はてなキーワード: ももちとは
人間には許したくても許せない時ってあるじゃないですか。恋人の浮気とか。まあ体験したことないんですけど。なぜなら恋愛しない体質なので。
そんなAロマ喪女の私ですが、「推し」というのは存在しています。推し。どういうジャンルの人かは言わないんですがフェイクかけるのが上手じゃないんで察しても心の中に留めていただけるとありがたい。でも若手の人です。私はざっくり三推しくらいまでいて、それなりにお金を使ったりしていました。今日はその、三推しの人にお金を使うのをやめてしまった話をします。
私は割と人柄に惚れることが多くて、しかも割と面倒くさい人を好きになることが多かったんですけど、その人も御多分にもれずちょっと面倒くさい人柄をお持ちでした。
でもそんなところが好きだったんです。面倒くさいって要するにこだわりが強いってことで、私はそのこだわるポイントが人間的に尊敬できる、自分にはない高潔さを持っているようで、そこを愛していました。
もちろん、私とは考えの違うことも多かったです。それはどうかと思うよ、という言動ももちろんありました。でも、当たり前みたいに違う人間なんだから、私が頷けるようなことばかりするわけではないのは当然です。その人にはその人なりの考えがきちんとあるのをわかっていたから、彼がそう考えるんだったら仕方ないよね、と思って応援してきました。
ただ、それでも許したくても許せない時って来るんですね。浮気ではないけど。
私はとある出来事に対する彼の対応の何もかもがどうしても許せなくて、10月末、彼の有料ブログの購読を解除しました。
一緒に応援していた友人にはまだ言えてないです。友人はその出来事に対して、彼は悪くないと言っていて、けれど私は、彼は悪くないとはどうしても思えなかった。私は彼のことを、そういうときにだめだよと言える人だと、そう思って惚れていました。でもそうじゃなかったんです。
ところで、有料ブログの購読解除を行なった直後、こんなブログが流れてきました。
「推しを嫌いになりたくない」と思った日のこと https://p-dress.jp/articles/10053
>好きな人たちには人の尊厳を踏みにじるようなジェンダー観や倫理観を持っていてほしくない、と思う私の気持ちはやっぱり、どこまで行ってもエゴだ。
あまりにもタイムリーなタイトルに惹かれて読んだコラムは、当然みたいに今の自分にあまりにも刺さるものでした。
私が彼に、そういうときに「だめだよ」って言える人であってほしかったっていうのは当たり前のようにエゴです。さらに言うなら偶像です。そういう人である、という偶像を抱いて、それに反したからって嫌いになるって失礼にも程があるなと自分でも思う。自分の中の偶像を勝手に愛していろよ。本当にそうだと思うわ。
自分が同じ立場に立たされたときに、私が彼にそうやってほしいと願ったことをじゃあ自分が実行できるかと言われたら答えは否で、私だってその場で「だめだよ」って言うことの難しさはわかってる。だけど彼の高潔さはそれをもさせるんじゃないかと勝手に思っていた。でもそうじゃなかったんです。彼はだめだよとは言わなかったし、私はそれがどうしても許せなかった。
とかぐだぐだ話したところで、私の性格上「だめだ」って思ったらもう全部ダメなんですね。秋元康は人を好きになる理由はおそらくきっと後付けさって言ってるけど、人を嫌いになる理由だって一緒だと思うんですよね。ああもう担降りって思ってしまったらそれまで。しばらく様子を見たけどブログの更新通知がまったく嬉しくなくて、開封もせずに4日も放置してあるメールを見たときに、もうだめなんだなと思いました。泣きそうになりながら購読を解除してから、もう私のメールフォルダに彼のブログの更新通知が来ることはない。きっともう、彼が目当てでイベントのチケットを取ることもないんだろうし、DVDもCDも雑誌も増えないんだろう。
嫌いになんてなりたくなかった。かっこいいところも、高潔さと隣り合わせのこだわりの強さも、可愛らしい隙も、全部ひっくるめてずっと愛して、ずっと応援したかった。でも嫌いになるって結局理屈じゃなくて、彼のあの対応は仕方がないってわかっていたって、嫌いになるときはなっちゃうんですね。
理屈で人を好きになれたら楽だったのになあ。恋を知らない女ではあるけど、人を好きになるのも人を嫌いになるのも理屈じゃないっていうのは、少しわかった気がしました。自分で別れを切りだしながら泣いちゃう女の子の気持ち、今ならわかる気がします。
私の三推しの枠は今は空いていて、そこが今後埋まるかは分からないけど、願わくばこれ以上減らないことだけ祈ります。私は今の一推しも二推しも嫌いになりたくはない。だけど同じ人間じゃないから、きっと私とは価値観の合わない言動もきっと取る。それがなるべくないようにというエゴイズムに塗れた祈りをしながら、いざというときは耳を塞ぐ準備だけしておこうと、先のコラムを読みながら思いました。
女性だから、とか女性だけみたいな女性差別にとらわれてるのは投稿者自身だよね
女性で寿司を握る職人だっているし、女性の握る寿司を食べる側はそこまで気にしてない
女性だからどうとかではなく、店や味の旨さでしか判断してないよなー
孕ませ発言に関しても、あくまで二次元の話なんだから大目に見ろよ、と
最近はBL腐女子が人権を得て、二次元の中で孕ませられるのは女とは限らなくなってきてる
女性が苦しんでいる、って思うのは勝手だけど弁護士の立場としてそれを発言するのはなー
孕ませエロコンテンツは女性だけじゃなくて男性も孕まされてるという事実を知った方がいい
「この人の言うことは納得する」っていちばん認められてる人って誰?
あと注目度が低いからアンチが少ないだけというのももちろん無し。
それなりに有名人で政治や社会問題についてたくさん発言している上で支持されている人。
うーん、消去法だけど池上彰っすかねやっぱひ。
自分はフォロワー2万人以上いるんで何つぶやいても反応があるから楽しいけど、フォロワー数十人~数百人で、いくらつぶやいてもたまにしか反応ない人は何が楽しいのだろう。
そういう人のつぶやきを見てみると、周りを意識してない個人的なメモをずっとしているのならまだわかるけど、なんだかフォロワーの目を意識したツイートをずっとしているんだよね。問いかけだったり、ウケ狙いのツイートしたり。でも、まったくふぁぼられてないし、リプライももちろんない。恐ろしいことにそういう人のツイッター開始日が2011年だったりする。いったい9年間も反応のないツイートして、何をしているのだろう。
そんな状態でツイッターやるなんて、時間を無駄にしているようにしか思えないのだけど、いったいなにが楽しいのだろうか。なにもつぶやかずに消費者に徹した方が有意義で楽しい人生送れると思うけど。
誰が言い始めたのでしょうか。
「いわゆる、そうした日本の童顔・巨乳、でか尻、足細の女性キャラって、一昔前の言葉で、使うことにも躊躇しますが「奇形フェチ」だと思うのですよね。
昔の中国の纏足につながるような身体形成で、それは正に男性による女性のモノ化であり、人権・人格否定。」
色々思うことがあったので、自身の考えを整理するためにも書いてみました。殴り書きですみません。
まずこのツイートの背景を簡単に説明します。宇崎ちゃんが採用された日本赤十字社の献血ポスターにおける女性の体の描き方が以上に胸が大きく、つまり女性表象が現実を逸脱しており、これが性差別に繋がっているのではないかという議論が巻き起こりました。それに対して、巨乳を差別している、表現の自由が保障されているから良いのではないか、という意見がありました。
女性の「モノ化」とは?
