はてなキーワード: 行使とは
この法案を覚えている人、いらっしゃるだろうか? 10年程前、日本で人権委員を設立し、ヘイトスピーチを取り締まろうとした法案だ。
この法案が出た当時、表現の自由の観点からさまざまな批判が行われた。選抜基準が不透明であり、実質的な言論弾圧になりうる。そうした批判が主だったように思える。
当然……と、言うか、なんというか、2ちゃんねるでも、当時山ほどあった個人サイトでも人権擁護法案に反対する運動が起こった。
人権擁護法案反対の同盟(あぁ、「同盟」って単語も懐かしい)も作られた。
そして、その反対運動は、最近の言葉で言えば「カジュアルな差別」とともに行われた。
「実質的な言論弾圧になりうる」という、その一点をきりとれば、至極尤もな主張は「在日や利権を持っているマイノリティだけが得をして、普通の日本人は損をすることになる。それどころか、実質的に、やつらに日本の言論を支配されることになる」という、明らかに間違った被害者意識、と言うか差別的な主張とセットで行われた。
当時、世界各地で、人権委員の設立が行われていた。具体的な事例は、当時は法務省のHPに掲載されていた。現在ならば、師岡康子「ヘイト・スピーチとは何か」(岩波新書)やエリック・ブライシュ「ヘイトスピーチ 表現の自由はどこまで認められるか」(明石書店)などで、当時の流れをつかむことができる。
だが、そうした観点から、実際の外国人での人権委員の活動や議論を調べ、紹介するような者はいなかった。
結局、振り返ってみれば、当時の人権擁護法案の反対運動とは、「『他人の自由や尊厳を侵害しない限りは』何を言ってもかまわない」と言う本来の表現の自由ではなく「カジュアルな差別をしたい」と言う欲望を守るための言論だったのだろう。
別段、驚くべきことでは無い。
YAHOOでホロコーストについて検索すると、悪名高き世界史コンテンツが真っ先に出てきた。
中国人は王朝の変わり目に数千万、あるいは億単位で人口が増減し、現在の漢民族は漢民族でもなんでもない得体の知れない雑種と言う、どこから突っ込めば良いのかわからない発言をすることが、「中国史通」の条件だった。
当然、教科書に書かれている、日中戦争ならびに太平洋戦争当時の日本軍の問題行為はすべて中国と朝鮮のでっちあげと主張する連中が、面白い人、そして、「一方の情報を鵜呑みにしない人」の条件だった。
保障された権利を行使する連中を冷笑し、「プロ市民」とあざけり、スイスの民間防衛を引用しながら中国のスパイ呼ばわりすることが、「良識的で政治に関心がある人」の条件だった。人権の保障などあきらめ、あるいは現状で満足し、お国の迷惑にならないことを第一に考え、軍事増強を唱える。それこそが、「知的」な人間と呼ばれるための条件だった。
現在、そうした妄言を垂れ流していた個人HPのほとんどは消滅している。
だが、うっかり信じてしまった連中は残った。おそらく、掲示板に書き込みをしていたヘビーユーザーは氷山の一角で、その何倍ものROM専の人間が、上記、カジュアルな差別で塗れたデマを信じ、「新しい知見」と考えたであろう事は想像に難くない。
やっかいな事に、そうした連中のほとんどは、当時自分が疑問に思った事について、情報の更新を行っていない。ヘイトスピーチ、そして、その規制法案について語るとき、上であげた該当問題の入門書を読むこともせずに、人権擁護法案反対のコピペを唱え続けている連中のなんと多いことか。
挙句、何の根拠も無く「日本は外国と違う。日本においてヘイトスピーチと呼ばれているものは、虐げられた日本人の正義の怒りであり、理由の無い差別ではない」などと恥ずかしげも無く言ってみせる。言っていることとやっている事はネオナチとほとんど変わらないのだが、彼らに言わせれば違うらしい。
ホロコースト否定論は相変わらず上位に出てくるし、トンデモ中国史は倉山満によって、よりおぞましい物に進化を果たした。
そして現在、twitter、togetterには、それらトンデモを真に受けた馬鹿共が今日も元気に、それも大量に発言を投稿し続けている。
だが、忘れてはならない。
彼らを作り上げたのは、10年前のわれわれだ。中公文庫や講談社学術文庫の中国の歴史を読むこともせず、
あるいは、出版されている本を読み、自分が攻撃する相手が具体的にどんな主張をしているのか調べることもせず、
そのくせ、井沢元彦「逆説の日本史」や小林よしのり「戦争論」を読み、新たな知見に目覚めたとか大それた事を考え、検証の手間を惜しんで、自分のHPで全世界に発信してきた私たちだ。
入門書一冊読まないくせに、そのくせ上記の本を読んだだけで満足し、自分は知識欲旺盛な人間だとのぼせ上がり、そのうぬぼれをwebで全世界に公開した、厚顔無恥な私たちだ。
私たちの馬鹿を信じた結果、今の、肥溜めのようなweb界隈がある。それを作ったのは、間違いなく、私たちだ。
かつて、ネットは誰でもメディアと呼ばれた。その文句のとおり、私たちは多くの情報を発信した。
だが、振り返ってみて、10年前の私たちは、後世に胸を張れるような情報を発信してきただろうか。
http://anond.hatelabo.jp/20151203161417
それその通りだと思うんよ。あくまで自分の持つ性的魅力をどう使うかの主役は女性であるべきだって話でしょ。
ってことだと思うのよ。
だって今回、女性の内面がどうだという以前に(そもそも絵だし背景とか知らなければ個人の想像の域を出ない)、すがたかたちしか存在しない絵を批判されるところから始まったわけだし。
その通りのはずだけど、でも見た目だけの話で批判してる人が大量にいた以上、自分の見た目だけで批判されることは大いに有り得るでしょう。
だったら、今回問題視されたような性的魅力を持って生まれた現実の女性はどうしたらいいの? って思ったのよ。
「人からどう見られるかという問題ではない。」のに持って生まれただけで、ある時はいやらしい視線で、ある時は批判的な視線で見られるかもっていう。
性的魅力を持って生まれた女性はその魅力を自分で強気に活用出来ない場合、批判されずに生きるには目立たないように小さくなって暮らすしか無いの?
