はてなキーワード: なぜ人を殺してはいけないのかとは
「偏差値が高い高校ほど校則がゆるい」とよく言われる。実際、都立のある一番校では、制服なし、校則もほとんどなしだが、風紀は荒れていない。偏差値だけが理由かどうかは疑問(家族状況、経済状態もあるだろうし、私立の高偏差値高校で薬物が蔓延っていたりもする)だが、決まりなどなくて済むのであれば、敢えて決まりをつくらないほうがその社会の構成員に無用なストレスを与えない、というのは事実だろう。押さえつけなければ反発心も起こらないのだ。
究極的に人間は、互いの生まれながらの尊厳を認め合い、「自分がされて嫌なことは他人にしない」という最低限の倫理を身につけていれば、法律などなくとも平和に共存し得る。その理想が実現できないから、仕方なく法で自らを縛る必要があるのだ。
『虎に翼』最終回をで主人公が死んだ後、娘に「お母さんは法律そのものだった」的なことを言われて、幽霊状態の主人公が喜んでいたのは、私にとってはグロテスクなシーンだった。娘から必要悪、と言われていながら、満面の笑顔を浮かべる母。
あれだけ法が取りこぼしてしまった人間たちを見てきながら、まだ法に全幅の信頼をおいている主人公がそもそも理解できなかったのだが、彼女は最後まで法はアプリオリに人類に必要なもの、という認識でいたようだ。
新潟で出会った少女の「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに、直ちに答えることができなかったのも当然だ。彼女には「自然法」という観点が欠如している。「人間が生まれながらにして平等で、それぞれに尊厳をもっている」ということが、“憲法によって与えられている”と考えているのだ。(正しくは“憲法によって保証されている“であり、尊厳自体はアプリオリに存在する;憲法停止したら人権が失われるとでも思っているのか)
しかしこの逆転、このグロテスクさこそが、今のリベラルを象徴しているとも言えよう。
グローバリズムと多様性というお題目で、共感できる背景を共有しない者同士の共存を進めていけば、明文化された決まり=法律だけが、“相互理解”を増進するためのツールにならざるを得ない。そしてその法律が力を持ち、万能なツールとして必要以上に神格化されていく(あとはカネだけが共有可能な価値となる)。それと同時に、それまでの社会を構成していた重要な要素である感情的・非論理的・物語的(説話的/神話的)な共感背景は無価値化されていく。
私個人的には、尊属殺の重罰化は違憲だと思うが、家族は共に扶助すべきという民法の一文は意味があると考えている。「家族」というものが結局はフィクショナルなものだとしても、その“物語”を社会である程度守っていくことに価値はあると思うのだ。
上記の新潟の女生徒からの重大な投げかけの解決法にも心底がっかりした。
女生徒は死に、ダウングレードした娘に、主人公が何か感情的なおためごかしを言って、解決してしまったのだ。まぁ上のような法への認識でいる主人公だから仕方ない。その後彼女は少年法改正についての委員会で「愛でしょ愛」などとまた感情的なことを言っていた。
真のリベラルからすれば彼女のモデルが「家裁の母」と呼ばれていることに怒りを覚えるはずだが(なぜ“母”なのか、性差は意味がないはず)、ここでの主人公の描かれ方は、まさしく保守的な「お母さん」像であった。
もはやこのドラマの立ち位置がわからなくなるほどの倒錯が起こっているように感じたが、実際こうでもしないとまとめることができなかったのだろう。そもそも彼女は法への姿勢という最初の立ち位置から間違えているのだから。
最初から最後までいわゆる「上級国民」しか登場しないドラマであったが(上野の浮浪児くらいだろうか)、その恵まれた位置にいながら、たまに(ポーズのように)反省して見せるだけで、根本的なところでは法の無謬性を疑わなかった。原爆裁判を経て、主人公が変わるかと期待したが、結局はそのままだった。
残念なドラマではあったが、その時代には絶対にそういう発言をしていなかったであろうLGBTを描き始めたところで、ああこれはポリコレ好きのためのポルノなのねと諦めはじめていたので、最後の方は期待感も薄かった。
「なぜ人を殺してはいけないのか」よりも「なぜキモくて金のないオッサンを殺してはいけないのか」の方が難しい
単純に「大多数の人が平和に暮らせるように、治安を維持するため」って答えじゃ駄目なのかな?
