はてなキーワード: 情報量とは
はい、ハヴィラ戦記第3話でました
https://tonarinoyj.jp/episode/2550689798426304080
読んだ?
読んだね?
じゃあ感想
なので新たな情報は少ない
でもいくつか出てたので認識しておく
沖さんは按司と呼ばれていた
調べてみると
ということらしいので、沖さんは部族の長、少なくとも長の一族であるということになる
そして
「解放区」に戻るんだ
の言葉からもわかる通り、沖さんは間違いなく解放区生まれの野生個体だったね
野生に村があるようだ
大人間の力は借りていないのだろう
そしてよくわかんないけど、この野生の部族たちはここ保護区と自由に出入りできるようだ
セキュリティどうなってんのかな??
大人間も沖さんは認識しているのだし、どうなってたんだろうまじで
解放区のハヴィラたちは野生動物とわたりあえる力は持っているわけで自活はできる
しかし、じゃあ個体数減らしたのもなぜ?大人間から身を隠そうとするのもなぜ?と考えると、大人間の存在そのものがハヴィラの野生生活を困難にしてそうな気はする
それが環境破壊によるものだけなのか、裏があるのかはわからない
野生の人たちに悲壮感、危機感がないことから、裏があるというよりかは、表のまま、環境破壊だけでいいのかもしれない
そうなるともはや、野生が保護区を破壊したがるのは、種族の独立、自分の国の独立、という魂の問題な気はするよね
スコットランド人が経済的不利を覚悟で根強く独立志向を持っているのと近い感情だろう
イングランドに食わせてもらう方が利益があるじゃないか、という感じが、保護区で世話してもらう方がいいじゃんか、みたいな感じで、沖さんら野生は生粋のスコティッシュって感じ、みたいなイメージ
野生の村はすでにあるので、保護区を消滅させ全ハヴィラを野生化するか、または、島から大人間追い出せば勝ち、という勝利設定になるのだろうか
ぬくぬく保護区で飼われつがわせてもらいたい派のハヴィラには全然ありがたくない話
なぜカラスは入ったの?
沖さんは何を見たの?
これ、大きな謎になると思ってたけど、一応の騒動の終結を見たので、うやむやになりそう
ということは普通に、なぜか鉄線が破れて、沖さんはカラスが鉄線の中にいるのを見た、ってくらいなんだろうか?
別組織、別思想の派閥でも出てこない限りここはこのまま流れそう
いや、なんで鉄線切れたんだよ!!
あとでうまく回収されるのを期待
つっよ
カラスの首落とせるなら大人間の頸動脈切ったり指切ったりくらいは余裕でできそうだね
これ、解放軍のモチベが国家独立に対する魂の話なので、その感覚を肌で理解できるかが物語を楽しむうえで重要な要素になってきた感じがする
わかるように例えて言うてみる
今の日本が中国やロシアに占領されて、まあ中国でいいか、中国領日本、って国になり、円はなくなって元になり、国の法や政策は北京で決められるようになったとする
でも、今の日本の治安や生活がそこまで変わったわけでなく、一応は今まで通りに暮らせている、とする
今まで通り暮らせてるんだから何も問題ないし関係ないじゃん、と思うか、日本を日本人の手に取り戻したい、と思うかどうか、って感覚
わかる?
