はてなキーワード: オーウェルとは
自国である日本の問題に結びつけずに、他国である中国の問題にしか結びつけないことが問題だね、という話をしている。だから、ディストピアを自分の社会と連続性のある概念と捉えるためのディストピア発見実習をしようか、という話をしている訳だ。
学生が「中国の問題にしか結びつけない」かどうかは、学生とやり取りした北村紗衣先生本人しかわかんないことじゃない?いや本人にすらわかんないよね。元増田が書いているように、日本にも関連はあるけど、中国のほうが関連が強いという理由で、(日本については言及せずに)「ディストピア作品って中国みたい」って発言した学生がいる可能性が十分ある。なのに、学生が日本に結び付けなくて問題だって、北村紗衣先生が勝手に誤解してる可能性もありますよ。
「内容が中国より日本に合致するディストピア小説」の話だ、というのは増田が言い出したことで、saebou氏がいっていることとは関係ない。というか、とんちんかん。
そういう関係ないと決めつけて多様性を許さないのがディストピア。作品の内容との類似性より、自国である(他国でない)ことを絶対視しなければならないなんて、そんな決めつけが当然なの?読書は自分なりにできる自由なものだって、早稲田大学や高橋源一郎先生は言ってますよ(後述)。
ディストピア作品の内容が、日本より中国にあてはまってると考えた学生が日本と関連づけないのが問題になるのが、武蔵大学ってことなのかな。
(北村紗衣先生を「saebou氏」って書くの、すごいっすね。)
まず、ニュースピークや二重思考の話をしているから、具体的な例としてオーウェルの『1984年』が想定されているよ。具体的な例を挙げていないという批判は的外れ。
教えてくれてありがとう。ニュースピークによる語彙の制限は金盾、二重思考は社会主義市場経済とすれば、中国に当てはまるディストピア作品だから、学生が中国を挙げることは自然だね。もちろん、日本にも当てはまる事柄がないという意味ではなく、中国の方がわかりやすいという意味で自然だね。具体例があると、学生の考えに一理あることがわかりやすくなるね。
最近出版された「まんがでわかる 1984年」の宣伝では、中国にあてはめたり(支配層が都合のよい形で人々に「何が当たり前か」を刷り込み、疑問に感じる力を奪いながら、感情を「型にはめていく」様を描いた小説『1984年』。コロナ禍を経て、今一度、権力と個人のあり方について考える状況にあるといえます。今回のコロナの感染源・中国のITによる超監視社会は、『1984年』の世界を彷彿とさせます。)、日本のようだ(自粛・正義・幸福追求・相互監視の暴走!世界文学の名作を新解釈!まるで今の日本のようだ!)となってる。「ディストピア文学の読み方が分かってないですね。ディストピア文学は読み手がどこに住んでいようと、「今、我々が住んでいる場所」を描いたものとして読むんですよ。」という北村紗衣先生からすれば、宝島社は文学の読み方がわかってない(中国を思い浮かべた)担当者が宣伝してると断言していますね。
実際、1984年が共産主義国における全体主義の批判であるのは間違いないとしても、1984年がソ連とかの社会主義国とかだけの話で、西側諸国は関係ない、みたいな読み方されても、オーウェルも困ると思うよ。
そんな読み方を誰がしてるの?元増田は日本にもディストピア作品に関連する要素はあると書いてるし、学生は「中国みたい」と言っていても、「西側諸国は関係ない」なんて言ったとはどこにも書いてない。もし言っていたとしたら、それがわかるのは、北村紗衣先生本人だけだよね?
それに、作品を理路整然と解釈した結果、作者の意図と異なることだってあり得るのに、作者が困るから作者の意図通りに読まなければならない、って、武蔵大学はそんな権威主義の学問しか学べないんですか?