性別という理由のみで性役割を固定され、女性が主体を失い、男性の理想となるような「モノ」を強制されることを指します。例えば歴史を見ていくと、性は戦争の道具に利用されていました。男性は戦争に行き、女性は家庭を守る。父権主義により女性は家庭に入り、男性の子供を産む道具つまり「モノ」として性役割を強制されるような歴史があります。
今回は、胸を過剰に表現することによって女性が男性の性的消費の「モノ」と化しているものを堂々と公開することは問題ではないか、ということを論点にしています。
→そもそも今回の批判対象はポスターの性表象になります。ですので、現実に存在するGカップの女性(どこからが巨乳かの定義は置いておきます)を批判しているわけではありません。また「奇形」と表現されているのは表象の結果的要素であり、作者の絵柄や萌え絵文化を非難するものでもないはずです。「なぜあえて胸を強調するような絵柄がポスターとして採用され、人の目に留まりやすい場所に掲示されているのか」が問題の本筋となります。
ツイッター上ではこの巨乳を奇形と差別したという話ばかりが広まり、これに対した反応をしている方ばかりを見かけるようになりました。巨乳が奇形だと間違った受け取り方をして、それを広めているのもここの人たちです。
→表現の自由は人権を守った上で存在できることは周知の事実です。
→あいトリで大きく問題にされていた昭和天皇の写真を燃やして踏みつける動画作品。これはそもそも天皇制を批判している、日本の象徴を侮辱しているという文脈で見ようとすると誤解を受けます。この作品を制作した大輔さんは「心の問題としての自画像」を取り上げ、変遷するイメージを天皇として表現しました。本来は世代によって変わる天皇のイメージと皇室タブーの議論へと接続される予定の作品だった。ただそれが上手く行かずに政治的文脈によってのみ判断されてしまいました。現代アートは問題を投げかける作品が多いです。ただその性質上、人間の負の感情からスタートすることが多い。私は表現の不自由展・その後を支持するわけではありませんが、展示が本来持つ意味に沿って機能せず、短絡的な思考により展示が阻害されたのは問題だと思います。これは余談なのですが、そもそも天皇は基本的人権をお持ちなのでしょうか。人権を制限されている制度が存在することを無視して、この動画作品を批判するのはどこか矛盾していませんか。天皇の人権について議論するならば、天皇制についてもきちんと議論するべきだと思ったのは私だけなのでしょうか。
→そのような絵柄を好む方も多くいることは理解しています。その愛好人口のある程度の多さ故に、女性的な要素である胸を強調するイラストは一定の支持を受けている。ただ忘れてほしくないのは、女性の性的要素が強調されたイラストを不快に思う人が存在するということです。今は女性の性的要素を強調しているのみですが、これが水着になったらどうでしょうか。もしエロやグロだったらほとんどの人が批判すると思います。場に適切か不適切かどうか。その線引きについて現在議論しているのです。
→存在し、受ける人が増加する事実を確認しているだけで、勧めているわけではないです。大事なのはこの背景に何があるかということです。胸を性的要素として日常に取り入れすぎてしまい、巨乳、つまり性的要素が強い人が結果的に性的な視線に晒される機会が多くなった。日常に取り入れすぎるというのは、今回のポスターのように市民権を得すぎてしまったことです。冒頭に戻りますが女性の「モノ化」により本来、個人的にやり取りされるはずの女性の性が、大勢とやり取りされることが問題になります。
この一連のツイートへの反応はどうしても本筋の論点とは違ったところへ議論が流れがちです。第三者が各所を切り取り、論旨をすり替えたツイートも見られ、大勢の人がRTしたりしています。これが最近話題のフェイクニュースかあ、と感心してしまいました。もちろん感心してる場合ではないのですが。情報の判断を誤ると生産的で建設的な議論ができなくなります。そもそも議論ではなく「でも私はー」や「でもこんな人もー」などのように個人的な感想や極めて稀な例を出す人もいます。感情や例外ではなく、一般的な例に則った議論を交わすことをお勧めします。私はこの議論に関しては肯定派にいますが、反対派の意見ももちろん聞きたいです。しかしそれは「胸を強調することに問題はない」「このイラストが公共の場に晒されることに問題はない」ことを証明する意見を求めています。
@misssfc2019_no7さん(ραοさん)と@54nano_fairyさん(なのさん)のTwitter上での会話を見て、漠然とジェンダー論に興味があったものの何も勉強してこなかったので少し勉強し、考えたことをまとめようと試みています。ややραοさんの発言を多く引用します。これは僕の感覚がなのさんに近く、ραοさんの発言の主張に納得しづらい部分があったため、それを解釈したいと考えたからです。
納得行くところまで整理出来ていないので、「その主張は◯◯の部分が誤りである」「せめて◯◯は読んでから出直せ」などの指摘をいただけると僕が嬉しいです。
あとアホほど長いので暇な人だけ読むと良いと思います。
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男性がフェミニストに対して「真のフェミニストかエセフェミか」と自分がジャッジできると思い上がってる時点で君はフェミニズムのことを何もわかってないのだねという感想しかないわ
というツイートに対して、なのさんが
これこそセクシズムなんじゃないですか?
と問うたところです。
このツイートから、任意の男性は、フェミニズムを理解しているならば(フェミニズム性を有しているならば)、あるフェミニストに対して「真のフェミニストかエセフェミか」ジャッジ出来ると考えない、とραοさんが考えていると僕は読み取りました。
これに対し、この主張には「男性が」ジャッジすることに非フェミニズム性がある、というような非対称性があるように見える、となのさんが疑義を唱えたように僕は読み取りました。
その後の議論でραοさんは
と述べられています。これはフェミニズムの話に限った際、女性がジャッジすることにも非フェミニズム性があるという主張と同値かは僕の目には明らかではないです(おかしなこと、というのがどのようなおかしくなさに違反しているのか自明でなくないですか?)。僕は議論の流れから、ραοさんは男性がジャッジする際の非フェミニズム性とはやや異なる「おかしなこと」と考えているのではないかとお見受けしました。
これは、なのさんの
「マイノリティの中でも一方的なジャッジをはおかしなことである」というのならば、なぜ最初の発言でわざわざ「男性が」「性的マジョリティが」と強調したのでしょうか?
という質問に対するραοさんの
マイノリティの中での話とはまた違う構造があるからですよ。これを同じと言ってはいけないと思います。マイノリティ同士のコミュニケーションにおいて生じる問題と、マジョリティがマイノリティに対し行う言動に生じる問題は異なります。
ραοさんの発言は、マジョリティである男性がジャッジすることはマイノリティである女性に対する圧力となるため非フェミニズム性があり、マイノリティである女性がジャッジすることは(圧力があるにせよ)非フェミニズム性とは異なるおかしさ(例えば他人の内面を決めつけることの失礼さ?)があるという意味ではないですか?男性と女性が非対称な権利を有している現在の規範を改めようとするフェミニズムに対し、マジョリティである男性が一定のフェミニストの主張は非フェミニズムであり新たな規範として認めるべきではないと主張するのは、女性に対する圧力として働くものであり、非フェミニズム性があると。
なので、女性に対する圧力の存在の暴露とその解消を目指す文脈で、(その活動における)障害の存在を批判する際に男性によるジャッジが強調されるのは非対称だが筋は通る(一貫した主張である)かなと思いました。(なのさんがのちに運動のための理論であるように感じて好きではないと言われていたのもこの辺りのことが引っかかってかなと思いました。)
この後ραοさんとなのさんの主張は最初の議論とはやや異なる内容の議論(女性がマイノリティであるということの意味、議論の進め方等)と共に一定の解決を見ずに終わったようで燻ったような状態に落ち着いたように見えます。他の内容についてはここでは触れません。
フェミニズムの議論はたびたび大きな話題になりますが、話題になるフェミニズムは(筋の通る通らないの程度によらず)やや論理的に整理されてない主張が目立つように僕は感じていました。今回の件でもいくつか整理が不十分だと感じる点はあり、例えばραοさんの最初のツイートの下で述べられる
これって普通に男女以外でも考えてみてほしい。マジョリティであるシスジェンダー異性愛者がセクシャルマイノリティに「この人は真のセクシャルマイノリティか、エセか」とか言うのめちゃくちゃおこがましくないですか?障害者に対して「真の障害者か、エセか」とか。何様なんだろうって私なら思うよ。
は圧力という考え方があまり見受けられないので良い例示ではないように見えます。これは他者の内面(あるいは属性、アイデンティティ)を決めつけることはおこがましい、自然な感情として(普遍的に)おかしなことであると主張する話になっており、「男性が」ジャッジすることの非フェミニズム性の話にはそぐわないように思います。何様なんだろうと思う、という自然な感情に端を発する主張のように記さず、セクシャルマイノリティや障害者の方に対する強い圧力として働く考え方である、というように記す方が合致するように思われます。
整理が不十分であること自体はよくて議論とともに整理していけば良いと思うのですが、その後ραοさんはやや早計になのさん(及びなのさんに同調する人々)のことをミソジニストと決めつけてしまったように見えます。早計というのは、議論が一定の解決を見ないまま、ραοさんに「つっかかってくる」人をミソジニストと認定しているように見えるからです。実際には一定の論理によりミソジニストと認定しておられるでしょうが、ここまで他者をジャッジすることのおかしさについて議論していたので、ダブルスタンダードに見えてしまいます。ダブルスタンダード自体は主張の正しさを変えるものではありませんが、信頼できる議論の相手かどうかという他者からの評価には影響するので。実際これのせいで感情に寄りすぎている(論理的に整理されていない点を整理しないまま自分の意見の正当性を主張しようとしている)とみなされてしまっているということがあるのではないでしょうか?
