はてなキーワード: 映画監督とは
イギリスの第二次世界大戦では金融政策上のスローガンとして「ゆりかごから墓場まで」という
英国の映画監督である、ダニー・ボイルは27時間や、スラムドッグ$ミリオネアを描き
映画、トレインスポッティングの中では、薬まみれの若者に、
と自分たちを対比させ、
「退屈なテレビ、家庭、住宅ローン、最初に買う家、保険、税金控除、
これらをクソだと冒頭で述べる。
その若々しい青さはそのうちに、disappearするのだ。保身、なんとなく生きる人生。
ゴールデンウィークもパーナン。お腹に外人の子を抱えた、風俗嬢(ナンパ)から、
BCGに転職した同級生まで、いろんな人にあった。そんななかで
岩瀬大輔の「ハーバードMBA留学記 資本主義の士官学校にて」
を読んだ。
ここに出てくる連中はいわゆる過去のケース、成功した人を後からたどったMBAの
ケースであるというよりは、かなりとんがっておかしくなった連中に見えた。
ベンチャースピリットとは路上でナンパすることから、HBA(ハーバードビジネススクール)
を出て、ベンチャーをExitさせることまで、どれもそれは0→1をする、スピリットなのかも
しれない。
これは明らかに不公平!!
教師や親は子供に対して、夢や希望には厳しい年齢制限があって歳を重ねるごとに選択肢が減っていくという事実をしっかり教えるべき!!
実際、メジャーマイナー人気不人気を問わず日本で就ける職業の殆どは、その職に自分が就きたいと思った頃には完全に手遅れになってるパターンばかり!
以下年齢制限別に見ていくと↓ (*一部の例外など、個々の特殊な事例を除く)
警察官 ― 25くらいまでには警察学校に入らないと現実的にまず無理
医師 ― 25くらいまでには医学部に入学してないと開業医の子息でも無い限り現実的に無理
獣医 ― 25くらいまでには獣医学部に入学しておかないと現実的に無理
薬剤師 ― 25くらいまでには薬学部に入学しておかないと現実的に無理
看護師 ― 25くらいまでには看護系学校に入学しておかないと介護系以外の求人激減
保育士 ― 25くらいまでには保育系学校で学んでおかないと求人激減
美容師 ― 25くらいまでには美容系学校で学んでおかないと求人激減
弁護士 ― 25くらいまでにはロー進学を決めておかないと合格してもタダのゴミ
作家 ― 専業で食べていくには現実的にこのくらいの年齢で入賞でもしていないと無理
有名企業正社員 ― 新卒を逃せば新卒プロパー至上主義の有名優良企業への就職&出世は絶望的
公認会計士 ― 大学卒業までには専門学校で学び始めていないと合格しても実務経験積めずに終了
声優 ― これくらいの年齢までに育成機関に通わなければ専業で食べていくのはほぼ絶望的
お笑い芸人 ― この年齢までにコミュ力を磨かなければ大勢の人前に立って笑わせることなど不可能
俳優・女優・役者 ― 遅くとも成人までには劇団・舞台なんかに立っていないとテレビのレギュラーなど夢のまた夢
芸能人・タレント ― この年齢までに一芸を磨いて「東京」にいることが絶対条件
ダンサー ― プロダンサーとして食べていくにはこの年齢までになんらかのダンスを始めることが必須
傭兵 ― 20までに体をつくっておかなければいくら頑張っても体力的に無理
パティシエ ― この年齢までに菓子作りの基礎を学ばなければどうあがいてもチェーン店の電子レンジ職人止まり
ホスト・ホステス ― 業界でやっていくには成人と同時にこの世界に飛び込まなければ後は商品価値が下がる一方
大道芸人 ― ハタチを超えてまったく一から大道芸人を目指して成功した奴など皆無
官僚 ― ほぼ現役での東京大学もしくは旧帝国大学or有名私大に入らなければまず無理
検事・裁判官 ― ほぼ現役での東京大学もしくは旧帝国大学or有名私大に入らなければまず無理
テレビ業界・テレビ局勤務 ― ほぼ現役での高偏差値大学への進学が必須条件
アナウンサー ― ほぼ現役での高偏差値大学への進学と「顔」が必須条件
ゲームクリエイター ― ほぼ現役での高偏差値大学への進学が必須条件
宇宙飛行士 ― ほぼ現役での高偏差値「理系」学部への進学が必須条件
小学校教師 ― ほぼ現役での大学への進学(教員課程)が必須条件
中学校・高校教師 ― ほぼ現役での大学への進学(教員課程)が必須条件
動物園の飼育係 ― ほぼ現役での大学への進学(学芸員課程)が必須条件
水族館の飼育係 ― ほぼ現役での大学への進学(学芸員課程)が必須条件
アニメーター ― この年齢までに絵の素養を磨いていなければまず無理
イラストレーター ― この年齢までに絵の素養を磨いていなければまず無理
ファッションデザイナー ― この年齢までに一般的なオシャレというものに興味を抱いていないような奴にはまず無理
歌手・ミュージシャン ― この年齢までになんらかの音楽活動を始めなければ自称ミュージシャン志望が確定
競馬騎手 ― 15歳までには騎手になるぞという意志を固めていなければ現実的に競馬学校への合格は無理
バイオリン職人 ― 15歳までには楽器職人になるぞという意志を固めていなければ専業で食べていくなど夢のまた夢
ファッションモデル ― この年齢でほぼ容姿背恰好は固まるので低顔面偏差値低身長にはどう抗っても無理
漫画家 ― 15歳くらいまでには絵を描き始めなければ実質的に時間切れ
プロサッカー選手 ― 12歳までにはサッカーを始めなければまず無理
プロスポーツ選手 ― 12歳までになんらかのスポーツを始めていなければまず無理
ピアニスト ― これくらいの年齢からピアノのレッスンを受けなければまず不可能
指揮者 ― これくらいの年齢からピアノ他のレッスンを受けなければまず不可能
プロオーケストラ楽団員 ― これくらいの年齢から楽器のレッスンを受けなければまず不可能
サーカス団員 ― 6歳くらいまでにはバレエ等のレッスンを受けなければまず不可能
将棋棋士・囲碁棋士 ― 小学生のうちに打ち始めなければまず不可能
伝統芸能演者 ― 親・親戚が伝統芸能に携わっていないと最初から可能性ほぼゼロ
茶華道家元 ― 親・親戚が茶華道家元でも無い限りに最初から可能性ほぼゼロ
政治家 ― 親・親戚が政治家でも無い限りに最初から可能性ほぼゼロ
外交官 ― 親・親戚が外交官でも無い限りに最初から可能性ほぼゼロ
農家 ― 親・親戚が農家でも無い限りに最初から可能性ほぼゼロ
漁師 ― 親・親戚が漁師でも無い限りに最初から可能性ほぼゼロ
冒険家・探検家 ― 親・親戚が冒険家でも無い限りに最初から可能性ほぼゼロ
そもそも有名人気職業を除いて、棋士や楽器職人なんて子供の頃は存在すら知らなかったし!
ピアニストや騎手だって身近にそういう親戚でもいない限り自分の未来の職業として、リアルに考えてみるという行為それそのものすらしたことがないのが普通だろ!!
文化資本の低い家庭出身の俺は家族親戚一同高卒ばかりで大学進学すらテレビや物語の中の世界だったわけだが!!!
国は小学校入学と同時に13歳のハローワークを全児童に配布・熟読させて、道徳の時間の変わりにキャリアプランの時間を小学校教育に組み込むべき!!
一刻も早く!!
