はてなキーワード: 情報環境とは
もうしんどい
兵庫県民。選挙権を得てまだ数年。今までの選挙は行けるだけ行っている(正直、うっかり忘れはある すまない でも政治に興味を持つようにしています)
兵庫県知事選にもちゃんといくつもり。選挙演説も通りすがったらちょっぴり聞いてみたりした。できる範囲でではあるけど、情報収集もしている。
でももうしんどい。全ての視点からの意見や情報が、すべて同時に入ってくる。
陰謀論じみた斉藤元知事擁護論やサクラ使ってそうな元知事密着動画?が流れてきて。
気付いたら「斉藤元知事ははめられている」「利権にとって邪魔だから落とされたんだ」みたいな擁護意見が陰謀論では収まらないくらいに増えていて。
かと思えばやっぱり斉藤元知事はパワハラで人を死に追い込んだんだからみたいな話が流れてきて。
そしたら兵庫県の市長何人かの連名で斉藤元知事不支持宣言みたいなのが出て。
ちゃんと選挙に挑もうと思っていろんな意見を見ようとした結果、どの意見も絶妙に信頼できないまま、挙げ句の果てには兵庫県民ではなさそうな人間による「斉藤元知事の批判/擁護意見、間に受けるバカいんの?」みたいな冷笑すら流れてくる。
何これ?
今回事情が事情だから、政策と同じくらい各人の過去の言動にフィーチャーせざるを得ないのはまあ仕方ないとして、もう兵庫県民を超えた紅白合戦みたいになってて、メディアもスクープばかりで
野次馬総動員ですでに斉藤vs稲村みたいな構図でキャッキャしてんのもおかしいし
もう疲れた
どうせインターネットのお前らはさ
結局誰が知事になってもカスみたいな政策とか、裏の黒い交流関係とか、その他諸々知事やってるうちに出た粗を見て
って言うんじゃん
そんな環境の渦中で自分なりの答えを決めたこともないやつが「兵庫県民は冷静に考えて、投票してほしい」なんて言わないでくれ
兵庫県民 頑張ろうね 私は選挙率がクソ低いこの日本で票を投じたというだけで価値があると思うし、お前がお前なりの理由で投じた票を、どんな理由があっても馬鹿にしないよ
もうお願いだから、外野の分際でどっちが正解だとかなんだとか言わず黙っててくれないかな
東浩紀の伝記を書く。ゼロ年代に二十代を過ごした私たちにとって、東浩紀は特別の存在であった。これは今の若い人には分からないであろう。経験していないとネット草創期の興奮はおそらく分からないからである。たしかにその頃は就職状況が悪かったのであるが、それはまた別に、インターネットは楽しかったのであり、インターネットが全てを変えていくだろうという夢があった。ゼロ年代を代表する人物を3人挙げるとすれば、東浩紀、堀江貴文(ホリエモン)、西村博之(ひろゆき)ということになりそうであるが、彼らはネット草創期に大暴れした面々である。今の若い人たちはデジタルネイティブであり、それこそ赤ちゃんの頃からスマホを触っているそうであるが、我々の小さい頃にはスマホはおろか携帯電話すらなかったのである。ファミコンはあったが。今の若い人たちにはネットがない状況など想像もできないだろう。
私は東浩紀の主著は読んでいるものの、書いたものを網羅的に読んでいるというほどではなく、酔っ払い配信もほとんど見ていない。しかし、2ちゃんねる(5ちゃんねる)の東浩紀スレの古参ではあり、ゴシップ的なことはよく知っているつもりである。そういう立場から彼の伝記を書いていきたいと思う。
東浩紀は71年5月9日生まれである。「動ポモ」でも援用されている見田宗介の時代区分だと、虚構の時代のちょうど入り口で生を享けたことになる。國分功一郎は74年、千葉雅也は78年生まれである。國分とはたった3歳しか離れていないが、東が早々にデビューしたために、彼らとはもっと年が離れていると錯覚してしまう。
東は中流家庭に生まれたらしい。三鷹市から横浜市に引っ越した。東には妹がおり、医療従事者らしい(医者ではない)。父親は金沢の出身で、金沢二水高校を出ているそうである(【政治番組】東浩紀×津田大介×夏野剛×三浦瑠麗が「内閣改造」について大盛り上がり!「今の左翼は新左翼。左翼よりバカ!」【真実と幻想と】)。
東は日能研でさっそく頭角を現す。模試で全国一桁にいきなり入った(らしい)。特別栄冠を得た(らしい)。これに比べたら、大学予備校の模試でどうとかいうのは、どうでもいいことであろう。
筑駒(筑波大学附属駒場中学校)に進学する。筑駒在学中の特筆すべきエピソードとしては、おニャン子クラブの高井麻巳子の福井県の実家を訪問したことであろうか。秋元康が結婚したのは高井であり、東の目の高さが分かるであろう。また、東は中学生時代にうる星やつらのファンクラブを立ち上げたが、舐められるのがイヤで年を誤魔化していたところ、それを言い出せずに逃げ出したらしい(5ちゃんねる、東浩紀スレ722の555)。
もう一つエピソードがあって、昭和天皇が死んだときに、記帳に訪れたらしい。
東は東大文一に入学する。文三ではないことに注意されたい。そこで柄谷行人の講演を聞きに行って何か質問をしたところ、後で会おうと言われ、「批評空間」に弱冠21歳でデビューする。「ソルジェニーツィン試論」(1993年4月)である。ソルジェニーツィンなどよく読んでいたなと思うが、新潮文庫のノーベル賞作家を潰していくという読書計画だったらしい。また、残虐記のようなのがけっこう好きで、よく読んでいたというのもある。三里塚闘争についても関心があったようだ。「ハンスが殺されたことが悲劇なのではない。むしろハンスでも誰でもよかったこと、つまりハンスが殺されなかったかも知れないことこそが悲劇なのだ」(「存在論的、郵便的」)という問題意識で書かれている。ルーマン用語でいえば、偶発性(別様であり得ること)の問題であろうか。
東は、教養課程では、佐藤誠三郎のゼミに所属していた。佐藤は村上泰亮、公文俊平とともに「文明としてのイエ社会」(1979年)を出している。共著者のうち公文俊平だけは現在(2024年7月)も存命であるが、ゼロ年代に東は公文とグロコムで同僚となる。「文明としてのイエ社会」は「思想地図」第1号で言及されており、浩瀚な本なので本当に読んだのだろうかと思ったものであるが、佐藤のゼミに所属していたことから、学部時代に読んだのだろう。