僕は最初追っている時はなのさんの議論の方が身に馴染み、かつ筋が通っており、ραοさんの議論はやや筋が通らないように感じていました。しかしそれはフェミニズムを全く知らないためである可能性も十分高く、少し調べてから判断しようと思いました。現状では、今ある規範の問題点を指摘し新たな規範を構築する際、新たな規範の正当性をどのように確立すればよいのか分からなくなり、整理がついていません。
舟場 保之(2007)「ジェンダーは哲学の問題とはなりえないのか」『哲学』58 号 pp. 61-78(https://doi.org/10.11439/philosophy1952.2007.61)に、次のような話が載っていました(p. 65)。
アイデンティティ・ポリティクスの主張は、その真理性なり正当性なりの論拠を最終的には当該のアイデンティティにおく。アーレントは、アイデンティティ・ポリティクスに反対していたにもかかわらず、レッシング賞受賞講演において「ひとは攻撃されている事柄によってのみ、抵抗することができる」と論じている。このとき、「抵抗」のひとつの形として「現行の法」に対する異議申し立てが行われるとすれば、その異議申し立ての論拠は「攻撃されている事柄」におかれることになるだろう。ある「抵抗」の異議申し立てに対して、、「あなたはなぜそのように主張するのですか」と問えば、最終的には「わたしは○○に関して攻撃されているから」と答えられることになる。しかし論拠がこのようなものであるとしたら、この言い分に納得できるのは同じように〇〇に関して攻撃されている者だけであり、異議申し立ては〇〇に関して攻撃されている者にしか説得力をもたないことになる。だからこそ、このような異議申し立てに無理解な者に対しては、「あなたは○○に関して攻撃されていないからわからないのだ」という言い方が(きわめてよく)なされるのだろう。アイデンティティ・ポリティクスの主張は、アイデンティティに論拠がおかれるかぎり、アイデンティティが同一の者には説得力をもつがそうでない者には説得力をもたないのである。しかも、論拠とされるアイデンティティが「反論の余地のない事実」であるなら、論拠を問題化することがまったく不可能になってしまうので、アイデンティティ・ポリティクスの主張は反駁される可能性を原理的にもたない絶対的なものとなってしまう。
例えば宇崎ちゃんポスターの話題などでも「普通に訴えてもお気持ち扱いされる」みたいな話を見かけました。これはまさに上記引用で触れられている、アイデンティティ・ポリティクスの主張がアイデンティティを論拠とするために反論を許さず、そのためにアイデンティティが同一でないものに対しては説得力を持たないものとなる(反論が不可能なものについては議論が出来ないので?)、という構造と同じものだと思います。
宇崎ちゃんポスターの例では「性別Aの者を性別Bに属するものがあげつらったり、その性を利用したりすることは正しくない」というような公理のもと、それがA=女性、B=男性として宇崎ちゃんポスターにおいて行われていると判断され、問題のあるポスターとして指摘されたと僕は認識しています。これに対し「この程度は性についてあげつらうほどのものではない」「これをあげつらいと考えるのはお気持ちである」という形で「お気持ち扱い」をされているのかなという印象です。
このとき、仮にアイデンティティ・ポリティクスに反対する姿勢を取っていたとして、宇崎ちゃんポスターの問題においてどのように主張の正当性を確立するべきなのでしょうか?究極的にはお気持ちにならざるを得ないのでしょうか……?僕には分かりません。何かうまく論理を構築する方法論が知られているのでしょうか。
またραοさんとなのさんの議論の中で、上記引用で典型的発言として挙げられる「あなたは○○に関して攻撃されていないからわからないのだ」と似た発言がなされていました。
男性がフェミニストに対して「真のフェミニストかエセフェミか」と自分がジャッジできると思い上がってる時点で君はフェミニズムのことを何もわかってないのだねという感想しかないわ
という発言もややアイデンティティ(あるいはポジショナリティ)を論拠にしているように見えます。これによりραοさんは、なのさんや一部の方から自分の正当性を疑わない人とみなされてしまったように見受けられます。
しかし、特に規範のようなものを考えるにあたり、アイデンティティやポジショナリティから自由になることは可能なんでしょうか?ραοさんはそれが不可能だと考えているか、相当に困難だと考えておられるのではないでしょうか?
自分は中立だと思いこむのとか、立場や偏見を取り除いて客観的なジャッジの目線で議論ができると思いこんでるのはなるべく高等教育過程に入った方には既に卒業しててほしいな…。こんなの哲学の初歩の初歩でしょ…。
自然科学の研究をしている身としては、実験だったり理論だったりの正当性の検証は容易ではないが常には原理的に不可能ではないので、メタ的立場から正当性の議論が出来る(なのさんの言葉を借りれば「パワーバランスに基づく議論はあくまで論理/倫理的な「正しさ」とは独立であるべき」)と考える方が身になじむものがあります。なのでアイデンティティ・ポリティクスに反対する姿勢もしっくりくるところがあるのですが、実際問題としてそれを回避することは可能でしょうか?自分がある程度アイデンティティ(あるいはポジショナリティ)を論拠としている部分がある、と自覚した上で正当性の議論を行うという所が限界なのでしょうか?今の僕には分かりません。
上に書いた話も、自分の感覚と整合性が取れるように論展開を進めようと思ったのですが、僕の「お気持ち」が何となく納得していない感じがあり、十分整理できてないなと感じています。
自分の研究が落ち着いた時に、時間をとってもう少し勉強して整理したいと思っているので、重ねてですが「◯◯の主張は筋が通っていない」「◯◯ぐらいは読め」みたいな指摘がいただけると幸いです。
私は怒っている。
数年前、大きな手術でいくらか輸血を受けた。
今、細かい理屈をこねくり回して、毎日事故や病気で起きているケガ人や病人のことを何も考えてないように見える、
とても雑な言葉を叫ぶはてサとフェミニストとアンチオタクが日に日に許せなくなってきている。
とはいえあの人たちにも自分の大事にしたいものもあるし、他人を守りたいからそういうことをしたい気持ちがあることを信じている。
でも実際は他人を馬鹿にして、自分たちの道徳的優位性のためにはケガ人や病人なんてどうでもいい!と思っいるようにみえてしまう、実際はそんなことはないのに。
それは私のお気持ちが怒っていて、そんなことはないはずなのにそう見えているなんてわかっている。
命はもちろん大事だし、弱い人間や少数派の命や心ももちろん大事だ。そして別のところにも弱い人間も少数派もいることは、
目の前の言葉に書かれないだけでいることはわかっていると信じている。
私は怒っている、あの人たちに怒っている、でもそれは私の心が狭いだけで、あの人たちを許したい。
一番読んでもらいたいのは最後の節のもっと言えば、今回の問題は~からなので、長いと思った人はそこを読んでほしい。
もちろん作者には意図があって表現してるけど、解釈は鑑賞者の自由だと思う。
例えばあなたは犬を飼っていて、可愛いと思ってその犬の写真を撮ってインスタにでもアップしたり「これ可愛いくない?」って誰かに見せたとしよう。
でもそれが可愛いか可愛くないか判断するのは鑑賞者の自由だよね?内心の自由ってやつ。その写真を可愛くない思ってもいいわけじゃん?かわいいと思ってもいいんだけど。
犬の顔がかわいい、手足がかわいい、尻尾がかわいいと思ったり思わなかったりは鑑賞者の手に委ねられてるよね。
宇崎ちゃんポスターに関しても、エロいかエロくないか、エロさや卑猥さを根拠にした場に相応しいと感じるかどうかはあくまで鑑賞者の解釈次第なわけ。
そこで「この絵はエロい!エロくないっていう奴は馬鹿」みたいに叩くのは辞めようよ。それなら同じ理屈でエロいっていう奴も馬鹿だよ。
それに、他人が本当にエロいと思ってるのか思ってないのかは観測できないし、仮に観測できてもどのくらいエロく感じているのかは千差万別なはずだし、
ディストピアみたいにこの表現はこういう解釈だって強制されてるわけでもなく、強制したほうがいいわけじゃないでしょ。
仮に乳袋はエロ表現の技法だとしても、絶対エロいんだと卑猥なんだと感じないといけないわけじゃないじゃん?宇崎ちゃんポスターについては実際にオタクの中でも意見は分かれるよ。
んで、エロいから卑猥だからという鑑賞者個々人の自由に解釈した結果の主観的な尺度で議論しても平行線になってしまうわけよ。
校則で「スカート丈は膝下何センチとする、それより短いのは風紀が乱れるので禁止」としたときの膝からの長さのような、客観的な尺度を議論するほうがまだ実りがあるよ。
ただスカート丈をいくら長くしようが短くしようが解釈する人が必ずいてその解釈は十人十色なんだよ。
解釈をもとにした議論じゃ一向に解決しないので別の点を探ろうよ。まずは。
あと、個人の主体性に依らない女性をモチーフにした表現物(女性を描いたイラスト等)に対する解釈を誰かが都合よく他人に強制させることができて、特に性的に解釈するのは害という考え方ね。
いや、そういう考え方してもいいのよ?いいけどそれで他人が自分が思った通りに解釈をしなくて困るって他者の自由意志を蔑ろにしてると思いません?
逆にあなたは誰かにコントロールされてますか?誰かに解釈を強制されてますか?
強制されてないってことはあなたが乳袋を見たときに卑猥と思っても卑猥と思わなくてもいいんですよ?卑猥と思ったのはなぜですか?そして卑猥だと解釈することだけが正しいとするのはなぜですか?
逆に卑猥じゃないと思ったのはなぜですか?その解釈のみが正しいとするのはなぜなんでしょうか?
製作者が意図してる以外の解釈は製作者から見ると間違っているけど、だからと言って鑑賞者の解釈をすべて縛れるわけがないじゃん。
他人なんだから原理的に不可能だよ。洗脳のような暴力的手段なら可能かもね。
あと勝手に他人の脳内を性的に解釈してると想像して、性犯罪予備群だ、オタクは悪だ、男は悪だみたいな連想ゲームをして気持ち悪がる人いるよね。
他人の脳内を勝手に想像してもいいけどさ、それが現実に存在する人全員に当てはまるわけじゃないし、そのうち何人が性犯罪者なのか確かめたわけでもないし、オタクだろうがDQNだろうが犯罪する奴は犯罪するんだよ。
ネットであなたが勝手に想像する犯罪者予備軍の存在や趣味嗜好を叩いても実際に犯罪するという行動を止めることはできないよ。
他人は基本的にコントロールできないんだよ。他人の行動や思考を制御することはできないんだよ。
お願いや命令や実力行使をすれば行動は制御できるかもしれない。けど思考解釈感じ方に関してはお願いや命令や実力行使をしても本当にその思考をやめたのか観測できない。
残念なことに、世の中の表現物をなくしても実際の人間を見て性的に解釈する人は無くならないし無くせない。
実際にあなたを見る男の思考を観測できない以上、どう見られているかはわからないんだよ。
性的に解釈してなさそうに見えても、実際に内心で性的に解釈してるかどうかは本当のところは判らない。
性的解釈してますか?と聞いて、していないと返事があっても嘘を言っているかもしれないし、そうでないかもしれない。
これは犯罪に遭いたくない犯罪を減らしたいという気持ちを否定してるわけじゃないよ。
交通事故が怖い人はたくさんいるだろう、痴漢の被害に遭いたくないよね。それらに巻き込まれる可能性を排除しようとして家から出ないのはそれはそれで困るんじゃない?