ジャジャン!!
http://www.youtube.com/watch?v=esaEPq1_0zA
上の動画を見た。おおいに笑った。とくに次の個所。
まずね、根本的な大問題。戦略がなかった。[…]戦略がないってね、脚本書かずに映画とるみたいなもんなんですよ。組織がないなら、組織がある人以上に頭を使う必要がありますよね。[…](田母神氏の選対をつとめた水島総は)軍師タイプの方ではないんですね。どちらかといえばね、武闘派ですよ。三国志で譬えるなら孔明のポジションに張飛がいるようなものです。
ようするに、水島総はバカだって言ってるわけです。まあ、おっしゃる通りなのでしょうが、それにしても「映画」のハナシをもってくるあたりはKAZUYA氏も面白いね。一応、水島氏は「映画監督」でもありますから(笑)。次の個所もよかったです。
公式Youtubeチャンネルをつくって田母神としおをアピールする短めの動画を作った方がいいんじゃないですか、ってね、まあ選挙スタッフの知り合いの方に言ったんですよ。そしたら「あ~、いいっすね~」ってすぐに採りいれてくれたんです。さっそく公式チャンネルがつくられて、動画がUPされたんですけど、候補者って誰でしたっけ? 田母神さんですよね。記念すべき一番目の動画ね、これね、水島さんの動画なんです。これね、ぼくね、パソコンの前で、「新婚さんいらっしゃい」の時の桂三枝並のズッコケ方をしましたね。
上の言葉とあわせて総合してみると、水島氏は目立ちたがりのおバカさんで田母神氏の足を引っ張っていただけとKAZUYA氏は言っているわけでしょう。いや、それどころか、チャンネル桜の存在自体が問題だったってことでしょう。KAZUYAという、これまた付焼刃の知識(動画中にあった『孫子』からの引用には失笑した)を切り貼りしているだけの若者にこれだけ罵倒された水島氏がどのように反応するのか、正直なところ今から楽しみです。それにしても田母神氏もたいへんだねえ。でも、これは自業自得でもあるよ。けっきょく最終権限はご自身にあるのでしょうから。選挙人事も、航空幕僚長として航空自衛隊五万人を指揮していたのと同じ要領で、できていたらよかったのにね。
☆
で、他方水島氏についてですが、こちらで選挙について反省なさっています。
http://www.youtube.com/watch?v=I7hUXVmOPwM
http://www.youtube.com/watch?v=JlFU5DWXsy8
【桜プロジェクト】東京都知事選スペシャル[桜H26/2/10]
水島氏は「軍師タイプ」でもないのにあいかわらず「司会役」をつとめていますが(注:基本的にこうした企画では水島社長が司会をしています)、ご本人も(お目出度いことに、と言うべきか)選挙が終わった後に、KAZUYA氏が言っているようなことご自覚なさったようですね。
ところで、この討論会は支離滅裂でじつに面白い。田母神支持率が6%から12%に上ったことを喜んだかと思えば、大雪の中田母神に投票してくれた61万票は「堅い支持層」であると言ってみたり(フツーに考えて、堅い支持層をたった一ヶ月で6%も上乗せして作れるはずないでしょ)、三橋貴明氏が「自分も選挙にでたことガー」で珍説をぶちはじめたかと思えば、大高未貴氏は「李登輝のように、目的を隠しながら国民党に潜り込んで…」といった国民をバカにしたスパイまがい、あるいは革命思想を奨励したり等々……。で、こうした方々が田母神陣営であったということはKAZUYA氏の主張とは逆に、もっと国民に知らしめていくべきだろうと思う。「イメージが悪くなる」って? 選挙終わったんだし、もういいでしょ。実際のはなしなんだから。で、それで日の丸掲げて「国民運動」しましょう。おまつりワッショイ♪
ちなみに私見では、田母神氏の敗因は、KAZUYA氏や三橋氏が主張するように、ノンポリ層にアピールすることが出来なかったからではないと思う。「アピールしてなお拙かった」のである。「自分の意見は正しかったけど浸透しなかった」ていう言い訳は、むしろ共産党がよくやる手口でしょう? ようするに、政策レベルでもダメだった、てこと。三橋氏は一応「エコノミスト」であるだけあって、するどいところもある。安倍のグローバル化を促進させる「構造改革」、ぶっちゃければ新自由主義への批判をより大々的に展開して、「政治的には右、経済的には左」という路線を明確化して強調したほうがよかったのではないか。……ちなみに、その典型は歴史上、ナチスではないかと私は思うのだけれども。以上。
Go言語の名前の由来について、デマを思いついたので、ちょっと面白いと思った人は広めてほしい。
こんな感じで。
Go言語はブレイク寸前であり、かなりの関心を集めているが、まだ詳しく知られてはいないので、デマを広めるには今が絶好と思う。
こんな感じで返していただきたい。
ロブ・パイクやケン・トンプソンがUTF-8の考案者だということは知ってる?(注:これは本当)
で、彼らがそれを考案するきっかけは、慶應の村井純先生が、ベル研で「日本語」についての講演を
したことだというのは知ってる?(注:これも本当)
http://d.hatena.ne.jp/oraccha/20081004/1223124803
そもそも君だって、ドイツ語とかの第2外国語で1から5ぐらいまでは数えられるんだから、
彼らが出来たって不思議はないだろ?
こんな感じで返していただくのはどうか。
そりゃ、表向きはそうだよ。彼らはGoogleで開発してるんだしさ。
だけどそれは後付けなの。
PHPが 「PHP Hypertext Preprocessor」という、GNUみたいにカッコイイ
再帰的頭字語を由来にしているけれど、元々はPersonal Home Page の略なんだよ。(注:これも本当)
それと同じ。
そもそもケン・トンプソンやロブ・パイクは、C言語やUNIXの父だし、
ノーベル賞やチューリング賞の受賞者をザクザク輩出しているベル研の出身だし、
Pythonのグイド・ヴァン・ロッサムみたいに、何かあったらすぐ他所に行くよ。
(注:グイドはGoogleを辞めて、2013年からDropboxで勤務している)
こういう態度で返していただくのはどうか。
(∩ ゚д゚)アーアーきこえなーい
このデマを、ロブ・パイクやケン・トンプソン自身の耳に入れること。
彼らに後付けで公認してもらえたらなお良し。
100ブクマ以上ついたので、上司に無断で弊社の宣伝をしてみる。
いろいろ怒られたら消します。
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言論や表現の自由を制限する恐れが強い「特定秘密保護法案」の衆院採決を与党が強行した。
懸念や反対の声が広がっているにもかかわらず、成立の可能性が高まっていることに、
言論が統制された戦時中を体験している映画監督の山田洋次さん(82)は
「やり切れない思いです。この法律が通れば、この国は旧ソ連のような陰気な国になるのではないか」と語る。
http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=58066
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この世代の人は団塊と違ってまともな人が多いと思っていたけど…考え方を改めなきゃな。
うるせえよ、老害。お前らのお陰で充分、陰気な国になってますよ。お前らがちゃんと指導しないから団塊の屑がどうしようもないんだよ。
65歳以降は全員死ねよ。その方がよっぽど国のためだ。人生で一度くらい国のためになること…やってみろよ。
あーもうほんとこんなことを語っている団塊以上の屑が憎たらしい。
だいだいよ…女優を愛人にしていたような人間がもっともらしいこと語るなよ。そういう悪しき慣習を作ったお前らの世代のせいで…枕営業とかそういうのが
今年のNSC(吉本のお笑い養成所)の入学者数は東阪合わせて約800人。
そのうち何人がお笑いで飯を食えるようになるのか知らないが、おそらくその多くは「お笑いが好き」だから芸人を目指したのだと思う。
でも、今の時代、わざわざプロを目指さなくとも、ネット上でいくらでも自分の面白さを人に発信できるはずだ。
大喜利がやりたければTwitterで面白いことをツイートしフォロワーを増やせばいいし(恐山なんかはその典型だろう)、文字だけで物足りないならYouTubeやニコ生で発信すればいい。現にそういったネット界でのちょっとした"人気者"はたくさん出てきていて、それは"お笑い"という既存のジャンルの枠組みには必ずしも当てはまってはいないが、テレビのみが娯楽のほぼすべてだった時代に比べるとその多様性はすごく増した。
そんな時代にあって、彼らがわざわざお笑いの養成所に入る理由とはなんだろう?
