はてなキーワード: 博物館とは
人口数について簡単に解説したけど、そのついでというかこんな話も。
ホロコーストは誤解が多いというか、そんなに簡単でも無い話なのは間違いない。日本人にありがちな多くの誤解の一つが「アウシュヴィッツがドイツにある」というものだろう。日本人に取って縁遠い話だし、義務教育の世界史でも大して詳しく教科書に書いてあるわけでも無いから仕方ないが、ドイツ本国ではそんなに沢山のユダヤ人は殺されていないだとか、強制収容所と絶滅収容所は違うだとか、ソ連でも現地虐殺部隊(映画では例えば『炎628』は有名だが、あんな風なことが実際にあったかもしれないけど、その多くはピットを使った銃殺である。現実の現地虐殺は映画にしたら正視に耐えないだろう)でたくさん殺されたとか、細かい話をし出すと訳がわからなくなるかもしれない。
そんな多くの無理解や誤解の中でも、「ヒットラー・ナチスドイツは計画的にユダヤ人を大量虐殺した」なる言葉に対する誤解があると思う。「計画的」とあるから、何やらナチスドイツはユダヤ人絶滅のために綿密なプランを策定してから絶滅計画を推し進めたかのように捉えられがちだが、実は全然違う。むしろ、最初から計画されたものではなかったと、今ではほとんどの歴史家が同意している。昔は意図派と機能派と呼ばれる歴史家グループが盛んに論争したそうだが、最初から計画的=意図的にユダヤ人絶滅を進めたという説はこの論争に敗れ去ったようである。私個人は、ナチス内部の権力争い・主導権争いがユダヤ人絶滅を引き起こした原因だと考えているが、ユダヤ人絶滅がヒトラーの夢でもある事は間違いなかったと考える。そうでなければ、親衛隊だけでなく、ナチス全体、国防軍までユダヤ人絶滅に協力するなんてあり得なかったろうからだ。
しかし、ユダヤ人絶滅は、当初は確かに単なる支配地域からのユダヤ人の排除だった。そして当初のユダヤ人排除のマスタープランであったマダガスカル作戦がバトル・オブ・ブリテンでのドイツの実質的敗北によって実行できなくなった為、ドイツ人地域を東方へ拡大するというヒトラーの目論みと共に始まったバルバロッサ作戦、すなわち独ソ不可侵条約を勝手に破ってソ連領へ進撃すると、今度はヨーロッパのユダヤ人をソ連地域へ追放するという東方移送計画が生まれる。ところが、この独ソ戦の見通しの甘さから、最初こそ快進撃だったものの、1941年末には戦線が拡大しすぎて膠着状態に陥ってしまう。
しかし、ユダヤ人のポーランド地域などにあるゲットーへの移送(要するに狭い地域に押し込めることによる排除政策)がずっと続いため、とうとうゲットーは悲鳴を上げ始めた。で、ゲットーに集めておいて、さらに移送させるなどという面倒な事はやめて、ユダヤ人を殺すべきだ!との声が実際に上がり始めたのである。現実には、共産主義と結託していたとみられたソ連地域のユダヤ人は危険と見做され、ドイツ軍の進撃とともに、現地で絶滅させられる動きが既に始まっていたからであろう。
このような流れの中、1939年頃から既に始まっていた障害者絶滅作戦であるT4作戦を、ユダヤ人絶滅に流用する形で、ガス殺による大量殺戮が実施されていくのである。だから、毒ガスの代表格であるとされる青酸ガス=チクロンBは最初は用いられず(実験的に使用されたという説もある)、T4作戦を引き継いだ形での一酸化炭素ボンベから始まったのだ。もっとも、最初はポーランド・ポズナンでの精神障害者虐殺からスタートしたものをその辺の地域のユダヤ人殺害に転用しただけのことである。そのうちに、ガスボンベ積載車で地域を移動してガス殺を行うようになり、それがガソリンエンジンの排ガスを使えば手っ取り早いということで、本格的なガス車へと移行していく。
このガス車によるユダヤ人殺害が、その近くにあったリッツマンシュタット・ゲットーでの「ユダヤ人なんか殺すべきだ!」との声に呼応する形でヘウムノ収容所で利用されるようになっていく。こうしてまず最初の絶滅収容所であるヘウムノ絶滅収容所がガス車を持ちた形で稼働し始めたのである。リッツマンシュタット・ゲットーのユダヤ人を絶滅させるために。ヘウムノは一旦1943年中に活動を終えたのちに、1944年に短期間だけ再稼働され、トータルで15万人以上のユダヤ人が虐殺されたと言われる。
これがいまいちよくわからない。ベウジェツ・ソビボル・トレブリンカはラインハルト作戦収容所として、ユダヤ人絶滅目的だけのために建設された収容所であり、かなり計画的なものであった事は間違いない。しかし、アウシュヴィッツはラインハルト作戦の収容所ではなく、そもそも一般の強制収容所・捕虜収容所であり、絶滅の機能はあとで追加されたものであった。ではどのような経緯で絶滅収容所に設定されたのか? これが司令官だったルドルフ・ヘスの証言の中にしか出てこない話で、ヘスは記憶を誤って証言したりしており、はっきりしない。最初のガス室はアウシュヴィッツの基幹収容所で始まったのであるが、最初にガスで殺されたのは、1941年当時大勢いたロシア人捕虜だった。だが、この時確かに毒ガスを、アウシュヴィッツでは他の絶滅収容所とは違ってチクロンBで行くと決めたのである(チクロンB自体はマイダネク収容所も使っていたが、マイダネクでは一酸化炭素ガスやガス車もあるようで、これについては実態が不明瞭ではっきりしない)。
そして、アウシュヴィッツ・ビルケナウで本格的なガス室によるユダヤ人大量虐殺が始まったのは、実はアウシュヴィッツ基幹収容所のガス室(観光用に公開されているガス室)でもなければ、有名なビルケナウのクレマトリウムでもなかった。ビルケナウの敷地外にある農家を改造した、日本語ではブンカーと呼称されるガス室からだったのである。このガス室は二箇所あったが、一箇所は既に影も形もなく、もう一箇所はほんの少しだけ土台を残す程度であり、おそらく一般にはあまり知られていないだろう。ここで、おそらく1942年3月頃から1943年3月頃の一年の間に15〜20万人程度のユダヤ人が虐殺されたと考えられる。なお、同時に基幹収容所の第一火葬場のガス室も使われていたようであるが、ここでは併設の火葬炉を死体処分に使っていたのだが、この火葬炉の数が少ししかなかったため、一度のガス室での殺害人数の少なさや焼却処理能力に問題があり、毎日使うなどは全く無理であり、トータルで一万人もガス殺はされていないと言われている。このガス室は1942年末で使われなくなった。
