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はてなキーワード: 東大寺とは

2018-11-15

anond:20181115102812

鹿がひっくり返したり持ち上げられないどでかい鉄の蓋付きゴミ箱なら一つ東大寺付近トイレ近くにあるめちゃくちゃ厳ついやつでゴミ箱に見えんかもだけど

写真あったわこれな

奈良ゴミ箱は気軽に置いたら鹿の死に繋がるんよねゴミポイ捨て問題外だし

http://naraguide.jugem.jp/?eid=86

2018-07-10

anond:20180709165939

東大寺の実物を気軽に見れるのは奈良の上の方の観光で賑わう比較的都会に住んでる人であり、そういう人は気軽に京都大阪など都会に出れる

悲惨なのは下の方のクソ田舎

2018-05-12

せんとくん、多過ぎ!

奈良県せんとくん経済効果が2105億円だか何だか知らんけど、いろんなもんが多過ぎ

デザイン多過ぎ

まわしを締めた「相撲せんとくん」、桜の花が頭を飾る「桜せんとくん」……。現在オリジナルせんとくんを含め、8パターンデザイン存在する。


県の使用指針には「違う要素を加えたり表情など細部を部分的に加工することはできません」と著作権保護のため、厳格な規定がある。テーマに沿ってせんとくんアレンジするには、その都度、新たなデザインが求められるのだ。

読売新聞2018年02月15日付奈良県内朝刊

県は売り上げや製作費用の3%をライセンス料として納めることなどを条件に、商品広告に利用することを認めており、遷都祭があった10年度には約4900万円の収入があった。


ところが祭りが終わって一段落した11年度は、699万円に激減。同年に県のキャラクターになったのを機に、県は12年度に、「官服」「桜」紅葉」の3デザインを追加しててこ入れを図ったが、各地に次々と特徴的なゆるキャラ誕生する中で存在感の低下は否めず、16年度は154万円にまで落ち込んだ。県は先月、さらに「はかま姿」を投入し、起死回生を狙う。

毎日新聞2018年05月15日付大阪夕刊

菩薩
基本ポーズ、走る、歩く、お願い・感謝、ナイショ、あのね、指さし紹介、考える、バンザイピース、座る、寝そべる
官服
基本ポーズ、お願い・感謝、あのね、指さし紹介
紅葉
椅子叩く、鼓椅子、舞い、鼓縁結び叩く、鼓縁結び
海づくり
ラグビー
相撲

着ぐるみ多過ぎ

通称「海づくりせんとくん」。2014年に開かれた「全国豊かな海づくり大会」PRのため、前年に誕生した。デザイン料約60万円、着ぐるみ代約180万円をかけて作成したが、大会終了後は大型商業施設でのアマゴ販売イベントなど、3回しか登場していない。


農業水産振興課の一角で、「海づくりせんとくん」は箱に納められている


昨年の「国民文化祭」「全国障害者芸術文化祭」に登場した通称「はかませんとくん」も、同様の状況に陥る危機にある。デザイン料約60万円、着ぐるみ2体計約330万円をかけて生み出したが、運営を担った大会特別課そのものが、来年度にはなくなる見込み。

読売新聞2018年02月15日奈良県内朝

分身多過ぎ

実は、私たちが目にするせんとくんには、2種類があるらしい。県の主催事業や県外で催されるPRイベントで会えるせんとくんの多くは、プロスタッフによるもの自治体主催する小規模な行事などでは着ぐるみを貸し出すだけで、自治体職員などがその役目を引き受けているという。県観光プロモーション課幹部は「時々、『元気がない』と指摘をもらいます」と明かす。

読売新聞2018年02月14日付奈良県内朝刊

とある1日のスケジュール

ツイッターアカウント多過ぎ

ツイッター社の公式マークがついているのが「せんとくんつぶやき」だ。


奈良県庁の担当者によると、こちらのアカウントでは、主に奈良県全体に関わる情報を発信しているという。もう1つのアカウントが「せんとくんOFFICIAL》」で、こちらはせんとくん活動報告などをメインに発信している。

http://j-town.net/tokyo/news/localnews/237313.html

ツイッターでは奈良県庁が管理する公式アカウントのほか、非公式アカウントもあり、人気のものではフォロワー数は7万を超える。

AERA 2017年7月3日号

昨年12月末時点では公式は3145人しかおらず、非公式の7万5878人に今以上の大差をつけられていた。

毎日新聞2017年01月26日付大阪夕刊

県ならの魅力創造課の担当者は「問題になる内容はなく、目くじらを立てるつもりはない。持ち味の違う2人のせんとくんを楽しんでもらえれば」と静観しつつ、「公式フォロワーも増えればありがたい」と期待する。

読売新聞2012年05月16日奈良県内朝

@heijyosento
2009年7月開設。フォロワー74,182。運営不明で、写真も返信もないもの関西弁のゆるいつぶやきが人気。TKOのしたさん、水野良樹さん、古坂大魔王さん、ハマ・オカモトさんら芸能人も多数フォロー
@sentokunteam
2012年1月開設。フォロワー11,798。平城遷都1300年祭オフィシャル広報隊「平城人(ならびと)」の提案で始めたひとつ目の公式ツイッターで、1300年祭が終わってからは1年ごとに委託事業者を募集。当初は約460人しかいなかったフォロワーも、写真を欠かさず投稿することで2017年1月、1万人を突破
@narakencyou
2012年6月開設。フォロワー10,007奈良県広報広聴課が運用する2つ目の公式ツイッターだが、県からのお知らせを標準語つぶやくだけだったので、当初のフォロワー数はたったの約580人。しかし、中の人辻本哲也さんだった2014年4月2018年3月双方向コミュニケーションを心がけたり、フォロワーが少ないことを嘆いてみたり、堂本剛くんや桐生戦兎くんに言及したり、台風情報を夜通し投稿したり、なんやかんやあって大幅にフォロワーが増加し、2018年5月にようやく1万人を達成。

フィギュア多過ぎ

素材は繊維強化プラスチックFRP製、高さ1.6メートル制作費は約40万円。

https://nara.keizai.biz/headline/136/

東京
奈良まほろば館、養徳学舎
大阪
株式会社ポップ工芸
奈良
奈良春日野国際フォーラム天平東大寺店、奥村記念館、奈良県庁、奈良公園バスターミナル奈良県美術館近鉄奈良駅JR奈良駅、奈良うまいものプラザ奈良総合観光案内所、奈良ロイヤルホテル、ラ・ロイヤルスパ奈良県図書情報館、国営平城宮跡歴史公園ならファミリー 平城の宙庭、阪奈道路道の駅テラス道の駅 ‎宇陀路大宇陀道の駅 宇陀路室生道の駅 伊勢街道 御杖、奈良県立民俗博物館、奈良県立万葉文化館、かしはらナビプラザJAならけんまほろばキッチン

しかまろくんの方がグッズの売り上げ多過ぎ

「もう圧倒的しかまろくんの方が10倍売り上げが多い」

テレビ朝日『ずっと追ってるジャーナル

※なら和み館の場合

記者リポート

「今は売り場のほとんどが『しかまろくん』で、『せんとくん』の売り場はここしかありません」

奈良観光協会が5年前に作った「しかまろくん」に追いやられてしまっています

土産物店の人】

「『しかまろくん』のほうがやっぱり。『せんとくん』は商品がかなり少なくなっている」

お客さんが手にとるのも、「せんとくん」ではありません。

子供は】

「『しかまろくん』はおっとりしているから売れると思うけど、『せんとくん』は人間みたいやん。こいつ誰って」

関西テレビ報道ランナー2018年8月1日放送

駅前土産店なんですが、他のキャラクターグッズに比べると、せんとくんのグッズはやや少ないように感じます」(記者リポート

店内には奈良観光協会のマスコットキャラクターしかまろくん」が所狭しと並んでいて、せんとくんは片隅に追いやられています

「だいぶ減りましたね。遷都1300年祭が終わった年くらいから、問屋さんが在庫で終わらせていくみたいな感じで」(土産物店)

MBSVOICE2018年8月7日放送

しかまろくん以外もライバルの鹿キャラ多過ぎ

奈良といえば、奈良公園にいるたくさんの鹿―。そんな奈良の鹿が、ゆるキャラ世界でも増加中だ。

朝日新聞2015年01月01日付奈良県内朝

2018-03-27

anond:20180327100644

国家暴力装置である」と喝破して批判された政治家が昔いたけど、「なぜ人を殺してはいけないのか」を突き詰めて考えてみると、そのことにたどりつく。

現在近代国家においては、一般市民武装することを許されていない(日本欧州諸国の話。アメリカについては例外中の例外)。

暴力武装を独占していいのは国家だけであり、具体的には軍隊警察組織の2者が暴力を独占する。

国家暴力を独占することによって、国家内における治安を維持することが出来るようになる。

よって、一般市民暴力行使してはいけない。つまり、人を殺してはいけないし、人を傷つけてはいけないし、他人の物を盗んではいけない。

暴力行使していいのは、交戦権を持っている軍隊と、刑事訴訟法に基づいて執行する警察組織だけ。

中世日本統一政府が無かったので、各貴族豪族宗教寺院自分武士を雇って武装して、自分の身を自分で守っていた。

昔の東大寺比叡山延暦寺は自前で僧兵を雇って武装していたらしいことが歴史書に書かれている。

暴力行使してはいけない、という考え方は明治維新後の近代国家価値観なので、まだ150年ほどしか経過していない。

もし増田が人を殺したいと思ったら、公務員試験を受けて自衛官警察官防衛出動海上警備行動を発令できる権限のある防衛大臣刑務所刑務官死刑判決を下せる裁判官を目指せばいいのではないか

