はてなキーワード: 2001年とは
なりません。
受賞はおそらくズートピアだろう。
あるいはファインディング・ドリー。
ディズニーがピクサーを買収するのは2006年。90年代末から2000年代初期、ディズニー作品はパッとしなかった。良作はあるが、大作かと言われると…という感じ。作品テーマが明らかにマンネリズムに陥ってみえたのもこの頃。過去作のオリジナル続編のOVAを乱発したりしてな…。ジョン・ラセターの介入によって今のディズニー作品が存在すると言える。ちなみに2002年でディズニー作品からのノミネート作はリロ・アンド・スティッチとトレジャープラネット。
モンスターズ・インクが2001年(ノミネート)。その次のファインディング・ニモが2003年(受賞)。2002年はピクサーの新作が公開されなかったのだ。アカデミー賞はその年にアメリカで公開された作品が審査対象になるので、この年にピクサー作品はなかった。なおピクサーは06年以降1年に1作は必ず新作を公開している。
それから15回のうち
03、04、07、08、09、10、12、13、14、15年の10作品
千と千尋の神隠しが洗練された表現形式と優れたエンターテインメント性を兼ね備えた映画だったことは疑わない。
しかし、アカデミー賞の受賞までいったのはタイミングの問題が小さくなかったのだろう。
長編アニメーション部門ができて二回目という時期もあっただろうか?
いや、なによりも、運良くディズニー・ピクサーの脅威がなかった年にノミネートできたのである。
そんな中で、様式の異なる海外アニメーションを出品して、ノミネートされるってだけでだいぶすげえことしたってレベルですよ。
いま、ディズニーやピクサーの勢いが衰えないうちに日本のアニメ映画が受賞までいくことはおそらくない。
ディズニー・ピクサーの表現技術が日夜進歩を遂げており、エンターテインメント性も損なっていないのであれば、会員たちにとってあえて海外の異なった様式のアニメーションに受賞させる必要がない。
なにか根底から価値観を覆されそうな、とてつもないものが提示されない限りは。
だからね、千と千尋の神隠しが受賞したからって、簡単に、受賞するか?! って言わない方がいいよ。
しないから。
だいたいね、映画批評家協会賞とかいうの、あれってアカデミー賞の前哨戦なんて報道されるけれど、それならLA映画批評家協会賞をとったかぐや姫の物語がアカデミー賞受賞にならないのはおかしい空気だったと思うんですよね。
ほかにもボストンとかサンフランシスコとか、各地の映画批評家協会賞とやらをとってたんですよ、かぐや姫は。
さらに、各地の映画批評家協会賞でかぐや姫と競い合っていたのは、ベイマックスじゃなかったし。
でもレゴ・ムービーに至ってはアカデミー賞ではノミネート漏れまでしてるし…。
ヒックとドラゴン2でも、ソング・オブ・ザ・シーでもなく、ベイマックスなのだ。
というわけで、まずはノミネートするか?! を期待するのが妥当だと思います。
とりあえずイーガンもクラークも行けるんならハードSFとつくものをあさっていけばいいとおもう。
超高重力下の中性子星で生きる生命とか、中性子星に行くにはどんな装備が必要かとかが詳細に描かれた『竜の卵』とか、ちょっと話のノリ自体はライトすぎるかもだけど『マッカンドルー航宙記』とか。
もちろん気に入った作者のそれぞれの続編読んでもいいけど2001年はシリーズ最終作の3001年は読んじゃダメ。巻末でずっこけるから。
イーガンに関しては順列都市とディアスポラいけるんなら他の短編集や長編もそんなのばっかりだから楽しくて仕方ないはず。
意識関係はイーガン読んじゃうと他は少し物足りなく感じちゃうので、(もう売ってないけど)『マインズ・アイ』とか『ゲーデル、エッシャー、バッハ』とかの心の哲学系の本にまで手をだすハメになる。
新海誠は「君の名は。」で「秒速5センチメートル」を見た人に向けて、ファンサービスまたはSMプレイをした。
今も弄ばれた傷は消えないし、ハラハラもドキドキも「君の名は。」の後ろに見えた「秒速5センチメートル」のせいだ。
いつRADWIMPSが山崎まさよしに変化するのか、というのも見ものだった。
桜の花びらが秒速5センチ(遅い)で散る瞬間を、今か今かと見守った。
新海誠はポスト駿と言われているらしい。本人もピンと来てないだろう。
しかしだ。
1992年7月18日公開の映画『紅の豚』この映画のラストシーンを思い出してほしい。
「あれ、結局人間に戻ったっけ?豚のまんまだっけ?」となるだろう。
その9年後2001年7月20日に公開された『千と千尋の神隠し』
ラストの展開を思い出してほしい。
「豚…豚のまま終わる…!」
奇しくも『君の名は。』は『秒速5センチメートル』の9年後に発表されている。
「君の名は。」にはまだ、過去作を見た人をいたぶる仕組みがある。
君の名は。で雪野に気付いたときハッとしてうれしく思うのだが、それがどんどんと不安にかられていく。
雪野、やっと幸せになれてたかもしれなかったのに!ああああ!!
割れと呼ばれる違法コピーを使い始めたのは、どこかのサイトでエミュレーターを知り、海外サイトでゲームボーイのポケモン赤緑のROMをダウンロードしたのが最初だったと記憶している。
ファイルサイズも小さいゲームボーイだったが、自分のパソコンでポケモンが動いた時は感動したものだった。それから始まった。
ファイル共有ソフトを使い始めたのは2ちゃんねるで知ったWinMXが最初だった、それ以来Winnyとか、色んなダウンロードソフト、ファイル共有ソフトを使った。使いまくった。
みんなが金払っている物に金を払わない事が誇らしかった、自分は最新の存在であると優越感を持っていた。
漫画も音楽もアニメもゲームも映画もPCソフトも気になる物は全部落としまくった。
落としたファイルは「いつか見るだろう、使うだろう」と保存してあるだけで9割以上は使ってない。
古いファイルでは2001年とかある、当時落としたジョジョの奇妙な冒険はまだ読んでない。
今となってはクソ画質のアニメも当時は普通、それも落としただけで見てない、Gガンダムとかるろうに剣心は当時のまま全話あるけど1話も見てない、今更見る気にもなれない。
世の中には色んな音楽配信サービスがあるけど一つも利用した事無い、タダで落とすから、まあそれは今の人も同じかもしれないけど。俺の場合は使うという選択肢自体が無い。
ビデオレンタルを最後にやったのはVHS、映画館には21世紀になってから一度も行っていない、最近は映画泥棒とかいう広告が流れるらしいが見たこと無い、座席の予約ができるらしいがやり方を知らない。
アニメの公式無料配信なんて1度使っただけで結局、違法ダウンロードに戻った。なんか使いづらかったし。
P2P規制が激しくなり、使えなくなっても、違法ダウンロード自体はやめなかった、やめる理由が無いからだ
ソーシャルゲームが流行りだした頃、魅力を感じなかった、何故なら有料の物が無料になるからこそ価値があるのであって最初から無料なら手に入れる意味が無いからだ。
漫画の期間限定1巻無料とかも全く興味無く、そんなサービスを利用しないので使い方すら知らない
無料サービスが当たり前に提供されるようになっても、そっちにいかなかった、行ってもすぐやめた。
広告とかウザイし、変なストリーミングだったり、期間限定だったり、会員登録が必要だったり、専用ソフトが必要だったり、ファイル管理が面倒だったり、どうせ裏があるだろうと警戒してしまうからだ。
2001年9月11日のNHK総合テレビ「NHKニュース10」の最初の10分ほど。括弧内は書き起こし者注記。内容に影響しない相槌・言い淀みはほとんど省略。
書き起こし元
https://www.youtube.com/watch?v=q-f9Gat93XQ
http://www.nicovideo.jp/watch/sm22467865
―――――
(オープニング映像)
森田美由紀「こんばんは。」
森田「まず、今夜お伝えする主な項目です。」
堀尾「台風15号は今日、神奈川県鎌倉市に上陸しました。強い雨と風が首都圏を直撃しました。」
(VTR)武部農相「食肉や、牛乳・乳製品は食べても安全であると言われております。」
(VTR)消費者「やはりちょっと心配ですねえ。牛乳は大丈夫って言うんですけど、いや本当なのかなあ」
森田「牛肉や乳製品、安全性に問題はないのでしょうか。詳しくお伝えします。」
森田「イチロー選手がいる大リーグのマリナーズは10日の試合に勝って、早ければ日本時間の明日、地区優勝が決まります。藤井(彩子)キャスターはその取材のため、アメリカに向かっています。また、榎原(美樹)キャスターは夏休みです。」
堀尾「はい。台風のニュースをまずお伝えしようと思ってたんですが、たった今、こういうニュースが入ってきました。
CNNテレビによりますと、ニューヨークの世界貿易センタービルに、11日航空機が突っ込みました。
詳しいことはまだわかっていないんですけれども、CNNテレビはビルの上の部分、上部の部分が煙に包まれてる映像を伝えております。」
(ここで映像が現地ヘリからの映像に切り替わる。煙を上げる世界貿易センタービル北棟(左)と、まだ無傷の南棟(右))
堀尾「ニューヨークから中島(将誉)記者がお伝えします。この映像です。中島さん。」
中島「はい。現在私貿易センタービルから1キロほど北にあります、国連本部の32階に来ています。(堀尾キャスターが小声で「うわぁ…」と言っている)
ここから貿易センタービルの上部、3分の1程度がよく見えます。下の部分は他のビルに隠れて見えませんが、上部のうちの3分の1は見えてるんですが、そのうちの3分の1くらいから上がですね、大きく燃えていまして、黒い煙がもくもくと出ています。」
中島「その煙、今東の方に長引いて、たなびいていまして、この煙すでに3キロぐらいの長さで、こっから見ますと東の方に大きく延びていまして、この煙ますます今濃くなっている様子です。」
堀尾「中島さん、今そちらは何時で、そのビルの中には人がいるんでしょうか。」
中島「今現在こちら午前9時すぎなんですけども、もう働いてる人たちはオフィスにいる可能性があります。このビルは観光客もよく訪れる所で、2本…、2つ、2棟あるうちの1棟は上が観光のための展望台になっていまして…」
(「2棟あるうちの…」と話している間に、2機目の航空機(UA175便/機体番号N612UA)が画面右方から現れ、画面奥の南棟に突っ込み、炎が上がる。)
堀尾「あっ!」
中島「あ、今現在こちらからも火が大きく見えました。赤く大きな火が出ました。えー、煙ますます濃くなっております。
で、今言いましたようにここは観光客もよく訪れる所で、その他には下の方にオフィスがいっぱい沢山入っているんですが、もう9時を過ぎていますので、働く人たちが来ている可能性も十分考えられます。あの、こちらのメディアもですね、この様子を生中継で大きく伝えていまして、まだその原因とかこれからどうするのかといったところについては、どのメディアも混乱していると言って、詳しくは伝えておりません。」
