はてなキーワード: 「我々」とは
https://anond.hatelabo.jp/20220613095621
性的自己決定権は「貞淑であるべし」ではなく「都合よく淫乱/貞淑を強いるな」だし結婚についてはそれに伴う法的社会的諸権利の希求なのだが、物事に昏いとこう見えるのだな。アレな人の思考が垣間見えたよ。
これ、翻訳すると「我々は「貞淑であるべし」ではなく「都合よく淫乱/貞淑を強いるな」と言っており、それは性的自己決定権の重視なのだ」と言う意味だと取れるのだけど、
「都合よく淫乱/貞淑を強いるな」は兎も角、性的自己決定権に関しては「日本の」リベラルはむしろ余り重視してないものじゃない?
なので違和感が有った。
「都合よく淫乱/貞淑を強いるな」は男性→女性の構造を前提にしている訳だけど、これは行為者が女性自身である場合に当然破綻する。「強いる」主体が居ない訳だからね。
これは性的自己決定権も同様で、日本のリベラルがやって欲しくない事も、行為者が女性である限り「性的自己決定権を重視するなら」止められない。
セクシーな衣装を着て広告に出たり、或いはそのような表現をしたり、AVへの出演もそうだよね、それが女性自身の意志である限りは当人の性的自己決定権を尊重せざるを得ない。(つまりある種の愚行権をも認めざるを得なくなる訳だね)
特に典型的なケースとしては、日本のリベラルがやりがちな「この表現は悪影響を与える」といった批判対象の表現主体が女性であった場合、
その悪影響(尤も、多くの場合証明されてすら居ない訳だが)と表現者の性的自己決定権の衝突を、どっち側に付いて解決するつもりなの?当然性的自己決定権を尊重するんだよね?
それとも、気に入らない物は全て「それは本当は女性自身の意志ではなく、社会や男性に強いられた行為なのだ」と避けるつもりなのかな?でもそんなどうとでも言えるやり方で否定してしまえるなら、「性的自己決定権」なんて最初から無いに等しいよね?
人は様々なものの影響を自身の中に取り込み、常に自己を更新していく、その「影響」の末に出来上がった「自己」を自己だと認めないならば、一体あなた方にとっての自己とは何なのだろう?赤ちゃんの頃のその人?それだけが「自己」?
そういう「性的自己決定権」を無意味化、形骸化する思想は明らかに「性的自己決定権を尊重」はしていないよね?つまり、そうはならないんだよね?
また、AV出演関連でも女性自身の性的自己決定権を軽視する発言は日本のリベラルから良く出ている気がするんだけど、これも性的自己決定権を尊重するなら言えなくなるよね?
ただ主体が女性であるだけで、今まで言っていたつべこべが言えなくなるのだけど、本当に良いの?
勿論本来のリベラルならそれで困らない筈なんだけど、正直な所、日本のリベラルは「自由」や「自己決定権」が大嫌いな保守的な風紀委員に見える事が多いので、本当にそれでいいの?と心配になってしまった。
自分の言っている事を理解せずに、雰囲気だけで意に反する事を言ってしまっては居ないかな?大丈夫?
よくよく考えた方が良いよ、自己決定権とはつまり自由の基礎なんだから、それは自由の肯定に「なってしまう」んだよ。
あなた達は「女性の性的自己決定権を守りたい人」ではなく「女性の性的自己決定権に何らかの制限をかけたい人」では無かった?(気のせいだったら良いのだけど)そんな人がそんな事を何の留保も無しに言ってしまって、本当に良いの?
別にそれでいいならいいんだよ、これから日本のリベラルが女性の性的自己決定権を尊重してくれるなら、それは本当に本当に喜ばしい事だし、ただ単に私が日本のリベラルの事を誤解していたのかもしれない。
それにもしリベラルが女性の性的自己決定権を軽視するような言動を取った時には「話が違うよね?」と指摘出来る様になる。それは非常に有益だから、歓迎したい。
余りに上手い話だからこそ改めて、念の為確認しておきたい、女性の性的自己決定権は尊重するべき、という事で良いんだね?