東は94年3月に東京大学教養学部教養学科科学史・科学哲学分科を卒業し、同4月に東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻に進学する。修士論文はバフチンで書いたらしい。博士論文ではデリダを扱っている。批評空間に94年から97年にかけて連載したものをまとめたものである。私たちの世代は三読くらいしたものである。博論本「存在論的、郵便的」は98年に出た。浅田彰が「東浩紀との出会いは新鮮な驚きだった。(・・・)その驚きとともに私は『構造と力』がとうとう完全に過去のものとなったことを認めたのである」という帯文を書いていた。
郵便本の内容はウィキペディアの要約が分かりやすく、ツイッターで清水高志が褒めていた。「25年後の東浩紀」(2024年)という本が出て、この本の第3部に、森脇透青と小川歩人による90ページにわたる要約が付いている。森脇は東の後継者と一部で目されている。
東の若いころの友達に阿部和重がいる。阿部はゲンロンの当初からの会員だったらしい。妻の川上未映子は「ゲンロン15」(2023年)に「春に思っていたこと」というエッセイを寄稿している。川上は早稲田文学の市川真人によって見出されたらしく、市川は渡辺直己の直弟子である。市川は鼎談「現代日本の批評」にも参加している。
東は、翻訳家・小鷹信光の娘で、作家のほしおさなえ(1964年生まれ)と結婚した。7歳年上である。不倫だったらしい。98年2月には同棲していたとウィキペディアには書かれていたのであるが、いつのまにか98年に学生結婚と書かれていた。辻田真佐憲によるインタビュー「東浩紀「批評家が中小企業を経営するということ」 アップリンク問題はなぜ起きたか」(2020年)で「それは結婚の年でもあります」と言っており、そこが根拠かもしれないが、明示されているわけではない。
そして娘の汐音ちゃんが生まれる。汐音ちゃんは2005年の6月6日生まれである。ウィキペディアには午後1時半ごろと、生まれた時間まで書かれている。名前はクラナドの「汐」と胎児用聴診器「心音ちゃん」から取ったらしい。ツイッターのアイコンに汐音ちゃんの写真を使っていたものの、フェミに叩かれ、自分の写真に代えた。汐音ちゃんは「よいこのための吾妻ひでお」 (2012年)のカバーを飾っている。「日本科学未来館「世界の終わりのものがたり」展に潜入 "The End of the World - 73 Questions We Must Answer"」(2012年6月9日)では7歳になったばかりの汐音ちゃんが見られる。
96年、コロンビア大学の大学院入試に、柄谷の推薦状があったのにもかかわらず落ちている。フラタニティ的な評価によるものではないかと、どこかで東は推測していた。入試について東はこう言っている。「入試が残酷なのは、それが受験生を合格と不合格に振り分けるからなのではない。ほんとうに残酷なのは、それが、数年にわたって、受験生や家族に対し「おまえの未来は合格か不合格かどちらかだ」と単純な対立を押しつけてくることにあるのだ」(「選択肢は無限である」、「ゆるく考える」所収)。いかにも東らしい発想といえよう。
2 ゼロ年代
東の次の主著は「動物化するポストモダン」で、これは2001年に刊行される。98年から01年という3年の間に、急旋回を遂げたことになる。「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」はその間の論考である。
東はエヴァに嵌っており、「庵野秀明はいかにして八〇年代日本アニメを終わらせたか」(1996年)などのエヴァ論も書いている。その頃に書いたエッセイは「郵便的不安たち」(1999年)に収められた。エヴァ本をデビュー作にすることも考えたらしいが、浅田彰に止められたらしい。だから、サブカル本を出すというのは、最初から頭の中にあったのだろう。
「いま批評の場所はどこにあるのか」(批評空間第Ⅱ期第21号、1999年3月)というシンポジウムを経て、東は批評空間と決裂するが、それについて25年後に次のように総括している。「ぼくが考える哲学が『批評空間』にはないと思ってしまった。でも感情的には移転があるから、「お前はバカだ」と非難されるような状態にならないと関係が切れない」(「25年後の東浩紀」、224-5頁)。
動ポモは10万部くらい売れたらしいが、まさに時代を切り拓く書物であった。10万部というのは大した部数ではないようにも思われるかもしれないが、ここから「動ポモ論壇」が立ち上がったのであり、観客の数としては10万もいれば十分なのであろう。動ポモはフェミニストには評判が悪いようである。北村紗衣も東のことが嫌いらしい。動ポモは英訳されている(Otaku: Japan's Database Animals, Univ Of Minnesota Press. 2009)。「一般意志2.0」「観光客の哲学」も英訳されているが、アマゾンのglobal ratingsの数は動ポモが60、「一般意志2.0」が4つ、「観光客の哲学」が3つと動ポモが圧倒的である(2024年8月3日閲覧)。動ポモは海外の論文でもよく引用されているらしい。
次の主著である「ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2」までは6年空き、2007年に出た。この間、東は「情報自由論」も書いていたが、監視を否定する立場から肯定する立場へと、途中で考えが変わったこともあり、単著としては出さず、「サイバースペース」と抱き合わせで、同じく2007年に発売される(「情報環境論集―東浩紀コレクションS」)。「サイバースペース」は「東浩紀アーカイブス2」(2011年)として文庫化されるが、「情報自由論」はここでしか読めない。「サイバースペース」と「情報自由論」はどちらも評価が高く、この頃の東は多作であった。
