「なぜ人を殺してはいけないのか」を含む日記 RSS

はてなキーワード: なぜ人を殺してはいけないのかとは

2022-10-03

感情的思考停止人間が一番怖い。話が通じない。

例えばなぜ人を殺してはいけないのかという話すら満足にできない。人を殺してはいけないからというトートロジーグルグルと繰り返し挙句の果てには相手狂人レッテルを貼り感情的に喚きだす。

残念なことに世の中のほとんどの人間はこういう人達なのだエリートと呼ばれる人達でもそうだ。賢い人間は非常に少ない。

2022-07-25

女王の教室再考反自民にとってこのドラマは救いになるか?~

ツイッターで、昔のドラマのワンシーンを上げ「今の日本如実に表している!予言現実になった!」と、ある界隈が盛り上がっていた。

ある界隈というのは、いわゆる反自民政権位置付けられる人だった。

以下がドラマでの「予言である

日本という国は、そういう特権階級の人たちが楽しく幸せに暮らせるように、あなたたち凡人が安い給料で働き、高い税金を払うことで成り立っているんです。

そういう特権階級の人たちが、あなたたちに何を望んでいるか知ってる? 今のままずーっと愚かでいてくれればいいの。

世の中のしくみや、不公平なんかに気づかず、テレビ漫画でもぼーっと見て何も考えず、会社に入ったら、上司の言うことを大人しく聞いて、 戦争が始まったら、真っ先に危険な所に行って戦ってくればいいの。」

これを見て、はっとした!今の日本だ!と大盛り上がりだったのを覚えている。

しかし、その前段となるセリフにはあまり注目を受けなかった。

そのセリフが以下である

愚か者や怠け者は、差別不公平に苦しむ。賢いもの努力をしたものは、色々な特権を得て、豊かな人生を送ることが出来る。それが、社会というものです。

あなたたちは、この世で人も羨むような幸せ暮らしをできる人が、何%いるか知ってるたったの6%よ。この国では100人のうち6人しか幸せになれないの。

このクラスには24人の児童がいます。ということは、この中で将来幸せになれるのは、一人か二人だけなんです。残りの94%は毎日毎日不満を言いながら暮らしていくしかないんです。

これはいわゆる「自己責任」だとか「自助」のような考えではないだろうか。優勝劣敗、弱肉強食自然淘汰。そんな感じの言葉が当てはまる。

格差があるから是正しよう!」ではなく「格差があるから負けないようにのし上がろう!」という考えだろう。

おそらくセリフの「愚か者や怠け者」は遊び惚けている人のことを指していると思われる。ではデモストライキに励む人、現状を変えたいと思う人は?94%が毎日毎日不満を言うんじゃなくて、100%幸せになる社会を作ろうよ!と励む人、公助が大切だと主張する人は?


彼女デモストライキを「本人の自己満足と言い切っている。結局何も変えることができない。ただの仲良しごっこ」と断じている。

デモストライキとは違うが、今の自民党政権を倒すために戦っている人にとっては眉をひそめる発言だろう。

そういえば、「みんな自分が一番大切」とも言っていた。


こういった発言を見ると、いよいよもって彼女方針としては「一人で生きる力を身につけよ」「子供強靭な自立心を芽生えさせる」といった自助のような考えがベースにあるのではないかと考えてしまう。


最終回に行くにつれて生徒たちは彼女の「真意」がわかり、「なぜ勉強をするのか」「なぜ人を殺してはいけないのか」という難問(でもあるし、今までの発言とは正直関係ない質問)に答えて生徒も視聴者も感動する、という流れだった。格差是正しよう!国に訴えかけよう!といった公助への言及はなかった。


ドラマ放送後にスペシャル番組として2週にわたって彼女過去に触れるスペシャル番組があった。

いわゆる優しい先生、生徒と友達でありたがる先生理想論者だった彼女事件を経て悪魔のような鬼教師になる過程を描いたストリーだ。

そういうところを見ると彼女の心の中には助け合いが大切だという考えがあるようには思えるが、本ドラマではそれを出さなかった。

あえて厳しくぶつかり、生徒にはその壁を乗り越えてもらい、子供達には「腐った世の中を是正して格差をなくす!」みたいな考えを持ってもらう。そう彼女は願っていたのかもしれない。


