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2023-12-03

真面目な大学生が堕ちて夜遊び、精神疾患になって休学するまでの話

今日は前に進む決意をした。

休学してからずっと「退学して就職」か「復学」の2択しかないと思ってたけど、小さなことがきっかけで「別の大学通信課程に入り直す」という選択肢に気づいた。本当にやりたかった事をもう一度目指す、それがこれからの私の道だと思ってる。

そんな小さな決意をしたついでに、入学してから休学するまでの事を書き留めておこうと思う。これは自己満足備忘録。もしもこの駄文を見る人がいたら、物凄く不愉快にさせてしまうかもしれない。でも許して欲しい、こういう人間が今この世に実在していること、これからやり直そうとしてることを。

私は幼少期から真面目な人間だった。

常識マナーに囚われたつまらない子供で、白黒はっきりしていない物事気持ち悪かったし、嫌いな物はとことん嫌いだった。自分中心に生きていたらいじめられてしまって不登校に。

そこから人間関係が怖くなって、周りの目ばかり気にするようになった。そして地元で最底辺と呼ばれるような高校に入って、友達ができて、恩師と出会った。楽しい高校生活の中で、とある学問勉強したくなり受験を決意した。

…というのは建前で、本音親族からの期待の目だった。「真面目だった私子ちゃんなら良い大学に入れる」「大学に入ってこそ」と古い価値観を幼少期から植え付けられていた私には、失望されるのが怖かった。

必死努力して合格した第一志望の大学

正月の親戚の集まりで褒められて、両親に渡される「合格祝い」と書かれた大金

そして比較される高卒の親戚。「私子ちゃん大学合格してすごいけど、親戚くんは……」

これで良かったはずなのに、気分が悪かった。

そうして低すぎる自己肯定感を背負って、大学一年生が始まった。完璧主義が悪い方向に働き、「全科目A以上は取れないとダメだ」と自分を追い込み、朝6時に家を出て夜の21時に帰宅する生活だった。見た目に関しても周りから浮かないように必死で、服を毎月買いまくり周りと比較しては死にたくなった。

思えばここら辺から異常だったんだと思う。

私は「学校は小さな世界で、その外には大きな世界が広がっているから、学校人間関係に囚われる必要は無い」というスタンス高校生活を過ごしてきた。しかし、大学に入った途端「大学世界の全て」になってしまった。外の世界が見えなくなった。

1人で授業を受けていることに対して何か言われるのが怖くて、友達を作ろうと必死だった。やっとできた友達は授業中にずっとスマホ、周りの人間もみんなスマホ。当たり前の景色なのに、「なんでここの人達大学に入ったんだろう?」と疑問に思ってイライラするようになった。

必死に話を合わせて笑って、「高校の頃はこんなじゃなかったのに」「情けない自分になった」なんて何度も思った。真面目にメモを取ってると、「真面目だね〜〜」なんて言われて、浮くかなって不安になって、メモを取るのが怖くなった。高校時代の友人からの遊びの誘いを断るようになり、大学勉強や浮かないファッションを探すのに必死だった。

がむしゃらに駆け抜けた数ヶ月、前期の終わり前に家族が亡くなり、ショックで2週間ほど外に出られなくなった。ここでS評価が取れないのは確定してしまった。一気にやる気がなくなり、手を抜いてテストを受けた。単位ひとつも落とさなかったけど、Sは2科目しか取れなかった。

そして夏休みに入った直後、はじめてのパニック発作が出る。何か調子が悪いんだろうと思っていたが、その後も大学の事を考えると過呼吸になる。メンタルクリニック受診したら、パニック障害の診断が下った。

そして休む間もなく後期が始まる。

その頃にはSNSで仲良くなった同じ大学の人たちと関わるようになった。6人くらいで形成された学部混合のグループの中で、愚痴や悩みをツイートして、慰め合う。そんな関係だった。

ずっと居場所がないように感じてた大学にようやく居場所を感じた。

ただ、私があまりにも弱すぎた。

その友人たちに合わせて、授業を飛んだりピ逃げするようになり、見た目も勧められるがままに金髪にして、高校の頃の恩師にドン引きされた。

未成年飲酒なんか大っ嫌いだったのに、みんなと一緒にいる為には……! と何度もお酒を飲んだ。周りに合わせて大量に飲んでは、記憶飛ばしたり、帰宅後に吐くような日々。

どんなに楽しんでも孤独感と疎外感が強くて、常にみんなについて行くことに必死だった。授業中Twitterが見れないと不安で、ずっとスマホをいじってた。単位を落としそうになったら救済を求め、行こうとしたら発作が出て、もう滅茶苦茶な生活になってた。

大学以前からの友人たちにもドン引きされてたけど、大学で居場所が無くなるよりはマシだと思った。そしてテストにも遅刻しかけて、修得単位は16。終わったと思った。

そのまま冬休みに入って、また飲みに行ったりする日々。どんどん心の調子が悪くなって、薬を増やした。良くならなくて、また流れるように2年前期が始まる。今期こそ真面目にやろう!と思っていた。

しかし、5月から、本当に大学に行けなくなってしまった。布団から出られない、外にも出られない。ご飯も食べられなくなり、トイレに行くだけで床を這いつくばって10分。自分でも何が起きたかからなかった。情けなかった。死にたかったけど、死ぬ気力すらなかった。

絶望的な2ヶ月をすごして夏休みに入り、休学を決意したが、8月半ばに突然元気になった。あまりにもパワーが溢れるもので、大学に行きたくて仕方がなかった。でも夏休みでやってないし……ってことで、ずっとダンベルを握りしめてた。とにかくトレーニングエアロバイクを漕ぎながらアニメを見る。最高!!!!!元気!!!!!周りが大丈夫なの?とか言ってたけど、全然問題ないと思ってた。やっと素の自分に戻れたと思った。

……で、10月に入り、また死にたくなった。

布団から出られない、ご飯が食べられない。生きてる心地がしない毎日絶望感、希死念慮

飛び降りようとしたタイミングたまたま高校時代の友人が心配して家まで来てくれて、号泣しながら話を聞いてもらったりした。それでも死にたくて、死ぬ手段をずっと考えてた。

大学の友人が1人、物凄く心配してくれていた。

気分転換に飲みに行こう」と言われ、復学後のことも考え何とか準備をして飲みに行った。またいつも通り煽られるまま飲んで、気がついたらその人とラブホテルにいた。訳がわからないまま豪華な天井からぶら下がったシャンデリアを眺めていた、あの光は今でも脳裏に焼き付いている。飲みに行きまくってる癖に男性経験殆どないようなものだったので、相手必死に挿入しようとしても入らなかった。あまりの激痛に叫んでしまい、ハッと酔いが覚めて、もう帰ろうと言ってホテルを出た。最悪の気分だった。本当に死んだ方がいい、このまま電車に飛び込もう、と思ったけれど、山手線にはホームドアがついていた。ここが私のどん底だったと思う。本当に最悪だった。

早く病院に行けよ、という話だが、私はメンタルクリニックの定期受診の日を待っていた。予約の電話をするのがめんどくさかったからだ。

そして定期受診当日、なんとか向かうと、担当先生が見たこともない表情で私の話を聞いてくれて、双極性障害と診断された。

薬を増やして数週間、効いてきたのか調子が良い。躁状態ほど明るくないが、鬱状態ほど暗くはない。

ゆっくりと過ぎ去る日々を落ち着いた気持ちで過ごせている。

落ち着いてる今だからこそ、自分が何故あそこまで周囲の目を気にしていたのかよくわからない。

自分を曲げてまで周りに合わせることも、本来大学目的が見えなくなってしまたことも、何もかも、馬鹿馬鹿しかったなと思う。何より、大学以前の友人は変わらず気にかけてくれて、ずっと仲良くしてくれていたのにそれが見えなくなっていたことが情けない。20歳になってからは、お酒殆ど飲まなくなった。友達と会う時も、着飾りすぎるのをやめて、自然体で公演を散歩するような過ごし方をしている。これからも、目の前のことに必死になって自分本来目的を見失うことがあると思う。でもこんな地獄みたいな経験をしたからこそ、去年〜今までのような事にはならないと思う(思いたい)。

人生は失敗ばかりだけど、失敗から反省することで成長できるとよく聞く。それを信じて、大事ものを見失わずに程よく頑張って生きていきたい。

自分が全てを忘れないために勢いで書いてしまったので、あまりにも駄文だと思う。不愉快にさせていたら申し訳ない。

これを読んでいる人も、読んでない人も、みんなが幸せ毎日を過ごせますように。

2023-12-02

偽のラノベタイトルを考えてみる

《伊世界転生!?

〜転生した世界

イタリアGDP 幸福度共に

世界一位の世界でした〜

《転生したらみちゃんの瞳が青色でした》

無双必要アイテムとか能力とかが

郵送で届くシステムでした〜

サブタイトルは読んだあなたがてきとーに

考えて下さい〜

《なんてこった》

魔法様に転生したと思ったら真帆さんという全くの別人に生まれ変わった件〜

朗報

ひとつない晴れた日にだけ使える魔法ロマンチックすぎた件www

悲報

ダンジョンで壁をひたすら映す配信をしていたらモンスターも近づいて来なくなった件

自分の不幸は小説蜜の味!?