では有名な、ビルケナウのクレマトリウムはどうだったのか? 実は当初はこのビルケナウのクレマトリウムにはガス室は設定されていなかったのである。元々は純粋にビルケナウの囚人用のために設定された火葬場であり、のちにガス室となる場所はただの死体安置所であった。これが、どうしてガス室に変わったのかは、事情は複雑である。この謎については、実際にはとっくの昔にルドルフ・ヘスが自伝にその理由を書いていたのだけど、細かく解き明かしたのは、1989年に発表されたJ-C-プレサックという薬剤師(プレサックは当初はホロコーストを題材にしたSF小説を書こうとしていたのである)による『アウシュヴィッツ ガス室の操作と技術』である。
ヘスは自伝で、ブンカーのガス室殺害遺体は、最初は単に近くにピットを掘って、埋めていただけだと書く。ところが、この大量遺体の埋葬が衛生的な問題を引き起こしたので親衛隊トップのヒムラーの命令で、アウシュヴィッツを含めた各地の大量埋葬地の遺体をもう一度掘り起こして、焼却処分することになった。だがアウシュビッツでは焼却の始まる夏の終わりまでに10万体もの遺体を埋めていたため、これを焼却し切るには昼夜を問わず延々と焼却をし続ける必要があった。これが問題化する。夜でも煌々と光る焼却の炎は何キロも離れたところから見えるほど目立ち、ものすごい煙で悪臭が周辺数キロにまで漂い、地域住民は全員がアウシュヴィッツで大量殺戮を知ってしまう事態へと発展してしまう。すでにある程度はガスによる大量虐殺の情報は外部へ漏れてワルシャワの地下組織などに伝わっていたが、この焼却はなんとニューヨークタイムズで報じられるまでになってしまう。
実は、ビルケナウのクレマトリウムにガス室を併設する案は、これが原因だったのである。野外焼却をこのまま続けるのは秘匿性の観点で問題がありすぎるので、ビルケナウの焼却場で遺体焼却を行い、それなら基幹収容所のガス室同様、焼却等に併設してしまえということになったのだと考えられる。そして、ソ連やアウシュビッツ博物館の資料から大量の図面を入手していたプレサックは、クレマトリウムに重大な設計変更がなされていることを見抜く。1942年の夏頃の図面にはあったはずの地下死体安置所に死体を下ろすための死体シュートが1942年12月19日の図面から消え去っていたのだった。これはどう考えても、死体が地下へ自分の足で降りていくことを意味するとしか考えられない、とプレサックは自著に記述したのである。他にも、死体安置所の扉は内開きだったのが外開きに変更されていたり、その後の図面では外開きの一枚扉に変更されていたりと、結論としてプレサックは、やはり多くの証言どおり、図面には死体安置所としか記述されていないそこは、ガス室である事は間違いないと決定付けたのだった。なお、証拠はそれだけではないのだがややこしくなるのでここでは省く。
修正主義者達はどんなことがあっても、ガス室だけは絶対に認めない。知恵の限りを絞り尽くしてでも、ガス室を否定する論拠を導き出し、それがどんな出鱈目でも採用しようとする。有名なアルフレッド・ロイヒターなる死刑技術コンサルタント(当時彼1人しか全米にいなかった)がカナダの修正主義者、エルンスト・ツンデルの扇動罪に関する裁判で、有名なロイヒター報告を裁判に提出した(しかし裁判所から証拠採用されなかった)。曰く、アウシュヴィッツのガス室とされる場所の採取サンプルを分析すると、極めて微量のシアン化成分しか検出されず、ガス室などなかったと結論付けられると。「極めて微量」というのは、チクロンBの合法的な使用方法である害虫(疫病を媒介するシラミ)駆除をしていた害虫駆除室のサンプルと比較して、という意味である。しかし、これは分析のルール違反であった。なぜなら、害虫駆除室と殺人ガス室におけるチクロンBの使い方は同じガスを使うというだけで全く異なる使用方法であり、さらに、害虫駆除室はガス処理は二十四時間が基本(ガス殺は1日あたり一回で30分程度)、その使用状況の違いから害虫駆除室ではプルシアンブルーという極めて安定したシアン化合物を生成しており(殺人ガス室にはなく、通常の壁表面などに浸透したシアン成分は安定度が低く、水などで大半は洗い流されてしまう)、これをロイヒターはサンプルにしているのだからほとんどインチキなのである。なお、余談的ではあるが、このロイヒターのアウシュヴィッツにおけるサンプル採取は完全に違法であり、無許可である。その上、ロイヒターらは入ってはいけない施錠された部屋の施錠を勝手にぶち壊したりして入ったりもしており、無茶苦茶であった(それをあろうことかロイヒターのチームはビデオに収めて堂々と公表しているのだから呆れてしまう)。
その数年後に、ポーランドのクラクフ法医学研究所がアウシュヴィッツ博物館側の正式依頼でロイヒター報告に対する対抗調査を行なって、プルシアンブルーを除外した上で分析した結果、殺人ガス室であると断定できる濃度のシアン成分を殺人ガス室から検出している。しかし、修正主義者は、クラクフの調査方法の方がインチキであるとして全く譲る気配はなかった。ともかく、修正主義者は、ほんとに知恵の限りを絞り尽くしてでも、そこはガス室絵ではなかったという結論を無理からにでも捻り出して、断じて認める気配はない。プレサックの死体シュートの話だって、実際には設計変更が工事の進捗状況に間に合わず、死体シュートが作られてしまっていたことを理由に「死体シュートはあったのだから死体シュートは実際に使われたのである」などと、設計変更のことを無視したりしている。だが、その死体シュートが使われた証拠は何もない。
そう簡単な話でもないという事は少しは理解してほしい。もしホロコーストを勉強したいのなら、修正主義なんかから入らず、まずは普通のホロコースト関連書籍を読むべきである。どうしてユダヤ人迫害がホロコーストに発展してしまったのか、あの時代はどんなことがあったのかなど、先に歴史を学ばないと、修正主義にコロッと騙されると思う。ガス室ひとつとっても、述べたようなさまざまな経緯の中で成立したものなのであって、予断を可能な限り廃して、普通の真面目な歴史学者・研究者達の記述内容に従うべきだろう。
その割には、アウシュヴィッツで死んだユダヤ人の数は、600万人から300万人に減らされ、今はドイツ国公式見解は100万人ということになっているが、その実態は10万人である。
なぜ600万という途方もない数字が出たのか回答していただけないだろうか?
