員なり、自治体の委託を受けた業者なりがやる。
なお、個人情報保護法というのは通常「個人情報の保護に関する法律」を指し、同法は行政には適用がないので、「個人情報保護法の目的外利用に違反しない」うんぬんを気にする必要はないことになる。また、「判決の骨子」という名詞に「ある」という述語を使うのはおかしい。判決を要約して説明するときに骨子をまとめることはあるが、判決自体に骨子があったりなかったりはしない。そしてその「骨子」は判決が出たときの制度の現状を説明しているだけで、判決があるから行政が縛られる、ということではない。一元管理できないのは、一元管理するための法律がないからであって、最判があるからではない。
『ウマ娘プリティーダービー』ってエロ同人作っていいの? というのが話題になってるけど、2つの問題をごっちゃにすべきじゃないと思う。
A.なりません。
これに関してはギャロップレーサー事件(最判平16.2.13)という明白な判例がある。この事件は「競走馬のゲームを作った会社が馬主からパブリシティ権の侵害だと訴えられた」事件で、まさに今回の事例そのものだけど、最高裁まで行って「馬はモノだからパブリシティ権なんて発生しません」っていう結論が出てる。
アイドルとか声優とかの人間にはパブリシティ権が発生するけど、馬や犬や猫は法的にはモノであってパブリシティ権は発生しない。つまり、法的な原理原則論を言うなら、たとえサイレンススズカやライスシャワーのリョナ同人を作ろうが馬主の権利侵害にはなりません。これについては最高裁のお墨付きがあるので安心していい。
要するに「馬はnmmnじゃねえ」ってことですわ。軍艦や刀がnmmnじゃないのと同じですね。
A.なり得る。
今回の問題のキモはここで、完全オリジナル作品なら「馬主の権利侵害にはならない」で終わる話だけど、そもそも『ウマ娘』はCygamesのコンテンツで、つまりCygamesが著作権を持っているわけで、『ウマ娘』の二次創作は法的にはそちらに引っかかる可能性がある。
ただ、「キャラクターは『アイデア』であって『創作的表現』ではないので、キャラを利用したBL同人誌は著作権侵害にはあたらない」という判決が知財高裁で出ているので、明示的に『ウマ娘』の名前を出してなければセーフ説はワンチャンある。「栗毛で物腰柔らかでロングヘアで左旋回の癖があるサイレンススズカという名前の馬耳の女の子」は「アイデア」であって「表現」ではないので、具体的にアニメ1期7話のこのシーンの構図パクってますよね? みたいな「表現」に対する著作権侵害が指摘されない限りは法的には逃げ切れる可能性はあるのでは。
上で書いたことはあくまで法律面での話なので、「馬主さんを不愉快な気持ちにさせたら嫌だな」といった配慮は自由にすればいいと思います。
でも、まるで法的根拠があるかのように勘違いしているのはよくないです。法的には『ウマ娘』でどんなエログロをやろうが馬主側の権利侵害にはならない、という事実は共有されているべきでしょう。その上でどんな配慮をするか、そもそも配慮をするべきか否か、って話。
『ウマ娘』公式があれだけ持って回った言い方になってるのも、つまりそういうことでしょ。法的にはCygamesは馬主の機嫌をどれだけ損ねようが自由にゲームを作る権利はあるし、エロ同人も馬主の権利侵害にはならないけど、Cygames側としては彼らの気持ちに配慮したいし、ファンにも配慮してほしいってことよね。
ファン側がそこを汲んでエロを自粛するというのは自由です。でも、それが「自粛」であるという事実認識は共有されていないとおかしい。どんな価値判断をするにしても、前提となる事実が間違っていたらお話になりません。当然ですね?
