はてなキーワード: 歴史的とは
オレは麻雀をプレイするんだけど、負けにはおよそ2パターンある。
オレは後者を、運が悪いと称している。自由意志の範囲を最大限認めても、どうしようもない領域がある。たとえば彼女にベストなプレゼントを渡すため最大限の時間をコミュニケーションに割いて、理解の努力をしても、的はずれな選択をしてしまう事もある。
自由意志の範囲をもっと狭く、あるいは全く認めない思想は有り得る。その世界では「責める」概念は意味をなさなくて、すべての刑務所は病院になる。以前、はてな匿名ダイアリーで議論したことがあるんだけど、結局、自由意志不在説を否定することはできなかった。自由意志がまったく無いと考えてもなんら不整合はない。
b:id:kaionji 何百年経っても文化的にも技術的にも経済的にも欧州の底辺だしなあ。近代になって軍事だけはマシになったけど。
人類に文化や経済が存在したのは人類の歴史の1割にも満たない期間。
b:id:njamota 人種が違えば見た目は変わる。人種の平均を取って比較すれば差は存在するだろう。そういう偏りが見た目だけでなく性質においても存在する可能性を否定する理由は?あるいは、愚かという特性が抽出不可能という立場?
見た目が違っても愚かかどうかは関係がない。
愚かという特性が人類全般で抽出可能なのだから人種や国籍で判断できる問題ではないというのは自明。
そういう話。日本のような教育政策を取れば日本人のようになるという話で別に日本人「だから」愚かなのではない。日本人の中にはまともな人もいる。
ネタとシャリの間にわさびが入ってる程度の寿司をたらふく食べたい。
いわゆる100円寿司各社がわさびを別添にするようになってどれほど経っただろう。
あれもそんなに嫌ってもないのだが、しかしわさびはネタとシャリの間にいてほしいし、ネタとシャリは横倒しにしても分離しない程度に握り固められていてほしいものである。
このささやかな願いに同調してくれる人は決して少なくないと信じているが、しかしこれを叶えることは存外容易でないものである。
百円寿司で一旦ネタを剥がしてわさびをつける戦略は思いの外満足度が低かった。
上記が叶う程度の回転寿司は採算がアレなのかコスパが良くなく、何よりレーンの中に板前が居たりしてコロナ禍において通いづらかった。
宅配寿司は1人前をなんとなく頼みづらかった。
持ち帰り寿司は最も理想に近かったが、ヘビロテすると飽きが来た。
ついでに言うと俺は今ほぼリモートワークなのだが、1人前の寿司を買いに日参するには絶妙に店舗立地が遠かった。
ここに至って俺は認めざるを得なかった。もはや自分の寿司は自分で握るしかない。
業務スーパーで冷凍のサクを買う。今日は寿司だと思い立ったら冷蔵庫で解凍し、白米を炊いてすし酢と合わせてええ感じに握る。これだ。これしかない。
今どきは便利なもので、寿司の握り方はyoutubeでいくらでも調べられた。
ちなみにこの過程で家庭向けの寿司を握る補助具的なものがないか調べたが、結果は芳しくなかった。
百円寿司のシャリ玉ロボットの人力版みたいなものはあったが、肝心のネタとシャリを一緒に握れる機能はなかったのだ。
アイスクリームスプーンのしゃもじ版みたいな奴は工夫次第でいけるんではと買ってみたが、逆に面倒だった。
とはいえはじめの数回は酷い出来だった。初めて作った寿司はずっしりと重く、太く、齧れるほどだった。
細くしてみたら底面が崩れて、自立しなくなった。
力を抜いて軽く握ったら形が整わず、あちこち米粒が飛び出した。
いい感じに出来たと思ったら握れておらず、箸で持つと折れた。寿司飯にして1.5合喰った。
もともと刺身はサクで買う主義だったので柳刃包丁は持っていた。しかしここでも問題が発生した。
狭いアパートでスーパーのサクを切るくらいしか想定していなかったので、柳刃と言いながら刃渡りが20cmしかなかったのだ。
平造りしかしないのであれば正直十分だった。だが寿司ネタを切りつけるには指四本よりもやや長い幅を切らねばならぬ。
我が家の包丁は三徳と出刃と柳の3本だったので、実はイワシや小アジを捌くのも多少不便だった。
なのでこの20cmの柳は片刃のペティというか小魚用の身卸というか、小刃でもつけて多目的に使うことにして、
9寸くらいの柳刃を追加しようと思った。しかしなかなか好みの包丁が見つからない。
あれは伝統的には朴の木で出来ていて、穴をくり抜いて口輪を付けて刃を挿すものだ。
口輪は経年で縮んで締まる水牛の角がいいとか、サビ防止に刃を挿す前によく熱して中を焼くとか、
あれこれあまり知られていないノウハウがあったりなかったりするものだが、これらは基本、その時代の工夫というものだ。
朴の木を使う理由にしたって、自然の木材の中では水に強いという程度のことでしかない。
耐水性の高いハンドル材がいくらでも選べ、ステンレス包丁なら中子が錆びる心配もない現代において、
敢えて朴の木に鋲もネジもなしに摩擦力で留めるだけの柄を使い続ける理由はなにもないと思うのだが、
何故か頑なに和包丁には朴の木のハンドルを使うというのが常識となっているようである。
しかもアレ大抵白木だから、魚の血や肝とか砥石の研ぎ汁とか付着した日には金たわしや最悪紙ヤスリなどで削るんである。
なんぼなんでも、あまりにも前時代的だと思うのだがなんとかならんか。
閑話休題、そういうわけで柄が積層材、鋲止めで刃はステンレスで口金もついて9寸の柳刃を探し回るのであるが、
これがまあ見つからないこと。なんとか探し当てても鋼材がなに使っているのか非公表だったりしてそれも気に入らない。
世の中にモリブデンバナジウム鋼と分類できる鋼材が一体何種類あると思っているのか。
まあ包丁問屋が日本鋼って鋼材がガチで在ると思い込んでいたりとかなくもないらしいのでその類なのやもしれぬ。ファック。
流石にそこまでいくとマニアックすぎないかと思われた向きもあるかもしれないが、これが結構実害があったりするんである。
例えばAmazonの検索アルゴリズムとか。「モリブデンバナジウム鋼」の包丁が合金鋼と表記されてるせいで(※間違ってはない)、
検索ページの絞り込みで「材質:ステンレス」にチェックを入れると表示されなくなったりとか、いざ遭遇すると割とびびる。
Amazon内で検索するのがマジで役に立たないので、色々辿ってメーカーのカタログから作ってることは確認した上で購入方法を
調べてみたらAmazonで普通に売ってた(でも検索からは出ない)とか、本当に勘弁してほしいものである。
包丁噺ついでにさらに脱線するが、和包丁の鋼への信仰心とでも言うべきものにも戸惑うものがある。
俺は趣味で切出しや肥後守とかも使うので炭素鋼の切れ味と扱いやすさは理解している。ついでにフライパンは鉄製に限る。
だが包丁についてはステンレスで統一する主義だ。たしかに差はある。他はまだしも出刃だけ(柳だけ)は鋼、と言う意見もわかる。
けれどそれは刃持ちに妥協できない業務用途に限った話ではあるまいか。
家庭用の包丁では、刃持ちを妥協して柔らかい鋼材を使う、と言う選択肢が取れるためだ。
正直な話、HRC56の謎ステンレスとHRC62の青紙だったら、ステンレスのほうが研ぎやすい。
粗悪な刃物だとカエリがペラペラしたりするのも知ってるが、今どきそこまで酷いのは中華の偽ブランドナイフくらいのものである。
わざわざ水気に弱いものを水に濡らして使うくらいなら、多少ヘタリが早くともステンレスを使ったほうが手間がないと俺は思う。
しかし、どうやらそういうのとは無関係に「鋼の包丁」という情報を食う連中がいるようで不気味なんである。
よくいる初心者には白2鋼おすすめ!などと勧める奴も、真に受けて購入した包丁を錆びさせる奴も大概アレであるが、そうではなく、
ちゃんと扱えたとしてもいらん苦労でしかないような怪しげな包丁をやけに目にするのである。
職人が手作りで仕上げた白2の包丁が必要な場面というのはもちろんあるであろう。
板長が本焼きを持っていることがステータスになる世界だってあって全然構わない。
だがこの異常に安い、4桁円で買えるが白1鋼という包丁は一体誰向けに作られているのだ…?
