はてなキーワード: 在日問題とは
〈佐藤優現象〉を支えている護憲派の中心は、雑誌としては『世界』であり、学者では山口二郎と和田春樹である。この顔ぶれを見て、既視感を覚える人はいないだろうか。すなわち、「平和基本法」である。これは、山口や和田らが執筆し、共同提言として、『世界』一九九三年四月号に発表された。その後、二度の補足を経ている(56)。
私は、〈佐藤優現象〉はこの「平和基本法」からの流れの中で位置づけるべきだと考える。
同提言は、①「創憲論」の立場、②自衛隊の合憲化(57)、③日本の経済的地位に見合った国際貢献の必要性、④国連軍や国連の警察活動への日本軍の参加(58)、⑤「国際テロリストや武装難民」を「対処すべき脅威」として設定、⑥日米安保の「脱軍事化」、といった特徴を持つが、これが、民主党の「憲法提言」(二〇〇五年一〇月発表)における安全保障論と論理を同じくしていることは明白だろう。実際に、山口二郎は、二〇〇四年五月時点で、新聞記者の「いま改憲は必要なのか」との問いに対して、「十年ほど前から、護憲の立場からの改憲案を出すべきだと主張してきた。しかし、いまは小泉首相のもとで論理不在の憲法論議が横行している。具体的な憲法改正をやるべき時期ではないと思う」と答えている(59)。「創憲論」とは、やはり、改憲論だったのである。
同提言の二〇〇五年版では、「憲法九条の維持」が唱えられているが、これは、政権が「小泉首相のもと」にあるからだ、と解釈した方がいいだろう。「平和基本法」は、戦争をできる国、「普通の国」づくりのための改憲論である。同提言は軍縮を謳っているが、一九九三年版では、軍縮は「周辺諸国の軍縮過程と連動させつつ」行われるとされているのだから、北朝鮮や中国の軍事的脅威が強調される状況では、実現する見込みはないだろう(60)。また、「かつて侵略したアジアとの本当の和解」、二〇〇五年版では、周辺諸国への謝罪と過去清算への誠実な取組みの必要性が強調されているが、リベラルは過去清算は終わったと認識しているのであるから、これも実効性があるとは思えない。要するに、同提言には、論理内在的にみて、軍事大国化への本質的な歯止めがないのである。
佐藤が語る、愛国心の必要性(61)、国家による市民監視(62)、諜報機関の設置等は、「普通の国」にとっては不可欠なものである。佐藤の饒舌から、私たちは、「平和基本法」の論理がどこまで行き着くかを学ぶことができる。
馬場は、小泉純一郎首相(当時)の靖国参拝について、「今後PKOなどの国際的軍事・平和維持活動において殉死・殉職した日本人の慰霊をどう処理し追悼するか、といった冷戦後の平和に対する構想を踏まえた追悼のビジョンもそこからは得られない」と述べている(63)。逆に言えば、馬場は、今後生じる戦死者の「慰霊」追悼施設が必要だ、と言っているわけである。「普通の国」においては、靖国神社でないならば、そうした施設はもちろん、不可欠だろう。私は、〈佐藤優現象〉を通じて、このままではジャーナリズム内の護憲派は、国民投票を待たずして解体してしまう、と前に述べた。だが、むしろ、すでに解体は終わっているのであって、「〈佐藤優現象〉を通じて、残骸すら消えてしまう」と言うべきだったのかもしれない。
ここで、テロ特措法延長問題に触れておこう(64)。国連本部政務官の川端清隆は、小沢一郎民主党代表の、テロ特措法延長反対の発言について、「対米協調」一辺倒の日本外交を批判しつつ、「もし本当に対テロ戦争への参加を拒絶した場合、日本には国連活動への支援も含めて、不参加を補うだけの実績がない」、「ドイツが独自のイラク政策を採ることができたのは、アフガニスタンをはじめ、世界の各地で展開している国連PKOや多国籍軍に参加して、国際社会を納得させるだけの十分な実績を積んでいたからである。翻って日本の場合、多国籍軍は言うに及ばず、PKO参加もきわめて貧弱で、とても米国や国際社会の理解を得られるものとはいえない」と述べている(65)。
元国連職員の吉田康彦は「国連憲章の履行という点ではハンディキャップなしの「普通の国」になるべきだと確信している。(中略)安保理決議による集団安全保障としての武力行使には無条件で参加できるよう憲法の条文を明確化するのが望ましい」と述べている(66)。川端と吉田の主張をまとめれば、「対米協調一辺倒を避けるため、国連PKOや多国籍軍の軍事活動に積極的に参加して「国際貢献」を行わなければならない。そのためには改憲しなければならない」ということになろう。民主党路線と言ってもよい。今の護憲派ジャーナリズムに、この論理に反論できる可能性はない。「8」で指摘したように、対北朝鮮武力行使を容認してしまえば、改憲した方が整合性があるのと同じである。
なお、佐藤は、『世界』二〇〇七年五月号に掲載された論文「山川均の平和憲法擁護戦略」において、「現実の国際政治の中で、山川はソ連の侵略性を警戒するのであるから、統整的理念としては非武装中立を唱えるが、現実には西側の一員の日本を前提として、外交戦略を組み立てるのである。」「山川には統整的理念という、人間の努力によっては到底達成できない夢と、同時にいまこの場所にある社会生活を改善していくという面が並存している」と述べている。私は発刊当初この論文を一読して、「また佐藤が柄谷行人への点数稼ぎをやっている」として読み捨ててしまっていたが、この「9」で指摘した文脈で読むと意味合いが変わってくる。佐藤は、「平和憲法擁護」という建前と、本音が分裂している護憲派ジャーナリズムに対して、「君はそのままでいいんだよ」と優しく囁いてくれているのだ。護憲派ジャーナリズムにとって、これほど〈癒し〉を与えてくれる恋人もいるまい(67)。
10.おわりに
これまでの〈佐藤優現象〉の検討から、このままでは護憲派ジャーナリズムは、自民党主導の改憲案には一〇〇%対抗できないこと、民主党主導の改憲案には一二〇%対抗できないことが分かった。また、いずれの改憲案になるにしても、成立した「普通の国」においては、「7」で指摘したように、人種差別規制すらないまま「国益」を中心として「社会問題」が再編されることも分かった。佐藤は沖縄でのシンポジウムで、「北朝鮮やアルカイダの脅威」と戦いながら、理想を達成しようとする「現実的平和主義」を聴衆に勧めている(68)が、いずれの改憲案が実現するとしても、佐藤が想定する形の、侵略と植民地支配の反省も不十分な、「国益」を軸とした〈侵略ができる国〉が生まれることは間違いあるまい。「自分は国家主義者じゃないから、「国益」論なんかにとりこまれるはずがない」などとは言えない。先進国の「国民」として、高い生活水準や「安全」を享受することを当然とする感覚、それこそが「国益」論を支えている。その感覚は、そうした生存の状況を安定的に保障する国家―先進国主導の戦争に積極的に参加し、南北間格差の固定化を推進する国家―を必要とするからだ。その感覚は、経済的水準が劣る国の人々への人種主義、「先進国」としての自国を美化する歴史修正主義の温床である。
大雑把にまとめると、〈佐藤優現象〉とは、九〇年代以降、保守派の大国化路線に対抗して、日本の経済的地位に見合った政治大国化を志向する人々の主導の下、謝罪と補償は必要とした路線が、東アジア諸国の民衆の抗議を契機として一頓挫したことや、新自由主義の進行による社会統合の破綻といった状況に規定された、リベラル・左派の危機意識から生じている。九〇年代の東アジア諸国の民衆からの謝罪と補償を求める声に対して、他国の「利益のためではなく、日本の私たちが、進んで過ちを正しみずからに正義を回復する、即ち日本の利益のために」(69)(傍点ママ)歴史の清算を行おうとする姿勢は、リベラル内にも確かにあり、そしてその「日本の利益」とは、政治大国を前提とした「国益」ではなく、侵略戦争や植民地支配を可能にした社会のあり方を克服した上でつくられる、今とは別の「日本」を想定したものであったろう。私たちが目撃している〈佐藤優現象〉は、改憲後の国家体制に適合的な形で生き残ろうと浮き足立つリベラル・左派が、「人民戦線」の名の下、微かに残っているそうした道を志向する痕跡を消失もしくは変質させて清算する過程、いわば蛹の段階である。改憲後、蛹は蛾となる。