2017-09-06

寺で始まる名字はクソダサなのに寺で終わる名字はかっこいい:寺終わり一覧

秋篠寺 あきしのでら

芦峅寺 あしくらじ

飛鳥寺 あすかでら

安寺 あてら

阿寺 あてら

天寺 あまでら

尼寺 あまでら

阿弥陀寺 あみだ

阿見寺 あみでら

荒寺 あれでら

安岡寺 あんこう

安国寺 あんこくじ

安全寺 あんぜんじ

安用寺 あんようじ

安養寺 あんようじ

安楽寺 あんらくじ

石寺 いしてら

石山寺 いしやまでら

板寺 いたでら

猪名寺 いたでら

一乗寺 いちじょうじ

一条寺 いちじょうじ

一寺 いちでら

一坊寺 いっぽうじ

井寺 いてら

威徳寺 いとくじ

伊堂寺 いどうじ

稲寺 いなでら

今寺 いまでら

岩峅寺 いわくらじ

岩寺 いわでら

巌寺 いわでら

巖寺 いわでら

上寺 うえでら

氏寺 うじでら

永源寺 えいげんじ

英勝寺 えいしょうじ

永徳寺 えいとくじ

永平寺 えいへいじ

永保寺 えいほうじ

永満寺 えいまんじ

永養寺 えいようじ

江寺 えてら

慧日寺 えにちじ

家原寺 えばらじ

円覚寺 えんがくじ

円行寺 えんぎょうじ

円光寺 えんこうじ

圓光寺 えんこうじ

円護寺 えんごじ

円勝寺 えんしょうじ

円正寺 えんしょうじ

延勝寺 えんしょうじ

延壽寺 えんじゅじ

延寿寺 えんじゅじ

円城寺 えんじょうじ

円成寺 えんじょうじ

圓城寺 えんじょうじ

圓成寺 えんじょうじ

延対寺 えんたいじ

円通寺 えんつうじ

円道寺 えんどうじ

圓道寺 えんどうじ

円頓寺 えんどんじ

円応寺 えんのうじ

円能寺 えんのうじ

円福寺 えんふくじ

圓福寺 えんふくじ

円満寺 えんまんじ

円明寺 えんみょうじ

延命寺 えんめいじ

延暦寺 えんりゃくじ

王寺 おうじ

王禅寺 おうぜんじ

押領寺 おうりょう

大谷寺 おおたにじ

大寺 おおでら

大野寺 おおのじ

大庭寺 おおばでら

岡寺 おかでら

海印寺 おくかいいんじ

奥寺 おくてら

奧寺 おくてら

小倉寺 おぐらじ

長寺 おさでら

尾寺 おてら

御寺 おてら

小埜寺 おのでら

小野寺 おのでら

小見寺 おみでら

表慈恩寺 おもてじおんじ

音光寺 おんこうじ

園城寺 おんじょうじ

遠城寺 おんじょうじ

温泉寺 おんせんじ

隠明寺 おんみょうじ

園林寺 おんりんじ

海印寺 かいいんじ

海応寺 かいおう

海音寺 かいおんじ

皆尺寺 かいしゃくじ

海蔵寺 かいぞうじ

海藏寺 かいぞうじ

覚王寺 かくおうじ

覚寺 かくじ

覚満寺 かくまんじ

駆け込み寺 かけこみでら

駆込み寺 かけこみでら

笠寺 かさでら

嘉祥寺 かしょうじ

勧修寺 かじゅうじ

門寺 かどでら

金森寺 かなもり

上古寺 かみふるてら

川寺 かわでら

寛永寺 かんえいじ

観音寺 かんおんじ

観海寺 かんかいじ

観喜寺 かんきじ

舘山寺 かんざんじ

観修寺 かんしゅうじ

官寺 かんじ

観世音寺 かんぜおんじ

神大寺 かんだいじ

神道寺 かんどうじ

感応寺 かんのうじ

感應寺 かんのうじ

観音正寺 かんのんしょうじ

甘露寺 かんろじ

願海寺 がんかいじ

元興寺 がんごうじ

願興寺 がんごうじ

願成寺 がんじょう

北久宝寺 きたきゅうほうじ

北寺 きたでら

城田寺 きだいじ

吉城寺 きちじょうじ

吉祥寺 きちじょうじ

木寺 きでら

紀寺 きでら

木佛寺 きぶでら

紀三井寺 きみいでら

久宝寺 きゅうほうじ

久本寺 きゅうほんじ

清水寺 きよみずでら

金閣寺 きんかくじ

金山寺 きんざん

金勝寺 きんしょうじ

金仙寺 きんせんじ

金泉寺 きんせんじ

金熊寺 きんゆうじ

金楽寺 きんらくじ

祇園寺 ぎおんじ

行願寺 ぎょうがんじ

玉泉寺 ぎょくせんじ

銀閣寺 ぎんかくじ

久遠寺 くおんじ

久能寺 くのうじ

九品寺 くほんじ

久保寺 くぼじ、くぼでら、くぼてら

窪寺 くぼでら

鞍馬寺 くらまでら

弘法寺 ぐほうじ

弘明寺 ぐみょうじ

恵林寺 けいりんじ

敬礼寺 けいれいじ

華蔵寺 けぞうじ

顕聖寺 けんしょうじ

建長寺 けんちょうじ

建仁寺 けんにんじ

源法寺 げんぼうじ

高安寺 こうあんじ

光悦寺 こうえつじ

高円寺 こうえんじ

光音寺 こうおんじ

光源寺 こうげんじ

高源寺 こうげんじ

興国寺 こうこくじ

広済寺 こうさいじ

耕三寺 こうさんじ

高山寺 こうさんじ

興聖寺 こうしょうじ

光寺 こうじ

国府寺 こうじ

國府寺 こうじ

高水寺 こうすい

高専寺 こうせんじ

高專寺 こうせんじ

光善寺 こうぜんじ

高蔵寺 こうぞうじ

高台寺 こうたいじ

香寺 こうでら

皇徳寺 こうとくじ

高徳寺 こうとくじ

光同寺 こうどうじ

興福寺 こうふくじ

光明寺 こうみょうじ

広隆寺 こうりゅうじ

粉河寺 こかわでら

国済寺 こくさいじ

国泰寺 こくたいじ

國分寺 こくぶじ

国分寺 こくぶんじ

国分尼寺 こくぶんにじ

苔寺 こけでら

古正寺 こしょうじ

小寺 こでら、こてら

駒寺野 こまでらの

金戒光明寺 こんかいこうみょうじ

金剛寺 こんごう

金剛峯寺 こんごうぶじ

金剛峰寺 こんごうぶじ

権寺 こんじ

金蔵寺 こんぞうじ

金胎寺 こんたいじ

豪炎寺 ごうえんじ

豪徳寺 ごうとくじ

五雲寺 ごうんじ

獄寺 ごくでら

極楽寺 ごくらくじ

極樂寺 ごくらくじ

護国寺 ごこくじ

後藤寺 ごとうじ

権正寺 ごんしょうじ

権常寺 ごんじょうじ

西安寺 さいあんじ

西円寺 さいえんじ

西園寺 さいおんじ

西園寺公望 さいおんじきんもち

西教寺 さいきょうじ

西元寺 さいげんじ

西光寺 さいこうじ

最勝寺 さいしょうじ

西照寺 さいしょうじ

西寺 さいじ

最乗寺 さいじょうじ

西大寺 さいだいじ

西大寺上 さいだいじかみ

西大寺中 さいだいじなか

佐井寺 さいでら

才寺 さいでら

西徳寺 さいとくじ

西方寺 さいほうじ

西法寺 さいほうじ

西芳寺 さいほうじ

斉明寺 さいみょうじ

斎明寺 さいみょうじ

最明寺 さいみょうじ

齋明寺 さいみょうじ

西明寺 さいみょうじ、さいめいじ

西來寺 さいらいじ

西蓮寺 さいれんじ

西連寺 さいれんじ

境寺 さかいでら

讃州寺 さんしゅうじ

三世寺 さんぜじ

三代寺 さんだいじ

三大寺 さんだいじ

三福寺 さんふくじ

三宝寺 さんぼうじ

財光寺 ざいこうじ

在国寺 ざいこくじ

在國寺 ざいこくじ

坐光寺 ざこうじ

座光寺 ざこうじ

紫雲寺 しうんじ

四王寺 しおうじ

塩寺 しおでら

志観寺 しかんじ

下寺 したでら、しもでら

四天王寺 してんのうじ

志堂寺 しどうじ

嶋寺 しまでら

海印寺 しもかいいんじ

下法軍寺 しもほうぐんじ

社寺 しゃじ

舎利寺 しゃりじ

修善寺 しゅぜんじ

修禅寺 しゅぜんじ

朱膳寺 しゅぜんじ

祥雲寺 しょううんじ

正円寺 しょうえんじ

正観寺 しょうかんじ

正覚寺 しょうがくじ

正行寺 しょうぎょうじ

承元寺 しょうげんじ

正源寺 しょうげんじ

生源寺 しょうげんじ

勝興寺 しょうこうじ

相国寺 しょうこくじ

正権寺 しょうごんじ

荘厳寺 しょうごんじ

清浄光寺 しょうじょうこうじ

諸徳寺 しょうとくじ

正道寺 しょうどうじ

正福寺 しょうふくじ

正法寺 しょうほうじ

淨法寺 しょうほうじ

昌明寺 しょうみょうじ

正明寺 しょうみょうじ

称名寺 しょうみょうじ

勝楽寺 しょうらくじ

正楽寺 しょうらくじ

正暦寺 しょうりゃくじ

勝竜寺 しょうりゅうじ

青龍寺 しょうりゅうじ

少林寺 しょうりんじ

松林寺 しょうりんじ

正蓮寺 しょうれんじ

青蓮寺 しょうれんじ

城寺 しろてら

眞行寺 しんぎょうじ

真行寺 しんぎょうじ

真光寺 しんこうじ

神護寺 しんごじ

新勝寺 しんしょうじ

神松寺 しんしょうじ

神清寺 しんせい

新寺 しんてら

真如寺 しんにょじ

真福寺 しんふくじ

新福寺 しんぷくじ

真綾寺 しんりょう

慈恩寺 じおんじ

慈眼寺 じがんじ

慈光寺 じこうじ

持光寺 じこうじ

慈照寺 じしょうじ

地蔵寺 じぞうじ

実相寺 じっしょうじ

實相寺 じっしょうじ

実法寺 じほうじ

慈明寺 じみょうじ

神明寺 じみょうじ

甚目寺 じもくじ

十楽寺 じゅうがくじ

十樂寺 じゅうがくじ

十禅寺 じゅうぜんじ

十蔵寺 じゅうぞうじ

十藏寺 じゅうぞうじ

鷲林寺 じゅうりんじ

十貫寺 じゅっかんじ

寿福寺 じゅふくじ

順教寺 じゅんきようじ

浄圓寺 じょうえんじ

淨円寺 じょうえんじ

常願寺 じょうがんじ

成願寺 じょうがんじ

城光寺 じょうこうじ

定光寺 じょうこうじ

常光寺 じょうこうじ

常称寺 じょうしょうじ

定禅寺 じょうぜんじ

浄智寺 じょうちじ

浄土寺 じょうどじ

城南寺 じょうなんてら

浄法寺 じょうほうじ

上坊寺 じょうぼうじ

浄明寺 じょうみょうじ

常楽寺 じょうらくじ

常樂寺 じょうらくじ

定林寺 じょうりんじ

神宮寺 じんぐうじ

神向寺 じんこうじ

秦泉寺 じんせんじ

深大寺 じんだいじ

神武寺 じんむじ

水前寺 すいぜんじ

周船寺 すせんじ

須磨寺 すまでら

随応寺 ずいおうじ

瑞巌寺 ずいがんじ

瑞泉寺 ずいせんじ

頭陀寺 ずだじ

清閑寺 せいかんじ

清岸寺 せいがんじ

清河寺 せいがんじ

誓願寺 せいがんじ

青岸渡寺 せいがんとじ

清玄寺 せいげんじ

成勝寺 せいしょうじ

西伝寺 せいでんじ

青明寺 せいみょうじ

清涼寺 せいりょう

関寺 せきでら

泉岳寺 せんがく

泉正寺 せんしょうじ

浅草寺 せんそうじ

千提寺 せんだいじ

泉涌寺 せんにゅうじ

泉湧寺 せんにゅうじ

千音寺 せんのんじ

善応寺 ぜんおうじ

善久寺 ぜんきゅうじ

善慶寺 ぜんけいじ

善源寺 ぜんげんじ

善光寺 ぜんこうじ

善根寺 ぜんこんじ

禅昌寺 ぜんしょうじ

善通寺 ぜんつうじ

禅寺 ぜんでら

善導寺 ぜんどうじ

善如寺 ぜんにょじ

善能寺 ぜんのうじ

善福寺 ぜんぷくじ

善法寺 ぜんぽうじ

善養寺 ぜんようじ

善立寺 ぜんりゅうじ

禅林寺 ぜんりんじ

総持寺 そうじじ

崇禅寺 そうぜんじ

崇福寺 そうふくじ

造寺 ぞうじ

増上寺 ぞうじょうじ

太岡寺 たいこうじ

躰光寺 たいこうじ

大山寺 たいさんじ

大石寺 たいせきじ

泰泉寺 たいせんじ

太寺 たいでら

大寧寺 たいねいじ

太平寺 たいへいじ

当麻寺 たいまでら

太融寺 たいゆうじ

太陽寺 たいようじ

高田寺 たかだじ

高寺 たかでら

髙寺 たかでら

宝寺 たからでら

滝寺 たきでら

瀧寺 たきでら

橘寺 たちばなでら

舘寺 たてでら

館寺 たてでら

田寺 たでら

多門寺 たもんじ

誕生寺 たんじょうじ

大安寺 だいあんじ

大雲寺 だいうんじ

大雄寺 だいおうじ

大覚寺いかく

大巌寺 だいがんじ

大願寺 だいがんじ

大京寺 だいきょうじ

題経寺 だいきょうじ

大宮寺 だいぐうじ

大源寺 だいげんじ

大光寺 だいこうじ

醍醐寺 だいごじ

大師寺 だいしじ

大正寺 だいしょうじ

大聖寺 だいしょうじ

大慈寺 だいじじ

大樹寺 だいじゅうじ

大乗寺 だいじょうじ

大泉寺 だいせん

大善寺 だいぜんじ

大通寺 だいつうじ

大徳寺 だいとくじ

大導寺 だいどうじ

大道寺 だいどうじ

大日寺 だいにちじ

大宝寺 だいほうじ

大楽寺 だいらくじ

大琳寺 だいりんじ

達磨寺 だるま

檀那寺 だんなでら

旦那寺 だんなでら、だんなじ

智恩寺 ちおんじ

知恩寺 ちおんじ

竹林寺 ちくりんじ

千見寺 ちけんじ

知見寺 ちけんじ

千葉寺 ちばでら

中元寺 ちゅうがんじ

中願寺 ちゅうがんじ

中宮寺 ちゅうぐうじ

仲元寺 ちゅうげんじ

中権寺 ちゅうごんじ

中在寺 ちゅうざいじ

中善寺 ちゅうぜんじ

中禅寺 ちゅうぜんじ

中尊寺 ちゅうそんじ

中堂寺 ちゅうどうじ

長安寺 ちょうあんじ

長栄寺 ちょうえいじ

潮音寺 ちょうおんじ

長久寺 ちょうきゅうじ

長慶寺 ちょうけいじ

長源寺 ちょうげんじ

長興寺 ちょうこうじ

長勝寺 ちょうしょうじ

長松寺 ちょうしょうじ

長泉寺 ちょうせんじ

重染寺 ちょうぜんじ

長徳寺 ちょうとくじ

長坂寺 ちょうはんじ

長峰寺 ちょうほうじ

長命寺 ちょうめいじ

長楽寺 ちょうらくじ

通元寺 つうげんじ

通法寺 つうほうじ

津寺 つでら

貞永寺 ていえいじ

天花寺 てんげえじ、てんかじ

天現寺 てんげんじ

天性寺 てんしょうじ

天正寺 てんしょうじ

天寧寺 てんねいじ

天王寺 てんのうじ

天籟寺 てんらいじ

天竜寺 てんりゅうじ

天龍寺 てんりゅうじ

伝法寺 でんぼうじ

傳法寺 でんぼうじ

東慶寺 とうけいじ

東光寺 とうこうじ

唐招提寺 とうしょうだいじ

当寺 とうじ

東寺 とうじ

東泉寺 とうせんじ

東禅寺 とうぜんじ

東大寺 とうだいじ

東長寺 とうちょうじ

塔寺 とうでら

東福寺 とうふくじ

灯明寺 とうみょうじ

徳大寺 とくだいじ

道光寺 どうこうじ

