「違憲」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 違憲とは

2022-08-31

香川県ゲーム条例、どう思う?

・・・答えは、沈黙

意見出ない

違憲でない

なんつって

ぷぷ

anond:20220831113514

それは話が逆。

タバコや酒を禁止にするのも、基本的には人権侵害違憲

 

ただ、明確な根拠等があるため特例として認められているだけ。

2022-08-30

はてブワクチンは効く!専門家である医者が言ってるから正しい!」

はてブゲーム条例違憲裁判長専門家)は何も分かってない!」




何故なのか

2022-08-19

政教分離フランスに学べ

殆どの国の政教分離国家宗教活動を禁じている。例えば政府特定宗教を利すること、国民特定信仰強制することなど。つまり宗教団体の側から政治活動に参加することは禁じられていない。日本は当然のこと、イギリスドイツアメリカなんかも同様。もし今の日本宗教団体の政治活動法律により禁止すれば、憲法14条一項、19条20条一項、21条との関係違憲となる。そのため公明党統一教会闊歩する事態となっている。そもそも我が国君主(笑)税金生活国事行為を行う存在なのに神道祭祀みたいなことしてるし。

一方厳格なのはフランスフランス政府宗教活動をすることは無論のこと、公共空間での市民政治活動禁止されている。宗教教育ダメ。完全にプライベート空間信仰するのは当然OK。それでもカトリック勢力日本日教組みたいに教育現場に強く影響を及ぼしてるそうだが、日本宗教団体程の影響力はない。日本フランス型の政教分離採用してはどうだろうか。

2022-08-18

anond:20220818151106

大丈夫じゃなくてふつう違憲バンバン出てるんだよな

大丈夫じゃないことが大丈夫じゃないままなあなあズルズル行われ続けるのはそれこそ自民統一教会でよくわかっただろ

そしてヤクザから山上みたいな手段もとれない、まさにその手段ゆえに弾圧されてんだから

2022-08-15

共感にあらがえ - 内田樹の研究室を読んで

これは、いろいろと考えさせられるいい文章だと思った。永井陽右という青年を振り回すかのように語る内田樹。こういうマウントは嫌いじゃない。

ただ、内田が、

感情の器」って、あくまでも個人的身体条件のようなものから

というとき、何か逃げた回答のような印象を受けた。

たとえそれが自分の中から湧き出す内発的なものだとしても、大昔にアダム・スミス道徳感情論で追求したように、何かのテコで共鳴し、社会規範構成するに至るメカニズムが何かしらあるんだろうと俺には思えてならない。

そういう感覚を身に着けるのにどうすればいいかと問うた永井氏に、家風だとか、弟子入りだとか、そんな表現内田氏がするのは、けむに巻いているようにしか思えなかった。

家風にしても弟子入りにしても、そのつながり方が、社会規範にむすびつくメカニズムがあるはずだ。

アレックス・カー20年前に書いた本で『犬と鬼』という著作がある。

おりしも建設省代表される特別会計の闇が浮き彫りになった時代

アメリカの7倍のコンクリートを使って日本山河コンクリートで固めようとしていた、公共事業のあり方に疑問を呈した名著。

その『犬と鬼』のなかでカーは、そんな日本に至った問題を解明するヒントは「徳の逆説」にあるという。

「徳の逆説」というのは、国家も人も同様に、自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する傾向があるという、カーが常々思っている真理を彼なりに名付けたものだ。


A・カーは、フェアプレイ精神といいつつ、七つの海を支配した大英帝国の事例、平等を錦の御旗にしていた共産主義者トップ黒海に豪奢な別荘を保有し、人民実質的農奴と変わらない生活だったというソ連の例などを挙げつつ、最後に、和を貴ぶ日本人がなぜ明治開国後、対外侵略に夢中になったかという精神性に触れてゆく。

「徳の逆説」は、身近なところでも当てはまる。口うるさい親や上司説教ブーメランに思えてならない、という経験は誰もがしているはず。そして気が付くと俺も親父と同じことを子供に、という連鎖

最近、想起するのはやはり旧統一教会家族価値を高らかに謳いあげておきながら、その活動が原因で多くの家族崩壊している、といった、「おまゆう問題崩壊させているがゆえにますます高まる家庭の価値、という悪循環。これもA・カーのいう「徳の逆説」が見事に当てはまる。これは人が自分自身を規律しようとするとき動機付けメカニズムなのだ

内田永井議論テーマひとつである人権平等。あたか普遍的原理についても、

それを概念として具体化して社会が取り込んだ過程を決して忘れてはならない。

アメリカ建国者の一人、トーマスジェファーソン人権宣言を起草した当時、200人以上も奴隷を抱えていた。

これは矛盾というよりも、むしろ奴隷制にどっぷりと漬かっていたからこそ人権宣言が生まれたという「徳の逆説」のメカニズムを見るべきだろう。

どんなに薄汚れた社会であっても、一度高らかに掲げた理想は、その社会を真綿で絞めてゆく。欲望大全開の人民を前提にすると、民主政は成り立つのか。多数決をすれば少数者が圧政に苦しむのではないか、これがマディソン含め、建国者懸念だった。しかし、為政者の徳(アリストクラシー)と、欲望とは別に社会で正しいと思うことに投票する、二重人格的な資質人民に備わっていると信じて建国者デモクラシー設計した。裁判を通じ、繰り返し憲法価値観をテストする、という振り返りをビルトインした設計は本当に優れたものだ。結果として、最高裁が突き付けた奴隷制と財産権矛盾が、南北戦争北軍正当性を決定的にする。

内田議論に戻ると、外付けの人権というテーマと同時に、内発的なものとしての感情の器という、とても重要キーワードを出している。それは他方で外付け実装された人権と、どのような整理ができるのだろうか。

自分でうまく整理がつかなかった。内田はいう。

「人としてどうふるまうべきか」を子どもに刷り込むのは「家風」なんですよ。子どもたちは親の背中を見て、人間としての生き方を学ぶ。それは教科書で教えることじゃない。

これは、親子を中心とした自分史と言い換えられるのではないかと思った。さらにいえば、自分史は必ずしも親は関係いかもしれないのではないか。つまりこれまでの人生、来し方がキーなのでは。

内発的なものと外付けのもの、この二つはやはり、きちんと切り分けて、そして二つが、どうつながってゆくのか。以下、自分なりに整理を試みる。

まず外付けの倫理から。どのように受容されてきたか

舶来の概念というのは明治以来、洪水のように入った。民法など契約法の世界は、ほぼほぼ圧倒されたし、戦後憲法のものアメリカ経験に基づいたものだ。

しかし、日本人権教育は、残念なことに、人権普遍性を論証することに熱を上げてしまって、そもそも誰の内発的な経験がもとになっていたかという成り立ちのメカニズムを忘れた議論が多い。公共の福祉論などをいくら学説定義を整理してきれいに論じても、だから何?の議論だった。

戦後人権を外付け実装してきた日本は、そのルール規範の成り立ちといった背景をもう少し知る必要がある。それは教養として。

現在、旧統一教会問題話題の、国家宗教というテーマにしてもそうだ。

政教分離キーワードとなるのは、恐怖から解放だ。宗教に悩まされ、その扱いに苦慮するのは古今東西課題だ。宗教いかに折り合いをつけた制度設計をするか、古代ローマ時代からずっと抱えてきた。宗教的寛容、これが統治のカギだと気が付いたのはカルタゴ勝利した古代ローマ

そのテーマに対して、新天地アメリカに到着したプロテスタントたちの子孫が18世紀になってメイフラワー号の協約を思い出して試みたのは、旧世界では試みたことのない壮大な社会実験だった。百家争鳴な多様性のなかで社会構成するには、誰が正しいことを言っているのかは誰も断定できない、という前提に立つ必要再確認された。それが言論の自由関係では、20世紀初頭にホームズ裁判官らに代表されるように、自由市場比喩が生まれる背景ともなった。

他方、旧世界フランスでは、唯一の正しさを神に代わって宣言するカトリック教会権威苛烈弾圧が恐怖であった。だから公共空間合理化を徹底し、宗教を一掃する制度設計になった。フランス言論の自由は、その意味カトリック否定する権利が原点となる経験なのだ。だからこそ、フランスでは今でも神を冒涜する言論というのが非常に重要意味をもっていて、先日、仏風刺紙シャルリー編集長が英作家ラシュディ氏襲撃を非難したこと歴史的な背景は深い。