だが、ドラマでは生徒たちが「強い大人になる!」という段階で止まっていて、どう強い大人になるかが描かれておらず、なんとなく「のし上がれ!!」で止まっている気がしなくもないのだ。

おそらくあのドラマの生徒たちは弱者から搾取してやる!なんて馬鹿なことは考えないだろうが…


長くなってしまったが、「反自民にとって金言を言っているように見えたドラマが、実は自分たちの理想と逆のことを言っていた。果たしてこのドラマは本当に救いになるのか」と気になってしまったのだ。

2021-12-28

死刑制度について思うこと

日本刑法刑罰として死刑が課されているのは以下だ(刑法以外での死刑も少しあるが割愛)。

罪名刑法保護法益
内乱77条国家対内的存立
外患誘致81条国家対外的存立
外患援助82条国家対外的存立
現住建造物放火(致死の結果を生じた場合108条不特定又は多数の者の生命身体及び財産
激発物破裂(致死の結果を生じた場合117条公共安全、人の生命
現住建造物等浸害(致死の結果を生じた場合119条公共安全、人の生命
汽車転覆等致死126条交通安全、人の生命
水道毒物等混入致死146条公共安全、人の生命
殺人199条人の生命
強盗致死・強盗殺人故意殺の場合240条人の生命身体
強盗強制性行等及び同致死241条人の生命身体


人の生命は、刑法における個人的保護法益のうち最重要法益で、国家法益国家の存立)と同じぐらい重視されている。しかし、死刑はその「人の生命」を奪う刑罰である。「人を殺したら、その犯人を殺す」という報復原理(同害復讐原理)は一見わかりやすいが、そもそも刑法が「人の生命」を至上の保護法益としていることとは矛盾した関係にある。死刑は、すでに有罪判決を受け、拘置所収監され、これ以上他者生命危険さら懸念がなくなっている人間から刑法自体が最大限に尊重保護しようとしているはずの人の生命を奪う刑だからだ。

これは憲法36条(公務員による拷問や残虐刑禁止)に反しており違憲であるという観点から1948年死刑制度合憲判決事件において最高裁法廷違憲審査がなされたこともある。当時の判決文は次の通りだ。

生命は尊貴である。一人の生命は、全地球より重い。…憲法十三条においては、すべて国民個人として尊重せられ、生命に対する国民権利については、立法その他の国政の上で最大の尊重必要とする旨を規定している。しかし、同時に…もし、公共の福祉という基本的原則に反する場合には、生命に対する国民権利といえども、立法制限ないし剥奪されることを当然予想しているといわねばならぬ。そしてさら憲法第三十一条によれば、国民個人生命の尊貴といえども、法律の定める適理の手続によって、これを奪う刑罰を科せられることが、明らかに定められている。すなわち憲法は、現代多数の文化国家におけると同様に、刑罰として死刑の存置を想定し、これを是認したものと解すべきである社会公共の福祉のために死刑制度の存続の必要性は承認されている。



「全地球より重い価値がある、尊貴なもの」を奪う刑罰が、「社会公共の福祉のために」正当化される。こういうインチキくさいレトリックは、この後も死刑肯定論の随所に顔を覗かせる。こういうインチキで辻褄を合わせざるを得なくなってしまうのは、結局は「人の生命」が個人的法益として最大限に尊重保護されるべき尊い権利なのか、国家従属する劣位の法益なのかが、刑法条文の自己矛盾によって曖昧になってしまっているからだ。

(いっそ死刑を存続する国家は「国家には生殺与奪権がある。国家の円滑な運営社会秩序の維持のために、国家施政権の及ぶ範囲に住む国民住民生命を恣(ほしいまま)にしてよい」と明言したほうがいいと思う。そのほうがずっとわかりやすいし、現実に即してると思う)

死刑制度を存置する国家では、「個人他者生命を奪うこと」と「国家他者生命を奪うこと」の倫理的な違いはぼんやりしたものになり、逆に両者の権力執行力の違いが決定的な差として立ち上がってくる。国家というシステムは、国民住民に対して法的な権力執行力を持っているから、人を殺すことができる。個々の国民住民は、国家権力執行力に従属しているから、人を殺して捕まったら国家に殺される(こともある)。このような制度は、「人を殺すこと」の意味と是非を、価値ではなく制度問題倫理ではなく力の問題還元する。

