はてなキーワード: 松本信者とは
わたしは自分のことを完全に松本信者と言い切れるが、松本がメディアを去ると聞いて、怒りや寂しさを感じるよりも、何というかとても安心してしまった。
これでようやくこの息苦しさから解放される。そんな気がして何かとてもホッとしたのだ。
松本は、笑いの達人であるが、同時に警察でもある。つまらない笑いや、サムい笑いを取り締まり、人の行動や仕草、見た目にまで鋭く目を光らせ、ツッコミどころを探している。
30年近くそんな松本警察の監視下にあったのがこの国だと思う。たかがいちお笑い芸人にそんな影響力があるものかと言う人もいるだろうけど、私はそう思う。
私は、元々お笑いや面白いことが好きで、それゆえに松本に心酔してたわけだけど、松本警察の監視下のもと、気付けば「面白い」じゃなく「つまらなくない」を目指す人間になっていた。
それは今にして思えば、ずいぶんと窮屈で息苦しい世界観であったと思う。
松本が、性加害を行ったかどうかは分からない。裁判で勝つか負けるか分からない。でも、松本が笑いと芸能の頂点に返り咲くことはもうないように思う。
なぜなら、わたしと同じように、心の底では彼の退場を歓迎してる人が、思いのほか多いように思うからだ。
そして、いちお笑いファンとしては、この先、多様性を許容する優しくて、そして腹を抱えて笑えるような新しいお笑いが誕生することを願っている。
古い言葉だが松本信者として、現状の報道について、個人的な考えを吐き出したい。
ファンの程度としては好きなDVDはビジュアルバム、ダウンタウン関連のテレビ番組は自動録画、今でも放送室を繰り返し聞いている、という程度である。
前提として、ファンの相当な欲目かもしれないが、報道されている内容はいわゆるジャニー喜多川による性加害とは違うではないか、と思う部分はある。
仮に女性側の証言内容が事実だったとして、未成年男子への性的虐待と成人女性との性行為はその残忍さには差があると認識している。
ただ、その性行為自体に強制性や優越的地位の利用があった場合、行為の残忍さは増すと思う。
また、報道内容について松本側は事実無根としているものの、芸人用語の「タレをかく」という行為の考え自体が時代錯誤であると認識している。
以上を前提として、思うことは2つである。
誰か知恵をつけられる人はいないのか、と思うくらい悪手の連発だと思う。
証言女性からの飲み会のお礼メッセージのスクショを出回らせて、それに関する記事を別メディアに書かせて、「とうとう出たね」じゃねぇよ。それで一件落着とはならんでしょうよ。
しかも、自らが企画立ち上げに関与した番組とはいえ、「フジテレビの番組に出て意見表明します」じゃねぇよ。フジテレビ側のリスクも当然あるだろ。
この時代に動画で意見表明したいのであれば、それこそYoutubeに動画投稿して、自身のXでリンクの投稿をすればいいでしょう。
また、オフィシャルのコメントにある「事実無根」をXで訴えたいのであれば(これ自体、適切かどうかは微妙と認識)、単純にもっと説得力のある理由なり説明がほしいし、上述のスクショでは説得力は足らないと思う。
いずれにせよ、松本自身の行動にコントロールが効いていない印象があり、吉本興業の弁護士なりと相談して、下手にならないように行動してほしいと願っている。
この事実無根の証明に関して、例えば「完全に証言がでっち上げである」ということの証明(報道では複数の証言が出ている手前、できないとは思うが)や性行為に強制性等は全くなかった、とする証明があれば、理解は得られるとは思う。
ただ、「性行為に強制性がなかった」という点は不倫行為を認めることにもなり、報道前の松本自身の近年の漂白されたイメージの毀損は避けられないし、そもそもそんなことするなよ、とは思う。