それはかけた手間に見合った性能を引き出せているか?ただ錆びたり柄が腐ったりするだけの包丁ではないか?
さて話を戻して、そうして多方面を呪いながら包丁を都合すると、道具の面ではもうあまり不足がない。
飯にすし酢をあわせるのにボウルでは不便だと思っていたが、これは代用できるものが見つかった。
どこでも手に入る土鍋である。市販の鍋セットをそのまま突っ込める大きめサイズを買っていたのが幸いした。
米自体を土鍋で炊くほど拘りはしない。炊飯器で炊いたのをお櫃代わりに鍋に移して酢と合わせる。おこげは寿司に出来ないのでこれでいい。
土鍋は保温については文句がない。調湿は流石に木の桶とは比べ物にならないが、ステンレスのボウルに比べれば水気を吸う。
むしろ木桶は水を吸いすぎるので事前に濡らしておくというくらいだから、土鍋でも十分なのではないかと思う。
そもそもシャリが一人分なのでそれほど乾く心配はしなくていい。何かの理由で台所を離れなければ行けない場合は
濡らしたペーパーを被せておいて、それでも足りなければ濡らして絞ったペーパーを直接触れない位置に置いておくとか、工夫次第である。
何より手入れに手間がいらないのが良い。ものにもよるが食洗機に突っ込むことだってできる。
ただ、冬場は冷えすぎるので事前に軽く温めたほうが良いみたいではあった。
自分で寿司を握ってみると、寿司というのは米料理なのだなぁと言う思いを強くする。
わかりやすいのは水分量の管理で、米を1合炊いてすし飯にした場合、最初と最後の1貫は米の状態が顕著に異なる。
米の状態を見て手につける手酢とかも調整していく必要がある。でないと米が手についたり寿司がベシャベシャになったりする。
反面ネタの方は自分で喰らう分には割と融通が効く。多少大きさが不揃いだろうと人に出さないなら問題ないし、
なんなら小さく切って1貫に二切れ使ったって良い。シャリはリカバリできない。
握りの技術については、未だにわからないことが多すぎて文章にできない。
ただ握り寿司にした米の総量でみて、大体1升を越えてくると、当初の目的であった
「ネタとシャリの間にわさびがあって、横倒しにしても分離しない程度の寿司」については達成できたと思う。
最初は量をこなさねばと思って一度に1合半とか2合とか炊いて喰っていたので、自宅寿司8回目とかでクリアした格好だ。
ただ本末転倒なことに、この達成水準の寿司は俺を満足させなかった。
何よりもわさびの風味が駄目だった。本わさび使用と大書された高級ラインでも、チューブわさびは寿司に向かないと知った。
わさびの味自体に問題があるというより、油脂などに由来する滑らかさが違和感の原因ではないかと思う。
脚を伸ばした遠いスーパーに本わさびのちょうどいい感じにすごく小さいやつが売ってはいたが、毎回それはしんどい。
いろいろ試したが未だ納得がいっていない。粉わさびを都度練ると良いらしいので次はそれを試すつもりだ。
ネタは切りつける上では自由でいいが、買ってくるときは悩ましいことが多い。
一貫分のネタの大きさは解説する人によって千差万別で、総合すると10g~15g、シャリの量は10~20g
ばらつきが大きすぎて正直参考にする気が起きない。
おそらく職人の技としては狙った大きさで握れることが要諦で、何グラムにするかと言うのは店舗経営の領域なのだろう。
歴史的には、江戸の屋台で売られてた頃はシャリだけで40gあってこれが右肩下がりで小さくなってるとか。
戦後の一時期に限れば米1合=10貫だったのでシャリは30~35gくらい(水分量による)だっただろうとか。
どっちかと言うと自宅寿司やる際に考えるのは、魚をサクで買うときに何グラム分買うかということである。
何度か試した限りだと、俺が適当に握る場合「端っこを除いて」200gの刺し身に米1合使っているっぽい。
そしてこれは多分、この比率は結構ネタが小さくて薄いパターンである。
よく商品画像的なもので見る、ネタの先端が地に付きそうな寿司を握ろうと思うと、ネタをかなり増やして考えないといけないと思う。
アジやイワシやその他の魚をまるまま買って捌く場合はまた考え方が変わる。
イナダを一匹買ってくれば小さいのでもデブ3人前くらいのネタが取れるので、下側の身は翌日塩焼きにでもしようか
みたいな悩み方をすることになる。
小さい魚の場合は魚体の身を2分割または4分割して考えることになる。
イワシなら手開きにして上身と下身それぞれ半分に切れば1尾から4貫取れるな、とか。
アジは血合い骨をいちいち処理したくないので、節を渡して半身から4貫取れればいいけど、そこまで大きくないならさてどうしよう、みたいな。
隠し包丁で骨を抜かずに切って済ませる、とかもあるみたいだがベストプラクティスは発見できていない。
何れにせよ、分量的にも予算的にも、何種類ものネタを一回で準備するのは難しい。
どうしてもやりたければ刺身の盛り合わせなどを買うことになるが、用途からして寿司ネタ用ではないのでいまいちである。
ただこれはバリエーションとクオリティの向上で克服できる課題だと考えている。
要は今日は寿司を食べよう、ではなく、今日はこれを握ろう、と考えるようにして、
その上で握った寿司の満足度が100円寿司の10皿を超えていれば良いのである。
あるいは冷凍庫に投資するのも一考の余地があるか。チルドで流通するサクを50gくらいに切り分けてからホームフリージングできれば理想ではある。
ただそこまで行くと引っ越すべきな気もしてくる。
黒人が暴力を使うのと白人が暴力を使うのはアメリカでは意味合いが違うんだ
BLMっていう大事件があった結果、今の米国においては恐怖の象徴とされている
黒人がビンタをするのは次の段階に進んだら殺しに発展することを意味するが
歴史的に黒人はギリギリまで耐えて本当の暴力に訴える直前で最後の警告をする
でも変えられなかった
ヒスパニックもチネーズもどこまでも差別を受け続けるお国柄を諦めて受け入れてる
生まれつき白人という下駄を履いているのを脱ぐ必要なんて無いと考えてる
そういう国において黒人が拳を振るうことの意味はあまりにも重いんだ
それをアメリカ人は皆知っている
だからアメリカの黒人は自分の筋力は自慢してもそれを他人を傷つけるのには使わないようにしてる
でもウィル・スミスはやった
それは「俺はもうお前を次の瞬間には撃ち殺しているかも知れないぞ」という警告だ
歴史的ですねぇ
僕たちはどこから来てどこへ行くのか、はたまたどこへも行かないのか
たまに自分が行ったこともない街の夢を見たり、ふとした拍子に眺める街並みに異郷を感じてしまったり
これがノスタルジーかどうかは置いておいて
ということで本日は【正確で簡潔な指示よいか】でいきたいと思います。
正確で簡潔な指示よいか!正確で簡潔な指示ヨシ!