「『ウマ娘』のエロ同人は馬主に対する権利侵害!」というのは法的に間違いであり、デタラメな法律論を振りかざして他人を萎縮させようとする人の言うことに耳を貸す必要はありません。
「『ウマ娘』のエロ同人は馬主さんの気持ちに配慮して控えよう」という主張は法的に間違っていないので、みんな各自の判断で配慮するかしないかを自由に決めればいいと思います。
追記(意図しない読み取られ方があるので前に移動しました、誤解を招く表現だったことおわびします)
私は、書き忘れていたが、日本国憲法第14条に規定される属性による区別は当然のことながら差別だと考えている。私があげた絶対不可能な属性による区別の話は憲法上規定されていない属性に関してそれが差別かどうかを判断するガイドラインとして扱ってほしい。
日本国憲法14条
「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。」
社会的身分には職業が含まれると考えるのが相当であるので、私も職業差別には反対の立場であることは変わりない。
そもそも先述のガイドラインにたどり着いた理由を説明すると、すべての人には自由があり、差別として行為の禁止を行う余地はできるだけ小さくしておくべきという私の価値観がある。ただし、生来変更不可能な属性に基づく差別は第三者による救済が難しいものが多いため、差別禁止によってもたらされるデメリットよりもメリットのほうが圧倒的に大きいのはほぼ間違いないであろう。一方で生まれてから少しでも選択の余地のある問題に関しては差別を禁止するよりも、その人が選択できる余地を増やすことを通した救済が比較的行いやすい。そのためそのような問題に関しては差別の撲滅に注力するよりもより救済を行う方へ注力するほうが望ましいと考えている。
加えて合理性を求めるひとがいるが、およそ全て人間はバイアスを経て観測した世界に対して最も合理的な行動を常にとっている(たとえそれが周囲に人間にとって不合理に見えたとしても)。合理性は客観的なようでその人の価値判断や目的などに左右されるきわめて主観的なものである。この文章は私にとっては合理的に思えるが、読む人にとってはそうは思えないかもしれない。合理性とはきわめて主観的かつ相対的なものなのである。ただ、社会的な意味での合理性は人々の議論を通じたコンセンサスの形成によるものであるので、成熟した議論を経た後での差別の描像がはっきりとより多くの人に共有されることを望んでいる。
追記ここまで
中学受験に関しての増田を端に発した議論がはてな界隈で盛んになっている。
大方ブクマカのダブルスタンダードを批判したものであるが、そもそも差別がはてなーすべて同じ意味で使っているとは思えない。例えば公立中学に通っていたことを黒人になぞらえて批判しているエントリがあったが、肌が黒いことと公立中学に通っていたことが全く同列に扱われるべきものとは現在の社会通念に照らしてもあまり一般的な考えではないと私は考えるが、その増田にとっては同じようなものとして考えていることは明らかである。その是非はともかくとして、現状においては差別は各人それぞれによって定義されるものといって差し支えないため、さまざまな形態の区別を明示し、その日本の社会およびはてなでの受容のされ方について考えるとともに同時に私見を述べてみたい。なお、どこから差別と考えるかは各人に委ねたいと思うのでここから先ではあえて「区別」という言葉を使う事にする。加えて強調しておくが、これはあらゆる社会通念に照らして問題とされている差別を肯定するものではない。差別とは何かを考える指標としていただきたい。
これははてなーはもちろん、現在の社会通念上認められていないといって差し支えない。特に性別についてはこれを支持する判例も存在し(e.g. 最判昭和56年3月24日民集35巻2号300頁 いわゆる日産自動車事件) 、これはおそらく論ずるまでもなく明らかである。ただし憲法の私人間効力については間接適用説が主流となっているため、例えば三菱樹脂事件のような判例も存在する。ここでは憲法の議論を意図したものではないのでこれ以上は触れない。
これは最近聞かれる医療従事者への偏見にも関連している。社会的な建前としてはおそらく差別だと認定されているが、実際としては差別だとする意識が1.ほど完全に浸透しているとは言い難いところがあるだろう。おそらくはてなーに聞いてもこれは差別だと(それが建前であっても)答えると思う。なお、実際にHIVについては陽性者に対し無断で検査を行い陽性だったことを理由に解雇した事件についてはその解雇が無効であるとした判例も存在する(千葉地判平成12年6月12日労働判例785号10頁)。