話は逸脱するが、相方の浜田についても近年、不倫行為に関する報道があったが、①浜田本人に元々クリーンなイメージがなかった、②女性側から関係性の構築が見られる発言があり、性加害に関する言及がなかったことから、ダメージは少なかったと認識しており、今回の報道だと松本の近年のイメージと女性側との関係性の構築ができていない点が問題だと思料する。
ここからは推測だが、「タレをかく」という行為が抱えるリスクと世間の受け止め方を見誤ったことが立ち回りを含めて一連の行動を招いたと考えている。
2つ目は自分が好むエンターテインメントを享受できなくなる、ということだ。
近年、ジャニーズや宝塚に関する一連の報道があった際、ファンではないため自分事として捉えてなかったが、「自分の好きなエンターテインメントを享受できなくなる」ということはその可能性があるだけでも精神的にダメージがあるということを改めて理解した。
好き嫌いや過去との比較等はあるとして、個人的にはテレビ番組での平場の返し等で未だに面白いと思っていたため、活動休止によりそれを享受できなくなる、また自分が好んでいる対象が世間から非難を浴びるということは相当ショックだった。
前者の享受できなくなる点について、お笑い番組の有名ブロガーのポストを引用すれば、いずれくる松本人志がいなくなったお笑い界の予行演習、ということだと解釈するよりないが、報道を受けたスポンサー離れ等を考えると予行演習ではなく、この後の説明や裁判で自身の非がクリアにならない限り、この現状が続くのではないか、とは思っている。
最後に何の根拠もない私見ではあるが、近年、松本人志はやけにイメージが漂白されていると感じていて、その要因として、各種お笑いコンテストの審査員長格や万博アンバサダー、「お笑いを語る文化」の醸成等、外的要因にも起因するところであると思うが、個人的には松本人志の内的意識の中のお笑い芸人の地位向上や自身の娘さんを意識した行動があったのではないか、と勝手に思っている。
お笑い芸人の地位向上は以前からそのような発言もあり意識的に行動してきたと思うが、その地位向上に伴ってできることと共にできなくなることもあるわけで、今回の報道を事実とするのであれば、まだやっていたのか、という思いはある。
また、自身の一人娘に関する意識について、テレビ番組内で溺愛を伺わせる発言があったし、近年の「こんなことするんだ」と思わせる活動(例:指原莉乃卒業コンサートでの内田裕也のコスプレやソフトバンクのCM出演)は娘に「パパ頑張ってるよ感」を出したかったのかな、と思っていた。その文脈でこの報道は娘さんとの関係にダメージがありそうとは推察されるし、娘さんを大切に思っているのであれば、そんなことするなよ、とはつくづく思う。
いずれにせよ、本人が「事実無根である」とする以上、世間の理解が得られる説明は行ってほしいとは思う。
また、裁判するのであればそれはそれでよいが、結審するまで時間を要することを考えると、上述のいなくなる世界が続くと思っている。
結局ルサンチマンを満たすのに最適だってだけなのよ。ほとんどの人が松本人志を憎んでるわけでもない。今叩くことの勝算がかなり高そうだからついでに乗ってるだけ。
本気で正義感から処罰感情に燃えてるわけでもないし、犯罪になるかどうかを勝負の分かれ目だとも思ってない。むしろご意見番的芸能人としての立場が無くなればそれで十分まである。
この条件だと同意なく性加害したなら無条件でアウトだし、性加害が無くてもいい年して後輩使って女性を侍らしてる時点でカリスマ芸人としては相当にみっともない。
後輩使って女性集めて騒いでたっていう事実が無いかもしれない派もいるが、文春の追撃、あるいは世間一般の(積極的に報道されないとはいえ)芸能界の実情への認識と照らすと勝算は相当に低い。
このかなり優勢な勝ち馬に乗らないのは①松本信者②女遊びくらい咎めるなよ勢③逆張りマウントきもちええ勢のどれかではないか。
てゆーか君が松本信者では?