〜不幸を払えば小説家としての実力が手に入るらいのです〜

悲報

ダンジョン勝手懸賞金を賭けられました

《お願いだから真面目に生きてくれ》

〜元恋人がどの世界線でも僕のラスボスとして立ち向かってくるのだけど〜

畜生

踏切で旦停止して窓を開け外の音を確認していたら、窓からこんにゃくなだれ込んできました~

‎《އަހަރެންނަށް ރުއިން ހުއްޓާނުލެވޭނެއެވެ》

〜転生した先で使える魔法詠唱

ディベヒ語でした〜

アイスが値上がりしたのでいっぽんを

キミとはんぶんこする

冬休みの間だけ会ってたおねえさんが

隣町に引っ越してきたらしいのです

異世界転移したら元国王透析サポート

しなければならないので、 する

家庭教師幼なじみもなんでみんなして

青春しか教えてくんないのですか

お姉ちゃんずっとだいすき

からちょうだい あなた心臓

2023-11-21

ゴジラ-1.0 動員に陰り

初週

シンゴジ:6億

ゴジマイ:10

 

2週目

シンゴジ:21億

ゴジマイ:21億

 

3週目

シンゴジ:33

ゴジマイ:28

 

普通に動員落ちてるな

まだ冬休みを控えてるとはいえシンゴジ越えは厳しい感じしてきたな

ただ、海外人気はシンゴジよりも出そうだからそっちで勝負

2023-11-15

anond:20231115070919

どこに就職するかはそいつ次第だな

一握りのすげえ奴は大手に入ったりするし

やる気がある奴はしっかり勉強して資格も取ってアプリ作って披露して中小零細IT系に潜り込むし

あるいは派遣になる奴も居るし

適性が無いと思った奴は小売とかに就職したり

少ないが公務員になる奴も居る

憧れは仕事にならんから高2ならさっさとプログラミング始めて

冬休みに一日8時間みっちり独学でプログラミングしてみて一生続けられそうか判断しなさいと

プログラミングがそれなりに好きで独学力があって問題に出くわした時に調べる力もなきゃ1000万なんて夢のまた夢さ

2023-11-14

シン・ゴジラ」 VS 「ゴジラ-1.0」

初日

  • 1.0がシンの動員数の265%を記録
  • 1.0が圧倒的勝利を収める

 

公開3日間:

初日からずいぶん縮められたが-1.0の勝利

 

公開2週間:

シンも興行収入21億円到達

並ばれる

 

状況を整理しよう

シン・ゴジラの公開日は7/29の金曜日

ゴジラ-1.0の公開日は11/3の金曜日

 

シンは「夏休み」という地の利を活かして週末以外の動員を伸ばした

  • 1.0は力の入れようを見ても、冬休み映画としても稼働予定をしているはず

さらに今年の年末は目玉映画ほとんどないため、冬休みのどれだけ動員を増やせるかがカギになる

 

ちなみに今年の冬映画マジで厳しくて有名作品

ウォンカとチョコレート工場の始まり」「劇場版 SPY×FAMILY」くらいしかない

ゴジラ-1.0が一人勝ちする可能性も十分ある

2023-11-07

anond:20231107223138

ワイが小学生の頃担任年賀状に「年賀状ありがとう」って書いて返事したら

冬休み明けに教室で「ありがとうございます」にしろと怒鳴られまくったやで

2023-10-30

怪談過去からメール

これは、まだラインをやっている人も今ほど多くなく、メールを使っている人がまだいたころの話です。

当時高校生だったUさんは、委員会仕事で遅くなり、10月ということもありあたりはもう暗くなっていました。

校舎にはほとんど人はいないようで、

Uさんと同じ委員のNさん、Xさんの3人の気配しかしませんでした。

NさんとXさんはおなじ女子高生です。

1時間前は明るかったのにね、などと3人で話していました。

Xさん以外は少し怖がっています

時間のたち方が変わる季節はこういったうっかりが多く、UさんとNさんが「こんなに暗くなるなら早く帰ればよかったね」「早く急いで帰ろう」とはなしていました。

間を割って、Xさんが「ねえ、知ってる。この学校行方不明者が出たって話」

Xさんはオカルト好きで怖い話披露してくれるのですが、驚かしたいがために時たま空気の読めないタイミング怖い話披露します。

ちょっと、いまはやめてよ」とUさんが言うもXさんは

「何十年も前、ニュースにもなっているんだけど女子高生冬休み行方不明になったんだって。変質者に誘拐されたとかいろいろ言われているんだけど、なぜか目撃証言では学校に行く女子高生の姿を見た人がいたんだって学校先生と禁断の恋で逢瀬を重ねていたとか、痴情の縺れとか噂がたったんだよ」

Uさんが「痴情の縺れ……」とつぶやきました。Nさんも怖いながらも聞き入りました。

Xさんは続けます「でも、先生に殺されたとか色々言われているんだけど、全然学校内に証拠もなくて、神隠しだとか相当騒がれたらしいよ。当時は「人類が月に行った時代になんて迷信」なんて声もあったんだけど、そんな迷信じみたことがささやかれるには訳があって…」

と話しているときにUさんの携帯電話が鳴りました。

Uさん、「びっくりした!メールだった。親かな…え、ナニ、これ」

『菫コ縲∵收貎、縺�縺代←窶ヲ螟ァ驥主菅縺ョ繝。繧「繝峨▲縺ヲ縺薙l縺�縺」縺托シ�』

Uさんは不可解なメールを受け取り固まってしまいました。

Xさんはすかさずそのメールを見て、「まじ?1970年1月1日送信日が昔の日付だ!…もしかして行方不明になった日から送られてきた?」

Uさんは怖さのあまり何もいいだせず、Nさんが恐る恐る聞きます

「本当にその日からきたの?」

Xさん「わからない。分からないけどそれくらい昔の冬休みなんだよ」

Nさんは「ねえ、さっきの話、迷信が信じられたわけってなに?」と聞きます

「え…その、すぐに二度目の神隠しがあったらしいんだって。数ヶ月だったか、数年かわからないんだけど、2度も立て続けに起きるなんて不思議だって…」

「それだけ?」Nさんは少し拍子抜けし安心そうな顔をしました。

ですが、Xさんは「それが…後々の心霊研究者が言うには、その子も禁断の恋をしていて、痴情の縺れになりそうな子を招いているらしいって」

今まで黙ってメール凝視していたUさんは「縺れって書いてある。縺れっていう字がいっぱい書いてある!!!

半狂乱になったUさんは一目散に学校を出ました。

後日分かったことですが、Uさんもまた教師とよから関係にあったらしいです。

2023-10-18

有給全然とってない

職業クソプログラマ

業務は半分以上リモートOK

いちおうフレックスだけど朝夕で報告MTG(マジックギャザリングではない)があるから9:30-19:00ぐらいの感じ

出社は週2でしてる。水曜と金曜にだいたい客とのMTGがあるから

この感じでやるようになってから有給全然とってないんだよ

休みとか年末年始にくっつけて3日ぐらい夏休み冬休みを長くするんだけど、それだけ

仕事嫌いなのに何でかなって考えたんだけど、たぶん休むのって面倒なんだよね、連絡しないといけねいか

そして仕事普通にサボってるから別に仕事大変じゃないんだよね

仕事の何が嫌いって人に気を遣いながら連絡したりするのが嫌いなんだよな

そんで一番連絡しなくていいのが、本日普通に働いてますってフリをすることなんだよな

早く働かなくてよくなりてーなー

2023-08-23

anond:20230821115440

心残りなのは財産より先祖代々の土地と墓なのじゃ

幼少期の夏休み冬休みに遊びに行った祖父土地にもう二度と行けない、墓参りもできないのが心残りなのじゃ

わらわが故郷と呼べるのはここだけなのじゃ

東京ナンバーの車で参れば、誰が行ったか祖父屋号(同じ名前が多いから)の孫で噂されるような土地なのじゃ

2023-08-10

あることの発生頻度が急激に高くなる日付一覧

危険

危険

まとめると……

  • 1月は4日~15日は冬休み明けも関係して発生率が高くなる
  • 2月は14日付近がすごく怪しい
  • 3月は7日が最も発生率が高くなる
  • 4月は18日~30日ぐらいまで警戒しなければならない(特に18日~28日の10日間はマジで警戒しないとマズイか)
  • 7月は19日~23日で発生率が高くなる
  • 8月については8日~18日まで下北沢も中心に警戒しなければならない
  • 10月は球場ですら危ういので要注意

一般人が取れる行動

2023-08-07

高校野球夏の甲子園)と他の部活について

毎年恒例、夏の甲子園選手権大会)がネット上で話題になっている。悪い意味で。

自分が言いたいことはどこかの誰かが既にネットで書いているので、思いついたテーマで少し書きたい。


夏の甲子園は毎年8月に開催されており、他の部活でいうインターハイとは全くの別物。

高野連高校野球連盟)と新聞社朝日)が主催となって、夏の甲子園が開催される。

一方インターハイ高体連高校体育連盟)が主催となって開催されるようだ。(詳細は知らん)