実際占領されたら今まで通りってわけにはいかんでしょ、とか思うかもしれないけど、そこはまあ、そうなっているということで
日本人は国際感覚をあまり持たず個の意識が強い文化があるから、日本という国は同胞の身内、という意識ではなくて、私という個人とその外にある国家、という意識の人多いよね
となると、マイに幸せでいて欲しい、という忍野にどこまで共感できるかって話になるだろうから、ちょっとついていくには弱くなるかもね
急に刻んできた。
「この木なんの木」は5.5/10点、「大きな栗の木の下で」は5/10点と、両曲は情報量において非常に似ており、どちらも比較的シンプルな構成となっています。しかし、「この木なんの木」のわずかに高いスコアは、CMソングとしての独特のコンテキストと、木の成長というテーマがもたらす若干の深さと新奇性によるものです。それでも、両曲とも単純ながらも親しみやすいメッセージを伝える点では共通しています。
GPT4が、大きな栗の木の下での情報量を10点中9点とか抜かすから、
お前それ津軽海峡でも同じこと言えんの?してみた。
### 評価基準
1. **情報の種類**: 4点満点(登場人物、場所、物体、意志・感情)
2. **情報の明確性**: 3点満点(具体的な描写の明確さ)
3. **情報の深さ**: 2点満点(情報が歌のテーマやメッセージにどれだけ貢献しているか)
4. **情報の新奇性**: 1点満点(情報が提供する新奇性や独特の視点)
### 「津軽海峡・冬景色」の点数付け
1. **情報の種類**: 3/4点(場所と時期は具体的だが、登場人物は抽象的)
2. **情報の明確性**: 3/3点(場所と時期、感情が明確に描写されている)
3. **情報の深さ**: 2/2点(場所と時期が伝える感情の深さが豊か)
4. **情報の新奇性**: 1/1点(特定の場所と季節を題材にした情景の描写)
### 「大きな栗の木の下で」の点数付け(改定)
1. **情報の種類**: 2/4点(場所は具体的だが、登場人物や意志は比較的単純)
2. **情報の明確性**: 2/3点(場所は明確だが、物語の背景などは不明瞭)
3. **情報の深さ**: 1/2点(単純な情景の楽しさは伝わるが、深いメッセージは少ない)
4. **情報の新奇性**: 0/1点(日常的な遊びの情景で、特に新奇な視点は提供されない)
現代のAIはモデルって呼ばれてる奴は重みが調整された巨大なデータ構造です。
データ構造は多分ニューラルネット的なやつが一般的なのでは。知らんけど。あ、私素人ですので、あまり真面目に聞かないでください。
そんでこのモデルは入力に応じて出力が変わります。LLMなら猫っていれたら、猫について語りだして猫この特徴や可愛らしさや、猫にまつわる人間の感情についての文章が出力されるだろうし、画像生成なら猫の画像が出てきます。
モデルは多くの場合関数として振る舞うので、出力方向からこの出力結果を入力すると(お尻にバイブを刺すのと一緒です。)元の入力データが復元できます。猫にまつわる説明文を後ろから入力したら「猫」って言葉が出るし、猫の画像を後ろから入力したら「猫」って言葉が取り出せます。
画像認識AIがやっていたことが全く同じことで、画像認識AIと画像生成AIは裏表の関係になっています。
ところで人間の場合は多くの人が、猫を識別できるにも関わらず、猫の絵を描くことが出来ません。
人間の脳は、これらAIが獲得している何かの機能を削ぎ落としているようです。
なんかそのへんが一方向性ハッシュっぽさあるよなーって思った。この辺のアイディアを組み合わせたらなにか、劇的にAIの計算コストを下げれそうよね。
あとは発話とかの人類共通の計算をハードウェアにしてしまうとか、世界モデルのベースをハードウェアに落とし込むとか色々計算効率化はありそうな気がしている。
人力イラストは、目から入ってハッシュ化され脳に記録されたデータ、もしくは頑張ってハッシュを行わずに保存されてるデータからの手を使った画像復元処理って感じだろうか。
アニメとか漫画のイラストとか絵を見るとき脳の効率を使わずに気分良く見れるのは、脳内の削ぎ落とされたデータに近い形での表現だからだろうなって思いました。
こうなってくるとハッシュはいいすぎててたんに情報量を落としたデータだな。
上司が同僚に書類の不備について「これだけでは駄目だ」の指摘の根拠に精神論しか持ちだせておらず、
具体的な改善方法の説明もできずに「ちゃんとしてください」と「もっとこう他にないんですか?」を繰り返していた
「こういう気持ちはないんですか?」
「これができてないってことはこういう気持ちがないんだと思います」
みたいなループに入っていた
私はひどい会話だと思いながらも、同僚に助け船を出す方法が思いつかず、他の仕事を続けていた
上司は書類の説明補足を続ける同僚に最終的に「もっとこうどうしたらいいか自分で考えてくださいよ!」と言っていた
そのあと別の上司にその上司が「昨日も別の件でちゃんとしてくださいって言ったんですよ。○○な点をちゃんとしてほしいのに」と言っているのが聞こえてきた