死刑制度を存置する国家では、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いにきちんと答えることができない。「国が『人を殺すな、殺したらお前を殺すぞ』と決めているからだよ」「人を殺して捕まったら自分死ぬから損だよ」という風に権力関係因果関係を説くことはできても、それは「人を殺してはいけない」というモラル根拠にはならないし、むしろ一定の条件では人を殺すことが許される」ことを追認してしまうからだ。

死刑制度廃止(または執行停止)しない国家に住み、その現状を受け入れている自分は、「なぜ人を殺してはいけないのか」という子どもの問いかけに「人を殺すと殺されるから」という損得勘定以外の答を返すことができない。それが嫌なこともあって、自分死刑廃止すべきだと思ってる。

2021-12-20

anond:20211220152453

思考実験でよくある、「なぜ人を殺してはいけないのか」に当てはめてみよう。

2021-11-08

anond:20211107232054

なぜ人を殺してはいけないのか」なんて、「社会を安定化させるためのルール」でしかないしそんなの明らかなのに何か哲学的深淵な問いであるかのように議論を始める(増田みたいな)奴が後を立たないのが不思議でならない。何も知識がなくても「議論」っぽいことができて俺頭いい話してる風の雰囲気を味わえるから気持ちいいとかそういう理由

anond:20211107232054

アリとかハチなんかは社会昆虫で、巨大なコミュニティーを築く。それに成功するのは勿論、仲間をいたずらに殺さず、助け合い子を養育するからだ。だが、社会昆虫には「なぜ仲間を殺してはいけないのか」という問いなんか最初からない。なぜなら彼らはもっぱらその身体インプットされた本能に従い、また、女王の出すフェロモンに操られるなどして、生きているからだ。むやみに仲間を殺したり遺棄したりしないとプログラムされているからそうしている、それだけのこと。

人間場合本能プログラムを少なく経験値を重ねることで上手く生きれるような仕様になっている。だから社会構成要素の「人を殺してはならない」も後天的口承という形で学習する。勿論、人を殺した方が自己所属集団の為となれば人殺し忌避すべきでないのであって、生活する環境によっては人を殺すか否か、その基準をどのように設定するかというのは違って来る。

なぜ人を殺してはいけないのか?」という疑問にヒトがぶち当たるのは、なぜなら本能に頼って生きるのを我々は大昔に辞めたからだ、ということでしかない。

2021-11-07

なぜ人を殺してはいけないのか

まとめサイト

なぜ人を殺してはいけないのか?」に対するニーチェの答えが「すごい」と騒がれているが、実はもっとぶっ飛んですごい

https://note.com/fromdusktildawn/n/n0781ea1ca467

なる記事を読んで少し思うところがあったので、メモしておこうと思う。

大学時代、もう10年以上前になるが、幼児教育修士号を取得し、保育園で働くという異彩を放つ友人と二人で酒を飲んだことがある。

なんの話をしていたか忘れたが、その際、その友人が「なぜ人を殺してはいけないのか子供たちに説明ができないじゃないか。」と言ったことを覚えている。

とかく人は「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに対して、道徳だとか、哲学だとかに答えを求めがちだが、少し現実をみて、「人を殺しても良い世界」を想像してみたらどうだろうか。


罪なくそのようなことが許される世界であったなら、私は家の扉の外には出ないし、家族も作らないだろう。

自分に少しでも不都合であったり、不愉快である人間は、殺してしまえば全て問題解決してしまう。

そんな世界に一歩でも足を踏み出すと、いつもふとしたことで殺されるリスクがあるからだ。

そう、「人を殺してはいけない」は社会、いや、主観的判断では”SOCIETY”が最も意味としては近いと感じる、を成立させるのに”必要条件なのだ

ユヴァル・ノアハラリの著書によると、人類発展の大きな理由の一つがこの”SOCIETY”の形成だったと書いている。

とかく利口と言われるチンパンジーにおいても、そのグループ構成は多くて100頭程度。他の動物も同程度だろう。グループ間のコミュニケーションネットワークも限られている。