このように、人権というものは、何に対して恐怖してきた歴史があり、生まれてきたものなのか、という原点に思いを致すことが大切だし考えるコツだ。利他性じゃなくね。

それは、実は国によって微妙コンテクストが異なるものであり、普遍的価値として昇華できなくもないけれども、むしろ司法を通じて、原点となった恐怖を大切に思い出す機会が重要で、その社会が、その真理を繰り返し確信し、制度を強化し、再生産する重要な仕組みなのだと思う。逆に言うと、普遍的価値なら、なぜ何千年も克服できなかったか意味を問うというか。

しかし、外付けの倫理として受け取ったものを、思い出すかのように歴史を振り返るのは容易ではない。戦後日本裁判所も含めて。

でも、それこそが日本人権教育に欠如したものだということは個人的には強く思うところだ。


その意味では、外付けではない、外国の借り物ではない、内発的なもの感情の器からみえてくる倫理、これは本当に大きな価値がある。

内発的なものを自省するうえで、もっとも大切なのは自分の国や自分家族自分自身の歴史だと俺は思う。

自分自分先祖が痛い目にあってきた経験、あるいは他者を痛めにあわせてきた経験というのは、その人固有のものであって、その自分史や国の歴史を忘れてしまうと、あとは外付けの倫理けが残る。国レベルで言えば、それは端的に明治以降の日本アジア欧米との対外関係であり、開国以降、アメリカに敗北するまでの戦争に明け暮れた体験に他ならないし、国家神道によって死生観まで国に洗脳されかけた手痛い経験だ。

歴史というと大げさだが、要するに「自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する」、おまゆう精神自覚することだ。これは教養として学ぶというよりも、もう少し内省的なものだと思う。

自分理想とするもの現実とのギャップを振り返る作業といってもいい。

自分に欠けている部分、そこにこそ追い求めている何か理想的な姿の反転がある、という振り返り。

ネイションとしていえば、戦争体験の振り返りが重要キーになるし、国家宗教というのは、国家神道と戦争という経験で痛い目をみているのであり、ある意味、輸入された欧米経験教養として追体験するだけではなく、日本人が原体験としてもっていた大切な教訓。愛媛県靖国神社玉串料訴訟(1997年)の最高裁判決行政戦没者の遺族の援護行政のために靖国神社などに対し玉串料支出したこと違憲とした歴史的判決で、戦争経験がしっかり振り返えられた、という点で、司法仕事としてとても大きなものを残したと思う。建国精神を振り返るのが裁判所の仕事の一つだと思う。

しかし、戦後77年。戦争体験が風化するなかで、「あの時代を生き抜いた」という共通体験共通項として持っていたものがどんどん失われているのが今の時代

50年前の高度成長期だったら、戦争で死んだ部下を思い出しながら、仕事にまい進し、酒場で同期の仲間と語り合う、とか、厳粛に生きるための厳粛な死が記憶としてあった。

「あの頃は」という共通過去で人はつながることができた。それが内発的なものとして60年安保闘争を支え、水俣闘争があった。外付けの倫理ではない、思い出としての切実さの空気の共有があった。

まり、舶来の外付けの価値観と内発的な器は、その頃はわりと調和していた、といえるのだ。

それが、失われ、外付けの価値観だけがカラカラと空回りし始めているのが今の時代の特徴で、失われつつある寛容性の正体なのだろう。

永井氏はそんな時代に生まれ育った。彼は対談のなかで、大学時代

「そうかそうか、人権というものがあるのか、みんな賛同してるし普遍性高いじゃん」となりました。

と、外付けの人権から始まったと語っているが、外付けのものにも普遍性のみに着目し、それが生まれてきたプロセスを振り返らない、人権教育の失敗が見て取れる。

また、日本憲法に組み込まれ歴史への反省(前文含め)も記憶の風化とともに、個々人の内省が、時代への共鳴という形で、共感を醸成しなくなってしまっている。

高度成長期に「あの頃」といえば戦争時代だった。

それはかろうじて80年代までは存在していた。「おしん」が異例の1年間の朝ドラで始まってしばらくすると、

視聴者からは、おしん私自身そのものです、という声が橋田壽賀子のもとに多数届いたという。

しかし、時代は変わって、平成から令和になって「あの頃」といえば、昭和の末期なのだ

しかもそれをノスタルジックに思い出す、三丁目の夕日的な振り返りだった。さらには、あさま山荘であり、学歴社会バイクを盗んで走る尾崎豊であり、バブルの思い出なのだ。それは、その遺産に苦しんだ次の世代にとっては共感を呼びにくいものであるし、自分たちの社会の重圧と、戦争記憶との関連が薄まった。当然、日本憲法リアリティが失われ、右派から改憲論議が盛り上がってくるのは必然的なことだった。そんななか、統一教会が国の内部を白アリのように巣くって愕然とした先月から今月にかけての出来事というのは、忘れかけた宗教国家の結びつきの恐ろしさを、突如呼び覚まされるものだったに違いない。

しかし、いずれにしても過去記憶憲法規範が直接に結び付かない、その世代経験、そこに、永井紛争国の辺境の地を自分テーマに選んだヒントがあるように思えてならない。

紛争リアルがそこにある。そこに普遍的価値として大学生ときに知った人権、そして憲法価値を、自分なりの振り返りとして再確認する、動機付けがあったようにも思う。

しかし、たとえ社会の人々と共有されないものであったとしても、ひとは自分史のなかで、どうふるまうべきかを動機付けられる。

永井氏が、内田氏との対話のなかで

私は逆に、子どもの頃はよく母親に殴られたり色々と物を捨てられたりされていて、そのときに「この家では力を持った奴は殴ったり物を捨てたりしていいんだな」と思ってしまったんです。そして中学生になって殴られたときに「よく見たら小さいし別に喧嘩が強いわけでもないな」ということに気が付きまして。それでそこから自分母親のことを殴りまくるようになりました。ひどい時はアザだらけでしたよね。父親単身赴任でしたし。

といったときに、内田はそこにしっかりと気が付くべきだったと思う。

全然人権派じゃないね(笑)。」と返した内田に若干物足りなさを感じたのは、まさにそこだ。

動機付けられるものが、必ずしも、家風であったり、模範的ロールモデルとは限らないのだ。

この体験辺境の地での人権探し、自分探しは、多分無関係ではない。


ともあれアレックス・カー面白い

読んだのは20年前だが、年齢を重ねれば重ねるほど、彼のいう、逆徳精神の考え方が真理に思えてくる。

A clue to the problem may be found in what I call the theory of Opposite Virtues. Nations, like people in this respect, may pride themselves most highly on the quality they most lack. Hence “fair play” is a golden virtue in Great Britain, the country that attacked and subjugated half the globe. “Equality” was the banner of Soviet Russia, where commissars owned lavish dachas on the Black Sea and the proletariat lived no better than serfs. The United States prides itself on its high “moral standard,” while perpetuating racial and moral double standards. And then there is l’amour in France, a nation of cold-blooded rationalists. Or Canadians priding themselves most on being so distinctively “Canadian.” In Japan we must look at the time-honored ideal of Wa, “peace.” Wa means security, stability, everything in its proper place, “knowing what is enough.”Yet a persistent irony of Japanese history since 1868 is that for all the emphasis on peace and harmony, they are exactly the virtues that Japan did not pursue. At the end of the nineteenth century, rather than settling back to enjoy its new prosperity, Japan embarked on a campaign to conquer and colonize its neighbors. By the 1930s, it had already acquired a tremendous empire in East Asia; this inability to stop led to its suicidal attack on the U.S. base at Pearl Harbor, as a result of which it lost everything. Something similar is happening again. Perhaps Japan values Wa so highly for the very reason that it has such a strong tendency toward imbalance and uncontrollable extremes.