強烈に誤解されることの多いホロコーストにおけるユダヤ人虐殺数。
600万人と言う数字にどうしても目が行ってしまうため、その途方もない数字に信じ難いと言う気持ちが起きるのでしょう。ちなみに、「アウシュヴィッツで死んだユダヤ人の数は、600万人から300万人に減らされ」や、「ドイツ国公式見解(何それ?)100万人」だとか実態が「10万」なんてどこから出てきたのか知りたいところですが、まぁそれはいいでしょう。一応全部間違いです、そんなの聞いたことありません。
先に、私は研究家でもなんでもなく、本やら様々なネットの情報(海外サイトが主)を色々と調べ回っただけの知識しかないと断っておきます。
どうやって600万人と言う数字が出てきたのか。
これはまず、ナチスドイツ内でアイヒマンが語っていたとされる数字として、ニュルンベルク裁判である親衛隊将校が語りました。それによると「収容所で400万人、それ以外で200万人」という数です。これが最初に出た600万人ですが、実は別にニュルンベルク裁判では判決で触れられているだけで、別に認定などされていません。また、ニュルンベルク裁判起訴状に「570万人のユダヤ人がヨーロッパから消えそのほとんどがナチスに殺された」なる文言がありますが、これもまた別に認定などされていません。
そして、裁判以外で、1950年頃から人口統計学者によって600万人や550万人以上のユダヤ人人口が失われていると計算されるようになります。で、今度は歴史家ジェラルド・ライトリンガーの方から「反ユダヤ主義を意識して」極力最低限の数字を計算し419〜458万人という数字を弾き出します。以降、有名な『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』の著者であるラウル・ヒルバーグが1961年に510万人という数字を弾き出しました。
以降様々な研究者が発表してきましたが、概ねの間違いない数字としてはユダヤ人600万人説が変わったことは実際一度もありません。以上のように、例えば「ニュルンベルク裁判で勝手に決められた数字」であるとか、「イスラエルの公式数字である」とかは全然違うわけです。おそらく適当な数字は一つも無く、近年は非常に膨大な資料を用いて推計しているようです。
ではあのアウシュビッツは? というところですが、アウシュヴィッツについては最初は基本、二つの数字から始まります。何故二つあるかというと、その出所が違うのです。一つは、よく言われる400万人説です。これはソ連の0018-USSRと呼ばれる戦争犯罪調査委員会の報告書(1945年5月)です。ここに、400万人という数字が登場しますが、この数字は報告書上は火葬能力からの推計値と書かれていますが、それはあり得ないと言われています。火葬能力があり得ないのではなく、火葬能力で推計値を出すということ自体があり得ないわけです。問題は実際に殺した人数だからです。では一体どこから400万人説が実際に出てきたかというと、それはおそらく火葬場で働いていたユダヤ人ゾンダーコマンドの生存者の証言です。その中に400万人説が出てくるのです。おそらくソ連はそれを聞いて、火葬能力など何も調べずそれっぽく推定したかのように書いたのではないかと思われます。しかし、奴隷労働をしていたゾンダーコマンドが正確な数字を知るはずもなく、単に囚人同士で噂話のように推計していただけの数だと思われます。
ところが、1946年3月に、逃亡していたアウシュヴィッツ司令官だったルドルフ・ヘスが逮捕されます。ヘスはニュルンベルク裁判の証人になったときの証言で「250万人を殺害し、50万人は病死や餓死でなくなった」と証言したのです。ところがこの250万人という数字は実際にはヘスが現場で知った数字ではなく、アイヒマンに教えてもらった数字だと答えています。何故なら、犠牲者数の数を記録することを許可されていなかったのです。ただしヘスは司令官なので、それなりに犠牲者数の実感は持っていたようで、250万人は多すぎると自伝に書いています。
なので、アウシュヴィッツの犠牲者数は、最初はこの250〜400万人説からスタートしたのです。が、実際にはすぐにこれは多すぎるとわかっていました。何故ならば、研究者によると、アウシュヴィッツへの囚人移送記録が出発駅や経由駅などにたくさん残っているので、それをもとに計算すると、いくらなんでもそんなに大勢のユダヤ人が移送されたはずがないことが明らかだったそうです。それで、前述したライトリンガーなどは80〜90万人だろうとし、ヒルバーグは100万人とします。で、現在の数字は、アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館の主席研究員であったフランシスゼク・ピーパー博士による研究成果として、110万人(ユダヤ人以外も含めて150万人)の犠牲者が出たとされているのです。
以上の通りなので、例えば「以前はアウシュヴィッツの公式プレートは400万人だったのに今では110万、なのに何故トータル600万人が変わらないのか?」が誤解であることはお分かりいただけるかと思います。そもそも600万人の数字計算の中に400万人説は含まれていないからです。
それ以外の収容所の犠牲者数の細かい計算方法は存じておりませんが、最もわかりにくいのがソ連(ウクライナやバルト三国など)でのいわゆるアインザッツグルッペン、移動虐殺部隊を主体とした現地殺害による虐殺数で、広い範囲でたくさんの場所で細かな殺害が行われたため、いまだによくわかっていないそうです。概ねの数字で言えば100万人から200万人の間だろうとされてはいます。
さて、もちろんこんな数字、修正主義者達は全く否定しております。はっきりした数を言わないのが修正主義者で、ないとも言っていません。修正主義者達は、人口調査すら自分達でした気配もありません。たまに適当なことを言って「600万人などあり得ない!」と主張するに留まります。でも、大勢のユダヤ人が移送されたことは認めているのです。で、どっかに殺されずに消えたんだと。私には修正主義者が何を言っているのか意味がわかりません。修正主義者は、例えばアウシュビッツであるとか、トレブリンカ・ソビボル・ベウジェツなどのいわゆる絶滅収容所を絶滅収容所とは認めず、「通過収容所」と読んでおり、そこまで移送されたことは認めるのに、その通過収容所から先を言いません。言ったとしても「ミンスクへ1000人移送されたことはわかっているから通過収容所であることは間違いない」であるとか、その程度です。実はこのことが、修正主義者の最大の問題であり、修正主義者達はこの件の答えを常に誤魔化していますが、絶対にはっきりしたことはいいません。もちろん一般の歴史家は全員が「虐殺された」です。
ともかく、それら犠牲者数の数字は、色々な人たちが様々な資料を検討した上で推計した数字であって、別に適当な数字を言っているわけではありません。中にはよくわからない計算方法で算出している人もいるかもしれませんが、一般に言われている数字は全て研究者達が推計した数字です。ですから、別に誰も数字を盛ったりしていることもありません。
なお、最新のユダヤ人人口統計でさえも、ユダヤ人人口数は第二次世界大戦中の最大値を回復しておりません。ともあれ、戦後様々な推計結果はあったとはいえ、概ね600万人という数字は一度も変わったことはなく、最近でもそれはありません(リビジョニスト達はしょっちゅう「600万人説は既に信じられていない」だとかのデマをばら撒いていますがね)。実は、ユダヤ人人口を把握している元は、ユダヤ人の教会みたいなシナゴーグなのです。シナゴーグなしにはユダヤ教はあり得ないので、シナゴーグの管理しているユダヤ人数を集計すれば自ずとユダヤ人の数はわかるのです。もちろん近代的には国勢調査で把握される宗教別人口もありますが、昔は主にシナゴーグ集計を使っていたようです。ですから、戦前などの場合は、ユダヤ人協会に聞けばわかったので、ナチスもそれを元に殺すべき人数を知っていたわけです。
ーーーーーー
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/17/020800002/021400005/?P=2
「間違った心理学で、男性がこう、女性がこうとか、世の中ではよく言われていますね。例えば、男女の脳の違いとして、男性の方が左右の脳の連携がよくないとか。これには、元になった論文がありまして、1982年に『サイエンス』誌で発表されています(※)。男女それぞれ、脳梁の太さを測ったら、女性のほうが太かったと。でも、この論文のデータは男性9人、女性5人からしかとってないんです。それだけで、女性のほうが左右の脳の連絡がよくできてるっていう結果にしている。そもそも信頼性がないし、その後、いろいろな研究者が再現しようとしたんだけど、結局できてません。今さすがにこれを信じている脳科学者はあんまりいないんですよ」