一方、人類国家でいうと10億人規模のコミュティ形成会社においても数万規模のコミュティ形成でき、そのネットワークチンパンジーのようなアフリカの一地域限定ではなく、世界中、いや、宇宙にまで広がっている。

言わずもがなコミュティコミュニケーションによって成立し、相互の信頼も必要となってくる。「嘘をつかない」、「話や言語が通じる」、「互いの利益を考える」等、信頼を獲得するのに必要な条件は多くあるが、最低条件が「私を殺さない」ではないだろうか。

から、もし「なぜ人を殺してはいけないのか。」と人に聞かれることがあれば、私は即座に、「社会が成立しなくなるからだよ。」と答えるだろう。

ついで聞かれる質問はおそらく「社会必要ない人は殺してもいいのでは?」であったり、「死刑はいいの?」とかだろう。

結論から言うと、私は「社会必要ない人と判断された人」=「死刑となった人」と考えている。

社会必要ない人は殺してもいいのでは?」と言う問いに対しては、「そうだろう。だが、殺していい人は厳密に決める必要がある。」と考える。

誰もが主観で「社会必要ない人だから殺そう」と実行していては、客観的にみて誤った判断による殺人が発生し、やはりコミュティ形成問題が発生する。

ルール必要だ。人間コミュティはその規模が大きくなるにつれ、約束から掟、そして法律ルール形成していった。

社会必要ない人は殺してもいいのでは?」という判断をするのが、日本で言うところの刑法なのだろう。

もっとグループが小さい、例えば国家形成前のTRIBEであったり、VILLAGE規模であれば、殺人については知見者(長老とか?)の判断により、その殺人の是非が決められただろう。だがそれは各々がお互いをよく知っているような小規模集団から成立していたものであって、国家規模の、知らない人間が大多数のグループでは成立しない。

このため、現状、国家規模での判断を決めるのが法律となる。

そう考えると自然と「人を殺してはいけない」ことがわかってくる。

一部、「特権階級は人を殺しても良い」という社会。例えば現状のタリバン政権等が挙げられるが、いずれも後進国であり、そのルールによって、社会の発展を妨げ、結果、国の発展が滞っている。

「人を殺してはいけない」はSOCIETY家族、親戚、集団会社社会政府、国等)の発展には基本的必要不可欠な、最低限の決まりごとなのだ

友人に対しては、酒を飲みながら、上記のようなことを滔々と語った記憶がある(無論、その頃ユヴァル・ノアハラリは本を書いていなかっただろうが)。その時の友人の反応をあまり覚えていないが、この答えに対する反論はなかったと記憶している。

あの友人は今、子供人格形成に大きな影響をもたらすであろう、幼稚園教育に力を注いでいると思う。

どんな教育をしているのか、今度聞いてみよう。

いろいろコメント等あったので、思ったことを追記

足りない頭でつらつらと書いた本投稿に、いろいろとコメントを書いてくれた人たちにまずはお礼と感謝を。

まず、最初に。小生、正直哲学全然履修していないし、もうちょっと言うとニーチェなんててんで興味がない。

最初ニーチェ記事引用したのは「なぜ人を殺してはいけないのか」というテーマを聞いて本稿に書いた友人との問答を思い出したためである(友人はニーチェとか好きそうだけど)。

哲学は…なんというか主観的なんだよね。「まあ、そう言う解釈もあるよね」で終わってしまいそうな問答がいつも並べられている印象。

からまり興味が持てないのかもしれない。

コメントとかで気になった内容については以下に私見を書いていく。

まず、”社会”より”SOCIETY”が感覚的に近く感じた理由

一方で

社会”はもっと大多数の人間構成されるイメージがあるから。とっても主観的から、以下は”社会”でまとめる。

望む望まないに関わらず、人は社会に組み込まれると思う。

君が住んでいる家、来ている服、食べている食べ物は全て”社会”の産物である

人が2人いれば、そこに”社会”は存在するんじゃないかな?

