はてなキーワード: 脆弱とは
実際のところ、ジャンプ本誌で連載が始まった時点ではこの漫画を読む気にはなれなかった。
既にAmazon上のレビューに書いてある通りである。物語の中で語られる様々な専門用語、世界観に対する長大な説明、作者のエゴ、長年看板作家として一線を張り続けてきたプライドが裏目に出ている――などなど、実際にここまで既存のレビューが指摘していたかはともかく、本誌連載当初の時点での僕自身の評価も、これらのレビュアーの意見とそう変わるものではなかった。読みにくく、物語は柔らかさを主張しているようでその台詞回しは硬質で、目がところどころでセリフに行き詰まる――
でも、何故なのかこうも思えたのである。「連載話を一週間ごとにバラバラに読むのではなく、コミックスの形でしっかり腰を据えて読むことができるのであれば、これはひょっとすれば面白い作品に映る可能性を秘めているのではなかろうか」と。そして、実際にようやくコミックスを手に取りこの作品を読んだ時点での感想を述べさせてもらうならば、その予感は正しかったのである。
物語は星間飛行どころか銀河間航行ですら可能となった近未来であり、一部の人々は生身の身体を捨て自身にサイボーグ処置を施し強かに生きている。そんな世界において、自身に巨大な生命維持装置を直結させ、無数のチューブを接続していなければ生きられない少年、ハチマルが主人公である。もちろん、この作品のタイトルは黒澤明監督による『七人の侍』の文字りとなっている。
極めて脆弱な身体を持ちつつも、幼い頃から(身体の虚弱さのために熱中することとなった)全没入型VRゲームによって鍛えられた勝負勘と、反射神経は余人を凌駕する(アニメ作品『オーバーマン・キングゲイナー』のエピソードを彷彿とさせる)主人公にとって、この「サイボーグを是とする世界」は極めて相性が良く、やがて彼は類稀なる自身の戦闘センスを開花させていく。
ここでポイントとなるのは『三身一体』のキーワードである。本編において、「ロッカーボール」と呼ばれるエネルギー体によって自己改造を施したサイボーグ戦士のことを「侍」と呼ぶのであるが、この侍は単独では秘め持った力を十全に発揮することができないのである。ここでポイントとなるのが先程言及した『三身一体(勿論、これはキリスト教における神学的概念である「三位一体」をアレンジしたキーワードである)』という言葉で、侍は単独ではなく、追従型の動物を象った戦闘補助パートナーである「キーホルダー」と、侍の力の源である「ロッカーボール」に対する強い探知力を持った「姫」の両者と共にあることで、初めて「三身一体」となり力を発揮できる、といった物語の構造が示されているのだ。
「姫」は戦闘能力を持たないため、必ず侍と対になって守護される必要があり、そのために侍は自身の心を極限まで純化させ、「姫」を護衛する必要があるのである。この「純化」のプロセスが少年漫画の媒体にうってつけで、いわば虚仮の一念によって主人公は「強がり」を純然たる「強さ」へと純化していくのである。この辺りに少年漫画誌に長年連載を続けていた岸本氏のストーリー構築術の妙があると思わされる。
長くなったが、この作品に向けられたネットの悪評の多くは、これをコミックスという媒体で腰を据えて読むことによって引っくり返ること請け合いである。最近では某レンタルショップにおけるレンタルサービスもあることだし、是非ともコミックス媒体において、諸氏にはこの漫画に対する改めての評価を行ってほしいと思う。
新しいポケモンの化石ポケモンが話題になっていて、ずばりギリシャ神話のキマイラのことではなくて、普段からよく話題になる想像上の生き物で「複数の動物の特徴を掛け合わせているやつがいたなぁ」って思ったりしてたんですよ。
そいつ「ドラゴン」とか「龍」とかいう呼び名でよばれているんですけど。
個人的な分類なのでそれが常識ということは全然ないので構えずに聞いていただければ幸いなんですが、ドラゴンって呼ぶ時は西洋伝承の竜、「龍」って呼ぶ時は東洋伝承のリュウを意識しています。西洋伝承との比較の話題のときにはわざわざ東洋龍をドラゴンとかよんだりして自分からルールを破るので、本当にそこは私事ですよね。
ちょっと前にNHKの特集でドラゴン伝説に関する番組があったりしたんです。
テロップに「人類学者」「歴史学者」「宗教学者」って表示される人の他には、古生物学者さんとか比較生物学者さん、気象学者さんなんかもコメントしていたのが印象に残ってます。あと世間話でドラゴンって話題に出すときには、地理学を勉強している知人と話していることが個人的に多かったりもしますね。結構、色んな分野からドラゴン伝承というものを話題にすることができるってのは面白いなと思います。
古生物学的な知見から語るドラゴンとはずばり恐竜の化石の話でした。僕たちの世代ともなると人間何人ぶんくらいの恐竜の化石が見つかったとして、それは人類が成立する前の時代の、大昔の生き物の痕跡であって「こんな生き物がいまも生きて闊歩している」とは咄嗟にも思わない訳ですが、それは今日に至るまでの研究成果とそれを知識として普及できる教育の賜物であって、それがなかった時代の人たちはそうは思えなかったって話です。
番組ではルーマニアで有名な翼竜の化石が見つかっていると言及されていましたが、ルーマニアはドラキュラ伝承の元になったヴラド・ドラクル公の故郷ですよね。「ドラクル」という別名は彼の自称で「悪魔の子」って意味だとよく言われますが、本当は「竜の子」とかそういう自称だそうです。言語には明るくないのでもっと正確な意訳ができず恐縮でありますが、無知の身上なので「音が似てますもんね」とか言います。どうしてそれが「悪魔の子」だなんて受け取られ方をしたかと言えば後述したいと思いますが「ドラゴンは当時の人々にとっておそろしい敵役で、悪魔に連なるキャラクター」だったからです。竜の子なんて自称するのはその宗教的事情を考慮するならば自ら悪魔の敵役を名乗る型破りなことだった訳ですね。かなり話が脱線しましたが、竜の子ヴラドの伝説的な話が根付くルーマニアで、空を飛ぶ恐竜の化石が見つかっているという話がなんだか面白いなと僕は思う訳です。「無関係とは言えないだろう」とか僕なら思っちゃうし言いたいですし、当時の文献記録に化石の発掘らしき出来事の記述とかあるならそれは想像が捗るので素敵な話だと思います。
比較生物学的な見地からはいまも生きている生き物、特に蛇が槍玉に挙がっていました。ずばりって感じがします。番組では「何故ドラゴンは火を吐く?」という疑問に対して、蛇がちろちろと舌を出す様子に触れつつ、この蛇の習性が「誤った情報伝達の仕方をして」ドラゴンに火を吐かせるようにしたのではないかという話をしていたのでこれが面白かったですね。
まずドラゴンという想像上の生き物が成立する。次に「ドラゴンは想像上の生き物で、実物を人前に持ってきて伝えることができないから」人間は想像を絵に描いて伝えようとします。この間に、ドラゴンというのは実在しない生物なので、かわりに実在する他の生き物の特徴を取り込んでイラストとして出力されてしまう訳です。無いものを描くことはできないので、かわりに実際に有るものの特徴を代用して想像を膨らませていく。会話で比喩表現を使うようなもんですよね、「奴は蛇のようにずる賢い性格なんだ」とか「鳩が鉄砲で撃たれたような顔してるぜ」とか。
それで番組に出てきた絵なんですけど、たぶん火を吐いてなかったんですよ。イラストの横に難しいラテン語でびっしり説明文書かれていましたが、「これは火を吐いている絵ではなく、蛇のように舌をちろちろさせているドラゴンのイラストです」って言われたら僕はそれで納得してしまいます。そんな絵でした。
ところで遠い土地に住んでいる人に自分の描いた絵はこういうものだと事細かく説明できますか? 僕はそういうのが得意ではないので、しばしば伝言ゲームみたいになっちゃうんですよ。これが誰もが当たり前にまだラテン語を読めなかった時代で、聖書の記述すら読み書きの技術を持つ教会の神父様に読み聞かせていただかなればならなかった時代となると、もっと大変だったと思います。もちろん、そういう誤解が広がらない為にバチカンの偉い司祭様たちは色んな対策を立てたと思いますが、果たして「悪魔の姿形まで全員の意見を一致させようと手を回す余裕があったのか」はわかりません。イラストというのは文字や言葉より強烈です、写真の無かった時代ならそれは写真の代わりすらつとまったほどに。それでもやはり限界はありますよね。実際にあるものを観察して正確に描いたものなら兎も角、空想の風景を自分が見たことのある風景に喩えながら暗中模索で描きあげたらしいドラゴンのイラストですから尚更。もちろんそれを見せる相手が目の前にいたなら言葉にして説明できたでしょうが、その絵が本に載って遠い土地にいる人たちの手に渡った時、そして彼らが字を読み書きできないとかそもそも違う言葉を喋っている人たちだったりしたら、蛇の舌の絵が火を吐いているように受け取られたりしても即座に訂正したりできないのでそのまま広がってしまいますよね。