現在の知見では、少なくとも形態上、男女の脳に違いはない、ということになっているそうだ。しかし、「男女の脳」「脳梁」といったキーワードで検索すると、驚くほどたくさんの結果がヒットして、「脳梁が太いから女性はおしゃべりで、感情的」みたいなことが平気で書いてある。
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-736.htm
▼ 女丁持:庄内米歴史資料館
http://www.city.sakata.lg.jp/bunka/bunkazai/bunkazaishisetsu/syounaimai_siryoukan.html
イルクーツク国立研究技術大学(IRKUTSK NATIONAL RESEARCH TECHNICAL UNIVERSITY)の考古学者らが14世紀に住んでいた30歳~40歳の女性戦士の墓地を、
今夏にフブスグル県で発見した。オルドヒャル1号という発掘ゾーンから当時の女性より体格が大きく、つまり高さ180センチの女性戦士の墓が発見された。
女性を男性と同様に武器と共に葬っていた。調査団団長のアルトゥール・ハリンスキー教授は「モンゴルのアマゾンとも言えるこの女性の男性を勝ち抜ける力持ちだった」と話している。
大きな体格の女性をロングナイフと、斧、弓、銅のボール等の武器と一緒に葬っているのが非常に稀なケースだという。
戦士女性は戦争による負傷痕はなく、重症により死亡したのではと推定されている。女性の歯がほぼ全部落ちており、歯根に生じた穴が顎骨までに進んでいた痕がある。
考古学者らは骨盤と顎に形から女性だと予測し、遺伝調査により判定するという。
ロシアの考古学者らは女性戦士の墓のほか、オルドヒャル2号の発掘ゾーンからもう一つの富豪の女性の墓を発見した。
その女性の墓からヨーロッパ製のアクセサリーが見つかった。学者らは西ヨーロッパ戦争から帰ってきた夫から恋人に与えられた戦利品だった可能性が高いと、
ハリンスキー教授が結論付けている。今回の発掘調査にはモンゴル側からウランバートル大学の教員と学生のチームが参加した。
[MONTSAME] フブスグル県から女性戦士墓地、発見
https://montsame.mn/jp/read/221297
1.ジョージ・ワシントン(1789~1797)(無所属)
合衆国建国の父の一人。フランスとの戦争を回避した。移民法と治安法に署名
合衆国建国の父の一人。フランスからルイジアナを買収した。出港禁止法により対英戦争の回避に尽力した。
4.ジェームズ・マディイソン(1809~17)(民主共和党)
憲法の父。大統領としての初の宣戦布告をし、米英戦争を起こした。
5.ジェームズ・モンロー(1817~1825)(民主共和党)
合衆国建国の父の一人。奴隷制を巡るミズーリ協定を制定。スペインからフロリダを買収。モンロー宣言を発表し、孤立主義を打ち立てた。
6.ジョン・クインシー・アダムズ(1825~1829)(民主共和党)
関税法の設立、軍の巨大化などを試みるもジャクソンらの激しい妨害に遭い大した功績を残せなかった。大統領就任前は外交官として活躍し、米英戦争の終結、モンロー宣言の起草などに貢献した。
7.アンドリュー・ジャクソン(1829~1837)(民主党)
白人男子普通選挙制、地方の役人を自らの支持者で固める猟官制を確率。インディアン移住法を制定し、激しい弾圧を行った。大統領就任前から軍人として活躍し、米英戦争やセミノール戦争でインディアンを虐殺した。
8マーティン・ヴァン・ビューレン(1837~1841)(民主党)
オランダ系。任期中に1837年恐慌が発生した。更にアルーストック戦争、キャロライン事件で対英関係に緊張が生じた。
9.ウィリアム・ハリソン(1841)(ホイッグ党)
就任後わずか31日後に肺炎で死去。就任前はティカピヌーの戦いでショニー族を破ったことで名高かった。
米墨戦争に勝利し、広大な領土を獲得した。スミソニアン博物館、海軍士官学校を設立した。米国史上最低の関税の一つであるウォーカー関税を設立。
12.ザカリー・テイラー(1849~1850)(ホイッグ党)
任期中にカリフォルニア・ゴールドラッシュが発生し、奴隷制を巡る対立が激化した。
13.ミラード・フィルアモ(1850~1853)(ホイッグ党)
1850年の妥協により、南北対立を一時的に回避。日本にペリーを派遣した。
カンザス・ネブラスカ法を支持し、北部から強い反感を買った。オステンド宣言を発表し、スペインからキューバを奪おうとするも失敗。
15.ジェームズ・ブギャナン(1857~1861)(民主党)
16.エイブラハム・リンカーン(1861~1865)(共和党)
南北戦争を勝利に導いた奴隷解放の父として知られるが、実は奴隷解放には消極的であり、インディアンに対しても激しい弾圧を行った。
17.アンドリュー・ジョンソン(1865~1869)(民主党)
合衆国の再建を担ったが、奴隷制を支持したため、議会と激しく対立した。
18.ユリシーズ・グラント(1869~1877)(共和党)
南北戦争で北軍を勝利に導いた英雄であったが、在任中は多くの汚職事件が発生し、米国史上最悪の大統領とも評される。
19.ラザフォード・ヘイズ(1877~1841)(共和党)
南部に駐在していた北軍を撤退させたため、黒人差別が再び激化した。1877年の鉄道ストライキに対しては連邦軍を派遣して鎮圧した。
20.アンドリュー・ガーフィールド(1881)(共和党)
就任後4ヶ月後に銃撃され、その2ヶ月後に死去した。
21.チェスター・アラン・アーサー(1881~1885)(共和党)
22.クロバー・クリブラント(1885~1889)(民主党)
州際通商法により鉄道運賃を規制。公約であった保護関税の引き下げには失敗した。
23.ベンジャミン・ハリソン(1889~1893)(共和党)
シャーマン反トラスト法、高関税マッキンリー関税などを制定した。
24.クロバー・クリブラント(1893~1897)(民主党)
再選された。1893年恐慌の解決に失敗した。プルマン・ストライキなど反政府デモや労働運動には激しい弾圧を加えた。
25.ウィリアム。マッキンリー(1897~1901)(共和党)
金本位体制、ティングレー関税法を制定。米西戦争に勝利し、フィリピン、グアム、プエルトリコを獲得した。ハワイも併合した。中国に対しては門戸解放を主張した。
26.セオドア・ルーズベルト(1901~1909)(共和党)
独占禁止法を制定。中米に対しては棍棒外交を展開した。自然保護に尽力した。日露戦争を調停したことから、ノーベル平和賞を受賞した。
28.ウッドロー・ウィルソン(1913~1921)(民主党)
29.ウォレン・ハーディング(1921~1923)(共和党)
ワシントン会議を開催。内政面では富裕層を優遇した。在任中に多くのスキャンダルが発生した。
30.カルビン・クーリッジ(1923~1929)(共和党)
31.ハーバード・フーヴァー(1929~1933)(共和党)
32.フランクリン・ルーズベルト(1933~1945)(民主党)
ニューディール政策により不況を脱した。中米諸国に対しては善隣外交を展開。日本への石油輸出を禁じて、太平洋戦争を引き起こした。
日本に原爆を投下した。NATO、CIA、国防総省、NSAを設立。共産主義に対しては封じ込め政策を実施。朝鮮戦争に参戦。
34.ドワイト・アイゼンハウアー(1953~1961)(共和党)
封じ込めよりも強硬な巻き返し政策を提唱。武力行使すら辞さないとしたアイゼンハウアー・ドクトリンを提唱した。
アイルランド系カトリック。キューバ危機に対処し、核戦争を回避した。宇宙開発にも力を注いだ。ニューフロンティア政策に基づき、公民権運動に積極的であった。
「偉大な社会」を唱え、公民権法を制定した。ベトナム戦争に参戦し、泥沼化させた。
37.リチャード・ニクソン(1969~1974)(共和党)
ベトナムから撤退、ソ連、中華人民共和国を訪問し、緊張緩和を進めた。金とドルの交換を停止した。
38.ジェラルド・フォード(1974~1977)(共和党)
前大統領に引き続き、デタントを推し進めた。在任中に日中貿易摩擦が生じた。
人権外交を展開し、パナマ運河の返還、第四次中東戦争の仲介、米中国交正常化を果たした。
「強いアメリカ」をスローガンに福祉削減、減税などを行った。レバンノン出兵、グレナダ侵攻など強硬な対外政策を展開した。
レーガンの政策を継承。マルタ会談で冷戦終結を宣言。湾岸戦争でイラクを破った。
42・ウィリアム・クリントン(1993~2001)(民主党)
オスロ合意、ベトナムとの国交回復、ボスニア和平などを実現した。反面、多くのスキャンダルに悩まされた。
43.ジョージ.W.ブッシュ(2001~2009)(共和党)
同時多発テロを契機に「テロとの戦い」を主張、アフガン攻撃、イラク戦争に踏み切った。
今日はお横浜旅行ですわ!マンボウだからセーフですわ!県内だしセーフですわ!