Dogs and Demons, 2002, A

2022-08-08

anond:20220808203635

学校個人ではないし公の支配に属するもんやろ

属してないなら税金投入は違憲やで

2022-07-19

統一教会に対する法整備必要性

僕は消極的野党支持者で、固定支持政党を持たず立憲、共産国民にそのときそのとき投票している。自民党はもう少し議席を減らしてバランスを取ってほしいと考えるからだ。とはいえ安倍元首相殺害されたのはとても遺憾であり、犯行はどんな理由があろうと同情も支持もしない。

なお、法律専門家ではないので嘘を書いている可能性がある。

事件以来、インターネット上では統一教会批判一色だが、僕は自分の態度を決めかねている。もちろん感覚的には理解できて、政府カルトが食い込んでいるのはとても嫌だ。しか統一教会のものを、または自民党との繋がりを確実に断てるだけの法的根拠があるのか?について僕は疑念を持ってしまった。

政教分離原則

まず党と宗教団体の繋がりについて。

公然の秘密として、自民党公明党特定宗教団体懇意にしているが、これを排除することはできるだろうか。「政教分離原則」を考えてみることにする。

信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上権力行使してはならない。

② 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

③ 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならない。

政教分離憲法20条で定められていて、今回のケースでは

“国から特権を受け、又は政治上権力行使してはならない。”

この解釈が争点になるはずだ。

広義に捉えると、政治家政党宗教団体が介入すること自体が「政治上権力行使」と捉えることができ、

自民公明両党(もしかすると他の政党も)は違憲ということになる。

狭義には、政教分離国民信教の自由保障するためのものであり、宗教から政治介入グレーゾーンとも言えるようだ。

そのため、狭義解釈では政党宗教団体との繋がりを即座に排除できるものではない。

実際に、公明党幸福実現党はこの解釈エクスキューズとして採用している。

https://www.komei.or.jp/faq/

https://info.hr-party.jp/faq/2492/

狭義・政教分離観点から自民党を追及するには、特定の事案で政府統一教会に肩入れした、特別扱いしたと証明する必要がある。

しかしながら、安倍元総理プライベートに肩入れしていたとしても、これは根拠として弱いのではないだろうか。もし仮に行政での事案が見つかったとすればモリカケ・桜くらいのインパクト自民党に与えることになるだろう。(逆に言えば、誰かが謝罪したり辞任したりで幕切れ、または関係者である元首相がこの世を去ったことで有耶無耶になる程度かもしれない。)

9条の自衛隊解釈を見れば分かるように憲法解釈神学論争に陥りやすいので、白黒つけるには改憲立法裁判所による違憲判決を待つしかなさそうだ。付け加えると、世界に目を向けてみても広義での政教分離を成し遂げている国は米国も含めて殆ど存在しないのではないだろうか。また、仮に内閣全員が統一教会信者でも、それは個人信教の自由であり、やはり排除することはできないだろう。

もう1点、見落としがちな点としては、たとえ組織票だとしても自民党公明党を支持する信者は確かに存在するということだ。宗教団体の支持する政治家がこれによって当選し、(政教分離抵触しない範囲で)宗教に都合の良い政策を行うことは通常の選挙政治プロセスと見分けが付かない。僕は保守的な反LGBT政策には反対の立場だが、それを是とする宗教政党が支持され、議席を持つことは民意であり否定することはできない。これは反ワクチンを掲げる参政党についても同じことが言える。必要なのは支持層への関心と対話であり、一足飛ばし政治家政策キャンセルすることはできないのではないだろうか。

カルト規制

次に、統一教会のものカルトとして断罪することはできるか考えてみる。

いくつかの記事では、オウム真理教同様に統一教会宗教法人格を剥奪するという話が出ていたようだ。もちろんこれができれば良いが、その基準法的根拠は何になるのだろうか?(間違っていたら申し訳ないが)僕の知る限り、カルト定義日本法律では存在しないように見受けられる。オウム真理教のようにテロ国家転覆殺人計画・実行した組織なら公安による監視・取り締まり対象だろう。しかし、(詐欺人身売買などで立件できるならともかく)悪質な宗教団体、というだけでは警察公安も動けないのが現状ではないだろうか。

やまとQ(正しい漢字を調べるのも面倒だったので割愛)は取り締まりの動きが早かったが、これは医療施設への妨害行為が原因と考えられるので、やはりサボタージュなどで教団外の社会一般人に対する直接被害の有無が分水嶺と見て間違いなさそうだ。また、オウム真理教の関連組織であるアレフ宗教法人認定されていないが、その後も活動を続けていることから銀の弾丸にならない可能性があることにも注意したい。

公安警察による取り締まりしろ宗教法人認定厳格化しろ、(意外なことだが)国による宗教の選別となり、政教分離的には後退にあたると考えられる。立法によるカルト定義明確化なしでは国による恣意的運用を許すことにもなる。

まとめ

僕の意見としてはフランスのように反セクト法相当の立法をしてカルト定義明確化し、宗教法人格の管理罰則化は必要だと思うし、これを欠いて恣意的宗教規制するのは法治主義とは言えないはずだ。それに加えて累進的な宗教課税検討すべきときが来ていると思う。さらに僕なりの結論としては、現行の法体制統一教会感情論以上の追及は難しく、居直って自民党との関係公然のものとし、公明党と同様のスタンスを取り始めたら手が出せない可能性がある。法整備が急務である

自民党支持者へ

自民党統一教会の繋がりを良しとする人。あなたは今後も自民党投票し続ける自由がある。

それはあなた権利だし、法根拠なく自民党統一教会を止められるものでもない。

一方で自民党支持者で統一教会を良しとしない人。もし良ければ次の選挙だけでも野党投票してくれないだろうか。

自民公明ともに宗教との関わりが深い政党のため、外圧なしには自浄作用を働かせるのは難しいだろう。

2022-07-13

昭和的な清濁併せ吞みは、もはや存在が許されない

同意

IT化とスマホの普及で情報オープンになったことが大きいと思う。

いわゆる料亭政治のような密室談合が、忌避される時代になった。

それと同時に、正義とはなにか、民主主義とはなにか、を、親兄弟から言葉ではなく自分の目とインターネット確認できるようになったので、

とくに若者にとってはもう昭和方法は受け付けられないと思う。

2022-07-13

昭和の完全終了としての安倍氏の死

安倍氏の痛ましい死によって、彼個人の死を超える、何か非常に大きなものが失われたような感覚に襲われた。もちろん、元首相の選挙演説中の銃撃である以上、単なる殺人事件ではなく「民主主義危機」でもあるのだが、そんな表現さえ生易しく感じられた。その喪失感は何とも言えないもので、ふんわりとした不安とでも形容せざるを得ないものだった。

以下の記事自民党統一教会歴史的関係を知り、この正体が分かったような気がした。

勝共連合から続く歴史自民党は今すぐ旧統一教会(家庭連合)と手を切れ

この喪失感昭和の完全終了によるものだ。昭和的ないかがわしさ、清濁併せ吞むというあの狡さが完全に終わったのだ。

上記記事を読むと、何というか、次のような情景が浮かぶ戦後共産党勢力暴力に対抗するために、岸信介氏など自民党右派反共実力行使の手駒として統一教会支援したのだろう。旧ソ連崩壊中国資本主義化、近年ではベネズエラ惨状を見るにつけ、反共政策」は確かにしかったように思える。しかしそれは同時にカルト被害者をも産むものであった。まさに清濁併せ吞む昭和の一コマである

時代下り安倍氏の代でも関係は続いた。安倍氏はそれほど積極的には統一教会と関わっているようには見えないが、しかしそれでもビデオ演説を送るなどしていた。

銃撃事件本質逆恨みである。これは種々の報道が出た後も揺るがない。安倍氏統一教会に行ったことは、民事上も刑事上も何ら責任が問われるものではないからだ。

しかし一方で、安倍氏の振る舞いは国会議員としては無責任に極まりない。例えば彼が統一教会演説ビデオを送ったことで、少なくとも信者には、統一教会には社会的信用があるという印象を与えてしまった。あまつさえ上記記事によると安倍氏に近い議員の中には統一教会選挙支援を受けていた者もいるという。件の容疑者がこの状況を見て、どう考えるか。

正直、逆恨みする気持ちも分かる。こんなことは言いたくないが、どうしても因果応報という言葉が頭をよぎる。

繰り返すが安倍氏と彼に近い人たちの振る舞いには全く違法性がなく、今回の銃撃事件裁判情状酌量余地としても一切考慮されないだろう(左派系の弁護士達がアベンジャーズみたな弁護団を結成し、安倍氏統一教会との関係執拗に指摘して死刑回避に全身全霊を傾けると思うが)。しか安倍氏政治的業績は、統一教会との関わりによって大きく割り引かれることは避けられまい。