社会必要としない人」なんてもの存在するのであれば、どこか孤島で、自給自足孤独に生きる人になるだろうから自然殺人は発生しないかも。



哲学を語っていたわけではなく、社会必然性を語っていたつもり。

当為」という単語も初めて聞いた。不勉強申し訳ない(汗)

社会というものは皆で構成するものだと考えてる。

そこに権力が集中している場所権限が大きい?)はあるかもしれないけれど、それも社会構成要素の一つ。

から、「社会を維持するために社会権力に逆らってはいけない」とか、強制されて行うものではなく自発的に「社会を維持するために人を殺してはいけない」と考えるべきではないかと思う。

また、社会を維持したり、大きくすることは、その社会を存続させることに必要不可欠なことで、いわゆる生物が子孫を残すことと同様なのではないだろうか。

「なぜ人が殺し合わないように進化・発展してきたか」と「なぜ人を殺してはいけないか」は別の話ではないような。

「人が殺しあわないように進化・発展してきた」(すくなくとも自然淘汰されない程度に)からこそ、現在社会があり、その社会の維持のために「人を殺してはいけない」というルールが維持されていると考えている。

「なぜ社会を成立させなくてはいけないのか」は別に当為の話ではないと思う。

社会を成立させ続ける」という社会目的があって、初めて社会は存続してる。それがなくては社会は成立し続けない。だから社会を成立させ続ける」は我々人間が営みを続ける上で、必要条件なのかと。

そう考えると、「人を殺してはいけない」は社会存続のための必須ミームなのかもしれない。

ニーチェ記事にはやたらと”道徳”について書かれているが、

「人を殺してはいけない」という基本概念は「社会の維持」にとっては必須であり、いうなれば、生きる上で必須の事項なんじゃないかな?

ここまで書いて、ふと、確かに死にたい人間や、破滅を望む人間には「人を殺してはいけない」なんて概念通用しないと感じちゃった。

そういう人は社会性の欠如から考えると、普通の人より、もっと野蛮で野生的…?、粗野な人種なのかな。

いずれにしろ望む望まないに限らず、「社会」に組み込まれるだろうから、人を殺さないことをお勧めするかな。

でないと不自由暮らしが待ってて、いいことないし。

2021-04-07

[] 198 チ。第3集

 チ。という、地動説を扱った漫画があって、確かこのマンガがすごいでも2位を取ってた、面白い漫画なのだが。

天文に明るいインテリ増田もそういうのよくわからん普通増田も楽しめるようになっていて、その3巻を読んだ勢いで日記を書いているのだが。

この作品テーマの一つに、「託す」というのがある。

人間の命なんてもの世界の真理の前にはちっぽけなもので、それでも挑む手段として、意思バトンを託していく。

このはてな毎日読んでいるはてなブックマークも、最初エンジニア2005年に作ったものを、2009年に書き直して、2015年くらいにまた書き直して、そうやって別の人の手で書き直されて受け継がれて残っているもので、

そういう大きな流れに寄与できるというのは、とても素晴らしいことだと思う。

地動説のような崇高そうなものでなくとも、家族を作るとか、後進を育成するとか、その手の活動に敬意を感じるのは、人間のプリミティブな感覚なのではなかろうか。

なぜ人を殺してはいけないのかくらいプリミティブな感覚の話だと思うが、三大欲求マズローのようなわかりやすフレーミングがなされていないため、世の中的にそこまでコンセンサスはない気がするけれど。

個人内面尊重する流れで家族内や学校会社内での文化継承は軽視されがちだけれど、そこにカウンターとしてこういう作品スポットライトが当たるのは、いいことだ。

次の世代に託せるかっこいい人間になりたいなと気分をアゲてくれるくらいには、面白いです、チ。

2021-03-25

anond:20210325113112

デザイン作成コストかけた会社マネした会社後者の方が製品価格下げられて有利。

モラルハザード的な話だと思うけど、モラルハザードは何がいけないのか、という話と増田の主張は同義であると言える。

これは言語化が難しい類の話。なんで転売をしてはいけないのか、と同じようなテーマと言っていいかもしれない。あるいは、なぜ人を殺してはいけないのか、と同じテーマだと言ってもいい。

転売の時は「売り手ヨシ、買い手ヨシ、世間ヨシ」に背いているから、という説明がなされていたが、今回も比較的これに近いのかもしれない。

2020-03-12

なぜ人を殺してはいけないのか

「いけない」って部分が雑すぎるから議論がややこしくなる

「なぜ人を殺したら法的に罰せられるのか」だったら法学者とかがスッと答えてくれるだろうし、「なぜ人を殺したら責められることが多いのか」だったら主観問題なんで議論する意味がない