インターハイの時期としては7月後半から8月にかけて実施されるようだ。(球技毎に日程違う)

「なんでほぼ同じ時期に開催されるのに、いつも甲子園だけ批判されるんだ!」というお気持ちは、いつもの流れなのでここでは書かない。

野球甲子園固定に対して、インターハイは毎年場所変わるので全然別物。


自分が着目したのは、他の部活夏の甲子園(もしくは春のセンバツ)みたいなインターハイとは別にピークが存在する部活はあるのか?という点。

すぐに思いついたのは、サッカー選手権大会バスケウィンターカップ春高バレー、冬のラグビー花園のやつ)。全て冬休み全国大会12月1月)に開催される。

高校野球比較していってみたい。

夏の甲子園擁護したい訳では無いのであしからず



大会ピークについて

まず高校野球については、夏の甲子園ピークだと言って問題ないと思う。そうでない高校も多少あるが、ほとんどの高校野球部がそこに向けて日々練習に励んでいる。6月~7月に地方大会が開催され、そこで敗れると3年生の最後大会となることが多い。つまり引退時期は6月~8月と明確。

※全員が本気で目指している訳では無いとかは、本題とズレるから虫。

一方上記で上げた部活高校サッカーバスケバレーラグビー)は、学校によって方針が大きく異なると思っている。

冬の大会ピークと書いたが、正確にはピークの一つでしかない。学校/部活によってインターハイピークにしているところもあれば、冬の大会ピークとしているところもある。

インターハイピーク(3年生の引退時期)としている学校は、冬の大会は2年生中心で戦うしかない。冬の大会ピークとしている学校は、それまで3年生が残っており、冬の大会では圧倒的に有利に戦える。インターハイはもしかしたら逆かもしれないが。

注目度の高い冬の大会に絞って考えれば、勉強もある進学校は不利で、スポーツ強豪校は有利だと考えられる。進学したい高校生にとって、3年の冬、センター直前まで部活なんて無理。

なのでピーク2部制を整理すると

メリット

 ・学校/部活によって、ピークを自分たちでコントロールできる(俺は冬まで残るなど、個人レベルでも選択できそう)

デメリット

 ・注目される冬の大会では、学校/部活によって有利不利がどうしても生まれしま

高校野球比較をすると

メリット

 ・どの大会ピークという観点では学校/部活によって戦力差は生まれない(公平性がある)

デメリット

 ・インターハイピークの他の部活よりも、引退時期が1~2ヶ月遅い(これは体感

別にどれが正しいとかではない。



ピークの時期やスポーツ特性に関して

上記でも書いた通り、サッカー等の部活の大きな全国大会ピーク)は年2回あり、その特徴は高校夏休み冬休みに開催されるという点。

それはスポーツ特性として、季節・天候に強い競技だということも関連している。時期に関わらず試合ができ、多少天候が悪くても中止になることは野球より少ない。

野球はとにかくそういう面でデリケート/脆いスポーツだ。冬にはまともな練習もできない、プロでも冬は休みか、温かい気候場所にわざわざキャンプ自主練として行くほど。

天候にも弱く、雨の日は基本中止になるケースが多い。グランド状態判断するケースも多いので、前日の天気にも左右される。(頑張ってやる時もあるけど)

四季があり、梅雨もある日本野球に向いていないと思う。大会の時期をズラすのも結構難しいのではとも思う。

冬に試合ができないスポーツのため、春(センバツ)と夏(甲子園)という、偏った時期に大きな大会が2つもある。


話を大きく戻すと、高校野球に限らず他の部活全国大会夏休み/冬休みに開催される。これは高校生への色々な配慮の結果だと思うが、真夏に開催するのは仕方ないのかもしれない。

また高校に限らず、中学生も、もしかしたら小学生全国大会夏休みに開催されると思う。甲子園が目立つため矢面に立ちやすいが、ネットで書かれていることは根本的なことではない。

とはいえ、じゃあ全部廃止だ!となってしまっては、大人存在する意味がない。子供を守るという一面もあれば、チャンスを奪う一面も大きい。

こと甲子園においては朝日NHK批判されることも多いが、そういう小さい問題ではないので難しい。どうすればいいんやろね。

2023-08-05

夏は陰キャにとって地獄だな。冬も地獄だけど

最近ちょっと大きい駅に行くと、浴衣姿の若者や、旅行に途中のファミリーが目につくから辛い。

冬はクリスマスという陰キャ致死量イベントがあるから冬も辛いんだけど、個人的には夏の方が辛いなぁ。


冬休みシーズンより夏休みシーズンの方が長い

②夏は海、プールBBQフェスなど一生寄り付かないイベントが多い

レジャー施設では、夏休み特別イベントを謳ったものが多く、またそのPRを目にしてしま

等々が個人的な所感だ。


また年末は「みんな今年も一年お疲れ様」の労いムードがある(気がする)が、夏休みは「さあ!!みんかお待ちかね!!夏休みだぞ!!さあ楽しめ!!ビール飲め!泳げ!踊れ!はしゃげ!!」感がある。


来世は慣れない中可愛い浴衣を着て早めに駅に着き、待ち合わせ到着した彼氏

「お待たせ、ごめん待った?」

「ううん、私も今着いたところ(嘘)」

「あ、良かった…………あの、、、似合ってるじゃん(目を合わせられないので、若干視線を外しながら)」

「あ、、、ありがとう




かいうやりとしてぇ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜とくたびれた限界アラサーOL妄想してる。

涙拭くか。

2023-07-27

小学生の頃の夏休みを思い出すゲームを買ってきた

くっそ暑いのでSteam夏休み追体験ゲーム買ってきました。

どんな内容なのかかるーく書いてみます

ストーリー

念願の夏休みだけど両親が忙しくて叔父叔母の家に預けられる事になった小学生主人公

都会ぐらしの主人公にとって、田舎の夏にはワクワクする事がいっぱい。

従姉との再会。大自然との触れ合い。宝探し秘密基地。ひと夏の忘れられないおもいでを30枚の絵日記に残そう!

様々な夏休み体験ミニゲーム除く)

作中にあるミニゲーム形式夏休みの想い出

フラッシュ暗算をひたすら繰り返すゲームになっています。大変だった記憶が蘇る・・・

と言うか釣り昆虫採集です。どうぶつの森と地続きなのかな?ってぐらい多種多様な虫や魚が採れます釣りスキルを強化して海釣りに挑戦して・・・なんかマグロとか釣ってんだけどって笑えちゃう。余った虫魚は研究者に売ってお金になるので本作のメイン金策です。

家事の大変さを学ぶとして叔母さんの洗い物を手伝います。汚れが数値化されていて0ちょうどになるように加減したりして磨いていく。マイナス1以下になると割れちゃうから注意。やったなーって記憶が蘇る。

タイミングよくゲージを止めて相手のメンコを吹っ飛ばす!まるでコロコロコミックのようなノリで展開される笑いと熱血のあるシナリオ駄菓子屋で買えるめんこのコレクション要素も見どころ。

占い師と協力して特殊釣りゲームを行って金色の魚を釣り上げるミニゲームで作中で一番むずかしいか・・・主人公の体力を上げておかないと積むのも面白さの1つ。

近所の高校夏季練習にお邪魔して、小学生ながらマラソンを鍛えて顧問先生に挑戦するミニゲームです。ときメモをなんだか思い出すデキ。

とまぁ、ゲームだけど、懐かしの夏休みを堪能できました。面白かったです。

https://store.steampowered.com/app/1227890/_/?l=japanese

ゲームこちらです。

冬休み版も日本限定で先行発売されたようなので次はそっちを遊びます

2023-07-23

anond:20230723164847

ドラム式洗濯機について

選別が大変

これはもう諦める。やってみるとわりといける。販売会社がかなり安全側に倒してるだけ。

どうしても大事なのは分けてやるしかないな

冬休み、1日頑張って家中のベッドリネンを倒した後に、厚手のパーカーをそっと渡された時の怒り、わかりますか?

自動なんだからそれこそ気にならない。というか、シーツ類と厚手のパーカーは分けた方がいいよ

ドラム式の手入れって結構めんどくさい。

縦型は基本的にはゴミ取りネットさえ

去年あたりからドラム式洗濯機メンテナンスはかなり楽になってる。

2023-07-22

anond:20230722061002

何度読んでもなんで積むのかよくわからなかった。

未就学児の場合は嫌がっても保育園にぶち込むのが普通なんじゃないの?

小学生以上の場合日本だと登下校に親は同伴しない。中学生以上で登下校に親が同伴とか恥ずかしいからやめれ案件

まり小学生以降は子供を一人にするということに社会的同意があると思ってるんだが。

子供が家にいたとしても普通に仕事に行ったらいかんの?