ただし、私は〈佐藤優現象〉を、リベラル・左派が意図的に計画したものと捉えているわけではない。むしろ、無自覚的、野合的に成立したものだと考えている。藤田省三は、翼賛体制を「集団転向の寄り合い」とし、戦略戦術的な全体統合ではなく、諸勢力のからみあい、もつれあいがそのまま大政翼賛会に発展したからこそ、デマゴギーそれ自体ではなく、近衛文麿のようなあらゆる政治的立場から期待されている人物が統合の象徴となったとし、「主体が不在であるところでは、時の状況に丁度ふさわしい人物が実態のまま象徴として働く」、「翼賛会成立史は、この象徴と人物の未分性という日本政治の特質をそれこそ象徴的に示している」と述べている(70)が、〈佐藤優現象〉という名の集団転向現象においては、近衛のかわりに佐藤が「象徴」としての機能を果たしている。この「象徴」の下で、惰性や商売で「護憲」を唱えているメディア、そのメディアに追従して原稿を書かせてもらおうとするジャーナリストや発言力を確保しようとする学者、無様な醜態を晒す本質的には落ち目の思想家やその取り巻き、「何かいいことはないか」として寄ってくる政治家や精神科医ら無内容な連中、運動に行き詰った市民運動家、マイノリティ集団などが、お互いに頷きあいながら、「たがいにからみあい、もつれあって」、集団転向は進行している。
ところで、佐藤は、「仮に日本国家と国民が正しくない道を歩んでいると筆者に見えるような事態が生じることがあっても、筆者は自分ひとりだけが「正しい」道を歩むという選択はしたくない。日本国家、同胞の日本人とともに同じ「正しくない」道を歩む中で、自分が「正しい」と考える事柄の実現を図りたい」と述べている(71)。佐藤は、リベラル・左派に対して、戦争に反対の立場であっても、戦争が起こってしまったからには、自国の国防、「国益」を前提にして行動せよと要求しているのだ。佐藤を賞賛するような人間は、いざ開戦となれば、反戦運動を行う人間を異端者扱いするのが目に見えている。
この佐藤の発言は、安倍晋三前首相の目指していた「美しい国」づくりのための見解とも一致する。私見によれば、安倍の『美しい国へ』(新潮新書、二〇〇六年七月)全二三二頁の本のキモは、イランでのアメリカ大使館人質事件(一九七九年)をめぐる以下の一節である。「(注・反カーター陣営の)演説会で、意外に思ったことがある。人質事件に触れると、どの候補者もかならず、「私は大統領とともにある」(I am behind the President.)というのだ。ほかのことではカーターをこきおろす候補者が、そこだけは口をそろえる。/もちろん、人質にされている大使館員たちの家族に配慮するという意図からだろうが、アメリカは一丸となって事件に対処しているのだ、という明確なメッセージを内外に発しようとするのである。国益がからむと、圧倒的な求心力がはたらくアメリカ。これこそがアメリカの強さなのだ。」(八七~八八頁)
文中の、「人質事件」を拉致問題に、「大統領」を安倍に、「アメリカ」を日本に置き換えてみよ。含意は明白であろう。安倍は辞任したとはいえ、総連弾圧をめぐる日本の言論状況や、〈佐藤優現象〉は、安倍の狙いが実現したことを物語っている。安倍政権は倒れる前、日朝国交正常化に向けて動きかけた(正確には米朝協議の進展で動かされたと言うべきだが)が、こうなるのは少なくとも今年春からは明らかだったにもかかわらず、リベラル・左派の大多数は、「日朝国交正常化」を公然と言い出せなかった。安倍政権が北朝鮮外交に敗北したのは明らかである。だが、日本のリベラル・左派は安倍政権ごときに敗北したのである。
〈佐藤優現象〉は、改憲後に成立する「普通の国」としての〈侵略ができる国〉に対して、リベラル・左派の大部分が違和感を持っていないことの表れである。侵略と植民地支配の過去清算(在日朝鮮人の人権の擁護も、そこには含まれる)の不十分なままに成立する「普通の国」は、普通の「普通の国」よりはるかに抑圧的・差別的・侵略的にならざるを得ない。〈佐藤優現象〉のもとで、対北朝鮮武力行使の言説や、在日朝鮮人弾圧の言説を容認することは、戦争国家体制に対する抵抗感を無くすことに帰結する。改憲に反対する立場の者がたたかうべきポイントは、改憲か護憲(反改憲)かではない。対北朝鮮武力行使を容認するか、「対テロ戦争」という枠組み(72)を容認するかどうかである。容認してしまえば、護憲(反改憲)派に勝ち目はない。過去清算も不十分なまま、札束ではたいて第三世界の諸国の票を米国のためにとりまとめ、国連の民主的改革にも一貫して反対してきた日本が、改憲し、常任理事国化・軍事大国化して、(国連主導ではあれ)米軍中心の武力行使を容易にすることは、東アジア、世界の平和にとって大きな災厄である(73)。
改憲と戦争国家体制を拒否したい人間は、明確に、対北朝鮮武力行使の是非、対テロ戦争の是非という争点を設定して絶対的に反対し、〈佐藤優現象〉及び同質の現象を煽るメディア・知識人等を徹底的に批判すべきである。
註
(1)岩波書店労働組合「壁新聞」二八一九号(二〇〇七年四月)。
(2)ブログ「猫を償うに猫をもってせよ」二〇〇七年五月一六日付。
(3)ただし、編集者は佐藤が右翼であることを百も承知の上で使っていることを付言しておく。〈騙されている〉わけではない。
(4)「佐藤優という罠」(『AERA』二〇〇七年四月二三日号)中のコメントより。
(5)インターネットサイト「フジサンケイ ビジネスアイ」でほぼ週一回連載中の〈 Permalink | 記事への反応(0) | 18:37
北朝鮮が日本の在日問題に苦言呈したら取り合う必要ないって考えなのかな?お前ネトウヨみたいだね
ネトウヨ「北チョン自身が抱える人権問題の相対化の試み!!!邪悪な策動!!!相手する必要ない!!!」
お前「近親愛を用いた同性愛者の受難の相対化の試み!!!邪悪な策動!!!相手にする必要ない!!!」
お前が『政治』理由に無視しようとし踏みつけ続けてんのは、近親愛者ってマイノリティなんだけど
北チョンは在日の苦境とかどうでもいいと思ってると思うよ?拉致問題の相対化だとは思うよ?
でもそれで在日差別放置していいの?「告発者の意図が邪悪だから無視してよい」って?ほんとに?
やっぱはてサって頭悪いわ
呉座勇一氏のNHK大河ドラマ降板を憂う - 與那覇潤|論座 - 朝日新聞社の言論サイト
今話題のこれ。自分は一般論部分には特に反論はないし具体論についても部分的に同意するところはある。
まあその上で色々思うとこがある中で恐らく最もどうでも良さそうなところに噛み付くのだが。
元のツイートは職業や学歴など、本人の選択次第で「移動可能」な特性を非難するのは差別ではない、とする(呉座氏以外の)主張に対して、そうしたロジックを認めれば「在日問題も『帰化しろ』で終了してしまう」と批判したものだ。
これの話って五野井DaDa論争のことだろうと思う。以下のTogetter見るに個人的には心底”Theネット”という感じで大変意義のない争いにしか見えんけど。
学者「ナチズムには差別が内在しているので表現の自由に値しない。共産主義?それは別」 - Togetter
けどこの與那覇先生の読解って正しいんですかね?当時のやり取りそのまま引用するとこういう感じで(敬称略)。
五野井「どの表現も加害となりうる。では表現一般とヘイトスピーチの違いは何か。それは後者が差別煽動であり、それに踊らされた者らによって現在まで多くの人々が傷つき殺されてきた点だ。「私にはヘイトスピーチする自由がある」を「私には差別に基づく加害や殺人煽動する自由がある」に置き換えてみてくれ。」
DaDa「何言ってんだ、その言い分だと共産主義に踊らされた者らによって現在まで多くの人々が傷つき殺されてきたから、共産主義は禁止もしくは監視あるいは一定の制限の下にしか存在を許されない、なんて理屈が罷り通ることになる。」
五野井「わたしは共産主義には微塵の魅力も感じないが、そもそも共産主義はヘイトスピーチと違って、人種差別が内在していないことは明らかだ。ナチズムが禁じられる理由は、まさに人種差別と差別煽動が埋め込まれているからである。「差別煽動」という術語をわざと外す暴論には感心しない。誠実な反論を望む。」
DaDa「あら、共産主義に内在的に埋め込まれている階級出自による煽動は差別でないとは斬新な見解ですこと。」
五野井「人種差別の話をしているのになぜ階級の話になるのか。人種は階級のように移動できるのだろうか。できないだろう。それをあえて比較対象とするのは不誠実だ。為にする批判ではなく、改めて誠実な議論を求める。」
DaDa「階級は移動できる問題ないって安直に社会学者が言うの致命的な発言でなくって?」
五野井「人種って移動可能なのですね(笑)。あなたは、人種は移動できるという想定を前提でわたしに議論をふっかけてきたわけですが、まずはどうやったら人種が移動できるかを教えて下さい。なお階級は、容易ではありませんが移動可能ですよね。ライフピアも大勢いるし。あと社会学者って誰のことかしらん?」