まずはランドマークタワーに向かいましたわ!昔からバカとわたくしは高いところが好きと決まっていますわ!みなとみらい駅から行ったらなんか回りの駅に埋もれててショボいタワーじゃありませんこと?って思いましたが上がっていったらなかなかちゃんと高かったですわ!帰りに遠くから見てもきちんと高かったですわ!
肝心の景色はめっちゃ白かったですわ!まあ雨なので仕方ありませんわ!なにやら七つの大罪とコラボしているようでしたわ!
七つの増田大罪、パンティー、うんち等々の一角にとんかつが入るようにがんばりませんわ❗
スカイツリーも富士山も見えませんでしたが下を見れば景色はちゃんと見えましたわ!次の目的地を確認してタワーを後にして道に迷いましたわ!
なんかロープウェイの横道を通ってカップヌードルミュージアムに行ったら整理券が2時間後とかだったのであきらめましたわ!
お隣の横浜ワールドポーターズの4階でやっている期間限定水族館、アクアリウム アンダーウォータースペースへ行きましたわ!
鯖はいませんでしたわ。おしゃれ水族館の末路的なやつでしたわ!てかこれ系だいたい同じような感じだけど全部同じ人がやってんのですわ?薄暗くて説明文もなく(今回は名札も無し)どうにもですわ!でも某金魚のように過密すぎではなかったですわ!金魚も行ったの昔だし今はどうなってるかわかりませんですわ!
そして本当の目的地に向かいましたわ!でも、でもですわ!見つけてしまいましたの!シルク博物館を!!ですわ!!!
シルクと聞いたらシルクロードよりもパンティーが先に出てくる訓練された増田民としては行かざる得ませんでしたわ!
蚕が飼われてましたわ!
展示にはパンティーはありませんでしたがお土産にはショーツが!わたくしの中の関西のおっさんがこれは買いですわと囁きましたがスルーしましたわ!
そして隣のビルでやってるEXOTIC REPTILE EXPOに行きましたわ!
めちゃ混みやん……
てか狭いのがいけませんわ!
サンドフィッシュスキンクを4匹とアズマヒキガエルを買ってすたこらさっさでしたわ!
帰りは横浜駅のかつ久無庵でとんかつを食いましたわ!なんか低温でやるから少し時間がかかるとかなんとかでしたわ!ロース170グラムにしましたわ!うまかったですわ!
ライフワークとして撮影してUPしているおじいちゃんたちいるぞ
blog全盛期はそれに至った背景や地域の歴史(真面目に郷土博物館や貸出禁止の図書から得た知識や写真)を
blogに書いてくれてたりしたがblogがどんどん死んでしまったからね
いまはTwitterに写真をUPと一言二言の世に向けた祈りだけだね
なんか先人(おじいちゃん・おばあちゃんたち)の苦労を無駄にしている気持ちになる
シリアスな場面を切り取ってるだけでどこにでもいる普通のおじいちゃんなはずで
普段はどうしようもないことに笑ったり・怒ったりしてるはずなんだけど
この作品の作者は基本的にはタイムリープと人の人生を変える、救うという組み立てを使いたがります。この起源を求めると際限がなくなりますが、とりあえずのところ『シュタインズ・ゲート』に求めることができると思います。多くのタイムリープものが変えることによって世界を悪化させるのではなく、変えることによって人々を救うという物語になりがちです。そして、この究極的な選択がすべての人間を救う、という選択肢でした。この前例として宮崎駿の『風の谷のナウシカ』などが思い浮かびますが、宮崎駿自身が悩んで重苦しくなったテーマをそうそう扱えるはずもありません。聖女が一人で世界を背負う、その行く末に待ち受けるのは、聖女の自己犠牲にほかならないからです。実際作品はVivyの犠牲によって世界が救われています。ちなみに宮崎駿はこの悲劇的な終末を原作、映画ともに避けています(ナウシカは戦う女であると同時に、正常な自尊感情と他者尊重の感情が成長によって獲得された人物であるという立場からだとは思います)。
世界のすべてを救うというテーマの割に、Vivy自身が「心を込めて歌う」ことに最後まで躊躇があった、あるいは無理解があったという点で感情移入のファクター一つが阻害されました。彼女はあくまでも人間に近いなにかであったという点で突き放されてしまったのです。第二に、視聴者に伝えるべき人物がダイジェスト扱いだった点が挙げられます。早々と空港で爆死してしまうモモカ、長い人生の経過を博物館とのやり取りで済ませてしまうVivyとマツモト博士(以下、オサム)。特にオサムに至ってはうディーヴァとして保管されていたVivyに恋愛感情を懐き、やがて悩みの時期に入ると母代わりになり、そして自身も伴侶を得ると良き人生の相談相手となる非常に重要な役割を持った人物でした。しかし肝心のオサム登場回は二~三話程度です。実際のところ作者がどう泣いてほしかったのかといえば、このもっともVivyを愛している人物に事実上の自死を強要し、またオサムのなすべき全AIの停止を命じなければならなかったところです。二者択一の苦しみの中にオサムはあったということですね。しかしこれはあまり上手に伝わっていません。個人的に別所で24話構成にすれば解決しただろうと書きましたが、おそらく根本的にそういう問題ではありません。
この内メインとなっているのはエステラやオフィーリアといったAI対AIのあり方に関するものです。これはいわゆるSF的な考察ではなく、人物相関として見るべきものです。AIとAIが関わるシーンが多いにも関わらず、Vivyはその他の人間も救おうとしています。こうなるとどうなるかといえば、人間と同類のAIに感情の殆どが持ってゆかれ、かつ最重要人物のオサムのエピソードが不十分になるばかりか、トァクの背後も語りきれなくなる、ということです。しかし作者的にはAIがインフラ以上になってしまった世界を描きたかった節も感じられます。でなければAIとAIの関係性をメインにもってきません。そればかりかAIを狂わせ、利用しておかしな世界にしているのは人間であるという業も人間側に押し付けています。これはつまり、AIという善悪を取り払った像から人間という醜くも美しい存在を浮彫にしたかった、という心象が背景にあると見てよいと思います。
この場合、AIとAIの物語である、という構造を減らして、人間とAIの関わりを増やすべきでした。なぜならVivyは最後の最後まで歌うことに対して逡巡していましたし、人間とAIの関係のみならAIと敵対する人間、支持する人間、利用しようとする人間という様々な角度がより深く追求できたはずです。さらには人間との関係性や対話が濃密であればあるほど視聴者はVivyの成長も理解できるようになります。
Vivyは物語の中である絶望感に襲われて、具体的には冴木教授の自殺によって一度フリーズします。この現象は上述の項目にかかっています。すなわちVivyはAI対人という構造で人を救いたかったわけではなく、全人類及びAIすら本心では救いたかった、というものです(他所ではモモカの死が重なったされていますが、話の根幹から切り取ると作品の意図としてこうなる、という話です)。Vivyは常々手の届く範囲は全て救おうとする存在でした。したがってVivyは無機質な感情を持つアーカイブのみが理解できない存在であり、その他のシンギュラリティを達成しているAIに関しては人間と同様の扱いに終止していました。これは作者の意図によるところです。作者は最初からVivyを聖女に仕立て上げたかったわけで、大きな風呂敷の中で終盤を終わらせるつもりだったはずです。その中身こそが「全てを救いたい」というリゼロでは成立しにくかったテーマです。もっとも結果として人間を選択してAIを切り捨てていますが、この辺への苦言は終盤にてナビがフォローしています。