私の勝手なイメージを膨らませると、彼らの大多数はまずネット文化にあまり馴染みがないのだと思う。
一部の老人の見立てと違い、いまの若い人は全員がネットに熱中しているわけではないし、ネット用語で言うところの"DQN"や"リア充"とでも呼ばれるような、非バーチャルな現実社会のコミュニティ(地元や学校の友達など)こそが自分の居場所だという「旧世代からの常識的な生き方」をしている人がやはり多数だ。
ネットばかりしているとその事実をつい忘れてしまうが、僕らはバーチャル空間に生きているわけではないし、少なくとも肉体はこの現世に存在している。幸か不幸か僕らはこの忌々しい社会システムの上でしか満足に生活を送ることができないのだ。
一部の若者がNSCに行ってしまう原因の1つには、そもそもそういったネットの可能性があることをあまり知らない、あるいは知っていてもあまり興味を持っていない、ということが大きいのだと思う。
そしてもう一つ、プロのお笑いを目指さなければいけない理由があるとすれば、それはやはり「スターになれるから」ではないだろうか。もちろんNSC(あるいは類似する養成所)の生徒の中にはネットを自分の基盤とし、まとめブログを読み、ニコ生の可能性を知り、Twitterやブログで自分の思いを発信していた人も少なからずいるだろう。
しかしTVなどの旧メディアに比べると、ネットというのはまだまだ発展途上だ。あるいはもう限界が来ているという見方すら出来るかもしれない。各自が好きに情報を取捨選択し、パーソナライズされてしまうこのシステムの中では、インターネットはどうしても自分本位の世界になりかねない。
マスメディアの在り方こそが正しいとは口が裂けても言わないが、少なくともネットに比べれば限りなく一元的で最大公約数な価値を提供していることは確かだ。
「TV界のスター」に比べれば、インターネットの人気者はやはりあまりにニッチすぎる。「明石家さんま」や「ダウンタウン」を知らない日本人は少ないが、うちの祖母は「ダ・ヴィンチ・恐山」なんて絶対知らないし、個人的にはニコ生界のスターなんて名前すらわからない。
そこに個人的嗜好を超えた善し悪しをつきつけるつもりはない。ただ純粋な事実として、そこには明確に規模の違いがある。一番の根本的な差は、彼らの活動がお金の発生するビジネスであるかどうか、即ちプロかどうかという部分だ。
もちろんテレビの衰退なんてものが叫ばれる中、インターネットの可能性にかけるのも悪くない。しかしこの世界はまだまだ黎明期であって、たとえばニッチな方向に行ってもそれ以上の発展はないし、なにかしら盛り上がりがあったとしても、今のようなムーブメントはいつ消え去ってもおかしくない。そんな道を目指してしまうと、いつのまにか砂上の楼閣が崩れさって、砂漠のまっただ中で迷子になってしまうかもしれない。
どちらにしろ、若い彼らがなぜプロを目指すかと言えば、"お笑い界の頂"には他では見られない景色があるからだろう。
わかりやすく言えば、金は儲かるし、人にちやほやされる。そして社会に影響を与えられるような存在にまでなる。何よりもTVに出てるお笑い芸人はとても楽しそうに見える。
しかし既にお笑い界は飽和状態、新しい人材をわざわざ求めるほどの理由がない。
世に出るための第一歩として、まずネタで評価されるというのが芸人の王道だが、たとえば代表的なピン芸(一人芸)に見られる「フリップネタ」なんて、Twitterでネタツイートしてるのと何が違うのか。
別にフリップに限らずそれは言える。たまたまお笑い産業という物があるからその中で職業として追求できる余地はあるが、初めにも言った通り、もはや今の時代その枠組みに入っていかなければならない必然性も低い。
つまり僕はお笑い養成学校の生徒なんですけど、こんなことしてていいんでしょうか?
もっと今までにない別のルートで世に出た方が、より自分のやりたいことを追求できるんじゃないか?
たとえば「バラエティ的な価値観が全てじゃない」と世の学生に伝えるにしても、もっと他の方法があるんじゃないだろうか。
でもやはり、よりポピュラリティの高い地位を獲得することで、容易に(もちろんしがらみはあるんでしょうが)自己表現が達成されそうだという期待がある。
松本人志という人が自分の撮りたい映画を撮れてるのって、そういうことじゃないですか。
すごい叩かれてるけど。
……何も映画監督になりたいと言ってるわけではないんですよ。
同じネット上で活動するにしても、ネット上の有名人か、ネットに限らない有名人かというのは、よくも悪くも、かなり大きな差があると思う。
そして僕は後者を選択したい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9!
撮影 - 佐光朗(JSC)
照明 - 三善章誉
美術 - 花谷秀文、禪洲幸久
録音 - 横溝正俊
製作 - TBS、東宝、電通、MBS、IMJエンタテインメント(現:C&Iエンタテインメント)、S・D・P、アプレ、CBC、WOWOW、ハピネット、RKB、Yahoo! JAPAN、大田出版
制作プロダクション:IMJエンタテインメント(現:C&Iエンタテインメント)
配給 - 東宝
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E9%97%98%E5%A3%AB%E7%94%B7
李 闘士男(りー としお、1964年5月13日 - )は、テレビディレクター・ドラマ演出家・映画監督である。大阪府大阪市西成区出身。有限会社リーライダーすの代表取締役社長。
闘士男は本名。ボクシング好きの父親がリングネームになるように命名した。ボクシングにも造詣が深い。元在日韓国人3世で、現在は日本国籍を取得している。
どう思ってるの?
誰かツイッターで凸してきてよ
最新作「R100」について、いわゆる松本信者、松本人志の初期の天才性を高く評価している人ほど酷評をしているようだ。
わたしも松本の天才性を認めるにはやぶさかではないし、今でもその根本的な特異な才能は初期のころとそれほど変わってはいないのだと思う。
なのに何故今は往年の信者にすら見放されているのか。
彼にとっての不幸は、キャリアの初期において本来ならば理解困難なそのユニークな感性が浜田という相方の存在により広く「革命的に面白い」と認識されてしまったことにあるのではないか。
彼の特異性は、その驚異的なまでの無知さにある。
ベストセラー「遺書」を読んだことがあるかたはわかると思うが、彼は全くと言っていいほど「引用」「参照」ということをしないし、そもそも何かを学ぶという意識が皆無なのである。
彼が面白いと思うこと、新たに生み出しているギャグというのは、全て彼自身が見ている範囲、彼自身のみから考えられる範囲でのみ構築されたものであり、すなわち常にゼロからひねり出しているものなのである。
それゆえ初期のお笑いの活動においては全くもって斬新なネタ・コントを繰り広げていたのであるが、これはたまたま彼の感性が作り出すものが、浜田の存在により、たまたままだ笑いとして理解可能な範疇であったからである。
松本の感性は、人を笑わそうとしてしてのものではなく、あくまで自分が面白いと思えるものに対しての探求であり、それが世に受けていたのはたまたまに過ぎない、というか相方やブレインなどによるものだ。
彼が映画に手を広げたのは、単に表現手段のひとつとしてであり、テレビ・舞台・ラジオ・漫才・コントといったバリエーションのひとつに過ぎないのであろう
しかし残念ながら映画というものは単なるいち表現手段としては完結しない。映画はひとつの作品として存在するためには、その背景に膨大な参照と引用が必要で、そもそも映画という形式自体が映画文法そのものによってなりたっているのである。
北野武が映画監督として確固たる地位を築いているのは、北野は彼なりに映画というものをとことんまで理解し、その理解の上に自分なりの映画というものを構築し、時にはあざとくも映画の文法を逆手にとって鑑賞者に媚を売ることすら厭わないからである。
松本人志は既存の映画を映画として観ていない。初期のネタづくりのように、自分の感性に対して何か生み出してくれる材料としてしか観ていない。しかもそれすら自分にしかわからない理屈によるものだ。
繰り返しになるが、映画というのは膨大な引用と参照によってなりたつものである。既存の映画と全くの連続性がないとしたらそれは既に映画ではなく、実験映像であり百歩譲って実験映画である。
松本の、自分の得意な感性によってのみ構築された映像は、そういうわけで映画ではない。しかも独自にひねり出してきたのであろうそのコンセプトは映画の中では陳腐なもので、車輪の再発明にすらなっていない。
映画を名乗りたいのであれば、まずは映画を知らねばならないのだが、残念ながらそれは彼の唯一の天才性である無知と完全に相反するものなのだ。
やれ「原子力に反対したら仕事を干される」「改憲に反対したら仕事を干される」とか、左翼は「俺達はこんなに差別されてるんだ」と言いたげに日々を過ごしているが、こんなアホが堂々と大手を振って映画監督を名乗ってる時点で、まったく説得力がない。
そんな事無いよな。左翼ポーズは文化人の嗜みくらいなもんで、本気でやってる人はごく少数だよ。井筒氏だって呼ばれれば日テレでもフジテレビでも文化放送でもニッポン放送でも出るじゃん。別に締め出されもしないよ。そういう意味ではジャニーズ事務所批判やバーニング事務所批判の方がよっぽど危険で仕事が無くなるよ(笑)。それはやらないでしょ、どうせ。保身丸出しで、文句言っても反撃されない相手を叩いてるだけ。