春夏冬休みとか振り替え休日とか親が仕事に行って、他に誰もいなくなった家にいることに開放感を感じていたなと思ったもので。

2023-06-07

https://anond.hatelabo.jp/20230607162734

俺も公園クレーマーになりかけた。家の前が金網に囲まれグラウンドで、中学生やら高校生やら、毎日数人が夜9時過ぎまでたむろして、金網に向かってサッカーボールを蹴りまくられている状況だった。そこは一応使用に連絡必要な区管理グラウンドだったけど、鍵がなくて夜は入り放題だった。ガシャン…ガシャン。増田の言う通り、ランダムに訪れる騒音しんどいんだよな。少し音が止んで、終わったかなと思ったらまたガシャン。夏休み毎日中学生花火でキャーキャー騒いで、春休み冬休み学校が長期休みなんだなとすぐわかるようになった。

子供が産まれて、赤ちゃんがその騒音で泣くようになった。勇気を出して、注意しに行った。クレーマーだって怖いよ。ボコボコにされたらどうしよう。でも子供のためだと思って注意しに行った。めっちゃ、足ふるえてたよ。3〜4人でたむろしていた少年たちは、「あ、すいません」と言って消えていった。でもまあ増田の言う通り、数日後には別の奴らが来るんだよな。今は引っ越したけど、やっぱりあの家にはいい思い出はないよ。ほんとに自分の行動が騒音だなんて気付いてないから、無理なんだよな。俺も若い頃夜友達と集まって、コンビニで買い物して、あれ楽しかったよ。わかる気持ちもあるんだよ。でも赤ちゃんが泣くんだ。注意させてもらったよ。増田の様に騒音過敏モードに入らなかっただけで、役所に鍵つけろ!とか相談しなかっただけで、一歩間違えば俺も公園クレーマーになってたよ。

2023-06-05

小学校入学の時に6年分の夏休み冬休み宿題全部出しとけよ

中受する奴は2、3年で終わらせて試験対策した方が得だろ

遅延行為か?

2023-05-23

anond:20230522003705

昨日書いたこれ読み返してて思い出したのが、2008年って相対性理論ブレイクした年なんですよね…。

鮮やかなオレンジ色の西日を浴びながらお姉さんと勉強してたときも、泣きっぱなしだったコミケ帰りの車内のラジオでもLOVEずっきゅんが流れてたし、冬休みオフ会カラオケで私が歌ったのも地獄先生だったし。

聴けばすぐに各々の思春期の頃に呼び戻してくれるようなあの甘ったるいメロディと、私のちょっと歪んだ甘々な青春が同時代クロスしていたと考えるとやっぱりエモいなあ…。

2008年のあの頃、ラジオ普通にボカロが流れてて曲が流れるたびにDJの皆さんが一生懸命ボカロとはなにかを解説してて、雑誌やら友達経由で色々知識を得ていた私は「ほうほう、大人のくせになかなかわかってるじゃないか、すげー浅いけどw」みたいなノリで聞いてたのを思い出して耳がカッと熱くなるような思いですが、翌年末頃にけいおんが密かに流行りだして、私が高校進学したときに二期が始まって、その頃にはうちの学校にもけいおん部作ろ!って声が全国とは言わないけどかなりの広範囲で広がって、うちの高校軽音楽器部っていうのが出来て。

自惚れた私は澪ちゃんに似てるからって自分で言って、まあ髪型とタッパだけ似てるかなって他の子にも言われましたけど、うちに結構いいベースあるからってアリアプロSB-R60ブラックフィニッシュを持ち出してベース担当になったのは思い出したら懐かしくてウルッときましたけど、あのベース音量がやたら小さくて現代ロック音楽には不向きだとだけ言っときます。あと卒アルライブ写真で集中しすぎて変顔してる私の写真クラス中どころか実家でも笑いのネタになって今でも思い出すと耳が熱くなる思いなんですけどあのとき軽音部は本当に楽しかったな…。DTMとかQY-100で曲作ってくれるピアノ得意な後輩も入ってきてバックトラックに合わせながら演奏合わせられるようになって、卒業とき芸祭はお姉さんに教えてもらったギタリストバケットヘッドさんのbinge and grabとかnight of the slunk、sooth sayerとか部員の皆に聴かせて私こんなんやりたんやけど!って言ったら歌無いのやばくね?って拒否されて、結局私の第二候補のtommy heavenlyのim your davilとそれのパクリみたいなオリ曲になったり。まあどっちも名曲ですけどね!!!

ボカロ曲も考えたけど誰もあんなん歌えないし諦めましたよ、もう!

私が一番好きなクローバークラブなら自分でもベース弾けて歌えた(当時)けどあの曲マイナーやし!

あと1/6の夢旅人候補に上がったけど兵庫県民は基本水曜どうでしょう知らんねんて!

ただロシアリアルミクちゃんがこないだローリンガール完璧に歌っててまじビビったし、あの子高校の頃に軽音部組みたかった…。wowakaさんの曲全部すき…。

高校の頃はあんまり絵描かなくてこんなことばっかしてたけど音楽スキル身につけられて有意義じゃんと思ったけどさっきベース引っ張り出してちょっと弾いてみたらもう全然指動かなくて笑っちゃった!!スラップとかぜったい無理!

やっぱり何事も毎日練習♪ですね。

んでベース弦死んでるから変えようかなって検索して買おうとしたらとんでもなく値上がりしてて倒れそうになりましたよ。4弦で3500円ってどゆこと???

2023-05-22

魔法のiらんどとかフォレストページとか携帯イラストサイトの思い出

時折、ふと思い立ってPC画像を見返してると大きさ240x320の画像群がずらりと並んだフォルダを見つけて開いてみたら自作アナログ絵をブツ撮りした画像が並んでて羞恥に塗れたリア厨時代の痛々しいネト活の記憶が光の速度でAMSから逆流するように蘇り心臓バクバクさせながらフクロテナガザルのケイジくんみたいな奇声を上げてイキュラスキュオライキュラスキュオラキュラスキュオラ!することってあるじゃないですか。ありますよね。あるんですよ。

私も昨日、昔撮ったきゃわいいきゃわいい飼い猫の写真を久々に見ようかと古い順に画像ソートしたら見ちゃいましてね……中学生の時に愛していた絵師様に向けて描いたキモすぎるラブレター的なアレとかアレとかアレとかをさ。

もうサムネ見た瞬間ビクッとなったんですけど、じゃあはよ消せよって話なんですけど、そんなんでも色々思い出が詰まってるんですよね。キモさの中にも美しさがある、痛さの中にも気持ちよさがある、親しき中にもレズがあり、みたいな。

そんな中学時代の汚らしくも輝かしい青春記憶を今、絶妙嘘松を交えながら赤裸々にここに綴る。

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私が絵を描き始めたのはそれこそ物心ついたときからで、母に聞かされた話によると同じ保育園に通ってたお隣の子が上手なおジャ魔女どれみの絵を描いて私に自慢しに来たのが始まりらしく、対抗心を燃やした私は連日おジャ魔女どれみを描きまくっていたらしい。その傾向は小学生になっても変わらず学校休み時間はひたすら自由帳に絵を描き、帰宅しても夜まで絵を描き、休日は画用紙と絵の具を使ってカラー絵を描くという毎日を送っていた。

そして小学3~4年頃に美術館で観たアンドリュー・ワイエス展に衝撃を受け西洋美術に関心を持つようになり、本格的に勉強したいと思うようになるのだけど…

5年生になった頃には私の身長は170cmを超え、親にも親戚にも「アンタそんな立派な体してるんだから何か運動したら」と事あるごとに言われるようになり、当人らは特に他意無く適当にそう言ってたんだろうけど、言い返せない、断れない性格の私にはその一言が重くのしかかり、渋々陸上部に入部する。

さすがに身長の高さゆえか男子女子わずほとんどの部員より足が速かったためそれなりに記録を残すことができ充実感もあったのだけど、やっぱり勉強以外の時間は絵を描きたいし、特に休日大会があるときなんかは切実に辞めたいと思った。でも親は陸上頑張ってて偉いね、なんて言うもんだから別に親は悪くないんですけど。

そんな調子で2年間を過ごし、卒業まであと3ヶ月という頃にはすっかり絵を描くこともなくなってこの世で一番アンドリュー・ワイエスから縁遠そうな、カリカリ日焼けした野暮ったい私がそこにいた。そして中学進学に向けて色々と準備をするなか親に渡された携帯電話、これが私の人生を良くも悪くも大きく変えてくれたのだった。

当時インターネットなんて全くわからなかった私は、漫画誌に載ってたフォレストページの小さな特集を頼りに、検索でたどり着いたイラストサイトリンクランキングサイト経由でその手のサイトを読み漁っていた。そういえば私絵描くの好きだったなとか思いながら。そして、ある絵描きさんの作品一目惚れし、その方のサイト掲示板初カキコ…ども…してしまう。そのHPは0zeroというドメインで、一番画像を綺麗に貼れるとかで絵描きに好まれていたとかなんとか。