まーたーリバタリアニズムとリベラリズムの区別の付かない増田ですか。増田が言ってる自己決定権マンセーな立場はリバタリアニズムでっせ。リベラリズムは自由も大事だがそれ以上に平等を重視するの。
気になったのは2点。
まず1点目は、リバタリアニズムとリベラリズムの区別について、この人が言ってるのはあくまで「アメリカでのリバタリアニズムとリベラリズムの区別」じゃない?
アメリカでは確かに歴史的な経緯から他国での自由主義(リベラリズム)がリベラリズムとは呼ばれずリバタリアニズムと呼ばれ、リベラリズムは社会主義に近い思想の呼び名になっているけど、
何故アメリカでのこの特殊な歴史的経緯に基づいた呼び名を日本で(しかも「まーたーリバタリアニズムとリベラリズムの区別の付かない」と正しさを自明視して)採用しなければならないの?
何故日本でもアメリカ以外の(というかヨーロッパで行われている様な)自由主義=リベラリズムの呼び方で呼んではいけないの?
というより、そこがややこしいからわざわざ「日本の」リベラルと書いてるのに、読み取れない?
というか、前々から気になっていたんだけど、日本のリベラルって反米の人は多い気はするのだけど、その割に垣間見えるこのアメリカ中心主義というかアメリカ覇権主義は一体何なんだろうか・・・・?何でアメリカでの特殊な呼称が普遍的なルールだと思い込んでいるんだ・・・。アメリカ=世界じゃないですよ・・・・?
2点目は、仮にアメリカ的なリベラルの呼称を採用したとしても、この人文脈を一切理解してなくない?
「あなた達日本のリベラルは自由や自己決定権が嫌いな「リベラル」であって、自己決定権を重視するリバタリアンじゃないでしょう?なのに「女性の性的自己決定権は尊重するべき」として本当に大丈夫?」
という内容だよね?
つまり最初から私は「あなた達は「自己決定権マンセーなリバタリアニズム」とは違う立場の筈だよね?」と言ってるので、あなたは私と同じ事しか書いて無いんだけど、文章読めてますか?
主語過大定期 // 増田みたいな主張はフェミニストに求めるべきだけど、リベラル=フェミニストではないと知ってるはずなのにカマトトぶる辺りが生理的にマジ無理、って思いました。
これ、逆じゃない?
そもそもフェミニストにもいろいろな派閥があって、中には家父長制的フェミニストなんてのも有り得る訳で、自分から「自由主義(リベラル)」を自称しない限りはフェミニスト全体に求められる内容では無いでしょう。(勿論私個人の意見としては、この内容はフェミニスト全体に求めたい所ではあるけど)
反対に、少なくともアメリカ的ではなくヨーロッパ的な「リベラル」呼称を採用するなら、自由主義を標榜する限り、自己決定権の重視は全体に求めても(フェミニスト全体に求めるよりは)おかしくないと思うけど、どう?
簡単に言うと、「自己決定権・自由を重視しよう」と求めておかしくない相手は、自由主義者か、フェミニストか、どっちだと思う?
あとそもそも、冒頭にあるように「我々は自己決定権を重視する」と言ってきたのは私ではなく、あちら側なので(そして元の増田がリベラルに対するものだったので、「我々」はリベラルだと読んだので)そのあたりの文脈もちゃんと踏まえてくださいね?
この会話、おかしいと思わない?