早稲田大学だと、「自分だけの読み方を見つけ、人を納得させる。「自由に読むことの楽しさと厳しさ」を学べる」のに。高橋源一郎先生は「個人が読むということは、僕は書くよりもクリエイティブなことだと思っています。そこには「社会」の「声」といったものがまったくない。「こう解釈されているけど、僕は違う」と読むようになることが「何かを読む」ことじゃないかと思うんです。」と話しているのに。
で、誰とも知らない学生がディストピアを日本にあてはめないと先生が愚痴っていても、どの学生にも不利益ないよね。どこがディストピアなんだろ。言葉尻をとられて混ぜっ返しても意味ないよ。
二重思考ができてるね。(支配層が都合のよい形で人々に「何が当たり前か」を刷り込み、疑問に感じる力を奪いながら、感情を「型にはめていく」様を描いた)小説『1984年』を教材にする北村紗衣先生(支配層)が、ディストピア作品は日本に関連付けるのが当たり前だということを刷り込み、中国みたいと思う学生の感じる力を奪うんだから、リアルディストピア。これがノンフィクションってやばみしかない。これが学生の不利益ではないって、二重思考すげえ。
あ、学生が日本と関連付け(られ)なかった理由がわかった。「1984年って、武蔵大学を描いてて、北村紗衣先生がビッグブラザーですね」って、もっとも身近な事柄に関連付けたら、単位もらえないもん。学生さんも二重思考を身につけなきゃですね。
北村紗衣先生のやりたいディストピア発見実習って、松任谷由実さんでおなじみ京都精華大学白井聡先生の単位のために学生に忖度させるパワハラみたいに先生のご機嫌取りになるだけでは。学生さんかわいそう。
「内容が中国より日本に合致するディストピア小説」の話だ、というのは増田が言い出したことで、saebou氏がいっていることとは関係ない。というか、とんちんかん。
自国である日本の問題に結びつけずに、他国である中国の問題にしか結びつけないことが問題だね、という話をしている。だから、ディストピアを自分の社会と連続性のある概念と捉えるためのディストピア発見実習をしようか、という話をしている訳だ。
具体的な作品名も挙げず、理由を説明せず、でも学生の考えを間違いだと世界に公表する先生のいる大学って、学生には結構ディストピア。
まず、ニュースピークや二重思考の話をしているから、具体的な例としてオーウェルの『1984年』が想定されているよ。具体的な例を挙げていないという批判は的外れ。実際、1984年が共産主義国における全体主義の批判であるのは間違いないとしても、1984年がソ連とかの社会主義国とかだけの話で、西側諸国は関係ない、みたいな読み方されても、オーウェルも困ると思うよ。
で、誰とも知らない学生がディストピアを日本にあてはめないと先生が愚痴っていても、どの学生にも不利益ないよね。どこがディストピアなんだろ。言葉尻をとられて混ぜっ返しても意味ないよ。
社会は馬鹿ばかりで虚しいし、不幸はこの世からなくなりません。
みんなその場限りのことしか考えていないので、いつまで経っても全体の幸福度は上がらないから、くだらない娯楽で馬鹿を支配するシステムが発達して、オーウェルの小説のようなディストピアまでまっしぐらでしょうね。それがある意味で本当に平等な世界なので。
『水が上から下に落ちるのが当たり前』という表現がありましたが、その通りでこの世界はエントロピーに支配されています。
壊すのは簡単ですが作るのは大変ですし、継続するのはめちゃくちゃ困難でも諦めてだらけるのは秒でできます。
何かを始めるにはエネルギーが必要ですが、そのエネルギーも積み重ねによる貯金や、将来への希望という不確定な報酬を担保にしているので、負の連鎖に陥ればもう手に入りません。
やってもどうせ意味ねえし、どうせ報酬だってたかが知れてるし、昔同じものを手に入れた時は確かに嬉しかったけど、終わってみたら大したことねえなと思えるし、そんなもののためにまた頑張るのなんてアホくせえし…
ちなみにエントロピーは割れたグラスを元に戻すことはしませんが、時折好循環が起きて何もないところからエネルギーを起こすということもあるらしいですよ。まあ負の循環の方が大きいのですぐに掻き消えてしまいますが。
この世って頑張ることを前提としてるくせに、頑張って手に入るものたかが知れてて、しかも頑張んなくても存在することはできるとかいうよくわかんねえバランスなんすよ。
でもそんなの当たり前じゃないですか?
そんな当然のことに虚無を感じてるんですか?
私があなたの文章を読んで思ったのは、フェアな視点が圧倒的に欠けているということです。
建設的な議論を歓迎したいのなら、まず自分の思想の反対意見を全肯定してみてください。
その上で両者の思想を比較検討し、デメリット、メリットを把握した上で最終判断を下してみたらいかがでしょう。それが知性ある人間の行為だと私は思います。
社会は虚しい
→テレビやツイッターの議論を見て、世間のくだらなさを実感しているのなら、そのくだらなさを大前提とした上で、それでも人間はゴミなのか?できることや考えられることはないのか?と思考している人たちにも目を向けるべきです。
一歩引いて世間を見ることができるのなら、世間と自分という構図からも一歩引いてメタ化することもできるはずです。
そういった思考をしている人々は、漫画、絵画、プログラマー、音楽、科学や数学など様々な分野にいますが、一番わかりやすいのは文学だと思います。
あなたは人間をシステマチックに見ているくせに、小さい命にも、弱い立場の人間にも情を寄せていますね。
全ての人間が救われるべきだとか、
命は平等に扱われるべきだとか考えているのでしょうか?