ここでちょっと本旨に触れていますが、空想上の生き物は実際にはいないのでそれが絵や銅像といった形にされる際、実在する動物の特徴をつぎはぎにして成立する時がある、というのが比較生物学的な知見で言いたかったことであるように思います。
恐竜の化石にしたって、伝説に語られるファブニールやヒドラそのものにしか見えない代物が発掘されている訳じゃありませんから。そもそも恐竜の化石から想定した想像図が最近すこしずつ変わっているらしくて、僕が映画で見たティラノサウルスはコモドドラゴンじみた堅そうなウロコに覆われた姿でしたが、いまは鳥のように羽毛が生えていたのではないかと言われているそうです。ここはもう少し言及すると、恐竜の末裔はいまも空を飛んでいる鳥、特に渡り鳥である、なんて話にも波及していきそうですが、僕はそのへん浅学なので触るだけで容赦していただきたく思います。
最後に歴史学、人類学、宗教学、あとすごく恐縮なんですが地理学から見たドラゴンの話をしたいな、と思います。ここがすごく自分が興味ある分野になるので話が長くなりそうなんですが、そのほとんどが他の人からの受け売りの知識・聞きかじりの知識であることを先に明言してから話したいと思います。この話を僕にしてくださった皆様に限りない御礼と尊敬を。
まず、先程までドラゴンが火を吐くのは、蛇の舌の特徴を取り込んで描いた想像図を見た別の人が、その絵の様子を「火を吐いている」と誤解して広がったからではないのか、と話題にしていました。さらにここを掘り下げて「何故火を吐いている姿に見えた(誤解した)んだろう?」という話をしようかと思います。
ドラクル公の話にも戻りますが、西洋ドラゴンは悪魔に連なる存在であり、人々にとっておそろしい敵役だったと言います。これは特に難しい理由がある訳ではなくて、人間より大きく、翼を持っていたり、人間の頭を咥え込める大きな口にずらりと牙が並んでいたり、ずばり「人間に噛みついて攻撃してくる蛇という生き物が人間よりでかかったら食べられそうで怖い」という恐怖心が、当時の宗教的道徳観で形成されている独特の恐怖心とつよく結びついた結果だと思います。恐竜は人間を食べそうだから怖い、ドラゴンは人間を食べるから怖い、悪魔は地獄にいて人間に悪いことをするから怖い、というのが全部同じ話になってしまった時、「ドラゴンは悪魔の手先である」という話になるんですね。そこにバチカンの神父様まで話を合わせはじめるともう誰も待ったをかける人間がいなくなる。恐怖とは使い方があるのです。「食べ物を粗末にすると目が潰れるからしてはいけない」なんて言い回しが日本にはありますが、本当にそうなのか?といえば絶対にそんなことないですよね。それが本当の話になってしまうと、目が見えない障がいと向き合って生きている人たちはみんな「食べ物を粗末にした」罰でそうなったという理屈が通じてしまうので大変失礼な話になります。ぶっちゃけこの言い回し、嘘か本当かで言えば嘘の話ですよね。でもいま食卓に並んでいる食べ物を、少なくないお金を支払い、少なくない労力を駆使して調理し、なんとか苦労して食卓に提供し続けている親からすれば、それを子供に台無しにされるのはひどくつらいことであるしその悪癖を矯正しないまま大人になっても子供のためにはならないからなんとかやめさせたいと思うのは当然なわけです。しかし、突然の家庭不景気に陥れば金銭交換ままならず明日にでもご飯が食べられなくなるという話を、お金の単位すら知らない無知の子供に納得してもらうまで言い聞かせるのは大変な交渉スキルと言語センスを必要とされます。これが「何故人が人を殺してはいけないのか?」「何故人が人から物を強奪してはいけないのか?」というレベルから説明しなければならないとなれば途方もない気分になってきますよね。なのでそれを説明する側は、悪いことをしてはならないという理由として「悪いことをすれば怖い目に遭う」と方便…つまり一種の嘘を用いるという苦肉の策を導入することにしました。これが日本で言えば「目が潰れる」とか「人攫いにあう」とかで、キリスト教が国教である場所では「悪いことをすれば悪魔のいる地獄に落ちるぞ」とか言われるようになる訳です。ドラゴンに食べられるのは誰だって嫌ですよね、僕はジュラシックパークでティラノサウルスに食べられるレベルから嫌ですしサメだって怖いですから、悪行に対する応報としての悪魔、地獄で罪人を責め苛む悪魔がドラゴンを操るなら当時の人たちにとって2倍の怖さになる訳で、時の宗教家たちはおそろしいドラゴンを悪魔に与えることでみんなが神の御言葉をもっと信じて慎ましく穏やかに生活する世界(=悪人が悪魔とドラゴンをおそれて悪行を思いとどまったり、間違えてからでもそれを悪いことだったと反省して償いをする世界)が形成されることを期待したわけです。なので実は違う種類の複数の恐怖が、宗教道徳という枠組みの中で融合するのは全然難しい話ではないってことですね。ドラゴンが英雄に退治される話が多いのも似たような理由です。人間の勇者が悪いドラゴンを退治して財宝と美しい伴侶を獲得して幸せに暮らす…というのは敵が強いぶん本当にそれを乗り越えられるならば素晴らしい成功であるように思える訳ですね。実際に、ドラゴン退治の伝説は宗教に組み込まれた結果、聖ジョージのドラゴン退治など、有名な宗教説話としてたくさんの人々に親しまれています。強いドラゴンが悪であったほうが都合がよかった時代や場所があったということです。
この長い前提があって、ドラゴンが火を吐く話が続きます。まず多くの宗教において死者の国・地獄とは地下世界に想定されます。そして程度の差はあれど、地獄とは炎の世界で、罪をおかして死んだ者はその炎に焼かれてずっと苦しむと説かれます。これはキリスト教も例外ではないというか、悪魔が住む地獄とはその典型例であるように思いますね。何故地獄が燃えているかと言えば、人間が火に焼かれる痛みを強烈に忌避する話の他に、古い時代の街並みが火災に弱いというのが挙げられます。日本でも江戸時代の平屋づくりなんか想像してくだされば分かりますが、木材を含む家屋が道の両脇にずらりと並んでいるのは火災に脆弱なんですよ。火災の真の恐ろしさとは「燃え移る」「燃え広がる」ことです。デマゴーグが人々の間であっという間に拡散して個人の名誉毀損の度合いがもう取り返しがつかなくなってしまう様子を「燎原の火」などと喩えますが、あれは草原に火を放つと一瞬で更地になるほどの規模の火災になることのようだと言っています。この草が家に置き換わったようなことが頻発しやすい都市計画というのが密集した家屋群にあたります。隣の家同士の距離が近ければ近いほど深刻だという認識で間違いないと言えます。対岸の火事なんて言い回しもあるんですが、実は一つの川を挟んだ対岸で火事が起こっているとしても、風向きと風速次第では火の粉が飛び火してきて火事になることも珍しくないらしいです。キリスト教の地獄の話をしているのでその圏内にある国の歴史を話題にするなら、ロンドンのテムズ川を挟んだ両岸の街々が飛び火が原因の大火事の被害に見舞われたことがあるそうです(これはNHKのドラゴン特集の受け売りです)。時代が昔に遡れば遡るほど消火技術というのが未熟なので、燃え盛る地獄のイメージが成立したほどの大昔となると一度家に火がつけば街一つ灰になるのも特に珍しくなくて、それが冬越し前ともなれば家の壁と屋根なしで厳しいヨーロッパの冬を耐えなければなりません。みじめなんてものではなくて、死にます。火事から助かったとしても家も財産も食べ物も燃えてしまっていて、最悪の場合助けてくれる隣人の家まで飛び火で火事になってて誰も助ける余裕なんかないとなれば、そういうのを「地獄のような風景だ」と言うのでしょう。これを避ける為に毎晩高台に見張りを立てるなどの習慣が根づいたそうです。ファンタジーでやぐらに立つ見張りといえば敵国の侵略者を瀬戸際で発見するだとか怪物が村や街に侵入しないようにする為だとかいうイメージで、もちろんそういう意味での見張りもありますが、一番怖かったのは火事だそうです。というか、敵国の兵士に火付けされることだってあります。火攻めとか言われる戦法で、この場合は侵略者と火事が同時にやってきます。侵略者は火で街の財産がすべて灰になる前に大急ぎで火事場泥棒をはたらくので容赦する時間的余裕はありませんし、火をつけられた街の住人だって火に焼かれるか人に殺されるかの極限状態ですから狂乱しています。ただの火事より、もっと大勢が死ぬでしょう。侵略者はまさに地獄からやってきた悪魔や化け物に見えたでしょうね。そうやって実際にあった大火災の惨事の記憶が、架空の風景である地獄のイメージを補強して、いまの地獄絵図というものがあるそうです。だから「悪魔の手先であるドラゴンが火を吐く(操る)のは当然だ。地獄からやってきたのだから」と言われれば、なんだかすごく話の筋が通っているように思いませんかね?
