色々な大学や研究機関の話を聞いて将来考えてる人がほとんどですし、
学会でもなんらかの研究会でも他の研究機関の人と交流ありますし、割とアンテナ張ってるもんですけどね。
それは良いですが、
について、それ程研究を圧迫するほど昔から増えたのか、それは疑問ですが。
勿論、学部長、学長等になれば運営の仕事が大きくなりすぎて全く研究と関係のないことが多いでしょうが、
それにしても昔に比べて多いのだろうか、と。
それも、諸外国に比べて多いのか、疑問です。
日本で改善の余地が無いとは言いませんが、大学でも会社でも、経営上、その様な体制を持つことが一番上手く出来てきた事もあるということです。
大学運営などは研究とは直接関係ないとはいえ、全く研究などを知らない外部からの経営者が統治するのがうまくいくかどうかは微妙なところですし(上手く行く場合もあるかもしれませんが。)
授業をする教授と研究に専念をする教授を分けてしまうのも、その専念する教授と学生を隔てることになりますし、簡単ではないと思います。
更にいうと、お父さんになったら時間が取れず仕事がまともにできない、などと言い訳するのは非常に悲しいことなので、それなら仕事を変えた方が幸せになれると思います。
それがそもそもの話です。
30越えてから始めて研究者になったんで、蓄積もなんもないし、自分自身にまだまだ全く納得できてない。
今の分野以外でもやってみたい仕事もある(いつでも来ていいよ、って言われるくらいのアテはある)。
他にも、今はスキルがなくてできないけど勉強してやってみたいこと沢山あるなあ。
主に仕事等のための体力作りが目的だけど、趣味のスポーツも止めるわけにいかないし。
王道で順当にドクター取ってポスドクして、みたいなエリートコースとは比べるべくもない目茶苦茶な経歴なんで、そういう人達と同じようにはできないな。
パシフィック・リムを見てきた。
本来なら言うことはない。夏らしい平凡なポップコーン映画だった。
ただ、ネットの一部界隈では、映画監督の姑息なイメージ戦略にアテられたのかなんなのか、過大評価すぎるものが多く見えるので、細々と感想を書き連ねてみる。
映画監督が円谷ファンを自称しているらしいので、円谷のビデオソフトで例えると、パシフィック・リムは、怪獣大図鑑みたいなもの。(ウルトラマンの戦闘シーンのみを編集したプロモーションビデオ)
怪獣が暴れる映像のために他の全ては下敷きか犠牲になってる。ひたすら怪獣、巨大ロボ、衝突、破壊、爆発の繰り返し。
それらのアクションシーンには、見どころが沢山ある。細部までしっかり意味ありげにデザインされたロボットの造型。重量感。一進一退の攻防が次から次へと展開する。
友人達を集めて、談笑しながら見るのなら、かなりいい作品だと思った。
ただ、それ一辺倒なので真剣に見るのには向いていない。映画館など黙って鑑賞せざるを得ない環境だと、ワンパターン過ぎて睡眠誘導になりかねない。
間というものが皆無だ。心を落ち着けて、さあこれから山場だぞ!というシーンなど無く、パチンコ屋にいるような騒々しさが延々と続く。
ウルトラマンとは違って、テーマ性は薄い。ドリフトというシステムで取って付けたようなお題目はあったものの、じーんと心に響くものではなかった。
円谷ファンを自称する監督だが、本作に登場する怪獣には円谷作品のような多様性は一切ない。
全部クローンであるという設定と、欧米的説得力の問題でああなったのかもしれないけれど、どれも土気色に水色の体液でカラーリングが一緒で、形態には差異があるものの、画面の暗さとそれに溶け込む暗い色のせいで大した差を見いだせない。
最終決戦には3体もの怪獣と同時に戦うことになるのだけど、そのときにはもうどれがどれかわからない状態になってしまった。
最後の真打ちとして登場した3体目は、カテゴリー5(今までは4止まりだったのだろう、未知のタイプだ!と司令部が騒いでいた)と呼ばれていて、さぞスゴイ奴が出てくるのだろうと思ったら、気持ち大きいだけに感じる上に、乱戦してるうちに見せ場もなくボロボロになってしまった。
何のために盛り上げたんだ!