昭和的な清濁併せ吞みは、もはや存在が許されない。振り返ってみるとここ十数年の種々の動きは、昭和を完全にお役御免にしようとしていたのではないか。例えば暴排条例による暴力団の無差別排除憲法9条改正による自衛隊明記。暴力団は古くは警察が使い、高度経済成長後は企業民間人が使っていた「濁」であった。それは、治安維持民事問題の迅速な解決という「清」のための必要悪であった。憲法9条第2項の文言普通に解釈すれば自衛隊違憲という「濁」になるのに、安全保障という「清」のためにスルーされた。

でもそれはおかしいでしょう。暴力団という「濁」は単に「悪」でしょ。東日本大震災で命を張っていた自衛隊を「濁」扱いするのは流石に申し訳なく、正々堂々と「清」の側に立たせるべきでしょ。そのような感覚が暴排条例自衛隊憲法明記、そして今回の事件につながったのではないか

昭和が完全に終わる。今後、昭和的な清濁併せ吞みに実は支えられていたアレやコレやが、突然崩壊するのを我々は目撃することになるだろう。

anond:20220713225148

昭和の完全終了としての安倍氏の死

安倍氏の痛ましい死によって、彼個人の死を超える、何か非常に大きなものが失われたような感覚に襲われた。もちろん、元首相の選挙演説中の銃撃である以上、単なる殺人事件ではなく「民主主義危機」でもあるのだが、そんな表現さえ生易しく感じられた。その喪失感は何とも言えないもので、ふんわりとした不安とでも形容せざるを得ないものだった。

以下の記事自民党統一教会歴史的関係を知り、この正体が分かったような気がした。

「勝共連合」から続く歴史、自民党は今すぐ旧統一教会(家庭連合)と手を切れ

この喪失感昭和の完全終了によるものだ。昭和的ないかがわしさ、清濁併せ吞むというあの狡さが完全に終わったのだ。

上記記事を読むと、何というか、次のような情景が浮かぶ戦後共産党勢力暴力に対抗するために、岸信介氏など自民党右派反共実力行使の手駒として統一教会支援したのだろう。旧ソ連崩壊中国資本主義化、近年ではベネズエラ惨状を見るにつけ、反共政策」は確かにしかったように思える。しかしそれは同時にカルト被害者をも産むものであった。まさに清濁併せ吞む昭和の一コマである

時代下り安倍氏の代でも関係は続いた。安倍氏はそれほど積極的には統一教会と関わっているようには見えないが、しかしそれでもビデオ演説を送るなどしていた。

銃撃事件本質逆恨みである。これは種々の報道が出た後も揺るがない。安倍氏統一教会に行ったことは、民事上も刑事上も何ら責任が問われるものではないからだ。

しかし一方で、安倍氏の振る舞いは国会議員としては無責任に極まりない。例えば彼が統一教会演説ビデオを送ったことで、少なくとも信者には、統一教会には社会的信用があるという印象を与えてしまった。あまつさえ上記記事によると安倍氏に近い議員の中には統一教会選挙支援を受けていた者もいるという。件の容疑者がこの状況を見て、どう考えるか。

正直、逆恨みする気持ちも分かる。こんなことは言いたくないが、どうしても因果応報という言葉が頭をよぎる。

繰り返すが安倍氏と彼に近い人たちの振る舞いには全く違法性がなく、今回の銃撃事件裁判情状酌量余地としても一切考慮されないだろう(左派系の弁護士達がアベンジャーズみたな弁護団を結成し、安倍氏統一教会との関係執拗に指摘して死刑回避に全身全霊を傾けると思うが)。しか安倍氏政治的業績は、統一教会との関わりによって大きく割り引かれることは避けられまい。

昭和的な清濁併せ吞みは、もはや存在が許されない。振り返ってみるとここ十数年の種々の動きは、昭和を完全にお役御免にしようとしていたのではないか。例えば暴排条例による暴力団の無差別排除憲法9条改正による自衛隊明記。暴力団は古くは警察が使い、高度経済成長後は企業民間人が使っていた「濁」であった。それは、治安維持民事問題の迅速な解決という「清」のための必要悪であった。憲法9条第2項の文言普通に解釈すれば自衛隊違憲という「濁」になるのに、安全保障という「清」のためにスルーされた。

でもそれはおかしいでしょう。暴力団という「濁」は単に「悪」でしょ。東日本大震災で命を張っていた自衛隊を「濁」扱いするのは流石に申し訳なく、正々堂々と「清」の側に立たせるべきでしょ。そのような感覚が暴排条例自衛隊憲法明記、そして今回の事件につながったのではないか

昭和が完全に終わる。今後、昭和的な清濁併せ吞みに実は支えられていたアレやコレやが、突然崩壊するのを我々は目撃することになるだろう。

2022-07-12

anond:20220712090902

自衛隊違憲だというのはどこかの弁護士がそう訴えただけだろ

最高裁はなんの判断もしてない(砂川事件

隊員は報酬切下げはされないとか、地位永遠に保証されるとか、首相緊急時国会最高裁より権限があるとか、そういう憲法はない

anond:20220712070741

平和安全法制違憲ではありませんでした、と明言するとかね。

2022-07-11

憲法9条とかどうでもいいだろ

どうせ有事になったら憲法に従わなければならない立場政治家とか裁判官自体が冷静じゃなくなって書かれている通りに従う知能もなくなっちゃうんだろうし

そもそも憲法はヴォルデモートの日記じゃないわけで、現実を変える力はない。

憲法無視して超法規的措置とって敵の本営に侵攻すること自体はできる。あとから「それ違憲じゃん」ってなるだけ。

憲法に反することをしようとしたら存在が消えて時間が巻き戻る的な強制力憲法は持ってないんだからいくらでも反することはできるわけよ。

どうせある文章があってそれに書かれてることに反するかどうかなんて程度の些末な問題なんだからそんなことでぐちぐちするな

2022-07-08

https://twitter.com/lanje/status/1545263259875672064

安倍さんを撃った犯人山上徹也の名前がここにある。

安倍晋三違憲行為を許さない1万人委員会

ベガーのせいなのが明らかになってしまうかもしれんな…

結婚なんて、ただの選択肢に成り下がればいい

選挙前故に様々な「思想」が飛び交っては批判賛同やにもみくちゃにされて世論の中を駆け巡っている。

その中でも特に強烈に突き刺さったのは井上義行氏の性的マイノリティの拒絶だ。彼の言説によると、同性婚を認めると2000年歴史ある人類否定されることになるらしい。どんなスケールの大きい話じゃい、2000年否定できるならむしろ否定してみたくもあるよ、というまずシンプルツッコミは置いておいて。

私自身は同性愛者ではないがアロマンティック(他者恋愛感情を抱かない)を自認しており、その上女性の肉体を持ちながらも妊娠することに対しての強烈な生理的嫌悪感がある。そのため20代現在男性結婚する予定はないし、万が一したとしても拷問でも受けない限り実子をもうけるつもりはない。

から正直、同性婚ができようができまいが私自身困ることはないのだ。けれども、私は同性婚法制化が推進されることを願っている。もっと言うならば、「結婚自由」がもっと開けたものになればいい。結婚相手選択肢に限らず、結婚自体がただの選択肢に成り下がってほしい。結婚適齢期だなんて言葉が廃れてしまえばいい。そんな風に願って、今は候補者情報をかき集めているところだ。

先日は大阪地裁判決もあった。同性婚を認めないことは違憲ではないとするものだ。

婚姻は、男女が子を産み育てながら家族として共同生活を送り、次世代に承継していく関係」。この文についてはTwitterなどでも数多く言及された。結婚の先には繁殖があることが前提らしい。なんて気持ち悪い。産めよ増やせよと、せっせと子作りして国に貢献するなら援助もしてやるよと、結婚とはそういうものだったということなのだろうか。

ロマンティックの私に恋愛結婚幸せ想像がつかないけれど、結婚を望む人たちはきっとそんな意図賛同しているわけではないはずだ。家族だって結婚が全てではない。むしろこれまでを顧みれば結婚というフェーズのない生活共同体多種多様発生してきただろう。それも全て無視して、まるで国家における人間繁殖のためにあるような言い回し

