最近はNTR界隈も一時期のピークを乗り越えて、さらなる円熟味を増している。
王道と呼ばれる流れを汲むものから一発ネタに走ったものまで幅のある様々な作品が日々生まれる中、改めてNTRについて考えてみたい。
しかし、NTRという単語はかなり広い範囲の意味合いを含む言葉となってしまったため(NTRとさえ付いていれば何でも好きだという好事家は少ないのではないか)、今回は個人的にその肝だと感じる部分を、登場人物の性質という視点から考えてみる。
広く浅くインターネットを眺めていると、NTRというジャンルへの罵倒を見かける機会は割と多いように思う。
「NTR好きは頭がどうかしている」だとか、「ただただ不快」、「経験の少ない童貞向け」、「他ジャンルから流入があっただけ」などなど、これらの指摘が本当に的を射ているのかはともかく、各所のランキングで人気人気と持ち上げられる割に、NTRはかなり好き嫌いの分かれるジャンルだ。
なんなら、毛嫌いしている人の方が多い気もする。往々にして、毒づく発言に反論する人は少ない。「素質あるよ」だけでは、いかんせん受け身にすぎるきらいがある。
無論、俺苦手だわという人の意見には頷ける部分も多々あったりするのだが、個人的にはこのNTRというジャンルがとても好みに合っているのだ。
妙に捗ること以外にも人気となるだけの良さがあると思っているので、あまりにひどい言われようを目にするとそれなりに悲しくなる。
なので、このジャンルの良さがどの部分にあるのか、少しでも説明できればと思ってつらつらと文章を書いてみることにした。
また当然のことながらこの良さとは、一切現実とは関係のない、妄想の詰まった袋の内をたゆたう上での良さである。
まず結論から書けば、個人的に感じるNTRの良さとは、登場人物の心理描写の中に存在する。
より正確には、物語の進行に応じて生じる彼氏彼女の負の感情、その濃淡によって否応なく生まれるすれ違い、それらに強く打ちひしがれながらもぎりぎり薄氷を踏み割らないで関係を維持し続けようとする、登場人物の心境そのものの強度に依る部分が大きいと思う。
つまり、NTRの勘所というものは、寝取られたその結果にあるのではなく、寝取られるさなかのその過程の内にあるのだと。
これは例えば、床に落としたガラスが割れる瞬間を想像した上で、その数フレーム前からぎりぎりまでスローモーションカメラでじっと眺め続けていたいという願望に近いところがあるかもしれない。
言うならば自分は、ガラスの割れる瞬間を見たいわけではないのだ。いや最終的には見たいのだが、その決定的な瞬間に至ってしまえば、あとはガラスの破片が飛び散るだけにすぎなくなる。
もちろんその光景は派手だし、うるさい音もなるし、人目を引きつける力は言うまでもなく強い。このガラスの割れる瞬間こそが、NTRにおいては俗に言う堕ちた瞬間であり、そうした場面の押し出しの強さがこのジャンルの人気の一因とされることに異論はない。
ただその一方で、「おしとやかな彼女があんなにあられもない表情を」という描写の裏側にあるもの、その下支えとして連綿と存在する物語の持続性を無視することはできないように感じている。
いやむしろここで言う数フレームの連続性のさなか、張り詰めた緊張感がかろうじてほどけないまま維持される状態こそが、実はどんなNTRにも通じる本質なのではないか。
言い換えれば、わざと直ちに解決させないこの煮えきらなさを楽しめるかどうかがNTRというジャンル全体を楽しめるかどうかにつながる、というのが今回自分の伝えたいことである。
果たして、あらゆるNTRの設定はこの独特な緊張感を演出しつつ、できるだけ長く持続させるためだけに存在すると言ってもよいかもしれない(これは言いすぎかもしれない)。
ときにNTRの基本的な登場人物を考えると、その多くは男二女一の組み合わせであり、一組の男女に対して間男が登場するという設定が王道だと思う。
そして自分が目にする限り、男二人に関して言えば、あからさまなほどこの両者は対比的な描写が目立つようだ。