DaDa「人種は移動できるっていつ何処で誰が言ったんですかマイケル・ジャクソンですか?」
五野井「わたしが移動不可能な人種差別を問題にしているのに、あえて移動可能性のある階級の問題とわざと等価にして食いついてきたのはあなただろう。ポップなネタに持ち込んで、ごまかそうとする悪いクセはやめなさい。不誠実な相対化で立論をしているかぎり、あなたには勝ち目はない。で、社会学者って誰よ?」
DaDa「だから、人種>階級が絶対に優先だって学問的定説あるんですかあ、差別に優劣ありってそれこそ差別的でしょう。あと社会学者だか政治学者だか人文学者だか知らんけど階級移動なんか些末なことって言い放てるなら社会問題にコミットする立場として大問題に違いないと思いますよ。」
本当、意味のない議論だよ。このTogetterのはてブが何で真面目に議論してるかも理解できんほど噛み合ってないやり取りなんだわ。
それはともかく、五野井先生は「職業や学歴など、本人の選択次第で「移動可能」な特性を非難するのは差別ではない」なんて言ってます?これ”差別を論じるに人種と階級は移動可能の可否に違いがあるから等価に扱えない”であって”移動可能な属性なら差別ではない”ではないんじゃないかなあ。DaDa氏も借金玉氏も呉座先生も與那覇先生も勘違いされてるようですが。いや、たぶんDaDa氏は他3人と違って最後の最後で気付いたんでしょうね。だから最後に「人種>階級が絶対に優先だって学問的定説あるんですかあ、差別に優劣ありってそれこそ差別的」と五野井先生が階級差別の存在を否定していない可能性を認識したような反論をしている(反論として妥当とは言わないが)。
「お嬢様の自己実現なんて知らんがな」から「女性の自己実現を否定している」という解釈はダメだと與那覇先生がおっしゃるなら、直接言ってもないことを実際にあった主張だと断定するのはギルティーでしょうとも。しかしまあ素晴らしい見識を備えた学者方がアルファツイッタラーが気付いていることにすら気付かないのはいかがなものか。それこそ「誤読」ないし「意図的に歪曲」と言われても仕方ないのでは。
「実証的に文言を読み解けば不当だと論証できる非難」を傍観するべきでないということのようなので気になったところ指摘しておく次第。
まあ、五野井先生もかなり微妙な手法使ってて、例えば「共産主義には人種差別はない。ナチズムには人種差別と差別煽動が内包されている。差別煽動という術語を外すな」と言っていたのに階級差別の話を持ち出されたら「人種差別の話をしている」と言って差別煽動の部分を吹っ飛ばしてしまう。だから勘違いを引き起こすわけで…。もっと問題なのは五野井先生は当初の書き方だとヘイトスピーチについては差別煽動であることに重きを置いてたはずなんですね。それによって生じる被害の害悪は果たして「移動可能」か否かで変わるものなのか?差別を語るうえで属性の「移動可能性」に着目すること自体は王道にしてもそことの論理的接続性は本当にあるのか。
ところがDaDa氏はそこを指摘するわけでもなく、何故か人種差別云々に乗っかってしかも「移動可能」とかいうそれを考慮すること自体は実はわりと妥当な部分に噛み付いて滅茶苦茶にするしなんなんでしょうねこれ。そもそもマルクス主義持ち出してきたのも大体イメージ人によって変わるとこだから困ったもんだなと思わないでもない。
それで言うとここには引用してないけど階級について「移動困難」だと五野井先生が認めているところがあって、むしろそっちの方が突っ込みどころでは?ヘイトスピーチの定義を調べた人は「変更不可能または困難な属性を理由に~」みたいな文章見たことあると思うんですよ。移動困難ならば移動不可能と同じカテゴリーではってことね。もちろん困難とはどういう意味でどの程度困難なのかって話がその次に待ってるんだろうけど…。
まあ今更どうでもいいね。語ってもしゃーなし。
移動可能というか変更可能/不可能を考慮することはあるということを上で書いたので一応実例は出しておく。
まあわりと差別とかを考えたことある人には馴染みがある考え方の1つだと思うのだが、呉座先生(ともしかしたら與那覇潤先生)の反応見るにあまり知られてないのかな。
日本国籍は,我が国の構成員としての資格であるとともに,我が国において基本的人権の保障,公的資格の付与,公的給付等を受ける上で意味を持つ重要な法的地位でもある。一方,父母の婚姻により嫡出子たる身分を取得するか否かということは,子にとっては自らの意思や努力によっては変えることのできない父母の身分行為に係る事柄である。したがって,このような事柄をもって日本国籍取得の要件に関して区別を生じさせることに合理的な理由があるか否かについては,慎重に検討することが必要である。
上記制度の下で父母が婚姻関係になかったという、子にとっては自ら選択ないし修正する余地のない事柄を理由としてその子に不利益を及ぼすことは許されず、子を個人として尊重し、その権利を保障すべきであるという考えが確立されてきているものということができる。
多様性を尊重するのが大事とか言いながらそんな多様性の無いところに子供を行かせることが理解できない、という話なのでしょうか。
一応その前提で私の考えを書いていこうと思います。
まず多様性を尊重できる人に育つかどうかと、多様性のある環境にいるかどうかはあまり関係が無いと思います。
例えばマルチカルチュラリズムを標榜するオーストラリアがちっとも異文化を尊重できない白人を量産しているのは白豪主義という思想が根強いことだし、アメリカでも未だに黒人差別が根強いのは、かつての奴隷開放運動が尾を引いているからだと聞いたことがあります。日本の在日問題なんかもそうですよね。
多様性が尊重できるかどうかは、究極的には個人の資質や思想信条もあるため、本質的には簡単な問題ではないし、全く無意識のうちに多様性の尊重を欠いた言動や行動をしてしまうこともあるでしょう。
以前Googleのプログラマが「女性にプログラミングという仕事は向いていない」ということを言って解雇されたことがありました。知的水準が高いことが期待されるGoogleのプログラマですら、こういうことをしてしまうわけです。なので、水に放り込めばそれなりに泳げるだろうと言わんばかりに多様性に飛んだ環境に放り込んでみても、うまく行くかはその子の資質次第ということになり、どちらかというとハイリスクローリターンな掛けになる可能性が高いでしょう。
もしも本当に多様性を尊重する子供になって欲しいなら「 多様性を尊重するとはどういうことか」を学ばなくてはなりません。そしてこれは歴史の中で人類が試行錯誤してきたことなので、学校で学べることでしょう。
こういった前提になるものなしに多様性を尊重しろと言っても、よくわからないのではないでしょうか?
セクシャルマイノリティの人権問題に敏感でありながら、教室内で行われるいじめや差別に無頓着な人を見たことがあると思います。
アメリカの黒人問題は悲劇しか産まないと拳を握りながら一方で在日排除などと大騒ぎする人もいるでしょう。
自分たちは差別されている被害者だと言いながら、同じ口で他者を差別している人もいるでしょう。
こういう人々もまた多様性を尊重することは大事だ、と思っているでしょうが、一方で「この問題とあの問題は別」という考えも持っているからこのような矛盾したことをやってしまう。
多様性を尊重する、という上で特に大事なのは一貫性です。そしてこの世界では今も一貫性を追求しています。
ですが、一貫した多様性の尊重をする事は人類が普遍的に実践できるほど出来上がっていません。ですが、今できる範囲で最大限に多様性は尊重できるようになるべきです。
多様性を尊重できるようになるには、まず、世界の現状を理解できる程度の知性が必要です。次に、短絡的に判断しない慎重さも必要です。最後に変化していくことに躊躇しない精神性が必要です。これらの3つは、上質な勉強を基盤にした経験の中で身についていくものです。
これまでの人々がやってきた試行錯誤を勉強によって理解した上で、自分は次に何をするかを考えて実践する、人々と情報交換しながら自分を微調整していき、より良い多様性の尊重を目指していく、ということですね。
保険や生活保護を金儲けの道具にするヤクザと同じ人種にまで失墜した。
こんなCM見て軽々しく「在日差別最低!サッカー最高!」と言われても、お前らに俺の苦しみの何がわかるんだって怒りしか湧いてこないよ。
むしろサッカー最高!ナイキ最高!の道具に自分たちの悲しみが使われたことが許せない。
『涙が宝石になる人魚(雪女)』の話ってファンタジー物の漫画や絵本に出てくるじゃん?