「ちゃんとしてください」って共通理解を作れていない場だったら、「私に合わせてください」って意味でしかないと思うんだけどな
「私に合わせてよ!私と同じ気持ちなってよ!私に合わせてったら!」と言い換えるのは意地悪過ぎる気もするが、情報量としてはあんまり変わらない気がする
でも同僚が上司と同じ方向を目指すために「この書類の目的は何ですか?」と聞いていたらそれはそれで怒ってそうだとも思う
今まで「ちゃんと」って相手に何も伝わらないからビジネスの場で使っちゃいけないんだろうと考えていた
もしかしたら「ちゃんとしてください」と言うことで仕事をした気になるという効用を感じる人が一部いて、そっちのが周りに悪影響を与えるのかもしれん
言語化できないときに「ちゃんとしてください」を言い、それで相手が反省してその場が収まった場合は、気持ちよさえ感じるのだろう
そのうち考え方さえ「ちゃんとしてほしいだけなのに」と思考を「ちゃんとしてほしい」に乗っ取られてしまうが、
本人は「ちゃんとしてほしい」ばかり使っていて言語化能力が衰え、周囲とのコミュニケーションがうまくいかず、自分の考えをその場での共通理解に育ててルールやシステムに組み込むことができないまま、
「なんでみんなちゃんとしないんだろう。ちゃんとしているのは私だけだ」と思いつつ「ちゃんとしてください」を言い続けるのだ
「ちゃんとしてください」の上司が別の上司に当該書類を見せて、どうしたらいいのかをアドバイスもらっているのも聞こえてきた
そこまで悪い人ではないんだろうけどなと思いつつ、でも自分で依頼した書類の精査と指摘を一人で完結させることはこの人にとって「ちゃんとやる」の範囲に入ってないのかなとも思った
さて、ここまで書いたように「ちゃんと」と言う言葉は聞き手にも本人都合で如何様にも解釈できるため、「ちゃんとしてください」と言っている人をいくらでも悪しざまに書く材料にすらなりえている
「『ちゃんとしてください』って言う人は駄目だな」と言う時点で、理解が不可能なものに対し、自分なりに理解し、善悪の判断をするという悪手をとってしまっているのだ
それは「ちゃんとしてください」と発言する人と「ちゃんとしてください」を自分都合の言葉として扱うという点に置いて、あまり変わらない
「ちゃんとしてください」はただ理解不可能なものだと扱うべきだ
「ちゃんとしてください」は言うべきでないし、解釈すべきでない麻薬みたいな言葉なのだ
ただそれはそれとして、明日出社したら「ちゃんとしてください」の上司は席に座って不機嫌そうにしているのだと思う
きっつい
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/chumatsu/n/nf7465e239c20
このnoteのエントリー自体は個人の感想なので特段言及するつもりはないんだけど、久々にはてブにFF16の話題が上がってたので思わず書きたくなった。
ちなみに私自身はFFシリーズと同い年、11と14も含めてすべてプレイ済み。
さすがにスクエニの大作ということもあり、発売前後はメディアによるレビューもにぎわった。
FF16がリリースされて1年近く経ち、ユーザーの評価も一通り出た感はある。
『ストーリーが浅い』
一理無いとも言えない。
が、私としてはほとんどのレビューや評価において欠けている要素があると感じる。
それはサウンドトラックに関する言及である。FF16は音楽ありき。
とても良いなんてレベルではなく、FF16は音楽がセットとなって評価されてこそ初めてトータルの評価ができると思っている。
思うに、音楽に言及されずに評価されるFF16なんてオペラなのに音楽について語られないも同然。
個人的にはFF16の評価のうち3割は音楽が占めているといってもいいくらい。
ゲームにおける音楽は空気、雰囲気を表現する手段としていまだに最重要要素と思っている。
グラフィックス技術の発達によって視覚情報は情報量がかなり増えたが、
ゲームにおいてディスプレイを超えてプレイヤーが存在している現実空間に直接干渉してくる要素は、いまだに音楽だけなのです。
まぁ私は長いこと音楽をやっているので、平均よりは音楽を過大評価しているかもしれない。
でも、もともとFFはコンポーザー植松伸夫時代から、ほかのゲームと比較しても音楽が評価されてきたことを考えると
音楽の重要性は高いと思いませんか?(デベロッパーにとっても重大事だったと思う)
FF16におけるゲームとの一体感や没入感、プレイ体験への寄与度は桁違いで
今でも名曲が多いとされている植松伸夫時代(ハードウェアの限界もあった)を超えて、ゲーム音楽の一つの到達点だとさえ感じている。
だからこそ、ゲーム音楽コンサートは数あれどこんなユーザー参加型イベントが成立するなんてFFくらいじゃん。
https://www.jp.square-enix.com/music/sem/page/brabraff/portal/
ことFF16はやっぱりサウンドトラックをおまけとしてはとらえたくないんだよな。