このあたりから判断が難しい。現在、社会的に定年制は受け入れられている(是正しようとの動きもあるが)ため、年齢”差別”という言葉が社会的にまだ受け入れられていない可能性は高く、受け入れられるにしても近い未来ではないだろう。おそらくはてなーでもこのあたりから認識が分かれ始めると思う。以前あった私立医科大学が女子生徒と多浪生を意図的に排除していた問題にあってはこれを問題視する風潮がはてなにはあったのは覚えている方は多いと思うが、定年制への問題視はあまりなかったように思える(これは自分の印象)。なお、判例においては定年制は公序良俗には反するとは言えないとの判例が出ている(東京地判平成6年9月29日判時1509号3頁)。
これは今渦中にある問題である。実際として就活においてはいわゆる学歴フィルターは存在しないと断定することはできず、存在するものと考えるべきだろう。しかも厚生労働省のガイドライン(https://www.mhlw.go.jp/www2/topics/topics/saiyo/saiyo1.htm)にも採用の可否を決める要素となってはならない項目の中に大学名・学校名に該当する項目は存在しない。少なくとも採用の場においては大学名のみによる扱いの差を設けることは認められているといって差し支えないだろう。私の周りを見渡しても実際学校の評判とそこへ通っている生徒への評価が関連づけて語られることも多く、私的な場においてもこれがタブーとされているとは到底言えないであろう。実際はてなーでも公立中学を「動物園」とまで評する向きもあることからそこまでのタブー視もはてなーの中にはないと言える。
いわゆる「オタク差別」などを念頭にしたものである。これを例にとると過去には東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件などに端を発したいわゆるオタクへの偏見があった(が、現在の社会では薄いものとなってきていると私は感じており、マクロな視点に立つならそもそも区別が存在しなくなってきているのではないかと考えている)。これの社会的な受容を考えてみる。個人のミクロな視点にたつならそういった嗜好を理由にハラスメントを受けた例はあるだろう。ただ、それは嗜好を理由にしたハラスメントが問題とされるのではなく、そのハラスメント自体が問題とされる(ことが多い)ため、おそらく社会的な問題視はあまりないであろう。ただ、そもそも属性による区別はその属性をもつ者がある一定程度存在しないと成立しないものである(その嗜好を持つ人が単独ないし少人数でしか観測されなければ単なる変人として扱われるだけで、それは区別とはよべない)ため、嗜好による区別に接する機会がすくなく、議論の俎上に上がるレベルにすら到達していないかもしれない。これはぜひ読んだ方に該当する例とその社会への受容のされ方を考えていただきたい。
と思いつくものを上げてみた。どれが差別に当たるかは皆さんに考えて、議論していただきたい。正解は存在しない。なお、私の中での差別の定義は「絶対に選択不可能な属性・事実に基づいて行われる区別」と考えている。これに立脚するなら1-3までが差別に該当し、私は公立中学に関して「動物園」と評するなど、悪い評価を与えるものについては差別的表現ではないと考えている。なぜなら公立中学に進むかの選択は自由意志に基づくものである(経済的な事情などにより私立への進学は到底不可能な方がいるのは重々承知している。その実態はともかく)からだ。ただ、その表現は褒められたものではないのは確かで、やはりひどい公立中学の現状があるのだとしてもそれへの是正措置に関する言及があるべきだっただろう。つまりこれは差別の問題として扱うのではなく、公的な機関からの財政的支援などによる学習の機会均等や学習環境の改善の問題に還元されるべきである。これを差別であるからと現状への批判を封じるのは実態への改善の議論を封じることになり、好ましくないと考えている。ただ、度を過ぎた中傷は理由の如何を問わず控えられるべきであることは注記しておく。
また、学歴の問題は、生来変更不可能なものではないのでこれもまた差別ではないと考えている。ただ、大学の再入学を経た後の不利な扱いは年齢差別として問題視されるべきだとも考えている。年齢への差別に関してはこれを問題視し、排除へと議論がより進むことを期待したい。
ここまで様々な属性への区別について述べてきたが、おそらくそれぞれの考える差別があったことだろう。ただ、差別の問題を考える際に忘れてはならないのはそこへの是正措置である。公立中学の問題に関してもそれを差別であるからと議論の提示を封じるのではなく、ではそこにどのような是正措置が行えるだろうかと考えてもらいたいのである。なぜなら本来の理想の状態であれば誰でも自由にその中学に行くか選択できるから、そのような偏見など生じないからである。偏見や差別は現在の不完全から生まれる。差別の問題はセンセーショナルになりがちで議論している双方が異なる差別の概念を持っており、話がかみ合わないという事はありふれたことである。そうなりそうなときには一度立ち止まって双方が差別の概念を共有するよう歩み寄ってもらいたい。以前として世界にはびこる差別への問題提起および是正のきっかけとなればうれしく思う。