アレの気分かな。
自分たちの悲しみが商売道具にされて、それによって傷だらけのカサブタを次々に引っ剥がされるのは鬱陶しいとしか言いようがない。
ぶっちゃけこれを見て「在日批判ダッセー」と明日からいい始める奴こそ、まさにちょっとしたことで在日イジメをしてた奴ら。
そしてそいつらは結局こっちのことを助ける気なんて無くて「可愛そうな在日くんを使って女の子(男の子)にアピールしちゃお♡」ぐらいにしか思ってない。
けしかけてきてんだよナイキは、俺たちに対して鬱陶しいウンコバエみたいな連中を。
そうしてソイツらを無碍に扱うとかえって不味いなと迎合していくと、最後には「可愛そうな在日くんを助けてあげた俺たちに見返りは?」って空気になる。
んで、本当に仲良く慣れたはずの本当に差別意識がなかった友達は、俺が彼らと仲良くしてるのに遠慮して遠巻きに見てるだけでいてくれたりするわけ。
現在、ジョージ・フロイド氏の死をきっかけにアメリカだけではなく、世界レベルの人種差別撤廃運動が盛んだ。
ただ、この活動は結局何も意味を成さないように思う。正確には何かしらの影響は出る。コロナによる閉塞感や不況に苦しむアメリカ国民のガス抜きになったり、マスター/スレーブや白黒という既に定着した用語がコンテキストを無視して言葉狩りされたり、あるいはトランプが失脚して後のアメリカの動きが大きく変わるかもしれない。
それだけだ。アメリカでの人種差別の本質は何も解決しない。あれはアメリカの社会構造/経済構造に深く根ざしている。100年かけて作られた社会構造を変えるには100年かかるのかもしれない。少なくとも表面的な言葉狩りで悦に入ってるだけでは何も変わらないだろう。
まず、アメリカにおいて「黒人あるいはヒスパニッシュを恐れ疑うのは正しい」というどうしようもない事実がある。
言うまでもないが個人を取り出したときに善良な人は山ほどいる。私の知人にも黒人は居るが彼らをことさら警戒することは当然無い。
ならばなぜ警戒することが正しいのか? それは彼らが貧困層としてスラムに多く居るからだ。スラムには黒人やヒスパニッシュが多く居るの方が正確かもしれない。性善説にしろ性悪説にしろ衣食足りて礼節を知るので、貧民街の治安は一般的に悪い。それは教育不足によるモラルの崩壊や全うな職にありつけないため犯罪に手を出さないと生きていけないという事に起因する。かつての日本の同和差別なんかもそうなのだが「ガラの悪い地域の人間と付き合うな」というのは小市民的な処世術としては致し方ないと言わざる得ない。お金があれば犯罪をしないかと言われれば当然そんなことはないが「今日のご飯のために」盗みはリスクが高すぎるのでしないという話だ。
適切な教育を受けねば経済的に自立できず、経済的な自立ができなければ犯罪に走らざる得ず、その状態では適切な教育を与えられない。そして「中には善良な人もたくさん居る」というのは事実と知りながらも貧困層と向き合うときには警戒せざる得ない。10人に1人の犯罪に走ろうとする人間が目の前の知らない誰かとは分からないからだ。
日本から見るとアメリカは教育先進国として紹介されることもある。それは一面で事実だ。多様性を重視しリーダシップ型の人間を育てるのに適した学校も多い。
義務教育期間の授業料が無料という話を聞いたこともあるだろう。そんなアメリカで経済的な理由で教育が受けれないというのは何故だろうか。なんのことはない、アメリカの教育費はメチャクチャ高額なのだ。
アメリカに住めばわかるがアメリカの教育費は基本的に高い。何故なら学区という考え方があるからだ。
日本では文部省主導による教育指導要領によってどの小中学校も基本的には同じことを教える。同じことを教えるから原則的には設備も似たようなものだ。教室があり体育館がありプールがある。調理実習のための家庭科室や実験のための理科室、音楽室なんかもふつうはあるだろう。最近ならコンピューター室とかもあるかもしれない。そんなのは当たり前で多少の地域性や教員のスキルの優劣はあっても、日本ではどの学校に行っても誰に教わってもだいたい同じことが学べる。だが、アメリカではそんなことはない。
アメリカの学校は学区ごとに完全に独立している。これは設備の有無はもちろん、教える内容も全然違う。進化論の代わりに創造論教える学校も普通にある。何故このような独立性があるかといえば、学校の費用は学区の税金から賄われている。つまり学校の周りの地価/家賃によって学校の予算が変わる。そして、予算のある学校は良い施設と教員を揃え先程あげたような先進的な教育をしてくれる。では、そうでない学校は? 不足した設備とやる気のない教員により十分な教育を受けることができない。
しかもアメリカは日本なんて比べ物にならないほどの学歴社会だ。なので、親は子供に良い教育を受けさせようと良い学区、すなわち家賃の高いところに住む。子供のために良い学区に住むなどもザラだ。そうして比較的裕福な層が住むことで治安も安定する。市の予算があるので街も綺麗で便利になる。すると子供を持ってない層でも住みたがる。アメリカで治安はマジで大事だ。そうすると家賃はどんどん上がり、貧困層は住めなくなり下手をすると元々居た土地から追い出される。
この学区というやつは相当細かくて、道路挟んで一つで世界レベルの金持ちが住む超優良学区と経済的に弱く残念な学区が同じ地域にあったりする。パロアルトとか。
サンフランシスコ等のシリコンバレー界隈で時々問題になる不動産の高騰問題がこれだ。ただ、これはアメリカ全土で程度はさておき起こっている事だ。家賃と教育や治安といった部分が強く結びついているため、経済的弱者が這い上がる事が難しく裕福層との差分は時と共に拡大していく。
無論、アメリカは自由の国だ。アメリカンドリームの国でもある。当然、貧困層への教育も考えており特に成績上位者を特別に上級な学校に通えるようにする仕組み等も整っている。「機会の平等を!」これに関してアメリカは取り組んでいる。
しかしながらそれは上澄みを救う対応だ。伸ばすべき人をもっと伸ばす。これはとても理にかなったことだが、固定化された格差の解決にはならない。必要なのは底上げだ。
これには奇しくも日本型の「結果平等」の考え方の方が向いている。日本の教育は決して万能では無いが、格差を固定させない----すなわち富の再分配としては良く機能している。
さて、話を戻そう。
先程から経済格差の固定の問題について話してきた。では何故それがアメリカでの人種差別の問題に繋がるのか?
このような社会構造が出来たとき、100年200年前の経済的弱者は誰だっただろうか? そう、奴隷解放されたばかりの黒人たちや中南米からやってきたヒスパニック達だだ。
ここから経済格差が固定され拡大された。今以上に白人至上主義な世相も大きく影響しただろう。
ヨーロッパの時代かユダヤ人差別を筆頭とした差別はあるし、それはどの地域、どの時代でも残念ながら変わらない。日本だって同和問題とか在日問題とか色々ある。
ただ、今のアメリカでそれはより深刻だ。単なる風説とか好悪だけではなく、必要悪として「貧困地域の人間を恐れる」という事と一体化してしまっている。元々差別にあっていた人種そのものが地域で固定されかつ教育/経済の両方に負のスパイラルが入り用意に抜け出せないという最悪の状態だ。この状態では単に黒人を恐れるなと言っても仕方がない。なぜなら犯罪を犯すものも事実として多いのだ。もっと良い職をというのも難しい。それは適切な教育を受けてないからだ。そして、それは偏見をどんどん加速させていく。事実と虚実がおり混ざって差別の根はどんどん深くなる。誤解と偏見を無くせば良い生易しい話ではない。
これは政治が全うに富の再分配をして、地域経済によらない教育/地域経済によらない治安というものを打ち立てるしかない。もちろん、偏見をなくすための活動はとても大事だが同時に事実としての固定化された経済と教育の格差を解決しないと根本治療とならない。
ただ、今までのアメリカはそういう国ではないし、これからなるにはかなり長い道のりの気がする。事実、このデモのさなかでそういったことはさほど話題にはなっていない。もっと初等教育を平等にすることに力を入れる方が大事なのに。誰だって今持ってる利権を手放したくないのだが、そこから目を逸しては今回の人種差別問題もさしたる成果は得られないのだろうな。。。。
例えば「ネトウヨ」批判もいろいろな文脈で「ネトウヨ」が定義されて批判されているけど、文章を読めば「この『ネトウヨ』批判は在日問題について書かれてるから、こういう意見を言ってる人を対象にしているな」とか「あの『ネトウヨ批判』は安倍政権についても述べてるから、ああいう意見を言ってる人を対象にしているな」って区別ができるわけじゃん。
別に俺ははてサに批判的ではないけど、その批判する文章を読めば「この批判の対象はは○○のブコメについてるああいう意見のことを言ってるな」って分かるもんでしょ。まあ、増田における雑な「はてサ」叩きにおいては長文なんて珍しいから藁人形っぽいのも多数あるのは否定せんけど
公平な目から整理。
(1)はすみ氏は元々安倍ファンを公言していた(ファングループも主催)
(2)しばき隊は反安倍(ぱよちんこと久保田、のっちこと石野はその急先鋒)
(3)∴しばき隊 →右翼≒レイシストと決めつけて敵視→ はすみ という対立構造の根はここにあった
(4)シリアの難民問題が世界的な話題に! → 日本でも連日報道され、メディアに乗り易い雰囲気
~~~~~~~~~~~~~~~~~ こ こ ま で 前 段 ~~~~~~~~~~~~
(5)9月頭、はすみ氏が「偽装難民で欧州が迷惑しているニュース」をみて「そうだ、難民しよう!」という偽装難民揶揄の
イラストをフェイスブックのコミュニティ上に掲載→元々のファン達が「いいね」を押したり、あるいはシェアをしてフェイス
ブック上に拡散
(6)約1ヶ月後、(たまたま?)はすみ氏の「偽装難民揶揄」イラストが政権批判の旗手・「SEALDsの奥田氏」の目に留まる。
(7)奥田氏、「ありえないっしょ!」と仲間・シンパ・信者に攻撃を指示
(8)「はすみとしこの世界」に対して、↑のイヤガラセ行為が開始される。当初は元々のコミュニティユーザーとの言い合い程度