家畜じゃあるまいし、と思う一方で同時に、これが地裁の総意ともなる社会であるならば数年前の「生産性発言にも頷ける、と私は深い諦めの念を抱いてしまった。

いろんな思想を見て、いろんな感情が渦巻いている。私自身は正直もう何にも期待していないけれど。生産性がないと貶められることも、結婚≪できない≫「ワケありの欠陥品」と思われることも、子作りする気のない親不孝者と思われることも、全て事実ですからと黙ってやり過ごす程度には既に諦めてしまっているけれど。

でもこの社会にはそんな現状を変えたいと必死にあえぐ人たちも同時に存在していて。

その人たちの余波が私の諦念に少しでも光を差してくれるのではというちょっとした期待で、今ここにある選挙権だけは絶対無駄にしないと決めている。

2022-07-03

続・表現の自由についてのメモanond:20220702054142追記

anond:20220702054142追記。基本引用元は元記事ブコメhttps://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20220702054142)。

1. 表現の自由私人間で問題となる場合はどんなものがあるか

frothmouth 公権力でないか規制でない、ってのも今の時代実態にそぐわない気がするなあ。キャンセルカルチャー批判とか考えるとね/真面目に書いた増田に「精液で全身ドロドロ〜」みたいなブコメ付けられて気の毒

 ここで問題にしているのは一般人の抗議運動ボイコットのことで、その手のものは「規制」と考えることは不適切だということである公権力でないか規制ではないとは言っていない(私人間効力の論点はもう半世紀以上前からある)。せっかくだから書いておこう。

 2022年現在公権力以外の「規制」を論じる意味があるとすれば、デジタルプラットフォーマー問題だろう。我々の言論はあまりにも出版放送通信インフラ依存している。たとえばツイッターフェイスブック、「マンガアニメ」の類を配信しているプラットフォームpixivなんかの同人投稿サイト。こうしたプラットフォーム言論依存しているので、もはや作者の書く自由擁護するだけでは何の意味もない。その手のプラットフォーマー恣意的管理をすれば言論は生き残れない。一方で、こうしたプラットフォーマーもまた出版自由を有するから、「持ち込まれ言論絶対出版しなければならない」義務政府が課すことは許されない。そして実例として、SNS各社はプラットフォーム内でのヘイトスピーチ禁止しているし、pixivも同様である。みんなプラットフォーマーというとGAFAしかイメージしないが、もっと小規模なレベルプラットフォーマーに目を向けるのが大事だ。

ピクシブ株式会社サービス利用規約14条

23 極端な思想反社会的行為を賛美・助長する表現投稿または編集する行為

24 人種信条職業性別宗教などの差別を賛美・助長する表現投稿または編集する行為

言論流通過程全体を保護するためには―わかりやすく言えば2chの削ジェンヌみたいな滅茶苦茶な「管理」をされないようにしないとけない―プラットフォーマー私人はいっても、その行動を公権力によって規制する必要が出てくる。そしてプラットフォーマーもつ出版自由との慎重な調整が必要となる。その繊細な調整が表現の自由論の課題ますますなっていくだろう。

 なぜ繊細慎重な調整と必要となるか。DPへの介入は、プライバシー名誉毀損にあたる言論裁判所差止めるのと同じ構図だし、言論の分野ではないが、旅館業法が、ホテル旅館(これも私人だ)に宿泊者を原則として拒否できないとする義務を課すのと同じ構図がある。似たような調整はこれまでも行われてきたわけである。ただ、後者営業自由は、もともと社会権保障したり公平な自由を確保するために制限することが幅広く認められると観念されているのと違って、前者は、差止めの要件がかなり厳しく設定されている(『宴のあと事件などを見れば明らか)。それは表現の自由がそれだけ「重い」権利だという観念があることによる。プライバシー名誉毀損営業に対する介入を比較すれば分かるように、表現の自由就中送り手の自由)を重視すればするほど、プラットフォーマーもつ表現の自由」へ介入するのは困難となる。ブコメした多くの人が「表現の自由」はとにかく大事なんだという観念を持っているようだが、果たして一般論として表現の自由称揚すればするほど、プラットフォーマー地位が向上していき、利用者立場は低下していく関係にある。DPに限らず、出版社も独自ポリシーを持っていて、刑法175条の要求とは別に原稿に対していろいろな要求をして、修正しないなら出版拒否する。表現の自由称揚し、表現の自由地位を向上させればさせるほど、出版拒否に対して裁判所が介入するのは困難となっていく。皮肉な話である。「表現の自由」を称揚すればするほど、公権力以外の「規制」はつよくなりうる。私人間同士の対立場面で「表現の自由」を登場させないことには、それなりの理由がある。

 なお、私は一般人の抗議運動を「規制」と言っているような人に調整作業やらせたいと直感的に思えないところがある。その人こそが削ジェンヌになるのではないか

2. 規制とはなにか

minominofx66 まずは宇崎ちゃんしろたわわにしろ萌え絵アニメ規制されるべき「エロ」なのか、健全表現範囲内なのか、この際だから徹底的に議論して白黒はっきりさせるべきだと思う。

 第一に、さしあたって規制されるのは「わいせつ」(刑法175条)である。「エロ」ではない。そして「エロ」とか「健全」かそうでないかという問題は、表現の自由擁護する上でどうでもいいことである重要なのは「不健全」でも公権力によって規制されないということではないか。「不健全」なら規制しても良いという観念が前提にあるように見えるのは驚くほかない。アニメマンガの類の少なくない作品が不健全とか不道徳とか退廃的とか言わざるを得ないのは確かだろう(少なくともハード・コア・ポルノ的なものなら、だいたいどれかには当てはまるだろう)が、だからといって公権力刑罰をもって発売頒布禁止することは許されない。それが表現の自由論ではないの。

 第二に、「規制」がどんな規制かも考えなければならない。仮に刑法175条が廃止されたとする。そうすると性器修正処理などは全廃されるだろうが、成人向けの書籍ビデオ等は依然として年齢制限が課せられる(公権力法律条例をもって年齢制限を課すこともあれば、出版業界の内部協定として行うこともある)。販売頒布禁止されなくても、流通過程制限されることがある。それは言論の内容に着目したものではなく、付随的害悪(たとえば見たくない人の目に偶然触れるのを防ぐため)の阻止するための規制(内容中立規制というやつだ)である一般論としてそのような規制は認められなければならないだろう※。付随的害悪を阻止するための規制もいっさい認められず、街路に成人向け書籍広告を出したり、街頭モニタービデオを上演したりすることも制限なく認められなければならないというのなら、もはや見解の相違としか言えないが。

 第三に、宇崎ちゃん欠缺ポスターやたわわのポスターに対する抗議や批判は、いかなる意味でも規制ではない(国連からという声もあるが、それは「日本の」公権力ではないし、日本国に対して強制力を持ったなにものでもない)。批判や抗議は、表現の自由がもともと予定するものであろう。「不健全表現規制せよ」と主張することすら(私はそうは思わないが)、表現の自由である。それに反論するのも自由だが、そういう主張自体が「規制」と言うのは馬鹿げている。

 とはいってもこれがかなり厄介で、そのような規制によって出版社に過剰な経済的負担を課し、実質的に内容規制をしていこうという方法がないではない。しかし、付随的害悪の阻止のために合理的規制を行うことは、一般論としては認めなければならないだろう。あとは個別事例による。

3. 雑多に。

(1)

daydollarbotch 用語はそれっぽいが内容が所々おかしい。嫌がらせがあるなら不法行為たり得るし、間接適用説の下で表現の自由考慮され得る。判決引用部分では特にわいせつ表現表現の自由保護範囲外とは読み取れない(2階へ

①「わいせつ」に該当してもただちに保護範囲外にならないと最高裁認定しているという趣旨か。だったら以下は何なのだろうか。なお、これはわたしあなたが考えているところのあるべき「わいせつ概念ではなく、最高裁判例法理では「わいせつ」がどういう扱いを受けているかという問題である