神に讃えあれ
国民よ
この「緑の行進」四十周年記念式典は、いつもの行事や通過的祝典ではありません。それどころか、王国の領土保全を完成させる過程における重要な局面なのです。
我が国土の解放、そして平和と安全の強化の大いなる達成に続いて、我が国はサハラの人々がれっきとした国民となり威厳のある生活を楽しめるようにしようとしてきました。
今日、「緑の行進」の40年の後、我々は、その有利不利にかかわらず、サハラ問題についてこれまで対処されてきたやり方からの、金利生活者経済や特権からの、民間部門の参加が貧弱であることからの、そして中央集権的なメンタリティからの、根本的な決別を求めます。
何故今日、40年の後なのでしょう?
そう、何年もの犠牲と、政治的かつ開発志向の努力の後に、我々は成熟を達成しました。
今、国家の一体性統合過程における新時代の夜明けと、我々の南部地域の祖国への完全なる統合の達成のために、機は熟しています。
「南部地域開発モデル」の実行と進歩的地方分権化の適用は、その過程の一部です。
国民よ、
私は是が非でも、南部地域の我が国民達へ彼ら自身の仕事をこなすのに必要なすべての手段を与えて、彼らが彼らの地域を開発できることを確かめたいのです。
太古の時代から、このサハラの人々は学者や季節的交易者として知られてきました。彼らは額に汗をして生計を立て、威厳と誇りを持って暮らしていました。厳しい生活環境にも関わらず、誰からの助力も期待していません。
私が話しておりますのは真のサハラウィ、彼らの祖先とモロッコの王との間にいつも存在していた忠誠の絆へと身を捧げて続けてきた本物の愛国者のことです。
我等が敵たちのものの見方に乗せられて彼らを支持する少数の者についていえば、それらを許す余地は我々の間にはないのです。しかしながら、本心に立ち返り悔い改めた者に祖国は、概ね寛容かつ寛大であります。
国民よ、
「南部地域開発モデル」を実行することは、これらの地域の我が同国民への我等の義務を果たすことに我々がどれほど身を粉にするかを示すもので、それゆえに統合的開発のモデルとなるでしょう。
我々はこの「開発モデル」に、統一祖国へとこれら地域を統合すること、そして、経済的ハブとして、またモロッコとそのアフリカのルーツとの間の決定的な絆として、サハラ地域の影響力を拡大することを望んでいます。
そのために私は、利用できる全ての手段を集めること、全能の神の御恵みにより、ラユーン=サキア・エル=ハムラ、ダフラ=オウド・エッダハブとゲルミム=オウド・ヌーンの諸地域にて社会・医療・そして教育のプログラムとともに、多数の主要計画を遂行することを決断しています。
インフラに関しては、この地域の道路ネットワークが拡大されるとともに、国際標準に準拠した二車線道路がティズニットとラユーン、ダフラを繋ぐために建設されることになります。
私はまた、アフリカ各地とを結ぶハブ空港を南部地域に設ける検討をすることも、政府に求めました。
私の念願の一つに、アフリカ他地域とモロッコを繋ぐためにタンジエとラグイラを結ぶ鉄道を実現することがあります。今日のマラケシューラグイラ線完成のために今必要となっている資金の確保に助力いただけるよう、全能なる神に祈ります。
我々にはまた、「偉大なるダフラ大西洋港」を建設し、南部にて主要太陽光及び風力エネルギー・プロジェクトを遂行して、ダフラと国立送電網とを接続する意思があります。
我々の目標の一つは、これらのネットワークとインフラをアフリカ諸国へと繋げて、これにより諸国の発展に寄与することであります。
もちろん私は、これらのインフラが、それ自体では、国民の生活状況を向上させることができないと理解しています。それゆえ私は経済発展を推進し、人間開発計画にてこの行程をサポートすることを切望しているのです。
強調しておきたいのは、この点について天然資源からの収入は、この地域の人々の便益の為、そして彼らとの協議と協力にて、この地域へと投資され続けるであろうということです。
地域の資源と製品の利用と振興のために、ダフラの主要海水脱塩プラントや、ラユーン、エル・マーサ、ボジュドーの産業区と施設類の設立のような、幾つかの計画が遂行されるでしょう。
これらのイニシアチブをサポートするために、国内及び海外の投資家のために明快さと競争力とが共存して、彼らがこの地域の発展に貢献できるよう、投資しやすい法的枠組みが制定されることを切望しております。
経済構造を拡大し、事業と社会経済をサポートし、定収入を発生させ、特に若い人々の雇用を創出するために、経済発展基金も立ち上げることになりましょう。
国民よ、
私にとって、最も重要なこととは、サハラにおける我々の同国民の尊厳…とりわけ、若い世代の尊厳…が保護されることを確実とし、彼らの愛国心と祖国への傾倒を強めることであります。
よって私は、人口の殆どのセグメントで要求されている公平と社会的正義の原則を維持するため、社会保障システムに立ち戻り、これをさらに透明で公平なものとするよう、政府に求めています。
さらに、サハラの人々の心臓と心の中で特別な位置を占めているハッサーニ文化を考慮して、サハラの伝統の保存と推進のために必要となるメカニズムを、とりわけ、この国の南部に劇場、美術館、カルチャーセンターを建設して、強化することを切望しております。
人権についてですが、モロッコは、全能の神のお恵みにより、国家の動員、良好な治安統制、そして国民社会組織との建設的連携を通して、たくみに我が敵の目論見を打ち砕きました。
そのうえ、憲法にて定められた機関であります国家人権協議会とその地域委員会は、権利と自由の保護を任務としておりますが、如何なる違背があろうとも、これに対し、公的機関、市民社会組織、そして国民との対話と協力を通じ、取り組んでおります。
国民よ、
進歩的地方分権化を遂行して、モロッコの信用を強化するとともに、公約を重んじる国であることを示すのです。