堀尾「中島さん、あの今2機目の飛行機がね、ビルに突っ込んだようにも見えたんですけども、そちらは確認できますか?」
中島「ちょっとその、もう一つ火が出てる所、こちらから見ると裏になってしまうものですから…、ただこれ今出てる他にですねもう1か所小さい火が、もう少し小さいが出ている所がありますので、こちら確認できませんが、あのー、もちろんそういうことも考えられると思います。」
堀尾「んー… 最初にあの、ビルにぶつかった飛行機はどういう飛行機で、何人ぐらい乗ってたとかそういうような情報は無いんですね?」
中島「そうですね、このへんもまだどのメディアもこちら詳しいことはわからないということで現在情報確認中だという風に伝えています。」
堀尾「それいつ、何時何分頃起きたもんなんでしょうか。」
中島「そうですね、こちらの時間の朝の8時半から9時の間ぐらいに起きたように、こちらのメディアは伝えております。私がこちらに午前9時にちょうど来た時にはもう既にもくもくと煙が立ちあがり始めていましたので、起きたのは大体その頃かなと推察されます。」
堀尾「だいたい30分くらい前ということですね?」
堀尾「あの、下にはたくさんの人たちがいるような様子はそちらからは確認できますか。」
中島「こちらからは下のほうが先ほど言ったとおりマンハッタンの高いビルがいっぱい建っていまして、下の3分の2ぐらいはこちらからは見えません。ただこちらのメディアが伝えているところでは、人が多く集まっていますが警官などがですね、これを排除している様子を伝えています。」
堀尾「世界貿易センタービル、マンハッタン島の南の端にある超高層ビル群の中の一つですよね。あの、ホテルとか企業とかが入った6つのビルディングから成ってるということなんですけども、こちらの情報ですと、1200を超える企業がこの中に入っておよそ5万人が働いてるということで、最上階にはマンハッタンを一望できる展望台があって一日8万人の観光客が訪れると言われているんですが、9時というと観光客の方がいる可能性はどうですか。」
中島「そうですね、9時ですと観光客(が)ちょうど入れる時間になったところで、(1機目の衝突が)起きたのはそれより少し前ですから、まだ観光客が展望台に上がっていたということはあまり考えにくいと思います。
ただ先ほど言いましたようにオフィスで働く人たちは8時すぎには、ウォール・ストリートという金融街の近くで金融関係の企業も多く入ってるものですから、マーケットが開く前には来ていますので、すでに来ていた可能性は十分あります。」
(ヘリ映像がズームアウトし、周辺のビルやハドソン川が画面に入る)
堀尾「うわぁ…。はい、現在ご覧いただいているのはニューヨークの世界貿易センタービルの生の映像です。
時間は午前9時を過ぎたところで、中島記者によりますと、およそ30分から40分くらい前に飛行機が、航空機が突っ込んでですね、ご覧のように世界貿易センタービルの上部の部分がご覧のように煙に包まれている映像です。
そして2機目もぶつかったようにさきほど見えましたが、それは確認されておりません。」
(2機目衝突時のVTRに切り替わる)
堀尾「あっ」
堀尾「これ2機目ですね、これ2機目が衝突する瞬間の映像をVTRでご覧いただいています。赤い炎とそして、煙が出てきました。これが先ほど中継の中で、航空機がビルに衝突して2つ目の炎と煙が上がったところ、今VTRでご覧いただいています。」
(同VTR2回目)
堀尾「もう一度、その時のVTRをご覧いただきます。これです。はい。私が中島記者と中継で結んでいる間に、生の中継の中でご覧いただいた様子をVTRでご覧いただいてます。」
(同VTR3回目。「ニューヨーク 日本時間午後10時」のテロップが入る。)
堀尾「世界貿易センタービルに航空機が2機、衝突したものと見られています。はいもう一度ご覧いただきます。ニューヨークは午前9時を過ぎたところです。中島さん。」
中島「今そちらから伝えた映像がですね、こちらの各メディアが生中継で伝えています番組の中でも今繰り返し放送されまして、こちらからはもう1機がぶつかったところの火もやや上がっているのが今見えてきたんですが、それからあと煙も上がったのが見えてきたんですが、この様子がはっきりとこちらのメディアでも伝えていますので、これはまず間違いないと思います。」
中島「こちら各種、各メディア…こちらでいいますとABC・NBCなど3大ネットワーク、またCNNなどがヘリコプターを出したり、あとはそのすこし離れたビルにですね「天カメ」(お天気カメラ)といいますその、ビル上に設置している、通常交通情報とか雲とかの様子とか空の様子とかを伝えるカメラがあるんですけども、自動のですね、そういう映像を使って伝えている様子です。」
(再び中継映像に戻る)
堀尾「なるほど。ご覧いただいているのはニューヨークの世界貿易センタービルです。この世界貿易センタービル、マンハッタン島の南の端にある超高層ビルで、センターの中には1200を超える企業が入っておよそ5万人が働いています。先ほど2機の航空機が時間を違えてですね、このビルの上部に衝突したという衝撃的な映像が飛び込んできました。」
もう今から15年も前になるんですね。
当時の私は13歳。中学1年。
母の友人がジャニヲタだった。
経緯は聞いていないがその友人から急遽チケットが余ったから来ないかと誘われて行った。
今考えると吾郎ちゃんが例の謹慎で参加しないことがわかったから急遽余ったのかもしれない。
少し母の話をすると母は元々郷ひろみが好きで、
たぶんその流れでSMAPも好きだったんだと思う。
でも「木村はやっぱかっこいーわー」と現場に行くと言うタイプ。
そんな母の元に生まれた私は
気がついたら慎吾ちゃんが好きだった、俗に言うジャニヲタ英才教育タイプだと思う…
相当早くから茶の間ファン(他ジャンルでいうと在宅ヲタというやつ?)はしていたから
当時まだ150センチほどしか身長がなかった私は必死で人の間から見たのを覚えている。
周りのお姉さん方、開演前に厚底ブーツに履き替えてたのよく見かけてた。笑
初めていったし、今みたいにSNSが発達していたわけでもなく
アルバムを事前に予習して現場に行く、なんて当たり前の現場前ライフハックも当然知らない私。
しかも「ウラスマツアー」は「ウラスマ」というカップリング曲のベストアルバムツアーだったため、
本来のツアーよりもおそらくメジャータイトル曲は少なかったはずなのである。
それでも私は今でも当時のブロンズみたいな髪色でロン毛の慎吾ちゃんがかっこよくて、
とにかくかっこよくて、手を伸ばしても届かないのにすぐそこにあった眩しいステージに引き込まれて魂ごと持っていかれる経験をしてしまった。
色々拗らせて、それなりに色んなグループを見た今とは違う、
まっすぐにエンターテイメントに心動かされた初めての経験がSMAPだったのは本当に贅沢だけど本当に良かった。
15年立ってもかすかに映像として記憶に残ってるんだから、たぶん死ぬまで忘れないと思う。
そのあと超名盤だと今でも思っているDrink SMAPツアー、慎吾ちゃんがTarzan企画でダイエットして
Drink Smapツアーでやっと5人揃ったSMAPを見られたし、仲間って強い、SMAP強い!と
ただ、実を言うとこの後デビュー当時からSMAPと平行して茶の間ファンをやってた嵐に降りてしまい、SMAPからは少し遠ざかった。
さらにその次もチケットが取れず現場に実質4年ぐらいいけなくなったこととそもそも長く続いた世界に一つだけの花ブームでうんざりしてしまったことが原因)
それでも一線で活躍している彼らの活躍はテレビで、CDで定期的には見続けていた。
そんな彼らの新たな一面を見られて、また魅力を感じたのはKis-My-Ft2(以下キスマイ)のデビューが大きかった。
デビューする少し前からキスマイを応援し始めた私だったが、(ちなみにキスマイデビュー後に前述の嵐からキスマイに降りています)
賛否両論あったし相当露骨なバーターだったので私自身も首をかしげることもあったが、
SMAPが先輩として後輩を可愛がる姿というのは新鮮だった。
あの頃よりおじさんになっていても、やっぱり圧倒的オーラはそのままで、やっぱり格好よかった。
露骨なバーターのおかげか、歌番組の観覧にキスマイ目当てで応募し、SMAPも一緒に見るという(世間的価値は逆なのでしょうが私の価値としてはこの感覚なのです。笑)
一石二鳥の経験をしていくうちに、やっぱりもう一度SMAPのコンサートに行きたいかも・・・と思うようになった。
そして私は2012年にGift of SMAPの東京公演に足を運んだ。
圧倒されるばかりだった。あの頃もすごかったけど、やっぱり今もすごかった。
むしろ今の方が、すごかった。痺れた。震えた。
あの頃と違ったのは周りの観客におばあちゃん達が増えていたことぐらいか。笑
脳天から突き抜けて舞台上の眩しい光の中に魂ごともっていかれそうになるあの時の感覚。
初めて足を運んだ2001年からはもう10年以上経っていたのに、まだその感覚味あわせてもらえるんですかと驚いた。
興奮しながら母に連絡したのを覚えている。
母は嵐にはてんで興味を持ってくれなかったが、SMAPと一緒にいるキスマイには少し興味をもってくれるようになり
上京して離れて住むようになった私と連絡することが増えていた。
その後のMr.Sツアーはチケットが取れず、足を運べなかった。
でも、次は母と入りたいし、2年後は25周年だし、こりゃあ次は楽しそうだな~と呑気に考えていた。
そしたらこうなった。
どれが本当の話でどれが嘘なのか陰謀なのか陰謀なんてそもそもあったのか、本当のことは知りえない。
母は例のマネージャーさんの話も副社長とその娘の話も通じるので
あーでもないこーでもないと話していたが
諦めではなく「もう痛々しくて見ていられない」という意味でそう言っていた。
どんな形でも残ってさえくれればと願うファンがいる一方で
私も母と似たような感覚でいる。
元をたどればメンバー内の確執なんかではないことくらいわかってる。
それでも結果こうなった。
一緒にい続けるって労力がいる。
仲良しこよしの飲み仲間ではなく、一緒に戦うパートナーだからこそ
妥協した関係じゃないからこそ、我々の想像を超えた関係だからこその結果なのかもしれない。
復活を期待する声もある、本当の原因ってやつを探している人もいる、
だけどそんな周りの状況を含めて、「もういいよ無理しないで。」と思う人もいるんです
楽しかったあの日の思い出を傷つけられたくないだけかもしれないですけどね。
何もまとまっていないけどとにかくつらつら吐き出したかったのでここで。
http://b.hatena.ne.jp/entry/blog.livedoor.jp/nwknews/archives/5088518.html
これめちゃくちゃブクマついてるけど、何コレ?何でブクマも1もリクルートのせいにしてるわけ?