テニスのアンスコといえばフリフリ白パンツか、紺ブルマーのイメージだ。純白のスカートから躍動する脚、チラチラのぞきブルマー。実物は見たことないのに、なぜかドキドキしてしまう。この偽装された記憶はどこから来たのだろう。
ウィキペディアによれば、第1回大会はセンターコートに置いてあった芝生の手入れ用のローラーを新しくする資金集めを目的に、1877年7月9日から始まったそうだ。種目は男子シングルスのみのアマチュアの大会だった。
1884年に女子シングルスと、それまでオックスフォードで開催されていた全英男子ダブルスがウィンブルドンで開催されるようになった。1913年には女子ダブルスとミックスダブルスが加えられ、1968年にはプロ選手の参加が認められた。
世界中から強豪選手が参加するようになったため、地元イギリスの出身者は長らく優勝できなかった。男子シングルスでは1936年のFrederick John Perryから2013年のSir Andrew Barron "Andy" Murrayまでの77年間、優勝がなかった。また、女子シングルスでは1977年のVirginia Wadeの優勝を最後に40年以上イギリス人の優勝者は出ていない。
ちなみに、このように海外勢いに門戸を開いた結果、地元勢が淘汰され消沈することを「ウィンブルドン効果」という。
開催時期は原則として6月最終月曜日から2週間で、ちょうど英国の社交の季節だ。競馬のロイヤル・アスコット(「マイ・フェア・レディ」に出てくるあれ)、競艇のロイヤル・ヘンリー・レガッタもこの時期だ。
ドレスコードが厳しいのでも有名で、原則身に着けるのは白一色である汗じみが見苦しくないようにともいわれる。ブリタニカのページなので確かだろう。
https://www.britannica.com/story/why-do-tennis-players-wear-white-at-wimbledon
元々、ウィンブルドンでは女性はロングスカートや分厚いシャツ、それから帽子をかぶることが要請されていた。こちらではコルセット付きだったとも(ただし白い衣装について異説を紹介していることに注意)。20世紀初頭のテニスプレイヤーは道行く女性の姿と大して変わらなかったのである。だから本気で優勝を目指すことはおろか、ちょっと大きな球を返すのさえ大変だった。当時の男性がずっと軽装だったのと対照的である。
流れを変えたのはDorothea Douglass Lambert Chambersという選手で、1900年により簡素なシャツにネクタイ姿で登場した。7度シングルで優勝し、1908年には夏のオリンピックで金メダルを取っている。彼女は1910年にドレスコードやエチケットについての本を著している。
その後フランスのSuzanne Lenglenがテニス界のフラッパー(新しい女)として知られるようになった。飲み物をブランデーと入れ替えたり、強めのメイクをしたりといたずらも好きだった。負けると感情的になったことでも知られる。彼女は白のみのファッションを許容していたウィンブルドンに立ったが、エキセントリックなファッションセンスでも知られていた。ミンクやオコジョのコートをまとい、当時としては短いスカートでプレイしたのである。彼女が次の世代の女性たちに道を切り開いた。
そして戦後の1949年、Gertrude Moran(Gorgeous Gussie)がスキャンダルを引き起こした。というのも、ウィンブルドンの意匠は白一色だと規定されていたのだが、そのあまりにも「明らさまな」白い衣装に観客はショックを受けた。どういうことか。試合の前にMoranは公式開催主のTed Tinlingに衣装をデザインしてくれと依頼していた。一見すると規定に従った衣装に見えるのだが、実際にプレイするとフリル付きの下着が丸見えになったのだ。
これに関し、All England Club’sの委員会は「ウィンブルドンに野卑と罪を持ち込んだ」と猛烈に批判し、国会でさえ適切な衣装についての議論が起こった。Tinlingは33年のキャリアにもかかわらずウィンブルドンのホストを追放された。にもかかわらず、Moranは魅力的な姿から彼女は人気だった。彼女は後に「自分はただの女の子だったが、メディアが大げさに書き立てたのだ」という趣旨の発言を残している。彼女は60年代まで活躍した。
https://www.thecut.com/2018/08/womens-tennis-outfits-convtroversy-history.html
衣装に関する議論は定期的に起きている。全ての内容を翻訳していてはページが長くなるので、見せパンに関係するいくつかのみをピックアップする。
1958年にアメリカのKarol Fagerousは金のラメ入りの見せパンを全仏オープンで披露したが、すぐさまウィンブルドン大会への参加を禁止された。「対戦相手を不快にさせる」のがその理由だ。しかし、金のラメを白いレースで覆うことで参加を許可されている。
あるいは2016年のナイキがデザインしたベビードール風のテニスウエアがある。しかし、選手が身体を隠すのに苦労したし、ひらひらして浮いてくる。実際写真で検索するとしょっちゅう短パンというか見せパンが丸見えになる。なので、ナイキはすぐにその衣装を改善したそうだ。
https://www.slideshare.net/guimera/wimbledon-2014-fashion-through-history
見せパンについてはこちらも参照。たとえば6番目の写真のChris Evert、1976年のピンクの見せパンや、41番のTracy Austin、1981年の黄色の見せパンを確認できる。50番はTatiana Golovinは赤の見せパン(短パン)で、このときウィンブルドンは衣装がすべて白という規定に抵触するかどうかでもめたらしい。一応、下着の色は自由だということでおとがめなしだったそうだ。56によるとMaria SharapovaやSerena Williamsの赤の短パンが、そして色付きのネイルが問題になったらしい。
https://www.dailystar.co.uk/news/latest-news/bbc-bosses-blasted-focus-female-17086364
なお、大衆紙によると2016年にBBCの偉い人がテニス選手の見せパンやお尻ばかり撮影したと批判されたようだ。以前にビーチバレーの記事でも書いたが、カメラが性的にならないようにする工夫というのは必要である。
https://www.news-postseven.com/archives/20190904_1444086.html?DETAIL
エラリー・クイーンを読んでいた時に、確か「Zの悲劇」だったと思うが(いや、「レーン最後の事件」だったかな?)、ペインシェンスという娘が恋人とスキャンティ(パンティー、ショーツの別名)を買いに行く場面があった。同時代の小説での証言として興味深いのでメモしておく。
https://www.elle.com/jp/fashion/fashion-column/a35747586/history-of-pantslooks2021/
また、パンツでヒットしたのでここに記す。死文化していたが、フランスでは女性がスカートでないパンツスタイルをはくことが法で禁じられていたとのこと。女性の権利に関して非常に進歩的である地域に見えても、案外不平等なシステムの残滓が残っていたりするのもので、ときおり愕然とさせられる。たとえばスイスで女性参政権が得られたのは驚くなかれ1991年である。女性への制限、男性への制限、どっちでもない人への制限、みんなで少しずつなくしていきたい。
よくドレスコードなんかでもめる話で、ハイヒールを必ずはくよう要請される場所というのがある。なんかの映画祭でも話題になっていたことを記憶している。伝統に敬意を払うのは大事だが、はいていないと入場できないのはやりすぎのように思う。ドレスコードってのはみんなが居心地悪くならないようにするためのもので、人を縛るものとはちょっと違う。
例えば、足を怪我していたらどうするのか。もっと極端な話、脚が生まれつきない人はどうするのだ。茶化しているのではない。様々な疾患や障害があろうが困らないようにするほうが、誰にとっても生きやすい社会になるはずだ。
「Tennis Girl」というスカートからお尻丸出しの歴史的に有名な写真がなんと英語版ウィキペディアには掲載されている。ウィキメディアコモンズにはときおりとんでもない画像があるから驚かされる。
自分の投稿をブルマ増田としてまとめてくださる方がいる。あるいは、いつも応援のコメントをつけてくださる方がいる。ありがたいことだ。けれども、どうやって拾い上げているのだろう。一日に何千件も投稿されるはてな匿名ダイアリーの中から見つけるというのは大変な作業だ。すべてが注目エントリに入るわけではない。いったいどうやっているのかちょっとうかがってみたい。ブルマーというキーワードで定期的に検索をかけているのだろうか? それともそういうスクリプトが組めるのだろうか?