ということは世の中の人たちは少なからずそういうリスクを抱えて生活しているんだよ。意識してるかしていないかは別として。
宇崎ちゃんポスター等を見て過去の経験からトラウマになっていて耐え難いとするのももちろんいいのだけど、まずあなたに必要なのは傷ついた心の癒しであって、何か叩くことではないです。
それに世の中から宇崎ちゃんポスターみたいな表現を無くすことで個々人が何か誰かを性的に解釈をするのを無くすというのは不可能だし、違う方法がいいんじゃないかな?
世の中の人たちは寛容になりたいはずだと思う。
他人の何かを認めない自分より、認められる自分のほうが好きなはず。
ただ、人は気分が良かったり余裕があったりすればするほど他人に対して優しくしたり親切にできるけど、暴力を受けたりひどく傷つけられたり裏切られたり孤独だったり等のダメージを受けると被害者意識が寛容さを失わせてしまう。
そこで傷つけられた人たちやそれに同調する人達は、自分(達)以外の他人が不寛容に見えてしまったり、
さらにエスカレートして直接自分に被害を与えたわけでもないものや、イラストの人物と自分を同一視し他者の視線を想像してまでひどくおびえたり恨んだりしてしまう。
もう一度言うけど、傷つけられた人たちに必要なのは他者からの適切な助けや癒しであって、他人を叩いたり否定したり馬鹿にすることではないよ。
しかし、同調する人は回復を助けはしないどころか、一緒になって叩いたり恨んだりすることに快感を感じたり存在意義を見出してしまう。
恨まれたほうもまた、被害者意識を持ちループが始まってしまう。
「私はこういう理由で困っているから助けてほしい、こうしてほしい」は他者に伝わりやすいが、「なぜこうじゃないんだ!これは間違っている!これは許せない!」というのは伝わりにくい。
他人に伝えても、結局他人はコントロールできないのでさらに傷ついてしまうこともある。ただそのダメージを最小限に抑える方法もある。
必要なのは、傷つけられた人たちが他者に寛容になれるくらいまで癒されたいと思い、実際に癒されること。適切な人からの助けや癒しだと思う。
松本人志が探偵ナイトスクープの局長になるというニュースのブコメ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191025-00010005-wordleaf-ent
まだ実際どうなるかもわからないのにあれこれ想像や仮定で嫌がっている。
代議士のように選ぶシステムにないものをあーだこーだ文句つけている。
そろそろ話題が下火になってきたから言うけど、炎上している献血のポスターのキャラを見ると、今ってああいうキャラがウケてるの?って気になる。自分は嫌いだな。
何が嫌いかって、人を小馬鹿にしてるような目付きがすげームカつく。見るたびにめっちゃイライラしてたから、話題が下火になってよかった。はてブを開く度にサムネであのキャラがいて、ムカッとしてたからな。
ああいう人を小馬鹿にしたような目付きで罵られたいという人が多いのか。自分にはよくわからん。
同じ巨乳のポスターのキャラなら、碧志摩メグの方がずっといいぞ。可愛いぞ。伊勢志摩の方に行けば見られるぞ。このキャラもそういう方面で叩かれてたけど、エロいということももちろんあるが癒しがある。単純に可愛い。海女さんの白い装束に身を包んでいて、何というか穢れのない白さを感じる。素晴らしい。あんな見た目のムカつく献血のキャラより目の保養になる。というわけで、今から碧志摩メグで画像検索するんだ。早く。
レーシック手術をして有りか無しかと問われますと、やはり一言で答えられません。
私は術後数年は「やって良かった」と思っていました。
マリンスポーツなどをやったときには、特に「やって良かったな~」と感じましたね。
「やって良かった」から「やらなきゃよかった」に変わっていった理由は、術後1,2年は1.5見えていたのですが、徐々に視力が下がり始め、15年経過した今、0.4まで戻ってきてしまいました。
成人になってからレーシック手術をしたのなら、視力は半永久的に維持できると聞いたのですが、実際は10年ももちませんでした。
またレーシックをする前にはなかったドライアイが想像以上にとてもつらいのです。そしてそれは術後より、どんどん悪化している気がします。
女性ですから、目にアイラインなどお化粧をすることもありますが、ドライアイによる涙の量が多く、すぐに目のお化粧は落ちてしまいます。冬場などは外に出ただけで、涙がぽろぽろ流れてきてしまいます。
そして自分の涙で目がしみて、痛いのです。
私の場合、レーシックをやったのは右目だけなので、左目との差は歴然です。左目はドライアイにはなっていません。そのうえ、他人が見ても若干右目の方が突っ張ったような、腫れたような感じになってしまっています。
レーシックをした病院に不調を訴えに行きましたが、ドライアイの目薬を処方されただけで、視力の低下に関しては、また手術もできますよ、と言われただけです。
「アイカツ!」シリーズの「話数が多い」というハードルを越えて視聴してもらうためにはどう勧めれば良いか、という話が少し盛り上がっていた。
その中でよく出てきた話に、見てハマった人間にとってはその話数というのはむしろ少なく感じるほどである、というものがあった。
それについては私も大いに頷くものであるが、なぜ皆がこれだけ話数の多い物語をそろって「短い」と言うのであろうか。(単純に面白いからあっという間だよって意味かもしれないが)
それを少し考えてみたので書き連ねてみる。なお、シリーズ全部について書くと本当に長くなるので第1作の「アイカツ!」に絞って書く。
「アイカツ!」は2012年10月から2016年3月までの約3年半の期間に放映されたアニメである。総話数は178話。劇場版は長編の「劇場版アイカツ!」と、ステージを中心に構成した中編「アイカツ!ミュージックアワード みんなで賞をもらっちゃいまSHOW!」、最終回後に制作された短編「アイカツ!~ねらわれた魔法のアイカツ!カ―ド~」の計3つがある。他にもドラマCDが制作されている。
そして、「アイカツ!」は放映時期と作中の時間がリンクしている。つまり、季節が現実と同じように流れ、クリスマスやバレンタイン、卒業式・入学式や年末年始などの季節のイベントのエピソードが時期に合わせて放映されている。
劇場版も公開日と合わせてあり、たとえば2014年12月13日公開の「劇場版アイカツ!」は同年12月11日放映の第112話の後のお話となっている。
プリキュア等の年間を通して放映されるアニメを見ている人にとってはさほど驚くことではないかもしれないが、1〜2クールが基本の深夜アニメを中心に見ている人にとっては新鮮かもしれない。
さらに、いわゆる「サザエさん時空」ではなく、1年経つと実際にキャラクターが歳を取り、進級したり卒業したりする。
最初の主人公の星宮いちごは第1話時点では中学1年生だったのが、第178話時点では高校2年生になっている。(ある話数の間にだけきっちり1年間のブランクが存在するが詳細は省く)
つまりは、視聴者は画面を通して「アイカツ!」の世界での出来事をリアルタイムに感じとり、キャラクターの成長を見守っていくのである。
週に1回の放映内容だけでその1週間の出来事を知る、と単純化して考えてみると、それはあまりにも時間が足りないと言わざるを得ないであろう。
漫画「スラムダンク」は週刊連載で6年連載して作中で4ヶ月の出来事を描いたのであるから、単純計算でその18倍の短さと言えてしまう。(1/3年の出来事を6年間で伝える=1/18年の出来事を1年かけて伝える)
そして、年間を通して季節に合わせて放映されていると、視聴者にとって「アイカツ!」は生活の一部となっていく。生活が終わることなんて人は想像したくないものであるから、それが終わった時の寂しさは計り知れない。
後追いで視聴している者にとっては、話数と共に季節が移り変わっていくのを感じながら見ていると、キャラクターの人生を辿っているような感覚になる。そうすると、途中でそれが途切れてしまうとなると、それがどれだけ寂しいものであるか。
最終回後に制作された劇場版の短編は、そんな人たちに向けてキャラクターから届けられた久しぶりの近況報告・贈り物であると考えてみると、それがどれだけ嬉しいものであるか。
先述したように「アイカツ!」ではドラマCDがいくつか制作されているが、劇中のラジオ番組という形をとっており、まるで実際にラジオを聴いているかのように感じることができる。ファンにとって「アイカツ!」のキャラクターはどこか現実と地続きのところに存在しているような感覚がある。
「アイカツ!」のキャラクターの誕生日を祝う時、毎年そのキャラクターの年齢を数えるファンは少なくない。今年、星宮いちごは20歳になった。
いちごちゃんお誕生日おめでとう!