C(私)「いや、あなた達自己決定権を重視する立場では無くない?」
D「そういうことはリベラルではなくフェミニストに求めるべき」
書いてみて改めて思ったけど、どういう会話なんだよ・・・まるで通じてない・・・・
(追記)しかも、もしかしてと思って確認してみたらこの人元のブコメにスター押してるよ・・・・。「いや、我々(リベラル)は女性の自己決定権を重視する」というブコメにスター押しておいて、「そういうことはリベラルではなくフェミニストに求めるべき」って、一体どういう風にこの人の中で辻褄が合ってるんだ・・・?訳が分からない・・・・。
見かけた目の前の一人二人をケアする事はしているがそんなことをいくらやってもその子供が助かるだけで全体として子供たちが死んだり破滅したりしていく状況は変わらないし、
何よりこの方向性では世の中全体の「(虐待されて)潰れた奴はクズだから助けなくていい」という風潮(※1)も変わらない。
少ない稼ぎを団体に寄付してもやはり同じ事で、要するに社会(※2)がそこまで虐待に理解がないという状況を変えられなくては何の意味もない。
虐待という事象の存在は認識していても虐待被害者という存在が抱える障害については世間は……特に学校は……未だ全く無理解で不幸を決定づけていると思う。
と言ってもそれに干渉するためには途方もなく強大な力が必要なわけで、政治とかの問題に入っていき、そんな主張は世間にとって全く価値が低い。(※3)
どうにかする方法はないだろうか。
※1……主に虐待被害で死にかけている子供たちが社会に「甘え」等の言葉で追撃されて本当に死亡・破滅していく状況を指す。実際には虐待されているという事実が認識されず社会に適応できない子供の存在だけが観測されるため起こる事象なのだが、被害児童達の感じる世間の態度とは「虐待されるような奴には生きる資格がない」に近い。
※2……成人読者の方が感じるであろう「我々」社会全般よりもむしろ「学校」という特殊な環境を指す。不幸な子供には家庭と学校しか世界が存在しないため。
※3……虐待をしない親(及び虐待をしている認識がない親)は自分の子供が虐待されていない(またはその認識がない)のだから通常その被害に無関心であり、虐待をする親はそもそも自分がその加害によって利益を得ている側なので被害側を救う意味がない。
そんな言説は10年以上前からずっと方々で少なからず存在したし、私もそれはずーっと批判し続けてきたし、そんなものは最初から前提とした上で「偏見で語るな」と言っているのだが、この人は何を今更落胆することがあるのだろう。勝手に幻想を抱いていただけじゃないのか。
当たり前のような顔で「性的関心対象となるのが嫌なら、尊重してやらないぞ」と脅す意見が出てくるのを見てしまったので、そこまで下の意見が出てくんのと、はなはだ落胆した。— 小川一水 (@ogawaissui) November 2, 2019
もうはっきり言うけどさ。二次元表象は二次元表象そのものが好きな人のためにあるのであって、「三次元が嫌い」な人のためにあるわけでも「三次元の身代わり」にあるわけでもないの。おまえらのためにあるわけじゃないの。
それでも最低限の礼儀をわきまえて、「仲間に入れて」と言うならそれは拒絶しないよ。すべきでもないと思うよ。そうした交流が偏見を払拭してきた側面はたしかに無視できないよ。
でもここはおまえらの植民地じゃねぇんだよ。「我々にとってもっと住みやすいように改善しよう」とするなよ。その「我々」に俺らは入れてくれないくせにさ。
悩ましいというか、これゆえ、人生で性的被害を受けてない男性の気持ちがどんなものなのかわからず、想像で補ってるところはある。
女性から男性への「オタク的疎外」のほうはそれなりに受けたからややわかる。— 小川一水 (@ogawaissui) November 2, 2019
なんて知らねぇよ。おまえらは「オタク」を勝手に味方だと思ってるかもしれないが、俺はおまえらを味方だと思ったことなんて一度もない。「弱者男性」だかなんだか知らんけど、それ系のデンパと「フェミ」だったら俺は「フェミ」に味方するよ。(フェミの方はなぜか一方的に敵視してくるのだが。)
個人的な立場はともかく、一般的な話に戻るなら、二次元表象をおまえらの対立に巻き込むなよ。「双方の利益に」とでも言いたいのか知らんが、おまえらの言う「双方」に俺らは入ってないじゃねぇかよ。