例えば女性のショーツ(そして見せパン)の形の変遷、チアの見せパンの歴史。また、古代エジプトでクレオパトラはカエサルと会ったときにどういう服装をしていたのか(絵画のようにトップレスになることがあったのか)、それからトップレスが許容されていていた地域の時代的変遷だ。これは身分にもよるだろうし、少し複雑になるだろう。あるいは、どうしてギリシア・ローマの流れを引き継いだ西洋絵画では、長らく女性器と陰毛があまり表現されていなかったのか。多くの古代文明では時に具象的に、時に抽象的に表現されているのに。謎は多い。
前編https://anond.hatelabo.jp/20220327224432
3/21
友達「アメリカは今でもウランをロシアから買っている。ロシアの軍事力をある意味認めているのだ」
増田「それが軍事力を認めたってことになるの? ただウランが取れるってだけじゃない?」
友達「そうだね」
増田「(何を納得したんだろう)」
3/20
増田「(……)」
増田「(あーなるほど、モンゴル帝国は中東を版図に収めてたこともあるのね)」
友達「他にはあまり覚えていない。露土戦争や最近のシリアの内戦くらいだ」
友達「同じロシアでも文化が違うからなんともいえない。なにしろ広い。
シベリアはいつも東側だった。ずっとモンゴルや中国などアジアとは密接な関係にある」
友達「tribute to what?」
増田「(してないようだな)」
友達「シベリアの歴史の半分はSiberian khanateだ」
増田「そう(シビル・ハン国っていうんだ。へえ、地域名の由来もモンゴルなのね)」(注:増田は世界史あんまり知らない)
友達「その後シベリアはコサックでいっぱいになった。ただいつも中国とは関わりが深かった」
増田「そう」
友達「日本がシベリアを征服しようとしたこともある。シベリア出兵だ」
友達「ロシアで内戦が起こっている隙に日本がシベリアを奪って緩衝地帯にしようとした。
これでシベリアの経済は崩壊し、日本は孤立した。今のロシアのように」
友達「シベリアはそれでもロシアの一部だったし、赤軍が内戦に勝ったときはシベリアを多少は良くしようとしていた」
増田「そう」
増田「ロシアの人の下の名前って全部決まってて新しく作らないんだね」
友達「そうだ」
友達「ああ」
増田「日本だとこうじゃないからさ。歴史上の人物とか見ててもかぶる名前の人はあまりいない」
友達「そうか」
友達「ロシアの名前のうちいくつかは時代遅れになったり、古すぎて新しい言葉に馴染まなくなったりした」
友達「たとえばadolfなどだ」
増田「高貴なる狼。意味も音も字の見た目もカッコよくて好きだなあ。とはいえこういうカッコよさの感覚は私と別の言語圏に住む●●さんでは違うんだろうな」(注:言語圏以前に個人差もあるのは見逃してほしい)
増田「いつか復活する日はくるのかな」
友達「来ない」
増田「断言するのね」
友達「する」
友達「Adolf Freidbergというロシアの作家は戦後Arkadiy Davidovichに改名せざるを得なかった」
増田「ああ…」
増田「ВладимирとВолодимирは見たところ同じ名前だよね?」
友達「そうだ」
増田「プーチンとゼレンスキーの名前が同じなのはちょっと感じ入るところがある。今後どういう扱いになるのかなあ(聖と邪をあわせもつなんかすごい名前とか?)」
友達「これはごくありふれた名前だから特に何もならないだろう。adolfは多少珍しかった」
増田「そうか」
増田「(なるほど、なるほどね……。これをつまらないと思うのはローマで剣闘士を見て楽しんでいた市民と同じ心性なんだろう)」
増田「(そういえば民主主義と独裁とは理論上は相容れない物ではないというか…代議士が1人しかいなくて任期も長い民主主義というのはありうる。それは別に独裁じゃないけど。どうせ大衆心理が1人の英雄を追い求めてしまうものならば、最初から独裁に似せておけばむしろ本物の独裁になりにくかったりしないだろうか)」
増田「(……)」
友達「ウクライナ人の一部は馬鹿なロシア人と同じだ。日本人のことを『ジャップ野郎』『目が細い奴ら』と呼んでいた」
増田「ゼレンスキーは核兵器には触れたんだよ? 核兵器を知ってて広島長崎を知らない政治家がどこにいるっていうの? いや、いるだろうけど」
友達「惑わされないでくれ。ウクライナ人とロシア人に大した違いはない。彼らも人種差別者になりうる。今回は彼らが被害者だというだけだ」
(これのことかhttps://jp.reuters.com/article/ukraine-discrimination-students-idJPKBN2L40H8 )」
友達「それでも私はウクライナの人々の悲劇に心を痛めている。この無価値な戦争は誰も幸せにしていない」
増田「文化も血もすごく近い国の人たちの性格がそんなに違うわけない」
友達「ウクライナ人は彼ら自身をロシア人と区別しようとしている。『ウクライナはロシアじゃない、我々は兄弟じゃない、ロシア人はすべて切り刻まれるべきだ』と。
ウクライナにも西洋にももう幻想は抱いていない。小さい頃はアメリカは世界一素晴らしい国だと思っていたが幻滅するばかりだ。アジア人は正直者だ」
友達「全体的な傾向のことを言っている」
3/23
増田「悪魔みたいなジャケット着てみたいけど多分似合わないだろうな」
友達「誰に?」
友達「そうみたいだ」
増田「(よう道徳最小人間。ところであれは『国土は最大なのに道徳は最小』だからなんか面白くなるけど仮に『国土も最小だし道徳も最小』だったら他の面積が小さい国々から嫌がられそうなの非対称だ)
うん。ていうか●●さん演説聞いてたんだ。あいつ原爆についても空襲についても何も言わなかったよね?」
友達「ゼレンスキーはNATOを戦争に引き入れたがっている。つまり第三次世界大戦だ」
増田「そうみたいだね」
友達「NATOも馬鹿ではないからそれはわかっている。 プーチンはNATOが参戦を決めたら核を撃つと言った」
増田「それがゼレンスキーが原爆についても空襲についても何も言わなかったことになんか関係あるの?」
友達「かもしれない。ゼレンスキーの発言はどれも同じような内容だから最近は聞いていない。いつもNATOに飛行禁止区域と武器供与を求めている」
増田「そういえば聞いてわかるの? 日本語にはそういう言語ないんだよね」
友達「ウクライナ語は聞けば8割か9割くらい理解できる。ロシア語話者はみんなウクライナ語がなんとなくわかるし、なんならポーランド語もちょっとはわかる」
増田「そう。日本語圏ネットはゼレンスキーの演説でもちきりだよ」
友達「正直なところゼレンスキーはどう見ても西洋の駒だからあまり興味がない。言動も運命も知ったことか。
それよりもウクライナとロシアの一般市民の身を心配している。ただ早く戦争が終わってほしい」
増田「●●さんがゼレンスキーに興味がないのはわかったけど喋らせてよ本当に腹が立ったんだ。
これはわかる。宣戦布告なしで攻撃を仕掛けるのは国際法違反だからその真珠湾の怒りを思い出してくれというのはよくわかるさ(日本軍はほかにもいろいろやらかしてるし)」
友達「ゼレンスキーはNATOを参戦させるためならなんでも言うだろう」
増田「でも民間人を襲った原爆や空襲だって国際法違反だ。どうして『原爆を思い出せ』『広島と長崎を思い出せ』がないんだよ。これじゃ不公平だ」
友達「ウクライナ人も、そして多分西洋人もそれのことを大して気にしていない。彼らがした他の戦争犯罪と同じように考えているのだろう。歴史は勝者によって書かれる」
増田「これがもし仮に日本の落ち度を批判してきたなら納得したんだよ。日本政府は北方領土を取り返そうと20年くらい無駄な援助を重ねてきた前科がある。
そこを糾弾して強く改心と協力を求めてきたなら空襲や原爆に触れなくてもきっと納得してた。なんでだろうね?