ところが猥褻文書は性欲を興奮、刺戟し、人間をしてその動物存在の面を明瞭に意識させるから羞恥感情をいだかしめる。そしてそれは人間の性に関する良心麻痺させ、理性による制限度外視し、奔放、無制限に振舞い、性道徳、性秩序を無視することを誘発する危険を包蔵している。もちろん法はすべての道徳や善良の風俗を維持する任務を負わされているものではない。かような任務教育宗教の分野に属し、法は単に社会秩序の維持に関し重要な意義をもつ道徳すなわち「最少限度の道徳」だけを自己の中に取り入れ、それが実現を企図するのである刑法各本条が犯罪として掲げているところのものは要するにかような最少限度の道徳違反した行為だと認められる種類のものである。性道徳に関しても法はその最少限度を維持することを任務とする。そして刑法一七五条猥褻文書頒布販売犯罪として禁止しているのも、かような趣旨に出ているのである

チャタレイ夫人の恋人事件最大判

②間接適用説のもとで「誰の」表現の自由考慮するかが問題である。抗議者の言動裁判所差止めれば、それこそが表現の自由制限となるから裁判所差止権限行使するにあたっては、表現の自由趣旨を取り込んで適用しなければならない、というのが間接適用説だろう(ドイツリュート判決はこれとそっくりな構図だった)。表現の自由私人間効力は、抗議者に対して、一般論として相手表現を一切抑制しないように注意する義務を課すものではない。もしそうだとすれば、あらゆる抗議の類が不法行為になるはずである

嫌がらせがあるなら不法行為なのは違いない。それは個別事例による。

関連して。

type-100 175条にしても猥褻物の作成・所持を禁じているわけではない。猥褻性を持つもの表現言論自由保護を受け、他の権利との綱引き規制されている。

 確かに刑法175条はわいせつ文書・図画等の作成・所持を禁じていない。その限りであなたのいうとおり、「保護を受け」ると考えてみよう。しかし、販売頒布禁止される。警察刑法175条の取締り方針を変更して、性器露出したり、性行為描写するあらゆる作品を取り締まったとする。そこで作成・所持だけが保護されたとして、何の意味があるのか。「保護されない」という言い回しが気に入らないなら、「保護レベルが著しく低い」という風に言い換えた上で読んでいただきたい。加えて、最高裁作成・所持の禁止まですれば違憲となる、とも言っていない(アメリカなら、Stanley v. Georgia, 394 U.S. 557 (1969) 判決がそう言っているが)。

(2)

CocoA "一般に「エロ」の表現の自由を目指していきたいのであれば、少なくとも刑法175条を廃止しなければならないはずである"<-えっ、廃止に賛成している表現の自由戦士たちを知らない・・・

 「戦士」なら刑法175条を廃止する署名運動なり政治運動なりをやるべきであろう。あるいは「戦士」とはただのネット弁慶か。廃止提案されたら賛成するが、そうでなければ特に何かしないのか。

(3)

hom_functor これだけ長文書いても表現規制する合理的理由絶対説明しないんだよな。「抗議をやめる~ように請求する法的資格を有する」なんて見かけない主張を創作したり反論やすブコメチェリーピッキングするだけ

 「規制」なのかという問題か否かを読み取っていただけてないらしい。上記で書いたように、抗議運動なりボイコットなりは「規制」ではない。政治道徳的な観点からそれに理由があれば正当だし、理由がなければ不当だというだけのことである。むろん嫌がらせの類は、不法行為である。抗議運動なりボイコット理由があるかという部分はともかく、「規制」というおかし問題設定をしていることが馬鹿げているということだけはくみ取っていただきたいのだが。

(4)

sirobu 表現不自由展に対する街宣カーも自由制限する不当な圧力だと思ってるんだけど、増田はそう思わないってことかな?

 あなたが街宣カーで街宣される時点で表現の抑圧だと考えていることはよく分かった。そういうレベルから見解が異なるのなら、議論がかみ合うことはないだろう。以下は参考まで。街宣カーで道路を走りながら何か言うだけなら、それは自由である馬鹿なことを言っているなとは思うが)。問題は街宣カーそれ自体ではなく、殺害予告だったり大量電話のような嫌がらせだろう。また、名古屋市長支出拒否しかり、大阪府知事の会場施設利用許可しかり、公権力規制に乗り出していることを考えれば、表現不自由展では「不当な圧力」どころか、ズバリ規制」が問題だった。公権力嫌がらせを煽っていることも見逃せない(特に名古屋市長愛知県知事リコール運動)。

(5)

thesecret3 憲法法律ではないので専門家判決がどうでも各自独自解釈で主張してもいいと思う。自由保障すると言ったら基本は保障されなければならないのであって政府邪魔しなければいいってもんではないと私は思う。

 それは畢竟独自見解ですね。

 なんか進次郎構文っぽいトートロジーが・・・。

2022-07-02

anond:20220702114619

かに国の主張にも一理あるな。

主張を明確化すると結構リスキーだと思うけど、

それだけギリギリの戦いなんだろうなー

同性婚訴訟原告さんにも妊娠中の人がいて、

二人の母(?)に共同親権がないので、

非嫡出子違憲判決のように子供側の権利から考えて

違憲余地もある気がする

2つの判決ともに子供権利についての検討がなかった気がする

表現の自由」についてのメモ的なもの

 下記のエントリーanond:20220701074807)で色々と書いてある点について。目下話題になっている「表現の自由」について。自分用の整理として。

1. 表現の自由とはなにか?

 目下話題の「表現の自由」は、いかなる意味表現の自由なのだろうか。それは憲法21条1項に見られるような法的なそれだろうか。それとも、憲法21条1項のようなものとは異なった何かなのだろうか。たとえば、JAなんすんが制作した『ラブライブ! サンシャイン!!』のキャラクターを利用したポスターについて、絵の内容がが性的である※1という批判があった(なお、これや宇崎ちゃん欠缺ポスター事件の余波で、赤木氏らツイッター凍結騒動があったりした。覚えているだろうか?)。

 ここで、抗議をJAなんすんが考慮して、ポスター撤回したとする。すると、「誰の」自由が「誰によって」侵害されているのだろうか。侵害者をざっくりと抗議する者として捉え(本来ツイッター批判的な言葉を言っている者、電話をかけて意見を伝える者、付和雷同していたずら電話をする者、大量の手紙を送りつける等のいやがらせをする者等を十把一絡げに全部抗議者として捉えるのは適切ではあるまいが)、被侵害者をさしあたってJAなんすんとして、JAなんすんが抗議者に対して抗議をやめる(たとえば、ツイッターで「ポスター撤回すべし」等の意見つぶやくのをやめさせる)ように請求する法的資格を有する、というのが表現の自由主張の趣旨か。

 はっきりいえば、そのような主張は法的には認められない。私人間効力の論点を見直すべきであるしか言い様がない。ここで、抗議をやめるように要求する資格があると裁判所肯定すれば、抗議者の表現裁判所(=国家機関!)が介入することになり、それこそが表現の自由侵害である。この構図において、憲法21条1項が保障する表現の自由恩恵に浴するのは抗議者の側となるだろう。目下話題の「表現の自由」は、憲法21条1項とは異なる問題であると解するのが相当である・・・のだろう。

2. 規制概念

 元々のエントリーでは次のような言明がある。

言いたかったのは、フェミニストあくまで「女性実質的表現言論の自由を高めるための環境づくり」を目指しているのであって、「表現規制派」というレッテル貼りは間違いだということ。フェミニストリベラル派が目指すのは、あらゆる階級属性の人が等しく表現の自由行使できる社会だ。

 これに対するブコメはこう言っている。

preciar おまえ等がぶっ叩いてきた作品ほとんどが女性の手になる物である時点で、ただの妄想というか開き直りしかない/そもそも平等のために表現規制しろと言う主張が「規制派」でなくてなんだ?恥に加えて知恵も無い

 後段の「そもそも平等のために表現規制しろと言う主張が「規制派」でなくてなんだ」という部分に注目したい。再びポスターを題材とする。「規制」という言葉を使うのは公権力ではないか不適切のように思うけれども、例のポスターに対する抗議は、ポスター掲示することを抑制しようとする意図を有し、ある一つの表現を抑圧する行動である、という部分を問題として切り出すことにしよう。ここで想起するべきなのは表現すべてがまったく自由(というより、放縦のまま)とされることなどあり得ないということである。たとえば名誉毀損的な言動は認められない。名誉毀損言動をしている者を叱りつければ、それは一つの表現の抑圧には違いない。しかし、名誉毀損をされないというのも重要利益であり、自己表現利益と考量される対象となる(そうならないという人はいないだろう)。プライバシーも同様であるノンフィクション『逆転』事件を想起すれば良い。前科実名暴露されない利益を重視する見地から、『逆転』における表現抑制されている(この事件では、慰謝料請求裁判所が認めているから、公権力による「規制」ですらある!)。プライバシー保護のために表現抑制するべきであるという主張は「規制派」であろうか。