でも周りを見れば人間は愚かで救いようがないし、現実的に真の平等を目指すと全人類思考せずにバーチャル世界で家畜化するしかないのではとか考えて、虚無になっているのでしょうか?
それ単純に考え方がクソ真面目なだけじゃないですか?
もし人間の平等を考えるのだとしたら、人間の不真面目な欲望も尊重するべきです。
戦争は楽しいし、いじめや差別は気持ちがいい。浮気はダメだと分かっているけど魔がさしてやってしまうし、結婚したら幸せが保証されるかもと思いながら三人に一人は離婚している。
でも全部欲望でそういうのも人間に必要です。背反理論であり、片方を全て取っ払うとか無理な話で、それも含めて人間として扱うべきでは?
それでも自分の理想を追うのだとしたら、それは理屈ではなく感情的な判断です。あなたの理屈を否定しきれないように、反対の理屈も否定しきれないので結局は感情に頼るしかありません。感情的な判断を下しているという意味では、あなたから見える世間の人たちと同レベルですね。
私もあなたも結局感情のレベルでしか判断できない豚で糞虫です。
脱線しますが、20世紀にウィリアム・フォークナーというアメリカの作家がいました。
彼は南部アメリカの架空の土地を舞台に、将来に絶望するしかない生まれも育ちも最悪な人間や、恵まれた人間も贔屓目なしに平等に描いてます。
いいことも悪いこともフェアに、淡々と現実を綴った彼は、ノーベル文学賞受賞講演でこう語ったと言います。
「人間は単に生き永らえるのではなく、勝利すると信じます。人間が不滅なのは、人間が生きとし生けるものの中で唯一疲れを知らぬ声を持っているからではなく、人間には魂が、憐れみを感じ、犠牲的精神を発揮し、忍耐することのできる精神があるからなのです。詩人に、作家に課せられた義務は、こうしたことについて書くことなのです。人の心を高めることによって、人間の過去の栄光であった勇気と名誉と希望と誇りと思いやりと憐れみと犠牲的精神を人に思い出させることによって、人が耐えることの手伝いをすることが、作家に与えられた特権なのです。詩人の声は、単に人間を記録したものである必要はありません。それは人間が耐え、勝利を得るための支えの一つ、柱の一つになることができるのです。」
こんな偉大な人物が人間を信じているのですから、大して考えてない行動していない我々が諦めてしまうのは早すぎると思いませんか?
注: これを書いてるのははてなブックマークと5ch嫌儲なんJに常駐してた偏りのある若者なのでその辺割引いて読んでほしい、けど割と安部嫌いが集まる場所に居てなおこういう考えになってしまっている点はちょっと面白いと思う。
呼ばれた気がしたので。
今大学4年生である自分は安倍晋三が嫌いだ。三本の矢は放つものではない上に放ててないし、首相なんて基本傀儡で得意分野以外は出しゃばらないだろうにその出しゃばるポイントが保守速報みたいなクッソしょうもない価値観を基にしてるのがどうしようもなくダサくて気に入らないし、そのクッソしょうもない連中とのお付き合いの延長でモリカケやら桜やらで特に信念もなくしょっぱい不正を発生させて、そのしょっぱい不正を雑に対処させて公文書改竄とかいう後世に著しく悪影響のある事態に発展させてるのが、なんというかすごく嫌いだった。
が、逆に言えばその程度で、そこさえ目を瞑れば極端に嫌いな点はあまりなかった。「安倍政権」という枠ではなく「安倍政権の期間」という点で自分の生活を顧みれば、ある程度社会は好転していたように見えるからだ。
たぶん、若者から見える社会は多くが大企業を中心とした経済を基にしていて、その点で株価が上がり、直近の採用人数も漸増していたここ数年は確実に「良い社会」だったと思う。実際、自分でさえ大した学歴もなく就活も大して真剣に取り組まなかったのにやたらと安定した第一希望の企業に内定を貰ってしまい、ぐうの音も出ないといったところ。税金も社会保険料も自分ではほぼ払っていないから気にならないし、増えたはずの消費税も頭では後々キツいんだろうなと分かりつつ、実感としては軽減税率で飯買ってキャッシュレスでポイント貰えてラッキーくらいの印象しかなかった。
世界経済の発展に乗っかっただけで相対的には寧ろマイナスだったとか、民主党政権後期の時点で好転していたとか、コロナ対応は杜撰だとか、そういうことを言われて「じゃあ安倍は無能だったのかも!」となるのは元から匿名掲示板でこれ半分安倍のせいだろと連呼していた俺くらいなもので、ほとんどの若者は「でも結果的によかったし...」「まああんまり酷いことにはなってないし…」となるのは当たり前だと思う。自分でさえ、安倍じゃないほかの誰かであれば(少なくとも経済において)より良い結果になったのか、と聞かれてすぐに首を縦に振ることはできない。