道寺 どうじ

道場寺 どうじょうじ

道成寺 どうじょうじ

導寺 どうでら

道明寺 どうみょうじ

道明寺粉 どうみょうじこ

中秦泉寺 なかじんぜんじ

中寺 なかでら

中山寺 なかやまでら

若王寺 なこうじ

那谷寺 なたでら

成相寺 なりあいじ

南禅寺 なんぜんじ

南蛮寺 なんばんじ

南林寺 なんりんじ

飯寺 にいでら

西秦泉寺 にしじんぜんじ

西寺尾 にしてらお

西寺方 にしてらかた

西本願寺 にしほんがんじ

西本成寺 にしほんじょうじ

仁頂寺 にじょうじ

日東寺 にっとうじ

如法寺 にょほうじ

忍頂寺 にんじょうじ

仁和寺 にんなじ

念仏寺 ねんぶつじ

能仁寺 のうにんじ

野寺 のでら

廃寺 はいじ

長谷寺 はせでら

畑寺 はたでら

鉢ヶ峯寺 はちがみねじ

八九寺 はちくじ

幅寺 はばでら

浜寺 はまでら

林寺 はやしじ

原寺 はらでら

般若寺 はんにゃ

梅津寺 ばいしんじ

梅林寺 ばいりんじ

番生寺 ばんしょうじ

日向寺 ひうがじ

東本願寺 ひがしほんがんじ

東山寺 ひがしやまてら

引寺 ひきじ

百済寺 ひゃくさいじ

白毫寺 びゃくごうじ

平等寺 びょうどうじ

富貴寺 ふきでら

福王寺 ふくおうじ

福音寺 ふくおんじ

福成寺 ふくじょうじ

福禅寺 ふくぜんじ

福寺 ふくでら

福田寺 ふくでんじ

普賢寺 ふげん

普済寺 ふさいじ

普正寺 ふしょうじ

藤井寺 ふじいでら

二ツ寺 ふたつてら

不動寺 ふどうじ

舩寺 ふなでら

船寺 ふなでら

古寺 ふるでら、こでら

峰定寺 ぶじょうじ

仏光寺 ぶっこうじ

仏国寺 ぶっこくじ

仏生寺 ぶっしょうじ

仏寺 ぶつじ

平安寺 へいあんじ

平泉寺 へいせんじ

平林寺 へいりんじ

報恩寺 ほうおんじ

方広寺 ほうこうじ

宝厳寺 ほうごんじ

宝山寺 ほうざんじ

宝積寺 ほうしゃくじ

寳積寺 ほうしゃくじ

法勝寺 ほうしょうじ

放寺 ほうじ

法寺岡 ほうじおか

芳寺戸 ほうじど

宝仙寺 ほうせんじ

宝泉寺 ほうせんじ

法泉寺 ほうせんじ

法善寺 ほうぜんじ

宝蔵寺 ほうぞうじ

宝藏寺 ほうぞうじ

寳蔵寺 ほうぞうじ

寳藏寺 ほうぞうじ

寶蔵寺 ほうぞうじ

寶藏寺 ほうぞうじ

法蔵寺 ほうぞうじ

法伝寺 ほうでんじ

法傳寺 ほうでんじ

宝塔寺 ほうとう

法道寺 ほうどうじ

鳳来寺 ほうらいじ

法隆寺 ほうりゅうじ

法輪寺 ほうりんじ

法起寺 ほっきじ

法華寺 ほっけじ

法興寺 ほつこうじ

法性寺 ほつしょうじ

本願寺 ほんがんじ

本興寺 ほんこうじ

本寺 ほんじ、ほんでら

本成寺 ほんじょうじ

本能寺 ほんのうじ

本遠寺 ほんのんじ

本法寺 ほんぽうじ

本妙寺 ほんみょうじ

本門寺 ほんもんじ

坊寺 ぼうじ

鳳凰寺 ぼうじ

菩提寺 ぼだいじ

前寺 まえでら

牧寺 まきでら

松尾寺 まつおじ

末寺 まつじ

松寺 まつでら

眞寺 までら

真寺 までら

万願寺 まんがんじ

満願寺 まんがんじ

万寿寺 まんじゅじ

万造寺 まんぞうじ

萬造寺 まんぞうじ

万代寺 まんたいじ

万納寺 まんのうじ

萬納寺 まんのうじ

万福寺 まんぷくじ

三井寺 みいでら

美江寺 みえじ

右寺 みぎてら

三田寺 みたでら

御田寺 みだてら

三ツ寺 みつでら

三寺 みつでら

味寺 みでら

見寺 みでら

南久宝寺 みなみきゅうほうじ

南寺 みなみてら

峰寺 みねでら

壬生寺 みぶでら

宮寺 みやでら

妙円寺 みょうえんじ

明王寺 みょうおうじ

妙顕寺 みょうけんじ

妙光寺 みょうこう

妙興寺 みょうこう

妙国寺 みょうこくじ

妙心寺 みょうしんじ

妙寺 みょうじ

妙成寺 みょうじょうじ

明善寺 みょうぜんじ

明大寺 みょうだいじ

明徳寺 みょうとくじ

妙法寺 みょうほうじ

明法寺 みょうほうじ

妙楽寺 みょうらくじ

妙蓮寺 みょうれんじ

弥勒寺 みろくじ

彌勒寺 みろくじ

向寺 むかいでら

無量寺りょう

室生寺 むろうじ

室寺 むろじ

毛越寺 もうつじ

元寺 もとてら

森寺 もりでら

茂林寺 もりんじ

文珠寺 もんじゅ

薬王寺 やくおうじ

薬師寺 やくしじ

藥師寺 やくしじ

薬勝寺 やくしょうじ

薬眞寺 やくしんじ

薬真寺 やくしんじ

藥眞寺 やくしんじ

矢寺 やてら

柳寺 やなぎでら

山寺 やまでら

祐天寺 ゆうてんじ

幸寺 ゆきてら、こうでら

楊谷寺 ようこくじ

養福寺 ようふくじ

要法寺 ようほうじ

横寺 よこてら

善峰寺 よしみねでら

雷音寺 らいおんじ

来迎寺 らいこうじ

楽巌寺 らくがんじ

理寛寺 りかんじ

立石寺 りっしゃくじ

龍安寺 りゅうあんじ

竜角寺台 りゅうかくじだい

竜宮寺 りゅうぐうじ

龍宮寺 りゅうぐうじ

立花寺 りゅうげじ

龍源寺 りゅうげんじ

竜光寺 りゅうこうじ

龍光寺 りゅうこうじ

龍寺 りゅうじ

竜泉寺 りゅうせんじ

竜禅寺 りゅうぜんじ

竜造寺 りゅうぞうじ

龍造寺 りゅうぞうじ

龍胆寺 りゅうどうじ

竜安寺 りょうあんじ

陵厳寺 りょうげんじ

了仙寺 りょうせんじ

霊仙寺 りょうせんじ

霊山寺 りょうぜんじ

了徳寺 りょうとくじ

良福寺 りょうふくじ

了法寺 りょうほうじ

臨済寺 りんざいじ

輪王寺 りんのうじ

瑠璃光寺 るりこうじ

蓮覚寺 れんがくじ

蓮花寺 れんげじ

蓮光寺 れんこうじ

連光寺 れんこうじ

蓮正寺 れんしょうじ

蓮台寺 れんだいじ

楞巌寺 ろうごんじ

鹿園寺 ろくおんじ

鹿苑寺 ろくおんじ

六泉寺 ろくせんじ

六湛寺 ろくたんじ

六波羅蜜寺 ろくはらみつじ

和寺 わでら

2017-07-30

大阪なんて嫌い、穴モテできないから。根暗のガキは大阪人にとってはただのブスらしいよ。てか美醜の価値観下品やわ大阪黒髪裸眼つけまマツエクもしてないんが気に食わんのか、そのくせ若干男を出しながら、「何歳児~~??w」とか言いよる。ガッサガサした飲み屋街以外いいとこあらへん、ガッサガサした飲み屋街は最高に楽しいけど、ガッサガサが活かせるとこなんて飲み屋しかあらへんのに、ガッサガサした気分でコミュニケーションを図ってくるやろ。嫌やねんあれ。シラフでそれなんですか?下品ですね。その点奈良は神だよね。京都陰湿で嫌。オカマの立ちんぼのナワバリに迷い込んで噛み付かれたことあるもん。わざわざ繋がってないアイフォン耳に当てて、何らかの人に連絡してますよみたいな感じで、東京から来た女がなあ!自分から誘ってはるんよ!じゃあ、ないんだよ。誘ってねえわ。ただスマホいじってるだけで入れ食いやんけ。ば~~か!!先斗町はいいとこだけど。おでんが旨いし、冬におでん食って熱燗いくやろ、最強。神。陰湿以外は神の京都奈良はすべてにおいて最強の神!!仏像がいっぱい、鹿もうじゃうじゃいる。曼荼羅とか、阿修羅像とか、国宝とかがいっぱい見られて、他はなんもない。ドンキすらない。ドンキない以外は神だけど、補って余りあるほど、東大寺が、サイコー!!奈良は神。神戸は見習え。神戸バカ

2017-06-11

続・白紙に戻せぬ遣唐使教科書の読み比べ)

http://anond.hatelabo.jp/20170611183038

これのつづき。今回も文字数制限にひっかかったので、分割します。

  

桐原書店新日本史B』(日B 011)

一方、インドの僧菩提、林邑(ベトナム中部)の仏哲、唐僧鑑真らの外国人も、遣唐使船に便乗して来朝し、インド西域東南アジア文化を伝えた。

遣唐使船は日本人が唐へ往来するためだけではなく、外国人日本に招くためにも使われていたのです。「遣唐使」「鑑真」というのは中学生レベル用語です。しかし、この2つを結びつけて説明できる人は案外少ないんじゃないでしょうか?

ちなみに、山川の『日本史B用語集』によると、菩提僊那、仏哲という用語を載せている教科書は、唯一これだけみたいです。しか桐原書店は彼らの業績を説明するための註を設けている徹底ぶりです。入試問題になったら難問だと思いますが、大切なのはこういう人名を丸暗記することじゃなくて、東大寺大仏開眼供養会はインドベトナム出身僧侶たちも参加していた国際色のあるイベントだった、それは遣唐使船がもたらしてくれたものだということでしょう。

  

日本がしばしば新羅従属国として扱おうとしたため、両国関係はしばしば緊張した。しかし、日本遣唐使が唐において新羅人に助けられることもあった。」

これもこの教科書に独特の記述です。遣唐使新羅人に助けられたというのは、円仁著作『入唐求法巡礼行記』のことを念頭に置いているんでしょうか?

また、上掲の講談社日本の歴史シリーズから引用すると、次のような話もあります

遣唐使派遣が間遠になり、日本の船が唐まで行かないなか、それでも求法の念止みがたいとなれば、来航する新羅船を利用するしかない。そしてまた新羅商人たちは、概して好意的に彼らを助けたのであった(坂上早魚『九世紀の日唐交通新羅人』)。こうして入唐と研鑽を果たした天台真言の平安仏教旗手たちが、仏教の使命は鎮護国家にあるとする考えに則り、護国の修法による新羅調伏を担うことになったのは、実に皮肉なことであった。

  

坂上康俊『日本の歴史05巻 律令国家の転換と「日本」』

  

  

  

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

このころ唐では、みずから世界の中心とみなす中華思想が強まり、周辺の国々を夷狄として見下す考えが生まれていた。この考え方は日本にも影響をあたえ、朝廷新羅や、朝廷に服属しない東北九州南部の人びとを蝦夷隼人とよんで夷狄として蔑視しはじめた。

朝廷東北地方九州南部進出した経緯を説明する際、そこには中華思想の影響があったことを説明しています。それに絡めて新羅との関係にもちょこっと触れているので、先にとりあげた東大入試問題を解くときのヒントになるでしょう。

もっとも、この点はやはり、山川出版社新日本史B 改訂版』(日B018)の方が優れています。私が先に引用した箇所のすぐうしろ([後略]とした部分)では、朝廷が「東北地方蝦夷九州南部隼人異民族夷狄)として服従させ」たことを説明し、「律令国家が蛮夷を服属させる帝国であることを内外に示した」と結んでいるのです。

それに比べると、三省堂教科書は、遣唐使中華思想という2つのものを関連付けて理解することが不可能です。

  

  

  

東京書籍日本史B』(日B 004)

遣唐使8世紀には6回、9世紀には2回派遣され

実教出版にも「奈良時代遣唐使は6度派遣され」たとありますが、東京出版9世紀のことも記述していてグッド。

遣唐使は894年、菅原道真の建議で廃止されました。ですから9世紀末まで遣唐使派遣する制度は残っていたはずなんですが、8世紀と比べるとその回数がめちゃくちゃ減っていることが分かるでしょう。

理由は、日本がもはや唐から学ぶべき必要・意欲がなくなってきたこと、唐が政治的混乱に陥って衰退したことによる国威の低下、商船の往来が活発になったことで日本が唐に朝貢をしなくても舶来品を入手できるようになったこと、などです。

これがさっき桐原書店のところで述べた話にもつながっています時代が9世紀(すでに平安時代)になっても、仏教では唐に確固たる先進性がありました。だから日本僧侶たちは唐に留学することを熱望したのです。しか朝廷遣唐使派遣積極的ではなく、彼らは新羅商人の助力を得なければ、渡航が困難という状況だったのです。

  

[引用者注:702年の遣唐使派遣の再開について] その目的なかには、「日本」という国号を認めさせることも含まれていたと考えられる。

東京書籍教科書にだけある、この一文。「日本」がはじめて国際社会に登場したのがこの時点だったと言っているんです。

これ、すごいことを言っていますよ? 「日本」が太古の昔から存在したという皇国史観に対する強烈な一撃です。

ちなみに、このとき天皇」は国際デビューしていません。倭国はなんとかして「日本」への国号変更を唐に認めさせることはできても、皇帝にあたる「天皇」という称号を用いて唐と対等外交をする力がなかったのです。唐では天皇のことを「日本国王主明楽美御徳」(日本国王メラミコト)と呼んでいたようです。もしかしたら当時の日本朝廷内では、「スメラミコトは唐の皇帝に臣従したが、天皇は臣従していないか日本国王ではなく、したがって日本は唐の朝貢国ではない」という回りくどい官僚的答弁があったかもしれませんが、その点は不明です。このような高度に政治的問題は、国史編纂ときに巧妙な隠蔽がおこなわれるからです。(上掲の講談社日本の歴史シリーズ青木和夫著の中央公論社日本の歴史3巻 奈良の都』を参照せよ)

  

さて、これは東京書籍にかぎらず、多くの教科書でそうなのですが、古代史において「天皇」「日本」という表記を用いるときには慎重になっている様子がうかがえます。例えば白村江の戦いでは、唐・新羅と戦った国が「日本」ではなく、「倭」倭国」「朝廷」等の表記になっています

なぜ教科書がこんな表記になっているかというと、「天皇」「日本」という称号国号は、ある時期の特定政治状況のもと、人為的に作られたものからです。具体的には天武朝(673年~686年)のころ、大王とその国を神格化する目的で、初めてこれらの称号国号使用が開始されました。ですから、もし神と同一であるところのその「天皇」、その神のおさめる国である日本」が、天武朝より遥か昔から存在していたかのように記述するならば、それは皇国史観に他なりません。

