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2019-10-16

anond:20191016151629

胸が性的かどうかを思春期以降に知って欲しいっていう性教育をしたいと思う自由も欲しいよー。

自由ってなんだ??

割と本質的な問いだと思うので真面目に答えると、アイザイア・バーリンという哲学者が「消極的自由」と「積極的自由」という概念提唱している。

詳しくはWikipediaでも読んでほしいけど、要するに

の違いねcf. anond:20191017201230)。

現代自由主義では、色々と議論はあるけれど、おおむね消極的自由の方がより重要自由とされている。

これは増田もそうだろう。「俺が六本木ヒルズに住む自由を実現するために家賃を補助しろ」と言われたら、おかしい、と思うよね。でも、「金持ちの俺が六本木ヒルズに住んで何が悪いんだ? 俺の自由だろ」って言われたら、当然、って思うんじゃないかな。

この2つの自由対立という点で考えると、私の言う

というのは消極的自由に属する話だ。一方で増田の言う

  • 子供を刺激の少ない環境で養育したい、そのために最適な環境を整えてほしい

というのは積極的自由に属する。

その環境増田個人努力あるいは財力に頼って実現する(例:ひきこもる、ゲーテッドコミュニティを作る)のはもちろん自由だ。でも、それをもって他者消極的自由を制約しようというのなら別の話になる。

積極的自由消極的自由ならば、基本的後者の方が重い。よほどの理由がない限り、前者を理由後者を制約すべきではない。そして、増田子供にどんな教育をしたいかという話は、「よほどの理由」ではない。

(「よほどの理由」が認められるかどうか争いになっている事例として、たとえば、「感染症にかから健康に生きていきたい」という積極的自由と、「どんなワクチンを打つか政府強制されたくない」という消極的自由対立する局面を考えてみよう)

ところで、

胸が性的かどうかを思春期以降に知って欲しいっていう性教育をしたいと思う自由も欲しいよー。

思うだけなら自由ですよ? それは人を殺したいと思おうが誰々くんとセックスしたいと思おうが日本天皇中心の神の国だと思おうが自由なのと一緒。そこの自由を制約している人はどこにもいないよね。どうぞご自由に思っていてください。

その思いを他者への要求として口に出す(増田に書く)から他人自由に口を出すなと言われるわけで。

なので、

思春期の子供に見せたく無い自由は?献血ルームにあるのは別に良いんだけど、公共の場にあるのを見たくない人の多様性はどう思う?

「見せたくない自由」というのも、ご家庭の中でお色気漫画は読ませないラッキースケベアニメは見せないとかそういう話ならどうぞご自由に、お子さんの教育に関しては親御さんに自由裁量があります、という話だけど、他人自分敷地に(あるいは借りたスペースに)設置したポスターを取り外させようとするなら、それは他者消極的自由侵害してよい理由にはならない、という話になる。

何度も書いているように、積極的自由より消極的自由の方が重いので。

多様性を見たくない人も多様性勘定すべきか」というのは難しい議論だけど(「戦う民主主義」を調べてみよう。民主主義破壊しようと主張する政党民主的選挙に参加させるべきか?)、そういう多様性も認められるべきだとは思う。他者消極的自由を損なわないという前提のもとで。

なので、そういう多様性の持ち主がゲーテッドコミュニティ作って暮らす分には、そこにわざわざポスター貼りに行こうとは思いません。ご自由にどうぞ。そういうコミュニティ存在するのも多様性の一貫だとは思うので。アーミッシュコミュニティとかと同じで。

ところで、私たちが暮らすこの日本ゲーテッドコミュニティではありません。

自由ってある程度整えないと無法地帯じゃないかなぁって思ってて…多様性

人を殺す自由はない。人を殺せば刑務所行きになる。他人誹謗中傷する自由もない。誹謗中傷すれば民事裁判で敗訴し賠償金を科せられる。

既に自由は整えられているのでは……? 現状の日本無法地帯じゃないのは、ある程度自由が制約されて整えられているからだよね?

自由への制約は最低限であるべきだろう。

私は宇崎ちゃんの胸は揉みたい感じの魅力的なおっぱいに見えるのでやっぱり子供に見せないように気をつけて歩きます!!!自由!!!

