はてなキーワード: 発達心理学とは
お疲れ様です。妊娠は本当に大変ですよね。さっさと生まれてきてほしいもんだけど、マジレスると、これ人間のものすごい特徴なのです。
これでもヒトのデカさに比べたら、むしろ妊娠期間短すぎるほう。 他の動物は生まれてすぐ立てるのに、ぜんぜん未成熟で生まれてきてる。
の通りで、人間って、本来のサイズに比べたら全然未熟な状態で生まれてくるのです。発達心理学の基本事項なので知っている人も多いと思うけれど、馬とか象とか大型の哺乳類は胎内で十分に身体機能が発達してから出てくる。生まれてすぐ巣立てるので専門用語で「離巣性」なんて呼ばれる。
一方で、ネズミとか犬とかの小型の哺乳類はそれこそものすごい未熟な状態で生まれてくる。こっちは、当面の間巣で世話を受ける必要があるので「就巣性」と呼ぶ。ただこれはあくまでも小型の哺乳類の特徴。
霊長類はどうかというと、やっぱりみんな身体的な機能が生まれた時点である程度確立してて、例えば四六時中ずっと母ザルにしがみついてるくらいの身体能力は有してるんですよ (種によるけど)。なので、人間は身体機能が未成熟なままで、十分発達する前に生まれてくるっていうのはその通りで、これは「生理的早産」と呼ばれています。なんで未熟で生まれてくるかというと、これ以上胎内でデカくなると、二足歩行で歩く母親の産道を通過できないから。
じゃぁ二足歩行の結果、人間は「就巣性」に戻ったのかというと、そこまで単純な話じゃない。人間は単なる「就巣性」じゃなくて、本来「離巣性」的な種だったにもかかわらず、「就巣性」的な特徴を持ったということで「二次就巣性」と呼ばれている。名付けたのは生物学者のアドルフ・ポルトマン。
人間の「二次就巣性」とネズミや犬などの単純な「就巣性」との大きな違いの一つは「感覚機関」の発達。見たことある人は知ってると思うけど、ネズミや犬などの赤ん坊はそれこそ目は開いてないし、運動能力だけじゃなく、目も耳も未発達。一方、これも有名だけど、赤ん坊は胎内から母親の話を聞いているし、生まれてすぐに(ぼんやりとではあるけれど)、親の顔を見たりすることもできる。
これによってどんないいことがあるかというと、早くから外界の情報をガンガン取り入れ、学習できるということ。生まれた時から歩けないかわりに、歩けるようになる頃には、「ママ」くらいは言えるようになってる (時期には個人差があります)、しかも単なる音声の模倣でなくコミュニケーションの道具として。これは人間の学習能力の高さ、つまり様々な環境に適応して生存できる力の一端だと考えられている。ポルトマンはこれを「世界に開かれた存在としての人間」なんてロマンチックな表現で説明している。
また、身体的には未熟な状態で生まれ、でも親と目なんか合わせたりすることはできることで、必然的に親子のコミュニケーションが生まれ、親子の絆 (これも生存・発達に非常に重要なファクター)が発達するきっかけになると考えられている。
ようは、妊娠期間って長いようでいて、人間の身体を考えたらむしろ短いくらい、でもその短さが人間を人間たらしめているんですよ、という話です。
もちろんそうは言ったって十月十日は体感では長いし、その間沢山苦労もあるだろうけども…。とはいえ、そういう時間の中であなたのお子さんはしっかり育って、この世界に生まれてきて、あなたと出会い、たくさんのことを学んで大きくなっていく準備をしているのです。
サリーが離れた隙にアンは籠からビー玉を取り出し自分の箱に入れました。
サリーは戻ってきた時にどこでビー玉を探すでしょう。
アンも我々も「今、ビー玉が籠の中にない」ことは知っているけど、サリーは知らんわけ。
なぜならサリーはそれを見てないから。物理的に見ることが不可能だから。
でも認知能力が未発達な奴は「いや、なんで籠を探すん?箱の中にあるやん」ってなる。
これは「自分の知っていること」と「他人の知っていること」の境界がわからなくなるから。
自分の身に起きていることは他人も認知しているに違いない、となる。
いや、お前のメールアドレス、SNSにどんなメールやDMが来てるかなんか知るかよ。
逆に知ってる方が怖すぎるだろ。
冷静になれよ。
ミ・アミーゴ。
あ、調べたら「しつけ」だとしても親からのいかなる体罰も法律で禁止されてますわ。2020年4月に。
子供がいるのに把握してなくて不勉強だったな。まあ元々体罰はしたくない派なので考え方は変わらんけども。
https://sukusuku.tokyo-np.co.jp/support/34020/
世界的な動きっぽいので発達心理学の研究か何かで科学的な知見があるんじゃなかろうか。
参考になるかもしれないのでちょっと調べてみる。
あのね、そもそも私はニューロセクシズムのような脳の問題とは言ってないの。よく読んで。
男女の振る舞いの差は、脳という物質単体で見ると巷で言われていることのほとんどは偏見の類と科学の権威も言っていて、それはそうだろうけど、現象としては男女で認知や行動の傾向の違いが生まれてくることは明らかな事実なの。その差が全体的な傾向としての向き不向きを規定できるのも事実。このレベルで言えば偏見や性差別じゃなくて、統計にだってあらわれること。