我々が暮らしている国、日本は、あらゆる面に於いて諸外国と比較して遥かに遅れていることは厳然たる事実です。
しかしながら、それらを指摘し改善を後押しさせたいがために問題提起として主張する際に
「日本は未だに~」「バカ日本は~」「正に中世____ランド」などと耳を覆いたくなるような罵詈で溢れています。
「そんなことをして本気で日本が変わると思っているのか」と反論したくなりますが、上記の罵詈を文言で発する彼らは事実そう思っているのだから仕方ありません。
これでは日本に暮らす大多数の国民(彼らにとっては愚民)には声が届かず、上級国民の戯言としか捉えてくれません。
おそらく彼らはそれでいいのでしょう。
私はよくないと思ったので、次の案を主張します。
そうすることで、「日本の問題」というどこか遠いところに存在する問題を「身近な問題」として捉えることができます。
「我々」でも「俺達」でも構いません。「自分のこと」と思えるような主張にすることが重要です。
「私は違うのに、どうして大多数の愚かな日本人と一緒くたにされなければならないの?そんなの耐えられない!」と思う方もいるでしょう。
どうぞ思ってください。私には、その思考を変える事はできません。
・
民衆的ナショナリズム(自分の生活や運命は自分で決めたい、自己決定欲求に基盤)
公定ナショナリズム(↑から「お前は我々かそうでないのか」と問われたトップによる民衆への回答)
情報ナショナリズム(「我々」はどこまで我々になり得るか、状況を共にしうるかの共有イメージ)
・
この3つの「ナショナリズム」は国家(State)にとって都合のいいものばかりではない。特に民衆的ナショナリズムは時に国家を破壊しかねない。
なのでそれを制御する必要があり、公定ナショナリズムによって国体と民衆の間で握手が試みられる。
日の丸君が代だのは、その我々感覚をお互いに持っていることを確認する便利な道具として公定ナショナリズムが用意したもの
・
インドネシアでは異なる言葉を話し異なる宗教を信じる人々が「同じインドネシア人」になるために、どの集団の言葉でも無い言語を新造したように
日本のように伝統から調達されることもあれば、逆に自分たちの伝統から離れたシンボルを新しく作って「我々」になることもある。
「われわれ」という感覚を「お互いに想像できること」が大切で、事実である必要は必ずしも無い。
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ナショナリズムは本質的に矛盾だらけのパッチワークだが、矛盾だらけだからこそ成り立っていて、ご都合次第で中身やメンバーを変化させうる。
そういうご都合主義の我々意識がないと、アフリカの部族間の絶滅紛争のような隣人同士の殺し合いを防げない。
・
お前が不快だからってテロ呼ばわりして社会の問題にすり替えるのやめろ。
テロと呼んだ瞬間、テロリストとは交渉しない=話合いの余地はないと自ら宣言していることに、お前は気がついていないだろう。話し合う気がないから、Twitterで「あの人テロリストです」と呼びかけ、リツイートしてくれる賛同者を募り、「我々」と「奴等」の越えられない境界線を引く。
そしてお前は、「我々」の内側で、「奴等」に対して呪詛を吐き続ける。いつまでもいつまでも。
それはお前が望んだことなのか?お前はただ単に「あの人のあの行動ちょっと嫌だな、なんとかしてくれないかな」と思っただけではないのか?呪詛をツイートすることで、それは解決したのか?
室井「ちょっ……あの、田崎さんに質問したいんですけど、
共謀罪のことってぇ、こんなになんか緊急を要する必要ってあったんですか?
田崎「やっぱこの国会で、最重要法案ていう位置づけで、やってましたよね。
室井「でも、結局、そのー説明ができないっていぅ……説明できなかったじゃないですか。
田崎「あぁ」
室井「そういうことっていうのはぁ、あまり、国民に対して気にしないってことなんですか?」
田崎「いや、気にはしてますよ、そりゃ。あぁ。」
室井「はぁ」
田崎「あの、別にあの、せ、僕もあの委員会審議聞いてたんですけどもぉ。
委員会審議聞いててもね、なかなかねぇ、これ、わからないんですよ。
あーだからあのー、あの説明し、した、われわれの、政府の方は説明したつもりでもぉ、あのー、国民に伝わらない、っていうことが、現実に起こってるんですよ。えぇ。」
一見、納得感のある移民排斥の動機を思う付ける。たとえば...