(そういえばドイツ人だって大量にソ連に移送される被害を受けたことがあるんだからこちらに言及することもできたのにあくまでドイツの加害のことを言ったんだった)
でもゼレンスキーは日本をおだてて持ち上げてずっと友好的な態度だったにもかかわらず触れなかったんだ。それがすごく侮辱的で軽んじてると思った。口先でお世辞は言って、日本人への赤い血がしたたるような感情は見せてくれなかった」
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友達「制裁が終わらないと日本に行けないことに今気がついた。銀行に一定の残高がないとビザが作れないのに銀行が制裁にあっているからできない」
増田「ああ(制裁と銀行とカードは複雑すぎてなにがなんだかよくわからない)」
友達「どこもロシア人を求めていない。カザフすら国境を閉じてしまった」
増田「あれ? 私がどうやっても無理な感じ?」
友達「いくつかの企業は従業員を国外に脱出させる手助けをしている」
増田「じゃあ私がそっちに行くのは」
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3/24
増田「ウクライナの人々はロシアがどういう扱いを受けることを望んでいるか気になっている。人々というか政府というか」
増田「疑問点は2つある。一つは国民同士の関わりが深いこと。●●さんにもウクライナ人の友達がいるだろう」
増田「ロシア人が全員死ぬボタンがあったとして●●さんの友達は押すだろうか」
増田「なんでそう言い切れる」
増田「(しまったこの人は命の価値は誰でも一緒とか言ってるんだった。私としては『ロシア人の家族や友人や恋人がいるウクライナ人はロシア人全体が嫌われるのを望まないだろう』……『友達は私を殺したくないからボタンは押さないだろう』の意味で言ったけど●●さんは多分『友達は人を殺したくないからボタンは押さないだろう』の意味で言ってて話が通じてない)
二つ目はロシア人とウクライナ人が似ていることだ。日本人と中国人と韓国人がよく海外でごっちゃにされてるようにロシア人とウクライナ人の区別もつかないだろう。ロシア人が嫌われるとウクライナ人がとばっちりを食らいかねない」
友達「だからそのボタンを押すウクライナ人はそこそこいるだろう」
増田「なるほど(中途半端に殺すと民族対立になるが全員殺してしまえば丸く収まるのはアメリカの黒人とネイティブアメリカン――全員は殺されてないが――を見ればすぐにわかることだ)」
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増田「そう」
例をあげるならば、ロシアの政治指導部は、きわめて当然のことながら、外国の勢力、さらには具体的にどのような組織、個人がロシアの弱体化を狙って行動しているかに、関心を持った。この問題に関する正しい答えを出すことはきわめて重要である。EISは、この問題について詳細な調査と分析を行ない、「現在のところ、米国及びその他の先進西側諸国の国家政策にはそのような方針を示すデータはない」と政治指導部に報告した。(「クレムリンの5000日」エヴゲニー・プリマコフ著 鈴木康雄訳)
西側諸国のロシアへの方針について恐らく世界で最も詳しかった人のひとりでしょう。ただ本当のことを書いているかどうかは私には判断できかねます。
この時代の他の国家の状況についての情報も知るべきでしょうが、さきほども書いた通りこの回顧録すら読み終えられていません。
増田「国葬もやってたみたいだけどなんで今まで死んでたこと知らなかったの?」
友達「そうでもない。普通のロシア人は政府なんかに興味がない。
テレビで最後に見た国葬はエリツィンので、最後に見た普通の葬式はマイケル・ジャクソンのだ」
増田「(うちの学校では今のマイケル・ジャクソンは96代目とかいう噂が流れてたなあ)
そうなんだ。なんでエリツィンのは報道されたのにプリマコフのはされなかったんだろう」
友達「エリツィンは大統領だったがプリマコフは首相だった。それにプーチンはプリマコフを好きではなかった」
増田「なんで嫌いだったと思うの?」
友達「プーチンはパラノイアだ。あの長いテーブルは知っているか?」
増田「知ってる知ってる。なら国葬したり銅像建てたりしてるのは見せかけのポーズなのかな?」
増田「そうなんだ」
とはいえ友達はほとんどテレビを見ないらしいのでテレビに関する情報は怪しいと思っています。
BBCでもロイターでもついでにNHKでも、ロシア国外のニュースをいくらでも読んでいる人なので恐らくたまたまでしょう。
メディア規制については確実に私より詳しいので安心してください。
(1)友達の話を聞くに相当小さい頃からずっと英語でロシア国外のニュースを見ていたらしいので多分プーチン万歳と思ったことがほぼなさそうです。
(2)もし友達がその方法を知っていたら、聞かなくても教えてくれているでしょう。
1)答えではありませんが、エロや同性愛のイラストが普通に載っているのを不思議に思っています。あれ匿名ですらないのに。
前編にも書いた通り、彼はロシア人はウォッカもビールも飲むものだと思っているようです。
友達「いい」
増田「『英語など外国文化を知らないようなロシア人はあまり謝らない傾向がある』と聞いたんだけど本当にそんなことがあるの?答えたくなければ答えなくてもいいよ」
友達「まともに教育を受けていなかったりしつけられていなかったりするロシア人は謝らない。外国文化とは無関係だ」
増田「ふーん 他の国と大して変わらないだろうということでいい?」
友達「変わらない。russians are the same as everyone else」
増田「そう」
友達は英語話せるやつではないやつたちとも接点が多いようです。
ただし在露邦人のあなたのほうが信頼性が高いかもしれませんね。私にはわかりません。
スラブ民族がどうこうとか正教会がどうこうとかについては友達からは何も言われていません。
「オルブライト? へー初めて聞いた」と思っていたら亡くなりました。
現状で地方にあるのは、農業、漁業、食品加工、飲食業、小売店、食品加工、車販売・整備、建築。
農業については、既に国がバフをかけている状況。
農業に対しての補助金は出ているし、新規開発のための投資資金も出ている。ふるさと納税で地方特産を国内での認知度向上もやっている。
ただ、国内全体での需要は今後人口減で増えない。消費地である東京に売り込むしかなく、東京以外の全ての地域が競争相手という過当競争になっている。
日本全体で農作物の輸出は1兆円になっているが、輸出全体が70兆円~80兆円なので大きくない。
国によって好みの味があるし、輸送コストなどが加わり、日本産は少数で高い部類に入ってしまっている。
各国とも自国の農業を守りたいので、大規模に輸出を増やすということは今後もないはずだ。
高級品種が海外に出ていったら、パクられて海外で栽培されるという事例も今後も増える。
日本食が世界に広まっているというが、実体としてはそれぞれの国でアレンジされ、その地域で取れる食材で作れるようになっている。
歴史的には、労働力が必要だった農業は機械化され、跡取りでない次男などが都市部に出ていって都市部が栄えた。
ただ機械化によって収益の増大と少労働力化は、ほぼ終えている。
今持っているコンバインを最新のコンバインに買い換えるような設備投資をしたとして、借金に見合う収益増大が見込めないから困っている。(経済合理性があるなら既に実施している)
外国人労働力に頼るほど人手が足りてないのは確かだが、下手なパッチをあてているので持続性が疑わしい。
アグリテックは注目されるが、工場による大規模な生産性向上というところまでいけてない。
(工場は加工などによって付加価値つけるの向いているのであって、食物の育成のスピードだと収益が怪しくなる。商品に価格転嫁すると海外産との価格競争に晒される)
海外への輸出に関しても、農作物よりは輸送のしやすさなどはあるが、味の嗜好は各国違うので難しい。
単価が劇的に高くなるわけでもない。似たような味を再現した商品をすぐに作られるのは、今まで経験してきたことだろう。
加工工場自体を海外に作って利益を上げる方法はあり、今の日本の貿易で稼ぐのではなく海外投資で稼ぐ投資立国と一致はしているが、
国内での設備投資が増えなければ給料が増えない、というのはここ数十年経験してきたことだ。
インバウンドが復活する可能性はあるが、外国人観光客が一番行くのは東京だ。
東京に集中している。
東京の人は東京と地方で2拠点生活、週2で新幹線や飛行機で東京と地方を行き来すればいいといった案もメディアで話題になるが、
本社機能が東京にある時点で、地方は衰退していく一方だし、そもそもそんな生活をする人は少数派だ。
国内市場を相手にするのではなく、外貨獲得ができればいいが、東京にある企業ですら出来ていない。
単純なソフトウェアでは市場の大きいアメリカにも、中国にも出て行けていない。
文化的側面が大きいゲームは任天堂のように海外に出て行けているが、日本っぽさを強調しすぎると日本でしか売れず、海外に完全にマッチさせるのは海外企業の方が上で競争出来ない。
今プーチン政権が崩壊したら、助け舟だせるのって地理的にも国力的にも中国だけだよね?