私が国会開会式で強調したように、この地域で選ばれたオフィシャル達は、国民によって民主的に与えられた正当性により、国家機関だけでなく国際社会とも向かい合う、南部地区居住者の真なる代表者となります。
進歩的地方分権化の遂行は南部地域が最優先であることを確かなものとするために、一連のプログラム契約が、中央政府と本地域との間で、開発プロジェクトの実行に関する其々の義務をはっきりさせるために、締結されることになりましょう。
私はそれゆえ、王国の他の地域の経験が繰り返されることを期待して、権限委譲の立法文書の採択を急ぐこと、適任な人的資源と資金とを移転してこれをサポートすることを、政府に対し命じています。
我々はまた、地域部局に対し、この地域の物事を地方レベルで動かしていくのに必要な特権を与えるための、本当の行政権限移譲勅許状の準備を急がねばなりません。
私はそれゆえ、我々の南部地域の居住者とその代表者達が、彼らの責務を遵守することを期待します。今や、彼らが自らの物事を執り行って自身の要求を満たすために、制度化された開発関連のメカニズムを設定しているのですから。
国民よ、
モロッコが何かを約束するときは、言行をともにします。我が国は、履行できないことは公約しません。
ですから、我々は世界に向けてこう言いたいのです:他とは違って、我々、モロッコに居る者は、空疎なスローガンを使うこともなければ、幻想を売ることもしないのだと。我々が何かを公約するときは、その内容を履行して、大地の上で物事を執り行うのだと。
今日、モロッコは「モロッコのサハラ」をサブーサハラのアフリカ諸国との通信及び通商のハブとすること、そしてそれを達成するのに必要なインフラを建設することを誓いました。そして今一度になりますが、我が国はこの約束を守るでしょう…敵たちが好むと好まざるとにかかわらず。
ところで、ティンドウフでは…アルジェリアのですが…人々が、貧困や、絶望、収奪そして基本的人権の侵害に苦しみ続けています。ですから、私はこう問うべきと思うのです:
「何百万ドルもの人道的な援助はどこに行ってしまっているのか…一年あたり6千万ユーロも?…分離主義者たちの装備、プロパガンダ、そして弾圧に費やされる莫大なユーロについては言うに及ばず。」
「分離主義者の主導者たちが腹立たしくも裕福で、欧州やラテンアメリカに不動産や銀行口座を所有しているという事実を、どう説明できるのか?」
「どうしてアルジェリアは、人口がせいぜい四万人のティンドウフ・キャンプの生活条件を…例えば、アルジェの中程度の人口の区域と同程度にまで…向上させようとしないのか?」
これはつまり、彼らの威厳を守る住宅6,000軒を、アルジェリアは建てることができていない…もしくは建てるつもりがないのだ、40年にも及ぶのに…ということなのです。
どうしてアルジェリアは…モロッコに軍事・外交で対抗するために莫大な額を費やしているのに…ティンドウフの住人達をあのような恐ろしい、非人間的な状態で生活させておくのでしょうか?
かのサハラの、自由で立派な息子たち・娘たちを、人道援助を乞う者に変えてしまった者どもには、歴史が裁きを下すでしょう。
彼らがサハラの女性や子供たちの集団の悲劇を利用して、彼らを戦利品に変えてしまっており、違法な商業活用だけでなく外交的論争のための道具としても使っているという事実を、歴史は物語ることになるでしょう。
ティンドウフのキャンプに居られる人々に問います:ご自分たちの生活状況がすさまじいというのに、あなた方はそれで良いのでしょうか?このキャンプに居られる女性は、息子さんたちや娘さんたちの間に広がっている絶望と落胆の意味を理解しておられるのでしょうか…期待できる展望も未来もないというのに?
あなた方は、このような非人間的な状態などよりも良い扱いを受けるに値するものと、私としては信じております。あなた方がこういったことに耐えるのだというなら、誰を責めるわけにもいかないでしょう。そうしている間にも、あなた方の目前でモロッコは、その南部地域の発展を強力に推進していき、この地域の居住者が自由で威厳のある人生を楽しむのを確実にしていくのです。
国民よ、
この「サハラ問題」は、モロッコがその歴史のなかで初めて直面した問題ではありません。この国はシバ(無法)と混沌を知っています…保護領統治のもとで生きながらえ、占領を耐え抜きました。この国は、現代国家を築こうとして独立を勝ち取るうえで、不和と争いの時季も経験しました。
困難な状況に直面する度に、モロッコがいつも昂然として、強固であり団結していることが判ります。何故かといえば、モロッコ人は、自分たちが同じ運命のもとにあると信じ、自らの普遍の価値と領土の保全を維持しており、この王と民との間にある密接な絆と団結へと、全面的に委ねているからです。
進歩的地方分権化の遂行と開発モデルの適用を開始することにより、モロッコは、我々の領土保全に係る不自然な論争に対する不変の解決策を見出す機会が多くなることを望んでおります。
そのように信ずる理由はただひとつ、2007年にモロッコは、国際社会の呼びかけに積極的に応じ、この袋小路から出る道を見出すための案を編み出したからです。
そうして我々は「南部地域の為の自治イニシアチブ」を提案しました。その国際団体からは、真剣で信頼できる提案であるとの判断が出ております。
昨年私が「緑の行進」の記念日を祝う式辞にて指摘したように、このイニシアチブは、モロッコが提供できる精一杯のところなのです。その遂行は、国際連合機構の枠組みでの最終的な政治的解決の達成にかかることとなります。
モロッコの一部について何か別の譲歩を待っている者たちは、思い違いをしています。それどころか、モロッコはそこで与えるべき全てを与えています。モロッコは、このサハラを守るために、自らの息子たちの血を惜しみなく捧げています。
我々は、それ以上の譲歩をしなければならないのでしょうか?一部の国際非政府組織たちが、我々に望んでいるような?
