はてなキーワード: 披露とは
同じ職場の人に勧められて、観てみた。
ほんまかいな、
それが解ったりするのかも、
とか思ったので、
ミッキーロークが主演。
懐かしい。
うっすらとある。
あれ、これがミッキーローク?
あの頃の美しいお顔とはかけ離れた
観終わって思ったのだが、
このファーストシーンで
音だけで伝えるのではなく
視覚的に見せておいてくれたら、
同情であったり感動であったりという感情が
もっと大きくなったのかもなあ、
とか思ったりした。
なので、観ていてすごく時間が短く感じられた。
回想により挿入してくれたら、
この監督は回想を使うことが嫌いで
すべてを観客の想像力に委ねる、
ゴメンナサイです。
例えば、お金。
誰もが知っているスーパーヒーローであったならば、
それを全部なくしてしまうほどの浪費、
例えば娘との関係、
初めて娘と会うが拒絶された後、
例えばリング上。
超満員のマジソンスクエアガーデンで、
ここはカットバックを使って、
退屈させないでストーリーを引っ張れたのは、
ダンサーのおかげでもあるだろう。
エロスには力がある。
この女優さんは、すごく美しくも見えるし、
とっても人間的な親しみを持てる人だなあと思った。
いくつもの顔。
それは、
ストリッパーの顔。
母親の顔。
ラムを一人の男として見ようとする、
このシーンは、素晴らしい。
そして彼女の演技も素晴らしい。
『お客さんとは一線を引かなくちゃ』
何が彼女にそう言わせるのか、
前にお客さんに騙されたのだろうか、
あっさりと捨てられたのか、
それとも、ストリッパーだと軽く見られて、
遊ばれてしまったのか……。
僕はかつてストリップ劇場で働いていた。
つづく。
モーニング娘。くらいからメンバーを入れ変えながらグループが存続するというモデルが主流になってるとおもうが、ほんとに継続することが最善なのか?往年の名曲、例えばモ娘。ならLOVEマシーン、AKB48ならヘビーローテーションや恋するフォーチュンクッキーを新しいメンバーで披露する機会はめっきり減ってるはず。誰々がいないと意味がないとなるからだ。乃木坂だって多くの曲が白石麻衣なしで成立するのか?
以後欅坂46の話だが、平手が脱退しても存続するのはいいけど、以前の曲を平手無しで歌うとしたら需要があるのだろうか。もちろん平手の不在時に平手なしのバージョンというのはいくつかあるし実際披露しているのだが、ほんとにそれを求められているのか?欅坂に関してはほぼ1からのスタートになると思う。そもそも前作割れかどうかしか話題がなくなってるのに曲出し続けるのもどうかと思うし。
日本のフェミニズムが抱えている問題は複数あって、煎じ詰めれば「思想の善悪如何はともかく、その行動が全く効果的ではない」という一事に尽きる。
女性の地位向上。大いに結構。その、地位向上のためにある種攻撃的な手段を用いること、これまた結構。
しかし、攻撃的な手段を用いている割には、その効果が殆ど出ていないことに問題があるのである。
むしろ、結果的にそのような手段が、フェミニズムに対する周囲からの評価を下げてさえいるのが問題なのだ。
古来より女性は男性による抑圧を受けてきた。この事実を頭から否定することはできない。
例えば、近代イギリスの小説家サマセット・モームは、作品『月と六ペンス』の中でこう書いている。「女性は自分を殴る男性を好んでいる。むしろ、自分を殴ることのできない男性のことを見下しているのだ」と。
このような記述は、文脈的に言えば主人公のチャールズ・ストリックランドがタヒチを訪れた際に語られているものである。ここからは、モームがどのような立場で女性を一般化しようとしていたのかが読み取られ得る。
また、自然主義(人間の本質を虚飾なく描くことを目的とした主義思想)作家の大家である、近代フランスのエミール・ゾラが書いた『居酒屋』では、登場人物の男らが、まるで息をするように女性達を殴りつける描写が、散りばめられている。貧民層の現実を標榜した彼の作品においてもまた、女性に対する暴力が大いにクローズアップされている。
このように、国の内外を問わず、女性に対する男性からの暴力というものは散見される。流石に、このような状況は現代において相対的に改善されているものの、未だどこかしらに不満を残す女性がいることに不思議はない。その女性らが、自らの権利を向上するための運動を行ったとして、何の不思議があろうかとも思う。
問題は、それらの行動が評価を得にくいこと、あるいは、フェミニズムの評価を落としていることである。それらの行動の多くが、効果がないどころか逆効果であるという点である。
具体的に、何故そのような問題が発生しているのか?
以下に論点を纏めていく。
古代ギリシャの劇作家アリストファネスは、自身の著した喜劇『女の平和』にて、女性らのセックスストライキを描き出している。
女性達が、「そんなに戦争が好きなら、私達を抱かなくとも大丈夫なんだね?」
と、戦争反対のため断固セックスを拒否する痛快さ。このような鮮やかさは、現代人にさえ快い衝撃をもたらすものである。
女性の最大の魅力は何か? それは性である、とアリストファネスは言う。
このような言説は当時のギリシャ男性においてのみならず、近代のフェミニストらにも見られる。
女性が短いスカートを履くこと、自身の魅力を以て大いに社会に地位を占めること――その権利を回復せねばならないということ。それを目的として、20世紀のフェミニストらが声を張り上げていたことは言うに及ぶまい。
イランのごとき保守的な国家においては、女性が人前に出る際には目元を除き身体をベールで覆う必要がある。そのような規則が女性の利益を担保しているのか、損なっているのか、議論の難しい点には違いないが、現代においてはそのような保守的傾向の多くが拒否されている。女性らは、身体をベールで覆うことを一般的によしとしない。
女性が獲得した権利はそこに見られる。つまり、性の発露である。
性はそれまで女性の自由にはならなかった。構造主義の先駆者とされるレヴィ・ストロースは、「女性は男性らの所有物であり、婚姻という形で交換が行われた」という意味の主張を行っている。彼に対する当時のフェミニストらの批判は推して知るべしだが、女性の婚姻が父権的立場にある人間によって執り行われることは多く存在していた。そういう意味で、女性にとって婚姻も性も自由とは言い難かった時代が存在していたのである。
自身の性を管理し行使する権利が、婚姻の不自由によって制限されていた時代があったことは、間違いない。この文脈に沿って言うならば、間違いなく女性の権利は現代において拡張されたのである。
とは言え、問題はこの延長線上にある。
女性が自身の身体的魅力を大いに利用すること、それはアリストファネスの喜劇に見られるように、女性の自由を支えている。そこには、フェミニズムと密接に関係する女性の権利の実現が確認できる。
しかし、昨今、この身体的な魅力を大いに活用することは、「性的搾取」に繋がることが指摘されている。
相対的な性の解放が、性的搾取に繋がること、これは表裏一体の問題と言える。
当然、女性が社会進出をする上で、女性が自身の性を政治の手段として用いることには、危うさが秘められている。
そのような危うさをして、現代のフェミニストらは「性的搾取」の大号令を行う。
これらの分野における女性の露出が性的搾取の危険を秘めている、と現代のフェミニストらは声を揃える。そこには危険があり、権力の影がある、と。
女性がスキームとして用いる性が、危機的な結果に繋がっている。ここでどうするべきなのか?