無論、教科書では便宜的に仁徳天皇推古天皇というような表記が使われていますけど、古代史における「天皇」「日本」という表記の取り扱いについては一応注記が設けられていたりします。例えば『詳説日本史』は壬申の乱ののち、天武天皇が「強力な権力を手にし」て、「中央集権国家体制形成を進」めていく過程で、そのころに「大王にかわって「天皇」という称号が用いられる」ようになったと書いています。同社の参考書『詳説日本史研究』はそこがもっとクリティカルです。「大王から天皇へ」というコラムで、「天皇」という称号が天武朝に始まることの歴史学的な検証を載せ、唐の皇帝が一時「天皇」と称していたのを知った日本側が模倣したという説を紹介しています

こういう細かな表記へのこだわりからも、各社の教科書がどんな史観に基づいているかを見ることができるはずです。

2017-05-19

三一権実諍論(さんいちごんじつ の そうろん)は、平安時代初期の弘仁年(817年)前後から同12年(821年)頃にかけて行われた、法相宗僧侶・徳一(生没年不明)と日本天台宗の祖・最澄767年 - 822年)との間で行われた仏教宗論である。「一三権実論争」「三乗一乗権実諍論」「法華権実論争」などとも。

目次 [非表示]

1 概要

2 平安初期の仏教

2.1 法相宗と徳一

2.2 天台宗最澄

3 論争の経緯

3.1 論争の発端について

3.2 著作応酬

4 最澄激昂の理由

4.1 最澄孤立

4.2 南都教団への対抗

4.3 中傷者徳一に対する怒り

4.4 蝦夷征討との関係

5 その後

6 注・出典

7 関連項目

8 参考文献

概要[ソース編集]

「三一権実諍論」の「三一」とは、三乗一乗の教えのことであり、「権実」の諍論とは、どちらが「権」(方便真実理解させるための手がかりとなる仮の考え)で、どちらが「実」(真実の考え)であるかを争ったことを言う。一乗三乗の「乗」とは衆生を乗せて仏の悟りに導く乗り物であり、天台宗根本経典である法華経』では、一切衆生の悉皆成仏(どのような人も最終的には仏果(悟り)を得られる)を説く一乗説に立ち、それまでの経典にあった三乗一乗を導くための方便と称した。それに対し法相宗では、小乗声聞乗・縁覚乗)・大乗菩薩乗)の区別を重んじ、それぞれ悟りの境地が違うとする三乗説を説く。徳一は法相宗の五性すなわち声聞定性・縁覚定性・菩薩定性・不定性・無性の各別論と結びつけ、『法華経』にただ一乗のみありと説くのは、成仏の可能性のある不定性の二乗を導入するための方便であるとし、定性の二乗仏性の無い無性の衆生は、仏果を悟ることは絶対出来ないのであり、三乗の考えこ真実であると主張した。このように三乗一乗のいずれが真かをめぐり真っ向から対立する意見の衝突が行われた。

ただし、徳一と最澄の論争は三乗一乗の争いのみに留まらず、教判論(数ある経典の中で釈尊の考え方に最も近いものを問う)における法華経正統性を問うたものでもあるから「法華権実論争」と呼ぶべきとの考えもある[1]。この論争の間、最澄は『守護国界章』『法華秀句』など大部の著作執筆しており、これは徳一から批判への反論の書として書かれたものである。一方の徳一側の著書は、真言宗空海774年 - 835年)への論難である真言宗未決文』以外現存していないため、詳細は不明である。しかし、徳一の主張は最澄側の批判書に引用される形で部分的に残存しており、ある程度の復元が可能である

いずれにしろ論争は著作応酬という形式で行われ、実際に両者が顔を合わせて激論を交わしたということではない。

平安初期の仏教界[ソース編集]

奈良時代興隆したのは、法相宗華厳宗律宗などの南都六宗である本来南都六宗教学を論ずる宗派で、飛鳥時代後期から奈良時代にかけて日本に伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。天台宗は後述の如く最澄によって平安時代初期に伝えられたため、日本への伝来順は逆となったわけである

この時代日本における仏教は中国と同様、鎮護国家思想の下、国家の管理下で統制されており、年ごとに一定数の得度を許可する年分度者の制度施行され、原則として私度僧は認められていなかった。このことは逆に仏僧と国家権力が容易に結びつく原因ともなる。実際、奈良時代には玄昉(? - 746年)や道鏡(700年 - 772年)など、天皇の側近として政治分野に介入する僧侶も現れていた。桓武天皇737年 - 806年)が平城京から長岡京平安京遷都した背景には、政治への介入著しい南都仏教寺院の影響を避ける目的もあったとされる。新王朝の建設意識していた桓武天皇にとって、新たな鎮護国家宗教として最澄天台宗に注目・支援することで従前の南都仏教牽制する意図もあった。

法相宗と徳一[ソース編集]

日本での法相宗は、南都六宗の一つとして、入唐求法僧により数次にわたって伝えられている。白雉4年(653年)道昭(629年 - 700年)が入唐留学して玄奘三蔵(602年 - 664年)に師事し、帰国飛鳥法興寺でこれを広めた。

徳一は一説には藤原仲麻呂恵美押勝とも。706年 - 764年の子といわれるが疑わしい[2]。はじめ興福寺および東大寺で修円に学び、20歳代の頃に東国へ下った。東国布教に努め、筑波山中禅寺(茨城県つくば市)・会津恵日寺(福島県耶麻郡磐梯町)などを創建したという。

前述のごとく、徳一の著作ほとんど現存していないため、その生涯は不明な点が多い。

天台宗最澄[ソース編集]

天台宗は法華円宗、天台法華宗などとも呼ばれ、隋の智顗(538年 - 597年)を開祖とする大乗仏教の宗派である。智顗は『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の天台三大部を著して、『法華経』を根本経典とし、五時八教(仏教理解度の5段階に合わせて記された経典のうち、法華経を到達点とする)の教相判釈(経典成立論)を説く。

最澄ははじめ東大寺で具足戒を受けたが、比叡山に籠もり、12年間山林修業を行った。さらにそれまで日本に招来された大量の仏典を書写し研究する中で、南都六宗の背景にある天台教義の真髄を学ぶ必要を感じ始め、親交のあった和気氏を通じて桓武天皇天台宗学習ならびに経典の招来のための唐へ留学僧の派遣を願い出た。これを受け、桓武天皇最澄本人が還学僧(短期留学の僧)として渡唐するように命じた。こうして延暦24年805年)の遣唐使船で最澄は入唐を果たす。予定通り天台山にのぼり、台州龍興寺において道邃(天台宗第七祖。生没年不明)より天台教学を学び、円教(天台宗)の菩薩戒を受けて、翌年(806年帰国した。

帰国後、最澄桓武天皇に対し従来の六宗に加え、新たに法華宗を独立した宗派として公認されるよう奏請、天皇没後には年分度者の新しい割当を申請し、南都六宗と並んで天台宗の2名(遮那業・止観業各1名)を加えることを要請した。これらが朝廷に認められ、天台宗正式に宗派として確立。これが日本における天台宗のはじまりである最澄さらに同じく入唐した空海師事して、密教への理解を深める一方、六所宝塔院(比叡山寺(後の延暦寺)を中心とする)の造立計画を立て、弘仁5年(814年)には九州へ、同8年には東国へ赴くなど精力的に活動する。最澄の悲願は大乗戒壇設立であり、大乗戒を授けた者を天台宗菩薩僧と認め、12年間比叡山に籠って修行させるという構想によって、律宗鑑真(688年 - 763年)がもたらした小乗戒の戒壇院を独占する南都仏教既得権益との対立を深めていた。

論争の経緯[ソース編集]

論争の発端について[ソース編集]

論争の発端となったのは徳一が著した『仏性抄』であるとされる[3]。この書における一乗批判法華経批判に対して最澄が著したのが『照権実鏡』であり、ここから両者の論争が始まった。

ただし、そもそも徳一が『仏性抄』で論難したのは中央仏教界の最澄ではなく、東国活動していた道忠(生没年不明)とその教団であったとする説がある[4]。道忠は最澄が入唐前の延暦16年以降、あらゆる経典の写経を行った際、東国からはるばる駆けつけて2000巻もの助写をしたほど親交があり、東国における最澄の盟友的存在であった。道忠自身鑑真弟子で、律宗僧侶であったが、戒壇が設けられた下野薬師寺との関連か[5]東国に住し、広く弟子を持つ僧侶であった。最澄東国へ下った際には、すでに道忠は没した後で教団は広智(生没年不明)が率いる状態であったが、後に天台座主となった円澄(771年 - 836年)や円仁794年 - 864年)・安慧(794年 - 868年)らは、もともと道忠の弟子もしくは孫弟子(広智の弟子)であり、道忠との縁から最澄に入門したなど、道忠は初期の天台教団の中で、非常に重要役割果たしていた存在であった[6]。

筑波山を開山し、会津拠点とした徳一が標的としたのは、むしろ地理的東国において布教を行っていた道忠教団であった可能性が高い。徳一の『仏性抄』の存在最澄に知らせたのも道忠教団であったと見られる[7]が、異論もある[8]。

著作応酬[ソース編集]

三一権実諍論に関する著作としては、

≪徳一側著作

『法華肝心』2巻

『法華権文』1巻

『中辺義鏡』20巻

『慧日羽足』3巻

『遮異見章』3巻

『義鏡要略』7巻?

法相了義灯』11巻

『通破四教章』1巻

最澄著作

『照権実鏡』1巻

『依憑天台集』1巻

守護国界章』9巻

『決権実論』1巻

『通六九証破比量文』1巻

『法華秀句』5巻

などが挙げられる[9]。論争の主要な流れとしては、

徳一の『仏性抄』(成立年不詳)に対し、最澄が『照権実鏡』(弘仁8年(817年)成立)で反論

徳一の『中辺義鏡』『慧日羽足』に対し、最澄が『守護国界章』(弘仁9年(818年)成立)で反論

最終的な結論として、最澄が『法華秀句』(弘仁12年(821年)成立)を著す。

となっている。なお諍論の前期において、最澄が『照権実鏡』で徳一の『仏性抄』を批判したのに対し、徳一の『中辺義鏡』では最澄反論に全く答えていない。そのため『中辺義鏡』の批判対象としては、書名のみ残っている最澄の著書『一乗義集』ではないかとする説[10]、もしくは道忠教団によって書かれたと思われる『天台法華義』とでも称すべき書であったとする説がある[11]。続いて『守護国界章』下巻における三一権実論に対する徳一の反論として『遮異見章』『慧日羽足』が書かれたと思われ、それに対して最澄が『決権実論』で反論結論の書として『法華秀句』を撰述したと見られる[12]。

一連の論争の内容は難解で、一乗三乗の権実のみならず、教判論における法華経天台三大部の正当性、天竺・震旦の先哲による教義解釈の是非など広範囲に及ぶ。しかし一方では、最澄の教法に対する価値論に対し徳一は仏法理解先天的素質論を述べており、両者の論争の焦点があまり噛み合っておらず、議論のものも詳細というよりは瑣末的であり、時折相手側への罵倒に近い表現も見られる(後述)など、すれ違いの印象も与えている。

天台宗側では『法華秀句』の成立をもって論争の終結とする(翌年に最澄は入寂)。論争の歴史を天竺や中国の仏教史まで遡って述べたもので、『法華秀句』の書名は、智顗による天台三大部の『法華文句』を意識したものと思われ、最澄の論争決着への決意が現れている。ただし、これは最澄側の一方的な論争打ち切りであり、徳一側からは決着がついていないとも言える[13]。なお徳一は天台宗のみならず密教に対しても問題視していたと見られ、真言宗空海に対しても『真言宗未決文』で批判している(なお、これが徳一の著作として現存する唯一の史料である)。

最澄激昂の理由[ソース編集]

下記は、取り立てて、最澄の書き物に怒りは表明されていないが、法相宗派の学者の何人かは、そのようにとらえているようである。その理由をあえて挙げるとすれば、次の事柄をあげられるが、これも、特にここに特記すべきほどのことではない。参考までに、法相宗派側の意見を以下に述べる。 最澄は、しばしば非常に激烈な表現を用いて論敵を攻撃しており、たとえば『守護国界章』において最澄は、非難の対象である徳一のことを「麁食者(そじきしゃ。粗末な食べ方をする者、半可通のこと)」「謗法者(ほうぼうしゃ。賢しらに法を曲げる者)」「北轅者(ほくえんしゃ。南に行こうとして牛車・馬車の轅(ながえ)を北に向ける者。方角もわきまえぬ者)」などの蔑称で呼び、本名の徳一で呼ぶことは一切ない。どちらかといえば秀才肌で生真面目な感のある[14]最澄が、これほどまでに攻撃的な姿勢で論争に臨んだ背景として、いくつかの原因が考えられる。

最澄孤立[ソース編集]

最澄は入唐求法から帰国する直前、越州に寄り、密教を龍興寺の順暁(密教の法灯においては傍流に属する。生没年不明)に学び、灌頂を受けている。帰国後も最澄の密教への関心は高く、自身より年少で僧としての地位も低いながら、正統的な密教を学んで帰国した空海師事することになる。

最澄と同じく804年の遣唐使で入唐した空海は、真言八祖の一人恵果(746年 - 806年から正統的な密教を学び、大量の経典・法具を携え、最澄よりやや遅れて大同元年806年)に帰国していた。最澄空海の招来した仏典を借り受けて密教を本格的に学びはじめ、弘仁3年(812年)には弟子の泰範(778年 - ?)らとともに空海高雄山寺において灌頂を受け、正式空海弟子となっている。さらに泰範らを空海の下に派遣して密教の奥義を学ばせようとしていた。

しかし、弘仁4年(813年)最澄が『理趣釈経』(『理趣経』の解釈書)の借用を空海に申し出たところ、空海が密教の真髄は文章修行ではなく実践によってのみ得られるとして拒絶したため、両者の仲は悪化する。さら最愛弟子であった泰範が、最澄の再三の求めにもかかわらず比叡山への帰還を拒み、空海の下での修行を望んだことなどが重なり、両者は義絶するに至った。真言宗側では、これをさかんに吹聴するが、『理趣釈経』は、いわば、後世、淫靡宗教と結びついたものであり、空海がそれを見せたがらなかったのは、故あることであったようである。つまり密輸入書物とも言えるものであり、かえって、見ないほうがよかったのではないかと思われている。