nature and nurtureって言葉を知ってるかな。人間ってのは、遺伝的な生まれ持った器質と、育ち、つまり後天的社会的に獲得するものとの複雑なミックスで性質が形成されるの。
つまり脳の物質的な男女差が仮にゼロだったとしても、私の言ったような違いが生まれてくることは考えられる。これは脳科学だけじゃなくて、認知科学や発達心理学、社会学まわりも含めたこと。自然人類学と文化人類学を統合した広範囲で見ていかないといけないことなの。
逆に、脳という単一の分野の一部の研究結果にとらわれて、広範で複雑なことを単純化して「それは差別だレッテルだ男女に差はないなんだ」って決めつけてしまうことこそ、非科学的で政治的すぎる態度なんだということをしっかり自覚してほしい。
ニューロセクシズムと言われていることは限られた範囲ではその通りなんだけど、スコープを広げて何にでも適用できるもんじゃない。科学を政治的主張のために都合よく利用している限り、それは悪辣な主張の代名詞になることだってありえる。
人間の成長ってそういうもんなのかもしれないなってふと思った。
昔教職を取るときに習った発達心理学か何かでは子供はまずお母さんべったりからスタートする。
その後、お父さんなどほかの家族を探索する。
その次に親が見ている前でほかの子供と遊ぶというフェーズが来る。
そのうち親から離れて遊び、ちょっと不安なことがあると親元に戻ってくるというのを繰り返すとなるらしい。
結局は探索する距離が大きくなり、離れていられる時間が長くなるだけで人間はこれを繰り返しているのかもしれないなと増田の投稿を読んで思った。
母は、離婚してから父の話をしないか、しても悪口しか言わないし、挙句「あなたたちはあの人の子どもだから、あんな風にならないように気をつけなきゃだめ」とまで言っていた。
その後、精神科への通院を経て落ち着いてからは、父のことを私たち子どもの前で悪く言うことはなくなり、逆に私の成績を見て「さすが医者(父)の子ども」と言ったり「医者としてはとても優秀だった」と父を褒めるようにもなったし、
母の実両親である祖父母が私の前で父の悪口を言ったときにはそれを止めて、裏で注意もするようになった。
傍から見れば、「いくら精神的に病んでいても、実父の悪口を子どもの前で言うのは毒親」と思われるかもしれないが、私は母は母なりに頑張っていたと思うし、毒親とは思わない。傷つかなかったとは言わないけど。
ところで、母が父の悪口しか言っていなかった頃に、どうしても純粋に疑問になって、「じゃあどうして結婚したの?」と聞いたことがある。
返ってきた答えは、「この人は私が傍にいてあげないとダメだと思ったから」。
当時は、母は元介護士で、離婚後も最初は介護の仕事をしていた(心身ともに限界状態だったので割とすぐに続けられなくなってしまったけど)ような人なので、まぁ、その延長に近いのかな、自分には理解できそうもないな、なんて思っていた。
時が経ち、私は教育従事者の端くれになり、学校教育、家庭教育、発達心理学などを(ほぼ独学で)学ぶうちに、「養育環境に恵まれない子どもの助けになりたい」「養育環境に恵まれなかった人を救えるようになりたい」と思うようになり、ふと気が付いた。
父は、おそらく発達障害かパーソナリティ障害があったが、医者になれたほどなので学習障害はなく、時代的にも環境的にも、誰にも気づかれなかったんだろうと思う。
今の私は、「そんな父のような人の助けになりたい」、と考えている。なんなら、時代をさかのぼって、父を、母を、私たち家族を救いたい。
この気持ちの延長で誰かと結婚したら、母の二の舞になってしまうんだろう。
寝返りが始まった赤ちゃんがいます。夫におばさん呼ばわりされて、夫に無視されて、私物を捨てられました。上の子もおかしくなってきて夫の真似をして無視してくるようになりました。夫が憎くて辛いです。今すぐ宇宙人にビームでも打たれて性格が劇的に変わるか、突然ピカーッと神の啓示を受けて隣人愛とヒューマニズムに目覚め発達心理学と人権の勉強をして実践のために完全なる家庭人を目指してほしいと思いますがそんなことは起きないみたいです。辛い。自分で今まで何でもやってきたんだから今回もそうしなくては何も解決しない。最近一人の時はだらだら涙が出るようになってきたのでいよいよだめです。子供産まなかったら良かったんだろうか。というか配偶者をそんな扱いするやつは子供も結婚もしたがるなよ…なんで結婚してあまつさえ子供産ませた…?やめとこ…?もう遅いけどね?と思いました。しかし子供は産まれている。なので私が頑張るしか…20年頑張って生きようと考えるたびに無理だあ〜長いよ〜20年て…親が死ぬ長さだよ…って思います。なので失踪しようかと思ったんですが赤ちゃんが可愛いのとコロナ怖くて連れ回せないのでやめました。心療内科は3ヶ月待ち!チキンレースか?焼きそば大量に作って便器に突っ込むとか、風呂を寒天にするとか、スリッパをすべてスルメで作るとか、掃除のモップを綿菓子にするとか、ろくでもないイタズラを毎日毎日することにしてストレス解消しようかな。夫が頭おかしくなったよこのひと…!!って思って離婚してくれるかもしれないな。そこで私が「それが宇宙人にビームでやられまして…」という。頑張って生きていこう。子供には幸せに生きてほしい。