道徳的、人道的に答えるのも良いと思うんだけど、
世の中にはある一定数、そういう話が通じない人がいるじゃん?
あなたの大切な人が殺されたらどうする?悲しいでしょう?みたいな話が、通じない人。
共感性が欠如していて、人が死ぬということが悲しい、という気持ちが理解できない人。
そういう人たちって、他の人のそういう感情が理解できないだけで、必ずしも反社会的とは限らず、
きちんと理由を説明すれば、分かってくれる場合も多い。「阿武ノーマル」の主人公みたいな人。
そもそも、感情的・本能的に人を殺してはいけないということが分かっている子は、そんな質問をしてこない。
「虫を殺してもいいのに、どうして人を殺してはいけないのか」という質問をしてくる子には、仕組みで説明をした方が理解してもらえると思うんだよね。
難しいのは、国が人を合法的に殺している「死刑」とか「戦争」についてなんだけど、
両方とも「そうすることで平和を維持できると考えている人がいるから」と答えるしかないかな。
「でも、それが正しくないと考えている人もいる」
「みんな、どうすれば平和を維持できるか考えているんだけど、時には間違えることもある」
という注釈を付け加えて。
この先もずっと、されなければいいなと思ってる。
ツイッターで、昔のドラマのワンシーンを上げ「今の日本を如実に表している!予言が現実になった!」と、ある界隈が盛り上がっていた。
ある界隈というのは、いわゆる反自民党政権と位置付けられる人だった。
「日本という国は、そういう特権階級の人たちが楽しく幸せに暮らせるように、あなたたち凡人が安い給料で働き、高い税金を払うことで成り立っているんです。
そういう特権階級の人たちが、あなたたちに何を望んでいるか知ってる? 今のままずーっと愚かでいてくれればいいの。
世の中のしくみや、不公平なんかに気づかず、テレビや漫画でもぼーっと見て何も考えず、会社に入ったら、上司の言うことを大人しく聞いて、 戦争が始まったら、真っ先に危険な所に行って戦ってくればいいの。」
これを見て、はっとした!今の日本だ!と大盛り上がりだったのを覚えている。
愚か者や怠け者は、差別と不公平に苦しむ。賢いものや努力をしたものは、色々な特権を得て、豊かな人生を送ることが出来る。それが、社会というものです。
あなたたちは、この世で人も羨むような幸せな暮らしをできる人が、何%いるか知ってるたったの6%よ。この国では100人のうち6人しか幸せになれないの。
このクラスには24人の児童がいます。ということは、この中で将来幸せになれるのは、一人か二人だけなんです。残りの94%は毎日毎日不満を言いながら暮らしていくしかないんです。
これはいわゆる「自己責任」だとか「自助」のような考えではないだろうか。優勝劣敗、弱肉強食、自然淘汰。そんな感じの言葉が当てはまる。
「格差があるから是正しよう!」ではなく「格差があるから負けないようにのし上がろう!」という考えだろう。
おそらくセリフの「愚か者や怠け者」は遊び惚けている人のことを指していると思われる。ではデモ、ストライキに励む人、現状を変えたいと思う人は?94%が毎日毎日不満を言うんじゃなくて、100%が幸せになる社会を作ろうよ!と励む人、公助が大切だと主張する人は?