その上で更に別の解釈を交えます。地獄は地下世界にあると先述しましたが、地下にあると言えば何を想像するでしょうか。道具や芸術品の材料や貴重品そのものとして今でも生活の身近にある鉱石や宝石も地面の下から採掘される資源です。しばしばドラゴンは財宝と関連づけられることを思い出させられますね。化石も地下から現れることが多いです。ドラゴンが地獄に住まう悪魔のペットであることと、ドラゴンのイメージを形成するのにひと役買ったらしい恐竜の化石とがつよく関連づけられるような気がしますね。それで、マグマも地下には流れていますね? マグマによる火災被害、つまり火山の噴火というのはそれほど頻繁に起こる訳ではありません。少なくとも、毎日地球のどこでも火山が噴火しているともなれば人間の生存圏はもっと狭くて、地球は人間には住みづらい星だったでしょう。将来的にそうなるかもしれませんけどね。それはそれとして、噴火は頻繁に起こらないので毎日人間がマグマに殺されているというほどではないと思いますが、それ故に今でも予測して対策が立てづらく一度起こってしまえばおそろしい被害規模となる天災でもある。邦画にもなった漫画テルマエロマエの舞台くらい昔のローマにおいては、伝説的な火山の噴火によって当時の大国が大打撃を受けたらしい…そしてそれはただの伝説という訳ではなく、地質学や考古学的な研究からも実際に大災害が起こっているという史実的な話だそうです。ところでテルマエロマエという作品に触れましたが、これはお風呂をテーマにした漫画です。日本でも観光地各地が抱える温泉施設というのは間欠泉という自然現象を利用したお風呂であることは周知ですね。この間欠泉…温泉というのが、地下の水源がマグマによってあたためられて地表に噴き出す現象で、多くの温泉はそのまま人間が入浴するには適さないほど高熱だったりします、死ぬような大火傷を負うほど熱いこともあります(程度の差はあり、中には最適な Permalink | 記事への反応(1) | 14:56
フェミとかネトウヨとかいうよりも、クラスターBの人々じゃないの?
感情の混乱が激しく演技的で情緒的なのが特徴的。ストレスに対して脆弱で、他人を巻き込むことが多い。
少年期の素行症による非行の段階を経て、利己的で操作的な成人となり、人を欺くが周囲には気づかれにくい[22]。中年になると落ち着くことも多い[22]。
他者に大きな期待を抱き、非現実的な要求によって人を遠ざけてしまったり、喪失体験をしたときに、自傷行為に至ることがあり、不安定な自己の感覚や人間関係があり、衝動的な側面を持つとされる[23]。中年になると落ち着くことも多い[23]。
自己顕示性が強く、その時に演じている役柄に影響され、大胆に振る舞う[24]。
他者に賞賛を求め、自分が特別であろうとし、有名人との関係を吹聴したり、伝説の人物のつもりでいて、他者の都合などは度外視している[22]。
子ども子育て支援法では、特定保育・教育施設として、認可保育所、地域型保育事業(小規模・家庭的・事業所内)、認定こども園、幼稚園(給付型)などがある。
運営事業者は、株式会社、社会福祉法人、NPO法人、個人(個人運営は、都市部だと、家庭的保育事業でもない限りないと思う)など様々だ。
また、運営している園の数もまちまちで、株式会社だから多くの園を運営しているというわけでもない。(割合としては多いけど)
子ども子育て支援法は、個人給付のため、園数が増えれば増えるほど収入が増える。
また、株式会社は人件費比率が低めな傾向があり、利益を上げる。
認可保育所ではこの利益を30%以上保持することは許されない。
(そもそも、そこまで余る設計にしていないし、余るなら職員の給与や施設充実などに充てろということ)
しかし、弾力運用という制度があり、自治体と協議することで、新設園の整備資金などに回すことが出来る。
(確か、地域型保育事業だと協議すらいらない。これが地域型保育事業の増えた理由ともいえる。)
その場合、多くの園を経営することで、規模のメリットを享受し、利益を上げ続けることが出来るという算段なのかもしれない。
そのため、現在、株式は有象無象の勢力がひしめき合って、新規開所を競っている。
【良いところ】
株式会社の園は、組織的経営をしていることが多く、園運営に対する費用対効果で効果の方が高ければ、費用徴収はするが、保護者へのサービスも結構してくれることがある。(例えばオムツの処理など)
そのため、保護者と園側のルールが明確で、延長保育料などの費用負担が明確なことが多い。
【悪いとこと】
・保育士不足になると一気に回らなくなる。
採算性の点から、各園の保育士の配置をギリギリにしている傾向がある。
保育所は子どもの大きさに合わせた狭い設備のなかで、大人が働いており人間関係によって、大量退職などが起きることがある。
そうなったときに、一時の赤字を被ってでも保育士を配置するということが出来ない法人が多い気がする。
たぶん、貯めた給付費を前述した新規園の整備費用に回していたり、事務費とか委託費とかいう名目で本部へ吸い上げているからだと思う。
拡大路線を取っている法人がほとんどのため、営業推進部隊はいるが、管理部門が脆弱だったり、前述の人材確保能力・資力がない本部のことがある。
特に子ども子育て支援新制度(H27)以降に、拡大しはじめた法人はその傾向がある気がする。
昭和時代から運営している事業者などは比較的、安定した経営基盤があり、また地元にも根ざした園が多い。
新しい法人も比較的しっかりしていることが多いが、余裕は無い場合がある。
東京近郊以外の法人(京阪神や九州・四国)、一部北関東の法人が都内近辺に進出しているイメージ。(社会福祉法人に限らないか。)
【良いところ】
・余裕のある考え方をしてる。
古くからある園では、運営が安定していることが多く、余裕を感じる。(特に単園または2~3園位を運営している法人)
【悪いところ】
・トップの考えが古かったり、組織として機能不全を起こしていることがある。(特に組織としてのコンプラ面)
福祉とはこういうものだという考えが強い園や、逆にビジネスライクを超えたルールへの厳格性を求めてしまうことがある。
その場合、雇われ園長や主任が問題であるならいいのだが、法人のトップや実務担当者がそういう考えだった場合に、修正することが難しい。(株式のように風評や採算などを超越することすらある)
複数の園を運営している場合、本部機能が脆弱なことがある。また、地方の法人は株式会社に比べてレスポンスが遅い気がする。
また、東京都近辺のニーズを把握しきれていないことがある。(例えば園のルール。株式だとそこは考慮してくる。)
ここで気を付けてほしいのは、株式だからダメ、社福だからダメということではないという点。
認可保育所と幼稚園が違うように、地域型保育や認定こども園も全く違うものであることを知ってほしい。
①幼稚園
一義的には教育施設のため、教育カリキュラムが充実しています。特に絵画や図工、音楽系は保育所などに比べると熟す回数の差だけの効果は期待できます。
一方でほとんどの幼稚園は私立のため、児童が付いていけなかったとしても、徹底的にフォローするということ点では認可保育所に譲る気がします。
これは先生のスキルというよりも、幼稚園はあくまで私立学校であり、出来なかったり、したくないのであれば、園に来なくてもいいですよというスタンスが見受けられるためです。
そのため、事前に保護者にも行事への協力や費用負担を求める園が、認可保育所に比べて多い傾向です。
なお、預かり保育を行っている園が多くありますが、夏休み期間中はやっていない園も多くあるので、働きながら幼稚園に通わたい場合は注意が必要です。
幼稚園と認可保育所のいいところどりのような位置づけですが、結構曲者です。
確かに教育をしつつ、保育も行うという高い理想があり、それを実践している園もあります。
気を付けなければいけないのは、認定こども園は昔は幼稚園だった園が多いということです。(認定こども園は民主党政権時代に高い理想と待機児童解消に生まれた制度です。)
①で書いた考えの法人が認定こども園になった場合、産休を取るときに、実質的な退園勧奨をしてトラブルになったりしています。