コピックエアブラシで描かれた色鮮やかな夕焼け少女油絵の具の力強いマチエールの上に描かれた少女鉛筆で描かれた量感溢れる少女の裸体、どれも本当に素晴らしかった。何で全部少女の絵なんだろ?と思ったけど。

もう一生懸命考えて思いつく限りの称賛を書いた長文を投稿した瞬間からキドキですよ。もう興奮で夕飯も喉を通らない有様でF5アタックみたいに更新しまくってひたすら返信を待ち続けたのだけど、最初に貰ったのは社交辞令的な一行返信だった。がっかり…。が、後日めげずにこの絵はどんな方法で描いたんですか?それってどんな画材ですかなんて引き続き書いてみると丁寧にコメント返してくれて、油絵の具ってそんなに高いんですか!?私のお小遣い月1000円だからとてもじゃないけど手が出ませんね、なんて言ってみると「あなた何歳?」って。んで11歳です、と。すると、「じゃあ私の持ってる絵の具あげるよ、今度会お?」と言われて。

しばらく固まった。どう返信していいかからなかった。それで母親にそのことを相談したら最初は「馬鹿な子だねそんな知らない人とやり取りして」そう怒られたけどどうしても油絵の具が欲しくて、最終的に私書箱経由で絵師さんが電話番号を教えてくれて、絵師さんと母が直接電話をし、母同伴で絵師さんと会うことが決まった。そんときリアルジャンプしてガッツーズしましたよ。

そして絵師さんは隣府県に住むとても礼儀正しい芸大1年のお姉さんで、母としては好印象だったらしい。実際、母も当日たくさんお土産渡されて即堕ちしてたし。

春休みを迎える頃には私はすっかりお姉さんのサイトに入り浸り、連日絵を投稿しては色々アドバイスしてもらったりキャピキャピ雑談して大学生世界を教えてもらったりと楽しい日々を送っており、さらにはお姉さんの通う芸大の卒展に連れて行ってもらったりして私はすっかり美術世界に舞い戻り、既にお姉さんのことが好きになっていた。本当にお姉ちゃんが出来たみたいだった。そして両親に東京美大に行きたいと言ったらすげえイヤな顔された。そりゃ確かに費用がね…。

そして中学最初夏休み、一緒に宿題を片付けて合間に絵を教えてもらうという名目でお姉さん宅に長期のお泊りをすることになるのだが、これがあかんかった。まああかんかったよ。

隣府県の郊外にある2Kのアパート、そこがお姉さんの住処であり創作現場だった。部屋中に飾られた素描水彩画、見たこともない大きなカルトンイーゼルに立てられた描きかけのよくわからないけどかっこいいのはわかる油絵、全部を束ねればお姉さんの腰くらいになりそうな大量の絵筆と少しだけ錆びついたナイフが並んだテーブルに乱雑に置かれた混沌色に染まったパレット。そして棚に並べられた大量の本とCD

やべ、カッコよすぎて漏らしそう。でも同時にいつもどおりの田舎臭いガキ臭い格好をしてこの部屋に足を踏み入れた自分が凄く恥ずかしくなった。

ただ、テーブルの上に飾られた「スーパードルフィー」なる人形だけは正直キモイと思ってしまった。学生服を着た二体の少女人形がお互い腰に手を回して座りポースを取っているのだが、その光景に何か変態的なものを感じたというかのちに私の勘は完全に正しかったのだと判明する。

うん、確かに宿題はすごい勢いで片付くし、特に苦手な数学は私が完全に理解するまで根気強く教えてくれて本当にありがたいし、絵は美大予備校でやるレベルのことを丁寧に惜しみなく教えてくれる。家事も一緒にやって料理もそのときちょっとだけ覚えたし、お姉さんが影響されたっていうオノ・ナツメ漫画とかミギーイラストとか、他にもボナールとかセザンヌかいろんな画家画集を見せてくれてカッケー洋楽を教えてくれたり一緒にビデオを借りに行って映画もたくさん見せてくれるという、いたれりつくせりの家庭教師っぷり。おお、私の田舎臭が浄化されていく…。

ただね、この人近いんすよ、距離が…。

ちゃぶ台に座って宿題やってるときはお互いの肩が密着するくらいくっついて耳に息がかかるくらいの距離で喋り、計算間違いしたり誤字ったりすると足裏をくすぐってきたり、考え込んでると腰に手を回して太ももを撫でてきたり、絵を描いてるときはまたも背中にピッタリ身体押し付けて色々助言しつつも肩から肘までねっとり撫で下ろしたりしてきて、上手に描き終わったときは思い切り後ろから抱きしめて私を褒めながら脇腹をくすぐってきたりして、とにかくボディタッチが激しい。

で、私がくすぐったがるとお姉さんもケラケラ笑って冗談っぽい雰囲気になるので正直イヤなんだけど拒否しずらいというか私もちょっとくすぐり返したりしてるうちにお互い距離感も縮まり、遠慮がなくなってきてタメ口で喋れるようになったのもあっていつの間にかすっかりお姉さんのボディタッチを受け入れてたんですよね…。

そうこうしてるうちに2週間が過ぎ、翌日は待ちに待ったコミケに連れてってくれるというのでもう我は有頂天である。私はね、去年から流行ってたボカロが気になって気になってどうしてもCDが欲しかったのだよ。しかも事前に宿を取ってくれていて二日目も参戦できるという。そんなん友達に自慢しまくるしかないやん!!!

その日の昼には車で東京に向けて出発し夜にはホテルチェックインしました。

そして念願の初コミケ1日目はお姉さんのサイトに常駐している何人もの絵師さんと会場で初対面し手描きイラストを沢山プレゼントしてもらい号泣しちゃったり、(特にSAINTさんという鳥居紅葉、月夜と和服女性モチーフに厚塗りリアルタッチ作品を描いてる絵師さんが好きで、その人に貰った絵はその日一日中眺めてました。しかもクソイケメンだった)35度の炎天下で水分補給を怠った結果熱中症ゲロ吐いてぶっ倒れたりと惨憺たる有様でしたが、二日目には「ねんがんのSupercellCDをてにいれたぞ!」したり恥ずかしながら寄せ書きコーナーでミクを描かせてもらったりと最高の一日になった…はずでした。その夜の出来事を除けば。

結果的に言うとその日の夜お姉さんに犯された。ホテルシャワー浴びてるときにお姉さんが風呂突撃してきて、私の身体を洗いながら今までにない冗談抜きのマジ顔で全身くすぐりまくってきて、特に脇腹と胸を執拗愛撫されてイかされた。抑えきれない全身の痙攣に襲われ貧血でぶっ倒れたときみたいな状態になって何の抵抗も出来なくなったらベッドに連れてかれて体感的には一晩中乳首いじられながらクンニされて涙流しながら喉が枯れるほど叫んで何度も何度もイかされ続けた。ちなみにそのときの私は性的欲求なんて皆無だったしオナニーすらしたこともない。そりゃ12歳だしね。

そして帰りの車で初めて会ったときから私を性的対象として見ていた、卒展で再開したときには実行するかはともかくこの計画を立てていた、そしてこの夏に私の日焼けした肌を見て、直接触ってみて欲求を抑えきれなくなったとの供述をし始めた。曰く私はくすぐりに対しての反応が非常によく、沢山くすぐって何度も乳首タッチした日は洗濯物に出した私のパンツにしっかりヌルヌルしたものが付着していたので、着実に性感開発されててこれはいけると確信したと。

俺は限界だと思った。お前首絞めて殺すぞこの悪霊め。

帰路はずっと涙が止まらなくて、でもお姉さんは自分は今で言うとこの性的マイノリティだとか言いつつ潜在的に君はレズからこの経験は後に良いものになる、私のこともホントは嫌いじゃないはずとかぬかしやがってさ…。確かにまだ嫌いではないよバカ野郎。お前にされたことが予想外かつショックすぎて泣いてるだけだよ。んで家に帰ったらもっかい同じことするから嫌なら蹴るなり殴るなり親や警察通報すればいいとか言い出しやがって。

で、その日の夜またお姉さんに風呂で全身くすぐられて乳首いじられながら玩具使いつつクンニされまくってイきまくった。俺は今度こそ限界だと思った。その頃にはマジで気持ちよくて、ていうか他人に逆らうのが苦手な気質のせいかお姉さんに反抗する気持ちが湧かなくなってたので。

その日以来、私はしばらくネットを止めてお姉さんとの連絡も断っていたのだけど疲れからか不幸にもお姉さんのサイトアクセス私書箱から久々の連絡をしてしまう。私もうすぐ冬休みです、と。

そしてサイト掲示板ではクリスマスに皆でパーティーしようかという話にいつの間にかなってて、新しくサイトの一員になった秋間(かずひさんだっけ?もう名前忘れたごめん)さんというパステル画の達人も加わり互いの絵を持ち寄って見せ合おうという話になる。