彼女はデモやストライキを「本人の自己満足と言い切っている。結局何も変えることができない。ただの仲良しごっこ」と断じている。
デモやストライキとは違うが、今の自民党政権を倒すために戦っている人にとっては眉をひそめる発言だろう。
そういえば、「みんな自分が一番大切」とも言っていた。
こういった発言を見ると、いよいよもって彼女の方針としては「一人で生きる力を身につけよ」「子供に強靭な自立心を芽生えさせる」といった自助のような考えがベースにあるのではないかと考えてしまう。
最終回に行くにつれて生徒たちは彼女の「真意」がわかり、「なぜ勉強をするのか」「なぜ人を殺してはいけないのか」という難問(でもあるし、今までの発言とは正直関係ない質問)に答えて生徒も視聴者も感動する、という流れだった。格差是正しよう!国に訴えかけよう!といった公助への言及はなかった。
ドラマ放送後にスペシャル番組として2週にわたって彼女の過去に触れるスペシャル番組があった。
いわゆる優しい先生、生徒と友達でありたがる先生、理想論者だった彼女が事件を経て悪魔のような鬼教師になる過程を描いたストーリーだ。
そういうところを見ると彼女の心の中には助け合いが大切だという考えがあるようには思えるが、本ドラマではそれを出さなかった。
あえて厳しくぶつかり、生徒にはその壁を乗り越えてもらい、子供達には「腐った世の中を是正して格差をなくす!」みたいな考えを持ってもらう。そう彼女は願っていたのかもしれない。
だが、ドラマでは生徒たちが「強い大人になる!」という段階で止まっていて、どう強い大人になるかが描かれておらず、なんとなく「のし上がれ!!」で止まっている気がしなくもないのだ。
おそらくあのドラマの生徒たちは弱者から搾取してやる!なんて馬鹿なことは考えないだろうが…
長くなってしまったが、「反自民にとって金言を言っているように見えたドラマが、実は自分たちの理想と逆のことを言っていた。果たしてこのドラマは本当に救いになるのか」と気になってしまったのだ。
日本の刑法で刑罰として死刑が課されているのは以下だ(刑法以外での死刑も少しあるが割愛)。
罪名 | 刑法 | 保護法益 |
---|---|---|
内乱 | 77条 | 国家の対内的存立 |
外患誘致 | 81条 | 国家の対外的存立 |
外患援助 | 82条 | 国家の対外的存立 |
現住建造物等放火(致死の結果を生じた場合) | 108条 | 不特定又は多数の者の生命、身体及び財産 |
激発物破裂(致死の結果を生じた場合) | 117条 | 公共の安全、人の生命 |
現住建造物等浸害(致死の結果を生じた場合) | 119条 | 公共の安全、人の生命 |
汽車転覆等致死 | 126条 | 交通の安全、人の生命 |
水道毒物等混入致死 | 146条 | 公共の安全、人の生命 |
殺人 | 199条 | 人の生命 |
強盗致死・強盗殺人(故意殺の場合) | 240条 | 人の生命・身体 |
強盗・強制性行等及び同致死 | 241条 | 人の生命・身体 |
人の生命は、刑法における個人的保護法益のうち最重要の法益で、国家的法益(国家の存立)と同じぐらい重視されている。しかし、死刑はその「人の生命」を奪う刑罰である。「人を殺したら、その犯人を殺す」という報復原理(同害復讐の原理)は一見わかりやすいが、そもそも刑法が「人の生命」を至上の保護法益としていることとは矛盾した関係にある。死刑は、すでに有罪判決を受け、拘置所に収監され、これ以上他者の生命を危険にさらす懸念がなくなっている人間から、刑法自体が最大限に尊重し保護しようとしているはずの人の生命を奪う刑だからだ。
これは憲法36条(公務員による拷問や残虐刑の禁止)に反しており違憲であるという観点から、1948年の死刑制度合憲判決事件において最高裁大法廷で違憲審査がなされたこともある。当時の判決文は次の通りだ。
生命は尊貴である。一人の生命は、全地球より重い。…憲法第十三条においては、すべて国民は個人として尊重せられ、生命に対する国民の権利については、立法その他の国政の上で最大の尊重必要とする旨を規定している。しかし、同時に…もし、公共の福祉という基本的原則に反する場合には、生命に対する国民の権利といえども、立法上制限ないし剥奪されることを当然予想しているといわねばならぬ。そしてさらに憲法第三十一条によれば、国民個人の生命の尊貴といえども、法律の定める適理の手続によって、これを奪う刑罰を科せられることが、明らかに定められている。すなわち憲法は、現代多数の文化国家におけると同様に、刑罰として死刑の存置を想定し、これを是認したものと解すべきである…社会公共の福祉のために死刑制度の存続の必要性は承認されている。