公文書改竄も、自分は学部の専攻的に相当酷いことだという実感があるが、それ以外の若者、というか国民全般にこれが伝わっているかというと微妙だと感じる。紙切れ一枚書き換えたり捨てたりしたところで何になるんだ?オーウェルの読みすぎでは?と、まあこんなことは言われないだろうが、正面切って反論したところで安倍政権を否定するところまで針を振り切れさせられる気はしない。
多分この先も、若者からの安倍政権の印象は良くなるばかりだと思う。コロナで経済が落ち込んだ影響が大きく出るとしたら来年(22卒)の採用からで、そこで就職難にぶち当たった学生は「去年までは良かった」という印象を抱くだろう。すべての失策をコロナと自らの病気による辞任のインパクトでかき消すことができるだろうし、また実体経済が伴ってない(?)にしてもこのタイミングで辞めてしまったという結末は多くの人の脳内で、これから来るかもしれない不景気と安倍政権の終了とを結びつけるだろう。
私たちは民主主義教育を受けてきた。ただし、この「民主的」というのは、政治制度にのみしか当てはまらない。会社で働くわたしは上司から「命令」されて仕事をする。会社は民主主義とは無関係である。もっと明確な例は軍隊。軍隊では「命令」に異議をとなえると銃殺になるらしい。民主的な(「アテネ」的)軍隊が存在したと仮定するとその軍隊は戦闘能力において「スパルタ」的軍隊に劣ることは明らか。フランス革命以降の歴史において、民主的な軍隊は一時的には存在したと思う。たとえば、ジョージオーウェルが参加したスペイン解放戦線(『カタロニア賛歌』)。
追記:
ただし、企業における民主的要素としては組合運動がある。(機能不全に陥っているようだが)
国会ウォッチャーです。
衆院本会議で、共謀罪法案が通過する予定です。これについては、もうどうしようもないけれど、明日の参院法務委員会での審議入りは、阻止しないといけません。何度も言いますが、基本的に反対派にはノーチャンスなので、できるだけ先延ばしして、情勢の変化を待つしかないわけです。大体審議入り時点で30時間とか抜かしてたのに、審議入りに同意したことが一番の失策だったなと思うので、山井和則さんは反省して欲しい。審議入り時点が一番抵抗しやすかったわけでね。参院農林委員会桜井充議員のもあとで起こすかもしれませんが、まずは法務委員会から。
仁比さん、めちゃくちゃ怒ってましたね。普段は温厚な方ですが。
仁比
「略)ジョセフ・ケナタッチ、国連の特別報告者が、安倍総理大臣に送付した書簡がありますが、大問題になっていますが、大臣としては、どのように検討されたのですか」
「5月18日、先週金曜日ですが、国連人権理事会のプライバシーの権利特別報告者が、日本政府に対する書簡におきまして、えープライバシーの権利特別報告者が、日本政府に対する書簡におきまして、現在国会で審議中のテロ等準備罪法案につきまして、懸念を表明されたことは承知をしております。しかしながら、書簡の中で記載されております、懸念や指摘事項の多くは、本法案の内容や、国際的組織犯罪防止条約の義務等につきまして、必ずしも十分な理解の無い中で、記載されていると見受けられると理解しております。えー(菅とと共通のカンペを読み出して急にスムーズになる)、直接説明する機会が得られる無く、公開書簡が一方的に発出されたこと、そして同書簡の内容が著しくバランスを欠き、不適切な内容であることにつきましては、外務当局において、強く抗議をしたものと承知しております。そもそも国連は、国連の安保理決議や同種の会議において、繰り返し表明しておりますとおり、わが国を含む、残された数少ない未締結国に対しまして、国際組織犯罪防止条約の一刻も早い締結を求めている、プライバシーの、プライバシーの権利の特別報告者は、独立した個人の資格で、人権状況の調査、報告を行う立場にあり、その勧告等は国連の立場を反映するものではないものと考えております。申し上げるまでも無く、テロ等準備罪は国際的組織犯罪防止条約を締結するに伴って、必要なものとして新設するものであるところ、二つございます。一つは、対象となる団体を明文で組織的犯罪集団に限定することにより、一般の会社や団体、労働組合などが適用対象とならない、そう明確にした点、それからもう一つの点は、したがって、こういう考えのものと、本法案は、プライバシーの権利を含め、およそ人権を不当に制約するものではないことは明らかである、と関係省庁と調整しておりますし、同時に外務当局において強く抗議をしたものと承知をしております。以上であります。」