我々は、こういった敵対的態度の裏にある理由を知っています。彼らの狙いは、この国を分割することなのです。しかし当の彼らには我々のことに干渉する権利などないことも、我々は知っています。
これは、国際組織内のある団体がモロッコの歴史を知らないままシナリオを創り出そうとするのに対処するうえで、我々が支持しているのと同じ原則です。そうしたシナリオは、エアコンの効いたオフィスで創り出され、現実から遠く離れて、モロッコ・サハラに係る地域紛争の解決のための提案として示されているのです。
モロッコは、如何なるものであれ、深刻な結末をもたらしかねない愚かで危険な行動方針も、「自治イニシアチブ」で生まれた前向きな趨勢を転覆することが狙いでしかない実行不可能な提案も、いずれもお断りいたします。
モロッコ製品への敵対的キャンペーンに対しても、モロッコの団結と不変の価値を守る政治と防衛のセクターで発揮されたのと同じ、犠牲と献身の精神に則って、立ち向かっていくことになります。我々の製品のボイコットを求める者たちについては、歴然とした国際法違反でありますが、彼らにはそうさせておきなさい。とはいえ、彼らは自ら決めたことの責任を執らなければならなくなるでしょう。
モロッコには、立ち上がるであろう大規模プロジェクトの恩恵で、この地域に生まれる投資機会から利益を得るために、自らのパートナーを…国家も、グローバル・カンパニーも…招待する権利があります。
丁度、我々がモロッコの北部と南部とを何ら区別していないように、トマトにおいてアガディール産とダフラ産の間でも、イワシにおいてララシュ産とボジュドー産の間でも、燐鉱においてコウリブガ産とボウクラア産の間でも…広く知られるデータで裏付けられているように後者が我が国の埋蔵量の2%に満たないとしても…我々の目には何らの違いも、みとめられないのです。
同様に強固な意志と揺るぎなさをもって、モロッコ・サハラの法的状態を疑おうとする企てにも、この国の北部地域でと全く同じように、この土地、この南部地域にて力と特権の完全なる行使を行う我が国の権利へ疑問を投げかける企てにも、モロッコは立ち向かっていきます。
これはつまり、我々の正当性を良く知らしめ、我が国がなしている進歩をスポットライトで照らし、我々の敵のもくろみに対抗するための、取り組みの強化と警戒の維持、これら全てを、我々は総動員で行っていかなければならないということです。
国民よ、
緑の行進を特徴づけたのと同じ献身と犠牲の精神を保ちつつ、我々の南部地域の開発を推し進め、その地方の息子たちや娘たちの尊厳を護ること、そしてこの国家の領土保全を維持することは、我々の集団的責務です。
そのようにすることが、「緑の行進」の考案者…私の尊敬する父であって後の王ハッサン二世陛下…安らかにお眠り下さい…と、この国の栄誉ある殉教者たちへの、忠節の証しとなる筈です。
アッサラーム・アライクム・ワロマツロー・ワバラカア-トゥ
http://matome.naver.jp/odai/2144753442305118301
鋼兵さんとKUNさんのやり取り(今までの経緯知ってる人用)
鋼兵氏、KUN氏の動画の通報示唆【鋼兵×KUNの今までの経緯知ってる人用】
鋼兵さんがKUNさんの生放送にコメントした証拠を自分で手に入れる方法
http://anond.hatelabo.jp/20151114122143
http://j-net21.smrj.go.jp/well/law/column/1_14.html
http://j-net21.smrj.go.jp/well/law/column/2_12.html
http://j-net21.smrj.go.jp/well/law/column/3_8.html
名誉棄損罪は人間に対して社会が与える評価を害されることによって成立する。
ただし刑法230条2項により、
問題の発言が事実である証明があった場合は名誉棄損は成立しない。
ハンドルネームに対する社会的評価・経済的価値は、具体的な本人特定の可否で異なる。
具体的な本人特定ができる場合は、名誉棄損には異論は発生しずらいが、
なぜなら、ネットの世界で社会的評価が低下した場合であっても、
また「プロバイダが調べれば特定できる」というようなレベルでは特定のうちには入らない。
以上の事から、網浜が現実世界での社会的評価を害されたと主張しない限り、
http://j-net21.smrj.go.jp/well/law/column/2_21.html
http://www.cric.or.jp/qa/hajime/hajime2.html
他人の著名な商品等の表示と同一・類似のものを、自己の商品等の表示として使用等する事は著名表示冒用行為(不正競争防止法2条1項2号)となる。
もしハンドルネームと顔文字が「著名な商品」として認められた場合、
さらにKUNが網浜に事前にハンドルネームの使用の許諾を得た事が無効と認められれば成立すると思われる。
おそらく、ハンドルネームと顔文字が商標登録されているかどうかが分かれ目。
ハンドルネームと顔文字が著作物として認められる場合は、著作者人格権が行使できる。
そうなった場合、同一性保持権により後から許諾を取り消すことができ、
著作権侵害を訴えることができるようになる。
そのため、ハンドルネームと顔文字が著作物として認められるかが分かれ目。
網浜が法的手段に出るとすれば、ハンドルネームの商標権をめぐる動画への申し立てになると思われる。
網浜側は現実世界での社会的評価の損失と商標・著作権の侵害の証拠をかき集め、
KUN側は網浜のネット上に留めた反撃を狙うのが得策と思われる。
現在、網浜側はKUN側への反撃にノリノリであり、KUN側は網浜を攻撃する理由が生まれたので今まで以上の活動を期待できる。
しかし、法的措置により裁判沙汰になった場合、流れが失速し、網浜が情報戦で有利になる可能性もある。
そのため、今後は持久戦となるだろう。
少々長いタイトルで申し訳ない。パリのテロを受け、できるだけ多くの人に考えてもらいたいことがあり、要素を詰め込んでしまった結果である。下記では、冷静な文章が残せるように努めたい。また、IDをつい1時間前に取得したばかりのはてな新参者であるため、慣例のようなものをスルーしてしまっていたら何卒ご容赦願いたい。
つくづくFacebook社は行動が早い。 LGBTへの支持を表明するレインボーと同じように、今回のテロへの哀悼を示すトリコロールへプロフィール写真を手軽に変更できる機能がリリースされた。
ユーザーは続々と自らのプロフィール写真をトリコロールに変え、一方でそうしないユーザーはそれに対して続々とアイロニーを寄せている。自分の観測範囲内だと、「どうせ何も考えてないんだろ?」「お気軽すぎるんだよな」「で、その写真はいつ元に戻すの?」「承認欲求も大概にしろ」などなど。
