はてなキーワード: GNUとは
最近娘ができた。
ただ、子供ができないことを悩む妻を見て、治療を受けることを決断しただけである。
子供はどうでもいいが、妻の悩む姿は見たくなかっただけなのだ。
自分の父親は転勤が多く、仕事も忙しく、性格的にも多弁ではなかったので、社会人に上るまでほとんど喋ったことがない。
昭和の父親にはありがちな、子供のことは母親に全て任せるタイプだった。
20年以上の会話は、まとめてもどこぞの短編小説一編分にも満たないであろう。
社会人になった後に会話量は増えたが、残念ながら、そこまで変化はない。
沈黙も「...」で入れるならそこそこの長編小説の長さになるが。
そう言うわけで、子供との距離の感覚が掴めない親から生まれた自分が、
親と子のコミュニケーションが取れない、そんな家を作りたいとは思わなかった。
それなら妻と二人の方が幸せだと。
それもあってか「家族もの」と言われる親子関係を描いた小説、歌、映画にはほとんどはまれず、縁がなかった。
泣いている人を見て、「偽善者が」「注目を集めたいの?」とすぐに思ってしまう捻くれ者であった。
皮肉屋と言われるイギリス人でもびっくりなレベルの冷血漢である。
よく言われるのだが、感動のポイントはその人の人生経験によるのだ。
犬を飼っていなかった人に、ペットの死ぬ動画を見せても理解されない。
家族という物語がわかっていない人に、家族ものをみせても理解できないのだ。
そういうわけでやっとできた娘に関しても
「うるせぇなぁ」
「なんか猿みたい」
と思いながらも、そこは40年生きてきた社会スキルでなんどか表に出さず、世話をしていた。
なにより不妊で苦しんでいた妻が嬉しそうにしているのが本当に嬉しかった。
娘が7ヶ月になるころ、
娘は自分が歌うとご機嫌が良くなるので、自分一人の時はよく歌いながらあやしている。泣くと本当にめんどくさい。
ただ、童謡を歌っても自分が面白くないので、自分の趣味の曲をいくつか歌って、娘の好きな傾向を調べている。
最近で言うとKing-gnuは大好きなのだが、井口くんの技量が高すぎて自分には歌えない。
福山雅治は音域が狭いせいか、音痴の自分でも歌いやすく、好きな曲も多い。
気に入ってくれたら今後楽だなーと思い、歌詞を画面に表示させながら歌ってみた。
先ほども書いた通り、自分は家族もの嫌いなので、この歌をよく知らなかったのだ。
知らぬ間に少しずつ少しずつ、自分は家族という物語に共感できてきたのだ。
この年齢になっても自分が変化すると思ってなかった。
「いつも自分のことばかり精一杯で
親孝行なんて出来てないけど
それほど変われないとしても
一歩ずつ 与えられる人から
与える人へかわってゆけたなら」
少しだけ、親になれる気がしてきた。
以前このようなエントリを投稿したのだが、このエントリの文脈を前提にColabo騒動を考えるのであれば「自由を得るため皆で関わろう」という考え方になる。
ボクのような性質を持った人間は情報がオープンであることが望ましいと考えるし、その観点から言えばColaboは保護している女性に危害が及ばないよう慎重になりながら情報を可能な限りオープンとし、我々市民は自治体や団体と連携しつつオープンな情報を活用してデバッグ(検証)とリファクタリング(最適化)を行えるような体制を築いたほうが良い。
そのようなものは理想論だと言いたくなる人も居るだろうが、我々は理想を実現するためにFLOSSやGNUを標榜しているのでは無かったか?
理想論、それは褒め言葉だろう感謝する。
GNUはそもそも、製品を無償で提供しサポート業務を有償で請け負うと言ったビジネスモデルが提唱されている。
そのような中で発展したGNU/Linuxはプロプライエタリの代表格であったMicrosoftがWindowsのサブシステムとしてGNU/Linuxを取り込むといった成果が近年見られるし、より一般大衆目線で事例を挙げるのであればAndroidスマートフォンはGNU/Linuxベースだ。
FLOSSやGNUの事例を参照し、女性の保護は無償で請け負いつつも生活のサポートは有償で行うというような、無償を支えるための有償ビジネスモデルとして様々な無償-有償パターンを洗い出し・議論し・試験し・実現していくことこそ、女性が、そして我々が自由を得るために必要な行動なのではないかと皆さんへ問いたい。
ボクは以前のエントリで語ったように思想には詳しくない。
しかしボクがよく知るハッカー文化は、万人が自由にアクセスできる環境や道具や制度を揃え、万人が自由にそれらを選択し活用し好きなものを好きなように好きなだけ生産できる社会を是とする。
様々な事情により不自由であった女性が保護された先で、自由に使うことが可能な選択できる環境や道具や制度が社会にあることを知り、好きなものを好きなように好きなだけ生産できるようになることは素晴らしいことじゃないか。
更にその生産するまでの過程がオープンであるのならば、それを見て憧れ、1人2人と自由に至る女性が増えていくことへ繋がる。
「失敗したらどうするのか?」と言いたくなるだろう。
そんな意見への返答は「動かせばバグ出る!ボクたちはそれをよく知っている!」だ。
バグを恐れるな先ずは動かせ!壊れたら、落ちたら、問題が見つかったら検証し取り除こう!