仁比
「なるほど、と自民党は言ってますが、驚くべき国際社会に対する不遜な態度じゃないですか。このケナタッチさんは個人、ということを、官房長官もえらく強調されていましたが、人権理事会の決議に基づいて、プライバシーに関する権利に関する特別報告者としての任務に基づく照会でしょ。これ、さまざまな、国際人権や国際法に関して、こうしたやりとりが行われることありますけども、この4項目情報提供を求められていますが、情報提供をするべきものではないんですか」
「ご質問の、プライバシーに関する特別報告者の指摘に関しては、その書簡の中身を精査をいたしまして、外交ルートを通じて、しかるべき回答をするものと承知をしております。」
仁比
「しかるべき回答って、求められている情報提供をするのが、日本政府の務めであって、法務省はそこに関わって、実際にさっき大臣少しおっしゃりはじめたけども。だから私は国際社会について、国連にそれを言ったらどうですかといってるんです。情報提供をしっかりやるというのが政府の立場でしょ、それをね、書簡が届いた、いきなり不適切だ、抗議するっていう、国連人権理事会に対して極めて不誠実な態度だと私は思うんですが、大臣そういう認識は無いんですか。」
「(国連対応は外務省だけど、聞かれたからあえて答弁しただけだもん、とおっしゃる)」
仁比
「特別報告者から、わが国官房長官に対する反論が出ております。大臣ご存知なのかどうか知りませんけども、
”私が日本政府から受け取った強い抗議は、ただ怒りの言葉が並べられているだけで、まったく中身のあるものではありませんでした。その抗議は、私の書簡の実質的な内容について、ひとつの点においても反論するものではありませんでした。私は安倍晋三内閣総理大臣にあてた書簡に書いた、すべての単語、ピリオド、コンマに至るまで、維持し続けます。日本政府がこのような手段で行動し、これだけ拙速に、深刻な欠陥のある法案を、押し通すことを正当化することは絶対にできません。今こそ日本政府は、立ち止まって内省を深め、よりよい方法で物事をなすことができることに気づくべきなのです。私が書簡にてアウトラインをお示ししたすべての保護措置を導入するために、必要な時間をかけて、世界基準の民主主義国家としての道に、歩を進めるべきときです(つまり今は世界基準の民主主義国家ではないと)”
このような反論が出されるほど、今の日本政府の対応は極めて不誠実。言い方を変えますと、国内で、異論や反論を、数の力で封殺する、国際社会の、人道法にのっとった、指摘に対しても、こうやていわば感情的に反発する、これ異論を封じて、何がなんでもって言う安倍政権に対する、この書簡は痛烈な批判だと思うんですけども、大臣いかがですか。」
「ただいまご指摘の報道があることは承知しております。日本政府として正式に反論を受けたわけではないことから、コメントは差し控えさせていただく。いずれにしても先ほどから申しておりますように、特別報告者からの指摘に対しては、外交ルートを通じまして、しかるべく回答をしていくものと承知をしております。」
仁比
「(この批判をうけている法案の責任者はあんたで、あんたの答弁の内容がダメだって言われてんだぜという仁比議員)」
twitterとかはてぶとかを眺めていると、内政干渉だ、日本だけ甘く見やがってまた国連は、みたいな痛い主張をされている方がたがおられますが、国連の人権理事会は、日本も批准している国際人権規約に基づき定められた組織です。また条約は国内法に優越しますので、当然日本の国内法に関して意見、勧告をする立場です。ケナタッチ氏は2015年に国連人権理事会において初めて任命されたプライバシー担当の特別報告者です。特別報告者は、独立した個人資格とされていますが、この意味は、国連と無関係の人、ということではなく、人権理事会の指示を受けずに行動できる、という意味です。特別報告者には国連人権理事会だけでなく、総会にもレポートを提出する権限があります。彼はもともとデジタルプライバシーの専門家のようで、EUで活動していたため。就任早々イギリスのインターネット監視法(Investigatory Powers Bill)に対して意見を出しています。これはほんとうにクソみたいな法律ですが、イギリスはマンチェスターのテロのような事態が頻発していますので、昨年12月に、2年近い議論の末、成立したものです。これは、端から端までクソみたいな法律だと私は思いますが、以下のリンクにあるような意見を提示しています。まぁ簡単に言うと、くそみそに言ってるわけです。ガーディアンのインタビューには、オーウェルよりもひどいとか、冗談で想像するよりもはるかに上を行っていて驚愕したみたいなことを言っています。