今は下の子が生まれて育休を取ったとしても、育休が終わったら復帰するんだから、上の子は育休中も継続して同じ園に通えるというのが現行制度です。
しかし、3歳児神話でもないのに、「一義的には子どもは親が見るべき」という考えのもと、トラブルになったりします。
…何考えているんだろうね、こういう法人。そんなことしても少子化が加速するだけで、最終的には園が運営できなくなるのに寄与するだけなのに。
(この考え、保育園の運営法人でも持っている人がいて、考えを変えるのは大変なことなんだなと思うことがあります。)
いわゆる保育園です。入所可能年齢が低く、預かる時間が長いこともあり、一義的には生活の場であり生活を覚え、人とのかかわりを経験していく場と考えられています。
そんなの当り前だろうという人がいるかもしれませんが、例えば育休明け1歳児で預けたとして、一日12時間くらいいたりするのです。
しかも、大人のように社会のルールや、人との会話・接し方、食事の仕方、靴の履き方…
(もちろん一日の食事のうち2回は家だからとか色々ありますが、働いている親が土日にしていることを毎日保育士がしているわけです。)
そのため、教育(幼稚園のところに書いた絵画や音楽とか)という点では、どうしても熟す回数に差があります。
近年はそこに力を入れる園も増えましたが、一日12時間いる中で、そういったことを行うには、子どもも慣れる時間や訓練が必要ですし、保育士側にも相当なスキルや経験が求められます。
ということは、登園前やお迎え後、土日の保護者にもそれなりの余裕やスキルが求められるという点に注意してください。
(幼稚園は保護者に対して、元々求めています。保育園だけでやれば幼稚園並みの経験、教育が出来るというわけではないということです。)
つらつらと書いてしまいましたが、要は保育所や幼稚園を申し込むときには口コミや友達の話だけでなく、ちゃんと見学に行くんだよ!ってことです。
私は二次創作で小説を書いている。ジャンルは人気だが、好きなカプは多分マイナーの部類に入ると思う。
投稿サイトはpixivだ。数年前、同ジャンルの別カプで書き、少しの間書くのをやめて(一次創作をしていた)読み手として二次を楽しんでいた。もちろん公式の供給にも一人盛り上がり、楽しいオタク生活を過ごしていた。
そして好きなカプが出来、また書いてみたいなと思って書き手に戻った。
pixivでの評価は、前カプで二桁、今のカプで三桁行けば良い方。はっきり言って人気はないし、陽も当たらない。でも、前カプのほうがメジャーカプなのに今の作品ほうが評価してもらえるのは嬉しかった。文字数が増えたし、あと自分で言うことではないけど書くのがほんの少しだけ上達したからだと思う。
前は「書きたいとこだけ書ければ良いや」みたいな考えで殴り書きに近かった。後から読み返して「よくこれで投稿したな……」と情けなくなったし、そんな作品でも読んでくれて評価までしてくれた人がいたのがありがたかった。
それも踏まえて今度は「せっかく書くならもっとちゃんと考えて書こう」と思った。それであわよくば評価してもらいたい。承認欲求を二次創作で満たすのはどうかと思うのだが、創作は創作なのでやはりそういう下心もわいてしまった。
"ちゃんと考えて書こう"という心がけは、一応成果を出した。前の作品で三桁の評価のものはないし、感想までもらえたのだ。スタンプも嬉しかったが、文章での感想は段違いに嬉しかった。
感想をもらう前はTwitterなどで「感想がなくて筆を折った」や「感想は創作者を救う」という呟きを見ても別世界の話で全く実感がなかったのだが、自分が実際にもらってようやく理解した。確かに読んでくれた人の感想は救いだ。これは誇張ではない。本当に本当に、救われたのだ。
一人であーでもないこーでもないと悩み、一文一文もっと他に良い表現はないかと迷って完成させた小説。好きでやっているとはいえ、暗闇に石を投げてるような感覚だった。
前カプの時も、暗闇に石を投げてる感覚は同じだった。他所では人気の字書きがワイワイやっていて、他の字書きや絵描き、創作はしなくても同じカプが好きな人達と交流している。
あまり認めずにいたが、私は彼らが羨ましかった。向こうはとても明るくて楽しそうだ。
良いなぁと羨みながら、まあ私にはああいう交流は無理だなと思っていた。なぜなら、私は彼らのように自分から輪に加わろうとしていないからだ。小説が面白い面白くない以前の問題だ。
人気字書きは小説の面白さもだが、そもそも社交性があるのだ。Twitterも面白い。人付き合いが苦手そうな字書きでも、誠実に小説に取り組んでいるんだなと分かる人はいて、やはりそういう人のもとにもファンや同好の士は集まる。
しかし、私はコミュ障だ。Twitterも何も面白くない。ネタにしたいことを呟けば人に取られるのではと不安で呟けない。盗まれるような大それたものではないのに、被害妄想ばかり膨らんで何もできない。
もらった感想に対しても、ちゃんと感謝を伝えたいのにどれだけ頭を絞っても無味乾燥な文章になる。時間をかけて返信文を考えてもそれは相手には伝わらない。ただ"返信が遅かった"という事実しかない。しかも本当に嬉しいのか分からない文章だ。それでも何か返信しないよりはしたほうがマシだと思って返信する。
これは二次創作に関係なく、人から好意を向けられることに慣れてないのも原因なのだろう。自己肯定感が低い。好意に対する耐性がない。
だから好意を向けられてもどうすれば良いのか分からない。相手にしてみれば、ただなんとなく気まぐれで送った感想なのかもしれなくても私からすると初めて見る光のようなもので、救いなのに耐性がないからただただ戸惑うしかないのだ。
心の底ではあれだけ欲しいと思っていたのに、与えられたらこれだ。もっとそつなく対応できないのかと自分が嫌になる。
世の人気同人作家は私とは比べ物にならないほどの感想や好意を向けられていると思うと、彼らが別の生物に見えてくる。私より良くできた、なんか違う生物。
人気字書きと比べると憂鬱だ。比べるものじゃなくても比べてしまう。
二次創作は文章力より萌えるのが大事だとよく聞く。それは本当だとも思うが、萌えを伝えるにはまず文章力が必要だし、第一面白い二次小説は文章に長けている。
心理描写、情景描写、キャラクターのバックグラウンドを伝え、キャラ同士の関係性の変化やシチュエーションで読者を熱くさせる。これは並大抵ではできない。
しかも、pixivはどちらかというと絵を中心に据えたサイトだ。だから余計に、小説で評価されているのを見ると凄いと思う。
前もそう思っていたが、今はもっと強く思う。だって前より良いものを書こうと頑張っているのだ。読み手を意識するようになってから、見返りが欲しいと思うようになった。
当然、自分のために書いている。自分が好きなシチュエーションで、自分が好きなカプで。だが、書くなら上手に書きたい。自分も他人も良いと思える、納得できる文章が書きたいのだ。
承認欲求がどんどん大きくなっていく。それでも、まだ私は楽観視していた。書くためのエネルギーになるし、節度さえ守っていれば腹で何を考えていても問題はない。それに、何はともあれ小説を完成させなければならない。これが一番大事なことだ。そう言い聞かせてまた書いた。
Twitterで面白いSSをツイートする字書きがいた。仮にAとする。軽い気持ちでフォローし、SSを楽しみにしていた。
Aはpixivにシリーズ物の長編を投稿しており、これもまた軽い気持ちで読んでみた。
まだシリーズは完結していない。評価はブクマも良いねも多く、感想や続きを待つタグもあった。
TwitterでもAはフォロー数より遥かにフォロワーが多かった。人気も人気、ファンがたくさんいる。
Aの小説は人を選ぶ作風だった。オリジナルキャラクターが中心にいるのだ。内容も殺伐としている。読んでいてつらいが、それでも面白いのだ。表現力も構成も卓越している。
私は人気字書きに対して、別の生物だと思うことで精神の安寧を図ってきた。コミュ障の自分にみんなでワイワイ楽しくは無理だと諦めていた。万が一輪に入れても人間関係で消耗する。せっかくくれた感想に満足な返信一つ書けず疲弊するのだ。自分と彼らは違う。だから羨望は抱いても嫉妬まではいかなかった。