台湾進攻をあきらめたんじゃなくて、ロシアの保護国化っていうもっと大きな目標に切り替えたんじゃ?
そっちのほうが国際世論の反発も少ないし、天然資源も手に入るし、海洋へのアクセスもよくなるし。
なによりモンゴル帝国以来の非白人国による白人国の保護国化になるから、自分は歴史的偉業を成し遂げた!ってとこで習近平さん狙いそう。
じゃあ昔はもっと簡単だったかといえば、それは情報へのアクセスという観点からさらに難しいだろう(庶民が大学教授と接する環境なんておよそ考えられないし。賛否はあろうと、Twitterですぐそこらの競馬やってるおっちゃんと大学教授が会話できるって状況が歴史的にみてそもそも異常。)から、けっきょく今も昔も正しい情報を手にいれる困難さは変わらないんだろうな
さらに言うと、ここにある分野の権威と呼ばれる人間がいるとする。その人だって、自分とまったく関わり合いのない分野についての判断は(まあある程度間違いのない判断方法は持ち合わせているだろうが)、究極的には「この人たちの言うことは間違ってないだろう」という派閥性で判断せざるを得ないだろう。人間の時間と体力という資源は有限なのだから。
・理念や倫理観や正義のあり方についてあなた方はどう考えるのかという点
日本はNATO加盟国ではなく武器輸出も禁止されており日本だけの海外派遣も法整備されておりませんので、大統領もそこをついてもどうしようもないと分かってるんじゃないでしょうか
・「原発とかサリンとか大変だったよね」と親が子供の機嫌をとる時のように語りかけ
これはイギリスなどでも過去にこういうことあったよねと入れて語っていますし、感情的なくすぐりも日本に限らず各国の演説に取り入れております。
・他の国ではやっていた歴史の話や教養を要求する引用などもせず、簡単で分かりやすく共感だけでなんとなく同調できるようなことしか言わなかった点
卑下しますがウクライナにとって日本は歴史的に遠い国であり世界的に引用できる有名文学に乏しく共通の文化背景がほとんどありませんので、無理に引用する方が空虚なスピーチになるように感じます。
自分も大統領が各国で行った演説の全文をすべて把握してるわけではありませんが、イギリスには何度も偉大という言葉で上げてますし悪い方に受け取り過ぎのように思います。
2022年3月21日、第57回ボートレースクラシック(鳳凰賞競走、総理大臣杯)にて、ボートレース史上初の女子選手によるSG競走優勝という歴史的偉業が達成された。
2022年3月21日時点で選手の最低体重制限は、男子が52.0kg、女子が47.0kgとなっており、体重の軽い方が有利なボートレースにおいては、女子選手はハンデをもらっている状態(だからズルい、凄くない)というのが女子選手の活躍に対してつけられるお決まりのケチである。
特に今回は2020年11月に男子の最低体重制限が51.0kgから52.0kgへ引き上げられて男女の体重差が4.0kgから5.0kgと広がって間もない(と言っても1年数ヶ月経っているが)タイミングでの偉業達成だったこともケチをつけられる要因となっている。
『最低体重制限の男女差により女子選手はハンデをもらっている』
というのは果たして本当だろうか?と問題提起したかったからである。
それどころか私はむしろ
『最低体重制限の男女差によってハンデをもらっているのは男子の方である』
とさえ思っている。
その理由を書いていく。
(細かい部分で知識間違い等があるかもしれないが大筋の主張は変わらないはず)
まず、大前提として押さえておかなければならないのは、「最低体重制限は男女のハンデのために(女子を有利にするために)存在しているわけではない」という点だ。
まるでハンデのために最低体重制限があるかのように書いてあるブログやニュースの記事が当たり前のようにあって驚く。
それでは女子選手の活躍にケチをつける人がいるのも仕方ないのかもしれない。
1988年以前、ボートレース(当時は競艇名称が一般的だったがボートレースで統一する)に最低体重制限はなかった。
最低体重制限がなければ勝ちにこだわる選手たちは当然少しでも有利になるように限界まで減量する。
1987年のSG笹川賞で優勝した野中和夫選手は過度な減量でふらふらの状態だったそうで、それが最低体重制限導入のきっかけだと言われており、
1988年に男子は50.0kg女子は45.0kgという最低体重制限が設けられた(本格運用は1989年から?)。
要するに最低体重制限は、過度な減量から選手の健康を守ること、ふらふらの状態で起こしてしまう事故から選手を守ることが主目的で、女子を有利にするために存在しているわけではない。
女子選手の方が最低体重が軽いのは単に女子選手の方が元々の適正体重が軽いからだ。
日本人の成人男女の平均体重を見ても5kgの差はむしろ小さいと言えるかもしれない。
ここまで「最低体重制限は男女のハンデのために存在しているわけではない」と書いてきたが、正確には「男女のハンデを考慮した最低体重制限の変更」は行われている。
2001年、寺田千恵選手がSG競走の1つ、グランドチャンピオン決定戦で女子選手初の優勝戦進出、結果は5着に終わったものの、寺田千恵選手の活躍がきっかけで女子の最低体重制限が見直され、2003年に女子の最低体重制限が45.0kgから47.0kgへと引き上げられた。
そう、つまり、「男女のハンデを考慮した最低体重制限の変更」は、本当は女子にとってはもっと軽い体重でも問題ないのにそれだと男子が不利になってしまうからという理由で行われたということだ。
これを『最低体重制限の男女差によってハンデをもらっているのは男子の方である』と言わずしてなんと言おうか。
「女子がその体重の軽さという特性を活かして活躍するのは卑怯」で、
「男子がその筋力の強さという特性を活かして活躍するのは卑怯じゃない」
引き上げられたが、これらは男子選手の平均体重や厚生労働省の統計データにおける平均体重との差を是正し、且つ選手の健康維持並びに身体能力の発揮による事故防止を目的に行われたものだ。
簡単に言えば男子選手が大型化したから基準も変えたということで、女子選手を有利にする目的ではない。
男子は2回も引き上げているのに女子は引き上げないのかという意見もあろうが、それは減量なしの通常体重が最低体重を割っていて逆に増量に苦しんでいる選手の割合を男女で比較すれば、引き上げる必要がないことはわかるはずだ。
そもそも47.0kgの最低体重制限引き上げが不当な差別であったのだから、むしろ差が5kgに戻ってようやくまともになった(あるいはもっと差があってもいいのかもしれない)と言える。
ボートレースクラシックの優勝戦に乗った6人の体重は、遠藤エミ選手が44.0kgで他5人の男子選手は52.0kgか51.0kgとなっている。
おそらくこの5人の男子選手の中に体重が軽すぎて増量に苦しんでいる選手はいないと思われる(いたらごめんなさい)。
遠藤エミ選手は意図的に最低体重以下まで減量した上で調整重量を積んでいるらしいので軽すぎて苦しんでいるタイプではないようだが、少なくとも最低体重を割ってまで無理な減量はしていないはずだ。
そう考えると、遠藤エミ選手は健康に支障をきたさない範囲でもまだまだ減量できる余地があるということになる。
他の5選手も(最低体重制限導入のきっかけとなった野中和夫選手レベルの過度な減量をするならともかく)健康に支障をきたさない範囲の減量となると可能なのはあと数kg程度なのではなかろうか。
遠藤エミ選手と他の5選手が健康に支障をきたさない範囲でギリギリまで減量した場合に、その差が5kgを超えるのならば、最低体重制限の恩恵にあずかっているのは男子選手の方ということになる。
この問題で考えなければならないのは男女差だけではない。
同じ性別間でも身長差があるのに一律で最低体重が決められていてよいのかというのは議論されるべきだ。
身長の低い男子選手であればもっと減量可能なのに、身長の高い男子選手が過度な減量とならないように最低体重が制限されているため減量できない状態ということだ。
男子の最低体重制限が52.0kgに引き上げられたことにより、今村豊選手が逆に増量がきつくなるという理由で引退したのは記憶に新しい。
同じ性別間の身長差と最低体重制限の問題は女子選手においても同様である。
最低体重制限の公正さを重視すればボートレーサー養成所の受験資格において、身長の上限を低くするのが本来は手っ取り早い。
ボートレーサーを志した理由には、低身長が有利なことに魅力を感じたからというものがかなり多い。
漫画『モンキーターン』の主人公も低身長故に野球の道を諦めボートレーサーになった。