この頃は北田暁大と仲が良かった。北田は東と同じく1971年生まれである。東と北田は、2008年から2010年にかけて「思想地図」を共編でNHK出版から出すが、3号あたりで方針が合わなくなり、5号で終わる。北田は「思想地図β」1号(2010年)の鼎談には出てきたものの、今はもう交流はないようである。北田はかつてツイッターで活発に活動していたが、今はやっていない。ユミソンという人(本名らしい)からセクハラを告発されたこともあるが、不発に終わったようである。結婚して子供もできて幸せらしい。
その頃は2ちゃんねるがネットの中心であったが、北田は「嗤う日本の「ナショナリズム」」(2006年)で2ちゃんを俎上に載せている。北田は「広告都市・東京」(2002年)で「つながりの社会性」という概念を出していたが、コミュニケーションの中身よりも、コミュニケーションが接続していくことに意味があるというような事態を表していた。この概念を応用し、2ちゃんでは際どいことが言われているが、それはネタなので心配しなくていいというようなことが書かれていた。2ちゃん分析の古典ではある。
東は宮台真司や大澤真幸とも付き合っているが、彼らは北田のように鋭くゼロ年代を観察したというわけではなく、先行文献の著者である。宮台は98年にフィールドワークを止めてからは、研究者というよりは評論家になってしまった。大澤は日本のジジェクと称されるが、何を論じても同じなのもジジェクと同様である。動ポモは彼らの議論を整理して更新しているのであるが、動ポモも「ゲーム的リアリズムの誕生」も、実際に下敷きになっているのは大塚英志であろう。
宮台や大澤や北田はいずれもルーマン派であるが、ルーマンっぽいことを言っているだけという印象で、東とルーマンも似ているところもあるというくらいだろう。しかし、ルーマン研究者の馬場靖雄(2021年に逝去)は批評空間に連載されていた頃から「存在論的、郵便的」に注目しており、早くも論文「正義の門前」(1996)で言及していた。最初期の言及ではないだろうか。主著「ルーマンの社会理論」(2001)には東は出てこないが、主著と同年刊の編著「反=理論のアクチュアリティー」(2001)所収の「二つの批評、二つの「社会」」ではルーマンと東が並べて論じられている。
佐々木敦「ニッポンの思想」(2009年)によると、ゼロ年代の思想は東の「ひとり勝ち」であった。額縁批評などと揶揄される佐々木ではあるが、堅実にまとまっている。類書としては、仲正昌樹「集中講義!日本の現代思想 ポストモダンとは何だったのか」 (2006)や本上まもる「 “ポストモダン”とは何だったのか―1983‐2007」 (2007)があったが、仲正は今でも読まれているようである。本上は忘れられているのではないか。この手の本はこれ以後出ていない。需要がないのだろうか。
佐々木の「ひとり勝ち」判定であるが、そもそもゼロ年代の思想の土俵を作ったのは動ポモであり、そこで東が勝つというのは当たり前のことであった。いわゆる東チルドレンは東の手のひらで踊っていただけなのかもしれない。懐かしい人たちではある。
北田によると、東の「情報技術と公共性をめぐる近年の議論」は、「批評が、社会科学的な知――局所から全体を推測する手続きを重視する言説群――を媒介せずに、技術、工学的知と直結した形で存在する可能性の模索である」(「社会の批評Introduction」、「思想地図vol.5」、81-2頁)ということであるが、ゼロ年代の東はこういう道を歩んでいた。キットラーに似ており、東チルドレンでは濱野智史がこの道を歩んだのであるが、東チルドレンが全てそうだったわけでもなく、社会学でサブカルを語るというような緩い営みに終始していた。宇野常寛などはまさにこれであろう。
佐々木「ニッポンの思想」と同じ2009年7月に、毛利嘉孝「ストリートの思想」が出ている。文化左翼の歴史をたどっているのであるが、この頃はまだ大人しかった。ポスコロ・カルスタなどと揶揄されていた。しかし、テン年代(佐々木の命名)から勢いが増していき、今や大学、メディア、大企業、裁判所を押さえるに至っている。しかし、ゼロ年代において、動ポモ論壇と比較できるのは、非モテ論壇やロスジェネ論壇であろう。
非モテ論壇は、小谷野敦の「もてない男」 (1999年)に始まり、本田透に引き継がれるが、ものすごく盛り上がっているというほどでもなかった。本田は消息が分からなくなり、小谷野も2017年頃から売れなくなった。ツイッターでは雁琳のような第三波フェミニズムに応対できる論者が主流となっているが、そういうのの影に隠れたかたちであろう。大場博幸「非モテ独身男性をめぐる言説史とその社会的包摂」(2021年、教育學 Permalink | 記事への反応(13) | 17:44
家庭の中に潜む見えない脅威、そう、それが「弱者男性」です。最近では、タンスの裏や家具の隙間など、思いもよらない場所で彼らが巣を作っているケースが増えています。今回は、そんな厄介な侵入者「弱者男性」の生態と効果的な駆除方法についてご紹介します。
まずは、弱者男性の基本的な生態について理解を深めましょう。駆除を成功させるためには、彼らがどのように生活し、どのような習性を持っているかを知ることが重要です。
暗くて狭い場所を好みます。タンスの裏や押し入れ、ベッドの下など、人目につかない場所に潜みがちです。
主に夜行性です。昼間は隠れ、夜になると活発に動き出し、ネット上での活動を行うことが多いです。
ジャンクフードやエナジードリンクなど、手軽に摂取できる高カロリー食品を好みます。これにより、ゴミ箱の周りに出没することもあります。
集団行動を好みますが、孤立していることが多いです。ネット上で仲間を探し、共通の話題で盛り上がることが彼らのコミュニケーション手段です。