左翼ぶってる作家だって、新潮や文春から喜んで本出すじゃん。部数が多くていっぱい本屋に並ぶから嬉しいんだってさ。そんなもんなんだよ。ゴッコでポーズだよ。
資本主義社会に染まりきった享楽的な生活を送っている音楽家だって、眉間に皺寄せて左翼ぶってるじゃん。
全くばかばかしい。
やれ「原子力に反対したら仕事を干される」「改憲に反対したら仕事を干される」とか、左翼は「俺達はこんなに差別されてるんだ」と言いたげに日々を過ごしているが、こんなアホが堂々と大手を振って映画監督を名乗ってる時点で、まったく説得力がない。
どんな映画かと思って粗筋を見てみた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%B3
アメリカ・ワシントン州スポケーン。高校のアメフトチームのスター選手マットが試合に負け、彼の兄で海兵隊員のジェドがイラクから休暇で戻って来たその日、突然停電が起こる。翌朝、空一面に戦闘機と空挺部隊が現われ、そして北朝鮮軍がアメリカ全土を、そしてスポケーンの街を占領した。山小屋へ逃げたジェドたちは眼前で父を殺され、戦うことを決意するのだが…。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E7%AD%92%E5%92%8C%E5%B9%B8
週刊新潮の「私の名作ブックレビュー」において井筒は角田房子の“小説”である『閔妃暗殺―朝鮮王朝末期の国母』を挙げて「閔妃暗殺」について語り、日本がいかに朝鮮で悪いことをしたかを述べ「その生々しさ、血腥さを、いまは誰も知らない」と主張した[18]。
在日韓国・朝鮮人については「日本に取り残されて生まれた」人々で、在日韓国・朝鮮人一世は「労働力や徴兵のために強制的に日本に連れて来られてきた人たち」とし、「ちゃんと日本国民の権利を取得させて、必要な人には補償もして、日本国民と平等に」すべきで「それが本当の謝罪」と主張している[19]。
井筒と韓国・北朝鮮の関係はよく分からんが、「とにかく韓国・北朝鮮の肩を持つ人」なのは確かで、北朝鮮を悪し様に描く作品は糞味噌にけなす、みたいなスタンスなんだろう。
世間で言われるオタクと、世の中に何人いるかしらん「本物のオタク()」は別物だからねー。
世間からはアニメのファンだと「アニオタ」と呼ばれ、本物()達からは「お前なんぞオタクでない」と言われる。
ピュアオーディオのオタクは、変なところにこだわりを見せるが、アウトプットが無ければオタクじゃない、なんて言わん。
ただ、最低限○○を使ってなければピュアオーディオの世界を語るな、とかは言うだろう。
プラモなら「作れ」
乗り鉄なら「乗れ」
撮り鉄なら「撮れ」
自称オタクの者たちに、ワナビや絵描きが多く二次創作が盛んであるため、消費と創作が混ざってしまう。
映画オタクで映画監督なんて稀な存在だから、「撮れ」なんてまず言われん。「観ろ」だ。
ちなみに。
人気のある映画でありながら、同時に「見たけどよく分からなかった」という感想が多い。
ホッテントリにもなった岡田斗司夫の解説(http://blog.freeex.jp/archives/51395088.html)を私なりに要約(ややネタバレあり)するなら、
その内容は「戦争をはじめとした外界の醜い現実には興味を持たず、飛行機のような美しい世界を追い求めた人の物語」、
という事になるのだろうけど、そこまで読み取れずに「よく分からなかった」となってしまう。
(敬称略。私自身も説明されて、はじめて「ああ、確かにそういう話だ」と思った。)
こんな感じで視聴者にあまり理解されない作品になってしまった理由について、自分なりに考えてみた。
それを説明する為に、まず、私がこの映画を見たときに思った不満について述べる。
(後述するように、実はこの不満が、映画が理解されない理由と直結する。)
その不満とは、技術系の研究者の映画であるにもかかわらず、研究者がうまく描けていない事だ。
私は技術系の研究職を生業としているのだが、そんな職業であるためか、この映画を見て、
いかにも技術に詳しくない素人が想像したリアリティの無い研究者像が描かれていると
思ってしまったのだ。
そう思ったシーンはいくつもあるのだが、特に気になったのが、サバの骨から飛行機に関するアイデアを思いつくシーンだ。
このシーンで気になった点はいくつかあった。
例えばサバの骨の曲線がどんな数式で表されるのか分からなけりゃ飛行機の設計に生かせるはずないんじゃないかとか、
飛行機に関して膨大な知識と経験を持つはずの主人公がいまさらサバの骨くらいで何かを思いつくのは考えにくいとか。
(例えて言うなら、小学生のちょっとした一言で大学受験の数学の難問が解けてしまったような荒唐無稽さを感じたのだ。
ちなみにニュートンのリンゴも事実かどうかかなり微妙らしい。)
しかしこのシーンでもっとも気になったのは、(技術系)研究者が描けていない事だ。
研究者が本当になにか重要な事を思いついたのなら、突然場の雰囲気や目つきがガラリと変わるだろう。
さすがにその場で研究のためにサバの骨をいじくり倒したりはしないかもしれないが、
少なくとも心の中ではそうしたいと思っている事を隠しきれないはずだ。
だって思いついたばかりの感覚的なアイデアをその場で言語化できるかたちに落とし込まなければ、
あとで考え直したときに感覚が失われてアイデアが何だったか分からなくなってしまう危険があるから。
だから本音を言うと、私はこのシーンを見て、本当に飛行機を作りたいと思ってるのか?と感じてしまった。
さて、本論に入ろう。なぜ「風立ちぬ」はあまり理解されなかったのか。
岡田斗司夫の解説が正しいとすれば、この映画は芥川龍之介の「地獄変」や映画「アマデウス」の宮崎駿版だという事になる。
しかし「地獄変」や「アマデウス」に対しては「分からない」という声はあまり聞かれないのに、
なぜか。それは前述の研究者が描けていない事と関係しているのだと思うのだ。
「地獄変」や「アマデウス」は、小説家や映画監督という「芸術家」が「芸術家」を描いたものだ。
だから鬼気迫るシーンや天才故の生き辛さが印象的な形で活写される。
しかし宮崎駿は軍用機を見る方のマニアではあっても軍用機を作る研究者ではない。
もちろん、ただ技術系研究者を活写すればよいだけなら、簡単にできる。
例えば先ほどのサバのシーンで、周囲に目もくれずサバの骨をいじりつづけ、「おいおい君大丈夫か?」と
周囲に言われてしまう、なんてのを付け加えればいい。
しかしそれをやってしまうと、ほとんどギャグになってしまい、作品の雰囲気をぶち壊してしまう。
つまり、宮崎駿は作品の雰囲気と研究者を活写する事を両立できなかったのではないか?
岡田斗司夫によれば本作の主人公=宮崎駿であるが、なら素直に芸術家を主人公にすれば良かったのに、(軍用機を描きたいから)そうしなかった。
結果として研究者でない宮崎駿が雰囲気を壊さずに研究者を描くという相当困難な作業が必要になった。
だから本作の主題であるはずの「周囲を無視して飛行機を追い求める」という部分が説得力をもって描けず、
結果として「分からない」という感想のでる物語になってしまったのではないかと思うのだ。
追記:
「風立ちぬ」が理解されないのは「物語」がないからじゃないかという、とても的確なトラバがついた。
パシフィック・リムを見てきた。
本来なら言うことはない。夏らしい平凡なポップコーン映画だった。
ただ、ネットの一部界隈では、映画監督の姑息なイメージ戦略にアテられたのかなんなのか、過大評価すぎるものが多く見えるので、細々と感想を書き連ねてみる。
映画監督が円谷ファンを自称しているらしいので、円谷のビデオソフトで例えると、パシフィック・リムは、怪獣大図鑑みたいなもの。(ウルトラマンの戦闘シーンのみを編集したプロモーションビデオ)
怪獣が暴れる映像のために他の全ては下敷きか犠牲になってる。ひたすら怪獣、巨大ロボ、衝突、破壊、爆発の繰り返し。
それらのアクションシーンには、見どころが沢山ある。細部までしっかり意味ありげにデザインされたロボットの造型。重量感。一進一退の攻防が次から次へと展開する。
友人達を集めて、談笑しながら見るのなら、かなりいい作品だと思った。
ただ、それ一辺倒なので真剣に見るのには向いていない。映画館など黙って鑑賞せざるを得ない環境だと、ワンパターン過ぎて睡眠誘導になりかねない。
間というものが皆無だ。心を落ち着けて、さあこれから山場だぞ!というシーンなど無く、パチンコ屋にいるような騒々しさが延々と続く。
ウルトラマンとは違って、テーマ性は薄い。ドリフトというシステムで取って付けたようなお題目はあったものの、じーんと心に響くものではなかった。
円谷ファンを自称する監督だが、本作に登場する怪獣には円谷作品のような多様性は一切ない。
全部クローンであるという設定と、欧米的説得力の問題でああなったのかもしれないけれど、どれも土気色に水色の体液でカラーリングが一緒で、形態には差異があるものの、画面の暗さとそれに溶け込む暗い色のせいで大した差を見いだせない。
最終決戦には3体もの怪獣と同時に戦うことになるのだけど、そのときにはもうどれがどれかわからない状態になってしまった。
最後の真打ちとして登場した3体目は、カテゴリー5(今までは4止まりだったのだろう、未知のタイプだ!と司令部が騒いでいた)と呼ばれていて、さぞスゴイ奴が出てくるのだろうと思ったら、気持ち大きいだけに感じる上に、乱戦してるうちに見せ場もなくボロボロになってしまった。
何のために盛り上げたんだ!