「全地球より重い価値がある、尊貴なもの」を奪う刑罰が、「社会公共の福祉のために」正当化される。こういうインチキくさいレトリックは、この後も死刑肯定論の随所に顔を覗かせる。こういうインチキで辻褄を合わせざるを得なくなってしまうのは、結局は「人の生命」が個人的法益として最大限に尊重・保護されるべき尊い権利なのか、国家に従属する劣位の法益なのかが、刑法条文の自己矛盾によって曖昧になってしまっているからだ。
(いっそ死刑を存続する国家は「国家には生殺与奪権がある。国家の円滑な運営と社会秩序の維持のために、国家は施政権の及ぶ範囲に住む国民や住民の生命を恣(ほしいまま)にしてよい」と明言したほうがいいと思う。そのほうがずっとわかりやすいし、現実に即してると思う)
死刑制度を存置する国家では、「個人が他者の生命を奪うこと」と「国家が他者の生命を奪うこと」の倫理的な違いはぼんやりしたものになり、逆に両者の権力・執行力の違いが決定的な差として立ち上がってくる。国家というシステムは、国民と住民に対して法的な権力・執行力を持っているから、人を殺すことができる。個々の国民と住民は、国家の権力・執行力に従属しているから、人を殺して捕まったら国家に殺される(こともある)。このような制度は、「人を殺すこと」の意味と是非を、価値ではなく制度の問題、倫理ではなく力の問題に還元する。
死刑制度を存置する国家では、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いにきちんと答えることができない。「国が『人を殺すな、殺したらお前を殺すぞ』と決めているからだよ」「人を殺して捕まったら自分も死ぬから損だよ」という風に権力関係や因果関係を説くことはできても、それは「人を殺してはいけない」というモラルの根拠にはならないし、むしろ「一定の条件では人を殺すことが許される」ことを追認してしまうからだ。
死刑制度を廃止(または執行停止)しない国家に住み、その現状を受け入れている自分は、「なぜ人を殺してはいけないのか」という子どもの問いかけに「人を殺すと殺されるから」という損得勘定以外の答を返すことができない。それが嫌なこともあって、自分は死刑を廃止すべきだと思ってる。
「なぜ人を殺してはいけないのか」なんて、「社会を安定化させるためのルール」でしかないしそんなの明らかなのに何か哲学的で深淵な問いであるかのように議論を始める(増田みたいな)奴が後を立たないのが不思議でならない。何も知識がなくても「議論」っぽいことができて俺頭いい話してる風の雰囲気を味わえるから気持ちいいとかそういう理由?
なぜ人を殺してはいけないのかなんて馬鹿な疑問中学生のうちに卒業しとけよ
アリとかハチなんかは社会性昆虫で、巨大なコミュニティーを築く。それに成功するのは勿論、仲間をいたずらに殺さず、助け合い子を養育するからだ。だが、社会性昆虫には「なぜ仲間を殺してはいけないのか」という問いなんか最初からない。なぜなら彼らはもっぱらその身体にインプットされた本能に従い、また、女王の出すフェロモンに操られるなどして、生きているからだ。むやみに仲間を殺したり遺棄したりしないとプログラムされているからそうしている、それだけのこと。
人間の場合は本能のプログラムを少なく経験値を重ねることで上手く生きれるような仕様になっている。だから社会構成要素の「人を殺してはならない」も後天的に口承という形で学習する。勿論、人を殺した方が自己や所属集団の為となれば人殺しを忌避すべきでないのであって、生活する環境によっては人を殺すか否か、その基準をどのように設定するかというのは違って来る。
「なぜ人を殺してはいけないのか?」という疑問にヒトがぶち当たるのは、なぜなら本能に頼って生きるのを我々は大昔に辞めたからだ、ということでしかない。
「なぜ人を殺してはいけないのか?」に対するニーチェの答えが「すごい」と騒がれているが、実はもっとぶっ飛んですごい
https://note.com/fromdusktildawn/n/n0781ea1ca467