比較的高い繁殖力を持ち、短期間で数を増やすことができるため、早期の発見と対策が必要です。
成体の弱者男性を駆除するためには、以下のステップを踏むことが有効です。
まずは、彼らの存在を確認することから始めます。彼らは暗く狭い場所に潜むため、タンスの裏やベッドの下などをしっかりとチェックします。もし見つけた場合は、静かに近づいて捕獲する準備をしましょう。
弱者男性は心理的に不安定な部分があるため、周囲からの無視や孤立を嫌います。具体的には、彼らの好むSNSやオンラインゲームを一時的に遮断することが効果的です。これにより、自発的にその場を離れることを促すことができます。
「日本弱者男性製薬」では、弱者男性専用の駆除剤を開発しています。「メンタルブレーカー™」は、彼らに不快感を与える成分を配合しており、巣の周辺に散布することで、効果的に駆除を促します。
彼らは強い光や大音量に弱い傾向があります。家庭用のライトや音響設備を使って、彼らの居場所を攻撃し、退散を促しましょう。
弱者男性の繁殖を防ぐためには、卵の段階での駆除が重要です。以下に具体的な方法を示します。
卵は非常に小さく、まとまって見つかることが多いです。まずは、巣を発見したらその周囲を調査し、卵の存在を確認します。確認後、巣を解体し、卵を露出させます。
卵は高温に弱い特性があります。スチームクリーナーやドライヤーを使って、卵が潜む場所を徹底的に加熱します。
「エッグデストロイヤー™」を使用し、卵の細胞を破壊します。この製品は、卵の殻を効果的に破壊し、駆除を促進します。
卵が孵化しにくい環境を作ることも重要です。部屋の湿度を下げ、定期的に清掃することで、彼らの繁殖を防ぐことができます。
一度駆除に成功しても、再発を防ぐための対策が必要です。以下に、弱者男性の再侵入を防ぐための予防策を示します。
定期的な清掃と整理整頓が、彼らの潜む場所を無くすための基本です。特に暗く狭い場所を清潔に保つことが重要です。
彼らの好むオンライン環境を家族で共有し、彼らが孤立しないように環境を整えることが大切です。家族全員でのコミュニケーションを重視しましょう。
定期的に家の中をチェックし、異変を感じたら早期に対応します。専用の監視カメラを設置することで、彼らの侵入を未然に防ぐことが可能です。
弱者男性の駆除には、物理的な対策と心理的な対策の両方が必要です。彼らの生態を理解し、適切な方法を用いることで、効果的に駆除し、再発を防ぐことができます。
「日本弱者男性製薬」は、これらの製品と対策を通じて、安心・安全な家庭環境の実現をサポートします。家庭内での弱者男性の侵入を防ぎ、快適な生活を手に入れましょう。
俺は95年生まれだが、中学時代前後の自分のネット環境を振り返ると、まだまだ制約が多かったように思う。
これは大いに個人差があると思うが、俺の場合、高2で自分のパソコンを貰えるまでネットは親と共用だった。
学校の友達の影響で中2でオタク文化に触れるようになったものの、そのような環境では厳しいものがあった。
ちなみに自分の部屋にテレビもなく深夜アニメは共用のレコーダーで録画するしかなかった(結構恥ずかしかった)。
制約された環境のなかで何を見ていたかというと、アニメの公式サイトや2chまとめサイト、youtubeやエロサイトだ。
2chまとめはアニメ系の「今日もやられやく」、youtubeは東方の音MADやおもしろフラッシュ系(スネ夫探偵事務所とか)。エロサイトは外人のヌードサイトや「裏アゲサゲ」とか見てたかな。親のいない昼間~夕方にかけてこっそり見るのが楽しみだった。
本家2chは怖いイメージがあったから近寄らなかったし、ニコニコも登録が必要だったから見なかった。エロサイトも深くは入り込まなかった。そんなだから割れやゲーム改造もやらなかった。親のパソコンということもあって、割と無難な感じのサイトしか見てなかったと思う。
俺は兄貴もいなかったし学校の友達も少なかったから同世代のオタクと比べて知識は乏しかったはずだ。
のちに自分のネット環境を手に入れて、同世代のオタクたちの姿が見えてくると、自分との情報環境の差にびっくりする。
中学生、早けりゃ小学生から2chに書き込んだり、ニコニコに動画上げたり生主やったり、割れや改造をしたりと、明らかに文化資本の差を感じた。
こういう奴らは上に兄弟がいたり、子供のころからパソコンや携帯を買い与えられていたのだろう。
今でこそ、ネットは万人が当たり前のように使っているが、俺の時代ではまだ居間や学校でしか使えない連中もいたのだ。
豊かな情報環境にいる今の小中学生たちは昔よりもオタク文化資本が豊富だと思う。
ただ、俺は制約の多かった環境で不自由をしたから今の若い奴らが羨ましく思う一方で、ネットとリアルの境界が取り払われ、常にネットの世界に身を置いていなければならない「逃げ場のない」社会で人格形成期を過ごさずに済んでよかったとも思う。
俺よりもう2,3個下になると小中学生でネットに触れるのが当たり前の世代だろうから、95年生まれの子供時代はインターネットが世界を覆う過渡期だったんじゃないか。
なんだか絶賛的な評価が多いみたいようだが、社会学は門外漢だけに、個人的にはモヤモヤが残った。
前回は上野千鶴子や吉見俊哉、大澤真幸などが全体の監修者で、巻数も26あったと記憶しています。各巻のタイトルも凝ったものが多かった。執筆者も社会学プロパーだけでなく、竹田青嗣などの周辺領域の方が入っていました。文体や内容も派手で、自由で、雑多で、それほど社会学とは関係のないものもたくさんありました。もちろんそれだけではなく、当時の最先端の社会学的な議論をしている論文もたくさんあって、たとえば落合恵美子が実証的な観点から上野千鶴子を強く批判する論文なども収録されていたのですが。