この国に住む資格。「我々」はその資格を持っており、「彼ら」は持っていない。
「我々」はこの国に生まれたことによって、その資格を得たのではない。この国を築いた者の子孫であるが故に、その資格を得ている。
「彼ら」はこの国を築き上げることに、貢献していない。したがって、「彼ら」は「我々」と同じ資格を持ちうるはずがない。
たとえ、何の取り柄もないとしても、この国を築いた者の子孫であるがゆえに、「我々」には、この国に住み、そこそこの暮らしをする資格がある。
それを「彼ら」は不当にも奪っている。「彼ら」を叩き出せ。
でも、そんな複雑なことを誰も考えてはいまい。
※追記4
書き始めた時点で存在している、返信が必要だと思ったブコメに対する返信
id:kusoinakakagoshima 卑怯なのはテロ行為なんですが。ムスリムの価値は豚の糞以下だよ 肥やしにもならない
はい、テロ行為はこれ以上ないほどに卑怯です。しかし、表現の自由を守るという文脈で私たちはシャルリーである、と言うのも卑劣な行為ですというのは増田を読めばお分かりいただけると思います。また、あなたの後半の発現はヘイトも同然な発言です。在日の価値は豚の糞以下と言っるのと同様です。つまり、シャルリーにように建前として宗教を批判しているのではなく、建前の時点で宗教を信じている人たちを直接的に攻撃しています。
id:sny22015 難しいな。米映画「ラリー・フリント」では目を背ける様な唾棄すべき表現であっても法の下では護られるべきという、自由を勝ち取って作られた国の理念が描かれていたが…それは自由の濫用だという非難にも首肯できる
アメリカは徹底した表現の自由の国です。あそこまでいくといっそすがすがしいなという思いがあります。ヨーロッパは、特にユダヤ人に対する抑圧の歴史から、第二次大戦後ヘイトスピーチを規制しようという機運が高まってきたので、事情はアメリカとは異なります。
id:vhthlh これフランス国内の一般人や知識人達はどう考えていたのか気になる。
フランス人の間でも前々から議論になっていました。イスラム系団体の中には裁判という言論によってカウンターを行うグループが出てきたりしていましたが、こうした流れのさなかに今回のテロ事件が起きました。恐らく今まで積み重ねてきた努力が水泡に帰してしまうことを考えると、本当にテロは許されざる行為だという思いを強くします。
id:hal9009 これに乗じてこういう統制主義者とでもいうべき規制派・自由嫌いがもっともっとヘイトスピーチとされる行為の範囲を拡大していかなければならないって言い始める機会も増えるだろうな~
表現の自由を維持するためには表現の自由をabuseする言論を一定程度は規制する必要があると考えています。
id:ayanapapa 針ネズミが腫れ物に当たったわけだからどうしようもない。ただ日本も無関係な話ではない、イスラム教徒は増えているが他の先進国と同じく疎外され殻に閉じこもる。近い将来フランスと同じ事が起こらないことを祈る。
id:cider_kondo 欧州極右の主張は「イスラムは非寛容で政教分離を認めない。西欧の価値の根源たる自由と寛容とは相容れぬ」ぐらい。セキュリティホールの一種で、イスラム側が世俗主義を導入しないと論理的解決はほぼ不可能。難しい
ブコメの字数制限があるため分かりかねるところがあるのですが、それはつまり「欧州極右の主張にも表れているように、イスラムに対して持っている問題意識はこれこれが最大にして唯一のものだが、これがセキュリティホールとなってしまっている。イスラム側がそうした問題点を解決しないと先には進めない」ということですか。つまり、イスラムの人々が社会的に疎外されてる云々というところに対する反応だということですね。しかしながら、日本における在日問題も見れば分かるように、二世、三世はほとんどその国の人間と文化的には同質です。そうした人間であっても、社会的に疎外されて、結局イスラム教にしかアイデンティティを見いだせなくなり、そしてイスラム教=私たちという図式になってしまうのです。イスラム教を否定されると、イスラム教しかすがるところがない人々にとっては、自身を否定されたも同然になります。なお、イスラム教はあなたどころか、欧州極右が考えているよりも案外柔軟な姿勢も持つ宗教です。イランのイメージを強く持ち過ぎです。バーレーンのような国では本当にイスラム教徒なのか、というくらいには緩い生活を送る人々が多くいます。