大阪カラオケボックスに集結したお姉さんに一生さんとかSAINTさんとか秋間さんとか特定されないよう他1名と記すけど5人の美大芸大ガチうま絵師さんたちの生イラストを観て立ち直らねば、あの日覚えた行為の名をググって知って自慰行為も知っちゃったけどやっぱ真剣に絵を描かねばという気持ちになるわけですけど、解散後にまたお姉さんに誘われていつものアレをされて、もう全部が台無しよ。

そして図々しくも来年夏休みもまた一緒に過ごそ?とか言われて。まあ結局そうなるわけですけど。

でも翌年の夏休みは他の絵師さんにも事前に連絡を取り付けてお姉さんの住所を教えてたおかげで日中セクハラされず夜限定になったわけですけど。そして夜にはお姉さんの所有する大人玩具がつよつよすぎてまた屈してしまうというかそれ耐えるの絶対無理ってなって中2のときは毎週のように逢って電マの威力に屈服させられたりしてたわけですけどさすがにお姉さんも4年になると私を相手してる余裕が無くなったらしく卒業就職の準備に時間を割き始めて私はお姉さんより3歳年上のSAINTさんと蜜月になって、彼は愛知住みだけど何度かデートしてたらお姉さんの耳にその情報が入ってしまい、また自宅に呼び出される。

SAINTさんは紳士すぎて何もしてくれないので久しぶりのお姉さんの責めに期待してたら駅前で対面即泣かれて、よくよくそ理由を聞いてみたら「あなたホントは私のこと好きなのに男と付き合ってどうすんの思春期の一時の感情に惑わされないで絶対後悔するよそれはそうとしてまたあのとき快感を思い出させてあげる」とか言われてお姉さん宅連れて行かれたわけですけど、連れ込まれた先はいものあの部屋とは思えない綺麗に片付いた状態で「私東京就職に行くけど貴方は来れないよね」なんて言われてまた泣きつかれて。親には聞いてないけど多分無理でしょと答えたら今までにない本当にあたたか感触ギュッと抱きしめられて「好きだよ…」と言われた。今だから言えるけど私もお姉さんのことが部分的には嫌だったけどやっぱり大好きだった。そしてもう今までのように会えないんだなって、その時悟って泣いた。

でもお姉さんに教わったことはずっと忘れないし、私は必ず絵の道に進むしそのとき必ずまた会えるよって言ったらお姉さんはコミケ帰りの私みたいにぎゃあぎゃあ泣き喚いてて、その姿が可愛くてギュッ彼女を抱きしめた。これが私達には一番心強くて、私達の絆を感じる行為だってわかってたから。そして携帯を取り出してお姉さんのサイトを開いて「私はいつもここにいるから、寂しくないよ、みんな一緒だよ」って。

その日はお姉さん家に泊まってずっと抱き合って一緒のベッドの上で寝てた。SAINTさんとの浮気をチクチク糾弾されながら。

その後、私が3度目の夏を迎えた頃にはお姉さんのサイトはすっかり過疎っていて、連絡しても一月に一回程度、たまに返してくれるくらいの頻度になり、絵を描きつつもバンド活動にハマってお姉さんにそのことを報告しようとしたら去年東京結婚したとの書き込みを期に更新が途絶えていて。私もこのサイトのことは忘れよう、あの頃のことは忘れようとなってtwitterpixiv活動の場を移すうち、いつの間にかお姉さんのHPは(0zeroからecacoへとドメインを変えて必死延命していたらしいけど)サービスもろとも綺麗サッパリ無くなっていました。

2023-05-04

嘘のドラえもん

子供のころ、ゴールデンウィークとか夏休みとか冬休みとか、長い休みの時期になると『嘘のドラえもん』がよくテレビで流れてた。

嘘のドラえもん子供自分がみても明らかに藤子F不二雄の絵ではなく、もちろんAでもなかった。

自分はこの嘘のドラえもんが好きでビデオに録画して何度も観ていたのだけど、あるとき親がそれを知ってビデオを全部捨ててしまった。

長期休みになると嘘のドラえもんも思い出してまた観たくなる。

2023-03-26

障害児持ちの親御さんは健常の子にもちゃん心のケアをしてあげて

「殺してしまう…」「気がつくと妹の上に馬乗りに…」両親のきょうだい差別に苦しんだ20代長女が出した解決策と母に現れた「救い」

https://gendai.media/articles/-/108080?imp=0

関東在住の露木実湖さん(20代・未婚)は、2歳下に重度知的障害自閉症を持つ次女、9歳下に三女がいる3人姉妹。両親は、露木さんが上の妹から受けた被害を訴えても、「お前が悪い」と露木さんを怒る。そのため露木さんは、「上の妹を“えこひいき”している」と、両親に憤りを感じていた。

やがて露木さんが小学校に上がると、学校では一部の男子からいじめられ、母親相談しても「気にするな」と一言。やがて下の妹が生まれると、母親は幼い下の妹にかかりきりで露木さんに目もくれない。さら父親からは、虐待とも思える仕打ちを受け続ける。

2016年3月、露木さんが高校卒業するお祝いに、家族東京ディズニーランドへ出かけた。もちろん旅行は上の妹も一緒。楽しみにしていた露木さんだったが、旅行中、上の妹が手がつけられなくなるほど喚いて暴れ、他人の目が気になってしまい、心から楽しむことができなかった。

2018年12月年末年始特別支援学校冬休みに入るため、上の妹も家にいた。夜になると、露木さんはリビング家族テレビを見ていた。そんな大晦日事件は起こった。

ちょうど露木さんが楽しみにしていた番組が始まったタイミングで、上の妹が甲高い叫び声を上げながら暴れ出したのだ。当時、露木さんは20歳大学の実習についていけなくなったため中退し、通信制大学入学して就職活動を行っていた。

そんな中、楽しみにしていたテレビ番組を観ることを上の妹に妨害され、その瞬間、頭の中でプツンと何かが切れた感じがした。気が付くと上の妹に馬乗りになり、上の妹の口を必死で塞いでいた。

もちろん、露木さんの上の妹に対する悩みや、学校いじめられているとき気持ちに、少しも耳を傾けようとしなかったのは、親として間違いだったのは確かだ。しかし、露木さんの就職先がなかなか決まらなかったとき母親がただ温かく見守ったのは、子どもの頃の露木さんに対する自分の接し方に問題があったことを認め、申し訳なく思い、露木さんと和解したいと考えていた現れのように感じる。

一方で、父親の露木さんに対する扱い方には目に余るものがある。叱るとき感情に任せて怒鳴るのではなく、子どもに分かるように叱る理由を伝えなければ、躾ではなくただの虐待だ。気分で子どもを扱ってきたために、露木さんは父親と一緒では安心して生活することができなくなってしまった。

露木さんは現在、上の妹を強く嫌悪している。その理由は、両親の子どもへの接し方に問題があったためにほかならないだろう。子どもの頃も、大人になってからも、きょうだい児を苦悩させている理由の多くは、その両親に原因があると思うのだが、どうだろうか。

きょうだい児は本当は障害児の一番の味方になってくれるはずの存在なのに、親の接し方が悪ければ逆に障害児を嫌悪するという本末転倒な結果になってしまう。

そうなったらやっぱり親が悪い。

きょうだい児に対しても、親としての責務をしっかり果たして欲しい。

2023-03-21

正社員よりもバイトのほうが理不尽だったなぁ

4月から正社員として働く学生がソワソワしている時期だね

僕も学生という身分が無くなって自分で働かなきゃならない責任感や、もしブラック企業だったらどうしようとか思って今時期は落ち着かなかった。

でも、結局正社員として働いたほうが、学生バイトもしなければならない時期からしたらだいぶ楽だったね。

もちろん人によっては酷いブラック企業に入ってしまったとかあるので一概には言えないが、

正社員としていくつかの企業経験していたんだが

学生時代に何個かバイトしていた時とくらべると、バイトのほうが酷い待遇だったなあと思う。

バイト学業を掛け持ちしなくていい

実家が太ければそういうことないけど、生活費を稼ぐために学校行ってないときバイトしなければならない人もいるし、バイトをしていないとき学業をしなければならない。

この掛け持ち生活はしなくていいのは良かった。

勉強してもお金になるしな!