しかし、私はAに凄まじく嫉妬した。オリキャラで、シリーズ物。内容も暗い。なのに人気だ。コメント欄は感想で溢れている。多すぎるからか返信もしていない。面白いからそれが許される。
初めは自分ももっと小説が上手くなろうと意気込んだ。だが、私がまだ序盤すら書けていない時にAは新作短編を投稿する。それもすぐさま評価された。
Aはよく、「自分は書くのが遅い」と言っていた。SSをやりながら数万文字の小説を書いてそれを短編だと言って投稿するAが。
Aの物差しではそうなのだろう。Aが言うことに私自身の物差しを当てはめてはいけない。他人には他人の物差しがある。
Aはよく謙遜した。「誰得か分かりませんが」「ほんと自分しか読んでて楽しくないんじゃないかな」「◯◯×△△が好きな人から怒られそう」と。こうして投稿された小説も、すぐに評価される。私も読んだ。面白かった。
Aはよく質問箱で来る質問に答えていた。「どんな本を読みますか?」「執筆スタイルを教えてください」こんな質問が多い。Aは決まって「本はあまり読まないんです」「執筆スタイルと言えるほどのものはありません」と答える。
…………
嫌悪感を覚えた。この嫌悪感については上手く説明できない。嫉妬が源なのは確実なのだが、別の感情も含まれていると思う。
自分とは何もかもが違う。Aは多くの人から必要とされている。長編をコンスタントに投稿し、完成度も高い。そして文章やストーリーを長文で褒められ、謙遜してもすぐに否定してくれるファンがいる。
なんというか、皆に見守られている感があるのだ。見守られながら崇拝されている。
他にも、Aは作中に性描写を入れずにこれほど評価されているのだ。私は性描写のある小説を書いていて、性描写のない小説も投稿したがこれは全然評価されない。読んでももらえなかった。
もう一つ、Aが私の嫉妬や劣等感を煽る理由がある。それは、Aは一次創作でも人気を得るだろうなという確信だった。Aは一次創作をしていない。だからこれは私の想像というより妄想だ。Aは筆力がある。ストーリーに漂う空気感や思想も一貫しており、本人に確固たるテーマがあると伝わるのだ。
原作という確固たる軸をもとに、自己解釈を入れて物語を作るのが二次創作だ。対して一次創作は当然、作者が軸から作らなくてはならない。軸はストーリーを形作る上で作者の一貫した思想やテーマが必要なのだ。それが脆弱だとどこか掴み所のない、微妙な作品ができあがる。「文章は上手いけど……」とか「題材は良いんだけど……」とか言われるような作品。胸に訴えて来るものがない。
はじめに書いたが、私は一次創作もしている。一次は二次より苦しみながら書いている。「きっとAは、そんな苦しみもなく、あったとしても見返りのある小説を書けるのだろうな……」こんな感情がわいたのだ。
Aが書いてもない小説で劣等感を勝手に抱き、被害妄想を膨らませて勝手に苦しんでいる。滑稽この上ない。しかし理性より感情が勝った。次第に私はAに嫉妬や嫌悪感を通り越して憎悪すら感じ始めた。
Aのツイートを見る度に胸がざわつく。「書くの一生やめないかな」「消えないかな」などと考えるようになった。アカウントをミュートにしては気になって解除し、フォローも外そう外したほうが良いと思ってもできなかった。この時点で、私はまだAの小説が好きだったのだ。新作は読まなくなったが、シリーズ物の続きだけが気になっていた。新作を上げる度に、早く続きを書けよとイライラしていた。
こんな滑稽な人間いるだろうか。憎悪すら抱いているのに、その発端となった小説の続きが読みたいだなんて。我ながら馬鹿で笑える。
Aはマシュマロを始めて、またたくさんの人に褒められている。マシュマロには丁寧な返信をしている。謙遜して、自分の作品を"拙作"などと言って。心温まる返信だ。無味乾燥な返信文しか書けない私とは違う。
私は今日もpixivを覗いて、自分の小説の評価を気にしている。カプ名で検索しても、もう他の人が書いた小説に流されていくつもページを越えないと私の小説には行き着かない。新作を上げたいが、まだまだ書き終わらない。誰も褒めてくれない。一次も二次も。
書くのがつらい。やめれば良いのに、やめたら自分は価値がなくなる気がして怖いのだ。他人と交われない私にとって、小説を書いて評価されるのは唯一と言ってもいいくらい自分を満たす慰めだった。私が書いた小説を、誰かが肯定してくれる。これは私自身を肯定されたも同然なのだ。本当は違うと分かっていても、ほんの少し救われた。
このカプ、良いですよね。このシチュ、萌えませんか。この小説どうですか。私の小説、好きですか。
所詮趣味なのに、こんな思いを込めて書いて読む人に過度な期待を寄せてしまう。だから評価されないと無視どころか否定された気になる。私が駄目な原因だと思う。もっと軽く楽しめたら良かったのに。
読み手を意識して、感想をもらう喜びを知ったから脱け出せないだろう。何より、小説を書くのが好きなのだ。書いている最中ずっとつらいのに、書き終えるとまた書かなきゃとなる。
ただ、なんとかAへの憎悪を消したかった。どうでも良いと思えるようになりたかった。その方法が分からない。私が人気になれば良いのか。それも根本的な解決にはならない気がする。Aが私の小説を褒めてくれたら良いのか。私のことなど眼中になく、そもそも全く知らないA。多少承認欲求が満たされるかもしれないが、こういうのは満たされてもすぐになくなる。
他の人は、承認欲求が満たされたら本当にそれで満足できるのだろうか。欲求というコップがあったとして、まっとうな人は褒められるとコップに水が注がれてどんどん満ちていくのだろう。私の場合、多分コップの底に穴がある。自己肯定感のなさが穴の正体だと思う。はじめは穴がなかったのか、それとももともと空いてたのか、褒められて水が注がれてもどんどん落ちていく。全然満たされない。
結局のところ、Aがどうのとか評価がどうのではないのだろう。原因は自分にあり、自分でなんとかしなくてはならない。
自分が納得できる文章を書けるようにしたい。自分が納得できれば、評価は二の次になると信じたい。幸い、納得の基準はまだ自分の中にある。こんな文章でこんな小説を書きたいと理想や目標がある。これがある分にはまだ頑張れそうな気がする。そこから自己肯定感をつけていけば良いかもしれない。すでに評価に依存しているが、まだなんとかなるかもしれない。
理不尽を理不尽だと理解できているうちに、自分の小説をちゃんと書けるようになりたい。これで書くのをやめて憎悪に飲まれたら人として何か終わる気がする。荒らしなど惨めなことはしたくない。
私は小説を書いていたい。一次でも二次でも納得のいくものが書きたい。他の字書きへの嫉妬や憎悪が原動力では嫌だ。
嫉妬も劣等感もあり、とてもつらいが少しでも気が楽になれるよう、自分の面倒な諸々と折り合いをつけたい。
これはその一歩として誰にも吐き出せないためここに書いた。読みづらい文章だったと思う。でも、読んでもらえたらほんの少し救われる。小説が好きで、どんな文章でも大事だと再確認できた。それが嬉しかった。自分の小説にちゃんと向き合えそうだ。
読んでくれて本当にありがとうございました。
https://anond.hatelabo.jp/20191029132449 の補記
このまとめが私の言いたかったことに非常に近い。私自身が4ページ目で「線引き」という言葉を安易に使ったのは失敗であった。後述するが、線引きは必ずしも必要ない。
- id:Yagokoro バッカじゃねえのか。それこそ赤十字社が判断すればいい話。
まさしくそのとおりである。これは1ページ目に書いたとおり、赤十字には表現の自由があり、何を表現するかは赤十字が判断をすればいい。最終的には、赤十字にとってのコストパフォーマンスにより決定されるであろうと考えている。
- id:racebyrace 線引なんて出来ません。最終的には、違法かどうかしか無いのです。
- id:tomoya_edw 規制しようとしている側が規制の根拠を示せ。何かをやめさせようとするのに、無限に出てくる性嫌悪者のために配慮してとりやめるのかって話だよ。やるなら法のラインで全然いい。規制と反規制の落としどころなどない