個人的には時代を巻き戻せるのならば、ボートレーサーは低身長の星として、受験資格を男子は身長165cm以下、女子は身長155cm以下くらいにしておけば少なくとも同じ性別感の身長差と最低体重制限の問題は大分解消できたのにと思わないでもない。
しかし、実際には身長制限は段階的に緩和されており、過去の基準であれば受験資格を得ていなかった身長170cm以上の選手も現在活躍している(艇界No.1の実力を持つ峰竜太選手の身長は173cm だ)ことを考えると、今更受験資格を狭めるわけにもいくまい。
また、ボートレースは競技であると同時に興行でもあり、また公営競技なので公共性という意味でも、先鋭化するより門戸を広く開いて多くのファンと選手志望者を獲得することが大事であるから、受験資格緩和路線を否定することはできない。
落とし所は男子で身長160cmなら何kg、165cmなら……170cmなら……
155cmなら……160cmなら……
という具合に男女別で身長によって最低体重を変えることかと思う。
話が逸れたが、この文章で1番言いたかったのは、遠藤エミ選手や女子選手の活躍に対して最低体重制限の男女差を理由にケチをつける人たちは間違っているということだ。
そもそも歴史的な話として封建時代の「男系長子相続の社会」みたいなモデルを「男子優遇社会」だと社会学者なんかが判断したのが始まりっしょ。それはそれで間違ってない、なぜならこの社会において女性は財産の相続権がないわけだから。
んで、この社会は「男子優遇社会」なのはそれはそれでいいんだけど、じゃあすべての男子がそうなのかといえば違う。具体的には長子以外の男子は相続権がないし、長子のスペアとして自由やら権利やらが制限されてきた。つまり「男子優遇社会」の中で相対的に弱者だった。これが前近代の封建社会における弱者男性だよ。
上記の話は歴史上の話であって直接的には現代社会には関係ない。のだけど、現代の自由主義社会を作るに当たって、その恋愛観や男女観を形作るときに、騎士道物語的なロマンチック・ラブイデオロギーを利用したってのはある。女性の人権なんざ薄っぺらい封建主義から人道人権が重要な近代主義に移行する仮定で、女性を尊重するに当たっての「物語」として男性は女性を守るべしみたいな価値観が挿入された。
でもそれって「物語」であって「価値観」だから色んなものがごっちゃになって濁って導入するしかなかった。物語って多面的なものだから仕方ない。
「男は女を守るべきだ、それが男の甲斐性なのだ」みたいな価値観。日本で言えば文明開化から戦後昭和に至るまで、そういうのが繰り返されてきた。ジャンプ漫画にだってその影響は強くある。それは細かく精査すれば、男性側の労力的精神力的あるいは財産的な「持ち出し」にあたる行動規範だ。
しかし、前述したように封建的だった時代から男性は女性よりも優遇されてきた。最終的には優遇をなくして同権社会を作ればいいんだけど、一足飛びにそこにはいけない。社会が混乱するし下手したら壊れる。なので、男性優遇社会の優遇分を「再配分」するために、男性側が持ち出して女性を遇するという文化が要請された。
時代が進み現代になっても、この文化はあちこちに根付いている。卑近な話で言えばデート料金をどっちが持つかって話にもなるだろうし、専業主夫にたいする風当たりの問題もあるだろうし。
現代社会においては「男系長子相続」が強要されているわけではない(※日本でも一部田舎の家系ではそういう文化が残っていたりして話を面倒くさくしてるんだが)。だからそういう意味でもう僕らの社会は個人主義自由主義の社会だ。
にもかかわらず、再配分文化の名残で、男性がその男性の能力や財産とは無関係に、何らかの持ち出しを続けなければならないとすれば、それは再配分を超えた搾取であるのだから、弱者搾取ではないか? これが現代の弱者男性でしょ。
別に難しい話じゃないし、明快な話なのに、なんでこんなに混乱してるんだ。
10代から20代の初め頃、ツタヤにはお世話になったので、少し寂しい。
みんなNetflixとかSpotifyとか、サブスク契約だろう?
その偉大なサービスを紹介してみたいと思う。
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あれは、全部オレのものだ。
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ツタヤ阪急伊丹駅前店にあるDVDとCDは全部オレのものである。
ツタヤは、コンテンツ特化型資産管理業をやっていて、オレのDVDやCDをぜーんぶ管理してくれていた。(書籍や一部ゲームソフトは除く)
今考えてもすごいビジネスモデルだと思う。
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音楽好きとか映画好きな輩が自宅の棚に膨大なCDやDVDコレクションを並べて悦に浸る、みたいな趣味あるけど、
オレからしたら、そんなの比じゃないね。コレクションのボリュームがそもそも違う。
あれだけの量のコンテンツを普通に購入したら数千万円はかかるんじゃない?
にもかかわらず、ツタヤのサービスを契約すれば、初期費用は、入会金の200円だけ。
それを払うだけで、あの広大なフロアに並ぶ大量のDVD/CDたちがオレのものになった。
しかも地味にすごいのが、このコレクションは徐々に増えていく。
新作が発売されれば、自動的にコレクションに追加される。特にこちらからオーダーする必要もない。
このサービスと契約するだけで、オレは常に歴史的名作から皆が注目する最新作まで、いつでも手中に収めている状態になるわけ。
サブスクだったらそんなの当たり前やん、ってなるけど、DVD/CDという物理メディアが全部自分のものになるっていうのは、
ある一定から上の世代にとっては、すごい夢というか憧れが現実になった感があるんよね。
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そうそう、ツタヤの店舗は店舗ではないと言ったが、実は、あれはオレの貸し倉庫だ。
それなのに、オレは貸し倉庫のオーナーに家賃を払っているわけではない。
ツタヤのすごいところは、ツタヤがそれを立て替えてくれているという点。
しかし、ツタヤはオレに毎月その立て替えた家賃を請求することはない。
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じゃあツタヤのキャッシュポイントって何? ってなるんだけど、実はツタヤは手数料ビジネスをやっている。
貸し倉庫に保管されているオレの膨大なコレクションの中から「今日はこれ観たいor聞きたいな」っていうタイトルをピックアップし、
枚数に応じて、払い出し手数料を払う。タイトルのリリース時期によって手数料の金額は変わるが、
最新作でもなければ、1枚1回300円だ。
初期費用200円、払い出し手数料を300円/枚/回払うだけで、あの膨大なコレクションが全部オレのものになったと思うと、
このビジネスやってるツタヤは慈善事業かな? って思うちゃうぐらい。
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それにだ、ツタヤは、なんと貸し倉庫にオレ専用のスタッフを配置してくれている。
払い出しの手続きはもちろん、膨大なコレクションをジャンル別に陳列してくれたり、
スタッフに聞けば丁寧に場所を教えてくれたり、一緒に探してくれたりもする。
オレが、いつ貸し倉庫に行ってもいいように、シフトを組んで複数人体制で対応してくれる。
正直、この手厚いサービス、こんな安い手数料でここまでやっていいの? って思ってしまう。
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あと、大きな問題ではないのだが、ツタヤと契約し、サービスの提供を受ける上で注意しておくべきポイントもいくつかある。
例えば、払い出し期間だ。新作なら2泊3日、旧作は7泊8日というように、貸し倉庫へ戻す期限が設定されている。
これは、所有者であるオレがDVD/CDを借りすぎて、自宅に溜め込んで汚部屋にならないように、という配慮だと思う。
せっかく貸し倉庫があるんだから、自宅に溜め込まず、ちゃんと元の場所に戻しましょうね、ってことなんだろう。
しかも戻し忘れないよう、期限をすぎた場合は追加料金が発生する料金形態になっている。
人間誰しも損はしたくない。これはヒトの心理を突いた、うまい仕組みだな、と思った。
.