レインボーブームのときから、自分はそれを「冷笑主義」と呼んでいる。これについて掘り下げればキリがないから簡潔に済ますが、「何かをする人」と「それをバカにする人」の二項対立になってしまった日本社会の象徴のような光景だと思う。「何かをする人」を下に見て、その背景や動機に何があるかを考えようとせず、一様に冷笑する行為が蔓延しているのである。
このようなソーシャルムーブメントに対する「冷笑主義」について、自分は「いい加減にしてくれよ」と思ってしまう。民主主義というのは、いつもこういう未熟なところから発展するものなのではないだろうか?小さな波が世論となり、それが政治を動かす光景を、われわれは何度も見てきたはずだ。むやみにアイロニーを飛ばすことは、民主主義の停滞につながるとさえ思う。
そもそも、SNS上でアイロニーを飛ばしたって、なんのプラスにもならないのではないか。「憎しみの連鎖を断ち切らなきゃ」とは、プリキュアも名言を生んだものである(聞きかじりゆえ、諸兄には何卒ご容赦願いたい)。
自分は前述したとおり、このようなソーシャルムーブメントには賛成の立場をとる。これだけ冷笑主義が満ち溢れている時代に、アクションを起こした人の勇気はけなされるものでは決してないと思う。
ただ、レインボーとトリコロールについては、分けて考えなければならない。レインボーを表明することは、すべての人の幸せにつながる(「傷つく人がいない」といった表現は控えるが、つまるところそうだと思う)。しかし、トリコロールを掲げることで傷つく人は、世界中にいるからだ。
下記のツイートを見てほしい。
@SaeedSato
「敬愛するパリよ、貴女が目にした犯罪を悲しく思います。でもこのようなことは、私たちのアラブ諸国では毎日起こっていることなのです。全世界が貴女の味方になってくれるのを、ただ羨ましく思います。」 シリア出身UAE在住の女性アナウンサー
つまりは、こういうことなのだ。イラクやシリアで「100人が亡くなる」といった悲惨な出来事が、この1年に何回起きたか。そしてなぜ、それらの国の国旗がFacebook上でプロフィール写真にならないのか(Facebookがアメリカのサービスであることをおいておいても)。なぜ、「#prayforsyria」や「#prayforiraq」がTwitter上でトレンドに入らないのか。
自分自身も今回テロについて調べるなかで、アフガニスタンやパキスタン、ナイジェリアなどで多くの人が亡くなっていることをはじめて知った。無知を恥ずかしく、恐ろしく思った。
「Facebookのプロフィール写真をトリコロールにする」という行為は、個人の自由だ。一個人の「哀悼の示し方」についてアイロニーや批判を飛ばしたりしてはいけないと思う。加えて、先述したように、それは民主主義の問題にもつながる。
けれど自分には、そのアイコンが、欧米世界と中東世界の分断を深めているように思えてならないのだ。
今回の事件が発生してから24時間、(日本の)ネット上で主に見られた議論は「マス・メディアに対する不信や批判」。そして次の24時間は、先述した「トリコロールブームに対する違和感や批判」であった。
本当にそれでよいのだろうか。われわれが今、情報収集し、考え、話し合うべきことは、本当にそれでよいのだろうか。自分は、そうではないと思う。この事件の本質こそに、目を向けなくてはならない。
ー軍事力行使でテロが封じ込められたとしても、それは新たな憎しみと悲劇を生むだけではないのか。かといって、平和的な対話でテロが封じ込められるのか。
ー難民を受け入れた場合、欧州は政治的にも経済的にも混乱するだろう。それがテロの温床を生むとの意見も否定はできない。しかし、受け入れないという選択肢はさらに世界を混迷に陥れるだろうし、そもそもそれは「人間として」正しいのだろうか。そして日本は、どのように行動すればよいのだろうか。
ーオバマ大統領の演説にあった”the universal values that we share”、この”WE”とはいったい誰なのだろうか。
誰も正解は分からない。政治家や学者でさえも、正しい道を示すことができない。それについて考えることは難しい。自分も、上記のような問題について情報を集めれば集めるほど、考えれば考えるほど、絶望のようなものを覚える。
繰り返すが、今われわれが見つめるべきものは、「トリコロールブームへの批判」でもなく、「メディアへの批判」でもない(これについては長期的に考えるべき問題だ)。この事件の本質について考えるのが難しいからこそ、わかりやすい別の何かに怒りをぶつけたくなってしまうが、そこで諦めたり逃げたりしてはいけない。
そのことを伝えたいという想いで、キーボードを打っている。書きたいことは山程あるが、長くなっても意味がないので、このあたりで終わりにしたいと思う。とはいえもうずいぶん長くなってしまったが、このような長文駄文を最後までお読みいただいたことに心より感謝を申し上げる。ありがとうございます。浅学菲才な部分も多くお恥ずかしいが、その点はぜひご指摘をいただければ幸いである。
・自分のことを心底かわいいと思ってるのに「ブスすぎてつらい」と自画撮りしてsnsにup
・SNSに思わせ振りな悪口を書いて、最後に「私って性格悪い…。」
→私かな?俺かな?と心配した友人(中には悪口を書かれた本人もいる)からのコメントに「大丈夫だよ。私が性格悪いだけだから」
・化粧にとにかく時間をかける。人を待たせても悪いと思わない。
→出てきた顔は別にきれいでもなんでもない
→言ってる本人も大したことはないが、それを言うと逆上するので黙秘権を行使
・なんでも思ったことを言い傷付けるくせに、黙ってると「腹黒いよね~」と言ってくる
・みんな思っても言わないことを言い「言ってあげてる」とか「正論」とか、自己防衛を欠かさない
→それ「空気読めない」っていうんだよ。わかるかな?
・友達が突然フェードアウトしていくが、自分の落ち度に気が付かないで「逃げられた」とか言う
サウスパークS19E06、遅ればせながら見ましたが、やっぱ腐女子というか、百合厨もだが、カプ厨が持ってる気持ち悪さってあるよね。
とりあえず、ポリチカルコレクトネスを気にするあまり「俺ゲイに寛大だわアピール」ゲームが行われている昨今、ゲイは過剰にサポートされちゃう、というのが話の本筋だと思うのですが……
カートマンの妖精が再登場している、という点にも注目するべきだと思うんです。
妖精の初登場はS16E07ですが、このエピソードでカートマンは
「あのカップリングってマジいいよね~~~完璧だわ」と腐女子あるいは百合厨さながらの発言をしております。