はたちだね〜。出会った頃に言ってた夢が叶っちゃうね。私は来月!一緒にお祝いしよう〜🍓— 諸星すみれ (@smileysuu) 2019年3月15日
アニメが終わってもキャラクターたちは消えることなく、生きてアイカツをし続けている。キャラクターの生きる姿を描くのにはいくら話数があっても足りない。
「アイカツ!」にはたくさんのアイドルが登場する。作中でCGで描かれたステージを披露したアイドルを数えてみると、総勢28人。披露されていないアイドルも多数おり、その中に人気のキャラクターもいる。
長期放映のアニメで俗に言われるものに「当番回」というものがある。
特定のキャラクターにスポットライトを当てたお話のことを指すが、「アイカツ!」にももちろん当番回と呼べる回が多くある。
しかし、28人を超えるキャラクターの全員に満遍なくスポットライトを当てるにはあまりにも話数が足りない。当然キャラクターによって登場の頻度の差は出るので、「あのキャラをもっと見たかった」という声は常にある。
それだけキャラクターが魅力的であったことの証左ではあるのだが、178話という話数をもってしても描き切れていないわけである。
ただ、そういった「スポットライトを当てる」ことについては、第146話「もういちど三人で」で星宮いちごが語った言葉がちょうどぴったりだったので引用する。
「私ね、世の中のアイドルとか、みんなを照らすスポットライトって、ずーっと動いてる気がするんだよね。ぐるぐるって。ずーっとぐるぐるぐるぐるね。だから、その時その時で、照らされる人数は少ない。でも、照らされなかった人がいなくなってるわけじゃない。だから、次のチャンスは誰にでも来るんだよ。その場所に立っている限りね」
スポットライトの当たってないところでもアイドルたちのアイカツは続いている。
物語の舞台であるスターライト学園はアイドル学校で、つまり通う生徒たちは全員アイドルである。メインで登場するアイドル以外も皆アイドル活動をしているわけである。実は、クラスメイトにも全員しっかり設定が付いている。何気ないシーンで映り込んでいるアイドルや、一瞬映った雑誌に載っているアイドルにも名前がちゃんとついていたりする。スポットライトが当たっていない彼女たちも、「アイカツ!」の世界で生き、活躍している1人であることが想像できて、それが「アイカツ!」という作品の世界に深みを与えている。
さらに、アイドル以外にも、家族や先生、デザイナー、ファン、仕事の関係者等のサブキャラクターもアイドルに負けず劣らず魅力的である。
特にブランドのデザイナーは重要な存在で、アイドルが、自分の好きなブランドのトップデザイナーが作る「プレミアムレアドレス」を手に入れるまでの物語は「アイカツ!」のひとつの見所でもある。
デザイナーのブランドに対する考え方だったり、アイドルとの向き合い方・関係性だったりにもその人の生き方のようなものを感じることができ、それは、いろんなアイドルのいろんなアイカツの形を見るのにも似ている。アイドルでないキャラクターにもその背景や物語があるのを感じさせる。
また、当初はただのモブでしかなかったアナウンサーが、節目節目でのイベントでいつも司会者として登場するうちにいつの間にか名前が付くまでになっていた、ということもある。
何が言いたいかというと、「アイカツ!」を見ていると、登場する全てのキャラクターが魅力的で愛おしく思えるようになり、もっといろんな話が見たいと思うようになるということである。
歴代シリーズのキャラクターが大集合する新シリーズ「アイカツオンパレード!」の放映に際し、シリーズのダイジェスト動画が公開されている。
歴代シリーズプレイバック!『アイカツ!(2012年10月~) ver.』
歴代シリーズプレイバック!『アイカツ!(2014年10月~) ver.』
だいたい5〜6分の動画でシリーズがおさらいできるようになっている。
やろうと思えばアニメの内容をあらすじでさらっと伝えることはできる。主人公が「輝きのエチュード」や「SHINING LINE*」や「START DASH SENSATION」等の楽曲に至るまでの物語を理解してもらうために最低限のエピソードをピックアップすることもできる。
「アイカツ!」は基本的に1話完結のストーリーになっており、途中から見てもわかるような配慮もされている。単話で見ても面白い回はたくさんあるので、つまみ食いでもきっと楽しんで見ることができるであろう。
この回が良い、この回が好き、といった話に花を咲かせることもよくある。
それでもやっぱりファンとしては全話見てほしい。全話が全部大事な話だ、と本気で思っている。
星宮いちごが歩んだ道のりを軸に、物語上の重要なエピソードだけをピックアップすることになったとしよう。
そうすると、例えばいちごたちがただオフタイムを過ごすだけという第24話「エンジョイ♪オフタイム」は、含めなかったとしても物語の説明は可能である。でも、ファンとしてはこの話は絶対に外したくない。
また、いちごがメインでない他のキャラの「当番回」、例えば藤堂ユリカがメインの第89話「あこがれは永遠に」も含めなくてよいだろうか。確かに、なくてもいちごの物語を語ることはできるであろう。だがこの回で描かれた藤堂ユリカのアイドルとしてのあり方やデザイナーとの関係、ファンとの向き合い方、そういったものが全くいちごと関係ないなんてことはなく、作品を通して描かれているテーマの根幹に通じているものがたくさんある。
例えば「SHINING LINE*」の歌詞を紐解くときに、ただ美月といちごとあかりにだけ注目して考えるのでは、やはりもったいない。いろんなアイドル、いや、アイドルでないキャラクターたちにもそれぞれの「SHINING LINE*」があるし、「最初の風」もある。
「アイカツ!」の楽曲は、キャラソンというわけではなく、「アイカツ!」の世界で歌われるポップスであり、普遍性を持った歌詞になっている。もちろん、これは誰々が歌っているという「持ち歌」の考え方はあるが、ある楽曲を別のアイドルが歌うことでまた別の新しい意味が生まれる、ということが「アイカツ!」にはよくある。
などといろいろ考えていると、どの話も外すことができなくなってくる。いろんな人のいろんな出会いが物語を紡いでいる。全ての話が全部つながっている。
「アイカツ!」を代表する曲のひとつに「カレンダーガール」がある。
この曲には「何てコトない毎日がかけがえないの」「何てコトない毎日がトクベツになる」という歌詞がある。
詳しい説明は第22話「アイドルオーラとカレンダーガール」に任せるが、彼女たちの今日をかたちづくっているのは日々のアイカツであり、そして今日のアイカツがその先の未来をつくっていく。
私たちが「START DASH SENSATION」で涙するのは、そうした彼女たちのアイカツをずっと見てきたからである。
もう10年くらいの付き合いなんだけど、昔からすごい舐めていた。
中学の頃、塾でろくに勉強もしてないしサボって遅刻ばっかりのくせに、成績が上がらないのを先生のせいにしてたあの時、初めて「舐めてるな」と思った。
夏休みの宿題の論文も、ずっとサボって、先生に怒られてやっと始めて、一人で9月30日くらいに出していた。
そのくせ超難関大を目指していたし、しっかりまあまあの大学に受かった。ヒィヒィ言って入試に挑んでいた私から言えば、くずだ。全然苦しまないで大学に入って。「すごい!頭いいんだね!」なんて全く思わなかった。どっかで痛い目見ろと思ってた。
私は彼女と同じ大学の医学部に入った。恐ろしい縁で、私と彼女の友人関係は大学に入ってからも続いた。たまたま同じサークルに入ったからだ。それでも彼女はやっぱり舐めていた。
彼女は自分の書いたブログを有料公開にするようになった。一つ100円らしい。もちろん誰も買った形跡はない。誰がお前みたいなののブログ買うんだって思う。舐めている。
サークル活動も、サークル員との遊びも、平気でドタキャンするようになった。日にちを決めて、当日の前日まで音信不通になって、何度LINEしても返信が無いから当日の朝に電話をかけると「ごめん、眠いから行けない」と一言、みたいなサイテーのドタキャンだ。心の広いサークル員ばかりだったからみんな許していたけれど、私だったらすぐに縁を切っていたと思う。
私のことももちろん舐めていた。サークル活動と同じように何度も遊びをドタキャンされた。サークルで失敗して辛い時に1番言われたくないことを言われた。本当に限界だった。
3年の時、サークルで大きなプロジェクトを起こすことになった。彼女はそのプロジェクトのトップになった。
こんな舐め腐ったやつがトップ?って思うのと同時に、ちょっと嬉しかった。彼女が「主体性が無い舐めてるやつ」から「主体性がある舐めてるやつ」にランクアップしたと思ったから。私はそのプロジェクトには参加しなかったけれど、成功を心待ちにしていた。
でもそれも違った。彼女はやっぱり舐めていた。プロジェクトを動かすべき時に、メンバーに一つの連絡もしていなかったのだ。見させてもらったプロジェクトのLINEグループは、一ヶ月前から動いていなかった。
私はそのプロジェクトに参加することにした。学部の勉強がだいぶ切羽詰っていたけれど、プロジェクトのためなら、彼女のためならなんでもしようと思った。次第に私と、それ以上にプロジェクトメンバーが一丸となっていった。
でもやっぱりダメだった。彼女が舐めていたから。一番大事なミーティングに、彼女は来なかった。連絡もひとつもよこさなかった。9時集合なのに17時に「寝坊した」と連絡が来た。「これをやろう」と働きかけても、彼女は返信すらしなかった。彼女のせいじゃない部分もある。でも彼女のせいだった。明らかに。彼女のせいでプロジェクトはダメになった。