これを言って粋がってるガキはバカ 

2018-07-28

anond:20180728122003

こういう議論って、なぜ人を殺してはいけないのか、ぐらいこれまでの歴史でさんざん議論されてきたことだよね。

ネトウヨはそういう前提をひっくり返してフロムスクラッチで持論展開するから面倒ったりゃありゃしない。

2018-03-28

anond:20180327100644

まず、「なぜ人を殺してはいけないのか」という文は実は曖昧な要素があるので、「なぜ人を殺さない方がいいのか」に修正する。

ここで尋ねられているシチュエーションとしては、正当防衛その他の場合はひとまず除外し、積極的他人の命を奪おうと思って奪う状況とする。

自分は「人を殺そうという思考自分の心を汚すものであるから」と考えている。

他者生命を奪ってよいという思考は、自分以外の存在の軽視である

自分だけは尊く、自分以外の存在はそれより劣っているという思考自体が、劣った考え方であると考える。

(ここでは考え方に対する批判と、そういう考え方を持っている人物への批判は切り離す。ここで人格批判に入ると、自己矛盾に陥るから

原因を外在させないこと。あくま自分自身への冒涜か否かで判断すべきだと考えている。

原因を外に出せば、じゃあ死にたがってる人は殺していいのかということになる。

自説では、死にたがってる人を生の方向へ向けるのがよいということになる。

自分を殺そうという人に対して抵抗するのは、よいことである

なぜなら、相手に、殺すという行為をさせずに済むかもしれないから。

ただし、そのために「守るために殺してやる」となったらアウト。

という考えで生きてきた。

戦場で生きてるならともかく、日本で暮らすにはこれくらい甘い考えでもいいと思う。

北斗の拳道徳教科書採用される時代に「なぜ人を殺してはいけないのか」を問う意味とは

https://www.asahi.com/articles/ASL3W6VY3L3WUTIL08P.html

やべえ、難易度上がってきたぞ。

社会はそれを認めないから」って言ってた人苦しい!

https://anond.hatelabo.jp/20180327100644

この教科書、「安楽死」についても触れられてるんだよね。

日頃「安楽死ありにしてほしい」ってはてブで気軽につぶやいてる人間ほんとにクッソ不愉快なんだけどさ。

その人たちは真剣にこの問いに答える義務があると思うよ。

本人が望むなら人を殺してもいいって普段から言ってるわけだから

まさか普段そういうつぶやきしてるくせに増田バカにしたやつおらんよね

2018-03-27

anond:20180327210232

そうだね。今の世界情勢の中で、日本人が「なぜ戦争をしてはいけないのか?」なんて問いかけても、周囲から失笑されるだけ。

なぜ人を殺してはいけないのか、という問いかけも同じこと。

anond:20180327100644

問題の立て方が間違っている。なぜ人を殺してはいけないのか、ではなく「人を殺さなくても済むようになりたい」というのが正しい。

原始の人間社会においては、警察裁判所存在していない世界であり、自分の身は自分で守るしかなかった。

自分自身の家族財産自衛するには、自分身の回りに近づく「敵」を排除しなければならない。

他人=敵を殺さなければ自分自身が生き残ることが出来ないのだから

大昔の人たちは知恵を絞って、なるべく他人を殺さなくても、「誰もが平和に生きることが出来る社会=人を殺してはいけない社会」を作り上げて来たわけ。

その帰結として、人々でお金を出し合って集落を守る自警団組織が生まれた。

日本の歴史をこの視点で読んでみると、いか暴力個人から取り上げて、国家に独占させていくかの歴史とも言えるよね。

農耕の発明集落形成部族統一する神の出現、豪族貴族武士近代国家の出現、軍隊警察核抑止国際連盟国際連合世界政府・・・

anond:20180327100644

なぜ人を殺してはいけないのか?、という疑問が浮かぶ社会にいるよね、わたしたちは。

ハンナ・アーレントなら、人間社会複数性の排除になるから殺人を犯した人が社会によって裁かれないのはダメだ、と言う主張になるんだろうけど、これは同時に殺人はしてもいいと主張する事を封殺しないんだよね。