次に、たまに払い出そうとしても払い出せない時がある。
世間ではこれを「レンタル中だったから借りれなかった」と言ったりするそうだが、
オレにはよくわからない。だって、オレの所有物である。手数料を払うのに、払い出せない訳が無い。
これはオレの想像だが、ツタヤのスタッフがディスクのメンテナンスをしてくれているのだと思う。
馴染みのスタッフが定期的に、汚れたディスクは読み取りエラーになるので、定期的にクリーニングしている、と言っていた。
こういう時は、数日待てば払い出し可能になるので、特に問題はない。
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たまに、めちゃくちゃコアでマニアックな知名度の低いタイトルを払い出したくなることがある。
流石にツタヤが管理してくれているオレのコレクションにもない場合がある。
オレのコレクションに追加してくれるようオーダーを頼むことができるのだろうか?
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あとはそうだな、せいぜい対応時間が限られるところ。24時間やっている(やっていた)ところもあるらしいが、
多くの場合、深夜早朝はオープンしていない。まあ、これは普通の人にとっては特に困る問題でもないだろう。
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それぐらいである。
それぐらいのことを気をつけてさえいれば、初期費用200円、都度課金の払い出し手数料300円で、
今のサブスクサービスとは違う。視聴しようがしまいが、月々数千円取られるのとは違う。
もし、その月に払い出ししなければ、かかる費用は0円だ。
.
正直、ツタヤはどこで儲けているのか謎だ。
いくつか客側に制約があるとはいえ、それがキャッシュを産むような制約とは思えない。
コンテンツの購入費用、貸し倉庫の家賃、光熱費、スタッフの人件費…
オレの払い出し手数料で賄えていたのだろうか?
その謎のからくりも、時代の趨勢とは合わなくなってきたのかもしれない。
寂しい限りだ。
.
ところで、ツタヤはレンタル業を装いながらレンタル業ではないというのがここまでの話だが、
あれが実は本当のレンタル業というのも、あまり知られていない事実だろう。
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結論から言うが、メルカリのアプリに並んでいる商品。各商品には販売者とされるユーザー名が付されているが、
あれはその商品の担当スタッフであって、あのユーザーの所有物ではない。
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例えば、初めてメルカリでモノを売るユーザーを想定してみよう。
最初の段階では、そのモノ、なんでもいい、機種変更して余ったSIMフリーのiPhoneでも売ることにしよう。
そのiPhoneは正真正銘、その売ろうとするユーザー、ここではAとしよう。Aその人のものである。
しかし、これに買い手がつき、Bというユーザーに販売が成立すると、所有権はメルカリに移る。
Bが買い、Bのモノになったのではないのか?
そうではない。Bは、デポジットをメルカリに支払い、そのiPhoneを無期限でレンタルするのだ。
.
次に、そのiPhoneを買ったBが、そのiPhoneに満足しなかった場合や、必要がなくなった場合はどうすればいいか。
簡単である。メルカリに出品すればいいのである。そうすると、また別のユーザー、例えばCとしよう。
ここで、最初に支払ったデポジットより安く売れた場合、その差額が、BのiPhoneレンタル使用料ということになる。
例えばBがAから50,000円で買ったiPhone。これをCに40,000円で売ったとしたら、BのiPhoneレンタル使用料は10,000円だったいうことだ。
.
この仕組みのすごいところは、レンタル料が無期限という点にある。
通常、レンタル品は期限が決められている。1泊2日◯円、といった具合だ。
次のレンタル希望者との間でディールした金額との価格差がレンタル使用料なのである。
レンタル期間によって変動はしない。
この姿勢が、ユーザーのメルカリ参入をここまで促したのではないだろうか。
.
不思議なことに、メルカリはレンタル品の返却を義務付けていない。
ユーザーが壊したり、捨てたりしても、弁償する必要はないのだ。
ただし、その場合は、先程の例で言えば、BのiPhoneレンタル使用料は50,000円ということになる。
このレンタル使用料を低く抑えるためには、メルカリに返却(出品)することが最短の近道なのである。
.
さらに、先程のケースではレンタル使用料をBが払う形になっていた。
だが、時としてレンタル費用がゼロか、あるいはマイナスになることもある。
Bが50,000円で買ったiPhoneを、Cが60,000円で買うこともあり得るということだ。
この場合、BはiPhoneをメルカリからレンタルしておきながら、メルカリから10,000円をもらうことになる。
この費用の名目は定かではないが、逆にメルカリがiPhoneの保管管理費用として支払うのか、
あるいは管理CへiPhoneを発送する配送手間賃として払っているのか。
いずれにしても、こういうワンチャンもあるため、メルカリに参入するユーザーは多いのだろう。
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メルカリサイドからすると、ものすごく旨味のあるビジネスである。
まず、在庫を抱える必要がない。最初に商品をユーザーから買い取った時点で、
いつレンタルされるかわからない商品を仕入れて、いつ倉庫から捌けるかヤキモキする必要がない。
これは物販やレンタル業の経験がある人間からすれば、とてつもなくストレスフリーな状況だと言える。
.
メルカリのシステムやアプリそのものを開発したり保守管理するエンジニアが必要だが、
商品を登録したり、商品の写真を撮ったり、商品の解説文を用意する商品管理スタッフ。この人件費がスパッと要らなくなるのだ。
2021年12月の時点で、累計流通商品が25億品を突破したという。
累計なので、ある時点でのアクティブ在庫数は不明だが、それにしても、それだけ大量の商品を出品するには、
通常であればかなりの人数のスタッフを用意しないといけない。
それをユーザー負担とすることで、バッサリコストカットに成功したわけだ。お見事である。
.
在庫していれば、経年劣化するし、劣化しないように倉庫の温度湿度管理などがシビアな商品もある。
先述の通り、在庫しない、倉庫も不要なので、メンテナンスコストも必要ないわけだ。
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最後に、手数料。先程のユーザーA・B・Cの例では、わかりやすくするために手数料を省いた。
実際のところは、次のレンタルが成立する時点で、成約した金額の10%をメルカリ側が手数料として徴収する。
これは、いわゆる天引きという形になるので、取りっぱぐれがない。
.
世の中の形ある製品。
それはメーカーが開発し、製造し、販売することで商品となり、最初の顧客の元へ届く。
ここまでは、一般的なことだ。
しかし、最初のユーザーがメルカリへ出品した途端、それはメルカリの所有物となる。
あとは、メルカリのプラットフォーム内で、ぐるぐるとレンタルが続けられるだけである。
たまにレンタルが成立せず、ユーザーが廃棄することもあるかもしれない。
それはユーザーがデポジット=レンタル料として確定するだけのことだ。
メルカリを覗けば、こんなものまで売ってるの? と思わせられるほど、多種多様な、