なる記事を読んで少し思うところがあったので、メモしておこうと思う。
大学時代、もう10年以上前になるが、幼児教育で修士号を取得し、保育園で働くという異彩を放つ友人と二人で酒を飲んだことがある。
なんの話をしていたか忘れたが、その際、その友人が「なぜ人を殺してはいけないのか、子供たちに説明ができないじゃないか。」と言ったことを覚えている。
とかく人は「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに対して、道徳だとか、哲学だとかに答えを求めがちだが、少し現実をみて、「人を殺しても良い世界」を想像してみたらどうだろうか。
罪なくそのようなことが許される世界であったなら、私は家の扉の外には出ないし、家族も作らないだろう。
自分に少しでも不都合であったり、不愉快である人間は、殺してしまえば全て問題が解決してしまう。
そんな世界に一歩でも足を踏み出すと、いつもふとしたことで殺されるリスクがあるからだ。
そう、「人を殺してはいけない」は社会、いや、主観的な判断では”SOCIETY”が最も意味としては近いと感じる、を成立させるのに”必要条件”なのだ。
ユヴァル・ノア・ハラリの著書によると、人類発展の大きな理由の一つがこの”SOCIETY”の形成だったと書いている。
とかく利口と言われるチンパンジーにおいても、そのグループ構成は多くて100頭程度。他の動物も同程度だろう。グループ間のコミュニケーションネットワークも限られている。
一方、人類は国家でいうと10億人規模のコミュティ形成。会社においても数万規模のコミュニティが形成でき、そのネットワークはチンパンジーのようなアフリカの一地域限定ではなく、世界中、いや、宇宙にまで広がっている。
言わずもがな、コミュニティはコミュニケーションによって成立し、相互の信頼も必要となってくる。「嘘をつかない」、「話や言語が通じる」、「互いの利益を考える」等、信頼を獲得するのに必要な条件は多くあるが、最低条件が「私を殺さない」ではないだろうか。
だから、もし「なぜ人を殺してはいけないのか。」と人に聞かれることがあれば、私は即座に、「社会が成立しなくなるからだよ。」と答えるだろう。
ついで聞かれる質問はおそらく「社会に必要ない人は殺してもいいのでは?」であったり、「死刑はいいの?」とかだろう。
結論から言うと、私は「社会に必要ない人と判断された人」=「死刑となった人」と考えている。
「社会に必要ない人は殺してもいいのでは?」と言う問いに対しては、「そうだろう。だが、殺していい人は厳密に決める必要がある。」と考える。
誰もが主観で「社会に必要ない人だから殺そう」と実行していては、客観的にみて誤った判断による殺人が発生し、やはりコミュニティ形成に問題が発生する。
ルールが必要だ。人間のコミュニティはその規模が大きくなるにつれ、約束事から掟、そして法律とルールを形成していった。
「社会に必要ない人は殺してもいいのでは?」という判断をするのが、日本で言うところの刑法なのだろう。
もっとグループが小さい、例えば国家形成前のTRIBEであったり、VILLAGE規模であれば、殺人については知見者(長老とか?)の判断により、その殺人の是非が決められただろう。だがそれは各々がお互いをよく知っているような小規模集団だから成立していたものであって、国家規模の、知らない人間が大多数のグループでは成立しない。
そう考えると自然と「人を殺してはいけない」ことがわかってくる。
一部、「特権階級は人を殺しても良い」という社会。例えば現状のタリバン政権等が挙げられるが、いずれも後進国であり、そのルールによって、社会の発展を妨げ、結果、国の発展が滞っている。
「人を殺してはいけない」はSOCIETY(家族、親戚、集団、会社、社会、政府、国等)の発展には基本的に必要不可欠な、最低限の決まりごとなのだ。
友人に対しては、酒を飲みながら、上記のようなことを滔々と語った記憶がある(無論、その頃ユヴァル・ノア・ハラリは本を書いていなかっただろうが)。その時の友人の反応をあまり覚えていないが、この答えに対する反論はなかったと記憶している。
あの友人は今、子供の人格形成に大きな影響をもたらすであろう、幼稚園教育に力を注いでいると思う。
どんな教育をしているのか、今度聞いてみよう。
足りない頭でつらつらと書いた本投稿に、いろいろとコメントを書いてくれた人たちにまずはお礼と感謝を。
