安倍氏の痛ましい死によって、彼個人の死を超える、何か非常に大きなものが失われたような感覚に襲われた。もちろん、元首相の選挙演説中の銃撃である以上、単なる殺人事件ではなく「民主主義の危機」でもあるのだが、そんな表現さえ生易しく感じられた。その喪失感は何とも言えないもので、ふんわりとした不安とでも形容せざるを得ないものだった。
以下の記事で自民党と統一教会の歴史的関係を知り、この正体が分かったような気がした。
「勝共連合」から続く歴史、自民党は今すぐ旧統一教会(家庭連合)と手を切れ
この喪失感は昭和の完全終了によるものだ。昭和的ないかがわしさ、清濁併せ吞むというあの狡さが完全に終わったのだ。
上記の記事を読むと、何というか、次のような情景が浮かぶ。戦後の共産党勢力の暴力に対抗するために、岸信介氏など自民党の右派は反共の実力行使の手駒として統一教会を支援したのだろう。旧ソ連の崩壊や中国の資本主義化、近年ではベネズエラの惨状を見るにつけ、反共「政策」は確かに正しかったように思える。しかしそれは同時にカルト被害者をも産むものであった。まさに清濁併せ吞む昭和の一コマである。
時代は下り、安倍氏の代でも関係は続いた。安倍氏はそれほど積極的には統一教会と関わっているようには見えないが、しかしそれでもビデオ演説を送るなどしていた。
銃撃事件の本質は逆恨みである。これは種々の報道が出た後も揺るがない。安倍氏が統一教会に行ったことは、民事上も刑事上も何ら責任が問われるものではないからだ。
しかし一方で、安倍氏の振る舞いは国会議員としては無責任に極まりない。例えば彼が統一教会に演説ビデオを送ったことで、少なくとも信者には、統一教会には社会的信用があるという印象を与えてしまった。あまつさえ、上記の記事によると安倍氏に近い議員の中には統一教会に選挙支援を受けていた者もいるという。件の容疑者がこの状況を見て、どう考えるか。
正直、逆恨みする気持ちも分かる。こんなことは言いたくないが、どうしても因果応報という言葉が頭をよぎる。
繰り返すが安倍氏と彼に近い人たちの振る舞いには全く違法性がなく、今回の銃撃事件の裁判で情状酌量の余地としても一切考慮されないだろう(左派系の弁護士達がアベンジャーズみたな弁護団を結成し、安倍氏と統一教会との関係を執拗に指摘して死刑回避に全身全霊を傾けると思うが)。しかし安倍氏の政治的業績は、統一教会との関わりによって大きく割り引かれることは避けられまい。
昭和的な清濁併せ吞みは、もはや存在が許されない。振り返ってみるとここ十数年の種々の動きは、昭和を完全にお役御免にしようとしていたのではないか。例えば暴排条例による暴力団の無差別な排除、憲法9条改正による自衛隊明記。暴力団は古くは警察が使い、高度経済成長後は企業や民間人が使っていた「濁」であった。それは、治安維持や民事問題の迅速な解決という「清」のための必要悪であった。憲法9条第2項の文言を普通に解釈すれば自衛隊は違憲という「濁」になるのに、安全保障という「清」のためにスルーされた。
でもそれはおかしいでしょう。暴力団という「濁」は単に「悪」でしょ。東日本大震災で命を張っていた自衛隊を「濁」扱いするのは流石に申し訳なく、正々堂々と「清」の側に立たせるべきでしょ。そのような感覚が暴排条例や自衛隊憲法明記、そして今回の事件につながったのではないか。
昭和が完全に終わる。今後、昭和的な清濁併せ吞みに実は支えられていたアレやコレやが、突然崩壊するのを我々は目撃することになるだろう。
昭和的な清濁併せ吞みは、もはや存在が許されない 同意。 IT化とスマホの普及で情報がオープンになったことが大きいと思う。 いわゆる料亭政治のような密室の談合が、忌避される時...