だったが、調子に乗った久保田・石野を中心とした連中、仕事上の人脈等を駆使して、世界中に「ジャップがシリア難民を差別
している!」(←この時点ですり替えが行われた事に注目)と通報、その中で、久保田に近しいと思われる「Japan Times(ここも
アヤシイw)」が「公式報道」。それを皮切りに、外電が続々報道をしはじめ、それを引用する形で国内メディアも「難民少女を揶揄
したイラスト(まさに伝言ゲーム状態)が物議を醸す」式の報道を開始。
(9)気をよくした久保田・石野ら、「外国からも叱られたぞwww?みろ、ここでもあそこでも!」とはすみ氏のページへ貼りつけを
しまくって「攻勢」を強める
(10)ソレを全く意に介さないどころか、創作意欲高まったはすみ氏、不良在日問題、攻撃の発端となったSEALDs等を揶揄したと
(11)久保田ら激昂!「反省しないどころか挑発を続けるはすみを「どんな手段を使ってでも」絶対ぶっ潰す!!」と決意
(12)この間、はすみ氏は「偽装難民のイラスト」の参考にした難民少女写真の写真家と直接コンタクトを取り「あくまで偽装難民批判
であること」「迷惑がかかるので、取り下げます」と「和解」。イラストはフェイスブックページから消される
(13)問題解決、と思われたものの、(11)の件もあり「発狂」おさまらない久保田らは、はすみ氏のページそのものをフェイスブックから
消し去ろうと、Change.orgなどで「反レイシズム」をお題目としたはすみ叩きキャンペーン等を始めるも、イマイチ効果が現われず
(14)難民イラスト削除後もしつこくページに粘着し、同じ写真をひたすら貼り続けてページを荒らし続けた久保田に、コミュニティメンバーが
「いい加減ウザイ」とはすみ氏に苦情を入れる。はすみ氏は「誰でも自由に来てね^^」のスタンスだったが、苦情が入ったので
スタンプ王子(その時の彼のあだ名)こと久保田を「泣く泣く」アク禁とする
(15)久保田が消えた後、アンチである久保田の仲間筆頭の石野らが頑張るも、はすみ氏は全く馬耳東風、また、リベラルサヨクの習い性から、
ファンの「正論」に対して全く論負けしており、アンチの攻撃に効果が現われず
(16)アンチ「そうだ!はすみが頑張るのはファンがウザイからだ!!ファンを攻撃して嫌がらせしてやって過疎らせれば、はすみは
消えるはず!!」と次の一手を考え付く→久保田「ドイヒーなリストを作成中^^」と脅し、実際に作成、仲間の石野らと公開(11/1)、
それを使って「一般人のファン」(約400人)にウヨ・レイシストとレッテルを貼って恫喝を開始する
(17)それから数日
久保田のツイッターは「安倍●ね」的なツイートが並んでおり、はすみ氏のページでも「安倍の支持者がこんなレイシストでいいんですか?安倍首相w」
「レイシストが支持する安倍もきっとロクなもんじゃないww」「レイシストが支持する安倍を支持している奴もレイシストだww」という、得意の魔女狩り
理論満載の詭弁で政権叩きに繋げていたのをみると、当初目的は「レイシズム云々」ではなく、安倍政権にダメージを与える為の草の根戦術の一つだった、
と解釈できる。
例のイラストの問題について、思うところがあったのでちょっと書きます。
なぜ日本人がシリアの難民問題をここまで苛烈な表現で描くのかわからないでいましたが、今は納得いく仮説が立てられます。今からそれを説明します。
まず、下記の作者の発言を読んでください。
はすみとしこの世界
6時間前 ·
昨夜遅く、木村という記者から取材の申し入れがあったのでメッセージにて解答しました。さっそく記事になったようです。(投稿下部にリンクを添付)
一部記者の主観により削除された部分があったのでここに公表します。
尚、記事内の解答で、シリアとイラクが混同されていますが、答えたのが真夜中だったため寝ぼけていました。読み辛いでしょうがご了承下さい。
------------------------------
国連事務総長の潘基文氏は(中略)周辺各国に難民を受け入れるように促すだけという無能さをさらけ出しています。
(削除された部分)
そんな中、日本人の多くは戦争難民や経済難民の受け入れには反対しています。それは何故かというと、日本には既に65年も前に大量の戦争難民を受け入れており、彼らが理由で、日本に住む日本人が冷遇を受けているからです。日本には被害者のふりをして特権を得ている在日朝鮮人または在日韓国人(以下「在日」)と呼ばれる存在があります。彼らは日本人よりも優遇され、日本人が支払った税金で何不自由無い暮らしを送っています。国民たる日本人は生活保護が受けられずに多数が餓死しているにも拘わらず、在日の14%以上が生活保護を受けています。日本にいる在日韓国人は67万人とされていますが、その内 45万人は無職で、在日は生活保護が簡単に受けられますが、日本人への生活保護はハードルが高くてなかなか受けられないのが現状なのです。
(削除部分終わり)
私は、難民であるのか無いのかをきっちり調べ、本当の難民であれば人道的に助けるべきだと思っていますが、一部(報道では3割)の偽難民がそれを権利と思いやってくる事に問題を感じ、問題提起として、偽難民について皆さんが考えるきっかけをつくりたかったのです。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/kimurama…/20151006-00050184/
https://www.facebook.com/はすみとしこの世界-984279651598190/timeline/ より
まず問題点1、シリアとイラクを間違えた。寝ぼけてたと言い訳してますが、ここまで苛烈な表現をした方にしては自覚が足りなさすぎです。きっと本当はシリア難民問題などどうでもいいのでしょう。
そして問題点2、ここ重要です。在日問題の話を主張したかった。シリア難民問題のことを描いたイラストの話なのに、です。
で、問題点3。偽難民について問題提起したかったのに、日本語版のイラストしか作成してない。本当にこの点について問題提起したいなら、今正に事に当たっている関係各国の人に届かなくてはならない。ならば少なくとも英語版の作成くらいは頭をよぎるはず。そうした動きが一切ない。
以上のことを鑑みて、はすみ氏が本当に主張したかったのは、65年前に日本にやってきた戦争難民問題ではないかと思うわけです。それならば、日本人に対して主張をしたい日本国内の問題で、英語版すらない理由も、過激な表現をする動機も説明できます。
そしてそれならば、表現の仕方を間違えたと言っていいでしょう。例のイラストは2重の意味で誤解を招く作りになってしまいます。まず、少女一人しか描かれていないあのイラストで、『一部の』不法移民を非難しているようには見えません。また、本当に主張したいのが65年前に日本にやってきた戦争難民問題だったとして、それをシリア難民の少女で表しても全く伝わってきません。
まぁ、表現が必ずしも狙った通りに行くとは限らないのが創作です。でも、これはさすがに的を外しすぎです。
以上のことは、根拠はありますが私の想像に基づいた話であることはお断りしておきます。でも、これが動機ではないとしたら上記3つの問題点が謎のままです。本人が説明をしてくれないかなー、チラッ、とネタ振りをして、終わります。
http://documentary.nicovideo.jp/
http://blogos.com/article/122730/
TVでは放送出来ないタブーをネットで放送しようという試みだ。
田原総一朗さんがまだ元気だった頃は朝生でタブーを知れたが今は朝ナマも機能せず。
田原さん亡き後次世代は池上彰さんに頼るしか無いかと思っていたが
ニコ生がこういう試みを始めたのでありがたい。
ついこの間までは言われていたが
「タイズ・ザット・バインド ~ジャパン・アンド・コリア~エピソード1」
http://live.nicovideo.jp/watch/lv227557733
「著作:ドワンゴ / 制作:Blakeway Productions / 配給:BBCワールドワイド」
って発注してBBCがBlakeway Productionsに作らせてドワンゴに映像を渡したってこと?
で、その中身ですが、
朝鮮と日本の関係を豊臣秀吉の朝鮮出兵から語った視点は面白かった。
耳や鼻を戦利品で持って帰ってくるというISISばりの頭のおかしい日本人達の話は初めて知って驚いた。
隠されているわけでもないのにこの史実を自分が知らないということはどういうことなんだろう?
と考えさせられた。
相変わらず簡単に洗脳され情報操作に踊らされてしまうんだなと思い知らされた。
ほとんど私の知った情報でしかなかったので特に驚きはなかった。
なんかやたら川上さんは韓国寄りに見えるかもしれないがこれが現実だ!的に言っていたが
個人的にはどっちに偏っているとも思わなかった。
個人的には凄く胡散臭く思っている。
ぶっちゃけ私はそんなことに興味が無い。
理由①戦後に生まれた私には史実が正しいかどうかなどもう確認するすべがないのでどうしようもないから。
理由②韓国人だろうが日本人だろうがアメリカ人だろうが黒人だろうが全部同じ人間。
環境や生まれで誰しもが加害者になり被害者になる可能性があるというだけ。
理由③私が韓国人に何かしたわけでもないし祖先の責任を感じろと言われても実感的に無理だから。
私は今日本が一番仲良くなり近い存在にならなければならない相手こそ韓国だと思っている。
何かあって困れば一番最初に助けに来てもらえるし
交通・流通・時間の面でも一番効率よくなんでもできる相手が隣国である。
逆に仲悪くなれば一番めんどくさくて大変なことになる相手である。
お隣さんと仲良くならないでまともな生活などできるわけがない。
でも近すぎる相手だからこそ掌握したくて日本は上から目線で力で相手を制圧しようとした。
愚かである。
流石耳や鼻を持ち帰って自慢したがる頭のおかしい種族の末裔だけのことはある。
なんでこんなにいがみ合って自分の足引っ張ってんだろう?って感じである。
当時を実際に経験して苦い思い出がある高齢の方達にとっては
私とは違い実感のある重い問題だとは思う。
でも私には関係ない。
多分多くの戦後生まれの人達はこんな感情なんじゃないだろうか?