その前提に立てば、なぜ人を殺してはいけないのか?、という問いに答える前に、その子の主張をある程度理解してあげなくてはいけないね

の子にはその子なりのこの世界理解筋道があって、その上で人を殺してはいけない理由がわからなかったわけで、無から生じた疑問ってわけでもないだろうし。

本当にその疑問に答えるという事は、その子世界観を一旦飲み込んだ上でじゃないと、結局その子には理解できないんじゃないかな?

anond:20180327100644

国家暴力装置である」と喝破して批判された政治家が昔いたけど、「なぜ人を殺してはいけないのか」を突き詰めて考えてみると、そのことにたどりつく。

現在近代国家においては、一般市民武装することを許されていない(日本欧州諸国の話。アメリカについては例外中の例外)。

暴力武装を独占していいのは国家だけであり、具体的には軍隊警察組織の2者が暴力を独占する。

国家暴力を独占することによって、国家内における治安を維持することが出来るようになる。

よって、一般市民暴力行使してはいけない。つまり、人を殺してはいけないし、人を傷つけてはいけないし、他人の物を盗んではいけない。

暴力行使していいのは、交戦権を持っている軍隊と、刑事訴訟法に基づいて執行する警察組織だけ。

中世日本統一政府が無かったので、各貴族豪族宗教寺院自分武士を雇って武装して、自分の身を自分で守っていた。

昔の東大寺比叡山延暦寺は自前で僧兵を雇って武装していたらしいことが歴史書に書かれている。

暴力行使してはいけない、という考え方は明治維新後の近代国家価値観なので、まだ150年ほどしか経過していない。

もし増田が人を殺したいと思ったら、公務員試験を受けて自衛官警察官防衛出動海上警備行動を発令できる権限のある防衛大臣刑務所刑務官死刑判決を下せる裁判官を目指せばいいのではないか

anond:20180327100644

 まず、「なぜ人を殺してはいけないのか」を考えるにあたって、「いけない」の意味を明らかにしましょう。「いけない」という言葉には、法律禁止されている、道徳的に許されないという2つのパターンがあります。なぜこのように分けるのかというと、法律道徳は、重なり合う部分はあれど、基本的に別のものからです。ある行為法律禁止されていることと、道徳的に許されないことは異なる問題です。

 法律の話であれば話は比較簡単にすみます

 刑法禁止される行為を定め、よりよい社会を実現しようとしています刑法に定められた犯罪には、それぞれ保護すべき法益というものがあります殺人罪であれば人の生命です。殺人禁止されない社会では、人は安心して暮らすことができません。そこで、「自己生命が脅かされない社会は、よい社会である」という思想のもと、刑法殺人禁止しています

 ただし、これも絶対的ものではありません。責任能力の欠如、正当防衛、錯誤など、様々な要因で殺人の罪が問われないことがあります。たとえば、自分が殺されそうなとき相手に反撃せず黙って殺されなければならないとすれば、それはよい社会とは言えません。そのため、よりよい社会の実現という目的のもと、殺人禁止には例外が認められています

 次に、道徳について考えてみましょう。道徳とは、人間無意識存在すると認識している善悪規範のことです。

 これは法律と違い、明確に定められたものではありません。実態存在しない、ある種のフィクションです。道徳は、無意識のものなので、法律のようにこのような理由がこれは悪だと説明できるものではありません。そのため、「なぜ道徳的に悪なのか」という問では答えを導くことができません。そこで、「なぜ殺人を悪だと認識するのか」という風に問を変えてみてください。

 人間という種が発展していくのにあたり、お互いを殺し合う行為は、その発展を妨げる行為です。そのため、「殺人は悪である」という認識が生まれたと考えられます増田の指摘する、「種の保存」です。

 ただし、これも絶対的ものではありません。たとえば、前述した正当防衛であれば、道徳的にも悪ではないと認識する人が多いのではないでしょうか。これは、「種の保存」よりも「自己の保存」を優先する人間無意識から生み出される考えだと思われます