そんな野田に国民最高ー!で(多分)アシストする形になったインディアンスが本戦のネタ以外のMVP。田渕の明るさが素なのが浸透してきて、いつどこで見ても機嫌よく周囲に分け隔てなく接する人の良さが大会を明るくしたと思う。事前PVでハハハと笑った直後に「敗者復活見てろよクソッ」と涙声で建物を出る姿も印象深かった。今回の敗者復活、そしてトップバッターはインディアンスが間違いなく適任だった。
正直この反省会、来年から後回しにしようかなと思ってる。笑い飯や川島、土屋に一人ずつ小藪が振っていく構成なのでディスカッションにはならず広がらない。講評の内容も正直そこまで深くないし。ファイナリストのインタビューも小藪じゃなくてミルクボーイと話してるほうが見たいし、中継のラグもないのに。各組の時間も短すぎて内容薄い。福徳が泣いたり川瀬が死にそうになってた時はめちゃくちゃ面白かったが、今の形式ならもういいや。MVPもなし。
今年はソーシャルディスタンスのためにスタジオなのもあってワイワイ感が少なく、そのぶんガッツリ掘り下げるようなトークが多かったかも。
みんな良かったけど本戦だけでなくその後に漫才の定義いるのかいらんのか問題に巻き込まれてアホの攻撃道具にされた見取り図にお疲れ様の意味でMVPをあげたい。全組漫才ですといち早く宣言したのカッコよかった。
M-1が「4分の中にできるだけ多くのボケを詰め込み終盤に伏線回収とかして盛り上げる漫才」だけを漫才だと定義するような大会だったらここまで人気は出てない。邪道と呼ばれるものを堂々と評価してきたからこそM-1は面白いのだ。そんな妖怪大戦争だった今回のメンツで冷静に戦略を練り淡々とコマを進めたマヂラブが最終的に披露したネタが床を転がり回るっていうカオスなのが最高すぎた。今年は野田脚本による壮大なミュージカルに知らぬ間に全員が巻き込まれてたんだろうな。運命を味方につけるってのは実はこういうことなのかもしれない。本当に凄いものを見せてもらった。
MVPとか偉そうでごめんね。マヂラブおめでとう!
最新作「R100」について、いわゆる松本信者、松本人志の初期の天才性を高く評価している人ほど酷評をしているようだ。
わたしも松本の天才性を認めるにはやぶさかではないし、今でもその根本的な特異な才能は初期のころとそれほど変わってはいないのだと思う。
なのに何故今は往年の信者にすら見放されているのか。
彼にとっての不幸は、キャリアの初期において本来ならば理解困難なそのユニークな感性が浜田という相方の存在により広く「革命的に面白い」と認識されてしまったことにあるのではないか。
彼の特異性は、その驚異的なまでの無知さにある。
ベストセラー「遺書」を読んだことがあるかたはわかると思うが、彼は全くと言っていいほど「引用」「参照」ということをしないし、そもそも何かを学ぶという意識が皆無なのである。
彼が面白いと思うこと、新たに生み出しているギャグというのは、全て彼自身が見ている範囲、彼自身のみから考えられる範囲でのみ構築されたものであり、すなわち常にゼロからひねり出しているものなのである。
それゆえ初期のお笑いの活動においては全くもって斬新なネタ・コントを繰り広げていたのであるが、これはたまたま彼の感性が作り出すものが、浜田の存在により、たまたままだ笑いとして理解可能な範疇であったからである。
松本の感性は、人を笑わそうとしてしてのものではなく、あくまで自分が面白いと思えるものに対しての探求であり、それが世に受けていたのはたまたまに過ぎない、というか相方やブレインなどによるものだ。
彼が映画に手を広げたのは、単に表現手段のひとつとしてであり、テレビ・舞台・ラジオ・漫才・コントといったバリエーションのひとつに過ぎないのであろう
しかし残念ながら映画というものは単なるいち表現手段としては完結しない。映画はひとつの作品として存在するためには、その背景に膨大な参照と引用が必要で、そもそも映画という形式自体が映画文法そのものによってなりたっているのである。
北野武が映画監督として確固たる地位を築いているのは、北野は彼なりに映画というものをとことんまで理解し、その理解の上に自分なりの映画というものを構築し、時にはあざとくも映画の文法を逆手にとって鑑賞者に媚を売ることすら厭わないからである。
松本人志は既存の映画を映画として観ていない。初期のネタづくりのように、自分の感性に対して何か生み出してくれる材料としてしか観ていない。しかもそれすら自分にしかわからない理屈によるものだ。
繰り返しになるが、映画というのは膨大な引用と参照によってなりたつものである。既存の映画と全くの連続性がないとしたらそれは既に映画ではなく、実験映像であり百歩譲って実験映画である。
松本の、自分の得意な感性によってのみ構築された映像は、そういうわけで映画ではない。しかも独自にひねり出してきたのであろうそのコンセプトは映画の中では陳腐なもので、車輪の再発明にすらなっていない。
映画を名乗りたいのであれば、まずは映画を知らねばならないのだが、残念ながらそれは彼の唯一の天才性である無知と完全に相反するものなのだ。