はい、それもあなた自由ですね。宇崎ちゃんポスターなり看板なりを見かけたら子供の目をふさぐとか、子供に声をかけて注意をそらすとか、見て見て~と逆方向を指差してそちらを見せないようにするとか、そういう自由をどうぞ行使なさってください。誰もそれを邪魔したりなんてしないから。

追記

anond:20191016163340

その思いを他者への要求として口に出す(増田に書く)から他人自由に口を出すなと言われるわけで。

これはいいんじゃねえの。聞いた側は受け入れる義務ないんだから

これはそのとおりで、要望する自由はあるし件のポスター批判する自由もある。要望無視したり批判反論したりする自由もあるというだけの話なので、気にくわないなら文句をつけてりゃいい。今回の増田は「自由」について混乱しているようだったから雑な説明なっちゃって、そこは申し訳ない。ご指摘ありがとう

消極的自由をより重視するのはどちらかというと英米系で、大陸系だと「政治参加自由」とか「健康文化的生活を追求する自由」とかの積極的自由も重点おいてるんでわ。

いや、積極的自由を重視する人たちも、積極的自由より消極的自由の方が重要という点では一致しているでしょう。意見が分かれるのは、積極的自由はどこまで保障されるべきか、とか、ある行為消極的自由積極的自由か、とか、そういう点では。積極的自由保護自体には私も異論ないですよ。特に社会権国家がケツを持って下支えしないと自由が掘り崩される。そういう意味夜警国家リバタリアニズムは支持できない。

ポスター非難派の言い分はとどのつまり他者消極的自由よりも私の積極的自由のほうが優先されるべき(少なくとも対等)」なので、なぜ前者が後者優越するか、そこにどういった議論があるのか説明しないと無意味

消極的自由積極的自由よりも優先されるべきだなんて、そんなクソ甘えた理屈民主主義の世の中で通用するとでも?

上で色々例を挙げたけど、わかりにくいかな。

じゃあ「山間部の過疎地政府が十分なインフラを整備していない」と「政府過疎地住民強制移住させる」だったらどうよ。

前者ももちろん問題だけど、どっちがより重い問題? って聞かれたら後者の方がより重大な問題だと答えるのが普通だよね。

言わずもがなのことだけど、前者が積極的自由侵害後者消極的自由侵害です。消極的自由積極的自由よりも重要自由であるのは当然ですね?

(前者は軽んじてよい、と言っているわけではないことに注意。19世紀的な自由主義が消極的自由ばかり重視し積極的自由を軽んじていたことに疑問を呈して積極的自由「も」重視すべきだと主張しているのが現代自由主義です。前者は気にしなくていいよって言ってるのがリバタリアニズム。でもどちらの立場にせよ、消極的自由の方が重いことは否定してないと思うよ)

わかりやすくて納得した。と同時にシートベルトを着用せずに自動車運転して事故即死亡する消極的自由が認められていないのはおかしい、、、のだろうか?とも思った。

レーガン大統領カリフォルニア州知事時代にそういう理由バイクヘルメット義務法案拒否権行使してますね。

個人的には、子供には自己生命安全危険さらす方向での自己決定権を十全に認めるべきではないと思うので、チャイルドシート義務化には賛成。でも大人シートベルトヘルメットをつけるもつけないも個人自由で(だって、究極的にはそれで損をするのは自分じゃん?)、法律で取り締まるのはおかしいと思う。自動車メーカシートベルトしてないと警報が鳴る車を設計して売りに出すのは商売自由

概ね同意だけど、最後シートベルト義務化の話、日本では車対車の事故死亡事故だと相手運転手は過失が多少でもあれば重い罪に問われるので、シートベルトをしない自由制限する合理的理由があると俺は思うね

相手シートベルトをつけておらず、それによって生死が左右された場合情状酌量減刑すればよいのでは……。

シートベルト義務化については社会的損失を低減する観点から合理性があると思うけどね。『それで損をするのは自分』だけじゃないわけで、治療費障害家族貧困化など・・・結局は社会的負担になるからね。