それがボクたちのやり方だし、だからこそ検証可能性は担保しておかなければならない。だからこそブラックボックスではいけない。
Colaboだけでなく全ての団体へ言おう!
自由でオープンな社会を目指そう!自由でオープンな団体となろう!
ボクはそうなれるようこれからもColaboだけでなく全ての団体を応援し、FLOSS活動を通してColaboだけでなく全ての団体へ貢献していく!
ソーシャルリベラリストとかフェミニスト扱いされてる人、もしくはそのように自分自身を誤認している人も居るように思えるけど、GNUが掲げる「自身の所有物の制御権は自分自身が掌握すべき」という提言に物凄くしっくり来る人はかなり多いんじゃなかろうか
そしてそれは他者にも及び、他者の制御権を奪っちゃいけないよねとなっている
更に言えば自身の制御権を掌握できる仕組み作りをGNUに賛同する皆でしようというのがGNUの試みだ
インターネット黎明期1985年以来、ずっと続けられている運動がGNUなんだ
あなたの居場所はソーシャルリベラリズムとかフェミニズムではなくGNUなのでは?
そう思えてならない人がインターネット上に多すぎる
Mastodonユーザーは「まぁそういう意見もあるよね」というリアクションをしがちなのでバズらないというのもある。
Mastodonというか分散SNSの仕組み上、多様性がマジで尊重されてしまうので分散SNSユーザーのリアクションはTwitterユーザーからすると素っ気ない感じになるのだ。
これまで分散SNSでバズや炎上と言って良いような状況が起きたのは多様性が尊重されたときと多様性が脅かされたときだった。
分散SNSは多様性が絡まないと分散SNSユーザーの言論が大きく動かないし、リベラリズムやフェミニズムの顔をして多様性を脅かすと分散SNSユーザーの多くはおそらく多様性を脅かしたユーザーや分散SNSサーバーをブロックし始める。
分散SNSではブロックする自由があり、ユーザーやサーバー管理者の権利であると認められている傾向があるので、ブロックは卑怯や逃げの行為と判定されにくい土壌がある。
分断だの何だのと評価する人も居るだろうけど分散SNSではブロックを多様性の一面として処理してしまう人がかなり居るのだ。
もしもブロックが分散SNSで好まれないと評価されるシチュエーションとしては、他人へブロックを強制するなどであり、他人の自由意志を脅かすと脅かした者は好まれないはずだ。
Mastodonの自由はGNU宣言や自由ソフトウェア運動に類する自由なので、日本Twitterのソーシャルリベラリズムや日本Twitterのフェミニズムの自由とは反りがあわないだろう。
分散SNSはあまりにも多様性を尊重しすぎて日本Twitterのソーシャルリベラリズムや日本Twitterのフェミニズムが何かを訴えたとき「まぁそういう意見もあるよね」と受け流されたり、それが言葉の誤りから誰かの自由を制限するものであるならば逆に敵対してくるので扱いにくいことこの上ない。
Twitterやはてなでやれているようなリベラリズムやフェミニズムは分散SNSで通用しない可能性が高い。
オープンソースソフトウェア(OSS)は、ソフトウェア開発でも長い歴史を持ち、なおかつかなり個性的な特徴がある。
ざっと挙げるなら
こうしたコミュニティから生まれてきたソフトを最も多用しているのは、他ならぬWeb系だろう。
サーバサイドプログラミングが中心になることから、Linuxを触る機会も他の開発系に比べて格段に多いだろうし。
結果、「UNIXの哲学」とかGNUの歴史とか全く意識せずとも、こうした活動を通じていつの間にかOSSのエッセンスを身に着けた人が、Web系には少なからずいそう。
その意味では、OSSがどういうわけか今のWeb系の礎になってしまったという意味で、タイトルに書いた通りになっているのかなーと。
元増田のブコメでもあるとおりネット上のソーシャルリベラリズムとGNUは衝突しがち
ソーシャルリベラリズムが何故か不寛容へ振り始めていて自身の所有物への制御権を得るため全員が関わっていこうとするGNUの理念と合わなくなってきている