- id:jun_cham その線引きはすでに終わっていて、法律で猥褻物という定義がすでにある。猥褻物にあたらないのであれば、公共の場で目にすることはあるものとして、正しく対処できるよう生きていくべき
- id:arrack 猥褻の基準はある(局部露出の有無等)けど、それを超えて過度に性的だの言ってるから、(どういう基準でそう言っているのかと)叩いているわけで。ゼロベースではないのに、増田含めて勝手にゼロベースに戻すな。
- id:ite 日本において猥褻の基準はしっかりとあって、裁判でも判例が積み重ねられている。それらを無視して思いつきで一方的に規制したがるやつらが馬鹿。
- id:meganeya3 「ポリティカルコレクトネス」ならきちんと法律にしろ。自主規制ってのはムラの掟なんだよ。そんなものを押し付けるな。説明は真摯でも結論がそんなところに着地されては困る
私は、表現の自主規制を行う上で、法律上の「わいせつ性」を基準とすることは不適切であると考えている。
世の中にはいわゆる「成人指定」あるいは「R-18指定」という仕組みがあるが、これらの規制は自主的に行われている。法的な「わいせつ物」はそもそも流通が不可能であり、一般に流通している「成人向け」コンテンツはすべて法的に「わいせつ物」ではない。では、どのようにして成人向けコンテンツのレーティングが行われているかというと、業界団体による自主規制ルールによる。もちろん、各都道府県系には青少年健全育成条例のようなものがあり、レーティングとゾーニングの実施を要求している。しかし、レーティングの主体は、あくまでも表現者である業界団体側に委ねられている。言い換えると、現在の日本においては、法的にわいせつ物であるかどうかを基準とした運用は、成人向けコンテンツに対してすら行われていない。
以上の理由より、私は、法律をベースラインと置く言説には説得力が乏しいと考えている。もちろん、「法律で認められているものはOK」と強弁すること自体は可能であるが、周囲の同意が得られるかどうかは別である。私自身はむしろ、件のポスターを擁護する上では、このような極端な言説を用いるのは悪手であると考えている。
- id:hanyan0401 R18以外で実際に運用されている基準なら、CEROのレイティングがあります。CERO-A(全年齢)の一つ上がCERO-B(12歳以上)で、ソフトの一例はこちらです。http://bit.ly/2JyAgbx 件のポスターってこのレベルで「性的」なんですか?
- id:yas-mal 過去の議論を無視してゼロから議論するのもアホらしいので、「男女共同参画の視点からの公的広報の手引」あたりを前提にすれば良いんじゃ無いでしょうか。日本赤十字社はどの程度公的広報に準ずるべきかも含めて。
- id:kumaponta 新しい価値観を提示したいなら何らかの基準を示さなければならないのは変化を求める側。具体的にはホワイトリストとブラックリストを併用したR12に近いレーティングを批判側が用意し検討の要望を出すのが筋だろうね。
これらのコメントは、現実的な自主規制ルールについての言及である。
「男女共同参画の視点からの公的広報の手引」は、多くの機関にとって最低限満たすべき基準となるであろうが、一方で、非常に概念的な内容にとどまっており、個別の表現に対する評価には使いづらいように思われる。そういう意味では、CEROのレイティングは、個別の表現を評価する上では、より有用かもしれない。ここで重要となるのが、CERO(や映論やビデ論など)のレーティング基準は、これまでの議論や社会的な情勢を踏まえて策定されており、ある程度の社会通念上の合意が得られたものとして運用されているということである。コメントには「落とし所など無い」という意見が散見されたが、多くのコンテンツは、すでに「落とし所」すなわちレーティングに基づいて運用されている。そして、想像ではあるが、このようなレーティング基準の背後では、規制強化派と規制緩和派の綱引きが常に行われているのではないだろうか。
赤十字がどのようなレーティング基準を採用するかは、赤十字の自由である。しかし、「法的にわいせつ物でなければOK」といった基準を採用しないであろうことは、かなりの確度をもって確実だと言えるであろう。
後半の指摘に注目されたい。いわゆる「レーティング基準」というほど明確なものではなくても、赤十字が内部的に表現基準を作ることは十分に有り得る(むしろ、すでにあるのではないかと思う)。このような内部基準は、過去の事例へのフィードバックを基に更新されていくであろうし、性的要素以外にも、ブランディングや多様性への配慮なども含めて運用されていくだろう。そして、内部の表現基準は曖昧に定義されることも予想できる。「各要素を勘案して、不要に性的に映らないようにすること」といった基準は、組織内部では問題なく運用される。担当部署で感覚が共有されていればよいだけなので、肌の露出割合といった、客観的な基準は必要とされない。言ってしまえば、まさに「ムラの掟」ならぬ「日赤広報部の掟」があれば十分である。
繰り返しになるが、このような内部基準は、表現の自由の問題とは直接的に関係がない。赤十字には、当然ながら表現の自由が存在する。しかし、赤十字が実際にどのような表現基準をつくり、どのような表現を外部に対して行うかは、赤十字の裁量に委ねられている。表現の自由を前提として、それをどのように行使するかの話である。
前述のような前提に立つ場合、この問題は「ポスター批判派 v.s.ポスター擁護派」の構図ではない。この問題は、「ポスター批判派 v.s. 赤十字」と「ポスター擁護派 v.s. 赤十字」という、個別の2つの問題である。両陣営とも、赤十字が自分の好みに合う表現基準を設定するように、赤十字にロビイングをするだけである。ここで赤十字に対して「あなたには表現の自由がある」と言ったところで、赤十字からすればそのようなことは既に自明であろう。赤十字にとっては、自由を前提として、どのような配慮を行うべきかこそが課題であり、「表現の自由」や「法的なわいせつ物」の話を引き合いに出されたとしても、あまり参考にはなりそうもない。また、ポスター批判派の言論を「お気持ち」と揶揄したとしても、赤十字が「我々はなるべく多くの人の気持に寄り添いたい」と方針付ければそこまでである(そして、赤十字の役割を考えれば、そうなる可能性はかなり高い)。「批判派は明確な基準を示せ」という意見も、赤十字には届かないであろう。赤十字の立場は、「皆さんの意見を参考にして、基準は自分たちで作ります」でしかないと予想されるからだ。
私自身は、ポスター擁護派である。しかし、一方で、ポスター擁護派の言論が非常に脆弱であるという危機感を持っている。わいせつ性の有無や表現の自由を銀の弾丸扱いしたり、「お気持ち」を軽んじる方向性は、現実世界において他者に響くであろうか。私にはあまりそう思えない。むしろ、そのような極端とも取られかねない言動は、単に無視されるか、悪印象とすらならないだろうか。もしも、わいせつ性の有無や表現の自由が議論において有効な武器であり、「お気持ち」を簡単に潰せるほどの威力があるのならば、ビールのポスターから水着の女性が消えたり、レーティングによる自主規制が行われているのは何故だろうか。私が、敬意をもって落とし所を(なるべく自分の好みになるように)模索するべきだと考えているのは、そういう理由である。銀の弾丸を持たない以上、100%自分の思い通りにはならないだろうが、「お気持ち案件」などと言って対話を打ち切ってしまえば、最終的にこちらが譲歩する度合いはさらに大きくなるであろう。
繰り返すが、件のポスターの是非において、表現の自由はあまり関係がない。もし仮に、ポスター批判派の要求が、政府による規制を求めることを主体としているのであれば、話は別である。しかし、今回の議論に置いて、そのような意見はポスター批判派からもほとんど出ていないように観測される。