ここでは合理性の話ではなくて、自由自己決定権の話をしているので……。

anond:20191017005044

倫理自由って対立しがちなのかね。

倫理って基本的規制っていうイメージがあるな。することなかれって感じ。

そのへんを表す自由主義の言葉に、「善に対する正義優越」というのがある。

何が「良いこと」かは人によって違う。倫理観や道徳観(=善)には多様性があって、政府が「お前たちはこの道徳に従え!」なんていうのは押し付けだ。

大切なのは、色々な道徳の持ち主が公平に処遇されること(=正義)だ。他人自由侵害しないかぎり、自分道徳を追求する自由権利がある。異なる道徳同士のコンフリクトは、公平な制度によって調整される。

から私は一貫して、最初増田がどんな性教育子供に施すのか、については干渉していない。ある人がどんな倫理観を持っていて、それをどんなふうに子供に教えるのかは、虐待とかの形で子供権利侵害しない限りにおいて自由なので。

でも、それを口実にして他者自由を制約しようとするなら反対する。それが自由主義者としての私の一貫した立論。

そういう意味で、自由主義って社会全体にモラルの共有を求める考え方とは水と油なんだよね。大政翼賛会にもスターリニズムにも反対だし、天皇写真を焼いた! けしからん! も、巨乳を強調したイラストだ! けしからん! も、どっちの表現規制にもNOと言う(正確には、「けしからん!」と思ってもいいし「けしからん!」と批判してもいいけど、それを理由作品撤去させたりしてはいけない。右翼フェミニスト雑誌ブログに「この表現いかに許しがたいか」みたいな文章掲載する分にはどうぞご自由に)。

オタクって自由主義者が多いと自分基準勝手に思ってたんだけど、意外とそうでもないのかな? というのが最近わかってきて、ちょっと驚いてる。周囲のオタク仲間が社会問題でそのへんのおっさんみたいな保守的認識を示したり、自分に興味がないイシュー博打とか刺青とかね)だと平気で規制だとか口に出したり(ちなみに、わいせつ頒布罪と同様に単純賭博罪廃止すべきだと思ってる。賭博開帳図利罪も「無許可or無届けで賭博の胴元をした罪」とかに変更して民営賭博合法化するべき)、BL好きの人たちが美少女イラストお気持ちで殴ったりしてるのを見てると、オタク界隈でも自由主義の理念は強固なものじゃないんだね……って感じになるので、リベラル派として自由主義はいいぞというのを地道に伝えていきたいですね。

しかし例えばリアル死体や糞尿の画像レストラン街の入り口に貼ったら、消極的自由だでは通らないだろう。これはゾーニング問題で、線引きは色々。そう簡単ではないのでは?

私はヴィーガンじゃないけど、ヴィーガンの人たちが肉フェスの前で動物屠殺写真を展示するのは表現自由だと思うよ。

肉フェスときにこれは不法だ取り締まれって言ってた人たち大勢いたけど、私はそれに与しない。その写真の前で肉料理食べながら自撮りしてヴィーガンを煽るのは対抗言論なので表現自由。なんでみんな、気に食わない表現に対して表現で対抗するんじゃなくて取り下げさせようとしたがるんだろう。

anond:20191017100948

刺青を入れた人が公共の場温泉プールなど)で行動する自由」というのも消極的自由になるのかな?

一方で「刺青を入れた人といたくない自由」というのは

その環境を整えろ!と唱える場合積極的自由となるよね?

元増田によるとこれは他者消極的自由を妨げることになるから優先されるべきではないと考えられないか

当たり前でしょう。刺青を入れるのは自由だし刺青を入れて公共空間を歩き回るのも自由。なぜならそこは公共空間なので。刺青を入れた人には公共空間自由に歩き回る権利があるので。刺青を入れた人が公衆浴場に入れないのはおかしい。自由主義の理念に反している。