僕は実家大学から近かったが、家は出てシェアハウスみたいに暮らしていた(実家を出てみたかたから)

あと、親は18超えたら学費以外何もしねぇって方針だったので、運転免許とか教科書代とか定期代とかは自分で頑張らなくちゃならなかった。

ひどい扱いは少ない

バイトは替えがいるからとおもっているのか、大体どこも酷かったぜ。

ファミレス

ここは結局面接でバイト落ちちゃったんだけど、いまだに燃えるような怒りを持っているんだよ。

面接に行ったときに、愛想よく笑顔面接を受けようと心掛けたわけだ。

ファミレスの客席で面接がはじまったんだが、バイトの人一人を同席しての面接らしいんだが、そのバイトの人がすげぇ不愛想で挨拶も返さない感じで

志望動機とか聞かれたから、「今までファストフードとかの経験があり、お客様と接する仕事はとくいなのでー」みたいな話をしたら、店長が遮ってきて「で、正月働ける?」って聞いてきて

僕は「正月実家に帰りますので、ですが冬休みギリギリまで働けますし、GWでも」みたいなことを言っている途中で「いや、正月働けない人はいらないから。はい終わり」って席を立った数分で終わったんだけど

店長が去り際に、「で、あん学生でしょ。ヘラヘラした受け答えでやってけるとおもってんの?そんなんでどこでも働けないからね」って言われて…

今までこの笑顔ファストフードバイトでも結構評判良かったのに、今までの経験をひっくり返されたことと、高圧的に一方的不合格言われたのにそんな最後捨て台詞言いやがって…っていう思いで

その日は家に帰ってマジ泣きした。鬼殺し飲んでマジ泣きした。

別の飲食店

ここはバイト受かったんだけど、ここは本店で合同で研修をやる制度で、そのあと、近隣の店舗見習いとしてホール仕事をした。

で、最終的に近隣の店舗のうちどこかで人が足りないところに配置されるので、そこの店の店長から連絡が来るので待っててって言われて

かれこれ10年以上たつけど未だに連絡がこない。

正直、すごい店長たちが高圧的で、このままやめたいとも思ったので、良いんだけど、

フェードアウトってどうなの

電話しようかと悩んだけど、「お前は使えないからどこでもいらないわ」とか言われたらもう立ち直れないと思ってあえて電話しなかった。

なお、レンタルビデオ店ですぐにバイトが決まったので大学卒業までそこでお世話になることになった。

レンタルビデオ店

レンタルビデオ店環境も人も良かった。売り場設計とかまかされたけど時給と拘束時間を考えれば、普通に今の仕事のほうが楽だわって思う。

ファストフード

高校から大学入ってちょっとまでやってたファストフード

世代いるか学校みたいな感じで楽しいというのがあったが、今思えば酷い。

人が足りないとき、7時から9時まで 12から14時まで 17から19時まで みたいに細切れに長い休憩を挟まれて、長時間労働を実現させられてたよ。

あるとき大学生のバイト母親がガンの手術があるので病院に行くことになったから、シフトに入れないということになったとき。手術終わったら来てっていう社員ね。人の心ないんかって思った。

別の話では、年上のバイトの人たちが、フリーターとして働いているんだけど、昔は別の会社正社員で働いていたと聞いた。

でも、店長が「やめないで…日曜だけでも来て…」っていってズルズルやってたら結局仕事に身が入らなくてフリーターになったっていってて、それが4人くらいいて。こわって思った。

他にも、僕の携帯をこっそりカバンから取り出して盗み見する大学生とかいたり、社員バイト女の子不倫をして閉店後の深夜の店舗SEXしたとか自慢していて、「こいつらやべぇな」って思ってきてやめた。

大体どこもこんな感じだった

友人の塾講師バイトは、給料不払いだった。

別の友人のファミレスは、ファミレス店舗撤退したらバイトは全員解雇だった。

そんなのに比べたら正社員本当に守られているし、なにより常識人のほうが多いか

2023-03-17

満員電車も恋しかったりする

数ヵ月前まで満員電車に揺られて通勤していた。ピークの時間絶対乗れないので敢えて30分早く家を出て通勤していた。そこから遅めの冬休みで今は山に囲まれているところに滞在してささやかながらのバイトをしている。通勤時間たったの5分。回りを見渡しても山しかない。ビルなんかない。この景色がすごく恋しかったはずなのに、もういいやとなっている自分がいる。

社会歯車として人間関係はクソだけど満員電車はつらいけど楽しい仕事で働いている自分が好きだったみたいだ。

復職まであと1ヶ月。

もう既に戻りたい。

きっと戻ったらまたこの山が恋しくなるんだろうけどね

2023-03-13

母さんがガンで死んだ(追記

から連絡があり、母さんの体調が悪いこと、癌の可能性もあることを知らされる。母さんは自分意志でがん検診は受けていなかったから、不安を感じつつも、「姉は大袈裟からなー」と、大ごとになるとは思っていなかった。

ただ、残念ながら婦人科系の癌だった。コロナ禍ではあったものの、運良く地域の基幹病院入院することができ、溜まっていた腹水を抜いてもらったり、検査をしたりと、色々と処置をしてもらったらしい。

医者から一般論として「5年後にはいないだろう」という話をされたが、「医者は短めに言うんだろうな」と、前向きに捉えようとした。仕事の帰り、一つ手前の駅で降りて、歩きながら母さんに電話した。

「そうじゃないかと思ってたから、分かってスッキリしてるよ。子供たちは立派に独立して、みんな家族もいるし、私は思い残すことはないから。」

とサラッと話していた。なんとか気丈に話そうとしたが、涙が出た。帰宅し、妻に報告したら、また涙が出た。祖父を癌で看取った妻は「そんな簡単に亡くなりはしないよ」と、怒っていた。彼女なりに励ましてくれてたんだろう。

「何で癌で人が死ぬのか」ということすら知らないことに気づいて、いくつかの本を読んで、「多臓器不全で死ぬ」ということを今さらながら知った。

翌月、帰省すると、「で、何しに帰ってきたの?」と、とぼけたことを聞かれたので「様子見にだわ」と。特段変わった様子はなく、いつもの調子

溜まっていた腹水を抜いてもらって、楽になったらしい。「しばらくは大丈夫かな」と思う。翌朝、母さんは「そのうち、『あれが最後に作ってもらった朝ごはんだったな』ってなるわよ」と軽口を叩きながら、目玉焼きを焼いてくれた。

その後の検査で、癌はそれなりに進行していて、「ステージⅢの後ろの方」と評価された。外科手術や放射線治療を行う段階にはなく、化学療法プラチナ製剤)を試してみて、癌細胞が小さくなるようであれば、外科手術や放射線治療検討しようということに。

母さんは「『髪の毛が抜けることがある』じゃなくて『絶対抜ける』って言われたわ」と笑っていた。

程なく、抗がん剤治療が開始され、母さんの髪の毛が抜けた。この頃は、抗がん剤副作用が抜ければ、食べたいものだとかも色々あったから、買いだめしといてあげたりした。

実家家族帰省して、夜遅くまで母さんも交えて酒を飲んだりもした。まだ、言葉もしゃべれなかった娘も、母さんにはよく懐いていた。

副作用に耐えながら抗がん剤治療を続けたものの、思うような効果は得られなかった。

「癌の専門医先生の方がいいんじゃないか」という思いもあり、主治医先生にも相談の上で、セカンドオピニオンを取ることにした。

その道の専門医先生2名にお話を伺いに行ったが、どちらも「うちなら治るかもよ」だとか「この治療法よりも、こっちの方がいい」なんて話は、当然なく、今診てもらってる病院で、「そのままお世話になる方が良い」とやんわりと伝えられた。

それでも、「やっぱり経験値が高い専門医先生の方がいいんじゃないか」と、先の2名の先生のうちお一人にお世話になることにした。

細かく検査もしてもらったが、「やれることは限られている。選択肢がないわけではないが、リスキーな上、効果期待値は低いので、おススメはしない。本人の希望に沿うならば、通いやすい、もともと診てもらっていた病院で改めて診てもらっては。」

とのお話があり、結局、出戻ることにした。その病院からの帰路、高速道路の大きなSAに寄った。

あなたたちが小さい頃には、旅行の度に、いつもこのSAに寄ってたのよ」と懐かしそうに話していた。

ちなみに、今でもそのSAを通過すると、その時の母さんを思い出して、なんだか泣きそうになる。

改めてもともと診てもらっていた病院に伺ったところ、事前に調整はしていたこともあってか、主治医先生は嫌な顔一つ見せず引き受けてくださり、次の段階の抗がん剤(単剤)にトライすることになった。

これ以降、段々と体力の低下、食欲不振が顕著になりだし、当初は「抗がん剤副作用かな」と考えていた。思うような効果が得られず、抗がん剤の投与を中止してから状態改善しなかった。

母さんが癌であることは、母さんの希望もあって、積極的に知らせることもせず、また隠すこともしなかったが、状況を知った遠方の親類達が揃って見舞いにきてくれたりもした。

この頃は、まだ座ってコーヒー飲むらいのことはできていて、楽しそうにお喋りもしていた。

妹が介護休業を取り、母さんの面倒を見てくれることになった。その時点では、自分のことは自分でできていたし、正直言って「早いんじゃないかな」と思っていたが、結果的には、ドンピシャタイミングだった。

死ぬまでに行きたいと言っていたスカイツリー東京結婚式に出席したので、その足でスカイツリーに行き、ビデオ通話で見てもらった。「すごいねー」と笑ってくれた。

12月下旬は、早めの冬休みを取って実家に。妹からは、体力の低下が著しいということは聞いていたが、想像よりずっと悪かった。

ベッドの脇に座って吐いてばかりいた。思っていた以上の状態言葉が出なかった。夜も眠れず、食事も摂れず、水分を摂れば吐き。かわいそうで見ていられなかった。

足のむくみもひどく、母さん曰く、頭の中は「しんどい」一色だった様子。肩をさすったり、足を揉んであげたりしかできない。足をマッサージしてあげていると、少しの間だけ、寝てくれたのが、せめてもの救いだった。