政治家の大多数が男性であるこの社会において、支配者と被支配者の対照は、男性と女性という対照を想起させる。
男性は狡猾である――多くの女性の思う以上に――男性は狡猾である。男性は暴力を行使することができる。端的に言って、男性の筋力は女性に勝り、悪しき意志が備わりさえすれば、女性の尊厳を根本から損なうことを可能とする。恐らく、文明以前の原始時代においては、男性はこれらの暴力を非常に効果的に用いてきた。そこには、ある種暴力の弁証法とも呼ぶべき歴史があった。例えば、あるコミュニティとコミュニティが衝突する――。一方が敗北すれば、その敗者側のコミュニティに属していた女性は、勝者側に所有されることとなる。多くの場合、そこにおいて女性の尊厳が考慮されることはない。
昆虫や動物らに見られる、コミュニティとコミュニティの争いや、イスラム国による女学校の襲撃を思い出して頂ければ、上記の言説の正しさは容易に担保されると思う。
男性は狡猾であり、暴力性を有史以来、あるいは以前において大いに活用してきた。
勿論、現代においても男性による暴力が根絶されたわけではない――とはいえ、その状況は改善されている。暴力には法が対応する。無論、適切な対応が成されない場合は存在するが、少なくとも有史以前に比べれば状況は好転している。
その進歩の影には、恐らく全ての心ある女性と心ある男性の尽力があったことだろう(思うに、倫理を生み出すのは常に狂気じみた努力である)。
人類は持てる限りの理性を用い、公私において倫理を整備してきた。
我々は持てる限りの能力を用いてきた。そこに、女性の尽力が関わっているのは間違いあるまい。
それは、女性が何かを望む際に、その実現を助ける能力になり得る。例えば、意中の人と結ばれる際にその能力は大いに役立つ。
性的魅力は疑いなく女性の能力である。女性が自身の尊厳を担保し、増進させるために、その能力は用いられ得る。
しかし、その能力を女性自身らの尊厳の為に活かすことと――それと、男性(や女性)によって、その能力が利用されること――とは二律背反となっている。
近代において、女性の魅力や能力が、適切に用いられることをフェミニストは願ってきた。しかし、ここに来てその努力は一つの壁にぶち当たることとなる。
例えば、大きな胸を強調したポスター。女性の魅力が強調されてはいるが、不適切な方法で強調されているのではないか――そういう議論が起っている。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である、と人は言う。
この命題は決して間違っていない。「女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である」。決して、この命題は間違っていない。
とは言え、ここが言わばロドスである。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取となり得る。
勿論それはそうだ。とは言え、そこには議論の錯綜するポイントがある。
まず第一に言えるのは、女性の魅力の発露=性的搾取といった、シンプルかつ誤謬を招く等式が発生し得ることだ。
女性が何らかの能力を――この場合には性的魅力を――社会において発揮すること。その能力を発揮することにおいて、何らかの報酬を得ようとすること。それ自体は悪ではない。
自分の能力への対価として報酬を貰うことは、多くの場合善悪とは関係ない行為である。
例えば、女性の高く伸びやかな声、時に力強い声。歌手はそれを披露する。
例えば、ダンサーは時に挑発的に、曲線的なラインで身体を躍らせる。挑発的に、攻撃的に。
絵画において、裸婦は笑う。裸婦は草原に寝そべり、微笑んでいる。
これらは全て、(努力などによって獲得された)肉体的魅力を発揮する行為に他ならない。当然のことながら、これらの行為をして悪であると断ずることはできない筈だ。とは言え、それらの魅力や能力の発揮が、「搾取」に繋がると人は言うのである。つまり、その行為は翻って女性の地位を貶め、最終的には女性全体に対する不利益を導くものだ、と叫ぶのである。
例えば、女性歌手が楽曲を作り、歌う。彼女は、男性への恋心を叫ぶ歌謡曲を作り、歌う。その曲を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
「媚び」はこの場合、不自然に女性の立場を貶める行為であり、最終的な女性の不利益を招く行為を指している。端的に、それは搾取の対象であると、誰かが指摘する。
例えば、写真家が女性の写真を撮る。彼女は、頬杖を付きながら、気だるげに微笑む。その写真を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
例えば、
例えば、例えば、例えば――
女性が魅力を発露すること、それが搾取の対象になり得るということ――それは必ずしも同じではない。しかし、そこには矛盾がある。女性の尊厳を担保し、増進するために、魅力が用いられること。そのような魅力が搾取の対象とされてしまうこと。
女性が能力を発揮すれば、それは女性全体の利益を貶め得ると誰かが叫ぶ。
能力を発揮すれば、誰かがそれを利用し搾取すると、その誰かは叫ぶ。最終的には、女性全体の立場は貶められ不利益に帰着すると、その誰かは指摘する。
これが、フェミニズムがソフィスティケートされた結果なのである。それは、端的に矛盾である。
カメラに向かって微笑みかける誰かの存在を、「性的搾取」であるとし、それがゆくゆくは女性全体の利益を損なうと指摘する――。
このような言説には致命的な混乱が含まれていると言って差し支えないだろう。近代のフェミニズムによって獲得された、女性が自身の能力や魅力を自身の権限によって行使する自由は、ここにおいて壁にぶち当たっている。
能力を発揮することは搾取に繋がる。能力を発揮してはいけない。
このような論理は、一般的な男女を納得させるに足る論理であろうか?
勿論それは不可能である。フェミニズムは矛盾にぶち当たっている。
そして、その矛盾を解消し得る論理が未だに発見されていない現在――少なくとも、フェミニズムの論理が一般的な男女を――あるいは当事者であるフェミニスト自身らさえ――説得できる状況にない現在。思想としてのフェミニズムは大きな困難に直面していると言わざるを得ない。
結局、フェミニズムが直面している矛盾を、フェミニスト自身らが解決できていない状況において、その混乱を抑えられていないのが現状と言えよう。
その混乱のさなかでは、到底周囲の人々を納得させ得る行動など、示せるわけがないのである。
昨今のフェミニズム運動の空虚さ、反感のみを招く徒労さはそこに根を置いている。これまでに獲得してきたものと、これから獲得しようとするものとの間に生じる矛盾――その矛盾を解決することなくして、現代のフェミニズムは正しい舵取りを行うことなどできない。
結論としては以上となる。
日本のフェミニズムが抱えている問題は複数あって、煎じ詰めれば「思想の善悪如何はともかく、その行動が全く効果的ではない」という一事に尽きる。
女性の地位向上。大いに結構。その、地位向上のためにある種攻撃的な手段を用いること、これまた結構。
しかし、攻撃的な手段を用いている割には、その効果が殆ど出ていないことに問題があるのである。
むしろ、結果的にそのような手段が、フェミニズムに対する周囲からの評価を下げてさえいるのが問題なのだ。
古来より女性は男性による抑圧を受けてきた。この事実を頭から否定することはできない。
例えば、近代イギリスの小説家サマセット・モームは、作品『月と六ペンス』の中でこう書いている。「女性は自分を殴る男性を好んでいる。むしろ、自分を殴ることのできない男性のことを見下しているのだ」と。
このような記述は、文脈的に言えば主人公のチャールズ・ストリックランドがタヒチを訪れた際に語られているものである。ここからは、モームがどのような立場で女性を一般化しようとしていたのかが読み取られ得る。
また、自然主義(人間の本質を虚飾なく描くことを目的とした主義思想)作家の大家である、近代フランスのエミール・ゾラが書いた『居酒屋』では、登場人物の男らが、まるで息をするように女性達を殴りつける描写が、散りばめられている。貧民層の現実を標榜した彼の作品においてもまた、女性に対する暴力が大いにクローズアップされている。
このように、国の内外を問わず、女性に対する男性からの暴力というものは散見される。流石に、このような状況は現代において相対的に改善されているものの、未だどこかしらに不満を残す女性がいることに不思議はない。その女性らが、自らの権利を向上するための運動を行ったとして、何の不思議があろうかとも思う。
問題は、それらの行動が評価を得にくいこと、あるいは、フェミニズムの評価を落としていることである。それらの行動の多くが、効果がないどころか逆効果であるという点である。
具体的に、何故そのような問題が発生しているのか?