そもそも1の業界構造の認識が頭悪すぎるし、誰の入れ知恵かは知らねえがリクルートのせいにしすぎだろう。
理美容業界の市場規模は2兆1658億円で、この1の主張通り、50%が中間業者だとしたら1兆829億円が中間業者(リクルートなど)の売上というわけだ。
もし本当に中間業者が半分抜いてたとしたら、一人あたり148万円しか残らない。
そして148万円の中から固定費や変動費を削ると・・ってそんなわけあるか。
そもそも1のスタンスが、「俺は独立するけど、この業界を”誰か”どうにかしてくれ!」というポジションなのが腹立たしい。
あと、美容室が結束して集客して美容業界を変えよう!とか言ってるけど、結束するだけで集客出来るなら、そりゃしますわ。
その1年前の2000年に美容室向け椅子シェア1位の会社が発起人としてRasysaという美容ポータルサイトを立ち上げてる。
美容室が集まって組合的に立ち上げたサイトだけど、みんな、知らないよね?存じ上げませんよね。
結局ポータルサイトなんて、いかに広告費を投じるかが勝負なのに、広告を大きく投下する判断をしなかったから知られてない。
一方でリクルートは垂直立ち上げのために広告費を大きく使い、ビジネスを立ち上げた。
ただ、それだけの話。
リクルートなんて、ホールディングス全体で年間900億円も広告突っ込んでくれてるんだぜ?
単にホットペッパーさんが世間に広告を打って、美容室にお客さんを呼んでくれた。それだけの話。
ちなみにホットペッパービューティのネットポータルにおけるシェアは86%~92%程度と噂されている。
ホットペッパビューティの一番高いプランの半年パックは月額57万円(去年は36万円?)
この価格帯にも関わらず、去年は30%の値上げをしてるし、過去に何度も値上げを繰り返しているが、お客さんは離れない。
独占状態での値上げは独占禁止法(優越的地位の濫用)に当たらないのか!とのお声もありますが、需要があるから値上げしているだけ。
まさに力は大きくなっている。しかもリクルートライフスタイルの中でも未だにビューティ部門は年次115%ほど成長してるオバケ事業だ。
ホットペッパービューティのせいで安売りが加速していると嘆いてる。であれば法律動かせよと思う。
過去、美容業が不衛生では電線病が流行るという理由で法律によって価格競争が起こらないように守られていた。
実は今もその法律は生きてる。「生活衛生関係営業の運営の適正化及び振興に関する法律」という法律だ。
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S32/S32HO164.html
1のいうような組合が各エリアに存在している。その組合が「健全な営業を阻害するような価格で営業している美容室がある」と厚生省に言えば、他社の営業方針に関して勧告を出せる。
価格是正の指導に命じるように伝えることができ、命じない場合、50万以下の罰金が請求される(ホットペッパービューティより安い!)
と、まあ国でも「価格競争を起こすと美容室の衛生状態が悪くなるからある程度守るよ」という法律は存在してるのだ。
1やブクマは「リクルートが悪い」と言うんじゃなくて、もっと大きな視点で物事をとらえてくれよ。
そして、リクルートにも功績はある。欧州や欧米の美容室のネット予約比率は1%に満たない中で、唯一日本は10%を超えてる。ネット予約先進国だ。
電話とらなくても済むようになったんだよ。素晴らしいじゃないか。俺は電話苦手だからすげえ助かる。
長々と書いたが、最後に言いたいのはリクルートは2.2兆円市場の理美容業界において、たった460億円しか売上がないんだぜ。50%は言いすぎだ。
(年齢はただの数字にすぎない)
Age Ain't Nothing But A Numberはアメリカ合衆国ニューヨークブルックリン出身の歌手、アリーヤ(Aaliyah, 1979年1月16日 - 2001年8月25日)の1stアルバムのタイトル及び同アルバムに収録の楽曲。
歌詞の内容は「年齢なんてただの数字~あなたへの愛は決して変わることがない」みたいな感じ。
ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%A4
en.wikipedia.org/wiki/Age_Ain%27t_Nothing_but_a_Number
en.wikipedia.org/wiki/Age_Ain%27t_Nothing_but_a_Number_(song)
ついさっき、こんなエントリーを見かけた。
私は淫夢を憎んでいる - はてな匿名ダイアリー
これは1年半ほど前に書かれた文章で、当時はまだ淫夢コンテンツが隆盛の頃である。それが今更になってTwitterで密かな話題となっていた。この文章を見た瞬間に「俺も持論を展開したい!」と子供染みた高揚感に襲われたので、一つ、書いてみる事にした。
その持論とはパンクロックと淫夢が根底では同じ現象であるというものだ。ただ、それを解説する為には、まず淫夢というコンテンツそのものについて考えなければならない。
ここで指すところの“真夏の夜の淫夢(以下、淫夢と呼称)”とは、2001年にコートコーポレーションから発売された「BABYLON STAGE34 真夏の夜の淫夢」とその他関連したゲイポルノビデオの内容を大手インターネット動画サイト「ニコニコ動画」に転載した一連のコンテンツである。そもそもは、プロ野球選手の多田野数人氏がこのビデオに出演したとされるスキャンダルが2002年の夏頃に週刊誌やインターネット等で報じられ、それを面白がった2ちゃんねるのユーザーがこれを「ネタ」とした事に始まる。要するに、このコンテンツはかなり息の長いものであり、その歴史は14年にも及ぶ事になる。
一方で、淫夢が日本に於けるインターネット文化のメインストリームに飛び出してきたのはごく最近である。例えば、ニコニコ動画で流行を発生される端緒となったMAD動画である「霊夢 so クッキー☆」が投稿されたのが2010年10月30日のことだ。流行の原因はひとえに萌え文化に食い込んだ事にある。当時流行していた東方Projectに乗っかり、馬鹿にするような形で、淫夢は知名度を上げた。そしてこの動画で淫夢要素として登場したのが通称「野獣先輩(役名:田所浩二)」である。最初にこの動画を見ると恐怖と嫌悪感を覚えることだろう。最初はアニメキャラのMADなのに、動画後半でガタイの良い野性的な男が突然喘ぎだすのだ。インパクトは大きいが、初めてこの動画で淫夢に触れた人間は到底笑う事ができないだろう。
そう、冒頭のエントリーでも言われていたように、淫夢のコンテンツは「人を遠ざけること」を以て成立していた。そして、同時に人気のコンテンツに対して「喧嘩を売る」ことも淫夢を支える原動力となっていた。ところで、冒頭のエントリーでは「理解されることを嫌う」という部分に主軸が置かれていたが、「風評被害」などの全方位爆撃と言われるような無差別の迷惑行為が行われる原因には余り言及されていない。そもそも、意味もなく「風評被害」を撒き散らしてコンテンツを占領する事は、淫夢の大きな特徴の一つである。しかしこれを単に「定型文を楽しみたいがため」であると考えるのは早計である。このような無差別の破壊行為を行う危険分子には一つ記憶がある。それは1970年代後半のロンドンパンクである。
パンクロックと言われて皆さんは何を想像するだろうか。まずもってハードコアなロックを想像する人が大多数であると思う。次にセックスピストルズを連想する人が多いだろう。ここでイギー・ポップを想像された方は私と趣味が合うので、酒でも飲み交わしたいところだ。それはさておき、パンクロックというのは至極曖昧な分類である。結論を言えばハードでメタルなロックは特にパンクではない。パンクロックとは、超絶技巧に進化しすぎたロックに対する反骨として、若者たちが楽器を取って破壊的な演奏をしたことに始まる。パンクロックは常に若者と共にあった。その中でもロンドンパンクとセックスピストルズはパンクの代名詞的に語られる事が多い。そして、今回淫夢のムーブメントと対比して語るのも、ロンドンパンクであり、セックスピストルズである。
パンクロックの特徴の一つとして、演奏が適当で、歌も酷く、歌詞は過激、という部分がある。最早そこに芸術性などなく、ただ単調な破壊行為のみが残る。そういう音楽である。そして、ロンドンパンク全盛期(のみならずパンクの曲)の歌詞を聞けば分かるが、その内容は全方位爆撃という言葉に等しい。そしてそれが流行した背景には当時の社会情勢があった。1960年代以降のイギリスと言えば「英国病(もしくは"Sick man of Europe")」と呼ばれる長い停滞の時代にあった。特に1970年代後半は労組の賃上げ交渉のために社会機能が混乱に陥り、それが更に深刻な影響をイギリス全体に与えていた。
淫夢の流行の端緒となったのは「霊夢 so クッキー☆」であるとの持論を先程展開したが、それでも淫夢がアングラの文化である事に変わりは無かった。淫夢が一般的にも受け入れられるようになったのは2013年か2014年ごろの事である。2014年の冬には女子中高生の流行語として「微レ存」(“微粒子レベルで存在している”という内容の淫夢用語)が取り上げられているなど、ある程度社会に影響を及ぼす立場に淫夢というコンテンツが進展している事が分かる。
参考:「Ameba」が2014年「JCJK流行語ランキング」発表 流行語1位は「ダメよ~ダメダメ」、「かまちょ」「KS」など新しいJCJK語も上位に 流行っていたモノ・コト1位は「壁ドン」