前述の人間対AIという構図を増やし、全てを救うのではなく苦渋の決断でAIを停止させるという感情面の描写がより鮮明に描かれるべきでした。これは本来オフィーリアとアントニオの事件のときに行われるべきでしたが、彼らの背後には柿谷が関わっていたため、純粋にAIの悲劇を描きにくかったように思えます。結局AI対AIという構図を減らしてワンクールで収めるべきでした。
実はメッセージ的にはやれることはやっています。例えば先程の人間の業故にAIは悪にもあるし善にもなる。それを処断すべき存在がアーカイブであったという話、オサムが二者択一及び悲劇的な立場にあったという話。AI反対派の柿谷がやがて孫の代になってVivyと協力するという大河ドラマも盛り込んでいます。聖女であるVivyがその使命を最後までブレずにまっとうするという面も全てです。むしろ盛り込み過ぎと言うべきでしょう。しかし逆に言います。12~13話は約5時間ですので、映画一本分と思えばやれないこともないはずです。ではどうすればよいかといえば、感情表現をすべてセリフで済まそうとするのではなく、シーンで伝えきる技術をより先鋭化すべきかと考えます。僅かな感情のやり取りだけ、沈黙だけで意図が理解できるようにすべき、ということです。もっともこれは監督の仕事ですが。
Vivyがあまりにも完全無欠の善人として描かれすぎているように思います。この時代のAIは少なくともシスターズに至っては人間レベルですから、人間のように不義に逆上する場面があり、その過ちを反省する未熟さもあってしかるべきです。こうした人間的深みの一部がVivyから欠落しているがゆえに感情移入の一つを失ったことは、すでに前出で言及しています。
リゼロとローリングガールズだけ知ってますが、たしかに関わったものを見るとサスペンス系が多いように思えます。かみ合わせ的にどうだったんでしょうか。脚本本数が少ないのでこれからなんでしょう。
SFサスペンスとしてSFの屁理屈や言い訳を物語を紐解く推理として捉えられる層と、物語全体の展開を見る層、キャラ萌えする層、旧来のファン層に分かれちゃったからです。わたしは上から二番目です。
いいんですよ。怪獣が四次元から投射されてるとか特異点自体が計算機になる理屈があっても。でもそれメインだと映像では厳しい。そこがすべての人は超楽しかっという。でも楽しんだ観点も間違ってないと思ってます。楽しかった感情までどうこうできる権利もないので。
「東京23区立図書館の、図書館数と図書館密度のランキングです。」
https://tokyo-toshokan.net/00000590.htm
「いやいや、今更ながら、東京は恵まれていますね。1位文京区の『1.13平方km/館』という数字は、1館のカバーエリアが半径600mってことですよ。徒歩が時速4kmとして考えて、徒歩9分以内に図書館が1つあるという計算。23位となってしまった江戸川区だって、『4.16平方km/館』は1館のカバーエリアが半径1.15km。計算上、徒歩17.25分以内に図書館が1つあることになります。最下位の密度の区でも計算上は20分かかりません。」
自分が育った町には図書館がなくて、学校に入る前は県庁所在地の市まで行かないと図書館に行けなかった。本当に東京が羨ましい。
今は電子書籍が普及して日本全国簡単に本が手に入るとは言われても、それはあくまでお金を出して本を買う場合のみ。無料で読み放題できる図書館とは別物だ。
勿論図書館は単なる例であって他にも美術館博物館や各種催しやそれ以前の文化的な雰囲気の醸造など、子供を育てる上では全てにおいて東京が優れている。それはたとえ底辺の区とされる板橋区や荒川区だって同じだ。
よっぽど子供を虐待したいのでなければ、地方で子供を産んではいけないと思う。
地方で子供を産むのは駄目だよ、採るべき選択肢は地方で独身か東京で子持ちか、東京で独身か、のどれかだけ。あと選択子無しならば東京でも地方でもどっちでもいいと思う。
これわかるけど、日々の暮らしが都会の狭い範囲になってて食べ物とかルーチン化してて貧しくもないけど、監獄暮らしみたいなものだからな。処方箋は、アウトドアで運動することとか旅行することとかおすすめだけど、それが出来なくてハードル高いんだよね・・・
たぶん、空気の良いところでダイビングとかカヌーとかSUPとかやって、海鮮定食たべて風呂入ってフカフカの布団で寝たら、
日本良いな、面白いな、ご飯美味しいな、一緒に来てくれた人良い人だなってなる。
体力要らない趣味としては、年寄趣味をやれば体力はあまり要らない。城巡りとか神社仏閣巡りとか、美術館博物館巡りとか、庭園巡りとか。城巡りも、戦国ゲームとかある程度やってから行くと親近感が全然違うのでお勧め。
違うよ、全然違うよ。
米国西海岸を支配しているのはリベラリズムなんてチャチなもんじゃない。もっと過激な左派思想だよ。
ソーシャル・ジャスティス・ウォリアー(Social Justice Warrior)、ウォーキズム(Wokeism)、文化的マルクス主義(Cultural Marxism)、批判的人種理論(Critical Race Theory)等、色んな名前で呼ばれてるよ。
まず、以下の画像を見てほしい。
https://texashousers.org/wp-content/uploads/2019/02/img_1088.png
平等性(Equality)、つまり皆を平等に扱うと、能力や境遇の有無で格差が生まれ、逆に公平性(Equity)の下では、この格差をベースに権利や境遇が配布され、皆が同じラインの上に立てる、という考えだ。
今ではこの画像が学校の教材として使われるくらい広く浸透してる考えとなっている。
一見とても理にかなってるように見えるけど、この思想には大きな問題がある。「格差」の基準は何なのか。誰がどうやって決めるのか。
画像だと身長という視覚的に分かりやすい格差として表現されてるけど、現実だとそうはいかない。各個人で抱えている境遇は多種多様で、誰がどれだけの社会的恩恵を受ければいいのかを決めるのはとても難しい。
はずだった。
でも連中はその基準を単純化するために、露骨な差別主義に走った。
まず大前提として「社会はシス白人男性が作り上げたものであり、彼らが有利になるようになっている」という考えがある。
これをアーキタイプとし、「女性」「LGBT」「マイノリティ」等の属性が付け加えられる事で、その人の社会的格差が決定される。そして社会的格差が大きい人ほど社会における発言権も強いとされる。
シス白人男性よりもLGBTの白人男性の方が発言権が強いし、LGBTの白人男性よりもLGBTの黒人男性、LGBTの黒人男性よりもLGBTの黒人女性、といった具合だ。
この中でもとりわけ「人種」に対する考えが過激で、まず最初に「白人は生まれながらにしてレイシストであり、これを撤廃する事はできない」とされている。その扱いはキリスト教における「原罪」に近いと言える。
