同僚が研究室に小保方さんの本を持ってきたので、昼休みに流し読みした。つまるところ小保方さんは、研究そのものではなく、研究している自分が好きな人間だったのだと、妙に納得がいった。
そうゆう類いの人は 実は結構居る。学部四年、教わったばかりのエタ沈を嬉々として連呼していた同級生や、 修論で一丁前に能弁を垂れる後輩、 ラボ生活もベテランとなり後輩に対して ペダンチックになる同期など。しかしそうゆう人間は、基本的にはアカデミアには残らない。ポスドクを何年もやるまで自分がそうゆう人間であることに気付かなかった例はあまりにも有名だが (http://biomedcircus.com/research_02_13.html)、若くして見出されてしまい、気付くチャンスすらないまま世に出てしまった小保方さんの方が悲惨であり、少しばかり同情の気持ちが涌いた。
しかし一方で、STAP論文の発表会見の時の発言―うろ覚えだが、実験がうまくいかず夜通し泣いたというような内容―には、強い違和感があった。そんなことは生命科学の研究者にとって常であり、わざわざ世にアピールすることか、と。今更ながら、小保方晴子という女性理系研究者の強かさがよく現れた発言だったと思う。
学生時代にTop journalを出しても ポスドク先では良い結果が出ない、というのはよく聞く。うだつの上がらないポスドク生活を何年も続けていて、論文が出ずに苦しんでいる同業者もたくさん見てきた。研究は、概して困難を伴う時間がおおい。面白い研究テーマを見つけ、ポジティブデータを出し続け、仮説を証明する。仮説に裏切られることもよくあることで、実験に実験を重ね、時に才能や運と対峙しながら、ようやく一つの小さな真実に辿り着く。 研究している自分が好きなだけの人間には、コスパが悪すぎて到底耐えられない、楽しめないだろう。だからそうゆう人間は遅かれ早かれアカデミアを去って行くのだ。
小保方さんと言えば、してもいない実験のグラフを勝手にプロットしたり、顕微鏡写真を他所から拝借したりと、良識から逸脱していることを次々とやってのけた。だいたい、博士号の集大成と言える博士論文や、ましてNatureへの投稿論文ともなれば、実験の生データ画像・数値や、そのデータを取った日の出来事やその瞬間など、よりよく覚えているものだ。論文の推敲段階では目が腐るほどそのデータを見ることになるので、顕微鏡写真など細胞の配置具合まで自然と記憶に残る。足りない点を自分で描き足したり他所のデータを使い回したりしたことを、ケアレスミスでしたと言うにはとてもじゃないが説明が浅短だ。そしてこの言い訳こそ、データや実験には全く愛着がないことを証明している。
小保方さんが愛していたのはSTAP細胞ではなく、STAP細胞はありまぁすと言った彼女自身だ。そうゆう人間は決して珍しくはなくて、しかし大抵どこかの段階でしれっとフェードアウトしたり潔くコンサルにでも転職して経済的に大逆転したりするが、小保方さんはそのチャンスに出会わぬまま、まだ研究者としてはずいぶん若いうちに引っ張りだされてしまった。 寧ろ、派手な捏造をしたからこそ引っ張りだされたのだとすれば、 科学者を辞める契機を作ったのは彼女自身であり、必然であったと言えるのかもしれないが。