刺青を見たくない人は自宅風呂に入る自由とかお庭でビニールプールで遊ぶ自由とかを行使してください。

なんで「他人自由な行動を見たくない自由」が「他人の行動の自由」を抑圧してまで叶えられるべきだと思っているんだろう。本当に謎。

自由を「権利」に置き換えてもいいよ。「刺青を見ることな公衆浴場に入る権利」よりも「刺青理由に入浴を妨げられない権利」の方が重要でしょ。少なくとも前者の人は、公衆浴場に入る権利は奪われてないよね。公衆浴場光景自分が望んでいるものではないってだけの話で。でも公共空間自分が望まないものがあるのなんて当然なんだから、望んでいる光景を見る権利よりも誰かにまれてないって理由で入浴を拒否されない権利の方が遥かに重要

刺青少女像巨乳ポスターも、「(ある種の人にとっては)見ていて不愉快」程度の害しかない(ナイフで刺すみたいな具体的な加害ではない。ちなみに、私はどれもまったく不愉快とは思わない)。見たくないなら目を背けるなりすればいい。どうしてそんなに自由制限しようとしたがるんですか?

ツイッター感想並べてネタバレをする自由、やっぱりあった………

ネタバレをする自由は当然あるので好きな作品ネタバレ踏まないように注意する派です。基本的にはネタバレ踏むのは自己責任だよね。ネタバレ踏んでチクショウって思ったこと何度もあるけどそれは踏む私が未熟なだけでネタバレ感想書く人のせいじゃない。

もちろんあなたフォロワーにはネタバレ理由あなたリムる自由がある。

100字じゃ説明できないよね。ありがとう増田原理原則から考えないと、金属バットや愛トレ、今回の胸などで手首がねじ切れちゃう

ほんとにね。あいちトリエンナーレ問題で一緒に表現自由のために戦ったはずの人たちからさんざん弾が飛んでくるの、裏切られた感がすごくて絶望的になるよ(公的施設抑制的であらねばならない、とか、お前それ愛知芸術文化センターでも同じこと言えんの? っていうね。TPOとかくっそ笑う。じゃあビジネスシーンではカカトの高い靴を履くのがマナーとか言われても文句言うなよと。まあ私はスーツ強制ヒール強制も間違ってるそんなTPOはクソくらえって主張するけど)。左右の表現規制からあいトリの天皇アート日赤の宇崎ちゃんポスターも守り抜いていこうと改めて決意。とりあえず来週にでも久々に献血してくるわ。

2019-10-09

昭和天皇を燃やすやつなんだけど(あとあいトリ2019の感想

 昭和天皇写真が燃やされて「日本国民が傷つく」とか思ってる人、実際よくわからんのだけど。

 昭和天皇写真燃やされてウケる〜とか思っちゃいかんのだろうか、そのひとたちにとっては。

 少なくとも私は昭和天皇写真燃えてるのを間近で見ると興奮すると思うので、「傷ついた日本国民」に勝手カウントしないでほしい。T田さんとかH田さんとかK村さんのことね。

 私のそういう発想が不愉快なら私のことをべつに「非国民」とか呼んでくれてもいいけど、私にとって昭和天皇写真燃えるのは、後醍醐天皇肖像画燃えるのとあんまり大差ないよ(ウケるのは昭和天皇写真燃える方だけど)。

 なんにせよ、自分所属するカルトを飛び越えて主語を大きくするのはよくないよね。ここに存分に罵倒リーをぶら下げてもいいから、「昭和天皇写真燃やされても別に不愉快でなくむしろウケる」と思うやつが標本1個ぶんいることは、その罵倒の中でさらに明らかにしていってほしい。ついでに言えば伊藤真美大塚英志JAPAN』(全3巻)とか読んでラスト昭和天皇クローンで憤死しておいてほしい。

 昭和天皇やす上でそれをアートとするかどうかは、見た上で判断たかったのだけど、その楽しみは現場享受できなかったなあ。再開しても抽選ならしょうがないもんね。まあ、最初ガソリン脅迫した奴がクソクソクソ悪いんだから、私はあくまガソリン脅迫したやつにピンポイントでF**kと言っておくよ。

