はてなキーワード: アッラーフとは
コロナの大流行で現在進行形で世界の歴史が大きく動いている。日本に住む私達は政府から自粛を要請され生活様式が一変した。私の生活にも様々な変化があったが、そのうちのひとつが自炊する頻度が大幅に増えたためスーパーの野菜売り場で悩むことが多くなったことだ。そのときに私が感じ、考え、悩んでいることを書き残そうと思う。
私は関東の某県で医療に携っている。三次救急指定病院や大学病院に勤務していた時期があるので、様々な重症度の患者を診てきた。そのなかでも幾人かの忘れられない患者達がいる。外国人技能実習生だ。4年間で3人、それぞれ様々な疾患のために入院し治療に当たった。そして3人とも保険に入っておらず、退院直後に帰国する手筈を(多くの苦労のすえ)整えた。そのなかで技能実習生の送り出し機関や受け入れ企業の組合、大使館、入国管理局、保健所などと交渉する機会があった。また逃亡した技能実習生の横の繋がりや助け合いについても知る機会があった。詳細については記載できないが、本当にこの制度は許せない。これは絶対に続いてはいけない仕組みだ。そう確信させるような失望、交渉相手が信頼出来なくなるエピソードが何度もあった。私は今でもその担当した1人が救急外来で処置を受けながら「アッラーフアックバル、アッラーフアックバル!!」と叫んでいたこと、その後回診のときに仕送りをしないといけない家族が何人もいること、日本のアニメが好きだ、とはにかみながらTシャツに描かれたキャラの名前を教えてくれたことを忘れられない。彼らはいまどうしているだろうか。生きていてほしい、母国でも治療が続けられていてほしいと願う。
私が携った人のうち2人は農業に従事していた。私はこの県の農業に、少なくない人数の技能実習生が関わっていることを知っている。そして彼らが低賃金で、過酷な労働環境で、理不尽な契約で、無保険で働いているからこの野菜売り場の一部の野菜がこの価格で販売されていると想像する。コロナで多くの人達が困窮している、だから私は自分の手の届く範囲の人達の手をとりたい、応援したいと思っている。その一環として地元の野菜を買おうと手を伸ばすとき、(でもこの野菜は技能実習生の誰かの苦しみのうえにあるんじゃないか?この野菜を食べて応援することはその制度を維持することに力を貸すのでは?)と考えてしまう。
一方で、地元の農家の人々の顔も知っている。彼らの家庭環境や経済状況もほんの部分的にであるが知っている。あのおばあちゃん今年は桜見れたのかなぁ、と思い浮かぶ。しかし、その野菜が栽培された県や農家の写真はあっても私が知りたい情報である外国人技能実習生が酷使されて作られたものかどうかはスーパーの展示からはわからない。当たり前だ、私達は私達が生きることで踏みにじる命や人生を知らなかったことにして生きるほうが快適だからだ。
私は個人的な関心と決意から技能実習生制度は許せないと思っているが、例えばこの記事を打ち込んでいるiPhoneがどんな環境で作られたものかは知らない。知らないからこそ次の機種の買い替えを楽しみにしていたりする。多分調べれば多くの情報が出てくるだろうが、あまり調べる気になっていない。フェアでありたい、自分の倫理観に沿った選択をしたい、でも自分の知識と時間と預金に限界があることが歯痒い。
私はそういった葛藤を抱えて、どうかこの野菜が理不尽な苦しみのうえに存在するものではありませんように、と小さく祈りながら地元の野菜を選ぶ。国内フェアトレードの普及、そしてなにより技能実習生制度の一刻も早い改善を心から願う。