はずだった。でも、ダメにならなかったのだ。私のお陰だ。プロジェクトを辞めるか辞めないかの会議の時、「もうみんなに迷惑かけたくない」と泣きじゃくる彼女に「迷惑なんて誰も思ってないよ」と言ったのは、他でもない、私だった。
想定の規模よりだいぶ小さくはあったけれど、プロジェクトはしっかり完了した。それでよかった。私は嬉しかった。成し遂げた、やってやった、と自画自賛した。
親友は舐めている。くずだ。でも、そんな彼女を放って置けない自分がいる。その気持ちは自己満足だ、完全に。でも、ただの自己満だけじゃない。彼女に助けられたことが何度もある。私が男の子に振られた時、彼女は私の欲しい言葉ばかりくれた。だから私も彼女を助けた。プロジェクトは成功した。
4年になって、彼女は就活を始めた。でも、受けた会社は1社。その1社に落ちた愚痴をSNSで延々言っていた。フリーターになるらしい。
やっぱり舐めていると思う。クズ人間だと思う。あの時の「迷惑なんて思ってない」なんて言葉はうそだ。迷惑だ。これから先、もう彼女に迷惑をかけられたくない。
でも、フリーターになると言う彼女の言動にここまで怒っているのは、いらいらしているのは、彼女のことが好きだからなのだ、多分。その気持ちも恐らく自己満足だけれど。
私はきっと、もうすぐ医者になる。きっと収入はいい方だし、仕事は大変だろうけれど生活には困らない。私だったら彼女を養えるな、と時々ふと思う。
彼女はSNSで友人たちに「フリーターになるからなにかして欲しいことがある人は言って!」と呼びかける。アホ。クズ。誰がお前なんかに頼むか。誰がお前なんかをお金払って雇うか。一生彼女を雇う人なんて現れないで欲しい。
俺は多分、物凄く運がいい。
俺は何年か前に当時流行っていた脱法ドラッグをやりまくっていた。自律神経に支障がぶっ壊れまともに歩くこともできなくなった。体重も減りに減って痩せこけてやばい餓鬼みたいな体型になっていた。大好きなラーメンを一口食べてもゲロを撒き散らす始末だった。自殺未遂までいってもう死にかけたのは2度、3度の話ではなかった。
流石の俺も猛省し、日頃の生活を改め真面目に労働をこなした。清廉潔白とは到底言えない過去を持っているのをひた隠し、資格取得のために勉学に励み休みなく朝から晩まで働きまくった。今もまさに早朝からの休日出勤をこなし、資格勉強をしている。(休憩がてらに日記を書いているだ)
年間休日は15日ぐらいでそれ以外はバチバチの肉体労働。労働環境は決して良いとは言えない。だが、給料はそれなりだし満足している。さらにその上、好きでならんかわいい彼女と結婚を果たし子供頑張ろうね!と毎日迫られる始末である。はっきりいって幸せだ。クソみたいな遍歴からしっかりとした人生に戻れたのだ。もうめちゃくちゃ運がいいとしか言いようがない。
その反面日々の中で幸せだなぁ、と感じるにつれてどこかもやもやする部分が多くなりつつある。世の中のストレスの正体が恐らくこれなんだろうが、俺はよくよく考えるとストレスの究極的発散方法を俺は脱法ドラッグしか知らないのである。
あぁ、違法薬物みたいなのに手を染めてぇなぁって思いながら日々を過ごしている。かといって休みもなく入手のアテももちろん無いので途方にくれるのだ。
なんて思いながらそれを眺めている。
変に頑張ってきたせいか、余計なしがらみが俺を縛り付けて何も出来なくなってしまった。
もし、俺が離婚をして会社もクビになって今までの積み重なりがぐちゃぐちゃに瓦解したとしたら。コカインでもヘロインでもマリファナでもなんでもいいから人生がぶっ壊れるぐらいやりてぇな。人生が終わって新しい人生がまた始まるのなら、俺は今度はめちゃくちゃ破滅的な人生を歩みたい。毎日ストレスを無理やりぶっ壊すような生活がしたい。
自分はめっちゃオタクだしオタクコンテンツが規制されることは苦しい。絶対にいやだ。本当にいやだ。
オタクってだけでバカにされるのももちろんやだ。高校時代は部活でエースだった。一年でレギュラーとった。先輩を差し置いて。でもオタクだったから友達がいなかった。それに、レギュラーをとったのもなにかと先輩の調子が悪かったからとか顧問に気に入られてたからとかなにかと難癖つけられたわ。
自分をオタクだって知らない誰かと仲良くなりかけても、増田はゲームキャラのキーホルダーつけてるよ、とか、休憩時間教室のすみでオタクとデュエルしてるよ、とか広められて、仲良くなりかけた人も俺から離れていった…。
こんなのはひどい。ほんとにひどい。つらかった。
オタクってだけでなんで…。部活の練習も人一倍頑張ってたし、ウェイ勢よりずっとまじめに授業受けてた。
オタクのコンテンツだからって世の中から否定されるのはつらい。オタクコンテンツの中にも素晴らしいストーリーやキャラクターがいる。そして尊敬するクリエイターもいる。
ただ、いかに愛するコンテンツといえど、場を誤れば非難の対象になるのは仕方がないというのは理解している。
一時俺の好きなコンテンツにウェイ系を流入しようと合う動きがあった。あの時のプロモーションはひどかった。勘弁してほしかった。やめてほしかった。
おそらくいまキレてるフェミ連中もその時の俺と同じ感情なんだらう。そう考えたら理解できない感情ではない。
べつに一部の人間に否定されたって俺の愛するコンテンツの価値は変わらない。これをオタクコンテンツの否定とは思わない。
わかるやつだけわかればいい。
わからないやつに理解しろと詰め寄るのはどう考えても加害だ。俺だってされたくねえ。
俺の好きなコンテンツが献血コラボしないことを切に祈っている。
※もともと俺は承認欲求が強い人間じゃないし、日向に出たい人間じゃない。だから自分が愛するコンテンツに対してもそんな国民的人気を期待しないという部分があるのかもしれない。自分が愛するコンテンツを国民的人気作品にまで押し上げたいオタクにとっては、今回の件はつらかっただろう。
胸が性的かどうかを思春期以降に知って欲しいっていう性教育をしたいと思う自由も欲しいよー。
自由ってなんだ??
割と本質的な問いだと思うので真面目に答えると、アイザイア・バーリンという哲学者が「消極的自由」と「積極的自由」という概念を提唱している。
詳しくはWikipediaでも読んでほしいけど、要するに
の違いね(cf. anond:20191017201230)。
現代の自由主義では、色々と議論はあるけれど、おおむね消極的自由の方がより重要な自由とされている。
これは増田もそうだろう。「俺が六本木ヒルズに住む自由を実現するために家賃を補助しろ」と言われたら、おかしい、と思うよね。でも、「金持ちの俺が六本木ヒルズに住んで何が悪いんだ? 俺の自由だろ」って言われたら、当然、って思うんじゃないかな。
というのは積極的自由に属する。
その環境を増田が個人の努力あるいは財力に頼って実現する(例:ひきこもる、ゲーテッドコミュニティを作る)のはもちろん自由だ。でも、それをもって他者の消極的自由を制約しようというのなら別の話になる。
積極的自由と消極的自由ならば、基本的に後者の方が重い。よほどの理由がない限り、前者を理由に後者を制約すべきではない。そして、増田が子供にどんな教育をしたいかという話は、「よほどの理由」ではない。
(「よほどの理由」が認められるかどうか争いになっている事例として、たとえば、「感染症にかからず健康に生きていきたい」という積極的自由と、「どんなワクチンを打つか政府に強制されたくない」という消極的自由が対立する局面を考えてみよう)
ところで、
思うだけなら自由ですよ? それは人を殺したいと思おうが誰々くんとセックスしたいと思おうが日本は天皇中心の神の国だと思おうが自由なのと一緒。そこの自由を制約している人はどこにもいないよね。どうぞご自由に思っていてください。
その思いを他者への要求として口に出す(増田に書く)から他人の自由に口を出すなと言われるわけで。
なので、
思春期前の子供に見せたく無い自由は?献血ルームにあるのは別に良いんだけど、公共の場にあるのを見たくない人の多様性はどう思う?
「見せたくない自由」というのも、ご家庭の中でお色気漫画は読ませないラッキースケベアニメは見せないとかそういう話ならどうぞご自由に、お子さんの教育に関しては親御さんに自由裁量があります、という話だけど、他人が自分の敷地に(あるいは借りたスペースに)設置したポスターを取り外させようとするなら、それは他者の消極的自由を侵害してよい理由にはならない、という話になる。
何度も書いているように、積極的自由より消極的自由の方が重いので。
「多様性を見たくない人も多様性に勘定すべきか」というのは難しい議論だけど(「戦う民主主義」を調べてみよう。民主主義を破壊しようと主張する政党を民主的選挙に参加させるべきか?)、そういう多様性も認められるべきだとは思う。他者の消極的自由を損なわないという前提のもとで。
なので、そういう多様性の持ち主がゲーテッドコミュニティ作って暮らす分には、そこにわざわざポスター貼りに行こうとは思いません。ご自由にどうぞ。そういうコミュニティが存在するのも多様性の一貫だとは思うので。アーミッシュのコミュニティとかと同じで。
ところで、私たちが暮らすこの日本はゲーテッドコミュニティではありません。
人を殺す自由はない。人を殺せば刑務所行きになる。他人を誹謗中傷する自由もない。誹謗中傷すれば民事裁判で敗訴し賠償金を科せられる。
既に自由は整えられているのでは……? 現状の日本が無法地帯じゃないのは、ある程度自由が制約されて整えられているからだよね?
私は宇崎ちゃんの胸は揉みたい感じの魅力的なおっぱいに見えるのでやっぱり子供に見せないように気をつけて歩きます!!!自由!!!