追記です。
コメントなんてつかないと思っていたし、ついても期待はしていなかったけど、いただいたコメントがみんな優しくて泣きそうになっている。
記事を書いてから数日後、倒れて病院へ行って抗不安薬とか処方してもらった。
状況は全然改善していないし、毎晩のように目が覚めてひどい動悸と吐き気とたたかっている。
このまま死にたい気持ちに抗って生きていくしかないけど、なるべく死なないように頑張ってみる。
コメントくださった方々、本当にありがとうございます。
追記終わり。
竹内結子さんの自死について、産後うつではという憶測が飛び交っていた。本当の理由を私たちがわかるはずがないのに、みんな好き勝手言っていた。産後うつについて声高々にこんなにつらいんですってSNSで発信される人もたくさんいて、これを機に産後うつについて認知が広まるのはいいことなのでは、とも思っている。彼女の死の真相とは別として。その中に、「子どもを残して死ぬなんて信じられない」という声に対して、ちょっとだけ私の考えを書いてみる。
私には3歳の子どもがいる。夫婦ふたりの生活もいいけど、子どももいたらいいな、私たち二人の子どもを育てたいと思って、産んだ子だ。自分で決めた。子ども好きの夫は結婚当初から子どもが欲しいと言っていた。だけど、正直、自分の生きてきた人生もそこそこしんどかったので、こんな世界に自分のエゴで人間一人生み出していいのか、とも悩んだ。でも、子どもの人生について、こちらで辛いかどうかなんて決めつけることもできない。シンプルに、自分の子どもに会いたいという気持ちが勝った。
そうやってきちんと計画して、順調に生まれた子どもは、どこも悪いところなんてなくて、発達も問題ない、人懐こくて賢くて快活明朗元気なかわいい子だ。私のことをとても好きでいてくれて、「お母さん子」なんて言葉はないけど(おばあちゃんっ子、とかあるのに)、とにかくいつでも「おかあさん」と言ってずっと私にくっついていたがる。こんな素晴らしい子が私の子なんて、私にはもったいないとすら思う。
私は希死念慮が高い。でもそれを必死に隠して生きている。学生時代にものすごく嫌なことがあって、それから日々死にたいと思っていた。死にたい、というか、明日目が覚めずに死んでいたらいいのに、という風に思っていた。なんやかんやあって、毎日そう思う日々からは解放されたのだが、時折無性にこの世から消えてしまいたい気持ちはなくならない。実際に行動は起こしたことがないので、親しい人にも誰にも、夫にすら、実はたまに死にたがっている、ということはばれていないと思う。今までは主に孤独感が引き金でよく死にたいと思っていたが、夫と結婚して気持ちは安定していた。子どもがいたら、そういう気持ちはもっと収まるかと思っていたが、甘かった。
子育ては本当に大変だ。出産前の想定なんて甘すぎた。想像の何倍も何十倍も大変だ。そして、苦労はすべて子どもの笑顔に報われるかと言うとそういうわけではない。
何が大変か。まず、子育て自体が大変。慣れない授乳に睡眠不足、子どもや自分の急な体調不良。すぐ泣くし、すぐ怒る。コロナ禍では衛生面にもより神経質になる。でも、こういうのは、それこそ子どもの笑顔ひとつで報われた気がするんだよね。
大変なのはそれだけでなく、社会も厳しい。育休をとったら、もうお前はしばらく会社に貢献できないから辞めてほしいと言われた。大学の就活はリーマンショック後だったこともありうまくいかなくて、それでもなんとか辿り着いた正社員職だった。結局自己都合退職、ということになった。労基署に相談しても無駄だった。結構冷たい対応をされたので、傷口に塩を塗られたようだった。こんなことがあるのか、と絶望した。そりゃ少子化になる。出産育児金や子育て支援等、行政のサポートはあっても、実際こんなもんだ。正社員じゃなくて、契約社員、派遣、アルバイト、そういう人は産休育休もなく自分から辞めるしかない。そうなると育児休暇の手当ももらえない。
結局、今は子を保育園に預けて別のところでパートとして働いている。給料は二分の一以下になった。その分業務レベルは簡単だし、責任もない。有給はとりやすいので、育児と両立しやすい。職場の方も優しい。それでも、今の収入だと毎日が不安だ。第二子なんてとても考えられない。(夫とは結婚当初から生活費を折半している)
それに、子どもと遊歩道を散歩していたら突然知らないじじいから「うるさい!早く子供を連れてどっか行け!」と怒られたこともある。
地域のイベントに出た時、小さい子どもの隣は嫌だと言って不機嫌そうに席を離れたおっさんもいた。
どちらのパターンも、うちの子は騒いでなかった。子連れってだけで突然怒る人もいるから怖い。
基本的に見知らぬ人でも子どもに優しいコミュニティにいる。特に役所の人はとても親切だ。エレベーター優先させて乗せてくれたり、手続きを丁寧に教えてくれたりして、泣きそうなくらい嬉しかった。あと、その辺で出会う学生の子、おばちゃんやおばあちゃんも優しい。
突然怒ったり、挨拶しても無視するのは大抵いい年の男の人、特にじじい。挨拶もできないなんて、この人たち、職場でどういう風に生きてきたんだ?
一度、子どもが、セカンドバッグをもった強面のおっさんに挨拶したことがあって、よく声かけたなと思ったのだけど、その人はとても優しい声で挨拶を返してくれた。大抵の人はいい人なのに、たった1割の嫌な思い出がトラウマになる。臆病な私は、なるべく周囲に迷惑かけないようにびくびくしながら踏ん張っている。
あと、これからのことを想像すると苦しい。子どもがいじめられたら、逆にいじめる立場になったら、とか
今後事故にあったら、とか、病気になったら、犯罪にあったら、とか
大学卒業まで経済面は大丈夫か、留学費用や塾の費用は賄えるか、とか
そういう不安が波のように襲ってくる。
子どもはかわいい。かわいいけど、たまに自己犠牲や理不尽なこと、不安なことが多すぎてしんどい。
子育てを辛いと思う自分は、母親失格じゃないかといつも頭のどこかで思っている。みんな普通にやっていることなのに、自分にはできない。自分には我慢できない。
子供に手をあげたことはないし、感情的に怒らないよう、何かあったときはきちんと叱るように心がけている。育児本や発達心理学の本も読んで勉強している。
それでも、遊んだおもちゃを片付けない、夜ご飯を食べない、お風呂に入らない、朝起きない、いつまでも泣き喚く、そういう、子どもが自分の言うことをきかないとき、思わずを手をあげたくなる。子どもは自分とは別の人間で、自分の思い通りになるはずがない、ということは百も承知なのだけど、それでもしてはいけないこと、しなくてはいけないことは、何度も何度も伝えているのだから少しはわかってほしい。必死で我慢している。虐待は絶対だめだってわかっているけど、いつも隣り合わせな気がする。
ネットで、「そもそも子どもが泣くのは悪いことではない」という言葉を見たけど、やっぱり泣き声というのは聞いていてとても不快だ。泣いている本人だって、嫌な気持ちがあって泣いているんだから、早くその気持ちを取り除いてあげたいというのはいつも思う。
たまに怒るが、基本は褒めるように心がけている。もともとのんびりした性格で、子どもが生まれる前は声を荒げて怒る、なんてことしたことなかった。なるべく、小さなことは気にしないようにしている。いつだって子どもの幸せを願っている。毎日かわいいね、大好きだよって寝る前に伝えるようにしている。だから私はいないほうがいいんじゃないかと思う。
ママ友もいない。保育園のママたちと全くうまくしゃべることができない。保育園の送迎の時だったり、公園で子どもたちが遊んでいる間だったり、軽く言葉を交わしているママ達を見て憧れる。
自分は母親に向いていないと思う。たまにうまくいかなくて泣いていたり落ち込んでいたりすると、夫に、みんな普通にやっているんだから、と言われる。そういう時、あ、じゃあ私は向いていないからリタイアしようかな、という気持ちがよぎる。私の両親も夫の両親も健在で、関係は良好で、家も近くていつでも頼ることができる。それでもやっぱり苦しい。誰にも頼れない状況で子育てしている人もいるのに、こんなにサポートしてくれる人がいる環境で躓いている自分はなんてダメなんだろう。
自分はこの子の母親じゃないほうがいい、いなくなっちゃったほうがいい、そう思う。自分はこの子の人生に悪影響を与える存在になりそうだから、早いうちにいなくなろうと思う。
子どもが死へのストッパーになるのでない。死んだほうが子どものためなのだ。
夫はしっかりしているから、親や義両親と協力して夫が育てたほうがいいと思う。夫はかなり子育てをしているほうだとは思うけど、趣味や友人づきあいで土日、平日の夜いないことも多く 、やっぱり育児は母親がメインでするもの、という考えが根付いていて、言葉の端々にその考えが窺える。
私がいなくなることで、メインで子育てをする苦しさを夫にわかってほしい、という気持ちも少しある。夫には感謝しているし、嫌いではない。実は夫に復讐したい気持ちもほんの少しあるのも本当だ。
結局自分は不安や嫌なことから逃れたいだけの自分勝手な人間なんだと思う。こんな勝手な人間、やっぱり母親じゃないほうがいい。
それでも、私がこの状況からひとり逃げて、子どもに「お母さんがいない」と言わせること、それで寂しい思いを押し付けてしまうことがどんなに酷か、ということは容易に想像できるので、なんとか踏ん張っている。でもそれにいつまで耐えられるのかはわからない。
「先人の議論の正しさ」を確認、って増田が正しさを判断できるとは限らないよね。それに「議論の正しさ」とは何か、という問題もある。
「先人は正しいかどうか俺が決める」なんて言ってること自体が、知に対する多大な冒涜でしかない。少しは恥を知れ。
増田に「正しさを判断する資格」があるかどうかを示してくれないどころか、児童発達心理学者の超初歩ビッグネームも知らない、「子供」を軸に歴史を読み直した歴史家の存在すら知らなかった増田が、客観的に「正しいかどうか」判断できる能力があるとは、思いにくい。
それに私がごく基本的な、大学の一般教養で読むような初歩のレベルの本を提示しても、それでも私の提示した本が「正しいどうか」なんて勉強嫌いのガキの言い訳で逃げてる増田に、正しさを判断できる客観性があるとも思いにくい。
そもそも「研究に対する正しさ」は、その時点での正しさでしかなく、絶対不変の正しさがあるわけではない。これは研究をする人たちや知を信じる者たちの共通の理解。
増田だって、今はロリコンは迫害されているが俺論理では子供には自由意志があってロリコンは迫害されるべきではない、という説を唱えているわけだけど、それと同じ。
今のところ、過去の研究者の積み重ねや歴史や人々の知見の積み重ねなどによって、多くの近代国家において子供には独立した自由意志を持つのは難しいという判断がされていて、それがもう100年近く続いているというのが現在位置。
彼は特別なメソッドを語っているわけではない。大抵の(標準以上の力量をもつ)学校教師なら、普通に同じようなことができるだろう。にも関わらず、現在の教育システムは普通にこういう落ちこぼれ(アホの子と呼ばれるようになる子、実際は教えれば伸びる力のある子)を量産し続けている。
(アホの子教えるのは楽しかった:https://anond.hatelabo.jp/20180317085745)
なぜか?