ニュースで、「補償金に充てることはできないが、協力金に充てることはできる」と半ば禅問答のようなことが起きていますが、なぜこんな面倒なことになるのかを。
日本国憲法では補償について定めてあり、補償対象が憲法の定めに合致しているが法律に特段の定めがなければ、憲法の定めにより補償金の支出を請求することができるという考えが一般的です。
だからといって無際限に認められるわけではありません。
ある街で、都市計画道路を通すために、一定規模以上の建築を認めない区域を定めていたのですが、いつまでたっても60年たっても道が通らないために、その区域に土地を持つ人が、「いつまでたっても土地を利用できないのはおかしい!補償せよ!」と訴えました。
このことについて、最高裁判所まで訴えた結果、「一般的に当然に受忍すべきものとされる制限の範囲を超えて特別の犠牲を課せられたものということがいまだ困難であるから、(原告)らは、直接憲法29条3項を根拠として上記の損失につき補償請求をすることはできないものというべきである」(最判 H17.11.1)という判断により、訴えが退けられました。
この最高裁判所の事例では、
今回のコロナによる自粛については、かなりあらゆる業種ですので「特別の犠牲を課せられた」とは言いづらいです。
また、「受忍すべきものとされる制限の範囲を超えて」いるかというと、仮に開けていたとしても多くのお客さんは来ないことも想定されるので、受忍すべき範囲ともいえます。
ですので、補償の実施を前提とするならば、1つ目のハードルは、あまりにも広範囲に自粛要請をかけたため、また、その結果として、特別な犠牲ではなくなってしまったため、受忍すべき範囲が広がってしまい、補償を正当にする根拠がなくなってしまったところをどうカバーするのか、という論点が待っています。
税金の場合は現役世代に、国債の場合は将来世代にその負担を移転させることになります。いずれにせよ、その国民がどこかでそのツケを回収することになります。
となると、適切な「補償」をする必要があります。どんぶり勘定で、この店には100万、この店には10万とはできません。
ここで「補償」をするべき対象は、「コロナウイルスの感染症の拡大による営業自粛の影響」による利益の減少と言うこととしましょう。
これまで経営があまりうまくいっていなかった場合、「コロナウイルスの感染症の拡大による営業自粛の影響」による利益の減少と区別するためには、何が必要でしょうか。
また、「コロナウイルスの感染症の拡大による営業自粛の影響」の利益の減少と、同時期に営業を自粛しなかったときの利益の減少の区別は、何が必要でしょうか。
少なくとも税金を使う以上は、これらについて適切な説明が与えられる程度には「補償」の根拠資料が必要です。
土地の収用のように、土地の価値がわかっていてその土地価値相当額を支払う話とは異なる性質のため、その資料を用意できるかどうかかなり困難なことが想定されます。
協力金は、単に協力したという事実で支出することができます。つまり、補償の根拠となる証明も必要ないですし、補償金の支出にそもそも該当するかどうかなんていうのも考えなくていいです。
これらを審査する必要もないですから、すぐに支払うことができます。なので、多くの自治体では協力金という形態をとるのです。
税金を使い、政府や自治体がやる以上、この状況は解決しないと思われます。
商品券の発行制限を緩やかにするなど、企業に個人のお金が直接入る仕組みを作ること、これが一番のヒントのような気がします。
もっとも、協力金はより柔軟に支出しても、この状況では違法な支出として監査までなかなかいきづらいでしょうから、やっても良いとも思います。
ただ、生活保護の不正受給に対してもあれだけ厳しい視線が向けられているのであれば、とりあえずお金を出すということはなかなか難しいように思います。
(給付金もあとで税金で引き去ればいいという方も多いですが、結局線引きをどうするだの、そもそも時間の利益あるじゃないかなど、論点は多いです。)
ザッシュ2号(@zassyu2_ero)が漫画家協会を相手取り民事調停を行うという。
彼の主張はnoteにまとめられている。 → https://note.mu/tutakazura/n/n7d7d48a377d3 https://note.mu/tutakazura/n/n162e8bb5c9eb?creator_urlname=tutakazura
言いたいことは山程あるが、今回は表現の自由について少し検討したい。
エロは無修正で書くのが当然、憲法にも記されている。憲法違反の法律、判例、判決は無視するべきだと憲法に記されていることを主張。」
果たして本当だろうか。
「エロは無修正で書くのが当然、憲法にも記されている」おい、されてないだろ。
好意的解釈の原則からいくと、表現の自由があるから、エロ表現も保障され、修正を強制されることはない。だから無修正で書けるのが当然だ、ということだろうか。
ありとあらゆるすべての表現が許されるのだろうか?