天台宗に密教の要素を取り入れ、新たな宗派としての地位を高めようとしていた最澄にとって、泰範・空海との訣別により孤立感が深まったことで、南都諸宗に対してより敵対的姿勢に駆り立てられたともいわれる[15]。なお天台宗最澄の死後、本格的に密教化することになる(→台密)。

南都教団への対抗[ソース編集]

最澄が論争相手とした徳一自身は、若年から東国拠点を移して活動していた地方僧であったものの、彼が所属する法相宗自体は、当時の仏教界においては主流である南都六宗の中心であった。後世に天台宗の方が興隆していったため、三一権実諍論全体としては、新興宗派の総帥である最澄が、古い法相宗代表する徳一を退けたという印象が残るが、実際には当時においては法相宗の方が主流派に属していたのであり、最澄はむしろ挑戦者であった[16]。前述のごとく年分度者の割当を勝ち取り、大乗戒壇設立など、天台宗確立して南都仏教に対抗しようとする最澄にとって、法相宗理論である徳一を説き伏せることは、天台宗南都六宗への優位を示すことにも繋がるため、より攻撃的になったと、現代法相宗派の学者は考えている。

中傷者徳一に対する怒り[ソース編集]

徳一の『仏性抄』は最澄にとって看過しがたい法華経批判の書であり、この法敵に猛反論しなければ自宗の存在意義のものが危うくなる。しかしまた徳一にとっても、天台法華宗や密教の擡頭は、彼自身の属する法相宗にとっても、また従前の仏教体制秩序にとっても、異端なのであって、これを徹底的に論破しておく必要があった。徳一は『中辺義鏡』において法華教説や最澄に対して「凡人臆説」「顛狂人」「愚夫」などと悪し様に罵倒している[17]。最澄が『守護国界章』で徳一を「麁食者」「北轅者」と呼んだのはこれに呼応するものであり、互いに自宗派の存在意義をかけた真剣な論争であったがゆえに、ともに中傷めいた表現までもが用いられたともいえる。

蝦夷征討との関係[ソース編集]

宮原武夫(1933年-)は最澄と徳一の論争がここまで大きくなったのは、最澄が当時の朝廷が進めていた蝦夷征討に徳一が「非協力」的とみなしていた政治的問題にあったとする説を唱えている。

最澄東国に下った際に活動拠点としていたのは亡き道忠が活動拠点としていた下野国と隣の上野国であったが、両国は当時朝廷が推奨していた蝦夷征討の兵站基地となっており、更に下野上野両国から陸奥出羽両国に対しては国司から課役を逃れるための逃亡や朝廷による移住政策によって多くの人々が移り住んでいた[18]。蝦夷討伐には徳一の法相宗を含めた南都六宗東国鹿島神宮香取神宮も征討の成功を祈願したり、寺院神社を建立するなどの積極的な協力を行ってきた[19]。朝廷から天台宗公認を得たばかりの最澄東国における蝦夷征討を巡る様々な動きに直面して関心をもったと考えられ、この時の最澄東国行きに随行した弟子円仁下野出身)も立石寺など東北から北関東にかけて多数の天台宗寺院が建立したと伝えられており、最澄とその門人は下野上野両国を足掛かりに奥羽の人々に対する教化を進めようとしたとみられる[20]。

これに対して徳一の方は会津地方から越後方面への布教活動を進めており、蝦夷征討への協力や蝦夷がいる会津以北の奥羽への布教を示す史料は残されていない。宮原最澄は『決権実論』の中で「北轅者常に迷ひて、分明の文を指さしめ、南、越の方に向はしむ」と記しているが、これは自分達や南都六宗と違い、蝦夷征討に対して祈祷<

円仁(えんにん、延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日(864年2月24日))は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。 入唐八家(最澄空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれ出自壬生氏。

目次 [非表示]

1 円仁人物

2 遣唐使の渡海の困難

3 天台山を目指すが…

4 在唐新羅社会の助け

5 五台山巡礼

6 長安への求法

7 帰国の旅の苦難

8 関連文献

9 脚注

10 関連項目

11 外部リンク

円仁人物像[編集]

794年延暦13年)下野国都賀壬生町現在壬生寺)に豪族壬生氏(壬生君:毛野氏一族)の壬生首麻呂の子として生まれる。兄の秋主から儒学を勧められるが早くから仏教に心を寄せ、9歳で大慈寺に入って修行を始める。大慈寺の師・広智は鑑真の直弟子道忠の弟子であるが、道忠は早くから最澄理解者であって、多くの弟子最澄師事させている。

※生誕地については

美加保ノ関(藤岡町三鴨の都賀字館)

手洗窪(岩舟町下津原

壬生寺壬生町

などの説があり、順徳天皇撰による「八雲御抄」では、みかほの関、みかほノ山での誕生が記されている。

また、美加保乃関は万葉集歌人によって和歌も詠まれており

下つ毛野 みかもノ山の越奈良の須 目ぐはし頃は 多が家かもたむ

あずま路の 人に問はばや みかもなる 関にもかくや 花は匂うと

石ふまぬ 安蘇の川原に 行き暮れて みかほの関に 今日やとまら

下野や 安蘇の川原に 行きくれば みかもの崎に 宿をかりなん

この他、近くにある円仁ゆかりの安蘇の川原は、みかほの関を沼越しに眺める名所として多くの和歌が詠まれている。

安蘇山の麓に生まれたという説では、慈覚大師円仁の出生については「桓武天皇延暦13年、廣智菩薩大慈寺住職とき南方に紫雲がたなびき、尋ねていくと安蘇山麓現在の三毳山のふもと岩舟町下津原手洗窪)…下津原の手洗窪は「慈覚大師誕生の地」として栃木市史跡指定されている。

15歳のとき、唐より最澄帰国して比叡山延暦寺を開いたと聞くとすぐに比叡山に向かい最澄師事する。奈良仏教の反撃と真言密教興隆という二重の障壁の中で天台宗確立に立ち向かう師最澄に忠実に仕え、学問修行に専念して師から深く愛される。最澄が止観(法華経注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁ひとりであった。

814年(弘仁5年)、言試(国家試験)に合格、翌年得度出家)する(21歳)。816年(弘仁7年)、三戒壇の一つ東大寺で具足戒(小乗250戒)を受ける(23歳)。この年、師最澄東国巡遊に従って故郷下野を訪れる。最澄のこの旅行は、新しく立てた天台宗の法華一乗の教えを全国に広める為、全国に6箇所を選んでそこに宝塔を建て、一千部八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地としようとするものであった。817年(弘仁8年)3月6日大乗戒を教授師として諸弟子に授けるとともに自らも大乗戒を受ける。

性は円満にして温雅、眉の太い人であったと言われる。浄土宗開祖法然は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったという。

遣唐使の渡海の困難[編集]

836年(承和2年)、1回目の渡航失敗、翌837年(承和3年)、2回目の渡航を試みたが失敗した。838年(承和5年)6月13日博多津を出港。『入唐求法巡礼行記』をこの日から記し始める。志賀島から揚州東梁豊村まで8日間で無事渡海する(しかし「四つの船」のうち1艘は遭難している)。円仁の乗った船は助かったものの、船のコントロールが利かず渚に乗り上げてしまい、円仁はずぶ濡れ、船は全壊するという形での上陸だった(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

上陸である唐の開成4年7月2日日本の承和5年7月2日と日付が一致していた。唐と日本で同じ暦を使っているのだから当然ではあるが、異国でも日付が全く同じであることに改めて感動している(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

天台山を目指すが…[編集]

最後遣唐使として唐に留学するが、もともと請益僧(入唐僧(唐への留学僧)のうち、短期のもの)であったため目指す天台山へは旅行許可下りず(短期の入唐僧のため日程的に無理と判断されたか)、空しく帰国せねばならない事態に陥った。唐への留住を唐皇帝に何度も願い出るが認められない。そこで円仁遣唐使一行と離れて危険を冒して不法在唐を決意する(外国人僧の滞在には唐皇帝勅許必要)。天台山にいた最澄の姿を童子(子供)の時に見ていたという若い天台僧敬文が、天台山からはるばる円仁を訪ねてきた。日本から高僧が揚州に来ているという情報を得て、懐かしく思って訪れて来たのだという。唐滞在中の円仁の世話を何かと見てくれるようになる。海州東海県で遣唐大使一行から離れ、一夜を過ごすも村人たちに不審な僧だと警戒され(中国語通じず、「自分新羅僧だ」と主張しているが新羅言葉でもないようだ、怪しい僧だ)、役所に突き出されてしまう。再び遣唐大使一行のところに連れ戻されてしまった(『行記』839年(開成4年)4月10日条)。

在唐新羅社会の助け[編集]

当時、中国山東半島沿岸一帯は張宝高をはじめとする多くの新羅人海商が活躍していたが、山東半島新羅人の港町・赤山浦の在唐新羅社会の助けを借りて唐残留成功不法在留者でありながら通行許可証を得る等)する。遣唐使一行から離れ、寄寓していた張宝設立の赤山法華院で聖林という新羅から天台山の代わりに五台山を紹介され、天台山はあきらめたが五台山という新たな目標を見出す。春を待って五台山までの約1270キロメートルを歩く(『行記』840年(開成5年)2月19日4月28日の58日間)。

五台山巡礼[編集]

840年、五台山巡礼する。標高3000mを超す最高峰の北台にも登山する(47歳)。五台山では、長老の志遠から「遠い国からよく来てくれた」と温かく迎えられる(『行記』840年(開成5年)4月28日条)。五台山を訪れた2人目の日本人だという(1人目は、最澄とともに入唐し、帰国せず五台山客死した霊仙三蔵)。法華経密教整合性に関する未解決問題など「未決三十条」の解答を得、日本にまだ伝来していなかった五台山所蔵の仏典37巻を書写する。また、南台の霧深い山中で「聖燈」(ブロッケン現象か。『行記』840年5月22日条、6月21日条、7月2日条)などの奇瑞を多数目撃し、文殊菩薩の示現に違いないと信仰を新たにする。

長安への求法[編集]

当時世界最大の都市にして最先端文化の発信地でもあった長安へ行くことを決意し、五台山から1100キロメートルを徒歩旅行する(53日間)。その際、大興善寺の元政和尚から灌頂を受け、金剛界大法を授き、青竜寺の義真からも灌頂を受け、胎蔵界・盧遮那経大法と蘇悉地大法を授く。また、金剛界曼荼羅長安絵師・王恵に代価6千文で描かせる。

台密にまだなかった念願の金剛界曼荼羅を得たこの晩、今は亡き最澄が夢に現れた。曼荼羅を手に取りながら涙ながらに大変喜んでくれた。円仁は師の最澄を拝しようとしたが、最澄はそれを制して逆に弟子円仁を深く拝したという(『行記』840年10月29日条)。描かせていた曼荼羅が完成する(『行記』840年(開成5年)12月22日条)。

しばらくして、唐朝帰国を百余度も願い出るが拒否される(会昌元年8月7日最初)が、その間入唐以来5年間余りを共に過して来た愛弟子・惟暁を失う(『行記』843年(会昌3年)7月25日条。享年32)。また、サンスクリット語を学び、仏典を多数書写した。長安を去る時には423部・合計559巻を持っていた(『入唐新求聖教目録』)。そして、842年(会昌2年)10月、会昌の廃仏に遭い、外国人僧の国外追放という予期せぬ形で、帰国が叶った(会昌5年2月)。

帰国の旅の苦難[編集]

当時の長安の情勢は、唐の衰退も相まって騒然としていた。治安悪化不審火も相次いでいた。その長安の街を夜半に発ったが(曼荼羅や膨大な経巻を無事に持ち帰るため)、夜にもかかわらず多くの長安住人の送別を受けた。送別人の多くは、唐高官の仏教徒李元佐のほか、僧侶及び円仁長安暮らしを支えた長安在留新羅人たちが主であった。餞けとして絹12丈(30m余)を贈ってくれた新羅人もいた(845年(会昌5年)5月15日)。歩くこと107日間、山東半島新羅人の町・赤山まで歩いて戻った[注 1]。

この際、新羅人の唐役人にして張宝高の部下の将・張詠が円仁のために唐政府の公金で帰国船を建造してくれたが、密告に遭い、この船では帰れなくなる。

円仁が無事生きている」という情報日本に伝わっていたらしく、比叡山から弟子の性海が円仁を迎えに唐にやってきて、師と再会を遂げる。楚州の新羅人約語(通訳のこと)劉慎言に帰国の便船探しを頼み(彼は新羅語・唐語・日本語を操れるトライリンガルであった)、彼の見つけた新羅商人金珍の貿易船に便乗して帰国する。円仁は劉慎言に沙金弐両と大坂腰帯を贈っている。朝鮮半島沿岸を進みながらの90日間の船旅であった。新羅船は小型だが高速で堅牢であることに驚いている。博多津に到着し、鴻臚館に入った(『行記』847年(承和14年)9月19日条)。日本政府円仁を無事連れ帰ってきた金珍ら新羅商人に十分に報酬を報いるように太政官符を発し、ここで9年6ヶ月に及んだ日記『入唐求法巡礼行記』(全4巻)の筆を擱いている(『行記』847年(承和14年)12月14日条)。54歳。

この9年6ヶ月に及ぶ求法の旅の間、書き綴った日記が『入唐求法巡礼行記』で、これは日本人による最初の本格的旅行記であり、時の皇帝、武宗による仏教弾圧である会昌の廃仏の様子を生々しく伝えるものとして歴史資料としても高く評価されている(エドウィン・ライシャワー研究により欧米でも知られるようになる)。巡礼行記によると円仁は一日約40kmを徒歩で移動していたという。

目黒不動として知られる瀧泉寺や、山形市にある立石寺松島瑞巌寺を開いたと言われる。慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされ、浅草浅草寺もそのひとつ岩舟町観光協会HP)。このほか北海道にも存在する。

後に円仁派は山門派と称された。(円珍派は寺門派、両者は長期にわたり対立関係になった)。

2016-03-21

大阪で何を観光するの?