そのころから比べると、社会学も大きく変わりました。どちらかといえば、より地味な、地道な、実証的なスタイルで調査研究をおこなう社会学が求められるようになったのです。今回の『岩波講座 社会学』では、そうした社会学者が中心となって執筆します。特定の対象と特定の問題に、特定の理論と特定の方法を携えて実直に調査研究を続けるような、そんな社会学者たちはこれまでたくさんいたし、いまもたくさんいます。いま、この社会にとってほんとうに必要なのは、「職人的」な社会学者なのです。
要するに、この講座のシリーズ全体でおこなうのは、社会学そのものの再定義です。もっといえば、これは「本来の社会学」へと立ち戻ろうとする試みです。社会学者は、大風呂敷を広げた預言者であってはならない。私はすでに、2018年に有斐閣から出版された『社会学はどこから来てどこへ行くのか』という対談集で、そのような趣旨のことを述べています。
まずここで説明されるべきは、「地味な、地道な、実証的なスタイルで調査研究をおこなう社会学が求められるようになった」理由であり、そしてかつてはそうしたものが忌避(あるいは小馬鹿に)されていた理由である。例えば、社会学という学問の発展の結果なのか、社会経済的な環境の変化や取り組むべき新たな社会問題の登場の影響なのか、社会科学研究全体のトレンドの変化の影響なのかが、きちんと説明されるべきである。上の文章はそうした説明が一切なく、以前の社会学は中身がからっぽだったが、自分たちが「地味な、地道な、実証的な」ものに改善したという、それこそ中身が空っぽなことを言っているだけに過ぎない。
「社会学者は、大風呂敷を広げた預言者であってはならない」というのも、別に社会学に限ったことではない。具体的には見田宗介や宮台真司のことを言っているだろうが、30年以上前には「大風呂敷を広げた預言者」は、哲学者の浅田彰など、社会学以外にも数多く存在していた。現在だと斎藤幸平や成田悠輔の名前が「現代の預言者」として思い浮かぶが、彼らは経済学者である。社会学者で思い浮かぶ名前はもういない(古市は軽薄ではあるが預言者的では全くない)。
そもそも、「地味な、地道な、実証的な」をくどいほど強調している点で、おそらくはSNS上の社会学バッシングを気にして怯えるばかりの、自分たちの中身のなさを暴露している感じがする。本当に「地味な、地道な、実証的な」人は、そんなことは口が裂けても言わない。ネット上の悪口など意に介さず、自分の研究にコツコツと取り組むだけだ。「大風呂敷を広げた預言者」についても、そうした人がなぜ必要とされるのかの現代的な状況について丁寧に分析・説明するだろう。
そして後半は、紙の本との出会いが大事だというノスタルジックな感情論に終始している。もちろん世代的に共感できなくはないが、30年前からの情報環境の劇的な変化と今回のシリーズの編集方針との関係について、社会学者として何か分析的な議論があるべきだろう。
細かいところだが、「巻数も26あったと記憶しています」って、なんですぐ調べないのだろうか。「地味な、地道な、実証的なスタイル」な人は、そういうところから絶対に手間暇を惜しまない。そもそも、岸氏はネット上の発言しか知らないのだが、それらを読む限り、経済政策論にも安易に口を挟んだりなど、「地味な、地道な、実証的なスタイル」の人には全く見えない。
あなたの意見には、特定のインターネットコミュニティやニュースの質に対する批判が表れています。これらの感情や意見は、一部のオンラインコミュニティがどのように機能し、情報が伝播するかに対する懸念を反映しているものと理解できます。
オンラインコミュニティは多様であり、それぞれが異なる特性や質を持っています。一部のコミュニティでは、特定のテーマに特化した専門的な議論が行われている一方で、他のコミュニティでは偏見や攻撃性が蔓延していることもあります。これはそのコミュニティの運営やメンバーの個人的な態度に依存するものであり、一概にすべてのオンラインコミュニティが同じとは言えません。
ニュースや情報を選ぶ際には、信頼できるソースやバランスの取れた情報を選ぶことが重要です。また、批判的思考や情報の裏付けを求める態度が大切です。自身の意見を形成する際には、多様な視点から情報を収集することが重要です。
最終的に、どのコミュニティや情報源を利用するかは個人の自由であり、それぞれの人が自分に合った情報環境を選択することが重要です。
0431 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイ bf0d-WYaM)
2023/07/12(水) 13:29:03.08 ID:7BxJkS630
7月10日、スクリプトが攻撃した2つのIPスレのうちホスト名ac.jpとco.jpのレスを調べた2
(A)来いよスクリプト!匿名性なんか捨ててかかってこい greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1688914767/ 2023/07/10 05:42
(B)【朗報】スクリプト、遂に本気を超えてとんでもない速度で埋め始める greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1688909898/ 2023/07/10 05:46
133.3.201.92 nat-uge.kuins.kyoto-u.ac.jp 京都大学情報環境機構 (A)179と(B)862
150.59.26.24 graphene.ee.tokushima-u.ac.jp 徳島大学 (A)649
165.93.124.84 dhcp124-84.lab124.tuat.ac.jp 東京農工大学 (B)781
192.244.254.254 emu.kobe-kosen.ac.jp 神戸高専 (B)785
202.251.0.2 2.0.251.202.ctie.co.jp 株式会社建設技術研究所 (A)609
ここ2年ほど?定期的に5chに大規模なスクリプト爆撃が仕掛けられてグロ画像や意味不明な文字列が大量に投稿されるなどの被害が発生している