とりあえず最初にまさか...そんな...猫耳カチューシャ...を最近知って素晴らしいものを読ませて頂けたことへ最大級の賛辞を贈りたい。
猫耳カチューシャは心を豊かにするのだと心新たにすることができた。
では本題だけれども、ボクのリベラルの根源はGNU宣言とフリーソフトウェア運動というエントリを読み、猫耳カチューシャ増田であると記名して書こうという思いに至って実際に行動している。
端的に言えば「猫耳カチューシャを装着するという自己決定を擁護する側のケモノミミストであり、その自己決定の制御権は他者に侵害されるべきではない」と考えている次第だ。
男であれ女であれ性別の型に依らず猫耳カチューシャを装着する自由があるべきだし、年齢がどうのとかどうでも良いじゃんと、猫耳カチューシャを装着したいなら、猫耳カチューシャでパートナーを誘惑したいなら好きにやったら良いじゃんと思うのだ。
これまで猫耳カチューシャ増田はソーシャルリベラリズムに「猫耳カチューシャの自由」の根拠を求めていたが、近年の、特にインターネット上で支持される類のソーシャルリベラリズムはその理念に反して自己の発露を抑制し、あまつさえ規制しようという動きがあるのは否定できないはずだ。
あろうことか野党は与党が自己の発露を擁護しようという立場へ立った際に、与党と差別化しようと政局しか考えず自己の発露の抑制へ歩みを進めるという愚を犯してしまった
共産主義政党は別として、与党よりもソーシャルリベラリズム政党として認識されていながらソーシャルだけに注力しリベラルを棄てるとは、そしてそんな政党を支持してしまうインターネット上のソーシャルリベラリズム界隈には猫耳カチューシャの自由を預けることが正直出来ない。
いつしか猫耳カチューシャが店頭やネットショップから消えて流通されなくなってしまうのではないかと恐怖を覚えてしまうのだ。
あなた達は言ったじゃないか、特定の商品が流通しないように社会合意をはかっていくと。
そんな恐怖に怯えている最中に読んだのが上記の「ボクのリベラルの根源はGNU宣言とフリーソフトウェア運動」だ。
読めば読むほどGNU派にはケモノミミストが求める猫耳カチューシャの自由があるではないか!
猫耳カチューシャを装着する自由、ウサ耳カチューシャを装着する自由、4つ耳であっても良い、髪でヒト耳を隠せば良いじゃないかという自由、そしてケモノミミを装着しなくても良い自由すらある!
我々とあなた達の自己決定をGNUは担保する!
ソーシャルリベラリストよ、このエントリのバカバカしさを受け止められるか?
「夫に猫耳カチューシャを着けたら最強じゃね?」という妻のバカバカしい声を受け止められるか?「猫耳カチューシャを着けた妻の可愛い姿を観たい」という夫のバカバカしい声を受け止められるか?
自分は、猫耳カチューシャ増田はGNU派へ転向したからこそソーシャルリベラリスト達の「GNU派ってバカなのか?」という声すら受け止めようじゃないか!
リチャード・ストールマンが書いたGNU宣言のこと、またはそのコミュニティを指すこともあり、またはGNUコミュニティ管理下のソフトウェアアプリケーションを指すこともある
先日この記事が人気のエントリになってた
https://anond.hatelabo.jp/20220712074512
基本的にITエンジニアを中心とした共助コミュニティなので政治や宗教とは無関係
端的に言えばみんなでオープンソースなフリーソフト作ろうぜというコミュニティ
はてサヨは旧民主系を庇うのにカルトだが統一教会よりもマシ論を展開し、オールド左翼は天理教と仲が良くて悪いか?と開き直る姿勢を示し、新自由主義は参院選に勝ったのは俺達だとアクロバティックな擁護に走る
注目すべきは、左派政党であってもやっぱり政党と宗教が切っても切り離せない状況からか自由が脅かされていると感じたのか最近おとなしかったのにインターネット老人会からまさかのGNUが頭角を現して来たところw
技術的という意味でインターネットを作ってきたGNUの参戦により政党でも宗教でもない左派という第3の選択肢を示してきたGNUは3年後の衆院選までに勢力を拡大することができるのか!?