もちろんそんなことはない。
ある芸術家が殺人こそ至高の芸術であり、表現である。そう主張し、殺人をおかした場合、その殺人は表現の自由として許されるかと問われたら当然否である。
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
表現の自由といえども無制限に保障されているものではなく、公共の福祉よる合理的でやむを得ない程度の制限をうけることがあ(る)
端的に表現の自由は絶対無制限なものではなく制限を受けるものだと喝破する。さらに引用を続けると、
その制限が容認されるかどうかは、制限が必要とされる程度と、制限される自由の内容及び性質、これに加えられる具体的制限の態様及び程度等を較量して決せられるべきである。
まとめると、表現の自由から、当然にエロ漫画の表現が許される、という解釈にはならないのである。
では性表現は制限されるのだろうか。すなわち、刑法175条に規定する「わいせつ物」に当たる場合刑法犯となってしまうが、そうならないように表現の自由の保障が発揮されるのか、それとも制限されるのか。
最高裁はS32.3.13(チャタレー事件)にて以下のような判示をしている。
わいせつ性をもつ場合には、性生活に関する秩序及び健全な風俗を維持するため、これを処罰の対象とすることが国民生活全体の利益に合致するものと認められる
としている。すなわち、わいせつ表現は表現の自由による保障が制限される類型であるとしているのである。
これに対しザッシュ2号は
という。
この主張は(ある意味で)ただしい
(ある意味というのは、わいせつかどうか(制限されるかどうか)の判断は「わいせつ性の判断は、一般社会において行われている良識すなわち社会通念を基準とし、当該作品自体からして純客観的に行うべきもの」(チャタレー事件)とあるため、社会通念は重要である。また「作品等の芸術性・思想性等との関連において評価するなど、わいせつ概念の相対性を承認して総合的に判断しなければならない」という悪徳の栄え事件での田中二郎裁判官の反対意見があるほか、「性表現による害悪の程度と作品の社会的価値との利益衡量が不可欠である」最判S58.3.8での伊藤正巳裁判官の補足意見などがあるため、世論は一定程度必要であるが、一部の人間がモザイク反対! を叫んでも社会通念とは言えないだろう)。
しかし、裁判所がわかっていないという「表現の自由の重要性」とは一体なんなのか。
これを本来は腰を据えて考えなければならない。そしてその自由の重要性との関連で初めて、「エロ漫画」の表現への自由(制限されないこと)が語れるはずである。
ザッシュ2号は弁護士会の声明 https://www.nichibenren.or.jp/activity/document/civil_liberties/year/2009/2009_2.html を引用し、表現の自由の重要性を主張している。
それを参照しながら、なぜ表現の自由が重要であるか一度見直したい。
憲法21条1項が保障する表現の自由は、民主主義社会の死命を制する重要な人権である。自由で民主的な社会は自由な討論と民主的な合意形成によって成立するのであり、自由な意見表明が真に保障されていることが必要である。
これを受けてザッシュ2号は
と言う。コレ自体は誤りではない。しかしなぜ重要だと言っているについて注意深く読むべきである。
この声明では「表現の自由は」「民主主義社会の死命を制する重要な人権である」と言う。すなわち表現の自由の重要性の一つとして「民主主義社会の死命を制する」という点をまず強調するのである。
なぜ制するのか。これが次の文である。
前提として「自由で民主的な社会」(=民主主義社会)は「自由な討論と民主的な合意形成によって成立する」という。そしてそのためには「自由な意見表明が真に保障されていることが必要である。」
つまり、表現の自由が重要であるのは、「民主主義社会」という重要な存在があり、その成立のためには「自由な意見表明が真に保障されていること」が必要だからだ、というのだ。((本当に民主主義社会が重要であるのか、という点についての検討はここでは省略する。しかしこれを考えなければ、民主主義社会の成立のために表現の自由が重要だという論理が成り立たなくなるため、本当は超重要である))
表現の自由は大事だ! と単に言うのではなく、「民主主義社会」の成立のために必要だから重要だ、と言っているのである。
ザッシュ2号がさらに続けて引いた声明文を見ればわかりやすい。
民主主義社会における市民の表現行為の重要性に鑑み、市民の表現の自由及び知る権利を最大限保障するため、
(1) 国、地方公共団体、特に警察及び検察は、市民の表現行為、とりわけ、市民の政治的表現行為に対する干渉・妨害を行わないこと。
「とりわけ、市民の政治的表現行為に対する干渉・妨害を行わないこと。」
という一説からも分かる通り、この民主主義社会の成立のための表現の自由というのは、もっぱら政治的表現の自由のために用いられる論理なのである。