 「人を殺してはいけない理由があるのに、動物を殺してよい理由はあるのか」という問を、上記つの観点から考えてみましょう。

 法律観点からすれば、動物を一切殺してはいけないとすれば、食料等様々な問題が発生し、よりよい社会とは言えません。そこで動物殺害全ては禁止されていません。

 ただし、動物愛護法等、一定行為動物に対するものであっても禁止されています。この法律は、「人間動物共生する社会は、よい社会である」という思想のもと定められています。ただし、あくまで「よい社会」とは人間にとってよい社会であり、この法律動物権利保護するためのものではありません。法律は、あくま人間自己社会のために定めるものなのです。

 次に、道徳観点から考えてみましょう。ただし、これは非常に複雑な問題です。なぜなら、「動物を殺すこと」については、どの範囲を悪と感じるのか人によって全く異なっているからです。

 「なぜ動物を殺してよいと認識するのか」という問であれば、人間が生きていくためには食事必要であり、そのことを正当化する必要があるからと答えることができますしかし、社会が発展するにつれ、動物を殺さなくても人は生きていくことが可能になった結果、この理由説明することはできなくなりました。

 「動物を殺すことは許されるのか」という問題は、「なぜ人を殺してはならないのか」以上に難しい問題です。興味があれば、ピーター・シンガー等、動物権利について論じた本を読んでみてください。

2017-10-24

なぜ立憲民主党は中高年に人気なのか?

元の記事読んだら若者に人気と言っても全世代平均で36%で10代・20代はほぼ40%なので1割程度しか差がない

サンプルサイズにもよるが誤差の範囲かもしれない

しか出口調査なので投票者のみの調査

若者投票率が他世代より低いことを考慮したら世代全体に占める自民支持の割合は全世代平均より低くてもおかしくない

しろ立憲民主党は全世代平均14%で10代は7%と半分しかないのが気になったんだが

なんではてなー自民支持の理由ばかり気にして立憲のほうを気にしないのかが謎

はてな村では安倍政権を支持せず民主党支持するのは人として最低限の良識であり

この大前提に疑問を持つのなぜ人を殺してはいけないのか問うのと同程度以上に非常識な発想ということなんだろうが

https://anond.hatelabo.jp/20171023144455

2015-08-19

なぜ君たちの増田ホッテントリに入らないのか?

増田には二つある。読んだ者にとって有益もの、または無益ものである

有益な内容が多くの人に支持されれば自然ホッテントリに入る。当たり前の話だ。

しかしまあ、君たちの大体の増田無益ものだろう。誰もが有益ものをぽんぽん書けるはずがないのだ。

無益な内容でもホッテントリには入る。問題は、君たちの増田無益どころか読んだ者になんの感慨も引き起こさないことだ。

君たちは、なんでもいいから問題提起とか愚痴を書くことで共感を呼ぶとか、そんな内容でホッテントリに入ろうとしている。

一般化すると、「なぜ人を殺してはいけないのか?」類の増田である

君たちはそういうタイトルをつけた後に、持論を展開して、なぜ人を殺してはいけないのか、または殺していいのかを語ろうとする。

そんな議論に付き合うのは甚だ面倒だ。結論が間違っていようとなかろうと、増田価値観社会的に共有されなければ、語る意味もない話だ。

取り扱う問題も、哲学生物学法学に分野横断的にまたがっていて、誰もそんな込み入った話はしたくない。

そんな増田よりは「人を殺していい理由は3つある」という内容のほうが大分良い。

3つの理由を上げて、それがいかにも正しいような態度を装いながら、頭から信じ込んでいるような文体で書くのだ。

人は、間違っている人に正しいことを教えるのが根源的に好きなのだ理由も3つを明確にすれば、ツッコミどころがたくさんできる。

ブコメは結局のところ、消極的善意で動いている。暇つぶしに、誰かの間違っているところ、付け足したいことを指摘する。

そういう反応をしっかりと予想しながら、今一度君たちそれぞれが書いてきた増田を見ることが、ホッテントリへの近道である

2015-01-11

なんで人を殺してはいけないのですか

小学4年生です。学校友達と、なぜ人を殺してはいけないのかと言う話になりました。法律ダメなことになっているからと言うと、なぜ法律で人を殺してはいけないことになっているのかと言われました。なんで法律で人を殺してはいけないことになっているのですか。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん