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はてなキーワード: 日中戦争とは

2018-05-26

anond:20180526103416

日中戦争を落とし所をつけずに空気でイケイドンドンズルズル行ったのが間違いなんだよね

まぁそれを進めていったひとりが、現首相のおじいちゃんだったりするよな。何十年もたって世代も変わっても、悪いところは変わってないんだよなー

anond:20180526102616

日本戦争って結局は日中戦争を落とし所をつけずに空気でイケイドンドンズルズル行ったのが間違いなんだよね。トラウトマン和平工作も余計な条件釣り上げてダメにして。

南京事件も、中国徹底抗戦決めてゲリラ戦決め込んだから一般人とごちゃごちゃになって、一般人も巻き込む形での対処をしないとならなくなったのが原因だし。

なんか言い逃れ空気でイケイドンドンズルズルいってるのが今のメディアを騒がせてる昨今。

2018-04-17

anond:20180416095807

から「割の悪い仕事をしない」という前提がスッポ抜けてるんだよ。

日本人特有の「情と空気根性論で動いて、上に情さえかけてしまえば思考停止生産性悪い仕事でも残業してやる。忖度して否定してはならない」

から生産性が悪い。

ヤバイと思ったら途中で値段を上げる、あるいは断ることをしない。そもそもヤバイクライアントは次からは切らないとならない。ヤバイことにすら気付いてない。

日中戦争空気で泥沼にハマって和平工作空気で押しつぶして、アメリカイギリスとの戦争になって、ドツボにはまってから「やらないといけないものからやるんだよ!」なんてやってるから生産性が悪い。

ドツボにはまってから、首が回らなくなったことを「あれは自衛戦争だったんだ!」と美化してるのと同じメンタル

2018-04-02

anond:20180402052319

まだ「他の国みんな日本ボコから仕方ないんだー!」の人ですか?

真珠湾攻撃以前に、アメリカやらの参入や包囲網は、中国日本との戦争があって、トラウトマン和平工作みたいな和平の話について、落とし所を見つけずにズルズルいったからでしょ。

空気」で動いて、今勝てそうならもっと要求釣り上げてやれみたいなことをして蒋介石を頑なにさせて。

森友以前は「右であれば正義」みたいな感覚でいたから「右だから私は負けるはずがない」みたいなバカなことを考えてたんだろうね。

日中戦争も「中国は今劣勢だから日本が負けるはずはない」と考えてたんだと思うわ。

日本会議も腐った儒教空気しまくりだからね。それは、本来儒教は上が下を思いやり、下が上を思いやれば理想社会、というのの、

下が上を思いやれば理想社会。だけを切り取って、上?下をボコボコにするわ。というか、上が馬鹿なのも黙ってろよ。みたいな只の戦前懐古主義から

ある意味戦前日本的な「空気で動いて、上の空気にしたがい忖度せよ」みたいな上の連中による理想社会を作ろうとしたが故に、気がついたら裸の大様になっていて、

想定外の要素が次々出てボコボコという二次大戦を見てるようといえば見てるようだ。

2018-01-28

日本辞書における台湾関連の記述

<背景>

産経新聞が次のような記事掲載している。

広辞苑台湾を「台湾省」 20年前から記載 「日本代表的辞典としては瑕疵と言わざるを得ない」(1月26日

http://www.sankei.com/life/news/180126/lif1801260004-n1.html

広辞苑」に相次ぐミス指摘 “国民辞書”揺らぐ信頼

http://www.sankei.com/life/news/180126/lif1801260003-n1.html

今回の広辞苑第七版ではLGBTしまなみ海道記述の誤りが指摘されている。しかし、台湾については触れているメディアほとんど見かけていない。

私はまだ広辞苑第七版を見ていないが、広辞苑第六版その他の辞書記述について気づいた点を記す。

<私の結論

1)広辞苑第六版の「中華人民共和国」にある〔中華人民共和国行政区分〕は日本刊行する辞書としての中立性に欠ける。

2)広辞苑以外も日本国語辞典は総じて現在中華民国に冷たい。現在中華民国は「名称」であり、台北首都ではなく主要都市なのだ

画像

1 産経新聞より

http://www.sankei.com/smp/life/photos/180126/lif1801260003-p1.html

2 広辞苑第六版より

https://pbs.twimg.com/media/DTTEa_YVwAAJM6J.jpg

<本文(長い)>

きっかけは昨年秋、広辞苑新版ニュースになりはじめたころの、1つの記事だった。

日本広辞苑が「台湾中国の一部」に改定。日台の絆に深い傷

http://www.mag2.com/p/news/333476

ただし、この記事有料メルマガ抜粋であるため、詳細を確認することができなかった。

そこで、近くの図書館に行き、台湾関連の記述確認することにした。

まずは「台湾」を引いてみた。

【1】「広辞苑」第六版第一刷(二〇〇八年一月一一日)新村出

たいわん【台湾】(Taiwan中国福建省台湾海峡をへだてて東方二〇〇㌖にある島。台湾本島・澎湖諸島および他の付属から成る。総面積三万六〇〇〇平方㌖。明末・清初、鄭成功オランダ植民者を追い出して中国領となったが、日清戦争の結果一八九五年日本植民地となり、一九四五年日本敗戦によって中国に復帰し、四九年国民党政権がここに移った。六〇年代以降、経済発展が著しい。人口二二八八万(二〇〇六)。フォルモサ。→中華民国。➖・あひる台湾鶩】(以下略

まぁ、こんなもんかな、と思った。

他の辞書も見てみることにした。

【2】「大言海」新訂版第四刷(昭和五十七年十二月一日)故大槻文彦、大槻清彦

たいわん・ぼうず(タイワン・バウズ)(名)臺灣坊主明治二十七八年戦役ノ際、臺灣に出征セシ兵士ノ、此病ニ罹リ、つるつる坊主ニナリテ歸國セシ故ニ云フト〕(以下略

台湾自体見出し語になく「台湾坊主」という禿頭病の説明だけだった。

【3】「角川国語辞典初版昭和五十七年十二月二十日)時枝誠記吉田精一

たいわん【台湾中国福建省東方にある島。面積三万五六〇〇平方㌖。明(みん)末、清(しん)初のころから中国人が多数移住して中国領であったが、日清(にっしん)戦争後、日本領第二次世界大戦後、中華民国返還され、一九四九年以降は蔣介石の国民政府がこの地によっている。中華人民共和国台湾省という。

続いて【台湾海峡】【台湾総督府】【台湾泥鰌(どじょう)】【台湾パナマ】【台湾坊主】と続いた。

【4】「広辞林」第六版第一刷(一九八四年三月一〇日)三省堂編修所

たいわん【台湾中国福建省東方にある島。中国の一省。

これだけの辞書もあった。続いて【台湾征討】【台湾総督】と続く。

【5】「岩波国語辞典」第7版新版第1刷(2011年11月18日西尾実岩淵悦太郎水谷静夫

台湾」はなく、【台湾坊主】のみ。禿頭病のほか、低気圧意味も載っていた。

【6】「旺文社国語辞典」第十一版(2013年10月13日山口明穂、和田利政、池田和臣

たいわん〔台湾沖縄諸島南西方中国大陸福建省東方位置する島。中心都市台北タイペイ。➖ぼうず【ー坊主】(以下略

台北が初めて出てきたが「首都」ではない。

【7】「国語辞典 言泉」第一第一刷(昭和六十一年十二月二十日)尚学図書

たいわん【台湾日本列島西南方にある紡錘形の島。島のやや東寄りに高峻な台湾山脈が南北に縦走し、西側平野がひらける。気候亜熱帯モンスーン気候原住民インドネシア系とされる高山であるが、人口の大部分は華南から移住した漢民族が占める。明末・清初から中国領日清戦争日本領。一九四五年中国返還され、四九年中国国民党政府がここに移った。略称は台タイタイワン。

高山族が出てきた。

【8】「新明解国語辞典」第六版第一刷(二〇〇五年二月一〇日)山田忠雄柴田武酒井憲二、倉持保男、山田明雄

これも【台湾坊主】のみ。

【9】「大辞林」第三版第一刷(二〇〇六年一〇月二七日)松村明三省堂編修所

たいわん【台湾中国福建省東方位置する大島台湾本島とその属島からなる。米・サトウキビ・茶・バナナなどを産する。製糖・製紙・機械セメント・造船などの工業が発達。先住民高山であるが、住民の大部分は漢民族一六八三年から中国領土。日清戦争日本植民地になり、一九四五年中国返還されたが、四九年国共内戦に敗れた中国国民党がここに移った。主要都市台北。面積三万六千平方㌖。人口二二七五万(二〇〇五)。

かなり詳しいが「中華民国」とは書かない。以下【台湾海峡】【台湾兜虫】【台湾銀行】と続く。

【10】「日本国語大辞典」第二版第八巻第一刷(二〇〇一年八月二〇日)日本国語大辞典 第二版 編集委員会小学館国語辞典編集部

たいわん【台湾中国の南東方にある紡錘形の島。本島のほかに澎湖島などの付属島を含み、台湾海峡を隔てて中国福建省広東省に対する。島のやや東寄りに高峻な台湾海峡が南北に縦走し、西側平野がひらける。ほぼ中央を北回帰線が通り、亜熱帯モンスーン気候を示す。先住民はマライ・インドネシア系とされる高山であるが、人口の大部分は華南から移住した漢民族が占める。明末・清初から中国領日清戦争後の一八九五年から日本領。一九四五年中国返還され、省制がしかれたが、四九年中国国民党政府がここに移った。面積三万五九八一平方キロ

かなり細かい記述

台湾については大体こんな感じだったが、「中華人民共和国」と「中華民国」も引いてみることにした。

【1】「広辞苑」第六版第一刷(二〇〇八年一月一一日)新村出

➖・じんみんきょうわこく【中華人民共和国中華民国国民党政権革命によって倒し、一九四九年一〇月一日、中国に成立した共和国中国共産党指導のもとに、全国人民代表大会国家権力の最高機関とする。社会主義体制標榜しつつ、七〇年代から経済改革・対外開放を推進、近年発展著しい。面積約九六〇万平方㌖。人口一二億九六〇〇万(二〇〇四)。首都北京

本文にさして問題は感じないが、問題は〔中華人民共和国行政区分〕なる地図である

(1)北京市に始まり(34)マカオ特別行政区まで掲載されている中に、しれっと(26)台湾省が何の説明もなしに入っているのは、非常に違和感を覚える。

➖・みんこく【中華民国辛亥革命の結果清朝が倒れた後、一九一二中国最初共和制政体として成立した国。初代大統領袁世凱(えんせいがい)。二八年中国国民党国民政府樹立、全国を統一したが、第二次大戦後共産党との内戦に敗れ、四九年本土を離れて台湾に移った。

ちゃんと中華民国見出し語になっているのだが。

【3】「角川国語辞典初版昭和五十七年十二月二十日)時枝誠記吉田精一

➖・じんみんきょうわこく【ー人民共和国

中国大陸支配する社会主義国首都北京ペキン。(以下略

➖・みんこく【ー民国

中国大陸の南東海上、台湾島を中心とする共和国。辛亥(しんがい)革命により一九一二中国大陸に成立。のち、蔣介石の率いる国民党によって統一されたが、第二次世界大戦後、国民党共産党に敗れ、一九四九年台湾に移った。首都台北タイペイ。面積三万五九六一平方㌖。

中華民国見出し語にあり、台北首都である

【6】「旺文社国語辞典」第十一版(2013年10月13日山口明穂、和田利政、池田和臣

中華人民共和国のみ見出し語にあり。中華民国台湾については特筆すべき点なし。

【7】「国語辞典 言泉」第一第一刷(昭和六十一年十二月二十日)尚学図書

中華人民共和国については特筆すべき点なし。

➖・みんこく【中華民国】(一)辛亥革命後の一九一二から中華人民共和国が成立した四九年まで、中国代表する政府採用した国名。(二)一九四九年、中国共産党との内戦に敗れ、台湾に逃れた国民党政府使用している名称

最も正確な気がした。

【9】「大辞林」第三版第一刷(二〇〇六年一〇月二七日)松村明三省堂編修所

➖じんみんきょうわこく【中華人民共和国アジア大陸東部を占める国。中国革命成功により一九四九年一〇月一日、毛沢東主席として成立。中国共産党指導の下で、土地改革農業集団化、数次の五か年計画などを遂行し、文化大革命による混乱を克服して「四つの現代化」を掲げ、社会主義国建設を目指している。国家の最高機関全国人民代表大会首都北京。面積九五九万七千平方㌖。人口一三億一五八〇万(二〇〇五)。

➖みんこく【中華民国辛亥革命の結果、中国誕生した共和制の国。一九一二孫文臨時大総統として南京ナンキン)に政府樹立されたが、袁世凱政権を奪って政府北京に移した。のち、中国国民党国民政府樹立し、北伐をおこない全国を統一したが、日中戦争内戦を経て、四九年中国共産党中華人民共和国が成立。台湾に移った国民党政府は、中華民国国号使用

【10】「日本国語大辞典」第二版第八巻第一刷(二〇〇一年八月二〇日)日本国語大辞典 第二版 編集委員会小学館国語辞典編集部

ちゅうか-じんみんきょうわこく【中華人民共和国ユーラシア大陸東部にある人民共和国東部はやや湿潤な平野からなり、内陸部は乾燥気候で、山地高原盆地が多い。大多数を占める漢民族のほか、チワン族蒙古族ウイグル族チベット族など五五の少数民族からなる多民族国家北京上海天津の三直轄市と、二二省、五自治区、ニ特別行政区香港マカオ)に分かれる。中国国民党との内戦勝利を得た中国共産党の全国統一により一九四九年一〇月、毛沢東主席として成立。中国

広辞苑第六版の地図比較すると、この時点では重慶直轄市ではなかったようだ。そして台湾省は「二二省」には含まれていないと思われる(広辞苑の「省」は23ある)。

ちゅうか-みんこく【中華民国】(一)辛亥革命後の一九一二から中華人民共和国が成立した一九四九年まで、中国代表する政府採用した国名。一九二七年を境として、前半の軍閥組織を背景とした北京政府と、後半の中国国民党による国民政府時代とに分けられる。首都は前半は北京、後半は南京。(ニ)一九四九年、中国共産党との内戦に敗れ、台湾に逃れた国民党政府使用している名称

【11】「国語辞典第一版第七刷(昭和五十七年二月十二日)尚学図書

➖・じんみんきょうわこく【中華人民共和国

国共内戦記述があり、首都北京とあるが、台湾についての記述はない。

2018-01-11

韓国の求める心から謝罪とは何か

日韓問題

最終的な解決がなされたのに蒸し返すことの契約的な是非はともかく、心情面で日本がどんだけ謝っても韓国納得しないじゃんって話については、2015年戦後70年首相談話の時にパックンが書いたコラムが興味深い。


首相談話についても、アメリカ人なので語りません

以下に一部引用する。

 謝るべきかどうかではなく、何故お詫びを求められ続けるかということだけについて話そう。

 まず挙げられるのは「各国の政府は、内政が厳しいとき反日感情煽り国民の怒りの矛先を外に向けさせる作戦を取る」という説明。これは間違いない。その作戦自体は間違っていると思うけどね。やりすぎてだんだん効果が薄れているみたいだし。

 でもそれだけではないだろう。もう1つの理由として、日本の「反省が伝わっていない可能性」も考えよう。もちろん、これまでに日本政府が謝ってきたのは事実。少なくとも村山首相中曽根首相細川首相小泉首相安倍首相謝罪している。

 しかし、各時代首相が謝っている傍らで、他の政治家たちによる謝罪とは反対の意に捉えられる発言が目立つ。有名な例だと、中曽根内閣時代藤尾正行文部大臣韓国併合についての「韓国側にも責任がある」発言竹下内閣時代奥野誠亮国土庁長官日中戦争についての「侵略意図は無かった」発言最近だと、「慰安婦制度必要だった」という橋本徹大阪府知事(当時)のコメントがある。

 行動も紛らわしく見える。5名の首相がおわびをしている一方で、靖国神社へ参拝している戦後首相は14名。国会議員では数百人に上る。靖国神社は、世界メディアWar Shrine戦争神社)と紹介されている。参拝される人の意図とは関係なく、世界が受ける印象は「お詫び」とは反するものになってしまう。

 今回も謝罪の意をこめた総理談話を発表した翌日に、67名の国会議員が参拝をした。安倍総理は参拝しなかったが玉串料を収めた。こういうことは英語でmixed messageという。その行動により、残念ながら「お詫び」が印象に残らない結果となる。

 その後、おおむね「謝罪した」とみられているドイツとの比較などが行われている。

 つまり日本政府や首脳は、公式声明では確かに何度も謝罪している。だが、公式声明以外の振舞いや、首脳以外の政治家言動に「本当はたいして悪いと思ってません」というホンネが感じられるため、本気で謝っていると思ってもらえないということである

 なので、どうすれば心から謝罪したと納得されるかというと、政治家(たぶん国民も)の大半の意見を「日本が悪かったです」ということで統一し、かつ大々的な声明だけでなくその他の場面でも日本が悪かったという態度を崩さず、あと政治家や元政治家靖国参拝奉納を止めるといったところだろう。

 少なくともパックン見立てではそのような感じだ。


 まあ確かに会社とか友人関係でも、いったんちゃんと頭は下げたものの、その後自分の席に戻って肩をすくめたりする姿が見られたら、本当は反省しておらずしぶしぶ形だけ謝ったのだ、という風に思われるだろうことはわかる。