例)男性は右利きが多く 女性は左利きが多い:あくまで例なので適当に出しただけの題
男女100000億万人のデータを集計して多いのがわかりました
男女 - 利き手 (これが真なら統計データとしてもそうかと思うが こんなアホな直結する人はいないと思う
男女 - 生活環境 - 生育環境 - 情報環境 - 交友関係 - 趣味趣向での文化体験 - 信仰 - 直接接触する機材 - 場面の遭遇率 - その他もろもろ - 利き手
これを目にあざかやに
としたところでアホさはかわらないだろう
ただ局面的におもしろかったり 納得したり話題になったりすることはあるしそういうネタが多いのもたしかだろう
ただネットで全世界に平等に平均としてみたいな領域で原文ママがくるからそれはでかすぎと発言する人間にも出会う
特定の利き手の特定の性別についてより多くの可能性を獲得したい場合においてそのビッグデータは使いようがあるかもしれない
(しかし話し手の多くはその利き手話をする局面で利き手話をしようとする人間に必要なのは「利き手」の話題であって男女や統計や傾向またそれらに含まれる背景情報全体がかかわってくることなど気が付かないだろう)
なにが原因で「利き手」が発生するのか そしてその条件が男女の差で特定の1点ないしは数点にあるとするなら
特定の事例の数量を男女差ではかる 利き手ではかるという方法において現状の把握と過去データの積み重ねで現状をしったり可能性をはかったり計画をたてたりできる
1)「その話でなにがいいたい 現状を知ったり可能性をはかったり計画をしたいのはなにか」について
2)どの点を境界としておくか
3)その点を分岐させるに関係する要素と 分岐を必要とする環境について
これについて聞いた人が 話してる人に対して「そうじゃない場合もあるんじゃないの?」という余地がないものまたはできるかぎり少ないものは「主語がでかくならない」になる
たとえば
(台所にアリの巣観察セットを置いている人で蟻に感情移入している人間については反論の余地を残すが「面倒をみないといけない(可愛がっている)」を含めていたと言い換えることで余地をなくすこともできるが)
はだいぶ広い範囲まで出しても「主語がでかい」とは言われにくくなる
ただし地球環境について全生物を通して考える人がそれを聞いたら「主語でかすぎ 蟻を全否定するようなことは言わないでほしい」となる可能性はないとは言えない
例)男性は右利きが多く 女性は左利きが多い:あくまで例なので適当に出しただけの題
これについてネット上で男女時間地域年齢その他関係なくばらまけば そうはおもっていない人類から「そうじゃないだろ」「実際そうじゃない」「そうだと決めつけるのは”主語が大きすぎ”」だといわれるが
仮に女性だけに人気のブランドのバッグがあったとして自動改札を出るときIC定期券を使用していて収納ケースごしにタッチする使い方をしている人が多くいる環境において
「あのカバン左利きにはやさしくないよね ”女性は左利き多い”っていうのに」という不満を言うときには 主語がでかすぎ問題は提起されない
関連性については一目して一貫性がありそれにふさわしく(それ以上の理由や定期券以外の事例については言及しない) またぶっちゃけお前の話などどうでもいい からである
左利きが自分か 自分のもってるカバンがそのブランドか それらについて価値観の言及が話ししている相手に直接関与しないか を踏まえてさえいれば問題が発生するどころか気にする話など含まない文章だ
わざわざ挙げられた話題について 大きく判断基準を自分でもってる個人が 自分のおもってる境界線の引き方を みさかいない相手にむけてすると
話す相手と場面によってはなんでもでかすぎになるだろう
一言で言えばデジタル・ディバイドの話で、結論もタイトルどおりだ。
でも気付いてしまった。
この格差は、去年よりも今年、今年よりも来年、より広がるんだな。
俺らが今後生きそうな数十年の間、ずっと拡大し続ける。
勘違いしがちな点はきっとここだ。
こう考えていないだろうか?
→だからみんな賢くなっている
でもこうではないか。
→だからみんな賢くなっている
→情弱・情強の2通りではなく、時間が進む限り、指数関数的に延々と拡大する(!)
時間で青天井に言っている理由は、情報が氾濫して、まだ50年も経ってない→世代を経てないから。
同級生と比べる発想で具体的に考えると。
ぐんぐん育つやつと、不勉強なやつ。
どちらも伸びていくのだが、伸び方が違う。学生を終えても死ぬまで伸び方が違う。
そんな二人の間の、ITな情報環境における、50-80年くらい掛けて広がる格差。
それが差の最大値。
ITの以降の最初の世代がまだ生きているし、どこまで広がるかはこれから。
さらに、"デジタルネイティブ"と言われた世代が寿命を迎える頃に、ほんとの開きがハッキリする。
二個人に差が開く理屈は、何千年前からずっとそうだったんだろうな。
タイトル程度にさらっと思ってたが、、、具体的に想像していなかった。
そもそもデジタル・ディバイドとはこういう意味なのかもしれんが、
俺はわかってなかったから、半端ねえなと震えている。
すなわち世界から肌の色による差別がなくなるならそれは偉大な業績じゃないか。
実際Googleはアフリカを始めとする新興国に気球を使ったネット回線を提供するプロジェクトを行っていたりするしね。
Android OneやChromebookといった安価な端末の取り組みもそうだし、世界から情報環境の格差をなくそうとしている。
それは透明性を示唆する表現でもあり、オープンプラットフォームやオープンソース戦略にも現れている。
閉鎖的なA社や支配的なA社との大きな違いだ。
世界中のインターネットに強い影響力をもつこの大企業が、健全なオープンマインドを標榜していることは、
高度な情報化によって世界がディストピアと化し破滅することに対する強い抑止力となっている事だろう。
え?