本作では上記のように戦闘シーンに特化した結果、オリジナル作品にも関わらず原作のダイジェストを見ているような忙しなさを抱えることになったが、その対価として、大ボリュームの戦闘シーンを2回もこなしている。
ただひたすらカッチョイイロボとでかい怪獣の戦いを表現したいというのなら、間違っていない選択だと思った。
海底に開かれた次元の扉を閉じるために、主人公たちのロボットは海底を歩いて進み、そこを守る怪獣と最後の決戦を繰り広げるのだけど・・・。
深海なので画面が暗く、水中なので動きは鈍い。敵が3体でてくるものの、暗さと没個性が相まってただごちゃごちゃ戦っているだけという印象。
地上での戦いだけで良かったのではないか。前半のほうが凄く感じただけに鈍い上に乱戦でグレードダウンした感のある最終決戦は、視聴者にとっても集中力の限界との戦いだった。
マーケティングの一環なのかなんなのか、監督の日本に対する愛情の現れなのかはわからないけれど、本作には日本人俳優がメインヒロイン役として参加する。
現代のヒロインを演じた菊池さんのほうは、海外の俳優に混じってなお遜色のない演技をしていた。吹き替えだと声が林原めぐみだし、かわいい。
ただ、問題は子供時代の回想シーンで。芦田さんという日本屈指の子役俳優が演じたのだけれど・・・。
最初にフォローとして、泣きながら逃げるだけな上に、実在しないCG相手というハードルの高い演技であったろうことは言っておくとして。
日本のトップクラスの子役と言えど、いざ洋画にでてみると、世界の子役俳優の足元にも及ばないのだなということがわかる。
最後、斜陽を背負うイェーガーを見上げる場面になると、お遊戯感が炸裂する。
”眩しくて顔に手をかざす”という行為と感覚を理解していないのだろう。あのシーンだけ、最近ありがちなCGギトギトのダサい邦画を見ている気分になった。
全体的に見て、僕はこの映画は好きだ。
映像はやっぱりすごいとおもったし、音の使い方も凄く良かった。
主人公機が画面中央に現れるときには決まって「デューン」というジングルみたいな物が入るのだけれど、あれのお陰で暗くごちゃごちゃした画面でも、すぐに主人公機だ!カッケー!という気分を呼び起こしてくれるので凄く乗りやすかった。
ビデオを借りてきて家で見るのなら、下手な名作系の映画よりも満足感を得られる内容だろうと思う。
でも、最近ネットで見られるレビューのたぐいは、流行に流されて一辺倒になっている雰囲気がある。
あまりに勢いがありすぎて、この映画が面白く無いやつはわかってないという上から目線めいたものも見受けられる始末。
本作はそこまでのものじゃない。ただ映像がかっこいいだけの、ポップコーン映画だ。
この映画を見て満足感が得られなかったとしても、当然と思えることは上に書いたように沢山ある。
おそらく、監督は円谷作品のファンということを大々的にアピールしていたことが出火元のひとつであるように思うのだけれど、
それで釣られた人たちは、この映画を見終わって果たしてどう思うだろう。
あなたが脳内でディテイルまで完全にコードを思い浮かべることができて、実際のコーディングは文字通りそれを写し取るだけの作業だっていうなら、言い換えれば「コード書くのにエディタはいらね。catで十分」というのなら、あなたは優秀。現実にそういう人を一人知ってる。
脳内にそこまで明確なイメージが無いなら、「プログラマ」としての能力は疑問。「俺の頭の中には完璧な映像があるんだが、実際に映画を撮るのは嫌い」って言ってる映画監督みたいなもん。ただ、アイディアを出してディテイルは他の人に作らせる、っていうポジションはあり得るから、そういうポジションでなら優秀。
既にフリーランスでそれなりに仕事をしている人が、「サラリーマンからフリーになる前にこういうことは考えておいたほうがいいよ」という趣旨のエントリを執拗にdisっていたのが目に留まった。
あなたは既にフリーになってそれなりに長くやっていけてるわけだし、別にそのエントリ書いた人に「おまえフリーなんてダメだよサラリーマンに戻れ」と言われたわけでもないだろうに、何をここまでムキになっているのだろうと最初は思ったが、そういう問題ではないのかも知れない、と思い直した。
過去にその人は、ファストフードを食べ続ける映画で一山当てた外国の映画監督に対する異常なまでの嫉みコメントをアウトプットしていたことを思い出し、その時と同じような背景が継続してあり、あのような攻撃性を発現しているのかも知れない。
http://anond.hatelabo.jp/20130809115823
読んだ。これこれ、これですよ。
凄い言いたい事が一杯ある。
でも僕が20数年間生きてきて特に感じたのは向上心のある奴とない奴の世界の溝。
ただここでいう向上心って良い言葉が見つからなかったので向上心と言ってみただけで普通の意味の向上心とはちょっと違うかもしれない。
結論から言うとこの世界の溝も学歴と同じで結局は家庭環境次第だと思っている。
いきなりだが、記事元に習って身の上話をさせてもらうと、僕は結構発展した地方都市に代々住んでる一応結構いいとこお家の人間だ。
所属的にはたぶん高学歴の世界の住人になる、但し育った地域はあまり良くないが。両親も親戚からあんなとこ子供を育てるような地域じゃないと言われたそうだ。
そんなこんなで僕は公立の小中と通ってたわけだけど、今思い返すとこの頃からもう如実に差がでてる、向上心のある奴ない奴の差が。
向上心のないクラスメイトって基本的に将来のことを何も考えてない。いや正しい言い方をすると考えられてない。
夢がないとかそういう意味じゃなくて自分の進路についてキャリアについて考えられるだけの知識を持ってないのだ。
なぜって親がそういう知識のない親だから、家庭がそういう知識のない家庭だから。
向上心のある奴の家庭の典型って親が最低でも四大出でリーマンなんかのホワイトカラーなのだ。
そういう家庭じゃないと20歳を迎えて社会に出たときにどういう社会があるのか、10歳やそこらの子供にはこれからどういう進むべき道があるのを教えられるだけの知識と教養がないからだ。
これって別に言葉で教わるわけじゃない。子供が感じ取るものだと思う。
子供は親の背中を見て育つなんていうけれどホントにその通りなんだと感じる。
DQNの子ってやっぱりDQNに育つ。差別的な意識だとは思うけども。
日本で育つ子供の進路って殆ど15~16歳高校入学辺りで決まっちゃう。
でその15歳までに学べる人生プランのバリエーションのモデルとなる大人なんて数人しかいない。
親か教師か親戚か、あとは尊敬する偉人かテレビの中の人くらいだ。って言っても偉人やタレントの生き方や履歴書なんて普通はそうそう学べないレアケースだ。
僕の場合は両親は共に大学院出で祖父は帝大の出だった。親戚には大学教授や官僚、医者、ちょっとした文化人もいてた。
その中でも影響を受けたのが祖父の属した地域のコミュニティだ。となり町の◯◯医院の◯◯先生は祖父の◯高(旧制高校)時代の同級生の子供だったり
お隣の前市長さんは◯高時代の同級生の末の弟だったり、駅前の◯ビルは◯高時代の後輩のビルだったりする。
リアルや、ましてネットなんかからはまったく見えないのだがこういう地域の前時代高学歴お爺さんコミュニティが結構あったりする。
んで、まあこういう話を子供の頃から食卓で母から聞いたり、帰省した時に祖母から聞くわけだ。
◯◯さん家の長男が今度駅前で開業医を始めるだの、◯◯さん家のお爺さんが今度受勲されるだのといった話をだ。
そういう感じで人格形成というか育ってきた僕にとっては大学はダメでもマーチレベル、普通なら帝大といった感じだった。
しかし、親が高卒というかDQNの子供って違うらしい。15歳高校入学する時点でそういう考えが頭にないのだ。
漠然と自分は高卒で働くんだろうなとか、大学いけたらいいなくらいに考えてる。
もうこの時点で差がすごい。地頭とかいうけどやっぱり時間、勉強できる準備時間と認識のハンデは大きい。
こういう子供がいざ18になって大学に入ろうにも当然、偏差値の高い大学には入れない。
加えてそれを当然と受け入れてしまうので、そこから頑張ってもっと上を目指そうなんて向上心も生まれない。
かくして順当に、良い家庭の子供は良い学校に進むし、違う家庭の子供はあまり良い学校へは行けない。
ここまで長々と凄い当たり前のことを言ってきたけど、のようで、これが見えてない人って僕の周りですごく多い。
きみが、あなたが、10歳やそこらのときに自分が将来どこに向かいたくて、そこへ向かうにはどうればいいのか、それって誰に教わったの?聞いたの?って尋ねたい。
それは当人の生まれや環境に教わった部分が大きいのだ。
僕がこういうことを考えるきっかけになった友人がいる、彼は両親ともに高卒でぼんやりと俺も高校でて働くのだろうなと思っていたら、高2の頃両親に大学へは行けと言われて当惑したそうだ。
何に戸惑ったかって、大学に行って何をすればいいのか分からないし、それ以前に仮にしたいことがあってもそれをするのはどこのどこへ行けばいいのか、ということが皆目分からなかったからだ。