勘の良い方はすぐに気づくだろうが、性描写(わいせつ)表現を「表現の自由」から保護するべき、という論理を展開するときには、民主主義社会のために必要だという論理はあまりうまく嵌らないのである。
もちろん、性描写(わいせつ)表現と政治表現が一体化することはあるし、風刺的な表現にはわいせつと政治が混在することは多々ある。(トランプや安倍、金正恩らの風刺エロ漫画があった)
また表現の選別を行うことは、結局政治的表現の保護につながらないんだ、と主張することで、「民主主義社会のための表現の自由」論からも性描写(わいせつ)表現を要保護だと言うことはできる。
しかし、それでは弱い。
これである。
表現の自由は「人間の本質的な属性である精神活動を充足するもの」であるから重要だ。これは性表現との親和性が非常に高い。
エロ漫画の表現を擁護するならば、どちらの論理の方が優れているか。明白だろう。
性的活動は人間の根幹に存在し、有史以来、それを表現したものーー性的表現は幾度とない弾圧・規制の中でも確かに存在してきた。その表現は人の精神的活動の大きな一翼を担っているのである。
そして表現活動において、自己の表現に対し一部モザイクを付さねばならないことは、十全な精神活動を阻害することになる。
このような主張になるだろうか。
そして、こうして表現の自由がなぜ重要をざっと見た(あまりに表面的というのはそのとおりである)だけで気づくことはいくつもある。
少なくとも、表現の自由から直ちに「無修正が当然」となるわけではない、ということ。
表現の自由から「無修正であるべき」という主張を通すのならば、それなりの論理が必要だということ。
そして、重要な権利でありそれの保護が必要だということだけではまだ足りないのである。さらに、より具体的になぜ現在の制限が駄目なのかを主張しなければならない。
元増田は、そもそも、何歳の子どもの、どのような行為を対象としているか、がはっきりしていない(いなかった)(注1)。
元増田は、法令の根拠を問題としているが、「子どもが性を売る行為」といっても、子どもの年齢や行為の内容によって、違法になるかどうかは変わってくる。
そこで、具体的にどのような行為が違法とされているのか、また、違法とされる趣旨・目的は何か整理したいと思う。
③18歳未満の者に対する「淫行」等は、各都道府県の条例で違法
⑤13歳未満の者との「性交等」及び「わいせつ行為」は刑法で違法
以下、詳述する。
売春防止法3条。
ここでいう「売春」は、対償を受け、又は受ける約束で、不特定多数の相手方と性交すること(売春防止法2条)。
その定義により、特定の男女間の性交は、たとえ対償を目的としても「売春」ではない(注解特別刑法 第7巻p19)。
売買春が違法とされる実質的根拠は、売春が、人としての尊厳を害し、性道徳に反し、社会の善良の風俗をみだすものであるためである(売春防止法1条)。
児ポ法(注2)4条。
「児童買春」とは、児童等に対し、対償を供与し、又はその供与の約束をして、当該児童に対し、 性交等(注3)をすること。
規制の趣旨は、児童に対する性的搾取及び性的虐待が児童の権利を著しく侵害すること等(児ポ法1条)。
③18歳未満の者に対する「淫行」等は、各都道府県の条例で違法
福岡県の条例の「淫行」につき、青少年の心身の未成熟に乗じた不当な手段により行う性交又は性交類似行為のほか、青少年を単に自己の性的欲望を満足させるための対象として扱っているとしか認められないような性交又は性交類似行為をいう、とされた(最判昭和60.10.23刑集39.6.413)。
その目的は、一般に青少年が、その心身の未成熟や発育程度の不均衡から、精神的に未だ十分に安定していないため、性行為等によって精神的な痛手を受け易く、また、その痛手からの回復が困難となりがちである等の事情にかんがみ、青少年の健全な育成を図るため(上記最判)。
児童福祉法34条1項6号。
「淫行」とは、児童の心身の健全な育成を阻害するおそれがあると認められる性交又はこれに準ずる性交類似行為(最決H28.6.21刑集70.5.369)。
淫行を「させる行為」とは、直接たると間接たるとを問わず児童に対して事実上の影響力を及ぼして児童が淫行をなすことを助長し、促進する行為。
淫行をさせる者が淫行の相手方になる場合も含む(最判H10.11.2刑集52.8.505参照)(注4)。
規制の趣旨は、児童が精神的にも肉体的にも性的に未熟であるため、そのような児童に淫行をさせる行為は児童の心身に与える有害性が特に大きいことから(東京高判H8.10.30判タ940.275)。
⑤13歳未満の者との「性交等」及び「わいせつ行為」は刑法で違法
刑法177条後段(強制性交等罪)、176条後段(強制わいせつ罪)。
強制性交等罪、強制わいせつ罪一般の保法益は、個人の性的自由、各条後段の罪は、これに加えて、年少者の性的情操の保護を通して青少年の健全育成を図るもの(大コンメンタール刑法3巻 p65)。
⑥その他
保護者の承諾なく、18歳未満の者を深夜に連れ出したり、18歳未満の者から使用済み下着を購入したりすると、各都道府県の条例違反になり得る。
・責任能力は、この話とは直接関係がないうように思われるし、責任能力の有無と自己決定権の有無も連動しない。