id:oktnzm シャルリーの風刺が表現の自由の枠外なら諸国の言っている表現の自由とは一体なにをさすのやらw一番守りやすいとこ守っても切り捨て行為にしかならんよ。
前者に関して、シャルリーの風刺はヘイトスピーチであるので、それを表現の自由から外すことに何が問題かよく分かりません。後半に関して、主張するところの意図が分かりかねますが、後半部は「一番守りやすい弱者であるイスラーム系移民を守ったとしてもそれは表現の自由の切り捨て行為にしかならない」ということでしょうか。でしたら、そもそも表現の自由の枠内に収まらないヘイトスピーチである以上、切り捨て行為ではないと思われます。
id:type-100 いや、正義の有無に関わらず与えられるところに、自由とか権利の価値はある。これが表現の自由に対する毀損と感じるのであれば、それはあなたが表現の自由よりも他の権利や価値観を優先しているだけの話だ。
与えられる、というか、侵害されないものとして、生まれつき保障されているというところに自由とか権利の価値があることは事実ですが、それを濫用することまでは種々の権利・自由は想定していないと考えています。つまり、他者の権利、即ち平穏無事に他者から毀損されることがないという権利を踏みにじってまで権利の濫用(ここではヘイトスピーチ)を行うことまでは許容されていないということは歴史が証明していることだと思います。なお、これは決して批判を行うことを否定している訳ではないことを付記しておきます。
id:nekora 如何なる歴史があろうと銃を乱射してはいかん。本邦国内に数十あるイスラム寺院にも本件についてどちらを支持するかの聞き取り調査と公表を急げ。
どうでもいいのですが、nekoraさんはもう同人活動を行われないのでしょうか。
id:masm これを見るに、テロは一定の成果を収めたのかな。糞言論であれ、10-0でテロリストが悪いって意思表示することは悪くないのでは?あと、「ヘイトスピーチ同然な言論」か否かを判断する十分なソースをまだ見てない。
はい、10-0でテロリストは悪いです。だからといって、あなたの言葉を借りたらヘイトスピーチも同然な糞言論も表現の自由の一環として保護することになる私たちはシャルリーである、というスローガンは非常に危ういものです。理由は既に述べてきたとおりです。
id:my_yours のっけから和訳を間違えている。
「We are 99%」に代表されるように、この手のスローガンは"私たち"という使い方をすることが多いので、Je suisではありますが、私たちと訳してしまいました。不適切なので、より原文に忠実に訳します。ご指摘ありがとうございます。
id:kappei 元記事の人もブコメで同調している人も、自由主義を理解してない。実はルソー、マルクスの系譜が日本では優勢な気がする。真理がある、と考える人たち。
すみません、何を言いたいのか、100文字という短すぎる制限では分かりかねるところがあります。申し訳ございません。
id:serio キリスト教徒が神だとしているイエス・キリストを、クルアーンで人間だと言明しているイスラームは、それ自体がヘイトスピーチなのではないか、と極論を言ってみたりする。
細かい話になってしまいますが、キリスト教徒はイエス・キリストを神である、とまでは言っていないと思うのでそのたとえの言わんとしているところが分かりません。
id:Mochimasa 『「テロ行為の是非」と「シャルリーによる風刺の是非」は全くの別物である』 それなら"Je suis charlie”は前者の文脈でテロの被害者として掲げられているのだから、後者の文脈でこれを批判するのはフェアではないのでは
それならいいのですが、表現の自由の一環としても利用されている、つまり後者の文脈でも利用されているのが問題なのです。つまり、その二つは別物なのに、スローガンにおいては前者の中に後者の視点も入れてしまっているのです。