これは関連があるようなないような話であるが、私はヘテロセクシャルのアラサー独身男性であり、そして風俗にいかないことにしている。岡村隆史の発言で活発な議論が交わされているが、私は選択肢が大幅に狭められたにもかかわらず本人の自由意思による選択だから自己責任である、という論には与しない。様々な反論があるだろうが私は日本の社会が男尊女卑が根底にあると感じている。卑近な例で言えば医学部入試問題、女性医療従事者の産休育休問題、患者の女性医療従事者に対する風当たりなどについて思うところが大いにある。そういった社会のなかでもとから職業選択や経済的不利があり、世界的な不況でさらに苦境に立つ若い女性が本来選択するつもりがなかった職業として風俗というハイリスクな職業(感染症としても、また働いている最中/働いたあとのスティグマとしても)を選ばざるを得ない状況になることを社会的に成功した男性が心待ちにする姿勢を放送することは品性が欠片もないと感じる。深く恥じてほしい。私はそういった他人の苦しみを踏み台にして自分の性欲を解消したくないし、自身の、そして今後パートナーになりうるかもしれない人への感染防御のために風俗にいかないことにしている。正直にいうと私はモテない。パートナーは長くいないし、この5年で性交したのは2回だ。どうしようもなく孤独で寂しく、自暴自棄な気分になったときに風俗のサイトを開いたり体験談を読んだことは何度かある。それでもやはり現時点の日本で男性が風俗を利用することは男女間の権威勾配に胡座をかいているように私は感じる。私はこの社会構造に納得していないし、与したくない。セックスするならお互いの自由意思で、対等な関係でしたいと本当に願っている。
なぜこの話題を出したかというと、技能実習生制度と風俗はともに弱者に不公平な社会制度が前提としてあり、本人の自由意思による選択だから自己責任という体で存続しているアンフェアなものだと感じているが、両者に対する私の対応が一貫していないように感じたからだ。
私は地元の野菜を買う、風俗は利用しないという選択をしている。アンフェアネスに対する選択が違うのはなぜだろうか、と考えると、野菜を買うときは直接加害者にはならないが、風俗を利用するときは直接加害者になるからでは……?と気付いてしまった。もし野菜を買うときに小さく祈ることで一定確率で技能実習生の苦しみに寄与することが許されるなら、風俗を利用するときも対応してくれる風俗嬢が選択肢を狭められた結果ではなく、本人の自由意思で風俗に従事していますようにと小さく祈ればいいのでは?と。あるいは一貫性をもたせるために地元の野菜を一切買うべきではないのでは?と。
妄想と仮定のうえの思考実験で自己欺瞞かもしれないが、今は以下のような結論にしている。仮に地元の野菜を回避して別の県の野菜を買ったとして、どれだけ技能実習生の苦しみが減るか不明である。一方、私は野菜を食べたい、また地元の県の経済を少しでも回したい。都道府県別に技能実習生が生産に関わった野菜がわかるなら、より少ない県を選ぶ。そういった情報がない以上、小さく祈りながら地元の野菜を選ぶ。しかしもし今後よりよい買い方があればそれを選ぶ。風俗嬢がまったく経済的に不自由しておらず本人の自由意思で従事している可能性はゼロではないが限りなく低いと想像する。私が愛した女性が私をパートナーとして受け入れずひどく孤独であることと、私が風俗を利用するかどうかは別の問題であり、風俗にアンフェアネスがある限り私は利用しない。という結論になった。
勿論この考えは完璧ではないと思う。本当に技能実習生を憂うなら抗議デモに参加を考えるべきだし、風俗を利用しない選択が結果的に風俗嬢の経済的苦境を悪化させるかもしれないし、利用しないことが風俗が賎業であるという偏見を後押しするかもしれない。(もし私の友人や家族が風俗に従事したいと言い出したらまず止めるだろう、そしてそこに一部もスティグマがないかと言われると難しい)不十分な情報をもとにした不十分な選択かもしれないが、今の私はアンフェアネスに対してこういった選択をしている。
私は自分の考えを確かなものにしたいので、もっと他の人の意見を知りたいです。野菜のより良い買い方や風俗利用について、そして根本的にはアンフェアネスに対する選択について、是非意見を教えてもらえないでしょうか?参考文献も購入を検討するのでご教示いただければ嬉しいです。
18時48分 追記:ブクマ、レスありがとうございます。全部目を通します。あと参考文献を載せてくれた方、ありがとうございます。購入しました。のちほどいくつか返信できればと思います。
アザーン(اذان adhān)は、イスラム教における礼拝(サラート)への呼び掛けのこと。