これは簡単なことで、日本の教育が先進国中最悪のレベルで大量の生徒を教室に押し込んでいるからだ。
(参考:学級規模の基準と実際[国際比較](文科省)http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/029/shiryo/05061101/003.pdf#search=%27%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B9%E8%A6%8F%E6%A8%A1+%E5%9B%BD%E5%88%A5%27)
普通レベルの力量がある大学生でも、1対1でならこの程度のことはできる。普通レベルの力量の教師でも、1対5~8くらいまでならこの程度のことは普通にできるだろう。甘めに見て、1対15~20くらいまでなら、これに近い対応はできる。たとえば困難校と言われる高校で、生徒がどんどん退学していっても20人程度まで減ればだいたい落ち着いてくる。それは「問題のある生徒がやめたこと」よりも「教員の目が行き届くようになること」に由来する可能性が高い。だが、1クラス25人を超えると、最優秀レベルの教員でもこのような対応をすることはほぼ不可能だ。(ごく少数のカリスマ的な教員による実践報告自体は存在する。)
この50年で世界の教育は大きくアップデートされた。鞭で仕込むような教育をやめ、投資して、ITを活用し自分の頭で考えさせる教育システムに急速に移行し成果を上げている。おそらく、次の10年で世界の教育は、AIを効率的に導入すれば更に問題を効率的に処することが可能であると気づくだろう。分かりやすく言えば「AIが家庭教師になる」のだ。その子の答案を採点して間違いの傾向を見つけ、何十万というケーススタディや発達心理学などの研究を背景に、その子に即応する最適の教育プログラムをリアルタイムで生成する。特に、義務教育レベルの読み書きや自然科学、中等教育における数学・外国語などの教科は、こういったやり方との相性がかなりいいのではないかと思っている。これが完成すれば、特に知識を身につけトレーニングする系統の科目において、人間の教師がこれに対抗するのはほぼ不可能だろう。想像だが、中国あたりは相当効率的にこのシステムを構築していくだろう。
だが、50年間、問題を放置し世界の教育に大きく遅れを取っている日本の教育行政は、大学入試をほんの少し変える程度のことでいまだに10年がかりでぎゃあぎゃあ大騒ぎしているレベルである。こんな調子ではおそらく10年以内に訪れる教育へのAIの効率的導入には対応できないだろう。それは、日本の将来にどのような影響を及ぼすのか、計り知れない。
アマゾン・グーグル・フェイスブック・アップルが巨大になりすぎて健全な競争を阻害しているので分割すべきだ、という記事が一部で話題になっていそうなので訳してみました。
かなり長文です。
原文は http://www.esquire.com/news-politics/a15895746/bust-big-tech-silicon-valley/
図表中の文章などは訳していません。
あまり目新しいことを言っているようには感じませんでしたが、(長いおかげで)論点がまとまっているのは良いところかもしれません。
誤訳等の指摘あればお願いします。
あと、増田を使うのははじめてなのでその他変なところがあればごめんなさい。
(文字数制限に引っかかったみたいなので途中で切ります。続きは https://anond.hatelabo.jp/20180214160914とhttps://anond.hatelabo.jp/20180214161344)
4つの会社が人類史上かつてないほど我々の日常生活を支配してしまっている。アマゾン、アップル、フェイスブック、グーグルのことだ。私たちがみんな素敵なスマートフォンやクリック一発のサービスに夢中になっている一方で、この4つのモンスターは縛られることなく経済を独占し、ギルドの時代以降ありえなかったほどのスケールで富を溜め込んでいる。この状況に対して論理的にどんな結論がありうるだろう?巨大テクノロジー企業を分割するべきだ。
スコット・ギャロウェイ 2018.02.08
私は巨大テクノロジー企業にはとてもお世話になってきた。1992年に私が共同設立したコンサルタントファームであるプロフェットがしてきたのは、グーグルが変えてしまった後の新たな環境で顧客の会社が生き抜くための手助けだ。1997年に共同設立した高所得者向けeコマース企業であるレッドエンベロープも、アマゾンがeコマースに対するマーケットの関心に火をつけていなかったとしたら、成功をおさめることはなかっただろう。もっと近い例でいうと、2010年に設立したL2は、モバイルとソーシャルの波の中から、つまり企業が新しいプラットフォームの中での自分たちのパフォーマンスをベンチマークする方法を必要としている時代に生まれたものだ。
もちろん巨大テクノロジー企業は、別のレベルでも私に利益をもたらしてくれた。投資ポートフォリオの中のアマゾンとアップルの株の価格上昇は、リーマンショックでメチャクチャになった後の私の家計に経済的安定を取戻してくれた。最後に、アマゾンは私が教えているNYUのスターン・スクール・オブ・ビジネスのブランド戦略・デジタルマーケティングコースの生徒たちの今や最大のリクルーターでもある。こうした会社は素晴らしいパートナー、クライアント、投資先、そしてリクルーターでもある。20年にわたるこうした会社に関する経験と研究のすえに私がたどり着いたのは、奇妙な結論だ。今や巨大テクノロジー企業を分割するときだ、ということだ。
過去10年で、アマゾン・アップル・フェイスブック・グーグル――私は「四大企業」と呼んでいるが――は、歴史上他のどの商業体も成し得なかったほどの経済的価値と影響力を集積してしまった。この4つの企業を合わせると、2.8兆ドル(フランスのGDPに等しい)の時価総額、なんとS&P500トップ50の24%におよび、2001年のナスダックで取引された全株価に等しい金額にもなってしまう。
この金額はどれほど莫大なのだろうか?アマゾンを例にとってみると、5910億ドルの時価総額はウォルマート・コストコ・T.J.マックス・ターゲット・ロス・ベストバイ・アルタ・コールズ・ノードストリーム・メイシーズ・ベッドバスアンドビヨンド・サックス/ロードアンドテイラー・ディラーズ・JCペニー・そしてシアーズを足したよりもまだ高い
フェイスブックとグーグル(今はアルファベットになっている)は合わせて1.3兆ドルだ。世界の5大広告会社(WPP、オムニコム、パブリシス、IPG、電通)に、5大メディア企業(ディズニー、タイムワーナー、21センチュリーフォックス、CBS、バイアコム)、更に5大コミュニケーション企業(AT&T、ベライゾン、コムキャスト、チャーター、ディッシュ)を加えてもグーグルとフェイスブックを合わせた90%の価値しか無い。