 ちなみにあいトリ2019でよかったのを書いとくね。トヨタ美術館の方は行けなかったので他の人に任せた。

桝本佳子五重塔/壺 ほか」(@名古屋市美術館

:マジかっこいい。かっこいいから見にいってくれ。これだけで名古屋市美に行く元は取れる。茶碗展と動物園の両方好きなやつはいっとけ。両方が入ってるから。私はメロンカジキマグロが好き〜。

パスカレハンドロ(アレハンドロ・ホドロフスキー&パスカル・モンタンドンホドロフスキー)「サイコマジックアレハンドロ・ホドロフスキーへの手紙アレハンドロ・ホドロフスキーソーシャルサイコマジック』」(@名古屋市美)

:うさんくさーい、けどこれIbとかラヴクラフトとかSCP好きな人にはたまらない空間だと思うよ。会場に手紙抜粋があるから受け取っていくといいよ。

村山悟郎「Decoy-walking」(@愛知芸術文化センター

:これ、本来なら科学技術未来館かにあってもおかしくない展示なんだけど、そういうものも「情(報)」ということでアート展示に収められるのはこの展示会のコンセプトのいい部分だなと思います人間下半身を模した機械がなめらかに動いているのを注視させてもらうだけでコーフンしちゃう

dividual inc.「ラストワーズ/タイプトレース」(@愛知芸術文化センター

自殺する直前に書かれた遺言書タイプする映像を暗闇の中に陳列した部屋。血と肉を人体から剥ぎ取った後もなお残る死の匂いって、もしかたらこういうものかなと思った。

モニカメイヤー「The Clothesline」(@名古屋市美)&#YOurfreedom(@愛知芸文)

:行った時には表現不自由展中止にあわせて展示自体が止まっていたモニカメイヤー作品は、 「女性差別経験」を来場者に書かせるという非常に生-政治的なコンセプトなのだけど、展示が止まってしまたことによってそれらのピンクメモ自体封殺されてしまたかような風景になっていた。これについてはむしろ展示中止中もまたひとつ芸術になっていたと思う。あと、モニカメイヤーのこの手法を借用して、表現不自由展前のブースで行われていた #YOurfreedom も、女性に限らない不自由差別的待遇について来場者の一人ひとりが強烈なメモを書き残していて、重苦しい気持ちになった。我々が取り除くべき不自由はまだあるんだという決意が漲った。ただ、それを「表現不自由展」中止の再開にむけたメッセージのようにも取れるような物理的配置はちょっと狙いすぎであざといなと、(再開を期待しており、不自由批判論者をわりとバカにしている私ですら)萎えるところはあったけれど。

今村洋平「tsurugi」「peak」(@愛知芸術文化センター

:今回見たあらゆる展示の中でもっと純粋に“何がどうなってるのかわけわかんない凄み”があった。生きてる時代が同じなのに、存在自体オーパーツ、みたいなのを作るのに挑戦してくれてありがとうってかんじ。今後いろんな展覧会でもういちど見られるといいな。

加藤翼「Woodstock2017」「2679」(@愛知芸術文化センター

ロープに逆らわないとバンド演奏もできない男たち。ウケる。でも弾いている曲だったり場所だったりの文脈によって政治風刺として立ち上がる、という作品愛知芸術文化センターの地下の端っこにひっそりとあるので余計じわじわ来た。

洪松明(ソンミン・アン)&ジェイソンメイリング「本当に存在する架空ジャンル

:合計10架空音楽ジャンルが、PowerPointちょっとしたオリジナルサウンドと共に表示される。一番ウケたのが「Neo liberal Adult Contemporary」と共に表示される$¥£などの通貨表示。「ネオリベを表すパワポ芸wwwwwwww」ってなっちゃった。他のジャンルも「言われてみればありそう」という気もしないでもなかった。近過去近未来SFアート一種としてこういうやり方はもっと聴いてみたい。