はい、それもあなたの自由ですね。宇崎ちゃんのポスターなり看板なりを見かけたら子供の目をふさぐとか、子供に声をかけて注意をそらすとか、見て見て~と逆方向を指差してそちらを見せないようにするとか、そういう自由をどうぞ行使なさってください。誰もそれを邪魔したりなんてしないから。
これはそのとおりで、要望する自由はあるし件のポスターを批判する自由もある。要望を無視したり批判に反論したりする自由もあるというだけの話なので、気にくわないなら文句をつけてりゃいい。今回の増田は「自由」について混乱しているようだったから雑な説明になっちゃって、そこは申し訳ない。ご指摘ありがとう。
消極的自由をより重視するのはどちらかというと英米系で、大陸系だと「政治参加の自由」とか「健康で文化的な生活を追求する自由」とかの積極的自由も重点おいてるんでわ。
いや、積極的自由を重視する人たちも、積極的自由より消極的自由の方が重要という点では一致しているでしょう。意見が分かれるのは、積極的自由はどこまで保障されるべきか、とか、ある行為が消極的自由か積極的自由か、とか、そういう点では。積極的自由の保護自体には私も異論ないですよ。特に社会権は国家がケツを持って下支えしないと自由が掘り崩される。そういう意味で夜警国家やリバタリアニズムは支持できない。
ポスター非難派の言い分はとどのつまり「他者の消極的自由よりも私の積極的自由のほうが優先されるべき(少なくとも対等)」なので、なぜ前者が後者に優越するか、そこにどういった議論があるのか説明しないと無意味
上で色々例を挙げたけど、わかりにくいかな。
じゃあ「山間部の過疎地に政府が十分なインフラを整備していない」と「政府が過疎地の住民を強制移住させる」だったらどうよ。
前者ももちろん問題だけど、どっちがより重い問題? って聞かれたら後者の方がより重大な問題だと答えるのが普通だよね。
言わずもがなのことだけど、前者が積極的自由の侵害で後者が消極的自由の侵害です。消極的自由が積極的自由よりも重要な自由であるのは当然ですね?
(前者は軽んじてよい、と言っているわけではないことに注意。19世紀的な自由主義が消極的自由ばかり重視し積極的自由を軽んじていたことに疑問を呈して積極的自由「も」重視すべきだと主張しているのが現代自由主義です。前者は気にしなくていいよって言ってるのがリバタリアニズム。でもどちらの立場にせよ、消極的自由の方が重いことは否定してないと思うよ)
わかりやすくて納得した。と同時にシートベルトを着用せずに自動車運転して事故即死亡する消極的自由が認められていないのはおかしい、、、のだろうか?とも思った。
レーガン大統領はカリフォルニア州知事時代にそういう理由でバイクのヘルメット義務化法案に拒否権行使してますね。
個人的には、子供には自己の生命・安全を危険にさらす方向での自己決定権を十全に認めるべきではないと思うので、チャイルドシート義務化には賛成。でも大人がシートベルトやヘルメットをつけるもつけないも個人の自由で(だって、究極的にはそれで損をするのは自分じゃん?)、法律で取り締まるのはおかしいと思う。自動車メーカがシートベルトしてないと警報が鳴る車を設計して売りに出すのは商売の自由。
概ね同意だけど、最後のシートベルト義務化の話、日本では車対車の事故で死亡事故だと相手の運転手は過失が多少でもあれば重い罪に問われるので、シートベルトをしない自由を制限する合理的理由があると俺は思うね
相手がシートベルトをつけておらず、それによって生死が左右された場合は情状酌量で減刑すればよいのでは……。
シートベルト義務化については社会的損失を低減する観点から合理性があると思うけどね。『それで損をするのは自分』だけじゃないわけで、治療費、障害、家族の貧困化など・・・結局は社会的負担になるからね。
ここでは合理性の話ではなくて、自由と自己決定権の話をしているので……。
そのへんを表す自由主義の言葉に、「善に対する正義の優越」というのがある。
何が「良いこと」かは人によって違う。倫理観や道徳観(=善)には多様性があって、政府が「お前たちはこの道徳に従え!」なんていうのは押し付けだ。
大切なのは、色々な道徳の持ち主が公平に処遇されること(=正義)だ。他人の自由を侵害しないかぎり、自分の道徳を追求する自由と権利がある。異なる道徳同士のコンフリクトは、公平な制度によって調整される。
だから私は一貫して、最初の増田がどんな性教育を子供に施すのか、については干渉していない。ある人がどんな倫理観を持っていて、それをどんなふうに子供に教えるのかは、虐待とかの形で子供の権利を侵害しない限りにおいて自由なので。
でも、それを口実にして他者の自由を制約しようとするなら反対する。それが自由主義者としての私の一貫した立論。
そういう意味で、自由主義って社会全体にモラルの共有を求める考え方とは水と油なんだよね。大政翼賛会にもスターリニズムにも反対だし、天皇の写真を焼いた! けしからん! も、巨乳を強調したイラストだ! けしからん! も、どっちの表現規制にもNOと言う(正確には、「けしからん!」と思ってもいいし「けしからん!」と批判してもいいけど、それを理由に作品を撤去させたりしてはいけない。右翼やフェミニストが雑誌やブログに「この表現がいかに許しがたいか」みたいな文章を掲載する分にはどうぞご自由に)。
オタクって自由主義者が多いと自分基準で勝手に思ってたんだけど、意外とそうでもないのかな? というのが最近わかってきて、ちょっと驚いてる。周囲のオタク仲間が社会問題でそのへんのおっさんみたいな保守的な認識を示したり、自分に興味がないイシュー(博打とか刺青とかね)だと平気で規制だとか口に出したり(ちなみに、わいせつ物頒布罪と同様に単純賭博罪は廃止すべきだと思ってる。賭博開帳図利罪も「無許可or無届けで賭博の胴元をした罪」とかに変更して民営賭博を合法化するべき)、BL好きの人たちが美少女のイラストをお気持ちで殴ったりしてるのを見てると、オタク界隈でも自由主義の理念は強固なものじゃないんだね……って感じになるので、リベラル派として自由主義はいいぞというのを地道に伝えていきたいですね。
しかし例えばリアルな死体や糞尿の画像をレストラン街の入り口に貼ったら、消極的自由だでは通らないだろう。これはゾーニングの問題で、線引きは色々。そう簡単ではないのでは?
私はヴィーガンじゃないけど、ヴィーガンの人たちが肉フェスの前で動物の屠殺写真を展示するのは表現の自由だと思うよ。
肉フェスのときにこれは不法だ取り締まれって言ってた人たち大勢いたけど、私はそれに与しない。その写真の前で肉料理食べながら自撮りしてヴィーガンを煽るのは対抗言論なので表現の自由。なんでみんな、気に食わない表現に対して表現で対抗するんじゃなくて取り下げさせようとしたがるんだろう。
当たり前でしょう。刺青を入れるのは自由だし刺青を入れて公共空間を歩き回るのも自由。なぜならそこは公共空間なので。刺青を入れた人には公共空間を自由に歩き回る権利があるので。刺青を入れた人が公衆浴場に入れないのはおかしい。自由主義の理念に反している。
刺青を見たくない人は自宅風呂に入る自由とかお庭でビニールプールで遊ぶ自由とかを行使してください。
なんで「他人の自由な行動を見たくない自由」が「他人の行動の自由」を抑圧してまで叶えられるべきだと思っているんだろう。本当に謎。
自由を「権利」に置き換えてもいいよ。「刺青を見ることなく公衆浴場に入る権利」よりも「刺青を理由に入浴を妨げられない権利」の方が重要でしょ。少なくとも前者の人は、公衆浴場に入る権利は奪われてないよね。公衆浴場の光景が自分が望んでいるものではないってだけの話で。でも公共空間に自分が望まないものがあるのなんて当然なんだから、望んでいる光景を見る権利よりも誰かに望まれてないって理由で入浴を拒否されない権利の方が遥かに重要。
刺青も少女像も巨乳ポスターも、「(ある種の人にとっては)見ていて不愉快」程度の害しかない(ナイフで刺すみたいな具体的な加害ではない。ちなみに、私はどれもまったく不愉快とは思わない)。見たくないなら目を背けるなりすればいい。どうしてそんなに自由を制限しようとしたがるんですか?