アップルはどうか?時価総額9000億ドルのアップルは、世界でもっとも企業価値の高い企業だ。さらに驚くべきことに、アップルは32%の利益率を誇るが、これはエレクトロニクス企業というよりエルメス(35%)やフェラーリ(29%)といったラグジュアリーブランドに近い。2016年にアップルは460億ドルの利益を出したが、これはJPモルガン・ジョンソンアンドジョンソン・ウェルズファーゴを含む全アメリカ企業より大きい数字だ。もっと言うと、アップルの利益はコカコーラやフェイスブックの総収入より大きい。この四半期にはアマゾンが創業以来生み出した利益の2倍に達する数字を叩き出すだろう。
四大企業の富と影響力には驚かされる。どうしてこんな状況が生まれたのだろう。
“The Four(四大企業)”で私が描いたとおり、グーグル・アマゾン・フェイスブック・アップルのような、独占と大衆への影響力を持つ企業を作るための唯一の方法は、人間のコアな器官に訴えかけることでプラットフォームを本能的に受容させてしまうことだ。
私たちの脳は極めて複雑な問を投げかける程度には洗練されているが、そういった問に答えられるほど優れてはいない。ホモサピエンスがほら穴から出てきて以降、そのギャップを埋めるために我々が頼ってきたのは祈りだった。視線を天に向け、問を投げかけ、より知性のある存在からの反応を待つ。「子供は大丈夫でしょうか?」「私たちを攻撃する可能性があるのは誰でしょう?」
西欧諸国が豊かになるにつれ、体系的な宗教が我々の生活において占める役割は小さくなっていった。しかし問と答えの間の空白は残され、そこにチャンスが生まれた。伝統的な宗教から離れる人が増えてくると、我々は下らないことから深遠な問題まですぐになんでも答えてくれる全能の預言者としてグーグルを見るようになった。グーグルは現代の神なのだ。グーグルは脳にアピールし、バックグラウンドや教育レベルに関わらず誰にでも知識を提供する。スマートフォンを持っているかインターネットに接続出来るだけで、祈りは全て聞き届けられる。「子供は大丈夫でしょうか?」「クループ症候群の症状と治療法は…」「私たちを攻撃する可能性があるのは誰でしょうか?」「核兵器開発のプログラムを今でも行っている国…」。
自分がグーグルに告白したことのある恐怖、希望、欲望を全部振り返って、自分自身に尋ねてみよう。自分がグーグル以上に秘密を託した相手が他にいるだろうか。グーグル以上に私について知っている人間が他にいるだろうか?
フェイスブックは心にアピールする。愛されているという感覚は幸福への鍵だ。ルーマニアの孤児院で身体・精神の成長が阻害されている子供を研究したところ、発達の遅れは当初原因として想定されたような栄養失調のためではなく、他人の愛情の不足によるものだとわかった。しかし私たちの種の特徴は、愛されることを必要とするのと同じくらい、他人を愛することも必要とすることだ。発達心理学者のスーザン・ピンカーは百才を超える人の人数がイタリア本島の6倍・北アメリカの10倍にも上るイタリアのサルディニア島を研究した。ピンカーは、遺伝・ライフスタイル的な要因の中でも、人と人との間の近しい関係や対面での交流を重んじるサルディニアの習慣が長寿の鍵であることを発見した。遺伝よりもライフスタイル、特に社会的繋がりの強さが長寿の決定的な要因であるとする他の研究もある
フェイスブックが21億の月間アクティブユーザーに提供しているのは、他人を愛したいという欲望に火をつけるためのツールだ。高校の同級生をもう一度見つけるのは素晴らしい。引っ越してしまった友達と連絡を取り続けられることを知るのも良いことだ。赤ちゃんの写真に「いいね」をつけたり、友達の心からの投稿に短いコメントをつけて、私たちの大事な友情や家族の絆を固くするのには数分あれば良いのだ。
眼にとっての風景、耳にとっての音にあたるのが、本能にとっての「まだ足りない」という感覚、飢餓感だ。胃袋が素晴らしい食事の後でもさらに砂糖や炭水化物を求めるように、私たちの心は更なるモノを欲望する。本来この本能は自己保存のために機能していたものだ。つまり、食べる量が足りないことが飢餓と確実な死を意味するのに対して、食べ過ぎはそもそも珍しく、腹が膨れたり二日酔いになるだけだ。しかし今あなたが自分のクローゼットや戸棚を空けてみると、たぶん必要の10から100倍ものモノを持っていることがわかるだろう。私たちは理屈ではこれが馬鹿馬鹿しいことをわかっているが、社会や高次脳機能は我々のどこまでも欲望するという本能に追いついていないのだ。
アマゾンは消費する我々の巨大な消化管だ。アマゾンは栄養を蓄え、それをプライム・メンバーになっているアメリカの64%の家庭の心臓や血管に供給する。アマゾンが採用したのはビジネスの歴史の中で最高の戦略だ――「少なく与えて多く受け取る」――そしてその戦略を歴史上のどんな会社より効果的・効率的に実行している。
生存本能についで二番目に強力な本能は繁殖だ。性をもつ動物である私たちは、自分がいかに洗練されて賢く、クリエーティブであるかアピールしたいと思う。私たちは力を示したい。性も贅沢も理屈では説明できないが、アップルは、広告をヴォーグに載せ、スーパーモデルをプロダクトのローンチに呼び、店舗を自分たちのブランドのガラス張りの神殿にすることが、人の魅力的になりたいという欲望にアピールし、そして自分たちの利益率を向上させることに極めて早くから気づいていた。
デルのコンピューターは性能は良いかもしれないが、マックブックエアと違って、イノベーション階級のメンバー証にはなってくれない。同様に、アイフォンは単なる電話やスマートフォンではないのだ。顧客がiPhoneXに1000ドル払うのは、顔認証の大ファンだからではない。彼らは自分たちがいい生活を送り、芸術を理解し、自由に使える収入があるというメッセージを送っているのだ。それは他人へのサインだ。もし君が僕とつがいになってくれたら、君の子供はアンドロイドを持っているやつとつがいになるより生存確率が高まるよ、ということなのだ。実際、iPhoneユーザーはアンドロイドユーザーより平均40%収入が高い。iOSプラットフォームの上にいる人間とつがいになるのは、良い生活への近道なのだ。脳、心、消化管、生殖器。この4つの器官にアピールすることで、4大企業は自分たちのサービスや製品、OSを私たちの精神深くまで潜り込ませてしまった。彼らのおかげで、我々はより賢く、目利きのできる消費者になることができた。そして消費者にとって良いことは社会にとっても良い、はず、だろうか?