子供にとって重要なのはやりたいことがあるかないか、夢があるかないかではなくて、そのやりたいことや夢を叶えるにはどうすればいいかを知っていると大人が近くにいることだと思う。
よく夢を持て、でっかい目標をたてろだのと教えられるが、そんなことよりも10歳の子供にはこれからどんな分岐路があって、その先の未来はどこに続いているのかを教えるほうが遥かに有益だろう。
くだんの友人は取り敢えず大学に入って、そこでやりたいことを見つけ、今はそのやりたい事を仕事にしている。
大学にさえ入ってしまえば世界は大きく広がるし、自分には無数の選択肢があるのだと気付けるということなのかなと思う。
僕も就職したが、同じ業界の高卒一般職の子と仲良くなって色々話してみるとやっぱり考え方の違いに面食らうことが多い。
僕だって公立の小中に通いあまり柄の良くない知り合いもいたのでまったく知らない世界ではなく、驚愕したとまでは言わないのだが
素直にまったく違う考え方を突きつけられるとやはり、理解できない思考回路に少しイラツキをおぼえてしまうのだ。
その子がその企業に入った理由は親が同じ職業だからだそうだ、なにかやりたいことは他になかったのかと聞いてみると、特にないという。
楽しいことは友達と遊ぶことであり、現状には結構満足していて、お金が貯まれば今付き合ってる彼女と結婚したいとか。
これはこれで全然良いとも思うのだが、この子に薬剤師や会計士や自営業、起業家、戦場カメラマンや映画監督についてそういう職業があるかどうかと
自分がその道に進むか少しでも考えてみたことがあるかと聞いてみると、驚く程偏りがあるのだ。結局この子がなってみようかと少しでも考えたことがあるのは
中学のときにやっていた野球選手と親戚がやっている自営業くらいのものだった。
職業や生き方について知っているかどうかと、そのそれぞれについて自分がなってみようかと少しでも考えられるかどうか、この二つを持ち合わせているかは子供達にとってどちらも非常に大きい格差だと思う。
まずこの子は会計士についは存在すら知らなかった、知らないものにはなりようがないし、目指しようがない。
次に戦場カメラマンについては知ってはいたがなろうなどと考えたことは一度もなかった。
なぜかと聞いてみたが、軽く笑って流され、それでもしつこく真剣に考えてみてと迫ってみると、少しまじめに悩まれた後、やっぱりなりたくありませんよと返された。
ここで大事なのはこの悩むということが、一瞬でもそういう道が自分には有り得るのかが、高校大学入学までに頭をよぎることがあるかないかだと思う。
この子にとってはプロ野球選手は、部活の延長線上として未来の自分の一つの姿たりえたかも知れない存在だったのだ。少なくとも考えるべき材料は持っていた。
逆に戦場カメラマンというのは存在は知っててもそれはあくまで自分の未来の選択肢としては欄外、というレベルでもなく、そもそも欄内にも欄外にも存在しない要素だったのだ。
そういう意味合いでは10歳の頃の僕は選択肢を、なれるなれないは置いておいて取り敢えず沢山知っていたと思う。
医者や弁護士、会計士だってこれから頑張って勉強すれば手の届く存在だと考えていたし、海外で生きていくスタイルや戦場カメラマン、フリーライターのような生き方だって
自分が目指すことのできる道なのだと現実的に捉えられていた。もちろんフリーターも無職もニートも選択肢の一つだった。すごく恵まれていたの思う。
よく子供には希望ある未来が、無限の可能性がなどと言うが、少なくともDQN家庭の子供には無限の可能性などない。
せいぜい極めて限られ有限個の可能性だけだ。無限の可能性というのは、その子供自身が無限の可能性の存在を知っていないと持ち得ないものなのだ。
まあそうして向上心のないまま道を決めた人たちと話をするのだが。
自称向上心のある僕にとって、こういう人たちと話をするのはちょっとばかしストレスが溜まったりする。
なんでそんなに向上心がないんだとイライラしたり、そういった現状に満足してしまっていることにもイライラしたり
おそらくは詰まるところ自分と違った考え方に拒否反応を起こして苛立っているだけなのだろうが、次に続く思考は彼らを見下しまうことだったりもするから少し自己嫌悪にも陥ったり。
彼らにも彼らの言い分があるだろうからやはり両者は相容れない存在で、溝は深まるばかりなのかと思う今日この頃である。
書き出しと矛盾してしまうが向上心のない人間なんて本来いないと思う。
数撃ちゃあたるのだ、僕だって親が農家で農家以外の選択肢を知らなければあらゆることにやる気が起きず不貞腐れた人生を送っていたかもしれない。
でも親が農家だろうと、宇宙飛行士にも坊主にもバイオリン職人にもなれることをその方法を知っていれば、俺は絶対バイオリン職人になってやると意気込んでいたかもしれない。
護憲派の映画監督その他がロクに法学も知らないのに適当なことを吹聴してるのと同様、その劇作家も思いつきをもっともらしく吹聴してるだけだろ。
自分自身が主張するんじゃなく他人の主張を偉そうに「分析」などして悦に入ってる分、余計タチが悪い。
これは俺の勝手な偏見だが、クリエイター系の人種ってのはまともに勉強もしてないのに自己顕示欲だけはやたら強いもんだから生噛りで適当なことばかり言ってる。
随分前の話だが、その界隈では著名という劇作家が某大学で公開講座みたいなのをやってた
テーマは、大衆も専門家も「ストーリー」との親和性の呪縛から逃れるのは難しい、というもので、古今東西いろんな物語が存在するが、人が好む王道パターンは大体決まっていて、それに合致するかどうかは政治の世界にも当てはまる、というもの
覚えてる範囲では、嫌われる政治家には大体の共通点とパターンがあり、大まかに分けて「ストーリーにおける悪役・悪玉的な個性の持ち主」か「キャラクター自体が破綻している人」のどちらかに分類されるそうな
典型例として前者は小沢一郎、後者は鳩山由紀夫(名前を出した時聴衆も「あーなるほど(笑)」とちょっと苦笑していた)
もっとも、どんなストーリーにも悪役に共感を覚えてる人はいるもので、そういう人達が小沢一郎を今も健気に支持し続けているが、存在自体がストーリーを破綻させるような個性の持ち主である鳩山由紀夫には、大衆は不快感しか覚えないんだとか
・主義主張が脈絡無くいきなり変わる(読み手が納得するようなエピソードや演出があるなら変わっても良いが)
・困難な状況に直面しても挫折も成長もしない(行動に対して結果を用意するというストーリー構成の原則を無視している)
・行為に対する相応のペナルティが発生しない(今も日本有数の大富豪)
この辺が駄目なんだそうな
後半は、映画監督や小説家、劇作家と護憲思想との親和性の高さに関する分析
まずは憲法改正に否定的な思想を持つ上記の職種の有名人を羅列していき(今をときめく某アニメ映画監督の名前もあった)、彼らには世界がどのように見えているのかを分析するというもの
これも大まかにしか覚えてないが、こんな感じらしい
・民族としての日本人、もしくは日本国を主人公と位置づけている
・主人公は弱いまま勝利しなければならない。強くなったら勝つのは当たり前なので駄目(反自衛隊的な思想との親和性)
・武力や暴力によって問題を解決するのは駄目。知恵や人徳といった非暴力的な要素で克服しなければならない(それが物語における作家の腕の見せ所なので)
・主人公は過去の過ちに悩み、けじめをつけなければならない。悩みもなく失敗もしていない主人公には魅力が無い(戦争責任や慰安婦問題との親和性)
他にも色々あったけど、こんな感じだった
で、彼らがアメリカの横暴には敏感で、中国・北朝鮮・韓国等の不条理に鈍感な理由としては、
・アメリカは最初から強者であり、また主人公を過去に打ちのめしている存在。これは物語においては主人公がいつか倒すべき敵であり、悪逆非道な存在でなければならない
・中国・北朝鮮・韓国はかつて日本が自らの過ちにより傷付けた相手であり、そういう相手と和解をしないまま主人公はストーリーを完結させることは出来ない(この劇作家も弟子がそういう粗筋を提出した際は必ず注意するという)
・そんな敵が主人公と手を組んでいる状況(日米同盟など)は、ストーリー的には「主人公を騙して利用しようとしている卑劣な敵」に合致するので、アメリカに批判的になりがち
・そして前項のように主人公は弱い(強大な力を持っていないという意味)ので、打ちのめされた相手はさらに弱くなければならない
・中国、北朝鮮、韓国が日本に敵対的なのは「ストーリー的には」「しっくりくる」ので、言動の理不尽さもあまり気にならない
・そんな「主人公より弱い被害者」が、主人公(日本)や敵(アメリカ)より強大で非道な存在であるのは「ストーリー的には」「しっくりこない」ので、無意識あるいは本能的に思考から排除してしまう傾向がある
というような話を、古典文学から最近の漫画、アニメを引き合いに出しつつ、約4時間かけてやっていたが、あっという間の時間だった
若い世代の方にとって、今回の参院選ではどういうことが話題になったでしょうか。「ブラック企業」と名指しで批判されることも多い、ワタミの渡邊美樹候補を自民党が擁立したことでしょうか(ここではワタミが実際に「ブラック企業」であるかどうかは問いません)。