この視点はとても参考になった。確かに、公共の場で公的、あるいは公的に準ずる機関が二次元キャラクターを用いるようになったのは最近のことである。漫画やアニメに馴染みのない人にとっては、自分が知っている世界が、なにか別のものに侵食されていると感じられるのかもしれない。とはいえ、表現の自由を前提にすると、そのような状況を拒絶することは難しいように思われる。「あの手の絵」に過度に性的な要素が含まれていない場合、二次元キャラクターであるというだけで拒絶することは難しいであろう。この部分は、なんとかして各自が折り合いをつける必要がありそうに思われる。
残酷ではあるが、あえて言うならば現時点で「声が集まっている」のはあなたの周囲だけなのかもしれない。実際に、私の妻に今回の件の感想を聞いてみたところ「別にこれぐらいいいのでは」というものであった。女性であっても、人によってはこのような反応である。他の人から見ると、あなた(達)の声は、まだ小さいのかもしれない。
しかし、どうか絶望しないで欲しい。私は、あなたの立場を完全に理解することはできないし、今時点であなたのために提示できるものもない。それでも私は、あなたにとって、今回の件が重大な問題であることは理解するし、それを馬鹿にしようとは思わない。私にはあなたを助けることはできないかもしれないが、あなたが声を上げ続けることは尊重するし、あなたの仲間がどんどん増えてあなたの声が多くの人に届くといいなと思っている。もちろん、声を上げ続けること自体が容易でないし、辛いこともあると思う。大変ですが、お互いがんばりましょう。
- id:viperbjpn 人それぞれっていうと、多分ほぼいろんな表現はできない
- id:chintaro3 そうなんだよな。溜まってる時は女性の手を見ただけで勃起するもんな。
- id:kloud 黒タイツでもドキドキする人がいるんだぞ!
一部はふざけているようにも見えるが、重要な指摘である。性癖というのは個々人でバラバラであり、実際に私からすると極端に感じる性癖を持つ人もいるであろう。では、個々人で性癖がバラバラであるから、手も黒タイツも、あれもこれも表現として認められない世界になるかというと、少なくとも現在の日本においては、そうはならないであろう。これは単純に、社会通念上の合意が簡単には得られないからである。これらのコメントは、「だれかの気持ちのために1つでも譲歩したら、結局はあれもこれも譲歩することになる」という危機感を述べているのだと考える。1ページ目で述べたとおり、このような危機感には一定の妥当性がある。一方で、現在の日本において、そのような自体が実際に発生するかというと、そのようなことも無さそうである。実際に、既に存在している様々な自主規制ルールは、多かれ少なかれ問題はあるにせよ、先鋭化することもなく、案外まともに運用されている。ルールを正常に保つためには、各陣営の不断の努力が求められるだろうが、極端に悲観する必要は無いと考えている。
補記が続くのかよ
趣味でつながってるフォロワーたちで、メンタルをやらかして長いこと抗うつ剤飲んだりしてる人が結構いるんだけど。
その人たちを見てると、なんかわざわざネガティブな事を探しに行って、ネガティブな気持ちになってるんだよなあ。フェミや腐女子や映画ジョーカーについて一言言いたい意識高い人のお気持ち長文や学級会を探しては「なんてことだ。こんなひどい人間がいる世界で生きていくなんて絶望だ」ってなってるっていうか
腐女子やフェミの学級会とか見なくても困らないものの代表で、しかも内容は恨みつらみのネガティブの塊なわけで、鬱のせいで気圧の変化程度でメンタルやられるレベルで脆弱なのに、何でそんなもんわざわざ見に行くのか。不思議でならない
ディフェンスシステムは前に出て相手の勢いが出る前に止める「シャロウディフェンス」と、相手がボールを横に回しながら前進してきた時に、待って外に移動しながらタッチに追い出す「ステイ系ドリフト系ディフェンス」に分かれます。
日本が採用しているのは主に「シャロウディフェンス」で、ディフェンスをあげる時をよく見ていると、山形にあげています。
あれは相手が外にボールを回すのを塞ぐ役割を持っていて、相手のモメンタムを早めに止めながら外への展開を阻止する、また1人のボールキャリアーに2人でタックルに行くなどの狙いがあります。
ここは、ディフェンスラインの裏側にいて、通常相手のキックを警戒しているスタンドオフやフルバックが走り込んで埋めるのですが、前の一連で相手の攻めを潰す時に人数を使ってしまっていると、人が足りなくなる時があります。
W杯が始まる前の日本や、代表のクローンチーム・サンウルブズでもよくここを突かれていてディフェンスの穴というか、システムの脆弱なポイントではありました。
1週間のご無沙汰、レビュー増田(ありがたく名乗ることにした)です。
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これがポストされる19日は、イングランド×オーストラリア、ニュージーランド×アイルランドという非常に興味深い対戦が行われ、レビューのしがいがあることは間違い無いのだが、実は増田はこの1週間、所用で日本におらず、帰国日がまさに19日の夜になる。
なので、これらの対戦をレビューしてポストする頃には、日本×南アという大一番に皆が集中していることになるだろう。
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そこで、今回は番外編として、前回の日本×スコットランド戦でも触れたように、増田がマレー半島を北上しながらボーッと考えた南アや日本が取りうる選択肢や展望について触れ、プレビューとしたい。
プレビューで分析すると良いのが、「双方や一方の戦略戦術が機能せず、パッと見で凡戦や圧勝劇なったとしても、そこに遂行にまつわるドラマを感じることができる」という所だ。
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このプレビューで、みんなが事前に自分なりの注目ポイントを見つけることができ、より楽しく観戦できれば最高の喜びだ。
因みに前回のレビューは羽田空港で外国人に囲まれながら試合を観戦し、翌朝クアラルンプールからポストした。
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4年前のW杯でアップセットを演じ、今回も驚異的な戦績でプールAを突破した日本だが、直前のテストマッチの結果が示すように、地力で南アには及ばないのは間違いない。
10回やって6回勝てる相手なら地力で優っているとも言えるだろうが。
NZの地元紙が予想した日本の勝率24%というのは妥当とも言えるし、むしろ好意的だとも増田は思う。
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まずもっての所、ノックアウトランドは勝ち点制でないので、すべての国が点数の大半をペナルティーゴールであげるような「堅い」展開になりやすい。
南アはフィジカルを盾にしたディフェンシブでセットプレー中心のぶつ切りラグビーを得意とする国で、そういったゲームは大好物だ。
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また、それは現在のメンバーにも現れており、司令塔、SOのハンドレ・ポラードは地元・南アのスーパーラグビーチーム、ブルズで正にそういうゲームのタクトを振っている。
ここで出てくるのが、ツーブロックなのかモヒカンなのか微妙な髪型の控えSOエルトン・ヤンチースであれば、小柄ながら強気プレーでもって鳴らすSHファフ・デクラークとの連携でボールを回すオープンな展開になるのだろうが、初期代表チームでこのコンビの結果が出なかったため、ポラードの固定となった。