答えはイエスでもありノーでもある。四大企業は我々の生活にあまりにも大きな影響を持っているので、もし彼らのうちどれか一つでも無くなってしまったら、ほとんどの人は心底動揺するだろう。iPhoneを持てなくなり、検索にYahooかBingを使わざるをえず、フェイスブックに投稿した何年分もの思い出を失ってしまったときのことを想像してみるといい。アマゾンアプリからワンクリックで明日までになんでも注文することが出来なくってしまったらどうしよう。
一方で、自分たちの生活の相当な部分を一握りのシリコンバレーのエグゼクティブに預けてしまったせいで、我々はすでにこうした会社の負の部分についても語りはじめている。四大企業の独占が進むにつれ、懸念や、ときには怒りのささやきさえも聞こえはじめている。長年の欺瞞のあとで、我々はついに政府か、あるいは誰かがブレーキを踏むべきだという提案について考え始めたのだ。
こうした議論のすべてが説得力を持っているわけではないが、巨大テクノロジー企業を分割するべき真の理由であると私が信じる議論に行く前に、もう一度確認してみる価値はある。
巨大テクノロジー企業は、最初のギャングスターであるマイクロソフトの罪から学習した。このかつての巨人は当時自分たちの力を過信して、監督官庁や社会の中での自分たちのイメージをやわらげるためにPRキャンペーンやロビイストといった手段に頼る必要はないと考えているように見えた。対照的に、四大企業は若さと理想主義のイメージを売り込み、また世界を救うことの出来るテクノロジーの可能性を布教して回っている。
その気持ちは真剣なものだが、ほとんどが抜け目のない動機から来ているものでもある。単純な利益以上の何かにアピールすることで、四大企業は従業員の間で高まっている、いわゆる「理想追求型」企業への欲求を満足させることができている。四大企業の「ガレージ発明家」神話は、マンハッタン計画・アポロ計画の昔に遡るアメリカのサイエンスとエンジニアリングに対する敬意を上手く利用している。何よりも、これらの会社の漠然とした、それでいて理想主義的な宣言――”Think different”, “Don’t be evil”――が、最高の幻想を与えてくれる。政治的な進歩主義者は一般的に善意だが立場の弱い人々と見られがちで、ますます強力になりつづける企業にとって最高の隠れ蓑となってくれるイメージだ。
フェイスブックのシェリル・サンドバーグが女性たちに「一歩踏み出そう(“lean in”)」といったのは本心からだが、彼女は女性へのエンパワーメントに関する自分のメッセージが持つアイロニーについても触れざるをえなかった。彼女の会社はもともとハーバードの学部生の魅力をランク付けするためのサイトから生まれ、ましてや比較的多数の女性従業員を擁する産業――メディア・コミュニケーション産業――の数万の雇用を今も破壊しているのだから。
こうしたPRの努力は効果的だが、一方で彼ら企業にとって大転落を準備するものでもある。完璧な紳士に見えた人間が実はオピオイド中毒で、自分の母親に対しても酷い態度を取っていたことを知るのは大きな失望だ。紳士があなたと付き合ってくれるのが単なる金(クリック数)目当てだということを知るのはなお酷い。
初期にいくつかのインターネット企業を創業した人間としての私の経験では、四大企業ではたらく人々が他の成功している企業で働く人々と比べて特に邪悪だということはない。彼らは少しだけ教育程度が高く、少しだけ賢く、極めて幸運だが、彼らの親の世代と同様に、ほとんどの人はなんとか生計をたてようとしているだけだ。多くの人は人助けだって喜んでするだろう。ただ社会を良くすることとテスラの車の二択を迫られれば、ほとんどはテスラを選ぶだろう、というだけだ。そしてパロアルドのテスラ販売店の業績は好調、極めて好調なのだ。だからといって彼らが悪人だということになるだろうか?もちろんそんなことはない。ある資本主義社会における一営利企業の従業員にすぎない、というただそれだけだ。
我々の政府はGDPのおよそ21%にあたる年間予算で活動している。つまりこれが公園を開き、軍隊の装備を整えるためのお金だ。では巨大テクノロジー企業は公平な負担を支払っているのだろうか。ほとんどの人はノーというだろう。2007年から2015年の間にアマゾンは利益のうち13%しか税を払っていない。アップルは17%、グーグルは16%、そしてフェイスブックは4%しか払っていない。これに対して、S&P500平均では27%の税金を払っている。
そう、つまり四大企業は税金逃れをしているということだ、つまりあなたたちと同様に。ただやり方が上手いだけだ。例えばアップルは利益をアイルランドのような地域に移すという会計上のトリックを使っており、結果として世界で最も利益を挙げている企業が最低の税負担しかしないという事態が生じているというわけだ。2017年9月時点で、アップルは海外に2500億ドルを保有しているが、これはほとんど課税されない、そもそも最初から海外に持ち出されるべきではなかった財産だ。別の言い方をすれば、ディズニーとネットフリックスを買えるだけの資産をアメリカの一企業が海外に持っているということだ。
アップルだけではない。GEも巨額の税金逃れに手を染めている。しかし我々がそのことに腹を立てることがないのは、そもそも我々がGEを愛していないからだ。この責任は我々に、そして我々の民主的に選ばれた政府にある。我々は税法をシンプルにする必要がある――複雑なルールはそれを利用することのできる能力に恵まれた人々に有利に働きがちだ――し、それを実施できる人間を選挙で選ぶべきだ。