ユダヤ教のラッパ、キリスト教の鐘と同じような役割をしているが、肉声で行われることに特徴がある。
「神は偉大なり」という意の句「アッラーフ・アクバル」の四度の繰り返しから始まる。
イスラム教国旅行記ではしばしばアザーンを指して「一日5回モスクから流れるコーランの朗誦」といった記述が見られるが、
アザーンは礼拝への呼び掛けであって、コーランの朗誦ではない。
イスラム教ではアザーンと一緒に音楽を流すことは禁じられている。
そもそも、イスラム教正統派は、教義上、音楽を官能的快楽をもたらすハラームとして容認してはいないからである。
聖典の読誦であるキラーアやアザーン等の詩歌は、音楽的な要素を加えられても音楽では無い物として扱われる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%B3
中田考さん(イスラム法学者でムスリム)が叩かれてるようなので、ちょっとだけフォローしたい。
(なお自分はムスリムではないし、かの美しいと有名なクルアーン(コーラン)も注釈でしか触れたことがない)
六信五行なんて訳されることもあるが、ムスリムは義務としての決め事が多い。
判りやすいところでいくと、ザカート(Zakat)というのがあって、これは義務的な施しにあたる。
翻訳の難しいところで、これは税金として解釈されることもあるし、喜捨つまり寄付の一種と看做されることもある。
財産税による社会福祉と言うのが実体に近く、アッラーフに寄進して、それを皆が使う、という再分配機能になっている。
と、言うようにイスラームというのは宗教であるのだが、その根幹が社会制度になっている。
王様が世捨て人を経て悟った宗教とか、大工の息子が突如悟って国教になっちゃった宗教とは違い、
砂漠のど真ん中で戦国時代やってたような連中をまとめ上げてサバイブしてきた宗教なので、
政(まつりごと)やってる連中に好きに利用されちゃう宗教とは違って、
なので、イスラーム共同体を作り守り広げるぞ、いう感じなわけだ。
ウンマ・イスラーミーヤ(ummma islamiya)とか言われるものがそれになる。
で、ジハードのことを聖戦と訳すとまたややこしいことになるんだが、
「アッラーフのための奮闘努力」が多分一番近いニュアンスになる。
意外(?)な事に、大ジハードとは個人的な内面の戦いになる。現実の戦争とか小ジハードなのね。
ラマダーン(断食月間)だとか、宗教的に正しい行いをするのはより困難で重要である、というわけ。
これは、大体の法学者が見解を一致する数少ない部分でもあって、かなり重要な概念なのです。
宗教というよりは生活様式というかまんま国是みたいなものですというのを理解してもらった上で、
さらにムハンマドにもたらされたクルアーンは絶対、というのが義務として五行に組み込まれていて、
ムスリムはみんなそれを守るのは重要だと考えている、という前提をおいた上で、
ダール・アル=イスラームと呼ばれる、イスラーム世界というのがあるわけです。
ダール・アル=ハルブと呼ばれる、非イスラーム世界というのもあるのです。
自分たちのルールとは、違うルールを使ってる世界、というニュアンス。
すると、当然、自分の家を守るのは義務、ということでイスラーム世界を守るのは義務なわけです。
宗教は自由なので無理強いはしないけど、イスラーム世界のルールには従おう、みたいなのがあるのです。
結果、非ムスリムは許容するけど、非イスラーム世界をイスラーム世界に組み入れる努力を怠ってはならない、
という、ワリと複雑なことになっているわけです。
まあ、正確にはアラビア語のクルアーンを読むべきなんだけれども、
不信仰者の攻撃を受けて背を向けてはならない、戦略的撤退等を除いてはアッラーフの怒りを被り地獄に住むことになる、とか書いてある。
そうすると、非イスラーム世界からの攻撃に、ムスリムは防衛する義務があって、背を向けてはならないわけです。
そして、非イスラーム世界の代表例とも言えるのがアメリカ合衆国で、これに背を向けられないと。