なお、元増田が法律の背景・目的を問題としていたので、そこから離れた倫理的な話などは、記載の対象にしていない。
また、片手間に調べた内容なので、必ずしも正確ではない可能性がある。
注1
リンク先の記事のママ活は、「2時間カフェでまったり会うので7000円」であり、性的な行為があるかは不明(会員限定部分に何か書いてあるのかもしれないが。)。
本文に書いてあるのは売買春の話だ。
年齢も当初ははっきりしていなかったが、高校生を想定していると追記された。
注2
児童買春、児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律
注3
性交もしくは性交類似行為をし、又は、自己の性的好奇心「満たす目的で、児童の性器等(性器、肛門又は乳首)を触り、若しくは、児童に自己の性器「触らせること。
注4
淫行条例との違いは、淫行条例では、自身では何の働きかけもせずに、18歳未満の者の積極的な働きかけに応じるの行為も処罰されるのに対し、児童福祉法では処罰されないところ。
◇実行行為性はばっちり。
◇実行の着手時期で「危険を認識した時点」で実行の着手を認めるとしているんだけど、これだと例えば
という事例のときに、発見した時点でもう実行の着手が認められてしまって早すぎるような気がする。作為義務違反時に着手でいいんじゃないかな。実際、当てはめを見ると①アレルギー反応を認識した後、②殺人の故意に基づいて放置行為をした時点で着手を認めてるから、この見解に親和的なように見える(違ったらすまん)。
◇故意について余談。判例は認識認容説と言われている(最判昭33.9.9)んだけど、取調べの可視化の議論が進むにつれて、あんまり厳しく取り調べができなくなる結果、実務は「蓋然性の認識説」に移行しつつあるらしい。なのでこの年みたいに認識認容説で書かせることは今後減っていくのではないか、とのこと(前田)。
◇故意行為が介在する場合、危険の現実化はかなり認めづらくなるらしく、乙については因果関係を慎重に検討しないといけないらしい(前田)。
◇ただ本件の介在事情は不作為なので、そんなに気張らなくても良いような気がするんだけど・・・。
◇これ書いてる途中で、書いている内容が甲乙と被りまくるので、何で丙さん登場させたんだろう?と思ったんだけど、出題趣旨とかを見るとどうも過失の共同正犯を聞きたかったらしい(?)
◇ただ別に丙の行為にも因果関係は認められるので、過失の共同正犯の検討は不要とのこと(前田)。上位答案もほぼ触れていなかった。ここはちょっと出題ミスっぽい。
◇570条の「損害」要件の検討がないのは惜しい。その他のあてはめはばっちりっす。
◇上位答案も落としてるのでこれでいいんだけど、570条で行く場合、570条の効果として受働債権である賃料債権が減額(25万円⇒20万円)されるのかという論点に触れる必要があるみたい。この点につき判例は消極的とか(最判昭29.1.22〔俺はこれ読んでない〕)。
◇瑕疵担保で減額いけるかはもしかしたら改正法案件かもしらんね。
◇設問2の出題趣旨は、①胎児の権利能力につき停止条件説・解除条件説のどちらに立つか、②本件の損害賠償債権が相続によって可分に帰属するか合有として帰属するか、という2つの問題についての自分の立場を明らかにした上で、小問(1)(2)(3)について論理整合的に論じられるか、という点だったらしい。ただもちろんみんな出来てないし、解説を読んでも理解できないので、以下は上位答案との比較での感想です。
◇882条、889 条1項2号も指摘してもいいかもしれん。
◇本件で和解を無効にする方法は2つあって、1つが停止条件説に立ってBの代理を無効にする方法、もう1つがBの錯誤無効を主張する方法、だった。
◇錯誤無効を主張する場合、錯誤の内容は「胎児相続分が有効であると信じて本件和解をしたのに、胎児相続分が無効であったこと」になる。
◇んでこれは動機の錯誤なので、①表示と②契約内容化を認定していく。問題文の中に「Bと本件胎児がAの相続人であ・・・ることを前提として」「和解案『Dは、・・・本件胎児に対し、和解金として各4000万円の支払義務があることを認め』」とあるのでこの辺りの事情を拾っておけば良いか。
◇もうここはりーむー。こんぐらい書けてれば十分だと思う。
◇②④については言いたいことは分かるんだけどKが不法占拠者で「第三者」(177条)に当たらないってことを書けるとよかった。
H25民訴
設問1はすごくよかったと思うけど、設問4はあっさりしすぎているかなと思う。
設問1
・1(2)アについては、なぜ過去の法律関係の法律関係の確認は許されないか、を書いた方がいいと思う。当たり前のことを説明していくのが大事だと思う。
・それ以外は、判例の使い方の流れとか読んでてわかりやすかったです。
設問2
・設問2では、問題文に判例が乗っていたから、その判例についても言及してあげた方が点数が伸びると思う。わざわざ判例が上がっているってことはそれを使ってくれってことだと思うから。答案にも51年最判は~とかかな?