 名誉毀損プライバシーは具体的な個人利益問題となっているが、女性蔑視の問題はそうではないと思うかもしれない。しかし、番組準則のように、社会に薄く広く広がる利益保護(たとえば、放送番組政治的公平性)を保護するために、表現抑制する(番組編集準則であれば、放送局の自由)ということは、そうおかしな話ではない(なお、憲法学では、番組準則は、それへの違反総務大臣による放送免許の取消原因になり得る等の効果もつ限りで違憲であるとしている。)。たとえば、大阪府知事大阪市長橋下徹トーク番組に対して、政治的に公平ではないという批判は、無論番組作りを抑制する可能性がある。実際、激しい批判を浴びて、大阪毎日放送社内調査を行って検証したのである。これも「平等のために表現規制しろと言う主張」だから規制派」となるのだろうか?それはそれで一貫した立場ではある。それこそ「知恵も無い」と思うが。

 なお、念のためにいえば、プライバシー名誉権も日本国憲法は明文で保障していない。そのような利益であっても、憲法21条保障する表現の自由にとっての対抗利益となることができる。憲法の明文で保障されていない権利表現の自由の対抗利益になり得ないという考え方は、畢竟独自見解に過ぎない。

3. 「表現の自由」は個別的特殊的な権益なのか?

 ここからは元のエントリーとの関連性は薄くなる。

 選挙において「表現の自由」を掲げる政治家がいる。彼らの問題意識は極めて偏頗ではないか日本表現の自由をめぐる問題状況は深刻なものがある。ところが、こと選挙で「表現の自由」を旗印にする者の言動を見ていると、選挙運動の規制公務員政治的意見表明やストの広範な禁止放送資源の分配問題政府情報保全・公開等々、様々な形で存在しているはずの問題状況が捨象されて、取り上げられているのは「マンガアニメ」の自由ということになっている。また、「アニメマンガ」だけを対象にしても、取り組む分野が偏っているのではないか。たとえば、これ(https://twitter.com/KenAkamatsu/status/1542366137979400193)には『国が燃える事件が入っていないが、右翼の抗議は免罪されているのか。あるいは、最近の『「神様」のいる家で育ちました』も入っていないが、宗教団体からの抗議は免罪されているのか。上記は、批判としてはマージナルかもしれない(忘れていただけかもしれない)が、刑法175条の廃止等(ポルノ合法化;「有害図書販売規制廃止ないし合理化)を公約に入れていないのはどうしたことか。

 「表現の自由」を掲げる政治家言動を観察していると、一つ気づくことがある。彼らは、表現の自由抑制している制定法を改廃するのではなく、規制対象外となるように関係機関に働きかけを行って「免除」(制定法の外部で活動しているのだからお目こぼしに近い)するという活動に主眼を置いているようである。念のためにいえば、そういった活動政治家が行うこと自体は奇妙なことではない。問題は、「表現の自由」といった一般的普遍的権利を掲げながら、規制廃止を唱えるよりも、特定表現に限って規制免除するように(制定法の改廃ではなく)法執行機関に働きかけをしていることである※4。取締当局に働きかけをして有利な方針を引き出すという方向性は、自由にとって脅威であることに変わりはない。結局、働きかけをする人物意向によって「自由」の内実が左右されることになるからである。「免除」の仕組みを動かす人物特定出版社特定作品群を代表している場合、その他の出版社表現には「免除」を拒否するという形で脅威となる可能性が存在し続ける。政治家言動ナイーブに受け止めてはいけない。

 なお、私は実は「アニメマンガ」の中の特定作品群のみを対象とした偏頗な政治運動自体けしからんというつもりはない※5。しかし、「表現の自由」という看板は下ろしてもらいたい。

4. 「エロ」の規制をめぐって

 「表現の自由」を掲げる政治家ないしツイッターアカウントを見ていると、「エロ(・グロナンセンス)」の自由を重視しているような印象がある。こういった表現一般について、公権力の介入を排除する防御権があるのは当然だ、という前提があるような気がする。しかし、「わいせつ(obscenity)」にあたる言論憲法上の権利として保護されないはずである憲法上の権利として保護されないということは、内容規制をしても合憲であるということになる。日本最高裁の考え方もそうであろう:

なお性一般に関する社会通念が時と所とによつて同一でなく、同一の社会においても変遷があることである現代社会においては例えば以前には展覧が許されなかつたような絵画彫刻のごときものも陳列され、また出版が認められなかつたような小説も公刊されて一般に異とされないのである。また現在男女の交際男女共学について広く自由が認められるようになり、その結果両性に関する伝統観念修正要求されるにいたつた。つまり往昔存在していたタブー漸次姿を消しつつあることは事実であるしかし性に関するかような社会通念の変化が存在しま現在かような変化が行われつつあるにかかわらず、超ゆべからざる限界としていずれの社会においても認められまた一般的に守られている規範存在することも否定できない。それは前に述べた性行為非公然性の原則である。この点に関する限り、以前に猥褻とされていたもの今日ではもはや一般猥褻と認められなくなつたといえるほど著るしい社会通念の変化は認められないのである。かりに一歩譲つて相当多数の国民層の倫理的感覚麻痺しており、真に猥褻もの猥褻と認めないとしても、裁判所良識をそなえた健全人間観念である社会通念の規範に従つて、社会道徳的頽廃から守らなければならない。けだし法と裁判とは社会現実を必ずしも常に肯定するものではなく、病弊堕落に対して批判的態度を以て臨み、臨床医役割を演じなければならぬのである

最大判1957(昭和32)年3月13日 刑集11巻3号997頁:チャタレイ夫人の恋人事件

エロ」の自由擁護していくとなると、「保護されない言論」の判例法理桎梏いかに除去していくかを考えるべきであろう。スウェーデンではポルノ出版自由対象とされていることに注意する必要がある。スウェーデン憲法典の一部を構成する出版自由に関する法律は、出版自由制限できる場合限定列挙する。児童ポルノ出版自由制限できる場合に挙げられている※6が、ポルノ一般は挙げられていない。他方で日本の状況を考えてみよう。もはや何の修正もなく『チャタレイ夫人の恋人』は出版されているが、刑法175条自体は生きている。最高裁判例を変更していない。捜査機関取締り方針を変更すれば、刑法175条でもって再び刑事罰が科されるであろう。他の成人向けのアダルトビデオにしても、マンガにしてもアニメにしても同様である一般に「エロ」の表現の自由を目指していきたいのであれば、少なくとも刑法175条を廃止しなければならないはずであるしかし、この最大の桎梏存在認識していない者も少なくないように思う。もしかすると、このような規制状況はもはや動かしがたいので、所与としなければならないと考え、より低い脅威度のものを優先しているのかもしれない。あるいは、彼らが取り組んでいる「マンガアニメ」は実は「わいせつ」にあたらない物件のみで、ハード・コア・ポルノ的な「マンガアニメ」は眼中にないのかもしれない。しかし、それでは『チャタレイ夫人の恋人』や『悪徳の栄え』、あるいは『蜜室』に取り組んだ人々と比べてあまりにチャチな取り組みだと思う。

 丸山眞男を引き合いに出すまでもなく、日本人は既成事実に弱いと指摘される。いったん規制されると大変だから規制される前に対処する政治家必要であるという言い分を聞くが、既成事実に屈服して「一端規制されると大変」な状況を強化しているのは誰なのだろうか。

※1 ここで「性的」として批判されているのは、単に裸体だとか性器描写されているという意味ではなく、ほぼ女性蔑視的という意味に等しいことに注意するべきである

※2 書いているうちに思ったが、リュート判決の構図に似ている。

※3 スウェーデンなどの欧州諸国ではポルノ合法化されている。スウェーデン等で購入したヌード写真集日本に輸入して税関検閲に引っかかる、というのが税関検閲事件の流れだ。