 靖国は、誰がどの墓や神社に参拝しようが自由なのだがその自由なところから透けて見える気持ち反省のしてなさであるというのはなんか難しい所だ。

 結局のところ、大日本帝国とそれにまつわる物事ナチス第三帝国と同じくらいの扱いにしたら満足してもらえるはずってわけだろうが……。


このコラムへの読者の反応にパックンが返答している記事もあるのでそれも貼っておく。

アメリカ人だからか、語りきれなかったみたい

2018-01-05

世代

1920年代1930年代まれ

戦前世代

青少年期に日中戦争太平洋戦争体験し、1920年代まれ徴兵経験する。

終戦時の年齢は6歳から25歳。

高度経済成長期(1954-1973)には15歳から53歳

安定成長期(1973-1991)には34歳から71歳。

バブル時代(1986-1991)には47歳から71歳で管理職および経営トップを担う。

定年(60歳)は1980年から2000年まで。

現在は80代・90代。

バブル時代総理大臣を務めたのは中曽根康弘(1918生)・竹下登(1924生)・宇野宗佑(1922生)・海部俊樹(1931生)。

それ以降も小泉純一郎就任まで、1920年代1930年代まれ総理大臣が続く。

1940年代まれ

1960年1970年安保闘争ベトナム戦争に対する反戦運動1960年代後半に過激化した学生運動などを大学体験した「全共闘世代」。

1940年代後半生まれ戦争終結による第一ベビーブームで生まれた「団塊の世代」。

高度経済成長期(1954-1973)には5歳から33歳で、主に青少年期を過ごした。

安定成長期(1973-1991)には24から51歳。

バブル時代(1986-1991)には37歳から51歳。

定年(60歳)は2000年から2010年まで。

現在は70代。

歴代首相では、麻生太郎(1940生)・小泉純一郎(1942生)・菅直人(1946生)・鳩山由紀夫(1947生)。

1950年代まれ

上の世代反面教師政治的無関心が増えた「しらけ世代」。

1950年代前半生まれ団塊から引き続き人口の多い「ポスト団塊」。

1950年代後半生まれ人口の少ない「谷間世代」。

高度経済成長期(1954-1973)に幼少期・青少年期を過ごした。

安定成長期(1973-1991)には14歳から41歳。

バブル時代(1986-1991)には27歳から41歳。

定年(60歳)は2010年から2020年まで。

現在は60代。

歴代首相では、安倍晋三(1954生)・野田佳彦(1957生)。

1960年代まれ

従来とは異なる感性を持つとされた「新人類」。

1960年代前半生まれは引き続き「谷間世代」。

1960年代後半生まれバブル時代就職した「バブル世代」。

幼い頃からマンガアニメゲームバラエティ番組洋楽などに親しんだ「元祖サブカル世代」「オタク第一世代」。

高度経済成長期(1954-1973)に幼少期を過ごした。

安定成長期(1973-1991)には4歳から31歳。

バブル時代(1986-1991)には17から31歳。

現在は50代。

1970年代まれ

バブル崩壊後の不景気就職した「就職氷河期世代」「ロスジェネ」。

1970年代前半生まれは、団塊の世代による第二次ベビーブームで生まれた「団塊ジュニア」。

安定成長期(1973-1991)に幼少期・青少年期を過ごした。

バブル時代(1986-1991)には7歳から21歳。

現在40代

1980年代まれ

出生率の低下が問題となりはじめた時期に生まれた「少子化世代」。

1980年代後半生まれは、脱・詰め込みの教育を受けた「ゆとり世代」。

ただしゆとり教育のもの1980年から施行されている。

安定成長期(1973-1991)に幼少期を過ごした。

現在は30代。

1990年代まれ

物心ついた頃からPCインターネットが普及していた「デジタルネイティブ」。

ゆとり教育を受けた「ゆとり世代」、および不景気下で育ったために無欲と言われる「さとり世代」。

現在20代

2017-12-06

https://anond.hatelabo.jp/20171206025539

さらに「まじパネー」という言葉普段から使われている。

日中戦争海軍米国のパナイ号攻撃したパネー号事件賞賛し、マジパネェ!マジパネェ!と言って戦争をしたくてしょうがない、誰かを傷つけて優越感に浸りたいのだ。

増田だが、私もとても嘆かわしい。

2017-11-17

*[サバゲー]【S&T三八式歩兵銃記念】旧日本陸軍下士官兵軍装に関する備忘録サバゲーでの運用考察

長らく日本人サバゲーマーでは羨望のアイテムだった?三八式歩兵銃のエアガン海外メーカーの雄、S&Tから比較的手ごろな価格

発売され大いに盛り上がっていますが、その一方で旧日本軍についてあまり詳しくない人からは「『輜重部隊兵隊ならば 蝶々トンボも鳥のうち』 などと言って補給を軽視していた」だとか

日本刀を振るっている精神主義固執した軍隊だった」「巻脚絆がダサい」等々誤解が未だに蔓延っているのも事実なのでそうした誤解を解消する一助になれば……と思いこうして

筆を起こしてみました。

※調べていない点もあるので下士官兵に限定した内容です。将校准士官は除外されるものと思ってください。

※古い時期では下士官兵を「下士卒」と呼称しますが「下士官兵」に統一します。

徒歩本分者と乗馬本分者

当時の旧日本軍(恐らく同時期の各国軍も)歩兵代表される徒歩移動が主の「徒歩本分者」と騎兵等の「乗馬本分者」に分かれており

下士官兵はそれぞれ適した被服が与えられました。

すなわち

・徒歩本分者→「銃剣」「長袴」(九八式では短袴に統一)「巻脚絆」「編上靴

乗馬本分者→「軍刀」「短袴」「長靴」または「官給型革脚絆と編上靴

となります

また、騎兵であれば二等兵でも三十二年式軍刀(甲)を、それ以外の兵科では刀身の短い三十二年式軍刀(乙)後年では九五式軍刀を装備します。

……あれ?同じ日本軍の同じ兵隊でも乗馬本分者の方が軍刀を帯びてブーツを履くのでとても「カッコいい」スタイルですね(偏見

※いや巻脚絆の効能は知っていますが……

本部下士官では例外なく乗馬本分者扱いのようで将校准士官と同じ革脚絆を巻き、軍刀を帯びるようです。

平時は上記のような塩梅でしたが戦争の推移で末期戦の悲哀からか、小銃不足で軍刀配備率が上がって末期では伍長でも軍刀を携えていたみたいです。

また、大雑把に区分すると

歩兵……徒歩本分者

騎兵……乗馬本分者

砲兵……徒歩本分者、乗馬本分者(※徒歩移動と乗馬移動双方がある為、但し一定の者(本部下士官?)以外は乗馬本分者でも軍刀に変えて銃剣を携行する模様)

工兵……徒歩本分者

輜重兵……乗馬本分者

憲兵……乗馬本分者(※徒歩移動がある場合は徒歩本分者と同じく巻脚絆と編上靴を用いる模様)

……という風になります

……あれ、輜重兵の方がかっこよくない?(偏見

昭和期になると機械化、自動車化による改変で装備が変わった可能性(馬に乗らなくなくなる)があるのであくまで目安。

※徒歩本分者/乗馬本分者以外にも帯剣本分者とか執銃本分者とか帯刀本分者とか色々用語があるらしいけど、流石にネットだけじゃ調べ上げるのは無理だった……

輜重兵と輜重輸卒

冒頭に上げた『輜重部隊兵隊ならば 蝶々トンボも鳥のうち』は正しく言うと「輜重輸卒が兵隊ならば 蝶々トンボも鳥のうち」で

実は輜重兵と輜重輸卒は別物だったのです!

具体的に言うと

輜重輸卒→専ら荷役や輸送作業等に従事(当時は人力が主)銃は持たず銃剣のみ装備。

輜重兵→輜重輸卒を統率し管理する。(なので二等兵でも乗馬しながら輸卒に指示を出したりする必要があった)騎銃と軍刀を装備。

……なので「輜重輸卒が兵隊ならば 蝶々トンボも鳥のうち」は正しく解釈すると「銃も持ってない奴が兵隊ならば、蝶々トンボも鳥のうち」ということになります

そして輜重兵は歩兵と違って騎兵とほぼ同一のカッコいいスタイルなんだ!?偏見

こうして俯瞰すると旧日本軍における軍刀ポジションが見えて来ましたね。

まり乗馬戦闘で用いる役割と指揮棒的な役割と見栄えを整える役割が有ったんだけど、

丁度過渡期な戦争日中戦争太平洋戦争で「前時代的な刀を振り回す日本軍」と後世に脚色されて伝わったんでしょうかね~?

※ただ、かつての武士を重ねていたという要素はあるかと思います

本題の三八式歩兵銃を用いる装備

さて、(サバゲー的な見地による)三八式歩兵銃を用いる兵科となると以外に少なく

歩兵工兵(一部)しか該当しないようです。

騎兵は四四式騎銃、その他の兵科は三八式騎銃を主に用います

(※九九式小銃、短小銃登場後は九九式短小銃事実上統一されました)

また弾薬盒はレプリカでお馴染みの前盒二つと後盒一つのもの使用しますが、

工兵場合前盒一つだけの模様。また任務の状況などで弾薬盒を減らしたりして臨機に対応するようです。

※一時期後盒が廃止され前盒だけの時期もあった模様。

騎銃は弾薬盒は専用のもの一つを使用します。

余談ですが騎銃用の弾薬盒は乗馬本分者用と徒歩本分者用で別れていて乗馬本分者用は専用の負い革ベルトが付属するようです。

サバゲー日本軍恰好をするには?

三八式歩兵銃を基幹にするとして

ヘッドギア→軍帽(四五式軍帽)または略帽と鉄帽

軍服上下→四五式、昭五式、九八式……と様々あるので徽章類の組み合わせに注意しつつ好みをチョイス

※個々の解説については膨大なので省略

※とりあえず歩兵無難そう

・腰回り→革帯、弾薬盒、剣差、銃剣サバゲー主体ならば危ないので銃剣は無くてもよい)

・靴→編上靴茶色で踝に膨らみが無いスエード調の物、なるべく鳩目が五つのものを探す)巻脚絆(カーキ、国防色

・その他→雑嚢(なるべく軍服年代を合わせる事)、水筒(昭五式とか九四式と言われるタイプ明治三十年採用の徳利水筒

……ここまで揃えれば『うるさ型』な軍装マニアもニッコリ???(逆に今度は「背嚢も買おうよ~」とか勧誘が激しくなりそう)

サバゲーで勝つにはどうしよう……?

どう足掻いても電動ガンには勝てないので頭を使うこと。

いくらなんでもバンザイ突撃ごっこばかりじゃツマラナイ

一、味方チームと連携を保ちつつ前進すること。

二、軽機班(フルオートができれば89式でもM4でもなんでもいい)を編成して共闘できれば当時の雰囲気が出て盛り上がりそう。

三、侵攻予想地点に待ち伏せして影から狙撃する戦法に徹する。

2017-09-16

anond:20170916200145

空気で行動するのをやめるところから始めようや。

空気で行動したがゆえに日中戦争長引いた。

空気で行動したが故に、航空主兵論のさきがけとなったのに、多数の空気に押されてそれを活かせなかった。

で、石油禁輸やアメリカの介入招いて完全に焦土になったんだわ。

空気で動くことを要求するようなおんなじことを日本の大メーカーみんなやってる。

誰かとんがった奴がいいもの作るが、それに安住して、安住した奴のプライドを傷つけないような社会をつくろうとして、で、どんどん負けていく。

戦前のように教育こそ重要だ!って空気でもないから、二次大戦後のような復活も今度はできない。

ギリシャみたいにうちは長い歴史があるんだ!とプライドばかり高い貧困国になるだけ。

そもそも同盟関係なんて常に変わるもの第一次大戦では、日本イギリスアメリカの側について、ドイツと戦ったんだわ。

日露戦争のバックにはイギリスがいた。

から、そのとき仲良ければ、相互に助け合う。

もし、日中戦争で、空気で「勝ってるからどんどん要求釣り上げろ!」なんて馬鹿なことをせずに、トラウトマン和平通りに和平できていれば、

日本中国欧州戦争を高みで見てて、中国共産化されることはなかっただろうね。

2017-08-09

日中戦争無視されすぎ問題

この時期にいつも思うのは、日中戦争無視されすぎてるということ。

この時期は太平洋戦争の開戦判断ばかりに注目が集まってしまうし、一部の人が言う「先の戦争」って表現太平洋戦争のことだし。

そして太平洋戦争勃発を境に日本が大きく変わったかのような表現が目立つ。

そりゃ大きく変わったのは事実だけど、ずっと前から変わっていたんじゃねーの?

1937年7月 盧溝橋事件

1937年12月 南京

1938年4月 国家総動員法公布

ここから既に国内人材物資徴発が始まっていたわけで、いわゆる戦時下体制内閣は挙国一致内閣

マスコミは1937~1941年もっとスポットあてるべき。

日中のどっちが正しいかとかそういうのはいらんから、なぜ立ち止まれなかったのかを考える材料提供してほしい。

2017-06-05

続・山川出版日本史の何がすごいのか、さっぱり分からない

http://anond.hatelabo.jp/20170604204919

これの続き。(文字数制限にひっかかったので分割します)

  

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

1183(寿永2)年、義仲軍は京都に入り、食糧不足もあって狼藉を続けた。京都にとどまった後白河法皇後鳥羽天皇即位させ、寿永二年の宣旨頼朝東国での支配権を認めるとともに、義仲軍の乱暴ぶりを口実にして頼朝上京要請するなど、政治力の強化につとめた。しかし、頼朝東国支配を固めるために鎌倉を動かず、かわりに弟の範頼・義経上京し、1184(元暦元)年、二人は義仲を打ち破った。

義仲が京都乱暴狼藉を働いたという記述があるのは、意外にもこの教科書だけでした。

兵糧不足のまま進撃して首都占領しても、どうせ軍規が乱れて略奪しまくるぞというのは、日中戦争における南京事件南京大虐殺)のことを言いたいのかなと思いましたが、それは深読みのしすぎかもしれませんね。どうなんでしょう?

  

また、これは下記の引用部分になりますが、頼朝が初めて上京したタイミングがいつだったかを明記しているのは、この教科書だけだと思います

(この点はとりわけ山川の『詳説日本史』が最悪です。頼朝西国での平家追討の仕事をすべて弟の範頼・義経らにやらせ自分はその間ずっと鎌倉にひきこもって地盤を固めていたという基本的事項すらも把握できない書き方がされているんです。)

頼朝挙兵以来、北条氏三浦氏などの東国武士たちと主従関係を結んで、彼らを御家人として組織した。そして1180(治承4)年、御家人の統率と軍事警察担当する侍所を設けて、有力御家人和田義盛別当長官)に据えた。さらに1184(元暦元)年、一般政務をつかさどる公文所(のち政所)と問注所を開設し、実務に優れた下級官人らを側近にして職務を分担させるなど、支配機構の整備を進めた。

頼朝後白河法皇要請を受け、範頼と義経平家追討を命じ、1185(文治元)年、長門壇ノ浦平氏を滅亡させた。後白河法皇頼朝権力拡大を恐れて義経を重用し、頼朝の追討を命じたが失敗した。逆に頼朝は、親鎌倉派の公卿九条兼実藤原兼実)らを朝廷重要政務担当する議奏につかせ、反鎌倉派の貴族追放し、義経の捜索を名目に国ごとに地頭を置くことを認めさせた。さらに1189(文治5)年、頼朝義経をかくまったことを口実に藤原秀衡の子の泰衡を攻め、奥州藤原氏を滅ぼした。こうして頼朝東国西国の多数の武士御家人として組織しながら、主に東国支配確立していった。

1190(建久元)年、頼朝挙兵後はじめて京都に入り、右近大将に任命され、後白河法皇没後の1192(建久3)年には、法皇の反対で就任できなかった征夷大将軍に任命され、名実ともに鎌倉幕府が成立した。」

当然ながら『詳説日本史』にも、侍所政所問注所地頭というキーワードは出てきますしかし、治承・寿永の乱とは別項に記述されているため、時系列が分かりづらくなっています

それに比べて、この教科書歴史の流れの中にキーワードを配置しています。だから時系列に即してこれらの言葉意味理解することができるはずです。

  

結びが「名実ともに鎌倉幕府が成立した」という記述になっているのも、味わい深いです。

鎌倉幕府の成立が何年かという論争を垣間見ることができます名目的には1192年に幕府が成立したと言えるが、実質的にはそれ以前から幕府政治機構ができあがっていたというニュアンスを含ませているのでしょう。

  

  

  

あとは、上記引用中の「義経の捜索を名目に国ごとに地頭を置くことを認めさせた」という記述が最高にクールです。

一般には1185年、義経の捜索を名目にして守護地頭が設置されたとされていますし、国ごとに置かれた役職地頭ではなく守護だと暗記している人が多いんじゃないでしょうか?

例えば山川の『詳説日本史』はそうなっています。それによると、頼朝は1185年に「諸国には守護を、荘園公領には地頭を任命する権利」を獲得したとされています守護は「おもに東国出身の有力御家人から選ばれて「原則として各国に一人ずつ」任命され、「大犯三箇条などの職務を任とし」て国内御家人を指揮統率し、とくに東国では在庁官人支配することで「地方行政官としての役割も果たし」ました。いっぽう、地頭は「御家人のなかから任命され、任務年貢徴収・納入と土地官吏および治安維持」です。「頼朝は主人として御家人に対し、おもに地頭に任命することによって先祖伝来の所領の支配保障したり(本領安堵)、新たな領地を与えたりした(新恩給与)」わけですが、このことが御恩と奉公関係となって封建制度の基礎となりました。

  

ところが、三省堂の『日本史B 改訂版』(日B 015)によると、ここの説明がこれとまったく異なります。私が先に引用した項では、1185年の出来事として守護の設置には言及せず、地頭の設置だけが記述されていますしかもその"地頭"は国ごとに置かれたものだとされているのです。

私は最初にこれを読んだとき、わけがからなくて混乱しました。それでがんばって自力で調べてみて(独学なので苦労したナァ)ようやく理解できたのですが、1185年の文治の勅許守護地頭が置かれたとする『吾妻鏡』の記述には疑いがあり、実はこれがかつて学者の間でも論争になったテーマだったらしいのです。

1960年石母田正が新説を発表したのですが、おおざっぱに言うと、新説では、この時点で置かれたもの守護地頭ではなく、地頭(国地頭)だったとしています。それはわれわれが普通一般に知っている地頭(荘郷地頭)とは異なり、一国を統括する強大な権限を持つ存在です。この国地頭はすぐに廃止され消滅しましたが、守護前身となりました。

三省堂教科書は、次項でそのことが説明されています頼朝がはじめは国ごとに"地頭"を派遣して荘園国衙領のいずれからも兵糧米を徴収させていたこと、そのやり方がひどすぎたから反発を招いて、以後は"地頭"に代わるものとして守護を置いた、という記述になっています。またこれに続いて、頼朝は「荘郷地頭と呼ばれる地頭を任命し」、平氏没官領や謀反人の所領跡で「年貢公事徴収治安維持に当たらせた」としています

このように、三省堂教科書では、「国地頭」と「荘郷地頭」をはっきりと区別しているのです。

  

実教出版もこの新説を採用していますこちらも合わせて読んでおくと、国地頭のことが大変よく分かります東京出版は本文の記述が旧説に拠っていますけど、欄外では国地頭が惣追捕使とならび、守護前身として存在していた話をちょこっと説明しています。これらの教科書は「国地頭」論争の成果を取り入れており、学問的に誠実だと思います

それに対して山川の『詳説日本史』は旧説を採用し、1185年に守護地頭の設置が認められたとする断定的な記述になっています。これが他の教科書とのあいだに無用矛盾を生じさせているのです。私と同じようにこの点につまづいて、困惑してしまった高校生が少なからずいるんじゃないでしょうか。

  

なお、山川参考書『詳説日本史研究』にもこの新説の紹介はありません。同社『日本史B用語集』には「国地頭」という用語掲載されていて、そこでは一応説明がされているんですが、あたかも国地頭が荘郷地頭前身だったと思わせるような記述です。

地頭(じとう)⑪:1185年、頼朝要請後白河法皇諸国公領荘園地頭を設置することを認めた。当初は1国単位荘園公領支配する国地頭を設置したが、まもなく平家一族の所領として没収された平家没官領と謀反人跡地に限定した荘郷地頭となった。しかし、公家寺社の強い反対で、一時縮小、承久の乱後に全国化した。任務土地管理年貢・兵糧米の徴収治安維持など。

地頭⑤ 荘郷地頭

  

山川出版日本史B用語集』より

ですが三省堂実教出版東京書籍の教科書によると、国地頭はむしろ守護へと発展的解消を遂げたという記述なんですから、『日本史B用語集』のこの説明とはやはり若干の矛盾が生じています

「国地頭」を教科書に載せている上記の主要3社の文脈に従うなら、この用語独立の項目として取り扱うか、せめて「地頭」の項目じゃなく「守護」の項目にいれて取り扱うべきじゃないでしょうか。

  

(追記 これはインターネット上の情報なので私は未確認ですが、現在は『詳説日本史』にも国地頭掲載されているそうです。近年改訂されたんでしょうか。

予防線を張っておくと、私は高校日本史Bを履修しなかったし、大学理系に進みました。教科書を読んだのは興味本位にすぎません。

はじめに書いたとおり、最新版教科書を持ってません。今回はてブでバズっていてびっくりしましたが、筆者は歴史学の専門家でも何でもないことをお断りしておきます

追記id:HRYKtbykさん、確認をしてくださり感謝です。)

  

  

  

追記

複数教科書を読み比べすることで、『詳説日本史』を読むだけでは見えないポイントが浮かび上がってきます

『詳説日本史』では、前九年合戦後三年合戦のところで、「これらの戦いを通じて源氏東国武士団との主従関係を強め、武家棟梁としての地位を固めていった」とあります。これが後の頼朝挙兵につながるわけですが、それは時代を経てからのことだから教科書のページが離れすぎていて、この関連が把握しづらくなっています

ここで例えば山川出版社『新日本史B 改訂版』(日B 018)のような他の教科書と読み比べてみると、『詳説日本史』がこの簡潔な一文を通して伝えたかたことを理解することができるのです。(上述参照)

  

つぎは例えば、貫高制・石高制を見てみましょう。

『詳説日本史』によると、戦国大名性格は次のように説明されています戦国大名は「新たに征服した土地などで検地をしばしばおこなっ」て、それにより「農民に対する直接支配」を強化しました。そして国人地侍を取り込むため、貫高制を導入しました。これは戦国大名が彼らを「貫高という基準統一的に把握」して軍役を課す制度でした。それでここからすこし時代下り、別のページで豊臣秀吉太閤検地説明しています太閤検地により石高制が確立しました。それは「荘園制のもとで一つの土地に何人もの権利が重なりあっていた状態を整理」し、「一地一作人」を原則とするものです。農民は「自分田畑所有権を法的に認められることになった」わけです。

このような記述だけでも表層的な理解はできると思いますが、実教出版日本史B 新訂版』(日B 014)は、貫高制について「荘園の複雑な土地制度は貫高に組み込まれ大名統一的な国内政治を推進」するものとしています。『詳説日本史』ではせいぜい石高制と荘園制の関係しかからないでしょうが、本書はこのように貫高制と荘園制の関係を明示しているのです。

この視点を最もわかりやす記述しているのが、三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)です。本書は貫高制、石高制、荘園制の全部を一つの項目に入れて記述しています。それによると、秀吉太閤検地を行い、「戦国大名の貫高制にかわって、それを発展させて全国に広げた石高制」を導入、その結果「荘園制を完全に崩壊させ」ました。このポイントを把握しておけば、中世から近世への社会の変化を、土地一元的支配確立荘園制の衰退・消滅という視点で見ることができます。本書の特徴は、貫高制・石高制をともにこの視点から語っていることと、しかもそれが荘園制を「完全に崩壊させ」たと言い切っていることです。

ちなみに、東京書籍『日本史B』(日B 004)では、石高制を「近世封建制体制原理」と書いています。これがまったく新しい制度であることを強調しつつ、近世という言葉を使ってその射程を江戸時代にまで広げているのです。)

2017-06-01

日本人無宗教ではなく儒教徒である

日本の最大宗教儒教で、それは江戸時代から変わっていない。

武家は、統治のために中国儒教に倣ったからで、そしてそもそも儒教社会構造を維持するための宗教だ。日本史教科書には儒学とか朱子学とかさらっとしか書かれていないけれど、徳川治世は政教一致で、儒教社会本質を担う物凄く重要ものだった。

そして例えば、長幼の序年功序列)とか、男尊女卑とか、御先祖様がどうだとか、上座下座とか、家父長制(天皇制典型)とか、未だにある。そしてそれは道徳と称され、確信的に(加害者に悪の自覚が無く)差別が行われている。

さらにそれがとりわけタチが悪いことに、儒教教義を信奉している当人儒教徒であることの自覚が無い。それで、「日本人無宗教」という言説が定説になっている。

日中戦争太平洋戦争をした原因にも、儒教がある。儒教身分差別階級差別宗教なので、どちらが親分か、どちらが兄貴か、優劣(序列)がある。そうして、他者を蔑んだり、権威にひれ伏したりする。「大東亜共栄圏」という概念は、日本東アジア盟主親分)たらんとしたものだ。

日本では、少なくとも戦時中までは公然アイヌ人や沖縄人(「沖縄県民」)を差別してきたし、韓国人中国人は未だに事実上差別を受けている。戦前政府日本社会システム押し付けて、創氏改名を行わせた。それは韓国人に対してだけではなく、アイヌ人にも行われた。侵略され植民地化されたからには、日本論理を受け入れるしかなく、多くのアイヌ人は和人同化せざるをえなくなった。

国家神道」とかいうけれど、それも、神道の皮をかぶった儒教だ。天皇を家父長にした、身分差別階級差別宗教だ。

日本人は、正しい歴史認識をしていないし、戦争反省もしていない。なにせ、儒教徒である自覚が無いのだから戦争の原因を認識していない。だから謝罪をしても反省はしていない。しかも困ったことに、中国人韓国人儒教徒から問題本質解決する可能性がない。

正しい歴史教育だとか正しい歴史教育だとかいう以前に、日本人和人)は自分自身を知らない。

2017-05-25

近世中国ってアヘン戦争日中戦争南京大虐殺だとかいいとこなしだったけど やっと眠れる獅子が目覚めたんだなあ

2017-05-23

毎日新聞皇室報道を見て、歴史が繰り返される理由が分かった

1923 関東大震災

1925 治安維持法制定

1940 東京オリンピック日中戦争などで開催権を返上

1941 太平洋戦争

2011 東日本大震災

2013 秘密保護法制定

2020 東京オリンピック

一時期こんな書き込みネット流行った。

俺は、この書き込みのことは、正直馬鹿にして見てた。

ほぼ国家公務員しか対象にならない秘密保護法を、世紀の悪法治安維持法」に見立てるのは無理がある。

ただ、最近皇室関係報道を見ながら、考えが変わった。

見方を変えると、確かに歴史は繰り返されている。

この先の出来事も、このままいくと繰り返される可能性が高いかもしれない。

一番重要ポイントは「戦前軍部」の役割を、誰が担うかだ。

俺は、ここに素直に「自衛隊」を代入していていて、だからこそ、歴史は繰り返さないと思っていた。

戦前軍部があれだけ暴走できたのは、大新聞と、その後ろにいる国民からの熱烈な応援があったからだ。

今の自衛隊は、国民から支持率は高いが、メディアからは厳しい視線に晒され続けてる。

文民統制規定もあり、自衛隊暴走不可能に近いし、その動機もない。

三島由紀夫切腹した頃から自衛隊はすでにサラリーマンだし、国家に対して反乱を企てるような集団じゃない。

じゃあ誰が「軍部」になるのか?

戦前軍部」の特徴には、以下の三つのような特徴があった。

1.他者に対して攻撃

2.メディア一般人批判できない、しづらい存在

3.政府予算の中で「聖域化」され、誰もその関連予算を削れない

この3つの要素を、今持ってるのは誰か?

俺は、現代においては「高齢者」が、戦前軍部役割を担うんじゃないかと思った。

そう考えていくと、辻褄が合い始める。

歴史が繰り返される道筋が見えてくる。

まず、マスメディアにボロクソに叩かれてるアベノミクスだが、あの政策には元ネタがある。

高橋是清が、4度目の大蔵大臣就任した際に行った金融政策だ。

高橋是清は、井上蔵相が起こしたデフレによる不況を止め、緩やかなインフレを起こすために、積極的財政出動と「金輸出禁止」による円安政策を行なった。

1931年の話だ。

この政策で国の景気ははっきりと回復へ向かったが、高橋是清関東大震災以降の支出超過でこれ以上の財政出動危険だと理解していて、財政健全化へと舵を切った。

要は、震災対応財政出動で金を使いすぎたから、軍事費含めた国の予算を軒並み削減して、なんとか国の赤字を減らそうとしていた。

これに反抗したのが、当時の軍部だ。

軍部のうち皇道派と呼ばれる人間たちは、富裕層だけに味方している(ように見えた)高橋是清のことを、「君側の奸」と吐き捨てた。

こんな政治家のことは天皇陛下もお嫌いのはずと「忖度」して、クーデターを起こし、殺害した。

世に言う、二・二六事件だ。

高橋是清殺害されたことで、財政健全化政策も、金融政策も完全に止まった。

あと一歩で回復するかもしれなかった日本の景気は腰折れし、高橋是清が削ろうとして叶わなかった軍事費は、どんどん膨張した。

結果として、財政がどうにもならなくなった日本は、景気回復を「軍部による戦争」にしか求められなくなり、支那事変を引き起こす。

これが契機になり、東京オリンピック返上される。


話を現代に戻そう。

つい最近毎日新聞天皇陛下のお言葉を一面でリークした。

陛下 退位議論に『ショック』 宮内庁幹部生き方否定』」

こんな見出しが、全国紙の紙面に踊った。

次の日、宮内庁取材した産経新聞が、

宮内庁毎日陛下 公務否定に衝撃』報道否定 有識者会議意見に不満のご発言事実ない』」

という記事を出したことから、事の真偽は正直不明だ。

ただ、ここで重要なのはマスメディアが、天皇陛下を利用して、政府批判をはじめた」ということだ。

陛下の心を傷つける専門家会議とそれを主導する安倍晋三は、君側の奸だ」ってわけだ。

こんな、戦前軍部の「皇道派」みたいなことを言う人間が、この現代日本に現れた。

俺は、このニュースを見て、本当にまずいんじゃないかと思った。

安保法制の騒ぎの中で分かったことは、「安倍政治を許さない」とデモをしている人たちには、高齢者が多いということだ。

Twitterなんかで確認する限り、毎日新聞の例の記事も、高齢者らしき人々の中では評判が良く、拡散されているようだ。

安倍政権支持率は、これまた高齢者に支えられるテレビメディアからの「森友学園」「加計学園」の連続スキャンダル攻勢で、確実に落ちてきている。

俺には、現代安倍晋三が、戦前高橋是清と同じ役割を担っているように見えた。

安倍晋三高橋是清ほど良い政治家かと言われたら正直疑問だが、少なくとも、同じ役どころが回ってきてるようには見える。

これからマスメディアとそれを後押しする高齢者の力で安倍政権が倒れた場合日本は、戦前二・二六事件後と似たような空気になるんじゃないかと思う。

選挙で圧倒的な力を発揮する高齢者に関わる社会保障費を、政治家は、誰も削れなくなる。

膨張した社会保障費が五輪準備費を圧迫し「オリンピックなんて中止すればいい」という声も出始める。

国内だけでは財政課題解決できないと判断した国は、「海外」に目を向け始める。

みんな、安倍晋三が「ヒトラー独裁者)」で、自衛隊が「軍部」の役割を担うと思って警戒してるけど、その形なら、ちゃんと止められるんだよ。

そのパターンは、一回やってるから。だから、どんな馬鹿にもその危険がなんとなく想像できて、歯止めをかけられる。

じゃあ、なんで歴史が繰り返されるのか?

要は、「役者が変わってるから、同じ演目をやってるって気づかない」んだ。

みんな、軍(自衛隊)と独裁者首相)に注目しておけばいいと思ってる。

でも、そうじゃないんだよ。軍はもう、警戒されてるし、批判もできる。

俺たちが見なきゃいけないのは、今この日本で「政治家批判できない、聖域化しつつある人たちは誰なのか」ってことなんだ。

俺は、東京オリンピック2020年に開催できる可能性は、50%くらいだと思ってる。

この1年の政治の動きによっては、「何らかの理由」で、オリンピックが中止される未来が、本気であると思ってる。

たぶん、真正から高齢者悪者にしてるこの説は、マスメディアには絶対に載らない。

実名で書いても、すぐに社会生活ができなくなる。

からこうやって増田に書いた。

今、この国が瀬戸際に立ってるってことを、なるべく多くの人に知ってほしい。

2017-04-16

http://anond.hatelabo.jp/20170414185733

日本になんの関係がある」もなにも日本最初から主役だよ。日米安保ってのはアメリカからすれば日本の対中防衛日本に脅されてしぶしぶ肩代わりしてやってるだけなんだから

トランプだって最近日和ったけどもともとは日本外交リスクは全て自己責任核武装して米軍は即時全面撤退せよって主張して選挙に勝ったんですよ。

朝鮮半島南北分割と太平洋戦争日中戦争無関係なわけもないでしょ。高校教科書から読み直さないと。

2017-01-23

南京大虐殺存在しなかった と 南京日本軍による虐殺強姦存在した は両立する

現実日中戦争がどういう戦争だったかといえば、蒋介石率いる中国軍は装備、練度ともに日本軍に勝っており、しか蒋介石戦略的後退を続けることで日本軍補給線切れを狙ったというものだった。そして蒋介石重慶にまで逃げたとき日本軍はついに地上戦力による攻撃を断念し、貧相極まる爆撃機での戦略爆撃に切り替えた。この攻撃蒋介石心理的には追い詰めたものの、中国軍の装備する高角砲は性能抜群であり、また中国歩兵の練度は高かったのでここで日本軍爆撃機とその搭乗員に大損害を出し、この爆撃は 5 年間続いたものの得るところはほとんどなく最終的に日本軍撃退された。

そのような情勢下で中国各所で歩兵戦が続いたが、ここでも装備、練度ともに優れる中国軍に対して日本軍勝利を得ることはほとんどなかった。領土的な意味勝利を得た局面でも逃走する中国軍を捕捉できたことはほとんどなかった。

ようするに日本軍は当初から優勢な中国軍に鼻面を捕まれて広大な中国をいいように引き回された末に徹底的に敗北に追い込まれたという話であったから、整然と指揮された日本兵による大虐殺などというもの重慶爆撃を除いて存在しなかった。むしろ中国軍こそが黄河人口洪水を起すなど組織だった民間人虐殺を含め焦土作戦を行なったといえる。