弓指寛治「輝けるこども」@円頓寺商店街

クレーン車で事故死した6人のこどもの人生を追跡しながら狭い回廊を逆時計回りにめぐらせると、うざったい現代車の垂れ幕に遭遇させられ、それをくぐっている間にいつのまにかくり抜かれた穴が右側に出現し、鑑賞している自分の側が「子供を轢きうる運転手の視界」に組み込まれる……という仕掛けになっている。前半の子供の記憶を掘り起こす温かみとはまた別の角度から刺してくる、順路コミのアート展示だった。円頓寺商店街をめぐるなら優先的に行っておいたほうがいい候補の一つ。ただ、並んで歩いてたひとの多くがその車の穴に着目していたかと言うと、よくわからん誘導ないほうが嬉しいけど伝わってない可能性も高いかもね。

岩崎貴宏「町蔵」

:蔵の中に展示された圧迫感ある古物ガラクタアート感が一方の魅力でありつつ、正直言って円頓寺商店街中屈指の瞬間的デートスポットである(作者の狙いは知らんよ)。カップルは並んでいっとけ。できれば内部に明かりのある夕方がいい。

その他めし事情

あと名古屋新幹線在来線駅構内きしめんを食べてから行くべし。駅出てからきしめん屋探すくらいなら松坂屋南館10階のあつた蓬莱軒でひつまぶし食っとけ。

2019-09-06

津田被害者ぶるのと慰安婦を利用するのをやめて辞職しろ

「どんな批判も甘んじて受け入れる」 津田大介氏が「お詫び」と「報告」(あいちトリエンナーレ表現不自由展」)

https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5d556072e4b0eb875f201a8c

批判を受け入れてないでしょうがこの偽善者。受け入れたらふつうは辞任しますけどね。結局自分正当化しているだけじゃないですか。

激しく笑う。とくに中村かさねのような嘘つきがいうのは本当におかしい。

まず表現不自由展に出すなら中村累のような嘘つきに消された日清食品を真っ先に挙げる。

さらにいうとこのあいちトリエンナーレの人選は客観的ではない。

あいちトリエンナーレ2019」でジェンダー平等が実現 芸術監督津田大介さんのこだわりの理由とは

アート門外漢である自分からこそできること、業界にしがらみのない人間でなければできないことがあるはずです」

https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5c9ab498e4b08c450ccd7da6

まず人選からして客観的ではない。そもそもジェンダー平等って結局エリート女性えこひいきしろという男女不平等階層差別肯定しかない。自分たちがあたかもただしいように言うのはウソフェイクニュース歴史修正主義正当化されるのはこのようなでたらめな行為ジェンダー平等かいフェミニズムにある。柴田英里は支持はしているけど参加はしていない。

まりこのトリエンナーレ自体表現不自由であるといえる。女性男性より優れているなら、あるいはジェンダー平等が実現しているならなぜ中止をするのか。結局女性男性より優れていないし、ジェンダー平等なんて単なる利権にすぎないということがよくわかる。

さら問題なのは結局歴史修正主義が正しいこと、検閲が正しいことを肯定している。このために慰安婦を利用しているという点で非常に最悪だ。慰安婦に対する敬意が感じられない。ジェンダー平等かいう連中は元からセックスワーカー人間とみなしていないためこうした利用しかしない。こういう時の権力者に阿りながら表現不自由肯定するのは本当に失礼だろう。

表現不自由展、津田大介氏と実行委が外国特派員協会で別々に会見。「会期中の再開目指したい」と津田

30分後に開かれた実行委の会見について、津田さんは「僕は同席しての記者会見を望んだが、(実行委員会メンバーから)同席を断られているということです」と明かした。

https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5d6c8bd7e4b0cdfe05723001

どこまでも醜悪だが、その電凸をあおっているのはハフィントンポストであり、さらにその一人が中村かさねであるのは非常に悪質だ。

<script async src="https://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>

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本質的バカをつけあがらせたいのがジェンダー平等とかフェミかいっている連中で、だからこそこういう人たちには学術的にも言論的にもなんの価値もないわけです。そして排除していい。なぜならジェンダー平等の連中は一切倫理も知性もなくそういう行為をするからです。そういうのには正当性がない。逆に排除しなければ大多数の自由がなくなる。

2019-08-03

表現不自由展・その後」を見てきた

せっかく愛知県在住なんだしと思って行ってきた。メモがてら書く。

どんな作品が展示されてるかは主催側が用意したサイトがあるから、そちらを見てもらった方が良いと思う。 https://censorship.social/artists/