この発言は、トークンとニコールという黒人カップルに向けられたもので、明確な差別主義的発言ですよね。私も不快感を覚えましたし、カイルたちからもドン引きされています。
しかし、ここでのカートマンの気持ち悪さって、人種差別性から来ているだけではない、とも思うんですよね。
「自分の関係性は棚にあげて」「他人の関係性に対して妄想を展開して、くっつける」っていうのは、普遍的な気持ち悪さを持っている。という議論は結構されてますが、S19E06もこの筋の話として見れないこともないんじゃないかと。
「次分の関係性は棚にあげて」、におけるポイントは、自分のノーマルさは担保されているということです。すなわち白人(カートマン)だから黒人(トークン)やヒスパニックのカップルを「消費」できるわけで、同様にガチガチの異性愛者だから同性愛も消費できるわけです。
ここでは白人―有色人種、あるいは異性愛―同性愛という権力関係が担保されていない限り、すなわち自分が相手とは違う高位の地平にいるのだという差別意識がない限り、どんな快感も生まれない。
今回腐女子とサウスパークの住人は、妖精と同じような役割を担う存在として描かれました。すなわち、本人たちがその気も無いのに「あのカップリング最高!」と言って、そして「ゲイなのが俺じゃなくてよかった~~(権力関係の発露!)」とこぼしながら強制的にカップルをつくりあげるエートスは、人種差別主義者が「黒人同士くっつけばいいよね~~」と口走るエートスとそれほど変わりは無い。差別主義者カートマンの行ったのあのきわめて不愉快な「カップリング活動」が、今回腐女子を通して再演されているのは興味深いことです。
次は「他人の関係性に対して妄想を展開して、くっつける」というポイントですが、これは明確に父権的権力の行使に結びついた快感なんですよね。基本的に自由恋愛って、「くっつけ!」っていう力に対する反逆行為だと思うんです。例えば親の決めた結婚相手とか、同じ階級の結婚相手とか、あるいは同じ人種の結婚相手、そういう存在とくっつけ!と強要してくる諸力に対して、断固たるNOを突き付け、「俺はあの子が好きなんだ!」を貫く。これが近代的な意味での自由恋愛だし、そういうのを描くからこそ広義の恋愛文学にはパワーというか新しさがある。これに対して、自分の思い通りの相手と「くっつけ」たがる存在というのは、もうこれはコテコテの父権なんですよね。カップリングワールドを作り上げる快感は、家長が自分の血族を計画的に婚姻させていく快楽と同根だと思う。普通の教育を受けて育った人なら、やっぱりこういう父権的なものって気持ち悪いと思うんじゃないでしょうか。
結論。カップリング厨ってたまたま同性カップルを扱ってるから、昨今の寛容ムーブメントにがっつり乗れてる感ありますけど、その根底にある思想はきわめて保守的・復古的なものなのではないか。すなわちカプ厨の根底には、差別主義と父権主義があり、とてもじゃないがリベラルプログレッシブポリチカルコレクトネス民を名乗れないのではないか、と思う。思った。
「権力側の人/団体」と「反権力側の人/団体」があるわけじゃないんだよ。
個人や任意の団体ってのは原則として、権力寄りの意見だろうが反権力寄りの意見だろうが、自由に言っていい。
一方、権力っていうのは主体じゃなくて役割みたいなもん。RPGのロール。誰が持ってもいいんだけど、そのロールには「他人の権利を制限できる」という力がついてる。それがそもそも権力の定義だ。
ただ無制限にしとくと強力すぎる力だから色々制限をつけないとまずい。権力という力を行使できる主体は××をしてはいけない、という制限ね。
権力を有してない人が権力寄りの主張をするのは、反権力寄りの主張をするのと同様、構わない。
但し、権力という力はほっとくと反権力の言論を抑圧する方向に働くから (これは「悪」だからじゃなくて、そもそもそれが自然な動きってこと。必要に応じて抑圧するのが権力の役割なんだから)、反権力寄りの主張が保証されてるかどうか、っていうのが権力の濫用に対する良いリトマス試験紙、もしくは炭鉱のカナリアになるってこと。
http://anond.hatelabo.jp/20151019213445
「努力が足りないのだ」と叱責する者が多いが、まるで見当違いだ。あなたは全然悪くない。ユーモアのつもりであなたを責め、戯れ言に興じる小物たちの言葉など聞く必要はない。
なぜ魔法少女になれないのか。
なぜならそれは、魔法少女になった人間がこの世に存在しないからだ。あなたに絡んでくる者、あるいはあなた自身も、その残酷な事実を受け入れられない。いや、分かっていても分からないふりをして、虚構の世界と夢を守ったフリをして気取っているのだ。しかし、前例がないからといって、イコール魔法少女になることが不可能なわけではない。
あなたがこの世界で最初の魔法少女になればいいのだ。最初の魔法少女なのだから、自分自身がルールなのだ。ただし、「俺は魔法少女だ!」と高らかに宣言したとき、そこにいる観衆の大半が「こいつは本物だわ」と納得しなければならない(もちろん、他者を納得させる必要はないという論もある。しかしここでは取り上げない)。つまり、俺ルールを作り上げてもいいが、他者をも納得させる妥協点を探る必要がある。「魔法」とは何なのか。「少女」とは何なのか。その言葉が規定する可能性をどこまでも掘り下げ、2つの概念を矛盾なく結合させる点を探る。そしてそのプロセスを雄弁に語る必要がある。
困難な作業になる。しかし、不可能ではない。もし行き詰まるようなら、著名なテキストサイトの管理人やネタブロガーを見習うのがいいだろう。
「いや、そんな理屈をこね回してネタで魔法少女になりたいわけじゃないんだよ!」
その気持ちもわかる。だが、あなたの知っている魔法少女もそうやって出来たものではないとどうして言えようか。演出やエフェクトが描き出す「魔法少女感」の裏に、必ず、どうしたら「魔法」で「少女」に「見えるのか」という生みの苦しみがあったはずだ。そうしたネタ出しの初期の姿は歪で陳腐なものだったかもしれない。
何かを生み出す時には、つねに柔軟な発想が求められ、そうして出来たものを貫き通すことが説得力を生む。たとえばあなたの知っている魔法少女の中に、魔法は使わない物理攻撃型の少女はいないだろうか。しかしあなたは彼女を「魔法少女だ」と認識している。あるいは、もはや少女とは言えない体格の魔法少女もいるかもしれない。でも受け入れているだろう。それはどういうことだろうか? 契約をしたから? 体や装備が魔法体だから? 本当にそうだろうか? そういう説明をされる前から、あなたはコンテクストで「この子たちは魔法少女」と確信していたのではないか?