では南京戦をはじめとした各種戦闘において日本人による民間人に対する虐殺強姦などが存在しなかったかといえばそうではない。それはソ連軍がそういうことをやっていたぐらいにはやっていた。古来軍隊とはそういうものだし、同性愛に対する規制が厳しかった日本軍では残虐行為は水準よりも多かったと評されている。

そうした、兵士個々人の残虐行為がなぜ南京大虐殺のような「デマ」にふくれあがったかといえば、軍部におもねるメディアがそういう嘘を垂れ流したからだったし、戦後中国がそうしたデマ報道日本兵処断の証拠としたり、対日宣伝の道具としたからであった。

南京大虐殺など存在しなかった、それはそうだ。だからといってそれを日本人中国人に対してマウンティングの道具にしてもどうにもならない。実際に日本軍中国侵略したのは事実だし、また南京大虐殺というデマを産んだのは日本の未熟な社会体制報道体制メディアリテラシーが原因だからだ。身から出た錆としか言いようがない。

というような話は 40 年ぐらい前に延々議論していたはずだが当時の議論現代参照されてるようにはみえないし大丈夫ですかね。

2017-01-17

「(空襲から)逃げちゃダメだ!」

http://anond.hatelabo.jp/20170116162327

リンク先『婆ちゃんに戦争の話聞いてきた』で語られている「婆ちゃんの工場を襲った」空襲はおそらく、1945年8月1日深夜から2日未明にかけて行われた富山空襲のことだろう。

それ以前、7月にも市街地に対する比較的小規模な空襲は度々行われている(模擬原子爆弾、いわゆるパンプキン爆弾の投下も行われた)が、8月空襲市街地の実に99.5%を焼き尽くす大規模なもので、ブコメでも言われているように「空襲で全部なくなった」。燃え盛る炎が明々と夜空を照らしていたという証言ネットでも複数読める。

で、だ。問題

ものすごく暑かったので、多くの人は川に逃げたらしい。そんな人でごった返した川めがけて、空襲は襲った。川に逃げた人はみんな死んだ。

というくだりである。この「川」というのはおそらく、富山市街地を貫流する神通川を指す。皮肉にも、上空から夜目にも目立つ神通川と広大な河川敷のもの攻撃目標となって多くの犠牲者が出たといわれているが(富山空襲 浅田 高明|戦争記憶~寄せられた手記から~|NHK 戦争証言アーカイブス http://www.nhk.or.jp/shogenarchives/kioku/31/ )、そのいっぽうでこんなことも行われていた。

神通川に掛かる連隊橋(今は富山大橋)を軍が封鎖し、逃げて来る市民に対し「戻って消火せよ!」などと馬鹿げた命令を出した

(あの戦争富山空襲」 : 勝手に言ってます http://yosirin.exblog.jp/21519632/

火たたき・バケツリレーなどによる「防火演習」がしばしば行われ、空襲の際には、避難する道路に、警防団警察憲兵などが立ち、「戻って火を消せ」、「非国民!」などと、避難を押し止めた

イントロダクション | 「富山空襲」のことを知って下さい! http://www.geocities.jp/toyamakushunokaii/introduction.html

逃げたらアカンかったわけである。何故か? これは日中戦争が始まる前に公布された「防空法」という法律に拠っている。直接的には、真珠湾攻撃の直前に行われた防空法第一改正、およびそれに基づく内務大臣通牒で、空襲時の退去の禁止罰則を伴う)と応急消火義務国民に課せられたことに由来する。この規定が、10万人の死者を出した東京大空襲のあともなお有効だったことは、まさに富山空襲でのエピソード物語っている。

富山空襲ではまず市街地の周縁部に焼夷弾を投下し、市民の逃げ道を断ったうえで存分に焼き払うという手法が用いられたが、地上でも軍や官憲によって逃げ道が断たれていたわけである。その結果が婆ちゃんの語った戦争の話、ということになろうか。

最後に、いち地方都市にこれほど大規模な空襲が行われた理由がふるっている。

「これ(=第13回の大挙出撃)は、陸軍航空部隊の第28回記念日にふさわしい祝賀であった。またカーチス・E・ルメイ少将に対するすばらしい餞別となった。同少将米国戦空軍参謀長となるため、第20航空軍司令官を辞任する前に、この攻撃を自ら計画し、かつ指揮したのであった。」 (1945年8月2日付ニューヨークタイムズ

陸軍空軍記念日である8月1日の攻撃は、持てる空力を駆使し、あらゆる努力を払うよう指示する。(米本陸軍戦略空軍司令部から、第20航空軍「現地」司令官への指示文書

富山空襲と母のこと: 壺中山紫庵 http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2010/08/post-78e5.html

参考:防空法について

空襲は怖くない。逃げずに火を消せ」――戦時中の「防空法」と情報統制 / 大前治 / 弁護士 | SYNODOS -シノドス- http://synodos.jp/politics/13238

2016-10-11

日中戦争安徽省浙江省などのゲリラ活動有名無実化されていた

というけどそもそもゲリラ活動って有名無実化されるもんなんだ

ゲリラしてますよ!!と言いながら実はやっていない

それいうこと?

いや、そういうことかもしれないけど、どういうこと?

GDP増加してますよ!という地方政府高官のようなもんか。

そうなのか?いやこの例えじゃわかんねえな

2016-07-08

http://anond.hatelabo.jp/20160707234517

 この手の話になるといつも思うんだが、憲法9条改正するだけで日本軍事力がいきなり高まるくらいに思ってる人っているよな。

軍備拡大への正当性はある程度獲得できるかもしれないけど、実際にやろうと思ったら金も人も技術も全部足りてない訳じゃん。

歩兵一人にしたって、先進国歩兵ともなれば十分な教育、最新鋭の装備、充実した訓練、命を賭けるに足るだけの給与と相当な金がかかる。

戦闘機戦車艦艇となればさらにアホみたいな金額がかかるし、単純な頭数を揃えるだけでもこれから若者が減っていく日本にとっては大きな負担になる。

その点に対する議論ほとんどされてないように見える(軍オタの人とかはそういうのも気にしてるとは思うけど)

軍事力強化への道筋も定まってないのに憲法9条だけ改正しても無駄仮想敵国を刺激したり、在日米軍日本から撤退したり大幅に派遣規模を縮小したりする口実にされるだけなんじゃないのかなぁって思うんだけど。

それに少なくとも対外的には日本日中戦争太平洋戦争と泥沼に突っ込んでいったのは軍部暴走にあるということしてる訳だから、その二の舞を踏まない為の仕組みをきっちり作って抜け穴もばっちり塞いで、そういうことはもうないですよって海外に向けて胸を張って言えるようにする必要もあると思う。

それ無しでは外交的にあまりにもリスクが大きすぎる(あったとしてもハンデにはなる)。

でもそこに対する改憲派意見やら議論やらあんまり聞こえてこないというのも結構不安要素だと思う。

 護憲派についても同じようなことはいえる。

現状の憲法のままで例えば中国との軍事衝突回避しつつ国益を確保するというのは余程高い外交力が求められると思うんだけど、与野党外務省などを見回してもとてもそんな力量があるとも思えない。

攻撃を受けた際への対処護憲派内でも意見がまちまちだし、その中にはあまりにも非現実的な考えも多い(端から見ると念仏代わりに9条唱えれば敵が退散するくらいに思ってるんじゃないかって人もいる)

ただ9条を守れと叫ぶだけではなく、9条を維持した上でどう日本という国を守っていくのか? という点に対する議論を深める必要があると思う。

一般人の中で改憲派人達根底にあるのは仮想敵国(主に中国)に対する不安なんだからそこを解消しようとしない限り何を訴えても無駄でしょ。

 というかこうやって書いてみて思ったけど、改憲派護憲派もお互いが正しいと思う事を叫ぶだけで相手を説得しようしてる感じ全然ないよな。

俺が知らないだけかもしれないけど、そういう人をほとんど見ない。

政治ってこういう意見の衝突を摺り合わせて現実的選択を探ることにあると思うんだけど、なんでそういう流れにはならんのだろうなぁ。

2016-07-07

銀行はなぜ合併しなければならなかったのか

江戸時代日本は米・金・銀という三種類の通貨システムを平行して扱っていた。徳川幕府諸侯領(明治時代以降藩と呼ばれるようになるやつ)が入り乱れた連合国家であった。諸侯領間における政治経済システムの違いは大きかった(要するに戦国の遺風を引きずった藩とそうでない藩があった)。上記のような事情があった結果金融業の発達は著しく、幕末には多くの諸侯がこうした金融業者の支配下に置かれるありさまだった。