そして黒人等のマイノリティはこのレイシストな白人どものための社会に生きているため、普通に暮らしていると絶対に成功する事はできない。だから彼らが人並みの暮らしができるよう全力で支援する事がレイシストである白人の「義務」とされる。
また、白人を基準とした文化は社会の隅々まで浸透しており、これらを「ホワイトネス」と定め、社会悪としている。白人であるという事は肌の色だけではなく、その人の考え方や心のあり方にまで現れると言うのである。
アメリカの国立アフリカ系アメリカ人歴史文化博物館は、ホワイトネスを下記のように定めている:
https://twitter.com/ByronYork/status/1283372233730203651
「個人主義」「核家族」「科学的方法」「偏った歴史観」「努力主義」「キリスト教基準の宗教観」「財産に重みを置く」「未来・将来を重要視する」「時間やスケジュールを大事にする」
ここで違和感を覚えないだろうか。
時間にマメで、努力をする……そういった事すら「白人の文化」だとぬかしているのである。
じゃあ何か?時間にルーズで怠惰でいる事を推奨するのか?と言いたくなるが、ほぼ推奨してると言っても過言ではない。
だからこそ彼らは「努力してアメリカンドリームを掴み取る」という価値観を真っ向から否定する。ベーシックインカムみたいな破綻必至な制度を推し進めようとする。
今アメリカではバイデン政権による太っ腹すぎる失業保険のため労働者不足が深刻な社会問題になっている。下手にマクドナルドなんかで働くより失業保険をもらっていた方がずっと収入が多いのだ。そんな状態で職に付こうだなんて大抵の人は思わないだろう。
もちろんこの失業保険の資金源も無限ではなく、いずれ膨大なインフレや恐慌等といった形で跳ね返ってくる。しかし連中は国家を打ち出の小槌か何かと勘違いしているのか、国からあれやこれやと要求しまくる。
これらを推奨してるのは何も貧困層だけじゃない。むしろ西海岸の富裕層なんかは大抵この思想にどっぷりだ。
貧困層が成功を求めて努力するのをやめ、国からの施物に頼りっきりになって、一番得をするのは誰か。すでに成功している富裕層だ。
誰もが成功できるという事は、自分の地位や権力が常に脅かされているという事でもある。自分が競争で勝ち取った地位を堅固にするために、競争主義そのものを打ち壊すという訳だ。
そのために連中は人種差別的思想にまで手を出しているのだからたちが悪いどころの話ではない。
米国西海岸の左翼文化において「自己研鑽」や「マッチョイズム」は白人至上主義と関連付けられ、むしろ社会悪として認識されている。
そしてホームレスは「自己研鑽を辞めた者」ではなく「どうしようもない環境のせいでそうなってしまった者」扱いだ。
現にサンフランシスコではホームレスによる路上脱糞を完全に放置しており、路上の人糞を回収・処理する「うんこパトロール」というものに人件費を回している。冗談なんかではない。
最近フロリダ州では学校で批判的人種理論(Critical Race Theory)を教える事を知事が禁止したが、それに対する批判の中に「そんな理論は存在しない」としらを切る連中がいた。
連中は狡猾で、自分たちの思想が明るみに出されたらそれは差別的で悪である事がバレてしまうのを理解しているため、徹底的に隠そうとする。
名前を与えず、さもそれがずっと前から存在していたかのように、さり気なく提示する事で社会に浸透させようとする。だからこそ悪質極まりない。
俺は趣味探しが趣味の時期があって、毎月新しい趣味を始めてみて気に入ったら継続みたいなことをやってて遍歴はこんな感じ。今は大学院生で来春から社会人。
・折り紙
ユニット折り紙っていう、立方体とかの幾何学立体作ってた。ながら作業ができて優秀。後述の電子工作と併せてかっこいい置物ができた。ただ、やたら時間がかかる割に成果物が地味なので辞めた。
・DIY
父がDIY好きだったので、親の道具を使っていろいろ本棚を作成。市販の本棚の方が完成度も高く、安いことに気づいたので辞めた。
・天体観測
小学生の頃、地元の科学を学ぶ習い事をしていたので、星に興味は元々あり天体望遠鏡を買って本格的に始めてみた。月と土星くらいしか見るものはなく、望遠鏡を持ち出すのが億劫で辞めた。星を眺めるのは今もやっている。
・カメラ
姉からOLYMPUSのミラーレスカメラを貰ったので始めた。星撮りなどスマホにできないことができるので気に入っている。被写体は風景メインで広角単焦点いくつか買ったところで満足したので、レンズ沼には至っていない。旅行にはいつも持ち歩く、ごついカメラを持っていると住宅街でも旅人になれる。
・旅行
テレビで見た青春18きっぷというものが気になり、夏休みに友達をつれて、関西から東京に行った。東京は新幹線で何万もかかると思ってたのが、2000円程度で案外軽く行けたことに満足しハマる。18きっぷやフェリーを中心の激安旅が好き。47都道府県の県庁所在地をコンプリートした。コロナ明けたらまた旅行したい。
・秘境駅巡り
18きっぷ旅中に景色のきれいな駅で降り、そこにあった駅ノートの記述で秘境駅めぐりというものに出会う。秘境駅巡りをしていると、駅ノートにいつもと同じメンバーがいて勝手に親近感(とライバル心)を感じる。(図書カードの天沢 聖司みたいなものか。)駅寝とか敢行して、どこでも寝れるようになった。
姉の小さい頃に使っていたアイロンビーズを発見し創作意欲が沸いてきた。2000ピース入りのボックスの仕分けが辛かった。部屋の壁がマリオシリーズのキャラ(ほとんどが大量のテレサ)で埋まっている。
・おえかき
就活が嫌すぎて何か楽して稼げないかを考えていたとき、LINEスタンプが個人でも作れるようになったと聞いて始めた。1個30秒くらいで仕上げた絵だったが、リジェクトされつつ1ヶ月程度でなんとか承認。クラスの友達が買ってくれたが、ほとんど売れず承認欲求が満たされないので辞めた。
・プラモ
Joshinに売ってた、海洋開発研究機構の「ちきゅう」のプラモがカッコよくて始めた。色なんかも塗ろうと思って、筆セットなんかも併せて購入。時間のあるときにやろうと思って放置していたら何年も立ってしまった。いつかは作ろうと思っている。
・電子工作
高専の専攻が電気系だったので、電子工作くらいできるようになろうと始めた。最初はArduinoのLチカからスタート。学祭展示とかで発表できる作品を年1くらいで作るようになった。最近は家のIOT化を進めていて、オートロックで家のスイッチ類はほぼAlexaがやってくれるようになった。市販のスイッチボットなんかよりやすいが、はんだごて、3Dプリンタ、直流安定化電源などの出費がでかい。ハードオフが楽しくなる。MFTで出展するのが夢。
・キャンプ
ゆるキャンから。はじめはテントと寝袋だけからスタート。どんどん荷物が増えてきた。TC素材を集め始めて荷物が重い。今年は雪中キャンプにも挑戦した。楽しいけど、社会人になったら平日キャンプはきつそう。
・ドローン
中華通販でDJIのphantomが安かったので衝動買い。単純に飛ばしてるだけで楽しいのとキャンプと相性が良いので結構出番がある。ただ、(法律は順守してるつもりだが)逮捕事案も増えてきて怖かったので、dji miniに買い換えた。ほぼクイックショットしか使わない。
・地図