まず、最初に。小生、正直哲学は全然履修していないし、もうちょっと言うとニーチェなんててんで興味がない。
最初にニーチェの記事を引用したのは「なぜ人を殺してはいけないのか」というテーマを聞いて本稿に書いた友人との問答を思い出したためである(友人はニーチェとか好きそうだけど)。
哲学は…なんというか主観的なんだよね。「まあ、そう言う解釈もあるよね」で終わってしまいそうな問答がいつも並べられている印象。
コメントとかで気になった内容については以下に私見を書いていく。
まず、”社会”より”SOCIETY”が感覚的に近く感じた理由は
一方で
”社会”はもっと大多数の人間で構成されるイメージがあるから。とっても主観的だから、以下は”社会”でまとめる。
君が住んでいる家、来ている服、食べている食べ物は全て”社会”の産物である。
「社会を必要としない人」なんてものが存在するのであれば、どこか孤島で、自給自足で孤独に生きる人になるだろうから、自然と殺人は発生しないかも。
哲学を語っていたわけではなく、社会の必然性を語っていたつもり。
そこに権力が集中している場所(権限が大きい?)はあるかもしれないけれど、それも社会の構成要素の一つ。
だから、「社会を維持するために社会の権力に逆らってはいけない」とか、強制されて行うものではなく自発的に「社会を維持するために人を殺してはいけない」と考えるべきではないかと思う。
また、社会を維持したり、大きくすることは、その社会を存続させることに必要不可欠なことで、いわゆる生物が子孫を残すことと同様なのではないだろうか。
「なぜ人が殺し合わないように進化・発展してきたか」と「なぜ人を殺してはいけないか」は別の話ではないような。
「人が殺しあわないように進化・発展してきた」(すくなくとも自然淘汰されない程度に)からこそ、現在の社会があり、その社会の維持のために「人を殺してはいけない」というルールが維持されていると考えている。
「なぜ社会を成立させなくてはいけないのか」は別に当為の話ではないと思う。
「社会を成立させ続ける」という社会目的があって、初めて社会は存続してる。それがなくては社会は成立し続けない。だから「社会を成立させ続ける」は我々人間が営みを続ける上で、必要条件なのかと。
そう考えると、「人を殺してはいけない」は社会存続のための必須ミームなのかもしれない。
「人を殺してはいけない」という基本概念は「社会の維持」にとっては必須であり、いうなれば、生きる上で必須の事項なんじゃないかな?
ここまで書いて、ふと、確かに死にたい人間や、破滅を望む人間には「人を殺してはいけない」なんて概念は通用しないと感じちゃった。
そういう人は社会性の欠如から考えると、普通の人より、もっと野蛮で野生的…?、粗野な人種なのかな。
チ。という、地動説を扱った漫画があって、確かこのマンガがすごいでも2位を取ってた、面白い漫画なのだが。
天文に明るいインテリ増田もそういうのよくわからん普通の増田も楽しめるようになっていて、その3巻を読んだ勢いで日記を書いているのだが。
人間の命なんてものは世界の真理の前にはちっぽけなもので、それでも挑む手段として、意思のバトンを託していく。
このはてなの毎日読んでいるはてなブックマークも、最初にエンジニアが2005年に作ったものを、2009年に書き直して、2015年くらいにまた書き直して、そうやって別の人の手で書き直されて受け継がれて残っているもので、
そういう大きな流れに寄与できるというのは、とても素晴らしいことだと思う。
地動説のような崇高そうなものでなくとも、家族を作るとか、後進を育成するとか、その手の活動に敬意を感じるのは、人間のプリミティブな感覚なのではなかろうか。
なぜ人を殺してはいけないのかくらいプリミティブな感覚の話だと思うが、三大欲求やマズローのようなわかりやすいフレーミングがなされていないため、世の中的にそこまでコンセンサスはない気がするけれど。
個人の内面を尊重する流れで家族内や学校・会社内での文化の継承は軽視されがちだけれど、そこにカウンターとしてこういう作品にスポットライトが当たるのは、いいことだ。
まず、「なぜ人を殺してはいけないのか」という文は実は曖昧な要素があるので、「なぜ人を殺さない方がいいのか」に修正する。