https://www.cyberagent.co.jp/news/press/detail/id=9551&season=2014&category=ameba
さて、2010年から2014年の間に何があったかと言えば、2010年ごろから尖閣諸島の問題が表面化し、更にGDPでは日中の順位が逆転、対中関係は政治的にも国民感情的にも急激な悪化の一途を辿った。2011年には東日本大震災とそれに伴う原発事故が起こり、それ以来日本社会に大きな影を落とした。2011年から2012年に掛けては円高が続き、日本経済は大きな不況に陥った。そもそもバブル崩壊以後の日本経済は停滞を続け、災害リスク、政治不信など、社会情勢はとても良好とは言えなかった。要するに、日本は英国病と何ら変わらない状況に陥っていた。(もしくは今も陥っている。)
当たり前だが、人間はそういう状況で不満を溜め込むものである。淫夢はそういった不満の捌け口となる「パンク的」なコンテンツとして、この頃から急激に勢力を伸ばしていった。淫夢というコンテンツが「人を遠ざける」事を絶対の掟とするのは、この攻撃的な性質と表裏一体である。そして、今度は「攻撃する事」そのものが淫夢の価値として利用されるようになった。
ニコニコ動画に於ける淫夢というコンテンツの裏にはニコニコ動画の運営に対する反骨精神が常に見え隠れしている。例えば「ニコニコ本社爆破シリーズ」や「ニコファーレ」を淫夢動画で占領するなどといった行為にそれは顕著である。ニコニコ動画では卑猥な動画は削除されるようになっている。淫夢を題材にした動画もそういった理由で削除される事が多く、「ホモコースト」と呼称されている。ここでのニコニコ動画の運営はある意味既得権益層として扱われている。そして、淫夢というコンテンツに集った人間を抑制する「大人」として常に反骨の対象となっている。この構造はロンドンパンクでも同じだった。有名なセックスピストルズも契約を中途破棄した大手レコードレーベルのEMIに対して中傷を加えるような楽曲『EMI』を制作し発売している。
かつては純粋に同性愛者に対する侮蔑の意味から成り立っていたコンテンツも、近年では方向性が変わり、日本社会全体に対する皮肉や激しい中傷が込められたものとなっている。
ロンドンパンクは一瞬にして終焉を迎えた事で知られている。例えばセックスピストルズはアメリカツアー中に解散し、それからロンドンのパンクブームは急激に終息へと向かった。結局はバンドメンバーの喧嘩別れなのだが、一般的には「セックスピストルズが時代に果たした役割は終わっていたから」と解説される事が多い。これは何を示すのか。
淫夢に目を移してみよう。2010年頃、ニコニコ動画で淫夢が流行りだしたとき、流入してきたのは所謂「はぐれ者」のような人間だった。彼らは「人に理解されない」という事を自覚している。そこでそれを逆手に取って、「絶対に理解されないコンテンツ」で活動する事にしたのだ。淫夢が隆盛すると、淫夢という荒削りだったコンテンツにも多くの優秀なクリエイターが参入してきた。彼らもまた社会のはぐれ者だったが、その技術力によって淫夢というコンテンツはニコニコ動画の中で確実に育っていった。そしてすぐにも一般的な人間にも受け入れられるコンテンツへと淫夢は成長した。
近年のアニメ文化にも同じ現象が見られる。元々深夜帯のアニメは「はぐれ者」の為のコンテンツだった。しかし、深夜アニメのコンテンツとしての成長とともに、十分一般大衆に受け入れられるようになってきた。しかし一方でそれは“古参”のオタクと新たにアニメを視聴し始めた人間の間に溝を生む事になった。近頃では、社会的に弱者というよりは立場の強い者でもアニメを見るようになったので、そういった人間の行動がオタクの内輪で問題になる事も多くなってきた。(ラブライブに関する騒動など。)
淫夢でもこれと同じ事が、より急激なスピードで起こった。淫夢は大衆化が進み過ぎて、比較的容易に理解されるコンテンツとなってしまった。動画のコメントにも「掟」を破るようなものが出てくる。また、淫夢動画自体も攻撃する側からされる側へと変化していった。そうなると、過激な作品を作る意味もなくなっていく。淫夢に関連する動画を作っていたユーザーは更に先鋭化した動画へと転向するか、もしくは全く違うコンテンツに乗り換える事を余儀なくされた。もちろん、動画を作る人間が残されたユーザーに居なかった訳ではないが、理解しがたい価値感から生まれる笑いを作り上げる事は難しくなった。現在の淫夢では、無意味な誹謗中傷を繰り返すタイプのコンテンツと、「現場監督」などの更に理解しがたいコンテンツへと興味が進展している。一方でコアな視聴者層の流出も止まらず、最盛期にはニコニコランキングのその他カテゴリ10位以内を常に占拠していたが、今では半分にも満たないことが多くなった。
セックスピストルズの解散理由であるところの「役割が終わった」とは、言い換えれば過激な事をしても面白くなくなったということである。自分自身がメインストリームに近づいてしまった事により、メインストリームに対する攻撃を加える事が最早できなくなった時点で、ロンドンパンクや現在の淫夢というコンテンツが終焉や衰退へと向かう事は規定路線であったということである。
攻撃的で人間を遠ざけるようなコンテンツは何も淫夢だけではない。2ちゃんねるの「なんでも実況板J」発のコンテンツには類似した攻撃性、特殊性を持ったコンテンツが多く存在している。一つは野球選手を題材としたカッスレなどの誹謗中傷を行うコンテンツである。もう一つは聞いた人も多いと思うが唐澤貴洋弁護士に対する一連の誹謗中傷である。どちらも淫夢より更に先鋭的であり、社会に与える影響もコンテンツの規模に比して大きい。後者は特に爆破予告やGoogleMapの書き換え騒動などで、社会に対して影響を与え始めている。
そしていずれも淫夢のコンテンツに集っていた人間とユーザー層が被っているという事が重要である。そして、これから淫夢と同様に勃興していく可能性を秘めている。それはつまり、淫夢というコンテンツはもしかするとこれから起こる日本社会全体に対する反抗的なムーブメントの始まりに過ぎないかもしれないということだ。淫夢というコンテンツは「因縁を付けて他のコンテンツを占領する」という重要な特性を発現し、それが日本のアングラなインターネット文化に与えた影響は大きい。
パンクロックが「タブーを無視した過激な表現」という点で後の様々なコンテンツに影響を与えたように、もはや淫夢というコンテンツが日本の文化に与える影響は無視できないものとなっている。冒頭の記事で「ニコニコ動画を滅亡させるもの」として記述されていた淫夢は、果ては日本を一種の意味で「壊す」コンテンツとしての役割を担う可能性がある。淫夢はニコニコ動画であり、日本でもあるのだ。つまるところ、今起きている淫夢というコンテンツの拡散はこのコンテンツに特有の事象ではなく、もっと巨大な社会的情勢の要請から来るものであるという事だ。
では、我々は次に何をすべきか。社会を食い潰しながら、次々と勃興しては衰退する攻撃的なコンテンツを前に、それをどうするべきか。淫夢の風評被害を広める人間が悪い訳ではない。唐澤貴洋に殺害予告をする人間が悪い訳でもない。そしてパンクロックを演奏した人間が悪い訳でもなかった。彼らに対して批判を加える前に、彼らに対して何ができるのかを考えてみてほしい。
エロゲには泣きゲーというジャンルがある。傾向として18禁要素は少なく、その必然性が薄いこともままあることから時にエロ不要論が主張されたり、あるいは泣きゲーはエロゲではないと揶揄する人もいるジャンルである。
しかし「一般に、泣いたあと人間は気分がよくなる」(ウィリアム・フレイⅡ『涙―人はなぜ泣くのか』)。快楽を得ながら体液を体外に排出する行為をエロと称するのであれば、その意味で泣きゲーがエロゲの一ジャンルであることは間違いない。
泣きゲーはある日突然出現したものではなく、それはどうプレイヤーの涙を誘ったかの技術の積層であり、様式の歴史である。個々の作品論は星の数ほど存在し語り尽くされてきたが、この歴史という点での言及は少ない。当時それは歴史ではなくリアルタイムだったのだから、当然といえば当然ではあるが。
2016年現在、エロゲ論壇は死に、泣きゲーが語られることも少なくなった。
だが、だからこそ、最初からぶっ通してやり直してみることでその変遷について、その後に何が継承されていったのかという点で俯瞰することが出来るのではないか。
ということでやり直したので、増田に書きなぐっておく。
そもそもエロゲの目的は何かといえば、もちろんエロである。主役はエロCGであり、脇役に過ぎない物語の出来を評価する者などいなかった。
その様子が変わり始めるのは80年代後半、『リップスティックアドベンチャー』(フェアリーテール,1988/5)辺りからである。エロゲが一つの娯楽物語として成立することが示されたことでプレイヤーはその物語性に目を向け始め、脇役だった物語はSFやホラーなど様々な要素を取り入れていく。その一つが「感動」であった。
例として、早くも1991年の『ELLE』(elf)に対して「ホロリとした」という感想が存在する(小林義寛『ゲーマーはエロと戯れるか』)。泣ける物語かというと微妙だが、今プレイしても確かに面白いSFエロゲであり、感動的要素が含まれていると言える作品である。
人は感動すると涙腺が弛むことがある。逆に言えば、涙腺が弛む種類の感動がある。この点での先行研究として米沢嘉博の『マンガで読む「涙」の構造』があるが、そこで昭和の泣ける少女マンガ、少年マンガを分析した米沢は、女性は不幸における愛と感動の物語に泣き、男性は友情、努力、勝利の感動に泣く、としている。