ブラタモリが好きで毎回欠かさず見てる有地に興味が沸いた。国土地理院の航空写真を見ながら、鉄道跡とかを探してる。
・駅スタンプ
ただでできる。田舎駅は駅員に出してもらう必要がある上、駅員がいる時間が限られているので秘境駅巡りとの相性は悪い。
・駅メモ
鉄道旅に併せて導入。5000駅ほど集めたが、景色に集中できないのとコロナで完全にやる気を削がれたので辞めた。
・切り絵
不器用すぎて無理だった。
・消ゴムはんこ
不器用すぎて無理だった。結局レーザーカッターでゴム印を作って、自分用のはんこをつくった。
・釣り
大学が海の近くだったので食費をケチろうと始めた。サビキから始めたがフグしか釣れなかったのと、しゃべりかけてきたおじさんがウザかったので辞めた。あと、海の近くなので魚も買った方が安かった。
・記念メダル集め
小学校時代から集めてる。東京タワーとかにある日付と名前を彫れるやつ。1枚500円程度でオリジナルのお土産が作れるので気に入っている。水族館、博物館が多く飽きてくるので、旅行においてはメインではなくサブミッション。
・ダムカード集め
普通に数が多すぎて、バイク趣味とかじゃないときつそうで断念。
ダムカード繋がり。観光案内所で貰えることが多いのでマンホールカードより難易度が低い。ただ、水道局でもらえる奴は平日限定が多く収集困難。旅行のサブ目的。
・漫画
小中学校とマンガを買って貰えなかったので高専でバイト代を得られるようになり買い出す。当時は駿河屋で数十円で中古マンガが買えたのでその時代に集めた漫画が1000冊ほど。今は推し作家の新刊を買うのと、年1でヴィレヴァンの株主優待で2万円分まとめ買いする(ヴィレヴァンは本屋なので取り寄せもできる)。コロナ前は東京のヴィレヴァン巡りをして表紙買いしてた。
・温泉
旅行中に温泉にハマり温泉目的で出掛けることが増えた。野湯だったり秘湯だったり、到達困難な温泉の方が気持ちいい。いつも混浴に若い女性が来ないかワクワクしているが、実際に女性に入って来られると気まずい。移動もできないし、目線も気を使う。
以前増田で読んだスパイスカレーRTAに感銘を受けて実践している。業務用スーパーに売ってるメイラード反応済み玉ねぎとトマトピューレを使うことで、コンスタントに10分を割れるようになった。最近はナンの自作にも挑戦している。
こうして、並べてみると高専から工学部編入で全く女性との接点がなく、趣味でも人に会うこともほぼないからみんなが異性に使っている時間とお金を趣味に使えるのかなぁとは思う。デートもしたことないし、飲み会とかもほぼいかない。
他に良い趣味あったら教えてください。
後に博物館で展示されちゃったりして
オシラサマ思い出した
Japaaanマガジン 歴史・文化 なんと馬と結婚した女性の末路…「遠野物語」より、オシラサマのエピソードを紹介
@2019/08/18
世の中は実に広いもので、結婚と一口に言っても人間同士とは限らず、イルカや抱き枕など、様々な相手と結婚した方のニュースにふれると、愛情の形は実に色々あるものだと実感します。
と言っても別に昨日今日の話ではなく、日本でも人間と人間以外のパートナーが夫婦となったエピソードが残されています。
そこで今回は柳田國男『遠野物語』から、オシラサマの話を紹介したいと思います。
あまりに馬が好き過ぎて……
むかす、あったづもな(昔、こんな事があったそうだ)。
とある農家に一人娘がおりまして、気立ても器量もいいのに、年頃になっても縁談を断り続けていました。
あまりの事に、将来を心配した父親がその理由を糺したところ、娘はなんと「おらァ、ウチの馬と夫婦(めおと)になりてぇ」などと言い出します。
この申し出には父親も仰天しましたが、確かに以前から、厩(うまや)に一人で籠もって馬に向かってずっと独り言を続けている様子を目撃していました。
確かに馬は昔から、単なる家畜ではない「家族」だけれど……(イメージ)
馬といるのが何でそんなに楽しいのかと訝っていたら、なるほどそんな眼で見ていたとは夢にも思っていませんでした。
「バカもん!お前を永年、手塩にかけて育てたのは馬なんぞにくれてやるためじゃない!」
父親として当然の思いを伝えると、思い切って遠野城下へ出かけていきます。
「……お前が『馬と夫婦になりたい』などと言い出すのは、村にロクな男がいないからに違いない。よぅし、これからお町でこれ以上ない好青年との縁談を取りつけてきてやるから、楽しみに待っておれ!」
父親が出かけてしまうと、娘は馬と夫婦になりました(具体的なやりとりについては割愛されています)。
馬の首に縋りついた娘が……
さぁ、娘が馬と「夫婦になった」ことを知った父親は、烈火の如く怒り狂います。
「おっ父ぅ、やめてけろ!」
懇願する娘も顧みず、父親は馬を裏庭にある桑の木につるし上げ、斧でその首を叩っ斬ってしまいました。
「あぁ……何てむぞい(かわいそう)!」
娘が叩っ斬られた馬の首に縋りついて泣いていると、どういう訳か、馬の首ともども飛んでいってしまったそうです。
たった一人の大切な娘を失った悲しみに暮れていた父親は、ある晩不思議な夢を見ました。
「おっ父ぅ、親不孝な娘でごめんなぁ……その代わりって訳じゃあねぇんだども……」
「裏庭の桑の木で、私たち夫婦を彫ってお祀り下されば、きっと功徳がありましょう」
自分たちの結婚を認めて欲しい……そんな娘の思いに、とうとう父親も折れて馬と娘の像をお祀りするようになりました。
その像は桑を削った棒の先端に顔を彫り込んだ素朴なもので、幾重にも布を着せて支えるのですが、どういう訳か迷い事などある時には馬の顔がどちらかへ向いて「お知らせ」してくれるので、いつしか「お知らせ様」と呼ばれるようになり、それが転じて「オシラサマ」として今日に伝わっているそうです。
どんどはれ(昔話などで「おしまい」の意)。
生活費を稼ぐ必要のないセレブバイトの人が相場よりも安い給料で引き受けなければ、もっと高い給料で生活費を稼ぎたい人も働ける
それは話が逆で、ここ数十年続いた博物館・美術館の正規雇用削減・非正規雇用化が学芸員にも及んでいて、「自分が家庭の主たる稼ぎ手でない人」ぐらいしか働けなくなってるのが現実だと思います。https://careergarden.jp/gakugeiin/tenbou/
国家資格でそれなりの知識も能力も求められるのに、フルタイムで働いても年収300万円ぐらい、さらに現場の人員削減でどんどん学芸員の仕事が増えてるんだから、とても一生の仕事にはできないです。で、もし相場(相場とは…?)よりも安い給料でそういう仕事をやってくれる人達がいなくなったら、学芸員の給料が上がる、なんてことは起こらないと思いますね。
4月にあつまれどうぶつの森をかった。7歳の娘が欲しがったので。娘はもちろん、10歳の息子もはまってずっと遊んでる
俺も嫁もはまった。
5月は自粛でどこにもいかなかったので家族であつもり遊んでた。
俺と嫁はどっちが博物館に魚や虫を寄贈するか競ってた。割りといい勝負だった。
で、6月になって、鮫とか新しい魚がでるぞーって楽しみにしてたけど、仕事忙しくて俺はまだ30分位しか出来ないいんだけど、この三日間で、嫁がすでに6月から出る魚や虫をほとんど寄贈済みってわかって一気にやる気が失せてしまった。結局、専業主婦には勝てんし、来月も再来月もそうだろうって思ったらアホ臭くなった。まあそんだけ。2ヶ月遊べてよかったよ。