近頃盛んに聞くのが「読解力」という言葉である。いわく、今の時代読解力は大事だよと。
翻ってネットでは相手の読解力を非難する声が多く聞かれる。これに不自然さを感じる向きも多いであろう。
そもそも以前から「読解力VS文章力」とも言うべき対立は存在した。「お前の文章下手すぎ。日本語でおk」
「いやお前の読解力がなさすぎ。日本人か?」などという実にくだらない争いがちょっと油断すると勃発するのが近年のネット社会である。
しかし、私に言わせればそんな対立など時代遅れも甚だしい。時代に取り残された過去の遺物である。
私見では読解力という言葉は近年ますます意味をなさなくなっているのではないかと思うのである。
それは読解力を測定しようとすると文章力の問題が切っても切り離せないからというのもあるが、そもそも読解できるのは
文章の前提知識の有無に大きく依存する。しかるに、万人にフェアな読解力の測定など土台困難というものだ。
そうなのだ。所詮は、読解力などというものは通俗的な用語にすぎないのだ。そもそも、読解力よりも一般化した概念
である「頭の良さ」というのも甚だ曖昧な概念であることが、昨今の知能研究で具体的に明らかになりつつある。
世間でいわれる頭の良さとは、常識的シチュエーションで常識的な反応を返せるか、そのことを言っているに過ぎない。
「数学の難しい問題を解く」といった常識外のシチュエーションなど関係ない。数学のできる奴なんかよりは、
算数の暗算ができる奴のほうが余程「すごーい」と女の子から賞賛される。それが悲しい現実なのだ。
所詮はそういう常識的な観点から頭の良さが判定されているにすぎない。これを「ファッション知性」という。
読解力も同じことで、「ファッション読解力」が世間では試されているにすぎない。いや世間だけではない。
学問の世界での読解力も、また学問の世界での常識というものがあり、それを満たしているかで判断される。
決して学問という高尚な世界だから、読解力も高尚に測定されるというわけではない。これを常識の相対性ということができる。
しかし、幸いなことに、文化相対主義なんて古めかしい理論を引っ張ってくるまでもなく、
常識は相対的だというのは我々の新たな常識となりつつある。これも時代の流れというものだろうか。
LINEを始めとする新時代のコミュニケーションツールは、我々の情報環境に新たな複雑さを付け加えた。
結果、若い世代の人間ほど複雑に入り組んだ人間関係の中で、うまく常識を使い分けてやっていく術を
身につけている、という奇妙な逆転現象が生じ始めている。新世界において読解力は所詮それぞれの
コミュニティに応じた空気を読めるかという能力に過ぎないことが理解されるようになった。
新世界では、自分の所属しているコミュニティの空気を一通り理解できるだけでなく、所属コミュニティ
がどんどん流動していくので、その都度新たに加入したコミュニティの空気を読めることが求められる。
http://d.hatena.ne.jp/shi3z/20130124/1359002886
自分の家でも小1のある日に父がNECのPCを買ってくるということが、そういえばあった。
うちは共働き共稼ぎだったので、父がそれを母に相談することなく独断で買ってきたことは激しい喧嘩を巻き起こし、自分はその時に初めて泣いている母の姿を見ることになった。
そういえばそうだった。今思い出した。
父は当時に「PCスゴイらしい」という情報に接するくらいのことはあっても、使いこなす様な情報環境は持っていなかったらしい。
その後何度かフライトシムを起動したのち、PCは高い置物として放置された。
お高いおもちゃであるそれに自分ら子供たちが単独で触れることは固く禁じられた。
そんな記憶。
普段他人と比較して自分が云々とかはまずないんだが、珍しくヒットしたこれはなんか吐き出さないと
もやもや残りそうなので、文章にして吐き出してすっきりしてから寝ることにする。
おやすみなさい。
いや別に真面目な話がしたいとかではないんだけどね。硬いタイトルにしたけども要するに「今って幼少期の環境で自分の人生大きく左右されちゃう時代だよなあ」っていうのを最近強く思ったんだ。
要するに今って「高度情報社会」じゃなんですよね。こういう書き方するとほんと胡散臭く見えてははは、ってかんじなんだけれども。でもそれはどうしようもないほど真理なわけであって。ドラッカーなんか引くまでもなく、現代は知識労働者が引っ張っていく時代になっていくし、それはもう始まっている。そしてそれらに乗れている人間とそうでない人間の差は顕在化し始めていて、僕らはそれに対して「デジタル・ディバイド」という名前が付いているのを教科書で目の当たりにした。
田舎からきたんですよ。それもすごい田舎から。親は中小の企業を営んでて、某大手の下請けやってたんだけども、不況の煽り受けて受注減ってどうしようもなくなったみたいで仕事を畳むことになった。
初めて東京にきたときは地元との彼我の差にしばし佇んで、なんともいわれぬ感情に微睡んだ。人も、金も、そして情報も何もがこの都市において集積して、そしてすごい速さで回っているのを感じた。
こっちの人間と付き合うようになって最初に驚いたのはネットスラングの氾濫だったかもしれない。主ににちゃん発のワードが並んでいる中で、wwwが沢山並んでいたんだけども全く自分のなかで意味を為さなかったのを鮮明に覚えている。中高時代にコンピュータなんて殆ど触らなかった。オタクの持ち物だと思われていたし。その距離が遠ければ遠いほど、リアルで権勢を誇ったカーストの上位層とは仲良く出来るような気がした。
こっちにきて育ちがいいような、毛並みのいい連中と話してて思ったのは、そういう奴らって親からしっかりと人生訓みたいなものを受け取りながら、親の書庫を眺めて好きな本を手にとってはそれを自分の書庫にもしまっているんだなあというのを感じた。教育格差の再生産として論壇でしばしば指摘される実情が、それはもう如実にこの先進国日本で広がっていて、波に乗った人間とそうでない人達の生活様式、行動様式が全く異なったものになろうとしている。自分の親なんて家に書庫も無ければ、インターネットなんて普段使わないから、なんて言って最近契約を切ってしまった始末だ。