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その後、南アはでかい身体ですぐキレるLOエベン・エツベスや、大会最高クラスの長身で掴み合いになると笑顔になるのが怖いLO RGスナイマン、一転してナイスガイオーラが滲み出る大男FLのピーター・ステュフ・デュトイ、怖いとかナイスガイとかもうそういう話じゃなくてプレーも身体も顔もなんかサイボーグっぽいHOマルコム・マークス、そんな中でどこか哲学者のような雰囲気を漂わせるキャプテンFLシア・コリシなどのFWが中心となった堅いラグビーを基本としながら、「ポケットロケット」WTBチェスリン・コルビや、海外中継などだと「マッピンッピ!」と独特のアクセントで名前を呼ばれる俊足WTBマカゾレ・マピンピ、直前のテストマッチで連続トライを挙げたワンダーボーイ、SHのハーシェル・ヤンチース(本日2回目のヤンチース)などを加え、身体をぶつけてよし、走ってよしの非常に攻略しづらいチームになってしまった。
因みにシア・コリシは極貧の身からラグビーでのし上がり、功なり名を遂げると、幼い頃に生き別れになった腹違いの妹を自力で探し出し、非常に煩雑な法的手続きを経て養女として迎え、共に暮らしているという。
理知的な人物として知られ、FW戦には付き物のジャッジの解釈をめぐるレフェリーとのコミニュケーションもバッチリだ。
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おそらく南アの戦略のファーストチョイスは、ここ一番の時にオールブラックスさえ封じ込めるやり方、ハイパントを上げて着地点の競り合いやキャッチ後の攻防で直線的にドカンドカンと身体を打つけ、ボールを前に落とすノックオンからのスクラムを狙ったり、ボール争奪戦で時に頭を突っ込み、時に圧力をかけて日本の規律を崩してペナルティー獲得を狙うというものになるのではないかと思う。
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マイボールスクラムになったらまた直線的に走ってスクラム脇を急襲し、身体を打つけて1コマ前に戻る。
接点の圧力に対応するため日本が人数を集めれば、さあ外のスペースに展開だ。
強力なランナーがいる。
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もっと良いことにペナルティーを獲得した場合、素直にペナルティーゴールで3点を狙うか、タッチキックで前進してトライを狙うかは考えどころだ。
タッチで前進したあとの狙いは、立っての密集、ドライビングモールとなる。
日本は今大会、スクラムになかなかの強さを見せるが、モールは止め切れていると言い難く、フィジカルに絶対の自信を持つ南アが3点で満足せず、これを狙ってくる確率は高いとみる。
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日本としてはこの展開になりたくない。
なので、アイルランド戦やスコットランド戦で見せた、「ボールをキープして攻撃で時間を使う」という戦術が考えられる。
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今回、南アは十分な休養日があり、たとえ守り通しの展開になっても、体力切れは起こしづらい。
それに、地上戦で身体をぶつけ続けると、その衝撃で消耗してしまい、日本の方が先に体力切れになってしまう可能性がある。
キープするならどのタイミングで繰り出すかが悩みどころとなる。
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さらに悪いことに、南アの多くのプレイヤーは日本の早さや多彩な攻撃、意外と侮れないフィジカルの強さなどを「感覚的に」知っている。
これは日本が代表のクローンチーム、サンウルブズでスーパーラグビーに参戦して数年来南アのチームと対戦し続けているのと、南アの多くのプレーヤーがジャパンラグビー・トップリーグでプレーしているためで、お互いに顔見知りの選手も居るくらいだ。
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そこで考えられるのが、サモア戦で日本がとった、「ボールを相手の背後に蹴って背走させ、身体接触を避けながら前進し、走力を削る」というやり方なのだが、これも蹴ってしまう事には変わりないので、相手が充分なところに蹴ると、正に相手好みの展開の呼び水となってしまう。
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今大会、日本のディフェンスはよく機能しているが、国際的な日本の評価は「恐ろしく早いテンポの多彩で素晴らしい攻撃と、脆弱な守備を併せ持つ、『よく取るけどよく取られるチーム』」というもので、増田から見てもそういうチームであって、できれば守勢には回りたくない。
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南アが唯一対応に後手を踏む可能性があるのは、ボールがあっちに行ったりこっちに行ったり、攻守の交代が目まぐるしくなる「アンストラクチャーラグビー」の展開だが、その起点がハイパントだったりすると巨人揃いの南アに空中戦で競り勝たないといけない、ということになる。
ハイパントのキャッチが「当たりの日」じゃなかったら果たしてどうやってここまで持ち込む?
アンストラクチャーのもう一つの起点は相手が持ち込んだ密集、ラックでボールを無理やり引っこ抜いたり、激しいタックルで落球を誘い、有利状況の反則流し(アドバンテージ)で相手が攻めから守りへ切り替えられないうちに走り抜けるというやり方だ。
こうなってくると姫野やリーチや大阪弁が第二外国語のトモさん(トンプソン・ルーク)に頑張ってもらうしかない。
というか、むしろソレについて考えなければいけないのはシア・コリシの方で、大体において宥めてしまうので期待薄だ。
あとデクラークも小さい身体で掴み合いには一歩も引かず、何だったら自分から掴みに行く勢いなので、危なっかしい事この上ない。
シア・コリシの胃壁の強さには感嘆するばかりだ。
あ、マルコム・マークスは大丈夫。彼は多分そういうの超越してる。
まあそれは良いや。
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日本はこれらの考えられる展開の中で、今まで挙げた戦術を切り替えて勝利の緒を探すかもしれない。
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ランキング1位だったアイルランドと5位だったスコットランドを倒したからいけるっしょ、と思いたくもなるが、このように概観した上で考えると、相性で見たところはそれら2チームより遥かに悪いのが現状ではないだろうか。
日本は相性最悪の強敵を前に、わずかな隙間に手を突っ込んで勝利へのドアをこじ開けるプランを見つけなければいけない。
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注目は最初の15分に日本がボールを持った時に蹴るか・キープするか、その後さりげなく戦術が変わっていないか、前後半で戦術に修正が入るかというプランのところと、地上の密集・ラックでどちらが優位に立つか、ファーストスクラムがどちら優位になるか、エラーや反則の数が時間と共にどう増減するかという遂行のところだと思う。
みんなはここを見てみてほしい。
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果たして試合は4年前の再現となるか、4年越しのリベンジとなるか。
増田は普段序文で書く話を今書いてしまったので、レビューで何を書こうか、ちょっと不安だ。
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あ、あと日テレの実況が酷いという意見が散見されるが、以前はラグビー界の松木安太郎にならんとして感情爆発実況をしていた元代表とか「いや、展開の複雑なラグビーでそれはちょっと」みたいなのもあったんだから、それを踏まえた上で、今回、数年来みずから映像編集してまでミニ番組をYoutubeで配信しラグビー普及に尽力してきた日テレ安村アナはなかなかいい仕事をしている思うぞ。