以下に論点を纏めていく。
古代ギリシャの劇作家アリストファネスは、自身の著した喜劇『女の平和』にて、女性らのセックスストライキを描き出している。
女性達が、「そんなに戦争が好きなら、私達を抱かなくとも大丈夫なんだね?」
と、戦争反対のため断固セックスを拒否する痛快さ。このような鮮やかさは、現代人にさえ快い衝撃をもたらすものである。
女性の最大の魅力は何か? それは性である、とアリストファネスは言う。
このような言説は当時のギリシャ男性においてのみならず、近代のフェミニストらにも見られる。
女性が短いスカートを履くこと、自身の魅力を以て大いに社会に地位を占めること――その権利を回復せねばならないということ。それを目的として、20世紀のフェミニストらが声を張り上げていたことは言うに及ぶまい。
イランのごとき保守的な国家においては、女性が人前に出る際には目元を除き身体をベールで覆う必要がある。そのような規則が女性の利益を担保しているのか、損なっているのか、議論の難しい点には違いないが、現代においてはそのような保守的傾向の多くが拒否されている。女性らは、身体をベールで覆うことを一般的によしとしない。
女性が獲得した権利はそこに見られる。つまり、性の発露である。
性はそれまで女性の自由にはならなかった。構造主義の先駆者とされるレヴィ・ストロースは、「女性は男性らの所有物であり、婚姻という形で交換が行われた」という意味の主張を行っている。彼に対する当時のフェミニストらの批判は推して知るべしだが、女性の婚姻が父権的立場にある人間によって執り行われることは多く存在していた。そういう意味で、女性にとって婚姻も性も自由とは言い難かった時代が存在していたのである。
自身の性を管理し行使する権利が、婚姻の不自由によって制限されていた時代があったことは、間違いない。この文脈に沿って言うならば、間違いなく女性の権利は現代において拡張されたのである。
とは言え、問題はこの延長線上にある。
女性が自身の身体的魅力を大いに利用すること、それはアリストファネスの喜劇に見られるように、女性の自由を支えている。そこには、フェミニズムと密接に関係する女性の権利の実現が確認できる。
しかし、昨今、この身体的な魅力を大いに活用することは、「性的搾取」に繋がることが指摘されている。
相対的な性の解放が、性的搾取に繋がること、これは表裏一体の問題と言える。
当然、女性が社会進出をする上で、女性が自身の性を政治の手段として用いることには、危うさが秘められている。
そのような危うさをして、現代のフェミニストらは「性的搾取」の大号令を行う。
これらの分野における女性の露出が性的搾取の危険を秘めている、と現代のフェミニストらは声を揃える。そこには危険があり、権力の影がある、と。
女性がスキームとして用いる性が、危機的な結果に繋がっている。ここでどうするべきなのか?
政治家の大多数が男性であるこの社会において、支配者と被支配者の対照は、男性と女性という対照を類推させる。
男性は狡猾である――多くの女性の思う以上に――男性は狡猾である。男性は暴力を行使することができる。端的に言って、男性の筋力は女性に勝り、悪しき意志が備わりさえすれば、女性の尊厳を根本から損なうことを可能とする。恐らく、文明以前の原始時代においては、男性はこれらの暴力を非常に効果的に用いてきた。そこには、ある種暴力の弁証法とも呼ぶべき歴史があった。例えば、あるコミュニティとコミュニティが衝突する――。一方が敗北すれば、その敗者側のコミュニティに属していた女性は、勝者側に所有されることとなる。多くの場合、そこにおいて女性の尊厳が考慮されることはない。
昆虫や動物らに見られる、コミュニティとコミュニティの争いや、イスラム国による女学校の襲撃を思い出して頂ければ、上記の言説の正しさは容易に担保されると思う。
男性は狡猾であり、暴力性を有史以来、あるいは以前において大いに活用してきた。
勿論、現代においても男性による暴力が根絶されたわけではない――とはいえ、その状況は改善されている。暴力には法が対応する。無論、適切な対応が成されない場合は存在するが、少なくとも有史以前に比べれば状況は好転している。
その進歩の影には、恐らく全ての心ある女性と心ある男性の尽力があったことだろう(思うに、倫理を生み出すのは常に狂気じみた努力である)。
人類は持てる限りの理性を用い、公私において倫理を整備してきた。
我々は持てる限りの能力を用いてきた。そこに、女性の尽力が関わっているのは間違いあるまい。
それは、女性が何かを望む際に、その実現を助ける能力になり得る。例えば、意中の人と結ばれる際にその能力は大いに役立つ。
性的魅力は疑いなく女性の能力である。女性が自身の尊厳を担保し、増進させるために、その能力は用いられ得る。
しかし、その能力を女性自身らの尊厳の為に活かすことと――それと、男性(や女性)によって、その能力が利用されること――とは二律背反となっている。
近代において、女性の魅力や能力が、適切に用いられることをフェミニストは願ってきた。しかし、ここに来てその努力は一つの壁にぶち当たることとなる。
例えば、大きな胸を強調したポスター。女性の魅力が強調されてはいるが、不適切な方法で強調されているのではないか――そういう議論が起っている。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である、と人は言う。
この命題は決して間違っていない。「女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である」。決して、この命題は間違っていない。
とは言え、ここが言わばロドスである。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取となり得る。
勿論それはそうだ。とは言え、そこには議論の錯綜するポイントがある。
まず第一に言えるのは、女性の魅力の発露=性的搾取といった、シンプルかつ誤謬を招く等式が発生し得ることだ。
女性が何らかの能力を――この場合には性的魅力を――社会において発揮すること。その能力を発揮することにおいて、何らかの報酬を得ようとすること。それ自体は悪ではない。
自分の能力への対価として報酬を貰うことは、多くの場合善悪とは関係ない行為である。
例えば、女性の高く伸びやかな声、時に力強い声。歌手はそれを披露する。
例えば、ダンサーは時に挑発的に、曲線的なラインで身体を躍らせる。挑発的に、攻撃的に。
絵画において、裸婦は笑う。裸婦は草原に寝そべり、微笑んでいる。
これらは全て、(努力などによって獲得された)肉体的魅力を発揮する行為に他ならない。とは言え、それらの魅力や能力の発揮が、「搾取」に繋がると人は言うのである。つまり、その行為は翻って女性の地位を貶め、最終的には女性全体に対する不利益を導くものだ、と叫ぶのである。
例えば、女性歌手が楽曲を作り、歌う。彼女は、男性への恋心を叫ぶ歌謡曲を作り、歌う。その曲を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
「媚び」はこの場合、不自然に女性の立場を貶める行為であり、最終的な女性の不利益を招く行為を指している。端的に、それは搾取の対象であると、誰かが指摘する。
例えば、写真家が女性の写真を撮る。彼女は、頬杖を付きながら、気だるげに微笑む。その写真を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。その「誰か」は、最終的に女性の不利益を招くと指摘する。
例えば、
例えば、例えば、例えば――
女性が魅力を発露すること、それが搾取の対象になり得るということ――それは必ずしも同じではない。しかし、そこには矛盾がある。女性の尊厳を担保し、増進するために、魅力が用いられること。そのような魅力が搾取の対象とされてしまうこと――。
女性が能力を発揮すれば、それは女性全体の利益を貶め得ると誰かが叫ぶ。
能力を発揮すれば、誰かがそれを利用し搾取すると、その誰かは叫ぶ。最終的には、女性全体の立場は貶められ不利益に帰着すると、その誰かは指摘する。
これが、フェミニズムがソフィスティケートされた結果なのである。それは、端的に矛盾である。
カメラに向かって微笑みかける誰かの存在を、「性的搾取」であるとし、それがゆくゆくは女性全体の利益を損なうと指摘する――。
このような言説には致命的な混乱が含まれていると言って差し支えないだろう。近代のフェミニズムによって獲得された、女性が自身の能力や魅力を自身の権限によって行使する自由は、ここにおいて壁にぶち当たっている。
能力を発揮することは搾取に繋がる。能力を発揮してはいけない。
このような論理は、一般的な男女を納得させるに足る論理であろうか?