あの時、そのことを知り得たら、その情報に触れられたら、自分の行動を変えられたかもしれないのに。
そういった環境に生まれ育つ中で、インフラとしてのブックオフみたいなものって田畑に囲まれた自分の街には無かったし、再販価格制に守られた書籍の価格は結構に高くて、当時子供だった自分が手を伸ばしても届きそうには無いくらい高いところに陳列されていたように思えた。どんなにそれが目の前に平積みにされていても。自分には手を伸ばしても届くことはなかった。
インターネットは時代性も多少合ったけれども、家族内で共有されているその利便性というものは終に自覚されることもなく、単なる断線した箱になって、今はひっそりと部屋の隅に隠れている。
今さら怨嗟の赴くままに自分の歩んだ轍を見て、その不備を詰ってみるなんてあまりに非生産的なんだろうと思う。ただ、ここまで20余年生きてきた中で大きく社会は変わろうとしつつあるし、それに対する適応の可否によって自分の今後見ることになる風景というものが大きく変わることになるのは火を見るより明らかなんだ。
もし自分に子供ができたときは、めいっぱいの書庫に、パソコンだとかの情報環境を、これ以上不可能なほどに整備して、この情報の海を自由に泳げるような環境を準備していあげたいと心から思う。
『Googlezon EPIC2014』やisedのような議論が最近見かけなくなって、今のみんなはどんなことを考えているのかちょっと知りたい。
ついでに自分が考えているものを出しておくので意見をもらえれば幸い。
検索ワードを知らなければ知ることができないネットの状況を変えるためには必要。mixiで興味のあるコミュニティに入ったり、twitterで同じ関心のあるクラスタに入ったりと、自分なりの情報環境を整えるのに、労力と時間が必要だ。
これがもっと手軽になればと思う。
「小学生がネット使うな」と言われるけれど、いつかは使うことになる。それなら小さいときにネットの使い方を学べるような仕組みを作ったらどうだろう。我々ネットの住人が次の世代を育てるために用意するのは悪くないと思う。
偏った考えに染まってしまうからネットを使うのはダメだ、というなら、違った見方もあるというのを知らせたらいい。
これだけ多くの人がネットを使っているのだから、東大の学際なんて目じゃないだろ?東大に入らなくても今の東大の教育水準までやる気があるやつならできるようにすればいい。
あとあったらいいなと思っているのは、誰かが採点してくれるシステム。ニコニコやyoutubeで発表の場はできたけれども、その人にあった助言をしてくれるところは少ないと思う。リアルでも習い事が沢山あるのだから、ネットでもそれができれば嬉しい。動画を撮影するときのテクニックや編集で気をつけることなんて手探りだしね。
とりあえずの目標としてプログラマの人がプログラミング関係の本を購入しなくても、コンピュータ上ですべて終わるような仕組みを作ったらどうだろう。分かり易いように編集したものへの価値は十分理解できるけど、まずはプログラマの人が紙から離れることができないと、一般の人には難しい。
リアルで本を読むときにはペンを持って線を引いたり、図でまとめてみたりしながら文章構造を理解して読んでいける。ブラウザだとそれができない。ブックマークされた記事を読むのも大変。誤読もある。
早く記事を読めるようにするために、文章構造まで共有するのはどうだろう?
どういった構造で読んだのかがわかれば、重要な箇所が抜けてると指摘をすることもできるし、他の人のを見て、どんな読み方をしているのかも分かる。
スーパーコンピュータが事業仕分けになる話が出たときに思ったのだけど、科学者がこんな研究がしたいとプレゼンができ、その技術が将来有望だと思えたなら個人献金を行える場を作ったらどうだろう?
特許はどうするんだ?みたいな反論はあるだろうけれど、子供にも科学に興味を持ってもらえる、いや、むしろ大人に興味を持ってもらえるような場所があったらいいと思う。
とりあえず思いつくままに書いてみたけど、どうだろう?ネットは暇人のための物と言われ続けるのは癪だし、大きな知の塔を立ててみるのも悪くないと思う。小学生がDSで電車の中で遊ぶのに飽きたら、電車のマニアックな構造や歴史を簡単に見つけられるような、ネットにつなげるだけで新しいことを知る喜びを感じられる、そんな世界が5年後にくればいいなぁ。
あなたの言うことも分かるし、現実でマジをネタとすり替えるのが痛いことも分かるけど、
ネット上のメタ遊びと現実のイカサマ野郎を自分の中で同一視覚だと思う。メタ遊びについてもうちょい構造的な認識力を深めた方がいい。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4757102453/lisplove-22/ref=nosim/
ニコニコ動画とAR(現実拡張)技術が可能にする「ニコニコ現実」という未来
http://japan.cnet.com/column/pers/story/0,2000055923,20370895,00.htm
まあやるっちゃやるんだろうな誰かが当然こういうネタは実証というかなんというかそういう方向の模索を
2007/05/15
人の一生の映像を記録、必要な時に望みのシーンを
人は誰でも1冊の本を書けるという。自らの生涯にスポットを当てた自分史である。そうはいっても、直近の出来事ならまだしも、幼いころのこととなると、写真を見ても思い起こせるかどうか、はなはだ心もとない。この夢を叶える、強い味方となる技術が出番を待っている。人の一生分の映像を記録し、膨大な情報の中から、印象深いシーンを自由にピックアップすることができそうなのだ。電子情報学専攻の相澤教授は、“ライフログ”というキーワードを手がかりに実現を目指している。
追記