ただし、害がない場合(イスラーム世界と和平を結びたがってる異教徒)には、和平を結んでも良い、とされている。
ムスリムである中田考さんの会見は、同胞であるムスリムに対する呼びかけになるわけですね。
イスラーム国をムスリムでないと断定できれば攻撃したり非難したりすることは簡単なんだけど、それは出来ない。
すると、非イスラーム世界と戦っている!と言われれば、背を向けよ、とは声掛け出来ない。
日本政府側には「ムスリムは異教徒と戦って背を向ける事は出来ない(地獄に落ちる)ので、戦うとか言わないで」とまず言ったと。
テロリスト、非テロリストという枠組みではなく、まずイスラーム世界と非イスラーム世界との枠組みの話ね。
で、トルコ経由で人道支援に限って渡すことも出来るよ、仲介するよ、と。
「日本政府の資金は、人道支援に限ってるよ(戦うために使っているわけではない≒非イスラーム世界だが敵対中ではない)」
「(君らも知ってると思うが、安部総理はトルコ・レバノンへ支援すると言ってるわけで)トルコ経由で渡すこともできるよ」
「双方にとって時間が短すぎるよ、そこはなんとかならんかね。自分もそっちに行くよ」
「ヤージディー教徒は解放したよね。そういう態度の方が、主張は通りやすいよ」
ムハンマドにもたらされたクルアーンは絶対、という前提のもとでは、攻撃に折れよとは絶対に言えないわけです。
ただ、テロリストとは交渉しない、テロリストに金を払わないという日本政府側の前提も曲げられないと。
すると、日本は非イスラーム世界だが、人道支援に限って金を出しているので敵対中ではなく、和平を望んでいると、
イスラーム国もムスリムなら、小ジハードを止めろとは言わないから、異教徒に寛大でも良くないか、
そもそも時間も短すぎるし、ちょっとムスリムの法学者たる自分が間に入るから話を聞いてくれまいか、
と、そういう声掛けになるわけです。
質疑応答でも、身代金を払うんじゃない人道支援だ、と繰り返し言ってるのが、板挟みの回答になってるわけですよ。
まあ、ワリと中田考さんはイスラーム国側に立った物言いしてるわけですね。どちらかと言うとメッセージになってる。
敵対すると同じ派閥であっても即処刑する人達なので、非難して即斬首とか困るわけですよ。当然ながら。
(もちろん、ムスリムがみんなこうかとういとそうじゃなくて、過激派は認めないとか、イスラムの名を利用した単なる侵略だ、とか言ってるトコロも多くある)
とういわけで、ワリと詰んでる状況で、譲歩を引き出す限界ギリギリのところだったんじゃないかなあと思うわけです。
だって、日本は米国と協調路線で、ガッツリ名前出してISIL壊滅の為にイラク政府に手を貸すとか言っちゃってるわけで。
本来なら政府はテロリストと交渉しないので、引き伸ばしつつ救出(奪還)作戦を展開して成功させないといけないわけで。
家族とか所属会社経由で身代金に応じるっていう裏取引(政府は目をつぶる)も、時間が短すぎると。
日本は宗教に寛容な国であるので、境界線もあやふやで、曖昧だったりする。
例えば、イスラム教徒のことをムスリム(Muslim)と呼ぶということは知っていても、
その認識は、回教徒と呼んでいた頃から変わっていなかったりすることが多い。
襲撃を受けたフランスの新聞が、ムハンマド(Muhammad)を風刺画に書くことの何が問題か、
できるだけ、テロとは距離をおいた形で、少し話してみたい。
イスラームの話をする前に、我が身を振り返ってその曖昧ぶりを思い返してもらいたい。
まあ、宗教のテクニカルな話をすると、はてな村のギーク達は「あとで読む」を付けるだろうから、ちょっと例えてみよう。
まず、仏教には「世界はこういうものだ」という物理層がある。輪廻だとか解脱だとかだ。
モノリシックカーネルもマイクロカーネルも、OSの設計思想も、
結局のところ、ノイマン型アーキテクチャを基にした世界観の上に構築されているわけだ。
宗教とは、目の前に存在する「現実」をリバース・エンジニアリングしている。
その構造分析の結果、あるモデルにピッタリハマれば「悟った」と言われる。
般若心経は、Z80の手書きのニーモニック表と同様だと思えば、親しみも湧くだろうか。