「ブラック企業」と呼ばれる企業は、労働基準法の抜け道をつかい、若い労働者を長時間働かせます。もちろん、低賃金で、です。そのような扱いを受けた労働者のなかには、体調を崩し、「うつ病」に近い状態になり働けなくなってしまう人もいれば、自殺をしてしまう人もいます。「ブラック企業」は、どうしてそんなひどいことをするのでしょうか。
「ブラック企業」の経営者は、国内や国際の市場における競争に勝つためには、経営努力が必要であるといいます。つまり、売上を増やし、売上をつくりだすために必要なコストを最大限に下げるのです。際限なくコストを下げようとするとき、まっさきに削られるコストは人件費、つまり労働者の賃金です。
そんなひどい低賃金で長時間労働をさせられるのなら、退職すればいいじゃないか、もっといい会社に転職すればいいじゃないか、そうすれば「ブラック企業」などなくなってしまう、と考える方もいるかもしれません。
しかし、現代の就職難の状況では、生活していくためのお金を稼ぐために、厳しい労働環境の職場を選択しなければならない人々がたくさんいます。誰かが退職しても、いくらでも新しい労働者が「ブラック企業」に供給されるからこそ、「ブラック企業」のようなやり方を続けていくことができるのです。「ブラック企業」は、「お前がやめても代わりはいくらでもいるぞ」と労働者を恫喝します。だから、労働者は労働環境を改善するような声を挙げることが非常に難しくなってしまいます。
つまり、「ブラック企業」で働く労働者には、企業の言いなりになって奴隷のように働くか、退職して厳しい求職活動を行っていくかの2択がつきつけられるのです。背に腹は代えられません。いくら低賃金でも、お金がなければ日々を生きていくことはできません。その結果、労働者は自分の自由を犠牲にしてでも、ブラックな労働環境で働きつづけることを余儀なくされます。
さて、一部から「ブラック」と呼ばれる渡邊美樹候補は、こんなことを言っています。つぎの演説をみてください。
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/90354
この演説のなかで彼はこう言っています。
「日本のこの国を立て直すとしたらですよ。確かに社会保障費、そう動かせないお金もあります。しかし半分にしたらですよ。この国、立ち直るんですよ!」
国には、たしかに「経営」としての側面があります。その点では、国の運営にかかるコストを少なくすることが大事でしょう。
ワタミの渡邊美樹候補は、会社の経営を合理化するように、社会保障費を縮小し、国の経営を合理化したい、と言っているのです。
「社会保障費」は、働けなくなった人、病気をした人、高齢者などの生活を支えるための重要な費用です。すこし前に、生活保護の不正受給が問題になりましたが、実際のところ、生活保護の不正受給というのは、全体のわずか1.8%にすぎません(2010年のデータ)。もちろん不正受給は許されるものではありませんが、専門家は、生活保護に関してはむしろ、本当に生活保護を必要な人に支給できていないことが問題だと指摘しています。つまり、実際には生活保護が必要なのに、生活保護が支給されていないケースが非常に多いのです。
このように考えると、渡邊美樹候補の主張に疑問を感じる方も多いのではないでしょうか。
だから、ワタミの渡邊美樹候補を批判しつつ、彼を擁立した自民党を支持するという意見を聞くことがあります。
国の経営を合理化し、国際競争に勝つために労働基準法そっちのけで労働者を使い捨てるいわゆる「ブラック企業」の精神は、現在景気を回復させはじめた経済政策(アベノミクス)を武器に、さまざまな労働改革を行い、社会保障を引き下げ、生活することすら困難な日本に住むマイノリティを排除しようとする自民党の精神と同じであるように私には思えます。
いわゆる「残業代ゼロ法案」であるホワイトカラーエグゼンプションを推進したり、企業が労働者を解雇しやすくする解雇規制緩和を推し進めようとしているのは、自民党です。安倍首相は、アベノミクスによって60万人の雇用をつくりだしたと主張しています。しかし、実際に増えたのは非正規雇用が116万人であり、正社員は47万人減少しているのです。国の経営合理化によって、今後も不安定な非正規雇用を強いられる傾向は、今後どんどん高まっていくのではないでしょうか。
そのほかにも、自民党は憲法を改正し、立憲主義の原則を取り壊し、これまで保障されてきた基本的人権を縮減し、自衛隊を「国防軍」として位置づけることによって、日本が軍事力を明確にもつことができるようにしようとしており、その点でも多方面から批判されています。
しかし、それでもなお、自民党の経済政策に期待する声があります。
そういう人は、おそらく次のように考えているのではないでしょうか?
―― 「国際競争のなかで日本が負けてしまったら、大変だ。うちの会社がつぶれると、自分も食えなくなる。だから、自民党の多少の欠点には目をつぶって、日本をうまく経営してもらいたい。それが結局のところ、自分の利益にもつながるのだ」、と。
しかし、この考えは、「うちの会社はブラックだけど、自分がサビ残してでも何とかしないと、自分の職がなくなるから困る。食えないのは困るから、ここで働くしかない」という、「ブラック企業」で働くことを余儀なくされている労働者の考えとまったく同じです。
「ブラック企業」やそれに近い労働環境で働く人たちは、自分のことを「社畜」などと呼んで、ブラックな労働環境をネタ化して、無害化することがあります。ならば、「ブラック企業」と類似した考えによって行われる経済・福祉政策を肯定する人たちは、自分のことを「国畜」と呼ぶのでしょうか。
「社畜」「国畜」などとネタ化すると、本質が見えなくなります。それは、たんに「奴隷」なのです。賃金がなければ、お金がなければ生きていけないから、基本的人権は制限されてもしょうがないし、社会保障はどれだけ削られてもしょうがない、という考えは、お金という鎖につながれた奴隷以外のなにものでもありません。
無理やりの原発再稼働、ブラック企業の正当化、国防軍が必要だという声。これらに共通するのは、恫喝でものごとを動かそうとすることです。権力者はつねに次のように言います。「原発を動かさないと経済がダメになるぞ! 労働基準法など守っていては国際競争に負けてしまうぞ! 中国韓国に侵略されるぞ! 」、と。
このように、危機に乗じて威圧的な論理をつかい、政治を動かそうとすることを、ナオミ・クラインは「ショック・ドクトリン」と呼んで批判しました。
もっと簡単にいえば、それは「(現在の危機に対して)いつやるの? いまでしょ! いまやらなければ、さもないとひどいことになるぞ!」という論理です。
こういう論法は非常に威勢のいいものです。たしかに、いますぐ何かをやって、変えてくれそうな気がします。しかし、その一方で、「いま」の危機がどういうものであるのか、という点は覆い隠されてしまいます。たとえ国際競争に負けるからといって、過労死者をだすような労働環境が正当化されるでしょうか。たとえ経済がダメになるからといって、活断層の上にある原発を動かしていいものでしょうか。
その意味で、例の「いつやるの? いまでしょ!」の人は時代の申し子というか、およそ考えうる最高の(最悪の)タイミングで出てきたわけです。
少しうがった見方をすると、ワタミの渡邊美樹候補というのは、今回の参議院選挙における自民党支持のための逆説的装置なのではないでしょうか。
つまり、こういうことです。――世の中では、自民党の勢力が強いらしい。かといってその流れに単に乗るだけでは自分は「自由」ではない。しかし、ワタミの渡邊美樹候補を批判することができる私は「自由」であり、自分で「主体的に」政治についての情報を得ている。だから私は政治を「知っている」。 このように考えることができるというわけです。
要するに、「ブラック企業」といわれるワタミの情報をインターネット等から得て、それを批判することによって溜飲を下げ、安心して「自由な主体」として自民党を支持できるというわけです――「私は自民党にどっぷり浸かっているわけではない、批判もしている。それゆえ私が自民党を支持することは自由の証である」、と 。
この参議院選挙のあと、自民党は憲法改正にむけて大きく舵を取ります。彼らの改正案は、どういうものでしょうか。
その一番の特徴は、基本的人権を守ろうとする姿勢が大きく後退していることです。たとえば、自民党の改憲案では、表現や集会や言論の自由は、たしかに保障されています。しかし、この自由は「公益及び公の秩序を害することを目的」とする場合には、保障されません。この規定によって、たとえば今の政府についての批判を行うことが「公益及び公の秩序を害する」と権力者が判断すれば、そのような批判は制限されてしまいます。政府を批判することすらできなくなってしまう可能性があるのです。
もちろん、批判する必要のないほど完璧な政府であればいいでしょう。しかし、日本に生きる全員にとって「完璧な政府」などというものが、はたしてありうるでしょうか。
それでも、景気の回復だけを理由に、自民党を支持することができるでしょうか?