勿論それは不可能である。フェミニズムは矛盾にぶち当たっている。
そして、その矛盾を解消し得る論理が未だに発見されていない現在――少なくとも、フェミニズムの論理が一般的な男女を――あるいは当事者であるフェミニスト自身らさえ――説得できる状況にない現在。思想としてのフェミニズムは大きな困難に直面していると言わざるを得ない。
結局、フェミニズムが直面している矛盾を、フェミニスト自身らが解決できていない状況において、その混乱を抑えられていないのが現状と言えよう。
その混乱のさなかでは、到底周囲の人々を納得させ得る行動など、示せるわけがないのである。
昨今のフェミニズム運動の空虚さ、反感のみを招く徒労さはそこに根を置いている。これまでに獲得してきたものと、これから獲得しようとするものとの間に生じる矛盾――その矛盾を解決することなくして、現代のフェミニズムは正しい舵取りを行うことなどできない。結論としては以上となる。
完全に出遅れてるけど、この増田を読んで自分も書いてみたくなった。
https://anond.hatelabo.jp/20200127132401
時間のかかるゲームはあまり遊ばなくなったので、一般的に名作と呼ばれるゲームはほとんどランクインしてないけど、あくまでも自分の中でのベストテンなんだから、変に忖度する必要もないか。
これ自体が発売されたのは2010年代だけど、収録されているのは大昔のゲームだから……まあ番外編ということで一つ。
最新ゲームハードで最古に近いゲームを遊ぶという、なんかすごい贅沢感を感じた。
ファミコン時代以降のゲームならまあ割と手軽に遊べるけど、それより古くなると遊ぶのは困難でこれまで情報しか知らなかったんだよね。
そんな情報しか知らないAtariの昔のゲームが遊べるんだから、なかなか意義のあるゲーム。今遊んでも面白いかどうかは置いておいて。
ただ、これほど興味深いソフトも他になかったのも事実で、印象には残っているんだよ。
Switchを買ったぜーーー!!!!というお披露目に最適なゲームで、Switchの新機能を使ったバカバカしいミニゲームが楽しめる。
コントローラーを動かして、ボールの数を振動で当てるゲームは本当に感動した。ただ振動しているだけなのに、本当に箱の中にボールが入っているように感じるんだもん。
ボリュームの少なく、やりこみ要素も特になく、オマケに1人で遊べないという散々なゲームで酷評されるのはよくわかるけど、これ1本あるととりあえず宅飲みするときには大活躍するから持ってて損はないと俺は思う。
誰もがいらないと思ってるニンテンドー3DSの3D機能を唯一うまく使ってると思うゲーム。ちゃんと3Dが謎解き使われてる。
そして、高いところから飛び降りるときに立体感がスゲー。マリオ64系とは違う箱庭的な3D世界も良かった。
これを3DSのローンチで発売すれば、初期の3DSの売り上げもだいぶ変わっただろ。
ここまで書いてて思ったけど、Kinect、1-2-Switch、そしてコレと、ハードの特徴を存分に使ってるゲームは全体的に印象に残りやすいし、好きだな。
キネクトはとにかく凄いんだ。コントローラーを使わずに、体感ゲームが家で遊べちまう。
でもXbox360を買い、高いキネクトを買い、さらに広い部屋が必要になるというハードルが高いゲームなんだ……。
まあ、Xbox360はスカイリム同梱版の安価なやつが当時あったし、キネクト用の広角レンズがサードパーティから発売されていて、それを使えば狭い部屋でもなんとか遊べる。
キネクトのゲームは、スターウォーズのやつやら三部作のギャルゲーやら色々遊んだけど、一番好きなのはキネクトスポーツの卓球だな。
スタイリッシュ逆転裁判。流れる証言を言葉で打ち抜くという演出が物凄く面白そうに見えて、発売日に買ったよ。
冷静に考えなくてもシナリオが雑なんだけど、妙にカッコいい演出や勢いのあるシナリオで睡眠時間を削るほど一気に遊んだ。
ラストは、絶望しているメンバーのセリフに希望をぶつけるという、システムを逆手に取った演出がステキ。
大逆転裁判1はぶっちゃけ逆転裁判シリーズ1の駄作だと思う。しかし、その続編の大逆転裁判2は逆転裁判シリーズ1の傑作だと思う。
前作の反省点というのもあるんだろうけど、最初から最後までワクワクしつづけられる内容になっていることや1から貼られている複線の回収が見事。亜双義が件とか、アイリスの父親とか。
最後の犯人は逆転裁判シリーズでありそうでなかった犯人なので、今後これ以上の衝撃はあるかわからん。
はてブでお馴染みの無謀な企画に挑戦するpatoさんの記事を読んで、自分も始めてみた。
出かけた先々の駅をチェックインして、記録と残していくだけなのに、これが不思議と面白い。
でんこのスキルを使ってチェックインした駅にいる他のユーザーをうまく倒していって……ゲーム的な要素もあるけど、あまりそういう遊び方はしてない。旅行とか遠出したときにこまめにチェックインして、訪問した駅が増えていく様子を眺めてニヤニヤしている。
そんな感じで、ユルく遊んでいるせいなのか、今のところスマホゲームでは唯一遊び続けているゲームになっている。
車をロボットへ変形させて戦うトレーディングカードアーケードゲーム。
筐体そのものも変形してしまうので、初めて見た時のインパクトは物凄く、ついついそのままハマってしまった。
オリジナルの車も多いが、実在する車も多く、これを遊んだことでただの移動手段でしかなかった車そのものも興味を持つきっかけになった。
俺の愛車のデミオもちゃんと登場するぞ!!!なんか不格好なロボットにされたけど。
全然関係ないが、シンカリオンを見るたび、なぜジャイロゼッターは失敗してしまったのかと思わずにはいられない。素材は良かったんだけど……と言い続ける。
ドラクエ版マインクラフト。マイクラは正直なところ自分には合わなかったが、こっちは目標を細々と提示してくれるので、受動的にゲームとして進めやすい。
狙っているのかどうかは知らないけど、サンドボックス系ゲームのカクカクした世界が、ドラクエワールドと異常なまでにマッチしていて、違和感なくすんなり遊べる。ちょうどファミコンのドラクエをそのまま3Dにしました、みたいな世界観になっている。
あと、シナリオがとにかく素晴らしい。精霊ルビスが止めるのを振り切り、主人公が単身で竜王の島に渡って、これまでのビルドのテクニックを応用して竜王を倒すというラストの展開は純粋に感動した。
アイカツを1位にしてプリパラを2位にするか、それとも逆か。うん、甲乙付けづらい。よって、どちらも同率1位。
好きなキャラが好きなコーデを着て、好きな曲でライブをするのが、なぜこんなに楽しいのか。
なにせ女児向けゲームだから、初めはコソコソ遊んでいたのに、いつのまにか堂々と遊べるようになったんだから怖い。そこまでして遊びたくなるゲームのパワーも凄い。
ゲーム内容はザックリ言ってしまえば両方ともほぼ同じだけど、曲はアイカツの方がいい、グラフィックはプリパラの方がいい、という感じ(※個人の感想です)。
プリパラの、あの派手にキラキラしているゲーム画面は、プリズムの煌めきを目一杯受けてる気分になれる!
アイカツの方は曲が好きになり過ぎて、生まれて初めてライブへ足を運ぶことにもなった。あと、ユリカ様のキャラは今でも凄いと思う。ここまでお気に入りになれたキャラクターはいなかった。
方角知らないから、
全方向を網羅するルーレットマシーンに乗ってそのイスに座って食べたら、
全方位網羅で最強っぽくない?