このことは、表現を受け取る側の人間も、相当に柔軟になりうるという事を示している。それは人間の美しいあり方でもある。柔軟になるだけのコンテクストを共有していない人間からみれば、その発信者も受信者も「宗教くさい」と蔑視されることもあるだろう。しかし、そのような美しくない眼差しを考慮する必要はない。あなたと、受け手が信じてさえいれば、そこには何だって降臨し得るのだ。実際、あなたは創作上の魔法少女という存在を、彼女らが与えてくれた感動と社会的ムーブメントを、虚像だとは思っていないだろう。そこに「ある」と信じることで物は生み出され、定義される。それは儚くも尊い、人間の壮大な営みの一部だ。魔法少女なんてものはその極致のようなもの。それに素直に憧れることができたなら、もう一歩先に進む人がいてもいいはずだ。
……ここまでの内容を消化し昇華するだけでも、魔法少女になれる可能性は十分あるだろう。だが依然として困難を感じている人も多いことと思う。それは、「魔法」というものに対して説得力を出すことが難しいためだ。
あらかじめ潰しておくと、「少女(見た目)」についてはどうとでもなる。仮に、あなたが男性だったとしても、いまは「男の娘」なんて言葉があるくらいに、男子が女子と見られるためのノウハウや文化の蓄積がある。あなたが青少年とはかけ離れた年齢だったとしても、歳をごまかすテクニックはそれ以上に長年の蓄積がある。なんなら手術という手もある。その上、それらが完璧でなくても、受け手の柔軟さを上手に喚起してやれば受け入れられるはずだ。あとは自分自身が自らの姿を受け容れるだけの精神性を築き上げればすむ。
だが魔法はすこし性質が異なる。魔法というものはこの世に存在していない。いや、ありふれていないと言ったほうが正しい。馴染みのない概念は、当然ながら受け入れるのが難しくなる。創作上の魔法を受け入れているのは、「これは創作だから」というモード切替スイッチが人々の頭についているからだ。とはいえ、現実世界にも「魔人」「魔法使い」と称されるような人間は存在する。スポーツ選手などが思い浮かぶだろう。しかし彼らは「魔」や「魔法を使える」存在ではなく、同じ人類だ。比喩的表現。つまり、同じ時代に生きている人類とは思えないほどの所業をやってのけることが「魔法」なのだ。「高度に発達した科学は魔法と区別がつかない」という言葉を引用するまでもなく、我々は魔法という言葉に魔法性を過剰に感じすぎているせいで、自ら「魔法」の枠を狭めがちなのだ。創作上の魔法は、ファンタジーと分類されることが多いが、細かい原理を説明していないだけの超科学が常識的に利用されている世界と捉えれば、SFと同列である。
とは言ったものの、我々のような凡人が、人々の目を欺くような超科学、最先端技術を操れるわけではなかろう。習得しやすいのはマジックような技巧の類だ。現実世界ではマジシャンが一番「魔法使い」の称号に近いところにいる。なので、順当に考えれば、「マジック少女」から「魔法少女」に昇華させる線が現実的に思える――ところがここで問題が起こる。我々の知っている魔法少女は、マジック少女のすごい版ではないのだ。人のために働く、助ける、守る、攻撃する、あるいは駆けつける、着替える、契約する、それらのタイミングで魔法が行使されるのが普通だ。なのでベースの行動をそのあたりに設定する必要がある。その際の「普通のやり方」を「魔法みたいにすごいやり方」に変えることが、魔法少女の必要条件だといえるだろう。ただ、これだけでは、「早着替えをマジックと映像技術で魅せるパフォーマー」程度どまりだろう。
魔法少女たるには、「魔法」的存在である事の他にもう一つ欠かせない要素がある。ヒロイックであることだ。すなわち、何かの使命をおびている。何かを背負って、何かに突き動かされている。別に世界を救うレベルでなくもいい。ご当地ゆるキャラ並の小さな使命感でもいいから、何がしかのパッションが滲み出る象徴的なキャラだと認識されなければならない。
さて、私の陳腐な魔法少女論はここまで。あとは「自分の頭で考えよう」。長年夢見てきたあなたの中には、きっと何らかの「魔法」の種火と、小さな使命感の欠片があることだろう。あと生まれ持った体と。それらの調理法を考えるだけの話だ。理想の魔法少女像との乖離は、きっとあとから埋まってくる。最後に叱咤の一言で締めくくろうと思う。
「努力が足りないのだ」
結婚したいとかモテたいと思うなら別だけど特に欲がないので親元で生活保障してもらいながらブログだけ書いて暮らすのは本当に楽だし僕にとって生産的だ。
どうせ僕はFラン大卒だし精神にも問題がある社会不適合者だしコミュ症だから頑張って社会復帰したところでたいして立派になれない。それよりはニートしながらブログで社会人をバカにしたり、しったかぶって大人の悪口を書いてたほうが、自分よりバカな大学生たちや同じような社会不適合者にチヤホヤしてもらえる。僕の書いた記事を読んでありがとうと言ってくれる人もいる。向いてない仕事頑張ってるだけだったら誰も僕に感謝なんかしなかっただろう。今みたいにちょっとしたウェーイ気分を味わうなんて出来なかった。今では僕ははてなではそこそこ力を持っているし、kanose村長にも一目置かれている。現実はこんなふうに僕の自尊心を満たしてくれることは絶対にない。
別に社会人として働いてる人をばかにするつもりはないよ。でもそういうのは自分と違って恵まれてる人がやればいい。僕はもたざる人間だから頑張っても無駄だ。実際一度は就職したんだ。でもブラック企業にしか就職できなかったし、みんなからはその仕事をバカにされるし心は病むし何もいいことなんかなかった。
他の人間から親に寄生してブログ書いてるだけで恥ずかしくないのかってよく言われるけど俺は正当な権利を行使しているだけだ。親がいいならいつまでも寄生していたい。いなくなったら生活保護を受けるだけだ。むしろ社会の歯車になってろくに面白いことも書けないやつより面白いことをかける僕の方が偉いとおもっているし僕より数字稼げないのにライター名乗ってるような人間のほうがよほど恥知らずだ。つまらない女性ライターは偉い人にパンツとか見せたんじゃないかっていうやつでして。
第一、僕がこんな社会不適合者になったのは母親が僕にむりやり勉強させたりきつく叱ったりして心がゆがんでしまったせいだから僕のせいじゃない。政治がもっと僕のような人間を活用できる社会システムを考えてくれれば働いてやってもいいけど、安倍さんの政治は時代に逆行してばっかり僕が働いてもいいと思えるようなものじゃない。働かない僕が間違ってるんじゃなくて僕のような社会不適合者を大量に生み出す今の社会が間違っているんだ。だから僕は何も悪く無い。むしろ正しい。僕にネガコメ投げつけてくるは耐えないけど全部ブロックして快適なインターネットライフを送るんだ。
里見へ
この手紙をもって僕のHMTLコーダーとしての最後の仕事とする。
まず、僕のHTMLソースを解明するために、Another HTML-lint 5に構文チェックをお願いしたい。
以下に、html5についての愚見を述べる。
html5対応を考える際、第一選択はあくまでIE8非対応であるという考えは今も変わらない。
その場合には、html5shiv.jsを含むIE8対応が必要となるが、
