2013-10-15

どうしてみんな松本人志映画を作っていると勘違いしているのだろう

最新作「R100」について、いわゆる松本信者松本人志の初期の天才性を高く評価している人ほど酷評をしているようだ。

わたしも松本天才性を認めるにはやぶさかではないし、今でもその根本的な特異な才能は初期のころとそれほど変わってはいないのだと思う。

なのに何故今は往年の信者にすら見放されているのか。

彼にとっての不幸は、キャリアの初期において本来ならば理解困難なそのユニーク感性浜田という相方存在により広く「革命的に面白い」と認識されてしまったことにあるのではないか

彼の特異性は、その驚異的なまでの無知さにある。

ベストセラー遺書」を読んだことがあるかたはわかると思うが、彼は全くと言っていいほど「引用」「参照」ということをしないし、そもそも何かを学ぶという意識が皆無なのである

彼が面白いと思うこと、新たに生み出しているギャグというのは、全て彼自身が見ている範囲、彼自身のみから考えられる範囲でのみ構築されたものであり、すなわち常にゼロからひねり出しているものなのである

それゆえ初期のお笑いの活動においては全くもって斬新なネタコントを繰り広げていたのであるが、これはたまたま彼の感性が作り出すものが、浜田存在により、たまたままだ笑いとして理解可能な範疇であったかである

松本感性は、人を笑わそうとしてしてのものではなく、あくまで自分面白いと思えるものに対しての探求であり、それが世に受けていたのはたまたまに過ぎない、というか相方ブレインなどによるものだ。

彼が映画に手を広げたのは、単に表現手段のひとつとしてであり、テレビ舞台ラジオ漫才コントといったバリエーションひとつに過ぎないのであろう

しかし残念ながら映画というものは単なるいち表現手段としては完結しない。映画ひとつの作品として存在するためには、その背景に膨大な参照と引用必要で、そもそも映画という形式自体が映画文法そのものによってなりたっているのである

北野武映画監督として確固たる地位を築いているのは、北野は彼なりに映画というものをとことんまで理解し、その理解の上に自分なりの映画というものを構築し、時にはあざとくも映画の文法を逆手にとって鑑賞者に媚を売ることすら厭わないかである

松本人志既存映画映画として観ていない。初期のネタづくりのように、自分感性に対して何か生み出してくれる材料としてしか観ていない。しかもそれすら自分しかからない理屈によるものだ。

繰り返しになるが、映画というのは膨大な引用と参照によってなりたつものである既存映画と全くの連続性がないとしたらそれは既に映画ではなく、実験映像であり百歩譲って実験映画である

松本の、自分の得意な感性によってのみ構築された映像は、そういうわけで映画ではない。しかも独自にひねり出してきたのであろうそのコンセプトは映画の中では陳腐もので、車輪の再発明にすらなっていない。

映画を名乗りたいのであれば、まずは映画を知らねばならないのだが、残念ながらそれは彼の唯一の天才である無知と完全に相反するものなのだ

から少なくとも、今後の「R100]の評価は映画としての枠を外して評価されるべきものなのでないかと思う。

その評価に何らかの意味があるかはわからないが。

  • 鋭い。 R100なんてフロムダスクティルドーンともろかぶりだったもん。ダンスきっかけで後半別の映画が始まるところとか。 安易なメタフィクションなんか散々やりつくされて手垢にま...

  • アイデアとは既存の要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもない http://anond.hatelabo.jp/20131015073706

  • 単館や小規模でやりゃいいのに松本人志のブランドで拡大公開とかするから・・・・

  • ああ、何か分かるような気がする。 その昔、ダウンタウンは自分達の漫才を 横山やすしさんに『そんなモンは漫才やない。街のチンピラが喋ってるだけや』 的に否定されたって話を聞...

  • タイトルの部分について監督が映画をつくっているわけではないというのは大阪城を立てたのは大工さんというクイズみたいな理屈です。 本文は「つくっているものは映画またはそうい...

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