id:homarara なんだそりゃ。誰かにとって辛い事は報道しちゃダメ、なんて縛りがあってたまるか。極論を掲載する新聞なればこそ、それを守る戦いが表現の自由を守る事になる。無難な事しか書かない新聞だけ守っても意味ないわ。
自身のアイデンティティを否定するようなヘイトスピーチは表現の自由の枠外であると考えています。「日本人は生まれながらの劣等民族であり、民族的に能無しで蛆虫で寄生虫で云々」というようなヘイトスピーチを載せる自由はどこにもないです。そして本件はイスラム教を自身のアイデンティティにせざるをえなかったにも関わらずそのイスラム教を批判されたために、先の日本人は民族的に云々と同等の効果をもたらしているのです。
id:hate_flag 苦しい生活を送っている移民が宗教に依存しているのでその宗教を批判したらテロられた、というだけのハナシじゃん。悪いのはテロであって宗教批判ではないよね。
はい、テロは圧倒的に悪いです。いや、完全にテロは悪い行為です。ですが、本件でJe suis charlieと掲げることはおかしな話なんです、というのが私の意図です。テロられたというだけの話ではありません。
id:rag_en 『「表現」の結果、とあるポジションが有利になるか不利になるかどうか』は、その「表現」の是非を決定付けません…で終了。表現規制の理由が「傷つく人が」云々な駄論の近似。「救済対象の選別」からの「聖域化」。
100字の文字制限があるからだと思うのですが、言わんとしていることが分かりかねます。申し訳ございません。
id:oldriver 思うに。(1)「テロリストにも三分の理」を全否定したい。つまり「この機にヘイトスピーチも糾弾しよう」というメッセージはNG。(2)言論の自由のコストを引き受ける覚悟表明。つまり、ヘイトは「我々」の問題である。
(1)も(2)もJe suis Charlieという標語の意図、ということですね。どちらも原理的には正しい態度ではあるように見えますが、その態度が本当に正しいものかどうかは非常に疑問なところがあるのですよ。元の増田で書きましたが、これは歴史や民族アイデンティティの問題も入った話です。そもそも、ヨーロッパではユダヤ教/ユダヤ人問題が大きなイシューになっていました。それを考えたときに、増田で書いたようなje suis charlieというスローガンの問題を掲げました。
id:sardine11 「あなたの言うことには何ひとつ賛成できないが、それを言う権利は死んでも守る」ことが言論の自由の意味であり近代社会の前提であるはず。たとえシャルリに嫌悪感を抱いても反テロ運動まで批判するのはどうなの?
反テロ運動を非難しているのではありません。反テロ運動の一環としての表現の自由の中にヘイトスピーチを行う団体名が入っていることを問題視しているのです。
id:ysync 暴力であるテロと言論であるヘイトスピーチを同じ「許してはならない」でくくるのはどうかと。テロは国家権力(暴力)で排除すべきものだが、ヘイトスピーチは批判すべき対象で暴力(国家権力)で排除すべきでない。
ヨーロッパにおけるユダヤ教/ユダヤ人問題が参考になると思います。
id:enemyoffreedom アレをヘイトスピーチとしてしまったらもう宗教の風刺・批判はできないような。不快で低質な表現こそを守れ、というのが表現の自由かな
宗教の風刺批判ではなく、その背後にいる、その宗教を唯一無二のアイデンティティとせざるを得ない、社会的に疎外された移民の人々に対するヘイトスピーチになっているということを増田では書きました。後者に関しては同意しますが、表現の自由は差別的・攻撃的・他者を毀損するまでの表現を認めていません。
id:shakespeareneverdidthis 例え在特会みたいな下衆であっても、報復として殺害されることがあってはならない。
それは全くもってその通りなのですが、表現の自由を守るという文脈も下地にあるスローガンに私は在特会である、というものを使うのはおかしいのではないのかという話です。