男性向けであるはずのエロゲはしかし、何を血迷ったか「不幸における愛と感動」を物語に取り込むことに成功する。
『DESIRE』(C's ware,1994/7)、『EVE』(C's ware,1995/11)、更に『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』(elf,1996/12)と傑作を連発した剣乃ゆきひろはいずれも物語の中核に少女の悲劇を配した。それは壮大かつ感動的な物語の帰結としての落涙をしばしば生み、その感想に「泣いた」というものが少なくない。
さらに『同級生2』(elf,1995/1)の桜子シナリオにおいていわゆる難病物がエロゲに導入される。それは当時十分に涙を誘うものであったとして、これが泣きゲーの元祖だとする説も存在する(小林,前掲)。
努力・勝利の感動が無かったわけではない。例えば『闘神都市2』(ALICESOFT,1994/12)は自分の無力さが生んだ悲劇をきっかけに、強くなるために精神をすり潰し、廃人になってでも最後の敵を倒す物語であり、高く評価された。……しかしそこにはやはり「悲劇」がつきまとっている。
「不幸における愛と感動」は、こうしてエロゲで広く受けいれられていく。
難病物は概ね、主人公とヒロインの仲が深まるにつれて病状が悪化する展開をとる。これを病気に限定せず、「不幸」に一般化したものを涼元悠一は「萌やし泣き」と呼ぶ(涼元悠一『ノベルゲームのシナリオ作成技法』)。ヒロインとの幸福な日常をまず描いてから一気に雰囲気を暗転して二人の不幸な状況を綿密に描写、涙腺の緩んだプレイヤーに最後の一押しをするという、泣きゲーに慣れた人にはお馴染みのそれである。
この萌やし泣きは、しかし突如エロゲに登場したわけではない。
前述の闘神都市2には、ごく短いが構造上萌やし泣きと解釈しうるイベントが存在する。同級生2の桜子シナリオは難病物である以上もちろん萌やし泣きだが、その不幸描写は非常に短く、またオチが「主人公の勘違い」というギャグである。それは手法としては古くから存在しており、変わってきたのは、それを物語上どの割合で展開するかという点であった。
1997年5月、それが一つの分水嶺を超える。『ToHeart』(Leaf)のHMX-12マルチのシナリオは、萌やし泣きを1ルート全てを費やして実現した。
おそらくこれが(エロゲ上で)萌やし泣きの威力が十分に発揮された最初の例だろう。彼女の物語は感動的な場面をクライマックスに据え、それ以外の要素――ギャグも皮肉もセンス・オブ・ワンダーも滲ませること無く、ストレートに終わった。そのシンプルさに価値があったと言え、本作は多くのプレイヤーから「泣いた」と絶賛された。
そしてもう一つ、作り手の意思という点でも分水嶺を越えたものが登場する。『MOON.』(Tactics,1997/11)が「鬼畜サイコ涙腺弛まし系ADV」と自ら名乗ったことは、その後の歴史的意味でも強く象徴的である。もし泣かすという意思で作られたものを泣きゲーと呼ぶならば、その明示という点で最初の泣きゲーは本作と言うこともできるかもしれない。
MOON.は大量のエロシーンを擁し、エキセントリックな人物造形も無く、萌やし泣きでもない。後の作品よりも本作が泣けるし好きだという人もいるが、多くの人を確実に泣かせる威力に本作があと一歩不足したことは事実と思う。
とはいえエロゲはついに、プレイヤーを泣かすことを主目的とし始めたのである。
ToHeartで泣かせる物語構造が確立し、MOON.で泣かす意思が示され、そしてそれは『ONE』(Tactics,1998/5)において結実する。MOON.のスタッフが作ったそのエロゲには、萌やし泣きが全ヒロインのルートで導入された。
当時の多くのプレイヤーにとって、それは致死量だったと言っていいだろう。
本作はMOON.と変わって18禁要素は非常に薄く、無くても物語は成立する。物語は全ルートで感動と涙が目的に据えられ、それしかない。にも関わらずこれがプレイヤーの絶賛を浴びたことは、「泣かせること」がそれ単独でジャンルを成立させられることを示していた。
今やり直してみると甘い部分も多い。しかし『sense off』(otherwise,2000)、『それは舞い散る桜のように』(BasiL,2002)など、本作の影響下にありつつも秀逸な作品がのちにいくつも生まれたことを考えれば、その影響力と価値を軽んじられる者はいないだろう。
6月、MOON.を作りONEを作ったチームは独立してKeyと名乗り、『Kanon』をリリースする。これがどれだけの信者を獲得したかは言うまでもないだろう。
特に技術的な面でKanonはONEよりも洗練されている。OPとED、泣かせるための特殊演出などのソフトウェア面はもちろん、泣かすための専用BGMが用意された、という点も大きい。1997年の『アトラク=ナクア』(ALICESOFT,1997/12)は物語のクライマックス、その絶望的状況下で「Going On」が初めて静かに流れ出すことで異様な精神的高揚をプレイヤーに与えたが、これが事前に何度も使われていたら効果は半減していただろう。これと同様のアプローチをKanonは泣かすという目的で採っている。
Kanonから3週間後に発売された『加奈』(D.O.,1999/6)もまた、この時代の泣きゲーの金字塔である。ONEやKanonが物語を中盤過ぎまでギャグで埋め尽くしたのに対し、加奈は10年以上に渡る兄妹の闘病生活を正面からシリアスに描いた難病物である。リアリティのある物語という点で「新しい」泣きゲーだったと言え、今なお評価は高い。
――一方で、ToHeartもONEもKanonも加奈も、悪く言えばただのお涙頂戴である。ハッピーエンドは奇跡や幸運によってのみ訪れ、主人公たちは運命に翻弄される無力な存在でしかない。こうしたお涙頂戴は今も昔も根強い人気を誇るが、一方で毛嫌いする人がいることも事実である。
興味深いことに泣きゲーは、これらのお涙頂戴では泣けない人々をも泣かせようとするかのように、別の「泣かせる何か」の模索を少しずつ始めていく。
知名度も低く地味だが言及しておきたい良作として、1月に発売された『Lien』(PURPLE,2000/1)がある。不慮の事故で幽霊になった主人公とその周囲の人々が残された2週間でその死に向き合い、改めて別れを告げる物語であり、主人公が生き返ることは無い。従ってお涙頂戴の文法に則っているが、しかしその最後において、彼らは前を向き、笑顔で別れを告げる。別れは悲しみしか生まないものではなく、人の強さを示すものでもあることをLienは描いていた。
そして9月、Keyのリリースした『AIR』は約束された勝利を遂げる。物語はもちろん難病物で、ヒロインは最後に死ぬ。その死を「ほとんどなんの意味もない」(東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』)とするならば、これは従来通りのお涙頂戴だろう。
しかし、彼女が無意味に死んだことが悲しくてプレイヤーは泣いたのだろうか。
もちろんそういう人もいるだろう。だがかの有名な「ゴール」は、彼女が最後まで努力し、やりきったこと――笑顔で幸福な記憶を全うしたからこそ、泣いた人も少なからずいたと筆者は考える。最後の別れにおいて、彼女は必死で前を向いていた。
悲劇の象徴としての別れの描き方と、それに対する姿勢は少しずつ変化を見せ始める。
ところで萌やし泣きの多くは幸福8割、不幸2割程度の文量配分で構成される(※数字は筆者の体感であり、根拠はない)。これを反転し、幸福を2割以下、不幸を8割以上にするとどうなるか。
MOON.もその一つだが、『DiaboLiQuE』(ALICESOFT,1998/5)や『銀色』(ねこねこソフト,2000/8)など、爆発的に売れることは無くとも鬱ゲーは途切れること無く続いてきた。特に銀色の執拗な鬱展開は秀逸であり、未だ根強くファンがいることも頷けるものである(個人的にはDiaboLiQuEももっと評価されていいと思う)。
そして8月、幸福と不幸がほぼ半々、つまり鬱ゲーであり泣きゲーでもある『君が望む永遠』(age,2001/8)が発売される。
男女関係の修羅場をシリアスに描いたエロゲといえば『WHITE ALBUM』(Leaf,1998/5)が有名だが、そこでは主人公が修羅場の矢面に立たされることはない。対して本作のメインシナリオでは主人公は徹底して矢面に立たされ、主人公が別れを切り出すことでのみ悲劇は終幕する。
誰を切り捨てるかは、プレイヤーに選択肢が突き付けられることで行われる。だからこそ最後に彼らが再び笑い合える可能性が示されることはプレイヤーを安堵させ、涙を誘った。彼らは奇跡によってではなく、心の強さによって悲劇を克服する。
さらに11月、物語の殆どがギャグで占められ、物語の構造自体は従来の萌やし泣きの延長ながら、にも関わらず枠を踏み越えたものが登場する。『家族計画』(D.O.,2001/11)である。
家族に捨てられた連中が偶然集まり、やむなく家族を偽装し、衝突しながら家族になっていき、崩壊し、再び家族になる様が描かれる作品である。加奈やAIRでも家族愛は描かれたが、いずれも兄妹あるいは母娘の二者間に閉じている。対して家計は父母兄姉妹という集団の絆を描く。
襲いかかる不幸は彼らの手によって跳ね除けられる。プレイヤーはもはや誰かの不幸にではなく、茉莉がお兄さんになって下さいと訴え、準が最後にスプーンを咥え、その家族としての努力が実ったことに涙する。