普段の買い物とか飲み会とかならまだ分かるんだけど

大阪って大阪城USJぐらいしか行くとこ無いと思うんだけどな.

百歩譲って万博記念公園とか?でもわざわざ行くとこか?

一方で京都はもちろん,奈良だって東大寺法隆寺春日大社吉野かいっぱい行くとこあるし

神戸だったらポートタワー周辺・異人館有馬温泉明石大橋神戸じゃないけど)・姫路城姫路なっちゃうけど)とか

大阪より周辺の方が断然観光に充実してると思うんだけどな

大阪に泊まって周辺を旅行ってのなら分かるけど,どうもそうじゃないみたいだし

みんな大阪の何を観光してんのか分からん

2016-02-16

関西人からすると奈良という土地を有難がる奴はセンスない

奈良東大寺千葉ディズニーみたいなもん、

それスポイルしたらコンビニすらろくにない

いや、マンネリに陥らないよう企業努力を重ねているTDL

ちゃんとベットタウンとして機能している千葉県と比べたら駄目だよな

宗教文化的価値は計り知れないが観光資源だとすると微妙な部類だと思う

東大寺面白い物は全部未公開だからな、仕方ないけど

さすがに国立博物館とかすごいと思うし

仏像好きだから薬師寺とか法隆寺とかスポット単体なら行きたいとも思うけど

奈良という土地自体に魅力は感じないんだよな、街として密度が低いもん

自然が残ってるといえば聞こえはいいけど鉄道全然通ってないしさ

奈良の寺一通り回って「大仏でけー」で満足なら鎌倉でもいいと思うんだがね

こじんまりとしていても滋賀の方がまだ見所ある気がするわ

京都大阪魔法の国かなんかと勘違いして具体的にどこ行くかも決めず

「なんか普通じゃね?幻滅した」という具合にほざいてる輩は

黙って1泊2日の"小京都"金沢旅行にでも行くかずっと映画村に留まるかすればいいんだ

異国情緒を求めて海外に行く人すら今は減ってきてるんだぜ?

ノスタルジックな物を期待して地方に来る人なんて田舎神聖視してる視野の狭い馬鹿みたいじゃないか

2015-02-04

実は日本に超進学校は1校しか存在しない。

http://anond.hatelabo.jp/20150203184747

開成

筑駒麻布東大寺進学校ではない。

その他の学校に超を名乗る気概も実績もない。

2015-01-24

大富豪は将来文化財になるような豪邸を建てろ!

★昔の権力者や寺社が建てた建物は、その後歴史教科書に載って、テストになって小中高生を苦しめる。

 法隆寺東大寺平等院金閣銀閣日光東照宮など。

 200年後とか300年後の歴史テストでは「霞が関ビル」「六本木ヒルズ」「広尾ガーデンヒルズ」とか出題される?

 また、時の権力者の私邸も、数百年もすれば観光名所になり、史跡指定されたり重文扱いされたりする。

 なので、「孫正義の私邸」「ユニクロ柳井の私邸」「三木谷の私邸」って、

 100年200年もすれば重要文化財となり、入場料を取って公開されているかもしれない。

 言い方を変えれば、孫正義とか、ユニクロ柳井とかの「オーナー経営者」、数百億円数千億円の資産を貯めた人は、

 後世から重要文化財だ」と評価されるような豪邸を建てなきゃ、歴史的存在価値が問われる

★「源氏物語」とか「枕草子」とか、日本古典文学を今の小中高生必死になって学習しているが、

 これも当時のウルトラエリート間、超金持ち同士の文化学習なんだよな。

 今で言えば孫正義三木谷の間のメールのやり取りを、数百年後の受験生が解いている、的な

 でも、200年後の受験生は、孫正義三木谷間のメールのやり取りよりも、

 マイルドヤンキー間のやり取り記録とかを学習していそうな悪寒

 エグザイルがうんたらかんたら、てな内容

★そう考えると、今のパワーエリートたちの、「後世へ文化を残す能力」は、

 1000年前と比較すると大幅に衰えているんだろうなあ。

 この辺を嘆いて、渡部昇一は「日本社会もっと格差化しないと、文化が残せない」と言ってたわけだ

オーナー企業御曹司、例えば大王製紙御曹司なんかだと、別に親父の会社入社して働かなくても、

 一生遊んで暮らせる財産があるんだから、そういう御曹司は働かずに豪遊して、むしろ文化」を後世に遺してくれた方がいいんだが。

 それこそ、私財を投じて巨大カジノでも作れば、200年後に名が残る

 お隣の韓国などは、オーナー企業御曹司会社世襲しているのですが、御曹司自らモーレツに働いている。

 サムスン御曹司大韓航空御曹司も。

 韓国財閥御曹司のうち1人くらい、会社役員にならずに、成人してから数十年間豪遊しまくって「文化」を残してほしい

 その点、ヨーロッパ辺りの富豪の中には、一生働かずにモナコ辺りで豪遊する人生を謳歌する貴族もいる。

 そして、一生豪遊を許容するヨーロッパ文化がある。

 そういう社会から、いろいろな文化が醸成される

 自分は「40歳代にして累積5億円稼いだような人」や「40歳代にして親から遺産2億円相続したような人」に対して

 「いい加減働くのを止めて、人生エンジョイしようよ」と(ツイッター上で)早期リタイアを勧めているのだが、

 それは、彼らに「文化」を創って欲しいからであります

2014-12-03

日経が『私の履歴書』の人選手抜きしたので購読やめる。萩本欽一なんてペラいの出すなよ(憤懣)

2014年ね。

1月小澤征爾指揮者

市川猿翁(二代目)(歌舞伎俳優

岡村正東芝相談役

豊田章一郎トヨタ自動車名誉会長

トム・ワトソンプロゴルファー

福地茂雄(アサヒグループホールディングス相談役

タン・タタ(タタ・グループ名誉会長

森本公誠(東大寺長老

ジャンクロード・トリシェ(前欧州中央銀行総裁

植田紳爾宝塚歌劇団名誉理事

坂根正弘コマツ相談役

12月 萩本欽一コメディアン) ← なんなのココ??年末年始適当お茶を濁したいの?

12月がクソになるのだろうか?ならば調べてみる。

2001年-2014年

藤田喬平(ガラス造形家)

根本二郎(日本郵船会長

山本富士子女優

今村昌平映画監督

河野洋平衆議院議長

片山九郎右衛門(能楽師

渡辺恒雄読売新聞主筆

森光子女優

小宮隆太郎経済学者

津本陽作家

ウィリアム・J・ペリー(元米国防長官)

九代目・松本幸四郎歌舞伎俳優

森喜朗元首相)

フィリップコトラーマーケティング学者

2014 萩本欽一コメディアン) ← やっぱりダントツでクソやん

何十年か経過して文化欄の『私の履歴書』欄が芸人ばかりで埋まったらくさいので、解約してきます

だって、何十年後かに、私の履歴書-極楽とんぼ-とか読みたくないでしょ?

日本経済新聞社購読センター 0120-21-4946

今すぐ電話

2014-10-06

大学中退で職歴無しで世間知らずの私が初めてアルバイトをしてみた話。

大学中退で職歴無しで世間知らずの私が初めてアルバイトをしてみた話。

・どれくらい世間知らずであるかについて(ここから読みとばし推奨)

小1までは呉に住んでた。近くに住んでた女の子毎日一緒に学校に行ってたと思う。

小2の時は大阪市引っ越し。転入生は私以外に2人いて一人は中国から来た女の子で、もう一人はアメリカから来た男の子

この女の子おんぶしてもらったりとかしてもらったことがあったけど周りの大阪の子は男女がおかしい!みたいな目をしてたと思うけど当時の私は、なにがおかしいのかなぁって感じていたと思う。

またこの男の子の方は私と一番仲良くなった人であったが、その後中学受験塾の公開テスト総合1位を連発してN中トップ合格している。

彼の存在小学生の私の中では比較する対象としてすごく存在感のあった存在であったと思う。

小3でも無駄大阪市内で転校した。当時も少子化が言われる中であったが3番目の小学校は1学年156人いた。

私は中学受験塾に通うようになって、塾で算数は1位で国語はビリをくりかえした。

その小学校から大阪星光に合格した人が8人いて(うち4人が進学)東大寺に3人が合格してて他は省略。公立小学校から3人以上が同じ私立中高一貫に行くのはうちの小学校だけかと思う(すごくどうでもいい話をした)

中学デビューとか無理だよって話にしようかと思ったけど元々中学受験で一緒だった人が大量にいるので関係なかった。

その後いろいろあって、中学で学年ビリで追い出されて高校受験して兵庫高校

兵庫高校で学年ビリのまま3年で追い出されて、1年間の空白の後に東京工業大学入ったけどそのまま学年ビリを6年続けてやっと中退した。

大学卒業して、いい環境で育ったんだねと思われるのだけは嫌だしそんなの耐えられないので、すごくめでたいと思っています

大学進学率は知識としては100%ではないことくらい知っていますが、自分の周りだけで言えば100%なので、大卒ではないという世界を全く知らない。

親は医師であり、親子関係は死んでいるが経済的な繋がりだけはあって、スーツ等も含め、私は未だに自分で服を買ったことがない。

私が初めてはてなダイアリーを見てたのは同世代情報オリンピックに出てた麻布の人とかの日記でした。

学歴が全く関係のないアルバイトとは一生無縁の人も世の中には存在するわけで、経済的環境だけで言えばそういう環境にいた。

でも、親ではなくてお手伝いさんとかに育てられる方がまだましだと思う。

親は子どもと全くコミュニケーションできていないのに、親はそう思ってない状態が一番子供を苦しめるのだ。

ずっと親を殺すか殺さないかの状態だった私の中学時代はなんだったのか。

理不尽な扱いを受け、涙まみれにしたチラシの裏紙は何枚生産しただろうか……。

たまたまさなかっただけなのに。東大寺の子は親を殺したけど、私はたまたまさなかったってだけの未来なのだマンションだし。

(読みとばしここまで)


仕事の選定~面接電話


私は親との会話が死んでいると思っているけど、親はそうは思っていないので、そういう。

会話は相手の認識を信用できないと成り立たないのだけど、一切認識が信用できない関係である認識が違うのがつらい。住んでる世界言語も違う

私であれば私に投資するのであれば小学生の時から呼吸つらいって体が言ってるので病院につれていくけど、

困ったことに中学生の時に私が殺したいと思ってた親は医者なのだ面白い

親がなんでそれで満足できるのか全く理解できないけど、親が満足なのであれば子供としては親の満足に従うように体ができてるというか。

私も小学生算数教えたいだとかは言ってはいるが、だいたい否定されるので(絶対やりたいわけでもないしそれ以上は言わない)

(また増田に何度か書いたものは親に送ったメールなのだけど、何が言いたいの?って反応しか得られないので信じられない)

自分が親だったら子供が考えてることを知りたいと思うのだけど、なんで全く興味がないの?信じられない。ただそれだけなのだけど。)

子供なんて親のおもちゃなんでしょ。大学卒業したらそれで満足だったんでしょ。私がずっと親を殺したいと思ってたことくらい知ってるでしょ?なんで親はまだ生きていられるの?)

よく新聞とかに入ってる求人情報から適当に選ぶ。別にどれでもいいよ。どれでもいいでしょ。

公共機関である日本郵便なら変なことはないだろう的な。

面接の予約のための電話をする。電話とても苦手。メールがいい


面接

学歴不問であったし、奴隷ロボットのように働きますという振る舞いをすれば落とす理由がないよね。

応募した時間帯は昼~夜であったが、深夜で間違いありませんか、と聞いてきたのでそこだけは否定した(ちゃんと否定できるかを見たかったのだと解釈している)

あとははいはいはいはいって言うだけだった。志望理由も、働く必要があるため、程度にした。そんなにアピールする必要もないであろう。

不採用にした方がお互いにとって幸せだったと思うし、採用は誰も幸せにならないようにも思うけど。

最後に軽いテストがあって、紙に数字がバラバラに印刷されていて、1から順番に○をつけていって制限時間以内にどれだけできるか、で著しく適性のない人を落とす理由にするためのものであると思うが、数字の数はそんなに多くなくて、順番無視して全部○をつけようかなとも思ったりはしたけど、全部○ついてたところで特に誰も幸せにならないのでふつうにやった。

(私から面接官の手元が見えないように机の上についたてがあったので、面接からも私の手元は見えない)


研修

業務上横領郵便法違反等の犯罪をしたら一生後悔しますよとかのビデオを長々と見させられたりする。

時間やってて4時間後にテストやって丸付け。問題文読めば○つけて下さいか×をつけて下さいってはじめから書いてあるようなやつ。

信書秘密は退社後もだけど「これひっかかったひといるでしょ」→ひっかかるとかいレベルじゃないと思うのだけど、なんで手を挙げている人が複数人いたのか全く理解したくない。

自分最前列に座りながらも寝不足でずっとあくび連発しててあまり後ろ覚えてないけど。

解釈はするもので、テストかい問題作成者とのコミュニケーションに慣れているか慣れていないかの環境の違いだと思うけども。



仕事を通して思ったこと。

まず所属ゆうパック。私個人に関して言えば使ったことがないのだけど、全国にある郵便局で30キロ以下の荷物が集められる。小さな郵便局で集まられたものは大きなところに集めて、そこで100通りくらいに区分して全国に配る。一番大きなハブ新東京郵便局新大阪郵便局で、全国に飛ばすのは100通りくらいあって、もちろん東京にも大阪にもその地域に配るものもあって。