明治政府戊辰戦争後、

などといった問題対処するために、新貨条例および国立銀行条例が制定した。これらの制度

というなにがなんだか分からない制度になっていた。しかしこれは当時の国際情勢を考えると仕方がない話で

といった状態で、日本近代金融システムを構築するにあたって模範とすべき制度はまだなかった。結果アメリカを真似して兌換券の分権的発行を主軸とする制度が作られた。このため各地に割拠していた金融資本国立銀行への転換が進んでいった。

しか殖産興業の進展、西南戦争による莫大な戦費などといった問題対処するために、不換紙幣の発行を国立銀行に認めるに至った。

結果インフレなど金融システムの混乱が見られたため、ここにアメリカ型分権型金融システムには限界があることが明らかになり、日銀法と旧銀行法が導入されイギリス式中央銀行制度が導入されることになった。これが 1882 年。

このような経緯があったため、金融資本の再編といった事態にまでは話が進まず、そのまま第一次世界大戦関東大震災突入する。戦争景気による企業の無理な業容拡大と戦後景気後退震災によって銀行には不良債権が蓄積された。

上記のように各地に雑多に存在する金融資本江戸時代のそれを引きずっていたため近代銀行としては規模が小さく、これによって金融不安が高まり昭和金融恐慌に至った。これが 1927 年(1929 年や 1930 年ではない)。

その状態さらに 1929 年 1024 日はやってきた。 1930 年にはその影響が日本にも及ぶに至った。

かかる状況の中で昭和二年旧銀行法改正により 1927 年から中小銀行の整理が進められていたが、 1936 年馬場鍈一大蔵大臣により「一県一行主義」が掲げられた。馬場大蔵大臣としては失格者で財界との対立の結果大蔵大臣から放逐され憤死することになるのだが、翌 1937 年に日中戦争が開戦、日米開戦もほぼ既定路線となるなかで一県一行主義継続され日米開戦のころには中小銀行の整理は完了した。

こうした集権的かつ計画的経済運営にあたったのはいわゆる革新官僚たちで、その親玉吉田茂だった。彼らは社会主義的な経済思想国家主義的な政治思想を併せ持っており、戦中戦後日本の内政を主導した。

全然関係ない話だが、社会主義国家主義反自由主義という思想セットは革新官僚リーダーの一人である岸信介の孫の安倍晋三にも受け継がれていることはよく指摘される。

戦後岸が政界進出したこともあり、結果として一県一行主義体制および統制的な銀行体制はほぼそのまま戦後に引き継がれることになった。もちろん建前上は一県一行主義廃止され、戦後資金流通の円滑化のために戦後地銀いくら設立されたが大勢に大きな影響をあたえることはなかったのだった。

このような情勢のなかで、戦後日本金融当局==大蔵省銀行に対して

  • とにかく安定して資金供給を行うこと
  • 間違っても競争などしないこと

を求めて各種の行政指導や各種許認可を縦横にもちいて銀行群をコントロールした。これをいつしか護送船団方式と呼ぶようになっていた。

これは実際うまくいっていた。バブル崩壊までは。バブル崩壊の余波は大きく、護送船団方式では銀行を守り切れないことは明らかになっていた。 1995 年には木津信用組合兵庫銀行倒産するに至った。

また長らくの護送船団によって日本金融システム陳腐化は著しく国際社会において東京金融都市としてまったく影響力が無い点も問題とされた。

これらの問題対処するためとして金融ビッグバンと称し護送船団は解体されてしまった。銀行はここに自由サービス投資を行えるようになった。

ところで足元の経済情勢を見るに 1993 年から 1996 年にかけて経済成長率は 2-3% を維持しており、ここに橋本総理大臣バブル崩壊による不景気は終了したという判断をするに至った。また 1995 年には武村正義大蔵大臣により「財政危機宣言」が出されており財政再建を開始すべきという機運が高まっていた。

そこで橋本内閣は 1997 年、消費税増税などを含んだ超緊縮予算を成立させる。これが大失敗であった。緊縮財政により景気は悪化金融システム不安は再発し北海道拓殖銀行山一證券破綻、翌 98 年には橋本内閣総辞職現在まで続く長い長い不景気が始まった。

しかしここに至って護送船団方式の再開は難しく、銀行はノーガードで野に放り出されてしまった。かかる状況のなかでは銀行経営効率を上昇させるような積極投資は難しいことは明らかで、銀行合併による規模の拡大によって身を守るという手段をとらざるを得なかった。

結果生まれたのが三大メガバンクである。このような事情によって、消極的理由で成立した合併であるから当事者たちは乗り気であるはずもなく、旧来の自己立場防衛のために果てしない内紛が始まることは、それはもう仕方のないことだったと言えるのではないか

そのような事情の中で銀行システムの開発にあたる SIer技術者は内紛の道具の一つとなり疲弊を重ねている。

僕が言いたいことは何か。誰か頭が悪い人が一人いたからこのような状況になっているという訳ではないということ。むしろ一人ひとりができることを着実にやった結果がこうなのだということ。つまり、逆に言えばこの状況を解決する手段など無いということ。みずほ現場で苦しむエンジニアにできることは、逃げることだけだということだ。

2016-07-02

レファレンスデータベース面白い

結構前にどこかの図書館レファレンス事例を紹介していたウェブサイトホッテントリ入りしていた気がする。

ここでいうレファレンスというのは、図書館資料を調べてくれたりするレファレンスサービスのこと。

このレファレンスについては、レファレンス協同データベースというものがあり、色々なところのレファレンスの事例が紹介されているんだけれど、これがなかなか面白い

面白いのは特に小・中学生

小・中学生質問は、授業や自由研究のためであろうと思われるものと素朴な疑問・欲求に基づくものがあるが、面白いのは断然後者である

いくつか目にとまったものを紹介したい。

今の私にぴったりな、おもしろくて、ぐっとくる本を紹介してください。(4年生児童

http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000160218

児童質問抽象的すぎるけど、率直で微笑ましい。

回答する方も大変だろうなと思うけど、児童の好みを探ってオススメを紹介しつつ、自分で目利きができるようにもなってほしいという姿勢が素晴らしい。

父が言っていることと違う事実が書いてある

本があります本棚に並べておいてよいのですか?

(4年生児童

http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000167347

「日頃からお父様に尊敬の念を抱いている児童」とのこと。

問題となった記述というのが、「日中戦争に関する説明文」というのがちょっと引っかかるかるが、「置いていて良い」という回答を出すまでに発達心理学図書館の自由に関する宣言が出てくるところがプロらしい。

タヌキって、妖怪なんですか?(2年生児童

http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000168077

妖怪らしい。

飼っているカマキリを戦いに強くしたいです。どうやったらできますか?

http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000161836

できないらしい。

図鑑では分からなくて昆虫館にまで問い合わせており、もはや図書館レベルを超えている感がある。

胸がキュンとするようなお話を教えてください。

(4年生児童

http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000180085

良いエピソードすぎる

魔法がつかえるようになりたい。

http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000188753

きちんと魔法使いになるための本を紹介してあげている。

備考欄を見ると着実に修行をしていて微笑ましい。

神様というものはほんとうにいるのか?(3年生児童記述そのままに)

http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000169298

対応しにくそうな質問

授業の一環として一冊だけ参考図書を紹介した模様。

大人質問では、けっこう専門的な質問にもできるだけ回答してあり、感銘を受けました。

また、上記の事例の大半は京都女子大学附属小学校図書館であり、良さそうな学校図書館だと思いました。

レファレンス協同データベースにどこまで積極的に協力しているかというだけの問題かも。)

2016-03-16

http://anond.hatelabo.jp/20160316011809

おれの名前は愛新覚羅(FUGI!)
世界に名だたるラストエンペラー(FUGI!)

帝政おわる辛亥革命(FUGI!)
10日だけの清朝皇帝(FUGI!)

ジョンストンさよならイギリス帰国(FUGI !)
国共内戦終わらないし離婚(FUGI!)

- コーラス -
NO 共産党 (NO 共産党)
NO 毛沢東 (NO 毛沢東)

みんな知ってる満州事変(FUGI!)
史上初の二度目の皇帝(FUGI!)

日中戦争第二次大戦(FUGI!)
国共まとめて俺と対戦(FUGI!)

約束違うよソビエト連邦(FUGI!)
日本敗戦 満州解体(FUGI!)

- コーラス -
NO ボルシェビキ (NO ボルシェビキ)
NO スターリン (NO スターリン連合が開いた東京裁判(FUGI!)
俺はとにかく日本糾弾(FUGI!)

劉の特赦でやっと釈放(FUGI!)
気がつきゃ俺は一般市民(FUGI!)

伊中英が俺を映画化(FUGI!)
世界に名だたるラストエンペラー(FUGI!)

- コーラス -
I'm エンペラー(I'm エンペラーYou're エンペラーYou're エンペラー

(なおこのラップはいかなる組織、人物、事象を貶めるものでも礼賛するものでもありません。)

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