そんな中、母さんは「とても渡せそうにないから」と、お年玉と一緒に娘の七五三の祝いを渡してくれた。涙が溢れた。母さんも「湿っぽくなってごめんね。」と言いながら泣いていた。年明けも早々に再入院。あまりに辛そうな母さんの姿に、打ちのめされてしまった。

母さんの希望は、「できる限り家にいたい」だったので、妹が訪問看護段取りを取ってくれ、病院には無理を言って予定より早く退院した。この訪問看護のチームが素晴らしく、親身になって、それも超速で対応してくれた。母さんは「病院から逃げ出して正解だった」と、喜んでいた。

急遽、仕事休み実家へ。妹と交代で診る体制に。眠れず、体の置き所がない母さんは、15分おきくらいで、姿勢を変えてあげなければいけなかった。辛そうだった。

少し話ができそうなタイミングで、「今までありがとう。母さんの子どもで良かったよ。」と口に出すと、涙が溢れた。喋るのも辛く、手をあげるのもしんどいはずの母さんは「何を言ってるの。こっちのほうが、ありがとうよ。いい子だね。」と言って、頭や頬を撫でてくれた。涙が止まらなかった。

妹と交代で眠りながら看ていたが、日に日に意思疎通がとれなくなり、意識レベルも低下。せめて、苦しまず、穏やかに逝かせてあげたいと、鎮静剤の量も増やしていった。眠る時間が増え、顔をしかめる頻度も少なくなり。

「母さん、先に横になるね。また後でね。」と声をかけて寝ようとしたところ、ほとんど意識のないはずの母さんが、少し手を上げて応えてくれた。「バイバイしてんの?」と、妹と2人で笑った。

その晩、妹に「やばいかも」と起こされ、会ったときにはほとんど呼吸もなく。子供3人が揃ったところで、母さんは静かに息をひきとった。目を瞑り、とても穏やかな顔だった。皆、口々に「お疲れ様。よく頑張ったね。」と母さんの闘病生活の終わりを労った。

泣き崩れてしまうかもと思っていたが、不思議と涙は出ず、ホッとしたような気持ちになった。

訪問看護に連絡したところ、深夜にも関わらず、看護師さんが来てくれた。死亡診断は医師しかできないとのことだったが、脈拍を見たり、瞳孔を見たりして「確かに亡くなられていますね」と手を合わせてくれた。

そこからは、子供三人で、看護師さんの指示に従って、母さんの体を拭いたり服を着せたり。服は死装束じゃなく、妹が見繕ってくれていた、いつも母さんが来ていた服を着せることにした。

最後看護師さんが、母さんに化粧をしてくれると、すっかり血色が良くなって、まるで寝てるみたいだった。

看護師さんが帰られてからは、葬儀屋を探したり、段取り役割分担を話したり。葬儀屋は、空いてるところに頼むしかなかったというのが実態で、なんなら「火葬場に直送しろ」くらいのことを言っていた母さんの考えとは違ったんだろうけど、普通に葬儀屋に頼むことになった。

一旦、各自寝て、翌日以降に備えた。

翌日は午前6時の医師の死亡診断に始まり、寺や葬儀屋との調整や、親類への連絡、行政関係手続きなどで忙殺され、あっという間に通夜になった。どんな感じで動いたのか、正直、思い出せない。

覚えているのは、いつも気にかけてくれていた母さんの友達が、偶然訪ねて来られ、母さんに会って「信じられない」と泣いてくれたことと、一報を受けた母さんの義姉にあたるおばさんが寄ってくれて、母さんに会って「寝てるみたい」と泣いてくれたこと。

おばさんは「お母さんは若い頃はお父さん(自分祖父自分が小さい頃に他界。)と、喧嘩ばかりしててね。今頃、お父さんから「うるさいのが来た」って言われて、また喧嘩してるかも。」と、知らない話をしてくれた。

納棺ときには、たくさんの花と一緒に父さんの写真や、自分を含む子ども写真を納めた。

短い髪の毛の頭には、ウィッグをつけたかったんだけど、生前に「あんな高いものを燃やすなんてもったいないから棺桶には入れるな。」と言われていたので、やむなく頭はそのままに。誰が使うんだよ。マジで

葬祭会館で通夜を終え、そのままそこに泊まることにし、姉と妹は一旦、家族帰宅。酒を飲みながら待ち、時々、隣室の母さんの顔を覗きに行っては、線香をあげ、その度に泣いた。

夜中の2時になっても、誰も帰って来ず、体力的にも限界だったので、寝た。深夜に姉が、朝型に妹が戻ってきた。

翌日も葬儀火葬バタバタ。孫たちが大騒ぎしてくれたおかげ(?)で、終始、湿っぽくならずに済んだような気がする。母さんも、「あんたらねぇ」と笑ってくれただろう。

母さんが望んでいたような「火葬場に直送」じゃなくて、普通見送り方にはなってしまったけれど、許してくれると思う。

それから職場に復帰するまでは、皆で家の片付けや、クレジットカードの解約やら銀行関係やらのたくさんの事務手続き、親類縁者への連絡などを分担して対応している間に、あっという間に過ぎていった。

その間、近所の方だとか、母さんの旧来の友達だとかがたくさん弔問に訪ねてきてくれた。皆が口々に「いい写真だね」と言ってくれた祭壇の遺影は、母さんが自分で選んで、わざわざトリミングまでしていたものだったから、本人も満足してるだろう。

母さんの旧来の友達からは、母さんの若い頃の話や、その後の友人関係の話しを伺った。学生時代のことや、社会人時代のことだとか、自分が知らない母さんの一面をたくさん知ることになった。

当たり前だけど、母さんは「母」としてだけでなく、一人の人間として、たくさんの人と関係を作り、それを続けていたんだなと気付き、なんだか新鮮な気持ちになった。

そういえば、ウィッグ友達の一人で、自分もよく知っているおばさんが貰い受けてくれることになった。何度も「管理が大変だけど大丈夫?」と聞いたけど、それを踏まえて快く受け取ってくれた。

ウィッグ販売店には、その旨は連絡しておいた。弔問に来てくれた時にお渡ししたところ、母の遺影に向かって「返さないからね」と笑っていた。

思い返してみると、母さんが癌になってからというもの、母さんとは色んな話ができた。父さんのことだとか、嫁いできた経緯だとか、これからのことだとか。

癌との闘いは、とても辛かったと思うけど、近い将来確実に訪れる「死」に向かって、本人も家族も、心の整理も含めて、時間をかけて準備することができたように思う。僕は癌で死にたくないけれど、そんなふうに、ちゃんと準備をして死にたいなと思う。

母さん、ありがとう。母さんの子どもで良かったよ。

追記

たくさんの方に、暖かな言葉いただき、恐縮しておりますありがとうございました。

私自身が、母さんが癌になるまで癌のことを何も知らず、また、どのような経過を辿るのかを知らなかったので、「自分用に書いたけど、同じ境遇を迎えてたり、これから迎えるかもしれない誰かのためになるかも」と、乱文を投稿させていただきました。

野暮かなとも思いましたが、いくつかコメントいただいた内容を踏まえ、その趣旨に合うかなとも思うので、いくつか追記いたします。

母さんが癌の宣告を受けたのは、2月上旬で、翌年の1月中旬に60台後半で他界しました。10月頃まではまずまず元気でしたが、以降は段々と体力の低下が顕著になりました。12月中旬までは、体調が良ければ妹の運転ドライブに行く程度の元気さもあったのですが、食事を受け付けなくなってからは、あっという間でした。思っていたよりもずっと早い経過だったので、「もっと会いに帰ったら良かった」と思うこともありますが、「そうさせないところが母さんらしいな」とも感じています

経過は個人差が非常に大きいものだと思います。母さんよりも早い経過を辿る方もいれば、もっと緩やかな経過を辿る方もおられるでしょう。早い経過を辿ることを前提に、たくさん話し合って、準備をしておいた方が良いと思います特に、残された時間はできたら住み慣れた自宅で過ごしたいという方が多いと思うので、それができるよう、家族介護+訪問看護体制を整えられるかをしっかり考えておくべきだとも思います。うちの場合は、姉が実家比較的近くに住んでいたこと、妹が介護休業に理解のある職場環境だったこと、また、訪問看護のチームが素晴らしかたこと等、様々な要因が重なって、自宅で看取ることができました。

なお、母さんがやっていてくれた事で本当に助かったのは、エンディングノートをしっかり書いていてくれたことと、重要書類(通帳、カード年金手帳マイナンバーカード等)を整理してくれていたことです。特に、亡くなったことを誰に知らせるのかは、親類縁者ならまだしも、友人関係ほとんど分からなかったので、これがなかったら不可能でした。「私も書くから一緒に書かない?」と、提案されてみても良いと思います

長くなってしまいましたが、皆様の一助になりましたら、幸いです。皆様のコメントから、元気をもらいました。改めて、ありがとうございました。

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