しかしそれに反して世間ではやたら大きな問題として取り扱われる。
凄く違和感。
余計なことを荒立てて炎上商法で金儲けしようとしているという穿った見たかもできなくはない。
ぶっちゃけもう当時を知らない人間が戦後責任だなんだかんだ言っても
誰があー言ってたこー言ってた、
とかそんなお粗末な話にかならないのは目に見えている。
そんなくだらないことに時間と労力をかけている暇があったら、
いがみ合いは年寄り連中だけでやっててくれ。
正に老害。
東アジアここにあり!と隣国と手を取り合って世界に発信したい。
私利私欲のためではなく欧米の侵略からアジアを守ろうとしたという論説をよく聞くが
今度は力で相手を制するのではなく
文化と知恵で共に手を取りみんなでアジアを繁栄させて行きたい。
そのためには、
何かの利害関係で政治的・商業的に日韓問題を利用しようとしている人達は無視し
それに踊らされずに
そんなことにこだわりを持たない層で
※追記4
書き始めた時点で存在している、返信が必要だと思ったブコメに対する返信
id:kusoinakakagoshima 卑怯なのはテロ行為なんですが。ムスリムの価値は豚の糞以下だよ 肥やしにもならない
はい、テロ行為はこれ以上ないほどに卑怯です。しかし、表現の自由を守るという文脈で私たちはシャルリーである、と言うのも卑劣な行為ですというのは増田を読めばお分かりいただけると思います。また、あなたの後半の発現はヘイトも同然な発言です。在日の価値は豚の糞以下と言っるのと同様です。つまり、シャルリーにように建前として宗教を批判しているのではなく、建前の時点で宗教を信じている人たちを直接的に攻撃しています。
id:sny22015 難しいな。米映画「ラリー・フリント」では目を背ける様な唾棄すべき表現であっても法の下では護られるべきという、自由を勝ち取って作られた国の理念が描かれていたが…それは自由の濫用だという非難にも首肯できる
アメリカは徹底した表現の自由の国です。あそこまでいくといっそすがすがしいなという思いがあります。ヨーロッパは、特にユダヤ人に対する抑圧の歴史から、第二次大戦後ヘイトスピーチを規制しようという機運が高まってきたので、事情はアメリカとは異なります。
id:vhthlh これフランス国内の一般人や知識人達はどう考えていたのか気になる。
フランス人の間でも前々から議論になっていました。イスラム系団体の中には裁判という言論によってカウンターを行うグループが出てきたりしていましたが、こうした流れのさなかに今回のテロ事件が起きました。恐らく今まで積み重ねてきた努力が水泡に帰してしまうことを考えると、本当にテロは許されざる行為だという思いを強くします。
id:hal9009 これに乗じてこういう統制主義者とでもいうべき規制派・自由嫌いがもっともっとヘイトスピーチとされる行為の範囲を拡大していかなければならないって言い始める機会も増えるだろうな~
表現の自由を維持するためには表現の自由をabuseする言論を一定程度は規制する必要があると考えています。
id:ayanapapa 針ネズミが腫れ物に当たったわけだからどうしようもない。ただ日本も無関係な話ではない、イスラム教徒は増えているが他の先進国と同じく疎外され殻に閉じこもる。近い将来フランスと同じ事が起こらないことを祈る。
id:cider_kondo 欧州極右の主張は「イスラムは非寛容で政教分離を認めない。西欧の価値の根源たる自由と寛容とは相容れぬ」ぐらい。セキュリティホールの一種で、イスラム側が世俗主義を導入しないと論理的解決はほぼ不可能。難しい
ブコメの字数制限があるため分かりかねるところがあるのですが、それはつまり「欧州極右の主張にも表れているように、イスラムに対して持っている問題意識はこれこれが最大にして唯一のものだが、これがセキュリティホールとなってしまっている。イスラム側がそうした問題点を解決しないと先には進めない」ということですか。つまり、イスラムの人々が社会的に疎外されてる云々というところに対する反応だということですね。しかしながら、日本における在日問題も見れば分かるように、二世、三世はほとんどその国の人間と文化的には同質です。そうした人間であっても、社会的に疎外されて、結局イスラム教にしかアイデンティティを見いだせなくなり、そしてイスラム教=私たちという図式になってしまうのです。イスラム教を否定されると、イスラム教しかすがるところがない人々にとっては、自身を否定されたも同然になります。なお、イスラム教はあなたどころか、欧州極右が考えているよりも案外柔軟な姿勢も持つ宗教です。イランのイメージを強く持ち過ぎです。バーレーンのような国では本当にイスラム教徒なのか、というくらいには緩い生活を送る人々が多くいます。
id:oktnzm シャルリーの風刺が表現の自由の枠外なら諸国の言っている表現の自由とは一体なにをさすのやらw一番守りやすいとこ守っても切り捨て行為にしかならんよ。
前者に関して、シャルリーの風刺はヘイトスピーチであるので、それを表現の自由から外すことに何が問題かよく分かりません。後半に関して、主張するところの意図が分かりかねますが、後半部は「一番守りやすい弱者であるイスラーム系移民を守ったとしてもそれは表現の自由の切り捨て行為にしかならない」ということでしょうか。でしたら、そもそも表現の自由の枠内に収まらないヘイトスピーチである以上、切り捨て行為ではないと思われます。
id:type-100 いや、正義の有無に関わらず与えられるところに、自由とか権利の価値はある。これが表現の自由に対する毀損と感じるのであれば、それはあなたが表現の自由よりも他の権利や価値観を優先しているだけの話だ。
与えられる、というか、侵害されないものとして、生まれつき保障されているというところに自由とか権利の価値があることは事実ですが、それを濫用することまでは種々の権利・自由は想定していないと考えています。つまり、他者の権利、即ち平穏無事に他者から毀損されることがないという権利を踏みにじってまで権利の濫用(ここではヘイトスピーチ)を行うことまでは許容されていないということは歴史が証明していることだと思います。なお、これは決して批判を行うことを否定している訳ではないことを付記しておきます。
id:nekora 如何なる歴史があろうと銃を乱射してはいかん。本邦国内に数十あるイスラム寺院にも本件についてどちらを支持するかの聞き取り調査と公表を急げ。
どうでもいいのですが、nekoraさんはもう同人活動を行われないのでしょうか。
id:masm これを見るに、テロは一定の成果を収めたのかな。糞言論であれ、10-0でテロリストが悪いって意思表示することは悪くないのでは?あと、「ヘイトスピーチ同然な言論」か否かを判断する十分なソースをまだ見てない。
はい、10-0でテロリストは悪いです。だからといって、あなたの言葉を借りたらヘイトスピーチも同然な糞言論も表現の自由の一環として保護することになる私たちはシャルリーである、というスローガンは非常に危ういものです。理由は既に述べてきたとおりです。
id:my_yours のっけから和訳を間違えている。
「We are 99%」に代表されるように、この手のスローガンは"私たち"という使い方をすることが多いので、Je suisではありますが、私たちと訳してしまいました。不適切なので、より原文に忠実に訳します。ご指摘ありがとうございます。
id:kappei 元記事の人もブコメで同調している人も、自由主義を理解してない。実はルソー、マルクスの系譜が日本では優勢な気がする。真理がある、と考える人たち。
すみません、何を言いたいのか、100文字という短すぎる制限では分かりかねるところがあります。申し訳ございません。
id:serio キリスト教徒が神だとしているイエス・キリストを、クルアーンで人間だと言明しているイスラームは、それ自体がヘイトスピーチなのではないか、と極論を言ってみたりする。
細かい話になってしまいますが、キリスト教徒はイエス・キリストを神である、とまでは言っていないと思うのでそのたとえの言わんとしているところが分かりません。
id:Mochimasa 『「テロ行為の是非」と「シャルリーによる風刺の是非」は全くの別物である』 それなら"Je suis charlie”は前者の文脈でテロの被害者として掲げられているのだから、後者の文脈でこれを批判するのはフェアではないのでは
それならいいのですが、表現の自由の一環としても利用されている、つまり後者の文脈でも利用されているのが問題なのです。つまり、その二つは別物なのに、スローガンにおいては前者の中に後者の視点も入れてしまっているのです。
id:homarara なんだそりゃ。誰かにとって辛い事は報道しちゃダメ、なんて縛りがあってたまるか。極論を掲載する新聞なればこそ、それを守る戦いが表現の自由を守る事になる。無難な事しか書かない新聞だけ守っても意味ないわ。
自身のアイデンティティを否定するようなヘイトスピーチは表現の自由の枠外であると考えています。「日本人は生まれながらの劣等民族であり、民族的に能無しで蛆虫で寄生虫で云々」というようなヘイトスピーチを載せる自由はどこにもないです。そして本件はイスラム教を自身のアイデンティティにせざるをえなかったにも関わらずそのイスラム教を批判されたために、先の日本人は民族的に云々と同等の効果をもたらしているのです。
id:hate_flag 苦しい生活を送っている移民が宗教に依存しているのでその宗教を批判したらテロられた、というだけのハナシじゃん。悪いのはテロであって宗教批判ではないよね。
はい、テロは圧倒的に悪いです。いや、完全にテロは悪い行為です。ですが、本件でJe suis charlieと掲げることはおかしな話なんです、というのが私の意図です。テロられたというだけの話ではありません。
id:rag_en 『「表現」の結果、とあるポジションが有利になるか不利になるかどうか』は、その「表現」の是非を決定付けません…で終了。表現規制の理由が「傷つく人が」云々な駄論の近似。「救済対象の選別」からの「聖域化」。
100字の文字制限があるからだと思うのですが、言わんとしていることが分かりかねます。申し訳ございません。
id:oldriver 思うに。(1)「テロリストにも三分の理」を全否定したい。つまり「この機にヘイトスピーチも糾弾しよう」というメッセージはNG。(2)言論の自由のコストを引き受ける覚悟表明。つまり、ヘイトは「我々」の問題である。
(1)も(2)もJe suis Charlieという標語の意図、ということですね。どちらも原理的には正しい態度ではあるように見えますが、その態度が本当に正しいものかどうかは非常に疑問なところがあるのですよ。元の増田で書きましたが、これは歴史や民族アイデンティティの問題も入った話です。そもそも、ヨーロッパではユダヤ教/ユダヤ人問題が大きなイシューになっていました。それを考えたときに、増田で書いたようなje suis charlieというスローガンの問題を掲げました。
id:sardine11 「あなたの言うことには何ひとつ賛成できないが、それを言う権利は死んでも守る」ことが言論の自由の意味であり近代社会の前提であるはず。たとえシャルリに嫌悪感を抱いても反テロ運動まで批判するのはどうなの?