なにより家計ではもはや誰一人死ぬことはない。君望もメインシナリオでは誰も死なない。誰かを失う悲しさだけが泣かせる手段ではない。悲劇に敢然と抗い、心の強さで打ち勝つだけでも人は泣くのである。
……などと枠を広げ、新しい要素を貪欲に取り込むパイオニアばかりではない。泣きゲーというジャンルを充実させたのは既存の要素で構成された作品群である。
例えば『flutter of birds』(シルキーズ,2001/2)は極めて基本に忠実な難病物だし、特定ルートで萌やし泣きを取り込んだ『みずいろ』(ねこねこソフト,2001/4)や『水夏』(CIRCUS,2001/7)、『グリーングリーン』(GROOVER,2001/10)はいずれも好評を博した。またDESIRE同様、悲劇的シナリオの感動としての落涙であれば『腐り姫』(Liar Soft,2002/2)はこの年の作品では秀逸である。
また、集団間の絆も広く扱われていく。
『うたわれるもの』(Leaf,2002/4)ではSRPGというジャンル上の必然もあるだろうが、家族的な仲間との絆が描かれている。『世界ノ全テ』(たまソフト,2002/4)や『ロケットの夏』(TerraLunar,2002/10)は後半こそ二者間が主軸になるものの、いずれも部活を通して仲間と触れ合うことで主人公が成長し、仲間との絆を育むことで成立する物語である。
ONEとKanonとAIRを足して3で割ったような『SNOW』(Studio Mebius,2003/1)、あるいは『てのひらを、たいように』(Clear,2003/1)では、困難に対する仲間の存在がより大きな価値を持つ。その最後は奇跡による解決とはいえ、ヒロインのために仲間全員が努力し、足掻くことでハッピーエンドが訪れる様は「与えられたもの」というより「勝ち取ったもの」という印象が強い。
これらを「みんなは一人のために」とするならば、「一人はみんなのために」もまた登場する。『CROSS†CHANNEL』(FlyingShine,2003/9)である。
ToHeart型のよくある学園物語に始まり、それが綱渡りの上で構築されたものであることが明かされ、ばらまかれた伏線が繋がっていく様は見事の一言に尽きる。と同時にそれは、心の壊れた主人公が何度も失敗しながらトラウマを乗り越え、仲間のために自己犠牲を重ね、それによって心を再構築していく物語である。その実に静謐な最後において、そこで彼が平穏と幸福を遂につかんだことに、タイトルの意味と、そして彼が勝ち得たものが明かされることにプレイヤーは涙を流す。
そして1月、『Fate/stay night』(TYPE-MOON)が発売される。絶望的状況下で静かに流れだす「エミヤ」はプレイヤーに凶悪な興奮を与え、「強くなるために精神をすり潰し、廃人になってでも最後の敵を倒す」展開に涙を流した。
そこに「友情、努力、勝利の感動」があることを疑う者はいないだろう。
泣きゲーというとKanonやAIRがよく話題に出されるが、「泣いた」という感想がC†CやFateにも多く存在することは事実である。と同時に、いずれにも物語の重要な位置に少女の悲劇と愛が配置されている。
そしてこれまで言及してきた「不幸における愛と感動」の泣きゲーに、努力や勝利が全く存在しないわけでもない。その努力が実ったかどうかの差はあれど、必死の行動があったことはどの作品でも紛れも無い事実である。
としてみると、「泣いた」と感想を多く有する作品、すなわち泣きゲーには「不幸における愛と感動」と「友情、努力、勝利の感動」の要素が、両方含まれていると捉えても間違ってはいないだろう。そしてそうだとすれば両者は対立するものではなく、両立するものと言える。
そう捉えるならば泣きゲーの歴史とは、時代によって、作品によって、この両者の配分を巡る歴史だった、ということもできるように思う。
いい加減読んでいる人も飽きただろうし2005年以降は割愛するが、一つ言及するなら不意打ちという手法が導入された点である。
例えばいかにも安っぽいハーレムものとして始まりながらシリアスなSF展開を経て感動的最後を迎えたり、あるいは陰惨な陵辱物として始まりながら見事に綺麗な純愛物へと変貌したり、泣きゲーとしての姿勢を最初は微塵も匂わせず、突如牙を剥くものが2005年以降に目立ち始める(いずれもタイトルは念のため伏せた)。
また泣けるイベントが用意されていても、それが作品としてのクライマックスと一致しないことが珍しくなくなる。中には語るべき物語は全て終わり、エピローグの最後の最後で油断しきったプレイヤーに猛然と襲いかかるものもある(いずれもタイトルは以下略)。
昨今、泣きゲーが減ったと言われることがあり、実際、一見してわかりやすい泣きゲーを現在はあまり見かけない。しかしプレイヤーを泣かせることが主目的化した時代を超えて、泣きゲーとしての技術や様式は再び物語を盛り上げるための一要素へと還元されていった、というのが現代の流れだとすれば、それは死につつあるのではなく、むしろ要素として広く普及し、遍在したことで目につきにくくなった、ということのようにも思えるのである。
リアルタイムにこれらを経験した人にしてみれば、有名作を並べただけでなんの面白みもない内容と思う。申し訳ない。が、今20歳前後の若者にとってみればFateですら12年前の古典である。「泣きゲーの元祖」がなぜ人によって違うのか。なぜ未だにはわわとかうぐぅとか言ってるヤツがいるのか。若者がそんなことを知っている方がおかしいし、それを知るために最初から全部やり直すなど正気の沙汰ではない。
かつて何が起きて、それが今にどうつながっているのか。粗く拙いまとめに過ぎないが、その理解の一助として本稿に役立つところがあれば幸いである。加えて「そういや最近エロゲやってねぇなぁ。またちょっとやってみるか」と思うきっかけになれば、それに勝るものはない。
ホッテントリメーカーで作るような煽りタイトルって、みなさんもう見飽きてると思うんですよね。
今調べたらホッテントリメーカー2008年だそうで。どうりでねー。古臭いなーと思いましたよー。
「一から学ぶJava」ってのをね、1.0にするだけでこんなに素敵なタイトルになるんだから面白いですねー。
タイトルを思いついただけだったんですけど、思いついたらやっぱりちゃんと中身も書かないと行けないじゃないですか。やだー
面倒くさいんですけどね。ちょっと1.0から学んでみましょうか。
Javaの1.0がリリースされたのは1996年1月23日ですね。発表されたのが1995年5月23日でJavaの誕生日といった場合にどちらを取るかで揉めることがあります。
かれこれ20年前なわけで、当時のパソコンというとハードウェアはCPU が Pentium 133MHz メモリ16M とかそんな感じだったかなあ。今どきの携帯電話の例としてiPhone 6sを挙げるとCPUが1.85GHz メモリ 2G ってんだから凄いですね。OSは1995年11月23日にリリースされたWindows95とかそんな時代背景です。インターネットがようやく一般に普及し始めたところでしょうか。
今から思うと相当弱いハードウェアですけども、そろそろVM方式を採用しても良さそうな、そんな時代でした。インタープリタだと流石に遅い、でもC言語のようなコンパイル言語だと"Write once, run anywhere"とはいかない、という判断もあったのだろうと思います。Javaが純粋なオブジェクト指向言語ではなくintなどのプリミティブ型を持つというのは、当時のマシンスペックを考えた場合、ある程度妥当な判断だったと言えるでしょう。これが後々苦しくなってくるわけなのですが。
Javaを作った会社はSun Microsystems(サン・マイクロシステムズ)というアメリカの会社で、2010年1月27日にオラクルにより吸収合併され今はありません。SolarisというOSとSPARCプロセッサでUNIXサーバーの販売で90年代後半までは一人勝ちのような状況だったと聞きます。当時にすでに「ネットワークこそがコンピュータ」(The Network is the Computer)というモットーを掲げてたんだからおかしい。1996年リリースのJavaが標準でネットワーク機能を備えていたのもこのあたりの思想から来ているのかもしれませんね。
当時のプログラミング言語としてC++が挙げられますが、C++でのプログラマへの負担といいますか、ヒューマンエラーの起きやすさといいますか、その辺を改善する目的で開発されたのがJavaだったわけです。
1996年の時点にこんな言語が登場したのですから革新的でした。
いろんな企業がJavaに賛同します。その中にはMicrosoftもありました。この時期、Microsoftは次期のWindows開発用のプラットフォームにJavaを据えようと考えていました。その後、袂を分かつことになるのですが……。
プログラム言語として構文などを見ると、C++を強く意識した構文なのは間違いなく、しかしポインタ演算を廃してポインタを機能を限定した「参照」に置き換えるなど簡素化が多く見られます。C++からはいろんな機能が削られています。関数ポインタ、構造体、演算子オーバーロード、テンプレート((テンプレートについては実装が間に合わなかったという話を聞きます))などなど。そのためC++の劣化であるように揶揄する人もいますが、こうしたものを捨てて言語仕様を比較的小さくシンプルに抑えた点は評価に値すると思います。しかし、今でもこうした削減された機能を愛する人からはJavaを腐す要素として挙げられてしまうのでした。