ネタバレをする自由は当然あるので好きな作品はネタバレ踏まないように注意する派です。基本的にはネタバレ踏むのは自己責任だよね。ネタバレ踏んでチクショウって思ったこと何度もあるけどそれは踏む私が未熟なだけでネタバレ感想書く人のせいじゃない。
もちろんあなたのフォロワーにはネタバレを理由にあなたをリムる自由がある。
100字じゃ説明できないよね。ありがとう増田。原理原則から考えないと、金属バットや愛トレ、今回の胸などで手首がねじ切れちゃう。
ほんとにね。あいちトリエンナーレ問題で一緒に表現の自由のために戦ったはずの人たちからさんざん弾が飛んでくるの、裏切られた感がすごくて絶望的になるよ(公的な施設は抑制的であらねばならない、とか、お前それ愛知芸術文化センターでも同じこと言えんの? っていうね。TPOとかくっそ笑う。じゃあビジネスシーンではカカトの高い靴を履くのがマナーとか言われても文句言うなよと。まあ私はスーツの強制もヒールの強制も間違ってるそんなTPOはクソくらえって主張するけど)。左右の表現規制派からあいトリの天皇アートも日赤の宇崎ちゃんポスターも守り抜いていこうと改めて決意。とりあえず来週にでも久々に献血してくるわ。
今から4年前くらいのあるとき、私が「人を馬鹿にするような、差別的な表現は控えた方がいい」と言ったことに対して「そうやって規制ばかりしていたら面白いものは作れない」と反論された。
その反論に対して、私は戦えなかった。そんなの絶対に間違ってると思ったのに、何も言えなかった。それがずっと心にしこりとして残っている。
私は演劇が好きで、高校〜大学3年生までの6年間、演劇部に所属していた。
私が大学で所属していた演劇部は所属人数が多く、私の在籍中は40人くらいはメンバーがいたと思う。
その演劇部は毎年の秋、学園祭にて、1チーム2人〜の小さいチームに分かれて短編劇を作り、学園祭の間じゅう、交代制で絶やさず何かしらの劇を上演し続けるという企画をしていた。
私ももちろん友人たちとチームを作って参加した。
そしていくつか結成されたチームの中に「ホモクラブ」(※仮名)というチームがあった。
ホモクラブのメンバーは私の一つ下の学年の男子を中心に5,6人が集まっていた。
その名前の通り、彼らは「主人公も主人公の恋人役もゲイ」という設定の劇をやっていた。
設定がそうというだけで、テーマは「純愛」だと彼らは謳っていた。確かに細かい設定を無視してストーリーラインだけ見ればそれは「数々の困難を乗り越え主人公と恋人が結ばれる」というもので、少女漫画のような「典型的なラブコメ」を過激なギャグ調に演じることで揶揄するような内容だった。
ただ、彼らは劇中のキャラクターに「ゲイ」という属性を付与していた。
主人公は雄々しく熱血な性格の男性で、恋人役は「一昔前の少女漫画の典型的なか弱くて健気なヒロイン」像をかぶせられた男性だった。
「やめて!僕のために争わないで!めそめそ」といった感じの恋人を、主人公が「俺が守る!」といった感じで熱血に困難を乗り越え、ふたりは結ばれる。
彼らの演劇は「チープで典型的なラブコメが男どうしで、下ネタをまじえつつ繰り広げられる」ことにおかしみを見出すものだった。
私は彼らの演技が不快だった。
彼らの演技に、自分が同性愛者であることで苦しむ人々への配慮というものはなかった。
自分たちとは違う性自認、性的指向の人へのリスペクトは欠片も感じられなかった。
彼らが自分たちとは違う価値観の人を、キモイだとか直接的な表現で差別していたわけではない。
だけど彼らは普段の生活から「ホモ」という単語を仲間内で相手をふざけて馬鹿にする言葉として使っていて、そのノリがまんま舞台に乗っていた。
彼らに話を聞いてみたことはないけれども、きっと実際に自分たちが演じたいキャラクターと近い性的指向の人に取材をしたり、セクシャルマイノリティに関して勉強したりはしてないのではないだろうか。少しでも勉強していたら絶対にしないだろうという表現を、彼らはしていた。
現実に「やめて!僕のために争わないで!めそめそ」といった感じの男性が絶対にいないとは限らないし、そういう人はそれがその人の個性なので、否定するつもりは全くない。
現実の同性愛者が下ネタを全く言わないとも限らない。そういうのが好きな人もいる。
自分とは違う性的指向のキャラクターを描くときには必ずモデルとなる性的志向の人に取材をして、勉強しなければならないのかと言われれば、絶対にした方が良いと私は思うが義務とも言えない。でないと「どこまで勉強すればOKなのか」なんて話になりかねない。
そして私は「ホモ」という言葉を狩りたいわけでもない。文脈によって、それが実在の他人を貶めるために使われるのではないと明らかにした上でその言葉を使うのは、なんら問題ないと思う。
ただ彼らは仲間内で下ネタを楽しむノリをそのまんま、舞台に上げてしまっていたのである。
舞台ということは、少数だったとしても観客がいる。演劇は観客がいてはじめて完成する。
観客席を作って発表する以上、その劇は仲間内の下ネタ披露大会ではない、自分とは違う価値観をもつ観客に見せるものであるはずだ。
彼らは演劇そのものが好きなようで、部内でも特に精力的に活動していた。
あるとき、地域のお祭りの特設ステージで彼ら「ホモクラブ」が劇を上演することになった。彼らのいつもの芸風で。
私はこれはまずいと思って、彼らに「あなたたちの演劇は見てひどく傷つけられる人がいるから、やめた方がいい」と告げた。
チケットを販売してやる公演ならばある程度客層を絞れる。面白そうだと思った人しか見に来ない。
だけどお祭りの特設ステージとなると訳が違う。通りすがりに、何も知らずに観る人が大勢いる。
大通りが一本、歩行者天国になって展開されるような大規模なお祭りだ。年に一度の、市内の人間なら知らない人なんていないようなお祭りだ。
その歩行者天国と繋がっているアーケードに設置された特設ステージが、彼らの舞台になる。
いったいどれだけの人が彼らの演劇を目にするだろう。その中にいったいどれだけ、自分の性的指向に悩む人がいることだろう。
だけど彼らが慕うある先輩は「この世の人間みんなに配慮することなんて不可能だ。そうやって規制ばかりしてたら面白い舞台は作れない」と反論した。
私は何も言えなかった。その意見は絶対に間違ってると思ったのに。
「この世の人間みんなに配慮することなんて不可能」それは正しいと思う。きりがない。
「そんなことない、ハリウッドの作品とか、ポリコレに気を付けた上で面白い作品はたくさんある」と言っても良かったけど、彼らはハリウッドの巨匠じゃない。プロじゃない。そんなものを求められるレベルにない。
そして、どんなに観客のひとりである私が不快に感じても、本人たちが「馬鹿にするつもりはない」「真剣だ」と主張する以上、この人たちには何を言っても無駄だと思った。
だから何も言えなかった。ただ傷つく人がたくさんいると伝えることしか出来なかった。
それ以来ずっと、私は差別に荷担したという罪悪感を抱いている。
全人類に配慮することは不可能だけど、意図的にとある属性を面白可笑しく馬鹿にはしないようにするということは出来るはずだ。
特に、今までいないことにされていたセクシャルマイノリティの人々がネットを通じて手を取り合い発信し、ひどい差別を受けてきたことが顕在化してきたこの時代に、どうしてあえてゲイという属性をネタとして消費できるのか。
彼らはその「ネタ」で傷つく人がたくさんいる、今まで傷つけられてきた、やめてほしいという声を全く無視している。
そしてそういう声を知っていながら彼らを止められなかった私も、加害者だ。
私自身、自分の性的指向がよく分かっていない、揺らいでいるというセクシャルマイノリティのひとりだ。
それにもともとぱっとしない性格で、お世辞にも自分磨きに熱心とは言えないせいで、つまり暗くて不細工の陰キャなせいで、中学生の頃は息苦しい思いをすることもあった。高校に入ってからは、怖くて男子とは業務連絡以外で口をきけなかった。
だから他人の無邪気な言動で傷つけられる苦しさは人並みには分かるはずだった。それなのに、何も言えなかった。
先日、ネットフリックスにて山田孝之氏が主演のドラマが公開された。全裸監督だ。
私は山田孝之氏が好きなので迷ったが、結局not for meな作品だなと思って見ていないが。
全裸監督は宣伝で「規制ばかりで息苦しい世の中に風穴を開ける」的なことを謳っていた。正直、推しが主演の作品なのに素直に推せない、残念な作品だなと思った。
差別による抑圧と、差別を避けるための規制による抑圧。どちらも抑圧には変わりないけれども、どちらがより優先的に解決されるべきかというと、前者なのではないだろうか。
私は今も苦しい。罪悪感がずっと消えない。セクシャルマイノリティに関する記事やテレビ番組を見る度にそのことが思い出される。
どうしたら消えてくれるんだろうか。
ただこれから一生「規制ばかりで面白い作品がつくれない」という論調に反発し続けるしかないのかと思うと、気が滅入る。
良い「自分の許し方」があればぜひ、教えてほしい。
炭酸ちゃんがかわいい。いや知ってたけどさ、毎晩お世話になってるからさ。しかし、ちょっと間をあけてまた聞くと本当にかわいい。天使が降臨なされたんですねわかります。
まず声がかわいい。なくるさんの声が癒し系すぎてやばい。いや、もはや癒し系という次元ではないな。溶けてる。耳元で溶けてる。溶けてる系ボイスですよ、これは。語尾の“ねー”とか“よー”がまたかわいい。息多めの伸びが心地よすぎて快眠まったなし。
次に性格がかわいい。炭酸ちゃんお得意の“○○しちゃいやーん“ももちろんかわいいんですけれど、押され弱いところとか、徐々に楽しくなって乗り気になってきちゃうところとか、基本的にいじわるだけど根はめちゃくちゃ優しいところとか、挙げたらキリがないな。恥じらいがあんまり無いように感じるけど、本当はめっちゃ乙女なんだよなぁ。ふふっていう笑い方最高に滾るし、もう普通に好きーーー!! 最後には絶対次がある雰囲気出してくれるの結婚するしかない。
これ一番大事な、とみみさんの作る音が最高に良い。収録環境が良いのか、収録器具が良いのか、とみみさんの腕が天才なのか、はたまた全部なのか。とみみさんの音聞いちゃったら他の音が屁でもないように感じちゃうのは仕方がない。耳かきの掻き出してる感があんなに綺麗に出せるのはあなただけだよ。掻かれてるんだよな。今私掻かれてるよ! 事件は耳元で起こっている! 頑張って言語化すると、サッっていう耳から耳かき棒を出すときの音の作り方が最高なんですよ。サッっていう音。ピャッってなる。サッピャッ。
イラストも良いよね。青髪にショート…良い…。見た目は活発な少女なのに、ゆったりした性格なのがギャップ萌えってやつですね。あと巨乳ね。無条件で良い。青い瞳に吸い込まれてしまいそう。
まぁ何が言いたいかっていうと炭酸ちゃんは最高ってことだよ。とみみさんの声付き耳かき動画の最期を炭酸ちゃんで締めてくださって感謝しかない。いつかまた会えますように。毎日会ってるけど。