ある男が暴漢に拳銃をつきつけられ、「自由か死か!」と問われます。ふつう、死にたくはないですから、「自由」を選びます。しかし、「自由か死か!」という二択を迫られたときに「自由」を選んでしまうことは、その選択を暴漢から強制されることにほかなりません。ならば、その男は、自分が自由であることを示すためには、「死」を選び、自由を放棄するしかありません。こういう逆説がいま、現実に起こっているのです。
経済政策を武器に、私たちの自由を奪うような憲法改正を行うとする自民党を支持することは、自分が自由をもっていることを示すために、表現の自由も思想・信条の自由も、さらには基本的人権すら売り渡すことに他ならないのです。
実際に、いままさに私たちの「表現の自由」が制限されはじめつつあります。興味のある方は、次の記事をしっかりと読んでおきましょう。
http://kiikochan.blog136.fc2.com/?no=3113
世界の歴史の至るところで、私たちは私たちの「自由」を獲得するために、数多くの努力を行ってきました。その結果が、現行の憲法の「思想及び良心の自由(第19条)、表現の自由(第21条)、学問の自由(第23条)」です。こういった自由は、おそらく、あっさりと奪われてしまいます。そして、こういった自由をふたたび取り戻そうとするときには、数多くの血が流れることは間違いありません。そのことは、歴史が証明しています。
すでに長くなってしまいました。
ここまで読んできてくれた方のなかには、「いや、そうは言っても外交問題などは、自民党以外にはまかせておけない」と言う方がいるかもしれません。
ところで、今の若い世代の方のインターネット上の発言をみていると、少なからぬ方が、いわゆる「2chまとめサイト」(「痛いニュース」「保守速報」「アルファルファモザイク」など)のURLをSNSに貼り付け、それを情報源として政治について語っていることがよくあります。中国や韓国、北朝鮮といった東アジアの外交問題に関しては、とくにその傾向が強いように感じます。
しかし、そのような「2chまとめサイト」を情報源として利用することは、とても恥ずかしいことだと私は思います。
なぜなら、いわゆる「2chまとめサイト」は、その名の通り「2chで話題になったことをまとめた」ものではないからです。
この点について興味のある方は、次のURLを参照してください。
http://anond.hatelabo.jp/20130705113110
若い世代の多くの方が、「2chまとめサイト」をTVや週刊誌などのマスコミから伝えられる情報とはちがった「自分で手に入れた真実の情報」として受け取っています。しかし、「2chまとめサイト」は、その話題を提供するプロセスから、その記事作成に至るまで、実はごく少数の人物によって管理されているのです。
多くの「2chまとめサイト」は、嫌韓や民族差別ネタを娯楽のようにパッケージ化して私たちに提供しています。本当に愚かなことですが、「差別」はもっとも簡単に娯楽になるのです。差別を娯楽として提供することが一番PVを稼げるから、結果として思想的な偏向を生み出しているわけですね。
しかし、その娯楽を享受し、そのURLを嬉々として貼り、情報/娯楽として消費する行為は、まるで、いとも簡単に餌につられ、その餌に群がる昆虫のようではないでしょうか?
少し、個人的な話をさせてください。
私はたぶん2chとの出会いは早かったほう(たしか2000年)だと思います。
2chを最初に見たとき、歯に衣着せぬ酷い書き込みの嵐に、「あ、これが筒井康隆が言っていた「ブラックユーモアは厳しい自己認識の手段である」ということなんだな」と思いました。そのことをよく覚えています。
作家・筒井康隆の作品には、さまざまな差別ネタや障害ネタが登場します。そのため、筒井は「2ch以前から一人で2chみたいなことをやっていた人」のように言われることがあります。
しかし、彼の作中での差別や障害ネタは「差別を見て笑って/楽しんでしまう私のおぞましさ」を発見するための装置なのである、と筒井は語っている。私たちは、いくら「差別はいけない」と思っていても、実際に差別を目にしてしまったときに、笑ってしまう、その差別を楽しんでしまうことがあります。そういう「私」のおぞましさを発見させてくれるのが、「厳しい自己認識の手段としてのブラックユーモア」だということです。
文学的価値としてはパロディよりもブラックユーモアのほうが高いとされている。なにしろ ブラックユーモアは16世紀のイギリスで発生してこのかた5世紀というスウィフト以来の伝 統を持っていて、それはすなわち死体をもてあそび、宗教を冒涜し、病人をいたぶり、糞尿を 好み、身障者を笑いものにし、極端な人種差別をするというものであることはご存知のとおり である。それはまさに人間が、人間であることによって否応なしにもたされた醜さをすべて暴 き立てられ、鏡のごとく自分の醜さに対面させられ、叫ぼうがわめこうがどうしようが、それ を自らの笑いによって証明させられて認識せざるを得ないという、いわば厳しい自己認識手段 なのである。この伝統を守り、20世紀の日本などという建前社会において消滅させたりして はならないと孤軍奮闘してきたつもりであったが、今や世の底流はほうっておいてもブラック ユーモアを指向しはじめた。「偉い人」だの「尊敬すべき人」だのといった言葉が出てきた限 りは、以後そういうことを言い出した人自身が自分の醜悪さの中にまみれてもらわねばならな い。どうやらまた何かしら倫理を作ろうとする連中がちらほらしはじめている。人間が人間の 倫理など作れるほどの偉いものなのかどうか、自分の魂の地獄へサイコダイバーとなっており ていってもらい、じっくり見てもらおうではないか。もちろんおれも一緒だ。安吾先生ではな いが、堕ちるところまで堕ちた人でないと倫理の何たるかすらわからない。
(『笑犬樓よりの眺望』http://sound.jp/kita-g/black.htm より引用)
初期の2chには、おそらく「厳しい自己認識の手段」としてのブラックユーモアがあったように思います。しかし、現代の「2chまとめサイト」は、その差別やブラックユーモアを単に娯楽として消費されるようにパッケージ化しています。
こういったサイトの「情報」をもとに、政治の話をするのは、もうやめにしませんか?
最後に、映画監督の想田和弘さんと、哲学者の木田元さんが今回の参院選について語った言葉を引用しておきます。
「僕は別に自民党に恨みがあるわけじゃないんだけどいまだに原発進めたり海外に売ったりTPPを公約違反を犯してだまし討ちで進めたりトンデモ改憲案を出したり軍法会議を検討したり生活保護切り崩したりワタミの会長公認したりとあまりに最近ブラック過ぎて絶対投票するのはやめて欲しいと言いたい。 」
「時代には勢いがあります。今ならば、ちょっと右寄りの方がかっこいいとか、そろそろ憲法改正が必要だとか、昔日の日本の威光を取り戻そうとか、そういう動きですね。それらに安易に同調したり、勝ち馬に乗ろうとしたりすると、とんでもないことが待っているかもしれない。… 戦前、日本の孤立を決定づけた国際連盟からの脱退に国民は拍手喝采しました。その愚を繰り返さないように立ち止まって考え、『勢い』をチェックして、場合によっては抑えることが必要でしょうね。賢さと言い換えてもいい」
犯罪事実を報道すること。捜査機関からの発表や裁判から犯罪の原因を分析し、犯罪が二度と起こらないよう提言する再発防止の目的がある。犯罪者の実名や生い立ち、犯行内容を報道することによって犯罪者に社会的制裁を加え、再犯予防を図る特別予防効果がある。
犯罪報道には、捜査機関からの発表や裁判から犯罪の原因を分析し、犯罪が二度と起こらないよう提言する再発防止の目的がある。映画監督の是枝裕和は、テレビが犯罪報道を行う目的は、犯罪を生んだ背景を考え、その原因を個人の「心の闇」に帰すのではなく、自分たちと地続きなものととらえ、社会を考える材料にするためだろうと指摘している[6][7]。
また、犯罪者の実名や生い立ち、犯行内容を報道することによって犯罪者に社会的制裁を加え、再犯予防を図る特別予防効果がある[8][9]。これについて是枝は、犯罪報道は司法に先立って社会的制裁を加えるためにあるのではないと指摘している。司法は犯罪を個人の責任と考えるのに対して、ジャーナリズムは社会により責任を見出そうとするからである[6][7]。
はてなキーワード「慰安婦」でもid:dj19などに対して偏った編集行為をした、id:barnumkoukaによる編集になります。
Wikipediaにある「映画監督の是枝裕和は、…」と「これについて是枝は、…」で始まる文章が抜け落ちています。これらはそれぞれ、直前の文章による説明のカウンターな意見になりますので、削除するのは一方的ではないかと思われます。
id:barnumkoukaによるはてなキーワード「犯罪報道」の編集は、Wikipediaのパクリ、それもかなり偏った視点をもったパクリです。