性的な部分ではもちろんのこと、例えば彼氏役の男が年若く、彼女に対して奥手であり、女性の扱いに慣れていないような描写をされるのならば、間男側は女性に対して積極的、またはその扱いに手慣れているいわゆるチャラ男系であったり、社会的地位があるようなやたらと人生経験を積んだ人物像が設定される(たまにNTR好きのチャラ男信仰はなんなんだという発言を見ることがあるが、たぶんその理由はここにある)。
逆に間男が汚っさんと呼ばれるようなマイナス寄りの描写をされるのであれば、彼氏側はそれなりにまともな人格、女性と関係を維持できるだけの人柄を持つ人物描写になる。
取りも直さず、一つの作品の中で彼氏と間男は相反する、対立する要素を持つ間柄として広く理解されているところがある。つまり両者の引きつった関係はNTRをNTRらしくする要素と見なせそうである。
思えば、この両者が作品内で直接ぶつかり合うことは少ない。極論、顔を合わせる機会すらないこともあるが、そうであるからこそ、二人の対立的な関係性は最初から最後までほとんど変わらずに維持され続け、効力を持ち続ける。
あるいは彼女役の女性に関して言えば、多くの場合、規範的な性質を持たされることになるだろう。よほどのことがない限り、性に奔放な性格付けはなされない。
その性質上、彼女は彼氏への秘密を極限まで隠し通そうと行動することになるし、間男はそうした女性の動きに応じて、薄皮をはぐようにその秘密を明らかにしたがる。間男は常に女性の意識の逆側を突く。
この両者の行動方針には、やはり対立的な要素が見て取れる。男二人の関係性と同じく、この対立には緊張感を生み出してNTRをNTRらしくする効果がある。
一方でこの関係には相互の駆け引きが避けられない以上、必ず終わりが見え隠れするという点で、先の例と異なることには注意が必要だ。
物語は畢竟、いつしか終わるものであるが、NTRの終わりは基本的に誰かの性質が変化すること、もしくはそのきっかけが見えたところで幕が引かれる。
幕を引く役割を担うのは主に女性である場合が多いが、その理由はここの違いにあると思われる。
…本来ならここでもっと多様な例を挙げて自分の意見を補強する材料とするべきだろうが、自分の力ではこれ以上書いても枝葉末節としかならない気もする。
NTRについて肯定的に受け止める感想をあまり見たことがなかったのでなんとかここまで書いてみたが、同じ好事家がいればまた異なる視点があるはずなのでぜひ誰か書いてくれたら幸いだ。
ちなみに、もともと自分はおねショタ好きだったが、あまりに一方的な献身が続く関係性にいつしか疑問を持つようになり、その答えとしてNTRを見出したいわば闇落ち勢である。
まさか自分がこうした好みを持つようになるとは夢にも思わなかったが、NTRの沼は思いもよらぬところで口を開けて待っているものだ。
「会社負担(転勤)なので2~3社相見積とって一番安いとこにします」
って一言いうだけ。
その会社がベストを尽くした最安値を引き出せるし、さっさと帰ってくれる。
某サカイは「うちより安い会社があったらそれより安くするんで連絡ください」と言ってくるが、
「そういうのめんどくさいんで、一番安くした価格だけ教えて下さい」と返せばいい。
えーっとブコメには物理的にこんな光源にはならない、とかいてるんで、
「いろんな光源が当たって見える」ってことは、逆説的にブコメが間違っていることを証明しているわけなんだが…。
また元の記事にもあるし元増田にも書いた通り、そういう意見を咀嚼しないとねと、悪意のない失礼については誰も否定してないんだが、
阿部寛のホームページのシンプルさが定期的に話題になるが、あのシンプルさが物珍しいものとして捉えられる現状は間違っていると思う。
世の中のWebページはおしなべて、内容に比して装飾が多すぎる。
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一番影が広い写真というけれど、書いた通り再現できる照明機材を持ち合わせてないので、お題に出された写真を引っ張ってきてるだけだよ。
元増田に載せた写真もアニメ風に塗るときの閾値の例示として出しているわけで、
何が言いたいんだろう?論旨がわからない。
子どもとか赤ちゃんのかくれんぼ付き合ってあげると見つかることが面白いみたいだぞ
どこかなー(明らかに見えてる)>見つけたー>きゃっきゃ>逃げる・隠れる>どこかなー(明らかに見えてる)>見つけたー>無限ループ