Wikipediaからピックアップすると1.1での大きな機能追加は
といったところです。当初よりJavaの内部文字コードはUnicodeで文字を表すchar型は16bitで設計されていました。Unicodeは当時それほど普及しておらず、Unicode対応のテキストエディタさえ少なかったと記憶しています。時代を先取りしていると言えますが、大きな誤算はUnicodeが当初16bitのコードポイントに世界のあらゆる文字を格納しようとしていたことで、漢字圏の我々からすると16bit=65,536程度の空間に文字が全部入るわけないだろ!というものだったが故に早々に破綻し、Unicodeは21bitのコードポイントに拡張されることになるのです。これはまた後の話。
なんにせよ、日本語が対応されたのは1.1からで、日本でのJavaの採用が始まったのはこの頃からと言えましょう。
当時のJavaのGUIはAWTというものでしたが、これを用いたGUIの開発は当時は結構行われていたイメージですね。Visual BASIC でGUIを作るプロダクトも結構あったと思います。GUIのためのオブジェクト指向言語としてJavaが使われていたイメージがありますね。JavaBeansもそのための仕様でした。件のsetter/getterの話題に繋がっていくのですが。
JDBCはJavaとデータベースをつなぐインターフェースです。RMIではあるJava VMから別のJava VMにオブジェクトを送って実行する、といったことができます。こうした機能が用意されたことで、ソフトウェアのフロントとしてのGUI、裏方の実装のためのネットワーク機能、データベース機能、さらにはソフトウェアを配布するためのJava Appletという布陣でJavaでのソフトウェア開発が加速していた時代といえます。
Microsoft Visual J++ もこの時代ですよ。
Java 1.1以降のバージョンのものは互換性確認のためにOracle Java Archiveからダウンロードすることができ、今でも入手することができます。もちろん、Java7ですら2015年4月にEOL(End of Life,サポート終了)となっているので、通常利用するのはJava8としてください(本稿執筆時点)。
当時のドキュメントを見るのも一興です。現在と比べると標準APIがかなり小さい。なお、当時のjavadocは今とはデザインが大きく異なります。
この時代であれば、全パッケージを舐めて標準APIを学ぶこともそう難しくはありませんでした。この時代から触っている人間は新バージョンが出るたびに増えるAPIを順に学んでいけたのです。しかし、現代にJavaを学ぶ場合、どのバージョンでは何があって……というのをいちいち学ぶ必要はほぼありません。Java5以前は一緒くたでいいと思いますし、一部のAPIで歴史的経緯があってねーというのを知っていればおそらく十分ではないでしょうか。
strictfpキーワードは浮動小数点演算をやる人は覚えておきましょう。JavaはパフォーマンスのためにCPUの浮動小数点演算を扱うことが許されており、そのため実行するCPUによって精度が異なることがあるんですね。まあ今時のCPUだと大丈夫だとは思うんですが。
リフレクション機能ではJavaのクラスを抽象的に扱うことができます。設定ファイルに書かれたクラス名のclassをロードして実行する……みたいなことができるんですね。フレームワーク的なものを作る場合には多用することになります。
1.2からは新しいGUIのSwingが採用されました。AWTがOSごとのGUIパーツを用いていたためデザインに違いがあったのに対し、Swingでは統一的なルック・アンド・フィールが用いられるようになりました。まぁ今ならJavaFXを使うのが良いと思います。
初期のJavaはやはりVM方式の実行速度の遅さが指摘されていました。実行時の構文解析を伴わないだけインタープリタよりは早いものの、実行バイナリを作るC/C++よりは遅い、そうした評価です。ここではサン・マイクロシステムズのVMにJIT(ジャストインタイムコンパイラ)が乗ったことが挙げられていますが、JIT自体は別の会社が先駆けて開発していたことは記しておきたいと思います。
JITコンパイラは実行時にJavaのバイトコードを環境のネイティブコードにコンパイルして動かす技術です。この後、JITコンパイラ、動的再コンパイル技術、世代別ガベージコレクションを備えたHotspotといった様にJavaVMは進化していきます。現代では実行時の最適化が進み、大きなスケールで見た場合、Javaの実行速度はC/C++での実装と比べてそれほど遅れるものではありません。遅くても倍の時間は掛からない程度といったところでしょうか。
あとは特記すべきはコレクションフレームワークです。皆が多用しているであろうjava.util.Listやjava.util.Mapといったライブラリが整備されたのがこの時なのです。それ以前はjava.util.Vectorやjava.util.Hachtableというクラスが可変長配列の機能を一手に担っていました。今ではVectorやHashtableは使うべきではありません。
Java の開発はSun Microsystems が主導していたけども、すべてがSunのものだったというわけでもなく。Javaには多くの会社が出資していてその中のひとつがMicrosoftだったわけですね。
Microsoft の Visual J++ では delegate とか独自機能拡張もありましたけど、裁判で問題になったのは J++ でコンパイルしたclassファイルはMicrosoftのVMでしか動かないという部分ですね(他社製のVMで動くclassファイルを作ることもできる)。classファイルがどこのVMでも動くの大事だろ、"Write once, run anywhere"だろ、お前何してくれてんの!と喧嘩になったわけです。当時のMicrosoftはブラウザまわりでも独自拡張がやりたい放題、標準規格?なにそれ美味しいの?みたいなスタンスをあちこちで見せていたものです。
結局、この事件でMicrosoftのJavaはバージョン1.1相当でストップ。好き勝手にやれないなら独自に言語作るわーとばかりに.NET フレームワークと C# といった方向に舵を取ります。
JavaがPC上でのUI開発の主力になろうとした勢いはここで潰えます。
Java SE とは別にこの時代に Java EEがリリースされていることは特記しておきたいですね。これ以後、それまでのCGIに取って代わって、JavaはWebサービスの開発のプラットフォームとして多用されるようになります。
2000年あたりからはJavaはGUI開発というよりは、Webサービスの開発が主流という流れになっていきます。インターネットのサービスが非常に発達していった時代、背後ではとてつもない量のJavaのプログラムが支えていたわけです。ただまあ、こうした産業利用は一般的なユーザーの目にはあまり入らないわけです。一般人からすればJavaといえばJava Appletみたいなイメージはずっと残っていたでしょうが、実体としてはJavaといえばServletという時代になっていたわけです。
企業で用いられる社内システムにもServletは多く採用されました。
理由はいろいろ挙げれると思うのですが
というのが大きな理由だろうと思います。JSPというテンプレートエンジンを用いてHTMLを整形してWebページを作り出す、というアーキテクチャはある意味では便利で簡単でした。
もっともHTMLの表現力に足を引きずられるため、GUIの機能性という点では後退したわけなのですが。それでもメリットが大きいと判断されたのでしょう。というか、まともにGUIを組めるプログラマがほとんどいないから、GUIのシステム開発がなかなか成功しないってのもあったんでしょうけどね。
2000年あたりというと携帯電話の普及も取り上げなければなりません。現代のスマホ、ガラケーに比べれば非常に機能は貧弱で、まさに携帯「電話」でした。要するに電話とメールぐらいしかできなかったんですね。
そこにdocomoのiアプリ、Jフォン(ボーダフォンを経て現ソフトバンク)のJavaアプリ、auのEZアプリという携帯電話上でちょっとしたアプリが動くよ!というのが乗るようになってきたんです。これがJavaを組込み用途にコンパクトにしたJava MEというものが土台となっていて(正確にはiアプリはちょっと違う)Servletと並ぶJava言語の大きなもうひとつの領域となっていました。
iアプリは当初は容量が10k byteまでといった制約があり、容量制限が非常に厳しかったのですが、新機種が出るたびに容量は緩和されていきました。
docomoはiアプリ含めiモードによって一世を風靡します。こうした土台を作ると、その上で商売をしたい人がたくさんやってきて、勝手にコンテンツを作ってくれる。docomoはそれらから手数料を取るので労せずして大金を稼げるというわけです。賭場の胴元というわけです。
この賭場が、将来にAppleのiPhone, GoogleのAndroidに荒らされることになります。docomoがなかなかiPhoneを出さなかったのもiモードという自前の賭場を失うことを良しとしなかったためです。金づるを失ったdocomoはSamsungと組んで独自の携帯向けOSであるTizenの開発に乗り出します。そんなTizenですが鳴かず飛ばず。噂ではインドあたりではリリースされたとか、なんとか。