四大企業による雇用の破壊もすさまじく、恐ろしくなるほどだ。フェイスブックとグーグルの収入は2017年に290億ドル増えそうだが、この新しいビジネスを行うために彼らは20000人の新しい、高収入の雇用を生み出すだろう。
だがコインの裏側はそれほど輝かしいものではない。広告業はデジタルであれアナログであれ低成長の(ますます成長が鈍っている)ビジネスであり、このセクターがほとんどゼロサムであることを意味している。グーグルはマーケットを成長させることで新しい収入を得ているわけではない。他の会社のドルを奪っているだけだ。もし我々が五大メディアサービス(WPP、オムニコム、パブリシス、IPG、電通)をグーグルやフェイスブックの代わりに使えば、290億ドルの収入を得るためには219000人の旧来型の広告プロフェッショナルが必要になっていただろう。つまり、年間199000人のクリエイティヴ・ディレクター、コピーライター、代理店幹部が「家族との時間を増やす」ことを選択していることを意味する――ヤンキー・スタジアムほぼ4つ分が解雇通知を握りしめた黒スーツの人間で一杯になってしまっているということだ。
これまでのビジネスのサクセスストーリー例では、今注目の的になっている企業たちよりも多くの従業員を雇用している。P&Gは2017年の株価の急上昇を受けて時価総額2330億ドルとなったが、95000人の人間を雇用している。言い換えれば従業員一人あたり240万ドルだ。インテルはニューエコノミー企業でその資本があればより効率化を図れそうなところ、時価総額2090億ドルで102000人を雇用、一人あたり210万ドルだ。これに対してフェイスブックは14年前に創業された企業だが、5420億ドルの時価総額を誇り、一方で従業員は23000人しかいない。これは一人あたり2340万ドルということで、P&Gとインテルの10倍だ。
たしかに、これまでも雇用の破壊はあった。しかしこれほど上手くやる企業が出てきたことはない。ウーバーは新しい(低い)680億ドルという基準を設定したが、これがカバーする従業員は12000人しかいない。従業員一人あたりでいえば570万ドルだ。実際の道路と実際のドライバーを必要とするはずのライドシェア企業が、墓の中のヘンリー・フォードを激怒させかねないようなフーディーニばりのトリックを駆使して中間階級のサヤ抜きをしようとはなかなか想像できまい。
しかしウーバーは新しい区別を設けて、二種類の労働力を作り出すことでこれを成し遂げてしまった。「ドライバー・パートナー」、わかりやすく言えば請負業者ということだ。彼らを従業員名簿から締め出すことは、ウーバーの投資家と12000人のホワイトカラー従業員が680億ドルを「パートナー」たちと公平に分配しなくてよいということを意味する。これに加えて、ウーバーは200万人のドライバー労働者に健康保険も雇用保険も有給休暇も与えなくてよいのだ。
巨大テクノロジー企業の雇用破壊は、こうした企業に対して公平な税負担をさせるべきだという主張の強い論拠になる。政府はそれを職業訓練や社会福祉にあてることでその被害を抑えることができるからだ。しかし、雇用の破壊を政府による介入の促進剤とだけ考えないようには気をつけるべきだ。職の置き換えと生産性の向上――農民から工場労働者へ、工場労働者からサービス労働者へ、サービス労働者から技術労働者へ――はアメリカのイノベーション・ストーリーの一部だ。我々の 成功フリークたちに戦わせつづけることも大事なのだ。
核心に近づいてきた。外国の敵に自分の会社を、自国の民主的な選挙プロセスを傷つけるための武器として使わせることは問題、とても深刻な問題だ。2016年の選挙中、フェイスブック上のロシアのトロールページは金を払っておよそ3万件の政治広告を打った。でっち上げのコンテンツを見たユーザーは1億2600万人におよんだ。事態はこれでは止まらなかった。GRU――ロシアの軍事・諜報機関――は最近では混乱の種を蒔くためにより超党派的な方法を採用している。選挙の後も、GRUはフェイスブック、グーグル、ツィッターを利用して人種差別由来の暴力を扇動した。こういったことを防止するために、プラットフォーム事業者たちはほとんどあるいはまったく投資を行わなかった。GRUはフェイスブックの広告をルーブルで支払った。文字通りにも、象徴的にも赤旗だったというわけだ。
あなたがビーチかプールつきのカントリークラブを経営している場合、短期的にはライフガードをおかないことが利益につながる。主にアルゴリズムに依存しているフェイスブックがそうであるように、そういったビジネスモデルにはリスクがあるが、かなりの金額を節約できるからだ。巨大テクノロジー企業が社会的な利益のために、必要なリソースを自発的に投資するだろうと期待するのは、エクソンが地球温暖化の問題に対してリーダーシップを発揮することを期待するようなものだ。そんなことは起きるはずがないのだ。
しかし、単なる規制ではなくトラストの分割が必要だというアイデアを私が思いついたのは11月に、上院情報委員会のチェアマンであるリチャード・バーがフェイスブック・グーグル・ツイッターの相談役に泣きついたときだった。「国民国家に我々の未来を台無しにさせないでくれ。君たちが防衛の最前線なのだ」。まさにこの瞬間、選挙で選ばれた我々の代表が自国の防衛を、今買おうとしていた靴についてしつこく宣伝したり、友達の誕生日を思い出させることをビジネスモデルにしている会社に委ねようとした瞬間こそ、歴史における転換点だったのだ。
はっきり言っておこう。我々の防衛の最前線はこれまでずっと陸軍・海軍・空軍・海兵隊だったし、これからもそうあるべきだ。「ザック」軍団なんかじゃない。(https://anond.hatelabo.jp/20180214160914に続く)