私の考えた最強の恵方巻きを食べる方角よ。
そんなこと言ってる場合じゃなくて、
私は取引先のお付き合いで、
届いて食べるのが楽しみね。
生粋のニューヨーカーがホットドッグ片手に持ちながら食べ歩くスタイルのニューヨークスタイで恵方巻きを手に持って食べ歩くのって浸透して欲しいなって思うの。
私は年中海苔巻き食べたい派なのよね。
海苔が付いていると手が汚れないし都合いいのよ。
だから恵方巻きのニューヨークスタイル流行るといいなぁーって。
現地のカリフォルニア巻きだと海苔を中に巻き込んじゃってまたその外側にご飯の層があるから、
巻いて手に持って食べるとき、
ファストフードとしては手が汚れないって鉄則なので、
そこはもうちょっと海苔のメリットを最大限に活かすべき工夫しないのかしらね?って思うの。
もうさ
アメリカのファストフード店に行ったらみんなの紙ナプキンの消費量が半端なくて、
ってそれいわゆるアメリカの消費大国を象徴しているかのように、
初めて見るときはびっくりするわよ。
ぜひ行ったとき注意して見てみて。
あとさ、
あれ車に乗ってるとき走りながら海苔巻き食べてても厳罰化の対象になるのかしら?
そう思うとうかうか海苔巻きを車の中で食べられないじゃない。
まあ危ないと言えば危なく見えるのかも知れないけど、
ああいうトラック一番星の運転手さんの居住スペース自慢っていうのを
そういった披露しているところがあれば見てみたいわね。
キャンピングカーばりの充実さだとおもうし、
ああいった風に飲むお味噌汁もまた美味しいのかなってちょっと思っちゃったけど、
膝の上に熱々のお味噌汁がこぼれちゃったりしたら
そういった時のために、
自動販売機で売ってる温かいしることかコーンポタージュ系のラインナップの1つに
お味噌汁って言うのも売り出しちゃいなさいよポッカかダイドードリンコとも思うのね。
あ!それなら、
ニューヨークスタイルで手に持って食べながら歩きつつ缶のお味噌汁を組み合わせて飲めば、
それこそがザ和食よねって。
とりあえず私は全方位恵方巻きをルーレットマシーン的なものはないから、
事務所のイスが都合よく回るので、
くるくる周りながら両手に持つ二丁拳銃ばりの体裁で全方位両手持ち乱れ恵方巻き食べの術を華麗に披露したいと思った次第よ。
うふふ。
その方が大人っぽくない?
レタスサンドのシャキシャキとホッツコーヒーのマリアージュ!最高よ!
鼻の通りがよくなるミントオイルもしくはハッカ油でもいいから少したらし込んで飲んでみたらスースーするわよ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
家虎はイェッタイガーのこと、盛り上がるサビ前とかでよく聞く。
MIXだの口上だのは間奏中に長々と言ってる、タイガーファイヤーとか言いたいことが〜みたいなやつ。
オーッ(パンパン)、フッフーフワフワとかは説明がだるいからやらんけど、ライブに行く人なら頻繁に耳にするだろう。
というか非公式のコールの総称が家虎って言われてるのか、たぶんやる側のオタクにとっては家虎は家虎だからあんま通じあってないと思う。
これらの発祥は地下アイドル文化。地下では同じ曲を毎日くらいのペースで延々披露する。正直なところどれだけパフォーマンスが良くても客は飽きるけど、盛り上がりたいし、演者にも盛り上がってるよ!と伝えたいのでうるさいほどコールを入れている。一緒にライブを楽しんでいるという一体感が発生する。
その文化がなぜライブ回数の少ないアニメ界隈に流入したのかは知らんし、盛り上がりたいだけの層がいるのは否めないが、何もそこまで毛嫌いすることなくない?と思うわけ。
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演者の声に被る
→まあ被るのはね。相手は歌が下手な地下アイドルじゃなくて声優とか歌手だし、声が聞けないのは悲しいな。基本歌の合間に挟むからそうそう被ることないけどな。
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曲の雰囲気を壊す
→制作側が意図したものならともかく、オタクが勝手に言ってるんだったら家で音源聞いててくれ。
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単純につまらん
→先述した盛り上がりたいだけの層が空気読まずに無意味にコールしてるのは確かにつまらん。やけにうるさくて浮いた集団がいて、ここはそんなコールねえよってイラついたことがあった。ただ、でっかい箱でバシッと揃ったコールはそこまでつまらなくないと思う。
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演者が悲しむ
→演者は当たり前に尊重されるべきだから、本当にそこの演者が悲しんでるならやめるべき。ただ、見渡す限り真顔でペンラ振るだけのおっさんが埋め尽くしてる光景より、みんな盛り上がってて楽しそうにしてる様子の方が好きな演者はいる。ライブ回数多いアーティストほどその傾向があると思う。必ずしもコールは嫌われてるわけじゃない。
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静かに楽しみたいのに
→ライブの楽しみ方は人それぞれ、騒ぎたい人も静かにしていたい人もいる。初めてライブに来てどうしていいかわからない人もいる。この主張をする人が騒ぎたい人に現場に来ないでほしいと言うなら、こちらもやっぱり家で音源聞いてろって否定するしかない。誰もが同じように楽しめるわけではないのは当然だから、相容れないオタクのことなんか気にすんな演者見てろと言うほかない。こっちも横に地蔵いたら盛り上がりづらいし不快なんだぞ。
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どうも最近の流れはただ家虎が毛嫌いされてて、いや何故そこまで?と思う。理由もなんかよくわかんないし煩わしいだけなんだろうけど、言われてる側はわりかしヘラヘラしてて現場向いてないのはそっちだろスタンスで不毛な争いしか発生してない。
まあ制作側に言われたら仕方ないんだけどさ。どーでもいいけど自分の音楽(?)が謎の文化によって汚されるのを嫌がるなら、単なるアイドルコンテンツをDJの名で売り出すのもやめてほしいな。これは愚痴。
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私の行く現場は演者がイヤモニ外してコール聞いてくれたり、口上が一般常識になってたりする。コールを含めて楽しい、盛り上がれる、ライブでのこの曲はコールがあって完成してると思える。「イェッタイガーって揃ってるとこんなかっこいいんだな」って言われたことがある。そして家で原曲音源を聴きながら世界観に浸るのもまた良い。同じ曲でたくさん楽しみ方がある。
初めは何言ってるかわからんし謎すぎてキモいしそんなん言わん、私はライブを見に来たんだ。と思っていたけど、ライブに慣れていくとその楽しさを理解できた。
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私は一体になって盛り上がれるコールの文化が好き。お気持ち表明してるのいつも毛嫌いしてる側だから、コールする側が何考えてるかって誰も知らないんだろうなと思って、私個人の意見でしかないけど書いた。
多くの人はこちらのWikipediaの記事を参照していると思われる。
この記事も踏まえた上で、実際に主だった芸人を「活動開始時期」や「人気が出た過程」で並べ、あらためて世代分けを考えてみたい。
まず画期としては1953年のテレビ放送の開始が挙げられる。この時期に人気があったのは落語家や喜劇俳優であり、またコミックバンドも人気があった。上の表で言えばいとこい・ダイラケあたりが該当する。いわば「第0世代」であろうか。