ここで尋ねられているシチュエーションとしては、正当防衛その他の場合はひとまず除外し、積極的に他人の命を奪おうと思って奪う状況とする。
自分は「人を殺そうという思考は自分の心を汚すものであるから」と考えている。
他者の生命を奪ってよいという思考は、自分以外の存在の軽視である。
自分だけは尊く、自分以外の存在はそれより劣っているという思考自体が、劣った考え方であると考える。
(ここでは考え方に対する批判と、そういう考え方を持っている人物への批判は切り離す。ここで人格批判に入ると、自己矛盾に陥るから)
原因を外在させないこと。あくまで自分自身への冒涜か否かで判断すべきだと考えている。
原因を外に出せば、じゃあ死にたがってる人は殺していいのかということになる。
自説では、死にたがってる人を生の方向へ向けるのがよいということになる。
なぜなら、相手に、殺すという行為をさせずに済むかもしれないから。
ただし、そのために「守るために殺してやる」となったらアウト。
という考えで生きてきた。
そうだね。今の世界情勢の中で、日本人が「なぜ戦争をしてはいけないのか?」なんて問いかけても、周囲から失笑されるだけ。
なぜ人を殺してはいけないのか、という問いかけも同じこと。
問題の立て方が間違っている。なぜ人を殺してはいけないのか、ではなく「人を殺さなくても済むようになりたい」というのが正しい。
原始の人間社会においては、警察も裁判所も存在していない世界であり、自分の身は自分で守るしかなかった。
自分自身の家族や財産を自衛するには、自分の身の回りに近づく「敵」を排除しなければならない。
他人=敵を殺さなければ自分自身が生き残ることが出来ないのだから。
大昔の人たちは知恵を絞って、なるべく他人を殺さなくても、「誰もが平和に生きることが出来る社会=人を殺してはいけない社会」を作り上げて来たわけ。
その帰結として、人々でお金を出し合って集落を守る自警団組織が生まれた。
日本の歴史をこの視点で読んでみると、いかに暴力を個人から取り上げて、国家に独占させていくかの歴史とも言えるよね。
農耕の発明、集落の形成、部族を統一する神の出現、豪族、貴族、武士、近代国家の出現、軍隊と警察、核抑止、国際連盟、国際連合、世界政府・・・。
なぜ人を殺してはいけないのか?、という疑問が浮かぶ社会にいるよね、わたしたちは。
ハンナ・アーレントなら、人間社会の複数性の排除になるから殺人を犯した人が社会によって裁かれないのはダメだ、と言う主張になるんだろうけど、これは同時に殺人はしてもいいと主張する事を封殺しないんだよね。
その前提に立てば、なぜ人を殺してはいけないのか?、という問いに答える前に、その子の主張をある程度理解してあげなくてはいけないね。
その子にはその子なりのこの世界の理解の筋道があって、その上で人を殺してはいけない理由がわからなかったわけで、無から生じた疑問ってわけでもないだろうし。
本当にその疑問に答えるという事は、その子の世界観を一旦飲み込んだ上でじゃないと、結局その子には理解できないんじゃないかな?
「国家は暴力装置である」と喝破して批判された政治家が昔いたけど、「なぜ人を殺してはいけないのか」を突き詰めて考えてみると、そのことにたどりつく。
今現在の近代国家においては、一般市民は武装することを許されていない(日本と欧州諸国の話。アメリカについては例外中の例外)。
暴力=武装を独占していいのは国家だけであり、具体的には軍隊と警察組織の2者が暴力を独占する。
国家が暴力を独占することによって、国家内における治安を維持することが出来るようになる。
よって、一般市民は暴力を行使してはいけない。つまり、人を殺してはいけないし、人を傷つけてはいけないし、他人の物を盗んではいけない。
暴力を行使していいのは、交戦権を持っている軍隊と、刑事訴訟法に基づいて執行する警察組織だけ。
中世の日本は統一政府が無かったので、各貴族や豪族、宗教寺院は自分で武士を雇って武装して、自分の身を自分で守っていた。
昔の東大寺や比叡山延暦寺は自前で僧兵を雇って武装していたらしいことが歴史書に書かれている。
暴力を行使してはいけない、という考え方は明治維新後の近代国家の価値観なので、まだ150年ほどしか経過していない。
もし増田が人を殺したいと思ったら、公務員試験を受けて自衛官や警察官、防衛出動や海上警備行動を発令できる権限のある防衛大臣、刑務所の刑務官、死刑判決を下せる裁判官を目指せばいいのではないか。