※4 なお、児童ポルノ禁止から創作物を除去せよとの主張は、一般的規制問題として評価できよう。

※5 むしろ出版社利益を守るためと考えれば、個別出版について規制お目こぼししてもらう活動大事だろう。だが、あくま出版社権益であり、表現の自由という共通財の問題ではない。

※6 日本出版されている成人向けマンガイラスト児童ポルノにあたるかと言った事件があったのだが、スウェーデン最高裁マンガ表現形態に十分配慮した判断を行っている(NJA 2012 s. 400. 翻訳もある。外国立法255号[2013年]223頁)。このような判断日本最高裁がするかというと、全然しないだろう。

2022-06-28

anond:20220628090221

別に世論では真っ二つで分かれてなんかいないよ

大体の人は中絶権利女性にあると思っている

カルト的なクリスチャン政治的権力に巣食ってるからそうなってるだけ


9条問題はさ、

そもそも9条問題理解すらしてない人が大半じゃないかネットなんか何も理解してないバカばかりが議論して見る価値もない議論ばかり

何も知らないバカ同士がお互い何も理解してないのでズレまくった無意味議論をして言い争ってるだけだろ

全員バカなので当然まともな結論なんか出ない

結構別物だよ



まず現行憲法では9条自衛隊許可すると言う文字は入れていないが、『「軍隊を持たない」の軍隊には自衛隊を含まないので合憲である』と判断して運用している。

別にこれで問題ない、と言う派閥と、

自衛隊軍隊の1つと言ったほうが正確だ。憲法文言と実際の運用が異なってる!自衛隊文字を入れるべき!と言う派閥が、争ってるだけだろ?


それを理解してる国民なんて全くいなくて意味不明議論をしてる人ばかりなので、民衆議論は本当に聞く価値がないなとヘソで茶を沸かしてるよ


強いて言うなら憲法にあえてそう書く是非を問われてるわけだけど、軍隊を持たないとの記述をし、あくま自衛隊軍隊として認めない建前には、自衛隊積極的戦力として運用された場合には違憲として制限する効果が実際にある。

あくま自衛隊専守防衛自衛団体としてのみ機能しており軍隊ではない、との憲法要請を強く反映させることができる。(=責められた時の防衛は現行のままでなんら問題なく可能。)


自衛隊以外の軍隊を持たない」とあえて書くことは自衛隊軍隊として認識しているわけで、そうなると自衛隊積極的戦力として想定・運用・扱われたと言える場合ストップをかける力が弱くなるわけだ。

元々防御する権利には影響しない。交戦権最初から殆どの国が持ってない。ほぼ全ての国は交戦権放棄している。


軍縮はまた別の問題だよ。

最近の国際会議の内容で考えれば軍縮の方向が強くて軍縮を考えるのが国際的な方向なんだけど

それに軍の規模は現在世界3位、持っているのは自衛隊のみで専守防衛のくせにだ

軍事費を増やして得をするのは見返りにアメリカからお金をもらえる自民党のおじさんだけなんだが、未だに1930年代に生きてる人がいて反対してるらしいな

税金をおじさんの懐に入れるのが余程好きなようで…

2022-06-27

からの所有禁止は「法の不遡及」には当たらないんだよな~

マンションが途中からペット飼育禁止にしたというニュースで「法の不遡及禁止されてるんだから無効だ」てブコメ複数ついてスターを集めて上位ブコメになってる。

法律だってその法の成立以前に遡って適用されないという大原則があるのに、既に飼っているペットを手放せというのはありえない。

後出しはすべてにおいて禁止無効)だしどうしてもなら生きてる間は可だろう

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/news.yahoo.co.jp/articles/d7f0673ce0ccc87f21263de2752e75fe1fe15b76

でもこれは遡及後出ししてることにはならないんだな~残念ながら。

この場合遡及は「R4.6.27から禁止という法律を作って、R4.6.26までに対象物を手放したのに、昔持ってたから罰する」のが遡及であって、これは法の不遡及原則から無効違憲となる。

禁止法以前から持ってたものを、禁止後も持ち続けることを処罰するのは「法改正後の所持行為に対しての処罰」だから遡及ではないし、そんな法律はこれまで無数にあるんだな、これが。

 

昭和46年 銃砲法改正

それまで合法だった、金属製拳銃型のモデルガン実弾は発射できないおもちゃ銃)は、銃身を完全に金属で塞いで白色か金色でないと違法となった。(それまで合法だった、銃身に穴が開いてたり黒色や銀色モデルガン単純所持禁止

 

昭和52年 銃刀法改正

それまで合法だった、金属製モデルガン構造について法令に適合しないもの(銃身と本体が分離したりするもの)の譲渡販売違法化した。

 

平成18年 銃刀法改正

それまで合法だった、人への殺傷能力がないプラスチックの弾を撃ち出す玩具銃について、一定以上の力で弾を撃ち出すもの無許可での所持を違法化した。(しか許可をとる手段は皆無なので実質的に完全禁止

 

平成26年 航空法改正

これまで合法だった、ラジコン航空機人口密集地・夜間・目視外での無許可での飛行を違法化した。(所持自体合法だが、使用場面が著しく制限された)

 

平成26年 児童ポルノ禁止法改正

それまで合法だった、自らが制作していない児童ポルノ映像画像等の所持を違法化した。

 

・令和3年 銃刀法改正

それまで合法だった、クロスボウの所持を違法化した。

 

・令和4年 航空法改正

それまで合法だった、100g以上のラジコン航空機を飛ばすには全て国への機体登録必要となり、無登録機の飛行は全て違法化された。(趣味として自由な所持・使用がほぼできなくなった。)

 

俺が知ってるだけでこれで、「それまで合法だったのに、後からできた法律で所持できなくなった・それまでの使い方ができなくなった」事例はもっとあるだろう。

モデルガン所持規制なんて、それまで合法的に購入して誰にも迷惑かけず家の中で眺めるだけだった無害なガンマニアが、それまで財産はたいて買ったモデルガンを、金と手間かけて規制に合うよう改造処理するか廃棄するしかなくなった。改造で対応しても、他人への販売譲渡相続も含む)が禁止されているので、市場価値は無価値となった。政府はそれに対して何の補償廃棄物時価買い取りや、改造費用の補助)もしてない。

 

もちろんそれに対して反発もあって、法の不遡及原則に反する、財産権の侵害だ、趣味を楽しむという幸福追求権の侵害だ、法律無効だ、という訴訟複数起こされてきたけど、すべて負けてる。

(こうした趣味分野での規制強化の歴史を見てると、自動車排気ガス安全基準規制強化されても「規制前に作られたものなら規制後もそのまま乗れるよ、他人から中古車を買って新たに乗りはじめてもいいよ」となってるのはすごく緩いね。古い車に乗ってる人は数が多いから、反発されたら選挙結果に影響するからだろうね。)

 

児童ポルノ以外のどの法改正(所持禁止)も、大多数はおとなしく迷惑かけず趣味を楽しんでたのに、ごく一部のアホがやらかして全体が規制されるという流れ。

マンションペット禁止もそうでしょ。

 

政府国家権力で、それまで合法だった国民の所持や行為を、ある時点から一方的禁止することすら裁判所問題ないと認めてるのに、ましてマンションという私有地内で決めたことがダメになるわけないんだよ。

2022-06-25

アメリカ中絶違憲となったことで、日本への中絶ツアーとかがどれくらい出てくるのか

医療ツーリズムでしょ、これも

2022-06-23

anond:20220623215947

憲法学者的には違憲っていうのが殆どだぞ

まあ憲法学者ってのがそもそも法学の中で笑われるような存在だけどな

同性婚訴訟って十中八九同性婚違憲ってなるよな

日本憲法24条では、婚姻は「両性」の間で成立すると規定されてるわけで、こんなん覆しようがない

色々屁理屈付けることは出来るけど法治主義の中では、そんなわがまま通用するわけない

子供でも分かることだろ

憲法違反なのは前提で、その憲法おかしいか改正しようとか、代替案で結婚と同等の制度をまず作ろうとか

そういう方向性で進めればいいのに

同性愛者って本当に結婚する気あるのか?

本当は恋愛エッセンスとして、こんなんに立ち向かってる自分たちって構図に酔ってるだけだろ

じゃないとこのゴミムーブ説明つかんわ

IQ20下のやつとは話しできないって言うけど本当だな

もっとIQ高い人に舵取らせないと駄目だよ

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