話を2001年に戻しましょう。
Microsoft離反でGUIのプラットフォームとしてのJavaというものは存在感を弱めていました。この分野の復権に寄与したのはJava 1.4 (2002年2月6日)で導入されたJava Web Startです。
Java Appletがブラウザ埋め込みで動作したのに対し、Java Web Startではブラウザから起動しつつも独立したアプリとして起動するのです。
Webシステムが企業の社内システムに採用された話は先に述べたとおりですが、やはりWebシステムのGUIというのはHTMLに引きずられて貧弱だったんですね。
端的に言えば入力値が数字かどうか?みたいなチェックがなかなか難しい。HTML上でJavaScriptでやるわけなんですが、なかなか気持よく入力できるような感じにはならなかったんですね。
また、Ajaxによるブラウザのページ遷移を伴わない通信というのが出てきたのも2005年ぐらいなので、入力値に対してサーバ問い合わせするようなことはできなかった。当時だと一旦画面遷移させないとできなかったわけです。
こうした事情から、クライアントサイド、要するにPC側でもっとリッチなUIが使いたい!という要望があったわけです。Webシステム使いにくい!という不満の噴出と言ってもいい。そこで出てきたのがRIA (Rich Internet Applications)というわけです。
Javaは1.0時代のAppletからそうですが、ネットワークを介して別のPCにプログラムを送り込み、そこで動作させるという能力を持っていました。それこそまさにRIAに求められる機能性だったわけですね。
RIAの代表とされるのは
あたりです。三つ巴の戦い、どこに軍配が上がるのか!?と注目されましたが、勝利したのはHTML / JavaScriptでした。
Google MAP で注目を浴びたAjax技術、それまでブラウザでは不可能と思われていた高級なGUIをHTML / JavaScriptで実現させました。もうやめて欲しいですよね。せっかく脱ブラウザの流れが来たと思ったのにまたWebシステムに逆戻りですよ。
RIAが失速した理由として考慮して置かなければいけないのはスマートフォンの台頭です。RIAでは端末を選ばずどこでも同じアプリが動かせる点がポイントのひとつでしたが、スマートフォンではそうは行かない。"Write once, run anywhere"を破壊したのはスマートフォンだったというわけです。
しかし、先日インストールなしでアプリを実行するAndroid Instant Appsが発表されたりしまして、結局RIAの思想といいますか、要求というのは今でも息づいているのだなと思った次第です。
1.3 / 1.4 では機能追加はあっても言語構文が大きく変わることはありませんでした。大きく変わったのはJava 5です。この時からバージョニングが変わって1.5ではなく5と表記されるようになりました。
Java5の特徴はなんといってもジェネリクス。それまでjava.util.Listにデータを出し入れするのにはキャストが必須だったわけですが、ようやくキャストから開放され型の安全度がぐっと高まりました。その他に以下のような変更があります。
言語としては随分変わっったわけですが、もうかれこれ10年以上前のことですからこれらの機能が「Java5から導入された」という知識は今となってはあまり必要とされません。これらの機能が使えないJava 1.4で開発をする事案が殆ど無いからです。0ではないのが悲しいところではありますが。
Java 6 (2006年12月11日)がリリースされた後、Java 7 (2011年7月28日) が出るまでJavaは停滞してしまいます。その間にSun Microsystemsという会社がなくなってしまったためです。
Sun Microsystems の経営状況が悪化しており、ついに身売りをすることになりました。身売り先はIBMともGoogleとも噂されましたが結局2010年1月27日にオラクルに吸収合併されました。
Javaの停滞中にはJava VM上で動く非Java言語も台頭してきました。Scalaなどですね。
やや戻って2007年にAndroidが発表されます。Androidの開発言語にはJavaが採用されていますが、実行環境はJava VMではなく、ライセンス的な事情でJava(TM)は名乗らない微妙な位置関係にあります。
Java 5 以降で大きく言語仕様に手が入るのは Java 8 (2014年3月18日)です。並列処理を行うためのStream APIと、そのために簡易に関数を定義するためのラムダ式が導入された点が大きいですね。日付APIも刷新されました。
このように、Javaは1.1の黄金時代から今に至るまで利用ジャンルを転戦しながら産業の土台となって支えてきた歴史があります。ジャンルの趨勢により浮き沈みもあります。今後についても決して楽観視はできないでしょう。Javaを学ぶことはプログラミングを学ぶステップとしては意義はあると思いますが、Javaを学べばゴールというわけではありません。プログラム言語も次世代へと移りつつあります。業界動向には注視していきましょう。
ここ数日、イチローの日米通算安打数がピート・ローズ氏のメジャー安打記録を超えそうだと話題になっている。
そんな中、とても残念なニュースが入ってきた。
ローズ氏がNPBのレベルが低いことに触れ、「高校時代に放った安打をカウントしている」と言ったのである。
メジャーよりNPBの方がレベルが低いのは間違いない。だからそう言いたくなる気持ちもわかる。
しかし、NPBはメジャーより「ヒットをたくさん打てるリーグ」ではない。むしろ打てないリーグなのだ。
イチローが一軍定着した2001年以降、NPBで活躍した7年間でのヒット数は1242本であり、メジャー移籍後7年間でのヒット数は1592本である。
彼の成績推移を見ると、2001年が安打数のキャリアハイであり、すでにメジャーで大活躍できる能力があったのは間違いない。
つまり、選手として完成されていたにも関わらず、試合数の少ないリーグで7年間を費やしたことにより、ヒット200本を損したと言えるのだ。
もしローズ氏がこの事実を知っていれば、イチローの記録が参考記録にとどまることに感謝して、あんな馬鹿げたことを言わないであろう。
詳しくはぐぐってほしいのだが、そういうのが開発された。限られた空間をVR化することで、どこまでも続く空間を作る(仮想空間)というものだ。
このニュースはなかなか反響が大きい様子なのだが、聞いたときにまず思い出したのが「森博嗣」の名前だった。
アニメ「すべてがFになる」で出てきたのを見た人が居るかもしれないが、機械の中に入ると自分が想像した世界が広がっているという描写がある。
あれは原作「有限と微小のパン」からの引用シーンだと認識している。原作「すべF」時点ではもうちょっと描写が古いものになっている(ただし20年前の作品だが、一般人的には2・3年前のVRの印象と変わらない)。有限と微小のパンでは「VRゴーグル」が出てくる。それっぽいもの、ではなく、まさしく今使われているそれだ。なのでSF感があるのだが、今思うとあれは「必ず未来に作成されるもの」を書いていたのだと分かる。「あんなこといいなできたらいいな」という願望ではなく、「近いうちに認知されるくらいになる」と確信をもって書かれているのだ。
そして「有限と微小のパン」では、犀川先生はゴーグルをかけたままどこかへ消えてしまうのだ。限られた空間なのに、どこにもいない。どこまでも続いていくような場所に犀川先生は迷い込む。これが、「無限回廊」とそっくりなのだ。
気になって検索してみたところ、無限回廊を作った本人である研究者の簗瀬洋平さんがツイッターで書いていたのだが、この技術は2001年に論文として発表されている。有限微小の「実空間とVR空間をずらすことで限定空間内を無限に歩かせる」アイディアは1997年に論文で出されたようだ。
98年に森氏が「有限と微小のパン」を発売したわけだが、執筆時期を考えても論文を読んでいないうちに書き上げたことは想像できる。(確か1年前には出来上がっていたくらいの執筆スケジュールを組んでいたはずだ。作品メインの部分なので、後付けもできないだろう)。簗瀬さんは「森先生の先見性が伺えます。」と書いているので、そういうことなのだろう。
どちらが先かどうかというのは問題ではない。
正直あんまりよくわかっていないけど、これは読者としては興奮する話だ。
最先端の技術を研究していた人たちと同じことを当時、なんの研究もせず犀川先生と西之園さん萌え~としていた人たちが近い景色を見ていたということになる。
1918年、スイス・シュヴィーツ生まれ。シェーネック神学大学卒業。
20才頃から神学を通して日本の宗教、歴史、文学に興味を持ち、30才頃から本格的に研究を始め、ロンドン大学に留学、
日本文法コースを履修した。'51年来日。岩手大学、東北大学、東大講師を経て、’58年より上智大学文学部で教え、
その間チューリッヒ大学に留学’61年に宗教哲学研究で博士号を取得した。専門は神道、日本古典劇で、大学で講義するほか、
ジャーナリストとしてスイス、ドイツなどの新聞、雑誌に日本文化に関する記事を書いている。
主な著書に、「Japanese Theater」(’75年)、「Schattentheater Asiens」(’79年)などがあり、能や宗教学などの論文も多くある。