次にやってくるのが「演芸ブーム」で、1963年開始のテレビ番組『大正テレビ寄席』を中心に数々の演芸番組が放送され、その勢いが1970年ごろまで続いた。一般にこの時期に人気が出た芸人が「第一世代」と呼ばれる。「寄席」をテレビでやるので落語・漫談・漫才・コント・コミックバンドなど幅広い芸人が登場した。てんぷくトリオを筆頭に三人組が多かったので「トリオ・ブーム」とも呼ばれた。1970年代はドリフと萩本欽一のコント番組が人気を二分した。やすきよもこの世代に含まれる。
続いて、1980年に放送された『花王名人劇場 激突!漫才新幹線』『お笑いスター誕生!!』『THE MANZAI』などが立て続けに高視聴率を取り「漫才ブーム」となった。このブーム自体は二年ほどで終息するが、若手漫才師がアイドル的な人気を得て「漫才」のイメージを変えたり、吉本興業が東京に進出したりするきっかけとなった。1981年から1989年まで続いた『オレたちひょうきん族』が『8時だョ!全員集合』の視聴率を超え、出演していたビートたけし・明石家さんま・山田邦子らは一躍スターとなった。たけし・さんまにタモリを加えた「BIG3」を中心に、漫才ブームやひょうきん族から出てきた芸人を「第二世代」とみなすべきだろう。
その次が「第三世代」と呼ばれる芸人たちで、お笑い養成所出身の若手が、小劇場のライブで腕を磨き、夕方番組や深夜番組をきっかけに人気を得て、ゴールデン帯で「バラエティ番組」を持つ、といったキャリアを踏むのが特徴である。とんねるず・ダウンタウン・ウッチャンナンチャンがこの世代の代表格となる。一般に「第三世代」は80年代デビュー組で区切るようだが、個人的には似たようなキャリアから早めにブレイクしたナイナイやロンブーあたりも含めるべきではないかと思う。
次に来るのが「ボキャブラ世代」である。1992年から1999年まで続いた『タモリのボキャブラ天国』は、当初は視聴者投稿型の番組だったが、徐々に芸人のネタ見せ番組に移行。この番組を登竜門に「キャブラー」と呼ばれる芸人が続々と登場した。吉本興業が首を突っ込みそこねたらしく非・吉本芸人が多い。またボキャブラ終了とともに一時的に低迷した芸人が、2000年代に復活するあたりも共通している。先述したとおり、ナイナイ・ロンブーなどを第三世代に含めるとすれば、この「第四世代」は爆笑問題・くりぃむしちゅー・ネプチューンあたりが代表格となる。
2000年代に入って「M-1グランプリ」が始まったことで「お笑いブーム」が醸成された。また同時期に『爆笑オンエアバトル』『エンタの神様』『笑いの金メダル』『爆笑レッドカーペット』などのネタ見せ番組がスタートしてお笑い人気に拍車をかけた。賞レースを目指してストイックに芸を磨く若手芸人と、多数のネタ見せ番組により短期的な人気を得た「一発屋」が混在し、芸人のレベルは底上げされたものの、数としては飽和した感がある。2010年にM-1グランプリが終了するとブームも終息し、多数の「ひな壇芸人」を出演させてトーク中心に作られる低予算の番組が増加した。(2010年までの)M-1でブレイクした芸人と「ネタ見せ番組」によって登場した芸人が「第五世代」といえるだろう。
2010年代になると、第二世代・第三世代がフェードアウトし、第四世代と第五世代がバラエティの「司会」の座を奪い合う群雄割拠の時代に入った。第五世代は図抜けた存在はいないものの層が厚いので、2000年代デビュー組の多くがつかえて中堅に留まっているように思える。そんな中で、霜降り明星および彼らが「第七世代」と称する2010年代デビュー組が既に台頭してきている。この場合は2000年代デビュー組が「第六世代」とされるわけだが、2000年代デビュー組は遅咲きになりそうなので、おそらく2000年代デビュー組と2010年代デビュー組をあわせて「第六世代」と呼ぶようになるのではないか。2020年現在、芸人の主戦場はYouTubeになりつつある。後世から振り返れば「第六世代」は「YouTube世代」と括られるのかもしれない。
映画版キャッツ字幕版を観た感想(ネタバレ酷評)を長々と書いていきたいと思います。
公開初日に見て間が空いてしまったので、記憶が曖昧なところもあり、映画の内容と異なる部分があるかもしれませんし、ほぼ散文なのでご了承ください。
感想を書く際には公式ホームページやAmazon music unlimitedでサントラを聞くなどして記憶を呼び戻したり、整理しました。
あらすじ
ロンドンのとある晩に天上界に行くことができるたった一人の猫を決める猫たちの舞踏会が開かれる
あらすじというか、ストーリーを端的にまとめるとこんな感じ。シンプルで分かりやすい話ではあるが、ストーリーには深みが無く、薄っぺらい話が二時間弱続きます。
上映開始
最初に配給会社のユニバーサルのおなじみの地球のロゴの映像が流される。普通の映画であればこの先が本編であり、早く本編が見たいという気分になるがそうではない。今回はこの先どうなるのだろうという不安と恐怖でしかなかった。
映画館で10回以上予告を見ているため、化け物のような猫と人間の融合生物には多少は慣れたが、やはり得体のしれない気味の悪い生物であることは変わりない。私が子供であったら恐らくトラウマになって絶対観てないだろう。
今回キャッツを観ようと思ったのは映画館に月約4000円で見放題になるPremyに加入しているからである。加入していなければあんな映画にお金を払う気には到底ならない。
定額サービスでは本来では出会えない作品であっても、定額なら出会おうとする行動の機会が与えられることを改めて認識した。
さて本編が始まる。
説明しづらいが、遊園地のメルヘンなBGMや、映画ITチャプター1の終盤にベバリーがペニーワイズに連れ去られた後に地下水路の中で謎の踊りをしながらペニーワイズが登場したときのBGMのようなものを更に不気味にした音楽でした。
私はこういう音楽が苦手であり、共通で酷評されているポイントではないかもしれないが、既に作品への嫌悪感をさらに抱いてしまった(サントラ最初の曲として収録されています)
今までの人生で約300本近く映画を観ているが、開始数秒で観たことを(正確には音楽を聴いただけなのに)後悔したことは初めてだろう。あと何年生きるか分からないが、二度とそんなことは無いと思う。
本編は主人公猫ヴィクトリアがゴミ捨て場に袋に入った状態で捨てられるところから始まる。そこから未知の世界(観客からしても)に迷い込み、様々な猫と出会うこととなる。
ゴミ袋から出て早々いきなりミュージカルが始まる。この映画は基本的に新たな猫に出会うたびにその猫の自己紹介も兼ねたミュージカルシーンが繰り広げられつつ、ストーリーが進行していく。そう、永遠と猫の自己紹介を聞かされまくるのだ!
最初のシーンでは猫はジェリクルキャッツと呼ばれており、舞踏会で真のジェリクルキャッツを決めることが明らかにされる。
ただミュージカル内でジェリクルという言葉をクソ連発していたが、ジェリクルって抽象的すぎて何だよ、くどいんだよと見ていてイライラした。ジェリクルの意味を調べると、ジュエリーとミラクルを組み合わせた造語で、人などに頼らず気高く自由を謳歌する的な意味合い。
また、日本語字幕のはずだが、歌詞が意味分からなすぎて悲しくなりました。日本語のはずなのに全く意味不明で日本語の難しさを改めて実感しました。超シンプルなストーリーのはずなのに、理解するのが難しいという矛盾。観客に寄り添い、理解を促進させるための狂言回し的な役割を果たす猫がいれば理解、感じ取りやすくなるのではないのでしょうか。
何なんだ、このシーンは。こう戸惑っている間にもまた新しいデブババア猫が現れてミュージカルが始まります。この新しいデブババア猫のシーンが一番の問題シーンではないでしょうか。
このデブババアは本当にだらしない的なノリで歌い踊るのですが、その途中に猫以外の生き物が登場します。
まずネズミが出てくるのですが、ネコと同じく体はネズミっぽくて、顔は人面というトラウマ化け物なのです。人面ネコは予告で何とか慣れたのでいいですが、人面ネズミは想定外で気分が悪くなりました。
そこにとどめを刺すかのように登場してきたのは大量の人面ゴキブリ。
テラフォーマーズを観に来た覚えはないのに...