さて、「現実世界」は中々簡単にディスアセンブル出来ないので、
できればインテルから直接、回路図なんかの技術資料をもらうみたいに、
「現実世界」を作り上げたり、その内部構成を知ってる相手に教えを請いたい。
その教えを請うことに成功したのが、預言者であるムハンマドだ。
大天使ジブリールに出会い、アッラーフの啓示を受けたとされている。
電気屋で悩んでたら嶋正利さんにCPUの論理設計について教えてもらえた、みたいなものだ。
まあこのへんでやめとくが、この教えてもらった世界の仕組みを書き留めたものが、クルアーン(コーラン)だ。
血なまぐさい話になるのでさらっと流すが、まあ日本でも大覚寺統と持明院統とが大揉めに揉めて南北朝同時成立したりしてたわけだ。
さて、「現実世界」を理解しハックしたのがムハンマドってことは、クルアーンに従って生活するのが良いわけだ。
つまり、本質的に宗教は「現実世界への関わり方」を示していることになる。
(残念ながら注釈でしか読んだことがなく、その美しいアラビア語による原典に触れたことはないが)
世界への関わり方は、時として人によって酷く違った解釈をされることがある。
デヴィット・フィンチャーの「セブン」という映画を観たことがあるだろうか?
キリスト教の七つの大罪をモチーフにした連続猟奇殺人事件と、それを追う刑事達の物語だ。
フィクションでは分が悪いと思うのであれば、エド・ゲインを思い出しても良い。
母親が狂信的なキリスト教信者であり、女性は悪魔だと教わって育ったと言う。
彼らは、その教えを忠実に守り、どちらかと言えば善意からその行為を行っている。
こうした連続殺人を観て、キリスト教信者をなじったり、キリストを風刺するのは、あまり面白いとは言えない。
彼らは、キリスト教信者ではあったかもしれないが、本来の教えとは異なる解釈をした、単なる犯罪者だからだ。
まあ、現代でもキリスト系のパロディー映画には苛烈な抗議文が届いたりするようだが、
過去、キリスト教会に対する風刺や批判は、即刻刑罰の対象になっていた時代が確かにあった。
「聖☆おにいさん」を書いたら暗殺され、それを民衆が支持する時代だ。
これは信教の自由と、表現の自由の、長い戦いの歴史がもたらした冷戦構造でもある。
表現者は、今回のフランスの新聞社への襲撃は、反対の異を唱えるだろう。
端的に言えば「オマエの意見には反対だが、それを主張する権利は命がけで守る」だ。
疎い人ほど、「ムスリムはそういう過激な宗教の人なんでしょ」という理解をする。
また、「その風刺はいかがなものか」と「表現の自由を守る」が、矛盾なく同時に主張できると判らない人も居る。
そうすると、「表現の自由を尊重しない宗教が、テロに走った」と捉えられてしまう。
「表現の自由を守るためには、テロに屈せず、また風刺画を描く」のが正しいと思われてしまう。
人は理屈ではなく感情で行動するので、こうした時に、出来る事はほとんど無い。
淡々と、「その風刺は侮辱なので訴えます」とフランスの法律の範囲内で行動するしかないのだろう。
ブリジット・バルドーは、何度もそうやって訴えられ、フランス司法はキチンと刑罰を下している。
(またフランスはユダヤ人に対する人種的差別には敏感で、割とちょくちょく出版社に罰金刑を出している)
日本人が日本を馬鹿にした出版社を襲撃する事件があれば、その日本人を非難し、襲撃された出版社側に立つだろう。
その後、日本を馬鹿にした出版社の表現の自由を守りつつ、淡々と法律に則って侮辱されたとして訴えるしかない。
今回、欧州の各種ムスリム団体がテロ行為を非難している事は、忘れてはいけないと思う。
Je suis Charlie(私はシャルリー)とつぶやく前に、Je suis Ahmed(私はアフメド)として呟いたムスリムの言葉も聞いて欲しい。
I am not Charlie, I am Ahmed the dead cop. Charlie ridiculed my faith and culture and I died defending his right to do so.