設問3
・(1)については、①は、Jもと所有+JF売買、まで書いた方がより丁寧かも。
・(2)については弁論主義の話を書いとけば問題ないみたい。加藤の回答もそんな感じだった。和田もライブ本で怒っておられるとか・・・。
この問題は、前訴での当事者の主張を前提に、後訴での主張と弁論主義の関係を聞いている問題らしい。そうすると、Gによる「Gの父Fからその生前に…Jから買い受けた」という主張の中にJもと所有、F死亡、GがFの子であること、含まれるけど、JFの売買の事実は、Gは、「GがJから買い受けた」といって否定しているから、立証責任を負わないHによってのみ、後訴での主張がされている。これが弁論主義に反するか、を聞いている問題のようです。
設問4
・(1)については、Hの主張が認められるとなぜ、Gの共有持分の主張ができないのか、ということの説明が必要だと思う。読んでいて何の原則が問題となっているのかが伝わりにくいかなと思う。
・あと設問4については、解析民訴に問題の所在が結構書いてあったから、読んでいる人は結構知っていた可能性があるかも。俺も解析民訴読んでたので、問題の所在は知ってました。
参政権付与が一般的に禁止されているわけじゃないから、認められないとまではいえないんじゃないの?
判例は、禁止説は否定してるような。
航空機の登録を受ける権利が、性質として日本国民のみを対象としているんじゃないの?
許可を必要としてるってことは、少なくとも一般的には禁止されているわけだろ。
この許可が講学上の「特許」なら、権利付与ってことになるし。
で、判例通説はどこにある?
下でお前さんが引用してるのは前文みたいな間接証拠ばっかりじゃないか。憲法15条も最判H7.2.28も引かないのは脳内概念の自覚があるからか。
だから、ご愛敬だといったじゃないか。
途中からは、まんま浦部説だけどなw
前国家的な人権が理念として、または史的現実としてありうるかどうかは議論の余地がある。というかその手の空虚な定義から演繹的に何かを導こうとするのは科学的じゃない。
(中略)
条約を出せば相手がびびると思うな。国際人権規約B§25は締約国に外国人参政権を義務付けたものじゃない。国連総会第6委員会の議事録でもぐぐっとけ。
そこまでって、性質説の論証だけど。
そこからの国民主権との関係性が、浦部説の展開で。
未成年者は、その未成熟性からパターナリスティックな制約ができるよね。
最判H7.2.28の「わが国に在留する外国人のうちでも永住者等であって、その居住する区域の地方公共団体と特段に密接な関係を持つに至ったと認められる者」って、生活実態が国民一般と変わらないってことじゃないの。
参政権についてこう考えているってことは、規範として「人権の問題を考える際に重要なのは、その人の国籍ではなく、生活の実態である。」と考えてるってことじゃないかと。
参政権を除く話などしてないだろ。
参政権は外国人に対しては認められない+外国人に対して認められる人権の話→参政権を除いた人権の話。
財産権も営業の自由も外国人に対して認めないとは、なかなかラディカルだなお前。
そのために、判例なり通説で補強するんじゃないか
で、判例通説はどこにある?
下でお前さんが引用してるのは前文みたいな間接証拠ばっかりじゃないか。憲法15条も最判H7.2.28も引かないのは脳内概念の自覚があるからか。
まず、素直に自説を示したことには敬意を表する。正直、逃げるかと思っていた。悪かった。
では内容の検討に移る。
人権とは、~
前国家的な人権が理念として、または史的現実としてありうるかどうかは議論の余地がある。というかその手の空虚な定義から演繹的に何かを導こうとするのは科学的じゃない。
前文に直接の規範性はない。本文の解釈をおこなう上での指導原理。また引用されている内容も外国人の参政権を直接に支持するものじゃない。たとえば他国と対等うんぬんは相互主義に基づかない外国人参政権を戒めたものと見ることも可能。
条約を出せば相手がびびると思うな。国際人権規約B§25は締約国に外国人参政権を義務付けたものじゃない。国連総会第6委員会の議事録でもぐぐっとけ。
はいはいプープル主権。未成年者にも乳幼児にも参政権を与えなくちゃならないとは大変だね。