本作では上記のように戦闘シーンに特化した結果、オリジナル作品にも関わらず原作のダイジェストを見ているような忙しなさを抱えることになったが、その対価として、大ボリュームの戦闘シーンを2回もこなしている。
ただひたすらカッチョイイロボとでかい怪獣の戦いを表現したいというのなら、間違っていない選択だと思った。
海底に開かれた次元の扉を閉じるために、主人公たちのロボットは海底を歩いて進み、そこを守る怪獣と最後の決戦を繰り広げるのだけど・・・。
深海なので画面が暗く、水中なので動きは鈍い。敵が3体でてくるものの、暗さと没個性が相まってただごちゃごちゃ戦っているだけという印象。
地上での戦いだけで良かったのではないか。前半のほうが凄く感じただけに鈍い上に乱戦でグレードダウンした感のある最終決戦は、視聴者にとっても集中力の限界との戦いだった。
マーケティングの一環なのかなんなのか、監督の日本に対する愛情の現れなのかはわからないけれど、本作には日本人俳優がメインヒロイン役として参加する。
現代のヒロインを演じた菊池さんのほうは、海外の俳優に混じってなお遜色のない演技をしていた。吹き替えだと声が林原めぐみだし、かわいい。
ただ、問題は子供時代の回想シーンで。芦田さんという日本屈指の子役俳優が演じたのだけれど・・・。
最初にフォローとして、泣きながら逃げるだけな上に、実在しないCG相手というハードルの高い演技であったろうことは言っておくとして。
日本のトップクラスの子役と言えど、いざ洋画にでてみると、世界の子役俳優の足元にも及ばないのだなということがわかる。
最後、斜陽を背負うイェーガーを見上げる場面になると、お遊戯感が炸裂する。
”眩しくて顔に手をかざす”という行為と感覚を理解していないのだろう。あのシーンだけ、最近ありがちなCGギトギトのダサい邦画を見ている気分になった。
全体的に見て、僕はこの映画は好きだ。
映像はやっぱりすごいとおもったし、音の使い方も凄く良かった。
主人公機が画面中央に現れるときには決まって「デューン」というジングルみたいな物が入るのだけれど、あれのお陰で暗くごちゃごちゃした画面でも、すぐに主人公機だ!カッケー!という気分を呼び起こしてくれるので凄く乗りやすかった。
ビデオを借りてきて家で見るのなら、下手な名作系の映画よりも満足感を得られる内容だろうと思う。
でも、最近ネットで見られるレビューのたぐいは、流行に流されて一辺倒になっている雰囲気がある。
あまりに勢いがありすぎて、この映画が面白く無いやつはわかってないという上から目線めいたものも見受けられる始末。
本作はそこまでのものじゃない。ただ映像がかっこいいだけの、ポップコーン映画だ。
この映画を見て満足感が得られなかったとしても、当然と思えることは上に書いたように沢山ある。
おそらく、監督は円谷作品のファンということを大々的にアピールしていたことが出火元のひとつであるように思うのだけれど、
それで釣られた人たちは、この映画を見終わって果たしてどう思うだろう。
時給に見合った仕事じゃないし、真面目にやった所で見返りは何もないし
バカッターの奴らみたいにテキトーに遊びながらやってようやくトントンだよ
客はたまったもんじゃないけどな
それを自分のやりたいことがあるから、っていう理由とはちょっと違うと思うし。
大学のポスドクでも子供作ってちゃんと仕事してる人いくらでもいるよ?
奥さんが専業主婦の人も、働いてる人も。
本気でそう思っているのなら間違いを「恥」だとしないことだね
間違いを「恥」だとは言ってないよ。
そうやって、自分が間違えたことを認められず、無理矢理ごまかそうとして最後は「低能」等とここで使い古された言葉で煽る。
その姿勢は恥ですよ、と言ってるわけです。
こちらが間違いがあるなら認めますが、こちらは「状況が許しても生後1週間の赤ん坊を人に任せて仕事する人は異常者でいい」
などとは言ってないとは繰り返して言っていること。その様な記述はそちらがしているだけで、
さらに言えば、そちらが煽り始めた時にすでに、その様に煽りたいのでしょう?と指摘してますよね?
生後一週間で仕事に復帰するのは"普通"ではないです。体的にも精神的にも経済的にも環境的にもある意味"異常"な環境下に無いと出来ないことだ、
といったに過ぎないし、その"異常"は"常ではない"意味で、貴方が思っているような悪意を持って言ったわけではありませんしね。
繰り返しになりますが間違いを認める事は恥ではありません。
よい観察。概ねその通り。
よい観察。概ねその通り。
余裕余裕余裕余裕余裕余裕余裕余裕余裕余裕余裕余裕余裕余裕余裕余裕余裕余裕余裕余裕余裕余裕余裕焦
ネトウヨが抱いているような愛国心は自然発生的なありふれたやつだよ
フランス革命時の民衆が抱いたのと同じで、戦争の気配が近づくと
みんな感じる素朴な感情だよ
僕は観る前に事前に一通りのネタバレとかレビューを読んでいたので、まあ大体の内容は予想通りだったわけだけど、それでも驚くべきところはあった。
これはおそらく今のところ指摘されていない話だと思うが「二郎の妹がバスから歩いている菜穂子とすれ違うシーン」の話だ。
その後のシーンで、菜穂子は山の病院に戻ったのだ…みたいな感じで説明されているけど、よく考えると「病院に戻るために汽車に乗るにはバスに乗っていくはず」で、ということは菜穂子はバス停に向かって歩いていくはずなんだけど、菜穂子を訪ねてきた妹が乗ってるバス(菜穂子の住んでいる家の最寄りのバス停に向かっているバス)とすれ違うっていうのは、これはバス停に向かっていないということだ。つまり菜穂子は病院に戻ったのではなく、人目につかない森の中かどこかに向かって歩いて行って首を吊って自殺したのだと思われる。
これを思いついたのは映画を見た後、家に帰って布団に入った時だったが、考えてみれば菜穂子は病気の治療より二郎とギリギリまで一緒に過ごすことを選択したわけで、もう一緒にいるのは限界だとなった段階で今更病院に戻ってもしょうがないしさっさと自殺した方が苦しまなくていいという考えなのかもしれない。「バスとすれ違う菜穂子」を目撃した二郎の妹は当然菜穂子の真意に気づいたので取り乱したのだろう。まあどっちにしろ死ぬわけだから「驚愕の真実」という話ではないが(トトロのサツキとメイ死亡説みたいな)、なんとなく目覚めが悪い話である。というか布団の中でこの話を思いついた後、寝つきが悪くなった。
もちろん「上りと下りのバス停が全然違う場所にある」とか「妹と鉢合わせないように最寄りのバス停じゃないところから乗る為に歩いていた」とかいくらでも自殺していないという解釈は成り立つんだけど、個人的にはもう自殺したとしか思えない。