まず従業員正社員20万人期間雇用社員20万人

人間犯罪を犯すかは確率で、人それぞれ固有の状態にある。その視点研修は行われる。

防げない人は防げないが、防げる可能性のある人は防ぐのが狙いなのである

私自身は研修は暇であるわけだが、会社が作り上げてきた儀式の意義は積極的に賛成である


誤送を防ぐためにいちいちハンコを押している。基本的に目に入る物すべてに対して、それまでの歴史は分かるのである

ただ私に関して言えばハンコ押すのは時間と体力の無駄使いである。

私は完璧主義者であり、完璧主義者というのはだいたいミスを極端に嫌がり慎重で丁寧にしか作業ができないので。


区分機にかけることができる荷物と区分機にかけられない荷物があったりする。

区分機によって分けられ、専用シュートにたまった荷物の場合シュートの中で荷物の軽い整理をして、

シュートからロールパレットに美しく積み込む人と別々の二人用意した方が早そう。

というか、人間があって方法論があるわけで、方法論があってから人間があるわけではないアレでして

センスのないであろう人間の集まり方法論だなぁとは思うのであるが、無駄が多いと言うか

何を効率的だと思うかが人によって違う。

もし自分分身したとしたらこうやるし、もし自分奴隷を雇うならこうやるし、というのがそれぞれの人の頭の中にあって。

忙しそうにすることが正義なのではない。無駄で美しくないことはしたくないのだ。

専用シュートからロールパレットに直接荷物を積み込めおじさんもいたけど、どんな種類の荷物が何個来るのかとかわかんないし、ロールパレットに積んでから美しく整理し直す方が美しくないでしょ。美しくない人間嫌い。

そしてこんなの人間のやる仕事じゃないのだ。将来的にロボットがすべてやるであろう。

なんでこんな仕事をわざわざしようと思ったのかそこにいる人たち全員に聞いて回ってやりたい

投げやりになったので後でまたもう一回書きなおそう。

2014-06-18

大学生の間に私は成長したのだろうか。

大学生の間に私は成長したのだろうか。


生まれときから世界には完璧という概念存在しており
人間人間であることを放棄しない限り、人間は成長することはないと思っていたので
成長という表現を聞いたとき不快感がずっと存在しておりました。


私の頭の中は、相対評価ではなくて絶対評価であっても、小学生ときがピークでして
それから10年以上、ずっと退化するのに耐え抜くだけの時間を過ごしました。


中学受験塾という環境で過ごして、中学受験しました。

入学した学校は、とある物差しでは関西で5番目くらいの学校
希学園偏差値表で、灘が63、東大寺が61、甲陽が59、洛南(併願)が58、大阪星光が55
(当時は西大和は52、今はもう少し大きな数字だと思います)(女子神戸女学院が54)

星光の入試配点は国語120数学120理科80社会80の(傾斜)配点で、合格最低点は7割
7割というのは高い方(6割が平均的)で、得意不得意が日本一レベルだった私には無駄な難関でしかない。

母数のレベルが低いテストによる合否判定は、得意不得意が異常な私は生涯を通して最高でもE判定しか出ないシステムであり
私は当時からその仕組みが理解できたけど、まわりにいた無能たちはそれすらも理解できなくて話が通じることはありませんでした。

そしてその成績の私には、言及するには心理的抵抗が大きかったのですが、灘や甲陽の配点は国語200算数200理科100で合格最低は6割
私の心の奥底には、星光よりも灘の方が簡単ではないのか(妥協して甲陽)と思ったこともあったのですが
灘も甲陽も兵庫県で、非常に残念なことに星光は家の近所にあるという環境の違いもあったりしまして。

当時の私のテストの答案はいつも同じでして
算数は冒頭から順番にすべて正解、一番最後問題時間切れ。テストは毎週ありましたが、計算ミスもしないのですべてがその結果になります社会も冒頭から比較的には正解率が高かったのですが、正解に自信が持てないので非常に時間がかかり、100点中後半50点ほどは常に白紙での提出でした。
理科物理化学算数に同じ。生物地学は興味がなかったので社会と同じ。
国語文章問題2題が多くて、いつも片方しか読む時間がありませんでした。そして常にクラス最下位。塾全体の公開テストでも下から数人目。
公開テストは600人ほど受けていて、上から10位までは名前が公開されます。(科目ごと+3科目合計+4科目合計)
当時4科目合計で名前が載ってた人は、国際科学オリンピックメダルをとっていたり、当然のように東大医学部に行ったことまでは把握しています。
そして名前が載るのは「S1クラス」という能力クラスでの1番目のクラスばかりになるのですが、
算数時間が足りたことがあって、そのときに「H1」という平均以下のクラス所属で私の名前が載ったことがあります。

すごくどうでもいいですが、能力クラスでは定期的にクラス替えが行われるのですが、私の成績が算数クラストップ、国語クラスビリで安定していて
「H1」という所属クラスってふつうは変動するのですが、なぜか入塾時から小6の途中まですべてH1のままで動くことがありませんでした。
小5までは谷町九丁目教室ではS1からS5とH1からH3、小6からはS0からS8とH1からH6でした。つまりH1っていうのは偏差値では50以下です。
なので志望校として決定されるのは星光になるわけですね。また星光合格者の中では、私が一番下のクラス所属でした。





自分記憶力が残念なので想定外に長くなりました。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

さて、小6の3月から2年間にもなる長期間虐待の日々がはじまりました。

その結果、定期テストの前に、勉強するということもしたことがありません。

中3の時の、通知表の成績は、高校への内部進学の基準になります。

全科目の平均が60点が条件で、テストの点数そのままが通知表の点数になる科目もありますが、
平常点を用意したり、救済措置を用意して下駄を大量に用意すう教師もいます。

学年人数は200人で、毎年学校を追い出されるのは10人とか。他の学校よりも多いと思います中学受験での話を想定外に長く書いたので、少しここは省略します。


日本語を話してくれない教師への反発もあって、中3での通知表成績はビリから2番目の人(50よりは上)よりも10点くらい下です。

T野(体罰数学教師)の数学で、一番はじめて満点を達成したのは、M君ではなくて私だったりします。
名前が汚いからという減点は毎回受けていましたが。

英語のS水(中1中2での担任)も相当無能ゴミだったし、
国語の学年主任(中3での担任)もゴミだった。愛のかけらなどどこにもなかった。


テストのために勉強する、という行為はしたことがなかったですが、テスト最中中学受験時代での私の哲学をただただ耐え抜く日々でした。


そして、私の中には中学受験での自己評価をもとにした学力観というものがありまして

勉強したと言えるような時間は、授業中に教師が答える前に自分脳内で答える予習的学習テスト時間中における、問題作成者との、問題を通したコミュニケーション、その2つだけ。

私は私自身の美しい過去尊敬しており、またそう言えるためだけに命をかけております。


信じるかどうかは好きにすればいいと思いますが、勉強したと言えるような時間は上記以外には特にないまま
高校入試受験するみたいでした。(受け身)


甲陽の高校入試の配点は英語200数学200国語200理科150で、合格最低点は脅威の5割。
西大和高校入試の配点は忘れました5科目で、合格最低点は7割。

西大和高校入試数学レベルが高くても小6レベル以下の問題でびっくりしました。(過去問とかも知らない)計算用紙にポエムを書きました。(計算用紙も提出です)
そういえば、テスト最中にはテストに向かい続けるという呪縛を本当に無駄に守り耐えてきたのですが
さすがにあれなので、問題用紙に脳内ポエムを絞り出す習慣が発生していました。
私の問題用紙に書かれた脳内ポエムの絞り出し、見たことある人いるでしょうか。
その一部は高校時代にやっていたブログに模写投稿されていたりします。


といいますか、私は言葉から行動に移すような経験が一切ないと思います国語という科目が全くわからなくて、表現能力障害者しかないのです。

表現というものに、全く価値を感じる機会が今までずっとなかったのです。
(相手の意思とは関係ない)教えてくれる人間自分視点環境には存在しなかったってことです。


この世に信頼できる人間が1人もいなかった。
そうすれば、こうなります存在する存在空間の、表面結果が表現されるだけで、それだけでしょ。


伝えたいと本気で思える人間が私の前に現れることがなかった。



脱線しましたけど、西大和不合格になりました。人生初の不合格です。計算用紙になんだこの数学はアホかやるきあんのか、って書いたのが相手を激怒させたのかもしれません。

入試の科目で満点とれてるのは西大和数学人生初だと思う。(大学入試では同志社物理センター物理が満点。センター物理って小学生でもry)
(大学入試数学は私は全く訓練がされてないので、同志社レベルでさえ時間足りないです)

そして、甲陽おちた場合、出願は2校しかしていないので、いく高校がないです。

けど合格してた。勉強して合格したわけではないので、何も感じなかった。

自分人生他人事で、どうでもよかった。





人は過去を美化するという表現を見かけることがあります。

この表現意図はこうです。

そんなわけがない、人間なめるな。しかしすべてを説明するのは一生かけてもできない膨大さ。情報努力して絞り、本質的情報を簡略に表現する意図がある。

人間人間であるための努力だ。

そして過去存在しない人たちから言及をそらし、内心ほくそ笑むための表現です。


人間であることを放棄した人が、人間舐めるな。

人間は、人間人間だと信じている人たちだけで暮らせばいいです。(そう信じることしかできないんです。)





脱線の方が長くなってしまいました。ごめんなさい。



高校。高3で人生で初めて、通知表に0がつきました。

英語定期テストで選択問題が初めて0問で、(授業でやった)東大京大等の英訳和訳問題のみだったのです。がんばったけど0点でした。


けど留年とかされても高校にとって迷惑になるので、卒業という形で平和に追い出されました。

中学では宿題をだす教師はいて、平常点が存在しました。
高校では宿題をだす教師はおらず、自分勉強する人たちが自分意志医学部とかにいってた。



東工大大学入試の配点は理数系が68パーセントで、合格最低点は忘れました。(ふつう東大生であれば英語国語0点にしても東工大には合格する程度の合格最低点です)
ちなみに早稲田理工は理数系67パーセント慶応理工は70パーセントです


センター試験本番は現役時が47パーセントで、物理に関しても波長って何?λってなんてよむの?らむだってなに?って思いながら知恵とセンスを絞って問題に正解してました。

浪人した時は、波長とはなにか、λがらむだってよむんだって知りました。

一切の本も読まずに、微分とか極限の解釈でただ単に考え事をしていたら、テイラー展開って表現されているもの発見されました。

数学自分問題をつくって遊ぶことしかしてなくて、浪人時代の1月も2月も一回も過去問とかやらずに

自分問題つくっては遊んでました。

(1)30!の一の位は0である。ここから始めて十の位百の位と順に左に見ていく。最初に0でない数字が現れるまでに連続していくつの0が並ぶか。
(2)(1)において最初に現れる0でない数字を求めよ。
(3)ここで「n!は10^kの倍数である」これをみたす自然数kのうち最大のものをpとしてf(n)=10^pとする。このとき以下の数の一の位の数字を求めよ。
(イ)100!÷f(100)
(ロ)100000!÷f(100000)
(4)100兆の階乗10進法で表示したときから数えて25兆番目にある数字偶数である奇数であるか調べよ。
問題を読んでほしいためこのようにしてみた
→方法論は省略して
100兆(10進法)=101101400兆(5進法)
100兆!÷10^(25兆-2)≡2^(25兆-2)×4!1!1!1!1!≡6
…□6が4の倍数なので□は奇数です



普通電卓を使用して
2の常用対数小数10位の値を求めよ。


とかに関しては、あるごりずむかいうやつっぽい。



AA>Bと同値はA>√BまたはA<-√BまたはB<0(A実数)または-√(-B)<Ai<√(-B)である。ではAA<Bは?


とかに関してはすうがくっぽい。





大学に入ってからも痛感しますが、勉強したことがないので、勉強のやりかたが全くわからない。


環境というものは目には見えない力なのです。



クソみたいな社会に適合してたまるか、という環境も世の中には存在します。

社会に適合化された言葉を使ってしまうのは屈辱でもあります。




なにが世界破綻させているのか。それは現実主義者存在です。

「数学に対する価値観は、誤答を解答として提出したのであれば死刑にすべき」

の意図している意識共通認識となれば、世界平和になるのではないかと思います共通認識共通認識における努力さえあれば、別に死刑にする必要はないです。






いつかきっと、人類が私の意図理解することができればいいなって。


おなかがすきましたね。




http://anond.hatelabo.jp/20140617174318



2014-05-15

奈良ビブレ潰れたんだな

凄く久しぶりに前を通ったら潰れていた、跡地はマンションになるらしい。

最後奈良ビブレに行ったのは学生時代だった。

その日はスクーターバイク置き場に停めて、ペンダントや下着や服などを買い、そのまま帰ろうかと思っていたが、ふっと目に入った店のディスプレイ燈花会開催中と書いてあり、ちょっと見てから帰るかと奈良公園に入ったのが良くなかった。

思ったより綺麗で東大寺の方まで見に行って、戻った時にはビブレの閉店時間を過ぎてしまっていた。

バイク置き場に回ると周囲がロープや鎖で囲われてしまっている、誰か警備員さん居ないかなと周囲を見るが誰も居ない、困り果ててロープをくぐって鎖を持ち上げてバイクを出して帰るしかないかと四苦八苦してると

「見てたぞ!」と凄い剣幕で警備員らしき人が来て

「こそこそしやがって毎日停めてるやつだろう!!!」とか色々怒鳴りまくられる

「違う、バイクで来たのは初めて、こそこそなんてしてない、居てるのがわかってたら声をかけてた、燈花会を見てうっかり時間を過ぎてしまったのは申し訳なかったけど、今日も数万分の買物をしました、レシートもあります」等々反論をするが聞いてくれない

何とかバイクを出させてもらってエンジンをかけたら「番号は覚えたぞ!!!二度と来るな!!!!!」と捨て台詞を吐かれた

まぁそれから二度と近づかなかったわけだけど、なんか潰れるのも当たり前だよなぁとしみじみ思い出した。

2012-12-18

日本の男女待遇差の根本的原因

日本は働く母親冷遇 OECD報告

http://www.47news.jp/CN/201212/CN2012121801001186.html

子育て男女給与日本が最大

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20121218/k10014259781000.html


これね。

結局は、社会の仕組みを決めるエリート側(官僚政治家経営者など)に女性が少ないから変わらないよね。

なんでそうなのか。

日本ではエリート養成する教育機関に明確な男女差があるから

まり中高一貫男子校の力が強すぎるの。

灘、開成筑駒、麻布、ラサール東邦武蔵、聖光、東大寺・・・上位はほとんど男子校

これらと対抗できるレベルの共学、女子校なんて筑附、桜蔭くらい

アメリカトリニティスクールもホーレスマンスクールフィリップスアカデミーフォーブス誌による上位3校)も共学だよ?