会場は愛知芸術文化センター8階。名古屋中心部にある地下鉄栄駅から直結。トリエンナーレのメイン会場は10階で、そこでチケットを買ってから下りる形になる。ちょっとわかりにくかった。

表現不自由展」というくくりで、あくまでもトリエンナーレの展示の1つ。割当も他の展示と同じ「1部屋」で、映像作家作品を大画面で流してるだけの部屋と同じ。展示場所は会場の中では角地にあたり、ここを見なくても他の展示を見れる順路になってる。また、薄いカーテンで区切られていて、その前に、展示の趣旨や「SNS公開禁止」の注意書きが書かれている。

薄いカーテンの向こうは、結構人口密度。他の展示とは明らかに違っていて、関心の高さを伺わせた。ただ、これは展示レイアウトも悪い。入り口すぐの廊下状の細いところで、そこそこ長い映像作品(「映像・遠近を抱えて」)を流してるから、そこで人が滞留してしまうのだ。

入ると大浦信行「遠近を抱えて」。昭和天皇肖像写真コラージュ作品1986年富山県立近代美術館での展示が問題視され、図録も焼かれたという。「本を焼く者は、やがて人間も焼くようになる」という言葉が浸みる。

また、その後に作られた同趣旨映像作品が流れている。戦中の音声に乗せて「海ゆかば」が流れる。年配の女性がそれに合わせて口ずさんでいた。その次の従軍看護婦の手記の朗読では、その人は涙ぐんでいた(隣の若い女の人も)。そして、その後、昭和天皇肖像が焼かれるシーンに移るのだが、そのシーンではなんとも言いがたい表情をしていた。

ちなみに、映像を見ていたら、金髪芸術監督が通っていった。ちょくちょく様子を見に来てるのかな。

廊下を抜けて広いエリアに。

大きな音ではないが、ヘイトスピーチの音声が聞こえる。展示の1つとして、慰安婦写真展示への反対活動ドキュメンタリーが流されていた。

正面に慰安婦像こと「平和少女像」。やはり客の関心は高そう。

説明文として「《平和少女像》に込められた12象徴」という説明文。肩にとまっている小鳥や手の形などの意味についての説明がある。像の後ろに「ハルモニ(おばあさん)になった影」が描かれているのは初めて知った(画像を見ると大使館前の像にも影がある)。

椅子自由に座れる趣旨のことが書いてあった。写真を撮る人が途絶えたタイミングを見計らって座ってみたら、スタッフ札を付けた人に声をかけられた。「叱られるか!?」と思いきや、「写真を撮りましょうか」と。撮ってもらったら、なんか囚人みたいな写真が出来上がった。他に座る人はあまりいなかった。自分がいた間で、他に1人ぐらいかな。

個人的に興味深かったのは、Chim↑Pomの「気合100連発」「耐え難き気合100連発」。福島県相馬市若者達がガレキの中で円陣を組んで「気合い」を入れる様子を描いた映像作品。「福島ガンバレ!」「彼女欲しい!」とか叫んでる中に、「放射能最高!」とかヤケっぱちの言葉が混じる。「国際交流基金よりNGが出た」とき提案した「NGワードをぼかすような編集」版と同時に流れていて、そちらは、たまに「ピー」音が入って英語字幕にも黒線が入る。編集版と同時に流すことで、ある意味完成した形にも見える(ちょっとヤラセくさくも感じた)

観客の様子も気になっていたのだが、本当に「普通の人たち」という感じだった。普通美術展よりは、少し若め&男性が多めだったかも知れない。

映像・遠近を抱えて」の前半部分は、かなりの人が涙ぐんでいた。それだけに、後半のパートの衝撃は大きいだろう。まさしく現代芸術だ。

最後に。

「抗議の声も含めて作品」「政治家横槍も含めて作品」と言う人もいるが、「表現不自由展」は、この一部屋だけで作品としてしっかり完結していると感じた。「表現自由への反対」という声すら守れない、あるいは何の罪もない職員が身の危険を感じるような状態は、決して看過してはいけないだろう。

 
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