反テロ運動を非難しているのではありません。反テロ運動の一環としての表現の自由の中にヘイトスピーチを行う団体名が入っていることを問題視しているのです。
id:ysync 暴力であるテロと言論であるヘイトスピーチを同じ「許してはならない」でくくるのはどうかと。テロは国家権力(暴力)で排除すべきものだが、ヘイトスピーチは批判すべき対象で暴力(国家権力)で排除すべきでない。
ヨーロッパにおけるユダヤ教/ユダヤ人問題が参考になると思います。
id:enemyoffreedom アレをヘイトスピーチとしてしまったらもう宗教の風刺・批判はできないような。不快で低質な表現こそを守れ、というのが表現の自由かな
宗教の風刺批判ではなく、その背後にいる、その宗教を唯一無二のアイデンティティとせざるを得ない、社会的に疎外された移民の人々に対するヘイトスピーチになっているということを増田では書きました。後者に関しては同意しますが、表現の自由は差別的・攻撃的・他者を毀損するまでの表現を認めていません。
id:shakespeareneverdidthis 例え在特会みたいな下衆であっても、報復として殺害されることがあってはならない。
それは全くもってその通りなのですが、表現の自由を守るという文脈も下地にあるスローガンに私は在特会である、というものを使うのはおかしいのではないのかという話です。
※追記:文中で人間違いを行うという致命的なミスを行ってしまいました。James Faronという方に触れていますが、正しくはFrantz Fanonです。当該箇所でも追記しております。混乱を招いたことをお詫び申し上げます。なお、お恥ずかしいことにJames Faronという名前も、正しくはJames Fearonです。彼もまた有名な政治学者です。
※追記3:最後にほんの少しだけ加筆。本件で真に掲げるべき標語について。
※追記4:ブコメに対する返信をトラバに追加。及びブコメで指摘された誤訳について修正。
※追記5:反応が非常に多いのですが、私の意図していることがあまり伝わっていないようなので、別エントリで行ったブコメへの返信の一部を載せます。また、追記3における本文での誤字も修正しました。ご指摘ありがとうございます。
フランスではJe suis charlie、和訳すると『私たちはシャルリー(・エブド)だ(追記4:私はシャルリー(・エブド)だ、が正しい訳です。Jeは一人称単数です。失礼いたしました。)』というスローガンが、あの凄惨なテロ事件以来掲げられている。
言うまでもなく、表現の自由を守るための決意を示すものであるが、果たしてこのスローガンは本当に正しいものなのだろうか。この増田では、出版社及びフランスにおけるイスラム教徒事情を軽く見た後、このスローガンの妥当性を考えていきたい。
今回の事件の舞台となったCharlie Hebdo(以下シャルリー)は、あらゆる権威に対して痛烈な風刺を行ってきた新聞社である。キリスト教はもちろん、政治家も政府もその風刺の対象であり、語弊を恐れずに言えば無政府主義・反権威主義をラディカルに突き詰めた、非常に極端な新聞社である。そもそもの母体はhara-kiriと呼ばれる名前がまたアレな新聞だったが、当時の大統領であるド・ゴールを風刺して、最終的には取り潰されたくらいには、徹底的なスタンスを貫いてきた人々である(ちなみに、どうでもいい情報だが今の名前はスヌーピーのチャーリーから来ている)。
ヨーロッパはそもそもイスラム教徒が多い。理由は実に簡単で、第二次大戦後の経済復興のために、大量の単純労働者を必要とした際に、イスラーム系移民が多く渡ってきたからだ。フランスのお隣のドイツはトルコから移民を受け入れ、フランスはかつての植民地であったアルジェリアを中心に移民を受け入れた。実はこの段階ですでに現代におけるイスラム系移民問題の種は芽吹いていた。
まず、ドイツは純粋に経済復興のためにトルコ系移民を受け入れていた。このことはトルコ政府との間で結ばれた雇用双務協定や、Gastarbeiter――和訳すればゲスト労働者――という単語にも表れている。結果的にはトルコ系移民は切り捨てることはできなかったが、少なくともドイツ政府はトルコ系移民に関して割り切って考えていた。選挙権の付与といった定住化につながる政策に関して恐ろしく消極的だったし、本国へ返そうという意思は逆にかなり強かった。逆に移民側も最初から、自分たちは望まれていないということも分かっていた。もちろん、だからこそのデモや権利を要求する運動などは起こったが、他方で移民の中でも自主的な集まりを作ったり、1970年代には支援団体も作られたし、トルコ本国もトルコ系移民への支援を後に行うようになった。また、コール政権以降、政府も重要な問題として認知するようになった。今でも衝突は絶えないが、フランスのように致命的な暴動は起きていない(今後起きることは否定できないが)。
一方のフランスの移民政策は、経済復興だけではなく、植民地政策の遺産という側面も有していた。イギリスの脱植民地政策及び戦後移民政策と比較すれば分かるが、お世辞にもフランスはよくやれたとは言えない。フランスは住居の確保を行う、あるいはフランス国民と同化させるための種々の政策などを見ると、一応の脱植民地化政策/移民を受け入れようとしていた、というように見えるが、他方で石油危機時には移民を切り捨てようとしたり、またフランス国民との同化を謳っていながら実際には移民は疎外化(James Faronによる論考はこうした矛盾を見事に描き切っていると考える※追記:James Faronではなく、Frantz Fanonです。大変申し訳ございません)されたりと、実体を見ればどうにも政策の焦点がぼやけていた。そもそもの、アルジェリア戦争を始めとした、ド・ゴール政権による一連の植民地関連政策を見ればその曖昧さはより分かるところである。
そうしたフランス社会において、移民は、はっきり言ってアイデンティティに関して隣国ドイツのトルコ系移民以上に大きな問題を有している。フランスの移民の大多数は底辺層であり、底辺層は大体移民である。そして移民のほとんどはイスラム教圏から来た人々であり、既に二世、三世になっている。フランス社会ではフランス人に同化させられるのに実際には同化されていないどころか異質な存在として見られるし、アルジェリアといった自らのルーツであるはずの国は、二世、三世にとってはあまりにも遠すぎる社会である。自らの居場所を見つけられない彼らが何にすがるかと言えば、それはもう彼らの宗教であるところのイスラム教しかない。そこにしか自らの居場所を見いだせないのである。
そんな中で自らの居場所であるイスラム教をバカにするような、それもヘイトスピーチ同然な言論を行うことが、どれほど彼・彼女たちにとっては辛いことか。確かに、シャルリーはイスラム教徒ではなく、イスラム教を風刺した。しかしながら、実体的には、ユダヤ教(ユダヤ教とユダヤ人はほぼ同一)を揶揄する、いや、ヘイトスピーチを行ってるも同然なのだ。イスラム教を風刺しているが、実際にはフランス社会の底辺層に多くいる、自らのアイデンティティをイスラム教でしか確立できない移民を、憎悪をもってペンで攻撃したにも等しいのである。
私は今回のテロは決して許されない行為であると考える。だが、だからといって、言論の自由を守ろう、という意味を下敷きにおいて「私たちはシャルリーである」と言うのはおかしいのではないか。
「テロ行為の是非」と「シャルリーによる風刺の是非」は全くの別物である。繰り返しになるが、テロは決して許してはならないが、同時に、特にヨーロッパにおいて、シャルリーのようなヘイトスピーチも決して許してはならない。
"Je suis charlie"は言論の自由をabuseする卑怯な標語である。
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※追記2
多くの反響を受けて驚いてる。なので、次のことを言うと多くの批判を浴びるだろうが、あえて言おう。
はっきり言って、今回の標語は、黒人に対してレイシストスピーチを行ったKKKがテロを受けたときに私たちはKKKだ、ユダヤ人に対してレイシストスピーチを行ったネオナチ団体がテロを受けたときに私たちはネオナチだ、そして、これも極端な話、在日に対してヘイトスピーチを繰り返し行ってる在特会がテロを受けたときに、私たちは在特会だ、と言ってるも同然な話なのだ。
表現の自由を守るための標語として、特にヨーロッパにおいて、これ以上ふさわしくないものはない。
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※追記3