でも、この格差を問題視する進歩的文化人ほとんどいない。

なぜか?

彼らの母校だから

母校を批判するのは自分アイデンティティを攻撃するようなもんだから

無理だね、こりゃ。

2010-09-02

http://anond.hatelabo.jp/20100902003920

非常に話逸れる上に大変上から目線の書き方になるのでアレですが。

マジで? そんなしょっぱい奴しかいなかったってどれくらいの進学校なの? 灘東大寺クラスではないよね。

中程度の進学校って要するに一番ペラい奴が集まる所でしょ。

トップの進学校なんてマジでとんでもない変態ばっかだし、公立はお前が言ったようなゴリラみたいのが居る。

真ん中って「ほんのちょっと勉強できる」以外何一つ取り柄の無い奴しか行かないんだよ。

お前の周りに居た奴の行動原理はこうだ。

周りにみんな薄い奴しか居ない。薄い奴とつるんだって楽しくない。だから薄くしか関わらない。

お前がガン無視されてたのは、自分で言ってる通りお前がその薄い奴の一員だったからだよ。

関わる意味がないと思われてたんだよ。向こうから関わって来てほしくないなと思ったからわざわざ目逸らすんだよ。

ペラいんだよ。クソッタレ

と思いましたが、いかがでしょうか。

俺の見た灘が薄かったんだよバーカ!とかなら誠に申し訳ありません。

2008-10-26

http://anond.hatelabo.jp/20081025150734

おいおいちょっと待て。嘘言ってもらっちゃ困るよ。

まぁ、私立トップだとクラブとか禁止で勉強するらしいから、それに比べて平均値が低いのはしょうがないけど、トップの層の東大京大阪大に行ってる数とかがリアルに桁違い。

俺は灘だったんだけど、クラブ禁止なんて聞いたことないぞ。確かに運動部は高2の秋ぐらいに部活を引退することが多いんだが、それでも高3で試合に出たりする奴もいないわけじゃなかった。むしろそういう奴は周囲から一目置かれていたしな。それに、学校受験指導らしい受験指導も受けたことがない。

そして、俺の知る限り、甲陽とか洛星とか東大寺とかそのへんの関西のトップ校はどこも似たような感じだったぜ?関東のトップ校のことは余りよく知らないけど、開成とか麻布とかの知り合いから部活禁止なんて話は聞いたこともない。

それに、進学実績も君が信じてるほど私立が図抜けてるわけじゃないぞ。兵庫県で言うと、長田高校姫路西高校に進学実績で勝ってるのは灘と甲陽だけだ。そして、これらの学校地域的に離れているので事実上住み分けができている。灘や甲陽は本質的には「西宮北高以上の進学校がない地域」の人間避難所として機能しているだけで、別に受験に特化した学校というわけじゃない。

別に進学実績なんかどうでもいいんだが、「私立トップ校は受験少年院みたいなデマを流すのは勘弁してほしいんだよね。そういうデマのせいで、「中高時代勉強しかしてなかったのか」みたいなうざい奴が続出して、正直かなり迷惑してるんだよね。


つーか、そんなことよりもっと気になるんだが、「偏差値30」とか「偏差値70」とか、「偏差値」を絶対的な指標みたいに使うのやめてくれ。

偏差値」ってのは純粋統計的な量にすぎないのであって、同じ学力でも母集団が変われば偏差値ってのは大きく変動する。早い話、「偏差値50」ってのは「平均点」っていう意味しかなくて、たとえばレベルの高い模試での「偏差値50」と、誰でも受けられる模試の「偏差値50」の学力はだいぶ違うはずだ。

「戦闘力」じゃないんだからさあ、「俺の偏差値は70だ」みたいな言い方はやめてもらえないかなあ。「偏差値」ってのは母集団が決まってないと全く意味のない数字なんだよね。

追記 ブクマの人へ

ということは、大阪にはそもそもトップレベル中等教育(高校教育)のニーズはない。のか。/必要なら、兵庫京都奈良あたりに越境通学させるから。

そういう面もあるけど、実際問題として大阪のトップ公立校を蹴ってまで隣接府県に行くメリットはあまりないんだよね。私学トップ校と大阪の公立トップ校の差ってのは非常に微妙差しかないので、入学時の平均学力がちょっとでも高い学生をかき集めることに意味があるかというとこれは一概に言えないからね。むしろ私学のメリット高校受験の内申点を回避できることと、私服だったり部活が盛んだったりして校風が自由なところじゃないかな。後者は公立でも結構満たされてるけど。

2008-09-15

http://anond.hatelabo.jp/20080915020743

ちなみに関西だと

洛星・洛南・東大寺 が御三家って言われてた。

今はしらん。

灘は別格だそうだ。

2008-04-29

http://anond.hatelabo.jp/20080429002402

増田です。

別に奈良県批判がしたかった訳じゃないんだ。奈良はとても楽しかったよ。

自分の文章がいたらず、勘違いさせたみたいで、すまない。

自分が言いたかったのは、立地がいいのにもったいない事をしている、という事だったんだ。

駅からも近いし、興福寺国立博物館東大寺の一連のルートにも組み込めるはずなのに、あんな(て言ったら語弊があるけど)展示じゃあ利用者が増えないんじゃないかと。せっかく開館時間を延ばしているのにもったいない

お寺が閉まる時間が早いし、その後にゆっくり見る事が出来るというのはかなりイイと思うんだけどねえ。

http://anond.hatelabo.jp/20080429011444

その点、奈良の、公園のオマケに町があるような田舎じみた雰囲気が、かなり気に入ってる。

ありがとす。なにはともあれ気に入っていただけるとうれしです。

ぜひともまたごひいきのほど。

だけどなぁ、俺、奈良漬が大嫌いなんだよ。奈良漬の店、いくらなんでも多すぎだろう、あれ。

なんでもいいから、もうちょっと癖のない名物を開発してくれ。

俺も苦手ですわー。なんかむかしの人とかは茶うけにでも食ってるけどね、あれ。

そこで。『吉野葛』などどうでせう。

近鉄奈良駅周辺、というか東大寺の近くなんだけど、吉野天極堂って吉野葛の卸かなんかやってる店の支店があって、

そこの葛まんじゅうがぷりっぷりでとてもおいしいです。おみやげにもよろしです、日持ちしませんが。

あとはそーめんかねぇ…

ないな…名物…。茶粥とかマイナーすぎるしな…

うまいラーメンはあるんだが、名物じゃねぇよな…

あ、記憶をたどっていけば、ありました!あったような!

http://www.rakuten.co.jp/kitora/279796/279797/312888/

ごめんなさい。

2007-09-09

ヱヴァンゲリヲン新劇場版

ヱヴァンゲリヲン新劇場版」を観に行った。2007/9/7金曜日歌舞伎町ミラノ1。仕事帰りだった。18:00に劇場に到着してチケットを購入し、そのままホワイエに通された。カウンターパンフレットを購入してその後、モスモスバーガーセットを購入。オレンジジュースを飲みながら時間を潰した。17:00の公演を逃して、次は19:15。公開時間まではあと1時間近くある。買ったパンフレットを眺めながら、まだ残暑の厳しい外に比べてエアコンディショニングされた劇場のホワイエで、ふと周りを見渡してみる。

 そこに居たのは全く自分と同じ人々。年齢は20代後半から30代にかけて。それ程多くない。男女比率は同率程度。

 10年前、僕は同じ劇場エヴァ劇場版Airを観た。それは高校時代後半の全てだったエヴァの最後を見届ける為、同時代のグルーヴ感を感じる為だったと思う。深夜、TV局が行列に並んでいる人に取材している姿を横目に見て僕は「お前らには絶対にわからねぇよ」なんて悪態をついていた。

 あれから10年が経ち、僕はまた「ヱヴァ」を観に来ている。庵野秀明が全身全霊をかけて、僕達に叫んだ「お前ら、こんなもの観てるんじゃねぇ!」という叫びも虚しく僕は今、ここにいる。それは自分が選んだ道だけど、それでもスーツを着てここに並んでいる自分の姿は、傍から見て、とても滑稽だろう。

僕は携帯を取り出してさっき彼女から貰ったメールの返信を打つ。「大好きなのに・・・」と始まる彼女メールを見て、お昼過ぎの痴話喧嘩を思い出す。二人はとても仲が良くてお互いがお互いの事を最も大切に思っているから、ちょっとした事で喧嘩をする。それは自分の気持ちが相手に上手く伝わらないジレンマのようなものだ。メールには友人と飲みに行くと書いてある。僕は「さっきはごめん。今日はゆっくり楽しんできてね」と携帯の単語予測から選択して手早くメールを作成し、彼女に送信した。

携帯の電源を落として改めてさっき並び始めた列の後ろを眺める。長蛇の列は劇場脇にある入口からホワイエまで続いている。優に40m近くはある。それが劇場両脇にあると思えば大した人数である事が予想される。

「何故僕は今、ヱヴァを観るのか。」

この問いはここに来る前からずっと僕の頭の中でループしている。その答えはきっと庵野秀明によってフィルムで示される筈である。でもそれ程多くは期待していない。何より僕は当時に比べて歳を取ったし人生経験も積んだ。離婚も経験した。それは僕の心に大きく影響して、僕の中から少しづつ童心純粋さは失われていった。それを肌で感じていた。僕は十分に大人だ。それも随分腐った大人になっていた。当時とは違う。そんな事を考えながら立ち続ける。

凡そ40分後、劇場のドアは開けられた。中は比較的広く清潔だ。多分リニューアルしたのだろう。10年前とは違っていた。僕は中央付近の良い席を取る事ができた。席に荷物を置いてビールとポップコーンを買いに行く。ビールを飲む辺りに親父臭さを感じる。

席に戻ってポップコーンを摘みながらビールを飲む。果してどんな作品を観る事ができるのか。僕はとても楽しみに、少しの絶望を抱えながら、それでも楽しみにしていた。GAINAXの「トップをねらえ!2」に絶望し、「グレンラガン」に次世代性を読取った僕が、庵野秀明の最先端に触れられる瞬間である。時代を築いた映像作家の最新作。否が応にも期待が膨らむ。僕の前に「ヱヴァ」はどんな姿で現れるのか。ネット等で事前知識を何も仕込まずに観に来たのは、それが一番純粋に作品に触れられる方法と考えたからだ。僕はやっぱり何かが変わる事を期待していた。庵野秀明が何かを変えてくれることを期待していた。

映画は静かに始まって、劇的に幕を閉じた。

興奮する観客の中で一人僕はうっすらと涙を浮かべていた。それは感動の涙である。「ヱヴァ」は「エヴァ」ではなかった。それは全く同じキャラクター世界観で描かれた純粋二次創作物だった。「エヴァ」で面白かったと思われるエピソードを凝縮し、解像度を上げ、劇場作品として耐えられるクオリティにまでベースアップして新しく作られた「エヴァ」だった。「ヱヴァ」は「エヴァ」ではない。それは様々なガジェットで示されている。「エヴァ」が「ヱヴァ」としてリメイクされた理由、それは庵野秀明が「閉塞した時代」に風穴を空けようとした、という一点に収束する。「エヴァ」が批評的であり、文学的であり、映像芸術的であったことに比べて「ヱヴァ」は極めてアニメ的だった。それは「時をかける少女」が極めてアニメ的手法によってそれまでのアニメーション作品には無い全く新しい映像表現を目指した事とシンクロしつつも少しずれた感性である。

アニメ外の人間だった庵野秀明アニメ内に入りエヴァで再びアニメ外に出て行ってしまった、しかし10年の時を経て再びアニメ内に戻ってきた。この波は彼が「ナディア」から「エヴァ」に到る際に経た道程と同じではないか?「ナディア」を撮って、もうアニメは撮れないと言っていた庵野が再びフィルムを撮ろうとした、あの「エヴァ」に到る道程と酷似してはいないか。

表現者・庵野秀明の本気は恐ろしい。彼の本気は時代を動かす。「ヱヴァ」は庵野秀明憂さ晴らしでは終わらない。彼は再びアニメーションという表現を信じる事ができた。彼は再び物語が持つ強度を信じた。その事が僕にはとても嬉しかった。彼が10年前に三行半を突きつけたアニメーションを、どんなに蔑まれてもずっと追い駆けてきた僕は、そこに一筋の光明を見る事ができた。庵野秀明が再び信じたアニメーションという表現手法。それは日本が世界と鎖国し独自の文化として大切に育ててきた集団芸術総合芸術である。宗教に並びうる文化的発明と言い切ってしまっても構わない。

アニメーションには未来がある。SF子供たちに夢を届ける。ぼくらはそのファンクションを十分に生かして自らの人生を豊かにしなければならない。次世代へ繋ぐ夢を語り続けなければならない。素晴らしい芸術作品を創作し続けなければならない。素晴らしい芸術作品の下僕として作品に仕えなければならない。

ピラミッドが何故素晴らしいのか?万里の長城が何故人々に感動を与えるのか、東大寺大仏金剛力士像が何故現代でも価値を持ち続けているのか。その事について僕達は自覚的にならなければならない。ゴシックの大聖堂が持つ光と影が作り出すドレープの豊かさ、そういった表現が何故我々の心に届くのか。全てはたった一つの事に気づく事で理解できる。芸術とはそういうものだ。

ヱヴァ」はその意味で十分に芸術作品足りうる。つまり「エヴァ」とは違った芸術的価値を持つ作品である。

ヱヴァ」を観て涙を流した僕が思った事。それは「庵野秀明の帰還」と、「エヴァ」ではない全く素晴らしい作品の誕生の瞬間に立ち会えた事である。世界はまだまだ素晴らしい出来事で溢れている。

戦争の無い恒久の平和を胸に。決して叶う事の無い夢とは解っていても…。

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