残念ながら未だ満足のいく成果には至っていない。
これからのhtml5の飛躍は、IE8非対応以外の対処法の発展にかかっている。
僕は、君がその一翼を担える数少ないHTMLコーダーであると信じている。
君にはhtml5の発展に挑んでもらいたい。
遠くない未来に、IE8対応による死がこの世からなくなることを信じている。
ひいては、僕の屍を構文チェッの後、君の研究材料の一石として役立てて欲しい。
屍は活ける師なり。
もし、安保法制の中身に賛成でも手続きがおかしければ反対して欲しいんですね。
今回は皆様も感じていらっしゃるように民主主義の手続きが踏まれていないと思います。
こういうとね、多くの愚かな政治学者を含めて「民主主義とは多数決だからそれでいいんだ」と応えるかもしれませんね。
それが何故愚かなのかというとね、政治思想の歴史を知らないからなんです。
それは具体的にはルソーによるロックの反駁として知られています。
ルソーはロック流のある種の代議制民主主義をこう言ったんです。
ですので、代議制は必ず、デモその他に国民たちが絶えず参加することで補完されなければならないとされた。
つまり、民主主義とは何かといいますと「参加による自治」のことをいいます。
まず、ここまでが前置きです。
このルソーの反駁として知られる有名な議論も含めて、当初、民主主義は小さな規模で考えられていました。
ところが、アメリカのような大きな国が(あるいはヨーロッパも20世紀に大きな国になっていきますが)
出現したとき、考え出されたのが「共和」というシステムなんですね。
それは、民主主義的な自治のスモールユニット(小さな単位)が共生するため、
ヨーロッパなら(補完性の原則に基づいて)できるだけ下の単位で決め、できないことを上にあげていく、
そのように運営されている仕組みのことです。
民主主義とは「多数決”ではなく”」、基本的には「自治なのである」ということなのです。
もっと言えば、自治の本質とは「代議士に任せない」ということなんですね。
そういうことを知った上でモノを言っている人がどれだけいるのでしょうね。
また、そういったことについて考えてみると、日本のおかしな仕組みで「党議拘束」というものがあります。
海外では「無理やり党の決定に従わせること」という一文に置き換えられています。
ひどいでしょう?個人がいくら公約したところで、その意味が剥奪されてしまっている。
党が決め、その党が多数を占めてシナリオを描いてその通りに進む審議に何の意味もないではないですか。
また、勘違いされている方が多いのですが、今回の法案は自民党に利するところより官僚に利するところが多い。
官僚の権限の無限の拡大が疑われているのが国会審議で分かりつつあります。
法案の中に歯止めとなる部分が無い、政府の思うままにことを動かせる内容です。
「政府」というと一見すると安部政権であるように思われますが「そうではありません」。
政権はあるとき必ず変わります。しかし、変わら無いものは根底に流れ続けている。
官僚機構が(自衛隊の安全確保基準も無いまま派兵ができようなっているなど)絶大な権限を得るような内容になっている。
それが今回の法案です。自民党はそうとは知らずに片棒を担いでいるに過ぎません。
安部政権、自民政権がそのままならばいいでしょう。その権限の一部を彼らが行使できるわけですから。
自民党、安部氏を応援している方々は、そうした政権(たとえば民主党や公明党)に、
鴻池氏の言動に幾ばくかの逡巡が見られた方もいらっしゃるでしょうが、実はそのあたりだと思われます。
「最小限度基準」なども書かれておらず、「安全基準」も書かれていない。
権限をときの(誰が握るか分からない!)政権に無限に使わせないための「歯止め」がない。
「合理的に判断して」など、ようするにときの政府が総合的に判断する、と。どうにでもなる内容で書かれているのです。
今回、残念なことに「違憲かどうか」にかなり焦点が当てられてしまったが故に注目が薄いのですが、
「違憲」をひとまず横に置いておいたとしても、「法律としてあまりにも問題が多い」んです。
ここで知っておいて頂きたいのですが、「一旦法律としてできてしまったら、それが取り消されない限り有効」です。
最高裁判所で違憲判決が出されるか、次の政権が廃案にしない限り、有効であり続ける。
とうことは、次の政権と官僚機構に無限の権限の行使を許すことになる、ということです。
(続きはWEBで!)
今回の法案について本質の議論をしない野党にはほんとうに頭が下がる
野党と戦争法案絶対反対と歌い続けるおばさんらの姿は子猫か盲な闘牛のようだ
では要点を順を追ってみる
この話の重要な点は日本は世界の変化にどう対応するかという流れにあるという点だ
↓
↓
↓
↓
・今後、憲法の変更へ?
わかるだろうか?おかしいのだ。順番が
これは大げさに言えば立憲主義でも主権国家でも、民主主義でも無くなってしまっているのだ。
しかし今回、先の大戦でのちっぽけなプライドのために、日本は本当に大事なプライドを捨ててしまう事になった。
この法案だと、状況が変化すれば与党が想定していたものと違う使い方ができることだ。
このあたりだろう。
日本の仮想敵国として中国がいて、残念ながらこの近未来予想は濃厚に避けがたい現実になりつつある。
しかし、それに対しどう対応するかを模索する時間もまだ残されている
そしてそれをこそ真剣に話し合わねばならない。
もしアメリカが飲めない要求をしてきたのなら、それに応じるかアメリカと距離を置くことにするかを議論しなければならないのだ。
もしかしたら、
もしかしたら、
各国が自国の利益より全世界の人の命を優先しようと世界に呼びかける方法だってあるかもしれない
もしかしたら、
EUと同盟を結んで、三つ巴で世界のバランスを保つ手もあるかもしれない
戦争の入り口を潰すためにロシアや韓国、周辺国との関係を改善しておく事だって必要だろう
もしかしたら、
やっぱりアメリカがいいかもしれない
アメリカに言われて圧力で国民を経由せずに、アメリカに嫌われたくなくて日米同盟の強化なんて笑わせる
この法案は
今回は世界の中心はアメリカじゃなくなるけどおまえどーすんの?って世界の潮流において、
「これまでより拡大した集団的自衛権の行使を認めること」に反対すること」と「アメリカとの軍事的同盟関係を即座に破棄すること」はイコールではないべ。
野党各党が今回の国会で求めているのが「集団的自衛権の拡大なんかもっての外だから、この機会に日米安保も廃棄しよう」というのなら別だが、そうではないだろう?
現状だと集団的自衛権は認めてないことになっている(日米安保あるのに何言ってんだか、と個人的には思うが)が、「防衛力はない」のか?
その「今もっとアメリカとの関係を強化しないと明日すぐに中国に侵略されて征服される」っていう認識がおかしいぞ。
アメリカが「今集団自衛権の行使を認めて我が国との軍事的関係を強化しなければ日米安保は廃棄するし中国が侵略してきても一切日本を支援しない」って公式に言ってきたなら別だが、言ってきてるのか?
「実はそうなんです。公式にはまだですが、内々にそう言われてます。近いうちに公式にもそう宣言されます」っていうのなら、そりゃ仕方ないな・・・ただし、法案可決したりするのは公式に宣言された後でね、と思うけど。