大量の動く人面ゴキブリの出現を見て気持ち悪さのピークが急上昇。人面ゴキブリが出てきた瞬間、見てられなくなり、入場で貰ったキャッツのポストカードで自身の目をとっさに覆い隠し、途切れ途切れに見ることに。おまけに人面ゴキブリをデブババアネコが食べるシーンがあり、それを一瞬見てしまい、我慢の限界で一時退出。
今まで映画の上映途中でシアターから出たことがないのですが。わずか20分で耐えれなくなり退出してしまいました。
ネコのCGですら気味が悪いのに、ネズミやゴキブリはマジで地獄です。
今まで映像を見てられなくなったことは二回あり、ウォーキングデッドのシーズン7の1話の2人の処刑シーン(グロイからではなく、いなくなるのが辛いから)と1984の主人公ウィンストン・スミスがババアと売春するシーンなのですが、それらを上回る嫌悪感と恐怖と衝撃でした。
ウォーキングデッドも1984も過激な作品であり、万人が見るような作品ではないからまだしも、キャッツはR指定もなく話題のミュージカルを映画化したものです。そんな映画で気持ち悪い物を見せて何がしたいのでしょうか。
ネコのリアリティーを出したいのか、製作者の意図はよくわかりませんが、映画館の予告やテレビスポットで散々見せてきた華々しいシーンを観客は見たいと思ってるはず。なのにあんなものを見せられたらたまったもんじゃない。
海外のメディアがあれだけ語彙を振り絞ってレビューしているのがうなずけました。
退場して数分後には心も落ち着き、全部見るかこのまま帰るか正直悩みましたが、まだ本編開始20分しか経過してないのでまだ見どころはあるに違いないと信じて席に戻りました。
結局見どころは特になかったけどね。
特にストーリーの展開のない自己紹介クソミュージカルをして悪役ネコ(作中では珍しく服を着ているのですが、そのせいか特有の嫌悪感があまりありません。みんなまともな身なりをすればネコのふりをした化け物から脱却できるのはず)が自己紹介をしたネコを特殊能力で連れ去るくだりを何回も繰り返していきます。特にミュージカルが面白いわけでもなく相変わらず意味不明かつ単なる自己紹介で話が進まず、永遠に悪夢が続きます
悪夢を繰り返していくと遂にジュディ・デンチが演じる親方長老ネコが登場します。
MI6のボスとして007に無理難題を突き付け、嫌みを言い時には対立もするも頼れるあの方がまさか長老ネコに転職するとは誰が想像したのでしょうか。器だけでなく、胴体も大きいです。007に出演している所以外見たことないので、キツメのおばあ様という印象なのに、やさしいハルク並みの体を持ったネコのおばあ様に変身してしまい、終始困惑していました。とにかくこの親方長老ネコがネコ界の有識者であり、舞踏会のチャンピオンを選ぶ決定権があるそうです。
親方長老ネコが現れてから今まで街中や家などで自分勝手にミュージカルという名の歌い騒ぎ踊る狂乱発狂が少し収まり、舞踏会らしいステージ会場に一同終結しました。いや、なんでみんな会場に最初から集まらないで好き勝手に暴走してんの?
全てのネコが会場に集結してミュージカルが再開するのですが、結局は新たなネコの自己紹介です。
落ちぶれた演劇俳優のよく分からない怖い話と、鉄道社畜ネコのタップダンスを見せられ、パフォーマンスが終わると悪役ネコに連れ去られるお決まり。
その後悪役ネコと愛人ネコのミュージカルが始まります。この愛人ネコはテイラー・スウィフトです。テイラー・スウィフトの曲は高校の時に友達が紹介してくれたアルバム1989に収録のwelcome to new york とblank spaceとshake it offぐらいで更新が途絶えていてあまりよく知らないので特に感動もしませんでした。ただ、悪役ネコと違い服を着てないのにあまりネコのCGに違和感を覚えませんでした。キツメの美人顔だとちょうどいいのでしょうか。とにかく悪役ネコのコンビは唯一のネコだと個人的には思います。
パフォーマンスが終わると何とジュディ・デンチが悪役ネコの超能力で連れ去られます。先に連れ去られたネコと一緒に船の上にいて、悪役ネコに天上界に行けるネコに選ぶように脅迫をされます。
そのころ舞踏会ではジュディ・デンチがいないことに気づき大騒ぎになります。そこでネコたちはマジシャンネコにマジックで瞬間移動のマジックで連れ戻すように要求してマジックをさせられます。
マジックは種と仕掛けがあるからマジックであり、勿論ジュディ・デンチを連れ戻す種も仕掛けもなく、超能力者でもないので当然連れ戻せません。連れ戻せないのにネコたちは
Oh magical Cats~~ Oh magical Cats~~ Oh magical Cats~~
しかしこれはご都合主義の映画なので何故かミラクルが起きてマジックでジュディ・デンチは戻ってきて喝采を浴びます。
あくまでも個人的な意見ですが、デスノートは死神のノートだから名前を書くと死ぬ、ルフィは悪魔の実を食べたからゴム人間、キャプテンアメリカンは実験で超身体能力を得たなど、特殊能力には何かしらの最低限の根拠があるべきで、いきなり根拠もなく奇跡だけでおこるのはどうなんでしょうかね(性格悪くてごめんなさい)
戻ってきたので、天上界に行くネコを決める審査が再開され、そこに見ずぼらしい姿をしてネコが現れます。そのネコは舞踏会に行く直前で主人公ヴィクトリアが美声を聞いて励ましていたネコです。見ずぼらしいネコはミュージカルを見たことがなくても聞けばわかるであろう有名曲メモリーを皆の前で披露、見事天上界に行くネコに選ばれます。
これで終わればいいのに、ジュディ・デンチがネコ版のトリセツみたいな曲を歌いだして困惑しながら謎のエンドクレジット。ネコは話しかけてほしいけど、気高いから馴れ馴れしくしないでほしいらしい。いや意味わからないし、この曲いらないだろ。
エンドクレジットの瞬間悪夢から逃れたくてすぐ退出。テイラー・スウィフトのビューティフルゴーストは聞いてません。
総括
ネコの方も修正の無い初期版はそんなに酷いのか気になるところ。
ストーリー要素の面白みは皆無でほぼミュージカルが永遠と続く。
曲もメモリー以外はそこまで好きになれず。
ミュージカル版は面白いらしいのに映画版を微妙に感じるのはミュージカル部分がクソだからでしょうか。
目を閉じて鑑賞するといいのかもしれません。人を究極的に選ぶ映画。
全編自己紹介ミュージカルで途中気分を害する映像が流れると覚悟した上でみれば、そこまで酷評をしなくてもいいと思うが、面白いわけではない。
こんなのにお金払うならジョジョ・ラビットかパラサイトかフォードvsフェラーリを見てほしい。
4505字
何事も報いられぬこの世に……神も仏もない、血も涙もない、緑地も蜃気楼も求められない沙漠のような……カサカサに乾干びたこの巨大な空間に、自分の空想が生んだ虚構の事実を、唯一無上の天国と信じて、生命がけで抱き締めて来た彼女の心境を、小生等は繰り返し繰り返し憐れみ語り合っております。
その大切な大切な彼女の天国……小児が掻き抱いている綺麗なオモチャのような、貴重この上もない彼女の創作の天国を、アトカタもなくブチ毀され、タタキ付けられたために、とうとう自殺してしまったであろうミジメな彼女の気持を、姉も、妻も、涙を流して悲しんでおります。
隣家の田宮特高課長氏も、小生等の話を聞きまして、そんな風に考えて行けばこの世に罪人はない……と言って笑っておりましたが、事実、その通りだと思います。
彼女は罪人ではないのです。一個のスバラシイ創作家に過ぎないのです。
単に小生と同一の性格を持った白鷹先生……貴下に非ざる貴下をウッカリ創作したために……しかも、それが真に迫った傑作であったために、彼女は直ぐにも自殺しなければならないほどの恐怖観念に脅やかされつつ、その脅迫観念から救われたいばっかりに、次から次へと虚構の世界を拡大し、複雑化して行って、その中に自然と彼女自身の破局を構成して行ったのです。
しかるに小生等は、小生等自身の面目のために、真剣に、寄ってたかって彼女を、そうした破局のドン底に追いつめて行きました。そうしてギューギューと追い詰めたまま幻滅の世界へタタキ出してしまいました。