https://twitter.com/aboujahjah/status/553169081424420864
I am not Charlie, I am Ahmed the dead cop. Charlie ridiculed my faith and culture and I died defending his right to do so. #JesuisAhmed
直訳すると、
「私はシャルリーではない、私は死んだ警察官であるAhmedだ。シャルリーは私の侵攻(※追記5:侵攻ではなく信仰です。失礼いたしました)と文化を嘲笑し、そして私(Ahmed)は彼のそれ(風刺)を行う権利を守るために死んだのだ。#JesuisAhmed」
これこそが表現の自由を守るために真に必要な標語である。一体全体どこの世界に表現の自由を守るという名目で私たちはKKKである、ネオナチである、在特会である、なんてことを言う人々がいるというのか。Je suis charlieはまさにそれを行ってしまった、最悪な標語でる。ヘイトスピーチを行う自由も、それもヨーロッパにおいて、表現の自由の一環として組み込んでしまっているのだ。卑劣意外の何物でもない。
ヘイトスピーチを行うという表現の自由ですら守ろうとし、そして死んだ人物(ここではAhmedという警察官)こそが、真に表現の自由を守るために働いた存在なのだ。
何度も言うが、私は今回のテロは一切是認できない。暴力によって物事を解決しようとする蛮行以外の何物でもないと考えてる。だが、だからといってシャルリーによるヘイトスピーチが免責されるわけでもない。そうしたヘイトスピーチを続けてきた団体の名称を冠して、表現の自由を守るということは、既に述べたように、表現の自由のabuseである。表現の自由を守るためにたたかった人物こそが、真に標語において活用されるべき存在なのだ。
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※追記4
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※追記5
トラバで行っているブコメへの返信の一部をこちらにも載せます。
id:cider_kondo 欧州極右の主張は「イスラムは非寛容で政教分離を認めない。西欧の価値の根源たる自由と寛容とは相容れぬ」ぐらい。セキュリティホールの一種で、イスラム側が世俗主義を導入しないと論理的解決はほぼ不可能。難しい
ブコメの字数制限があるため分かりかねるところがあるのですが、それはつまり「欧州極右の主張にも表れているように、イスラムに対して持っている問題意識はこれこれが最大にして唯一のものだが、これがセキュリティホールとなってしまっている。イスラム側がそうした問題点を解決しないと先には進めない」ということですか。つまり、イスラムの人々が社会的に疎外されてる云々というところに対する反応だということですね。しかしながら、日本における在日問題も見れば分かるように、二世、三世はほとんどその国の人間と文化的には同質です。そうした人間であっても、社会的に疎外されて、結局イスラム教にしかアイデンティティを見いだせなくなり、そしてイスラム教=私たちという図式になってしまうのです。イスラム教を否定されると、イスラム教しかすがるところがない人々にとっては、自身を否定されたも同然になります。
id:type-100 いや、正義の有無に関わらず与えられるところに、自由とか権利の価値はある。これが表現の自由に対する毀損と感じるのであれば、それはあなたが表現の自由よりも他の権利や価値観を優先しているだけの話だ。
与えられる、というか、侵害されないものとして、生まれつき保障されているというところに自由とか権利の価値があることは事実ですが、それを濫用することまでは種々の権利・自由は想定していないと考えています。つまり、他者の権利、即ち平穏無事に他者から毀損されることがないという権利を踏みにじってまで権利の濫用(ここではヘイトスピーチ)を行うことまでは許容されていないということは歴史が証明していることだと思います。なお、これは決して批判を行うことを否定している訳ではないことを付記しておきます。
id:Mochimasa 『「テロ行為の是非」と「シャルリーによる風刺の是非」は全くの別物である』 それなら"Je suis charlie”は前者の文脈でテロの被害者として掲げられているのだから、後者の文脈でこれを批判するのはフェアではないのでは
それならいいのですが、表現の自由の一環としても利用されている、つまり後者の文脈でも利用されているのが問題なのです。つまり、その二つは別物なのに、スローガンにおいては前者の中に後者の視点も入れてしまっているのです。
id:hate_flag 苦しい生活を送っている移民が宗教に依存しているのでその宗教を批判したらテロられた、というだけのハナシじゃん。悪いのはテロであって宗教批判ではないよね。
はい、完全にテロは悪い行為です。ですが、本件でJe suis charlieと掲げることはおかしな話なんです、というのが私の意図です。テロられたというだけの話ではありません。
id:sardine11 「あなたの言うことには何ひとつ賛成できないが、それを言う権利は死んでも守る」ことが言論の自由の意味であり近代社会の前提であるはず。たとえシャルリに嫌悪感を抱いても反テロ運動まで批判するのはどうなの?
反テロ運動を非難しているのではありません。反テロ運動の一環としての表現の自由の中にヘイトスピーチを行ってきた団体名が入っていることを問題視しているのです。
id:enemyoffreedom アレをヘイトスピーチとしてしまったらもう宗教の風刺・批判はできないような。不快で低質な表現こそを守れ、というのが表現の自由かな
宗教の風刺批判ではなく、その背後にいる、その宗教を唯一無二のアイデンティティとせざるを得ない、社会的に疎外された移民の人々に対するヘイトスピーチになっているということを増田では書きました。後者に関しては同意しますが、表現の自由は差別的・攻撃的・他者を毀損するまでの表現を認めていません。
id:shakespeareneverdidthis 例え在特会みたいな下衆であっても、報復として殺害されることがあってはならない。
それは全くもってその通りなのですが、表現の自由を守るという文脈も下地にあるスローガンに私は在特会である、というものを使うのはおかしいのではないのかという話です。
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もう読んでいる人がいるかどうかわからないですが、帰宅してさらに増えていたブコメや種々の反応を読んで、色々と思うところがあったので、もう返信はいたしません。本当は標語の下敷きとなったwe are all khaled saidも含めた補足記事を書こうと思っていましたが、こちらも止めました。
私自身の力不足を痛感しましたが、それ以上に、皆様の貴重な時間を浪費させてしまったことを本当に申し訳なく思います。ここで深くお詫び申し上げます。
選挙もあっていろんなサイトにネトウヨが主張を書き散らしてたけど、彼らの意見ってよくよく考えてみると右翼的じゃなくないか?
Wikipedia にあるように、僕が思う右翼って保守的で愛国心があって国粋主義的な人ってイメージなんだ。
でも国粋主義を主張するわりには、伝統文化を壊しかねない外資誘致やTPP参画を積極的に進める自民党や安部首相を礼賛するし、
社会制度の改革や憲法改正にも乗り気でとりわけ保守的ってわけでもない。
愛国心は認めるけど、それが本当に今の日本を愛しているのかすごく疑問でもある。なーんか日本のイメージが宙に浮いてるというか、
非現実的な印象を受けるんだ。よく口角泡を飛ばして主張する在日問題にしたって、昔から日本は中韓と人や文化の交流があったんだから
多少なりとも在日がいるのは当然だし、問題の解決は必要にしてもそれが本来の日本の姿だよね。
そういった清濁を併せ呑まず、自分の頭のなかに描いた「ぼくのかんがえたせかいさいきょうさいこうのニッポン」を夢想してて、
それと現実とを比較してできた幻の「キタナイ日本」を救おうとあれこれ主張しているのかな、と見えてしまう。
知識人からは「自意識やアイデンティティの拡大を愛国心に求める孤独な人達」だの散々言われてるけど、当人たちはきっと
そんな風には思ってないよね。だとしたら、彼らはどんな主張をもとに右翼を自称しているんだろう。
口が悪い人が多いからあんまりお近づきにはなりたくないけど、当人たちがそこら辺をどう思っているかだけはすごく気になっている。
うーん。