ですから彼女は実に、何でもない事に苦しんで、何でもない事に死んで行ったのです。
ただそれだけです。
いや、やはり知らなくても良い、話は幾らでも通ずる
それは、一にも二にもなく、「嘘」だと思う
得体の知れない、正体の分からない、手ごたえのない、暖簾に腕押しのような、気怠げなその雰囲気が本質である
この系統で、日本で最も人口に膾炙しているのは、間違いなく椎名林檎であろう
百色眼鏡を想起する方もいるだろうか
「私に、恋のこころが無くてもいいのでしょうか?」
と私は少し笑っておたずねしたら、師匠さんはまじめに、
「女のかたは、それでいいんです。女のひとは、ぼんやりしていて、いいんですよ」
とおっしゃいます。
このネットでは、虚構を振りまいて歩く“少女”を多く見つけることができる
彼女らは嬉々として自らの理想とする“虚構”を、思うままに追及し、それを公然と披露する
彼女たちの身命を賭して構築された“世界”には、容易には抗えない魔術的な引力が籠められている
そして、何よりも美しいのは、丹精込めたであろうそうした瞬間的芸術品を、ある瞬間から事も無げもなく、あいけらかんと放棄して、住所(address)も綺麗さっぱり消して、住処(Twitter)も更地にして、まるで白昼夢か、あるいは妖精かのように錯覚させるかの如くにしてしまう所にある
次から次へと棲所を変え、顔を変え、声を変え、そして勿論、名を変えて、移り変わって
そうした変貌が、我々を以ってして正体を暴こうとさせ、知りたいと思わせ、追いかけたくさせる
私にとっては、それが久遠千歳という名の“少女(虚構)”だった
危うげで気怠げな、“少女”であった
反抗、不健康、暗い、厨二病、などのネガティブなイメージではなかったの。
2016年4月6日発売の1stシングル「サイレントマジョリティー」は大人への反抗だけでなく、
「君は君らしく生きて行く自由があるんだ」「Yesでいいのか?サイレントマジョリティー」と他者にも蜂起を促す曲なの。
のちの1stアルバム「真っ白なものは汚したくなる」のリード曲「月曜日の朝、スカートを切られた」はサイマジョの前日譚とされたけど、
歌詞を読んでも全然つながらなくて、全く文字通り後付け設定なの。
メンバーはどちらかといえば大人しいタイプだったけど、この頃は冠番組「欅って、書けない?」などでキャッキャしてたの。
センターの平手友梨奈さんは流れ星のちゅうえいが好きと公言し、振られたらGO!皆川の「うんちょこちょこちょこぴー」とか、「コマネチ」とかやってたの。
パフォーマンスにおいても、
顔面真っ白で体調悪そうとか、俯き気味で髪で顔隠しがちとか、みんなでやるおじぎを一人だけしないとか、当日まで出演するか不明とか、
そういうのはなかったの。
グループとしても「普段は普通にアイドルだけどパフォーマンスはかっこいい」っていう、最高にクールなグループだったの。
のちの演出過剰な「笑わないアイドル」「アーティスト」って言葉に乗っかっちゃうようなイタさとは違ったの。
2ndシングル「世界には愛しかない」、3rdシングル「二人セゾン」も素晴らしかったの。
これらの表題曲だけでなく、カップリングもユニット曲あり、ソロ曲ありで楽曲の幅が広くて、厚みがあったの。
3枚のシングルを経て同年12月24日と25日に有明コロシアムで初のワンマンライブをやったの。
本当に奇跡のような1年の集大成で、Abema TVで生中継もされたからファンはみんな見れたの。
そこのアンコールで「W-KEYAKIZAKAの詩」という曲が初披露されたのだけど、
夢に向かうメンバーとそれを応援するファンを包み込むまさにアンセムで、
本当に2016年末までは最高だったなぁ。
世界にはかなりの割合で音楽にまったく興味を持てない層がいる。
音楽の意味がわからない人。良し悪しどころか存在の意味がわからない。
リズムに乗せてメロディを奏でる歌う。その気持ちよさがまったくわからない。
頭のいい人は「自分にはわからないが、きっとそういうことだな」と理解した表面上の技術でそれをしのぐ。
ただし自身の楽しみとして音楽を聞こうとは思わないしいわんやお金を出そうともしない。
頭がいい音楽に興味のない人はひょんなことでそれが露呈する。
とくにテンポとリズム。会話でももそうだが書き言葉でそれが露呈しやすい。
平易でとても刺激的でおもしろいことが書いてあるのに内容がまったく入ってこない時がある。
あたまのいい人に音楽的センスが皆無だからこうなる。最近気がついた。
全体的なテンポがなくリズムもバラバラなので読んでいてそこはかとなく拒絶反応がおこる。
頭のいい人は頭がいいのでそういう文章であっても読みこなすことができる。そしてそれを「いい文章」として書き加えることができる。
そのことでさらにテンポやリズムがバラバラで気持ち悪くなるが、頭がいいのでそれのなにがおかしいのかわからない。文法上は正しいだろうと思っている。
こういう層が「頭がいい人」にかなりの割合でいる。いわば文の音痴。文痴というと意味がまた微妙になっていくのだが、たかだか100文字のはてなブックマークコメントですらときおりなにいいっているのかわからないひと。
かまいたちというコンビのM-1でも披露したネタフレーズ「もし俺が謝ってこられてきてたとしたら絶対に認められてたと思うか?」。こういうフレーズを連発している。
もっと自然で気持ち悪い。全体的に「変」としかいいようのない。
ここではてなブックマーカーの有名なひとの名前を取り上げて「ここがおかしい」「このフレーズが気持ち悪い」と説明しようと思ったがだるいのでやめる。
少し前におセッセをするとき、まだ恋人にはお披露目してない新しい下着をつけていた。あんま選ばないタイプのちょっと可愛いやつで、いいねー可愛いねーって褒めてくれた。
我々はまずボディタッチでいちゃついてから前戯に入るので、恋人はまず肌着越しに触れてくる。
そして手がお尻にかかった時「えっなんだこのパンツ…!」と言うのでびっくりして「何どうしたの、なんか変なところあったの?」って聞いたら
そりゃもう噴いた噴き出した。笑ってる自分をよそに尻(というかパンツ)をさわさわする恋人。めっちゃおぉ…って顔してる。
はき心地はともかくパンツの表面の触り心地なんてあんまり気にしたことなかったから、そんなにいいのか?と自分でも触ってみたけど、自分ではよくわからなかった。
すべすべしてたけどそれが良かったのかもしれん。
見た目よりも触り心地を気に入ったようで、今でもたまにつけていくとやっぱり尻をさわさわしてくる。
君がいいならそれでいいさ……
[B! Abe the Liar Cabinet] 安倍首相「税収は過去最高」演説をファクトチェックする:朝日新聞デジタル
https://www.kantei.go.jp/jp/98_abe/statement/2020/0120shiseihoushin.html
日本経済は、この七年間で十三%成長し、来年度予算の税収は過去最高となりました。公債発行は八年連続での減額であります。経済再生なくして財政健全化なし。この基本方針を堅持し、引き続き、二〇二五年度のプライマリーバランス黒字化を目指します。
年貢!増えてます!ありがとうございます!!これは皆さんの成長の証!!どんどん行っちゃいますからねェ~!みたいな。
やっぱ一揆ですわ。
今何が流行りなん?
https://japan.zdnet.com/article/35148154/
次世代一揆システム、拡張一揆/仮想一揆・VR一揆(AI/VI・VRI)、デジタル一揆、スマート一揆、量子一揆、一揆チェーンとかで攻めるか。
誰かどこかで一揆ソリューションとか提案、新しい一揆体験を披露してほしい。
革新的な技術は一揆の未来を変える。そんなん。一揆2.0とかあったな昔。
スマホを釘バットみたいにして高く掲げて鍬(くわ)担いだ雰囲気で行けば?
若者は情報端末に関しては食いつき結構いいからな。スマホに関連付けとけば何かしらビビッとくるやろ。一揆peria!!一揆アプリ!一揆Tube!ウォウ!
まあ皆さん思ってることはだいたい同じだと思う。はいはい寝言はレム睡眠状態でっていう。俺もそう。
あ、おはようございます。