http://www.ohchr.org/EN/Issues/Privacy/SR/Pages/AnnualReports.aspx
当初案の概要を言うと、イギリス国内で行われるインターネット通信の全てを監視する権限を警察に与える、警察を監視する組織は無い。また英国内で活動するコミュニティプロバイダーのEnd to End encryption (E2EE)を禁止する、という法律でした。修正してもクソみたいな法律ですが、一応修正案では、警察の活動が適正であるかどうかを監視する独立のコミッティーが設けられること、E2EEの禁止はしないが、英国内のサービスプロバイダーは復号する技術を確保すること、英国外の会社はこの義務を負わない、というところまでは修正されました。この修正を主導したのは、労働党と第4会派の自由民主党です。普通の国では、一応数で決まるにしても、絶対原案通り通さなければならないなんていうこだわりはなく、ごくごく当たり前に野党の指摘事項に対して、与党も協議して法案を修正していくのです。昔元民主党の嶋聡さんがカナダだかドイツだかの議員と話したときに、「えっ野党なのに法案修正に参加するんですか」と驚いて聞いたところ、「国会議員が法案の修正をしないなら何をするんだい?」といわれたというエピソードを話されていましたが、まぁそういうことでしょう。(委員会質疑を通して公開で修正していく議会と、非公開の党同士の協議だけで修正して、委員会の疑義に答えないわが国の議会の違いがわからない方がいらっしゃるようです。)
そしてイギリス議会のディベートのとりまとめにも、ケナタッチ氏の指摘事項は取り上げられています。
http://services.parliament.uk/bills/2015-16/investigatorypowers/documents.html
https://www.publications.parliament.uk/pa/cm201516/cmpublic/investigatorypowers/Memo/IPB36.htm
またこの法案に関しては、プライバシー担当だけでなく、表現の自由担当などからも同様のSerious concernsが示されていますが、英国が「極めて不適切だ!」なんて怒ったりはしてないですよ。
以下は英国下院での質疑です。質疑者はジョアンナ・チェリー、スコットランド国民党の議員です。答弁者はデヴィッドアンダーソン、この法案に関する政府の専門委員です。
「三番目に、法案の合法性についてお聞きします。国連の特別報告者が、この法案に懸念を表明し、この法案には、EU法、または英国に課されているEU人権に関する条約のオブリゲーションにこたえていないのではないかとしています。彼は特に、このような権限が、一見して、欧州司法裁判所のSchremsの判例に、または欧州人権裁判所のザカロフの判例が示したベンチマークに反していると提言しています。このレポートをご覧になりましたか。」
アンダーソン
「見ました」
「彼の指摘にあなたはどのような見解をお持ちですか」
アンダーソン
「彼はヨーロッパ法あるいは国際法が要求しうる一つの側面についての見解をかなり拡大しておられると思いました。私は、それが唯一の見解であるとは思っておりませんし、250人の優秀な弁護士のサインを添えて、ガーディアンにも送ったところです。(このコメントはまず第一にガーディアンの一面インタビューで示されて、そののち年次報告書で挙げられた。)
例をお示ししてよろしいでしょうか。ハンガリーの事件で1月に示された欧州人権裁判所の判例では、”大規模なコミュニケーションの監視は、差し迫った事件の兆候に対しては容認されうる”としております。これは(議論が)進んでいるところであると思います。また、このような権限に対しては、適切な法的なセーフガードが必要であることを示唆しているだけであろうことは、賢明な方には同意していただけると思います。
私は欧州裁判所の中でも現在2つの見解があるものと承知しています。私はその点で、特別報告者に同意しないわけでありまして、また250人の弁護士の方も、この法案に賛成する立場を明らかにされております。もちろん、もっと判例はクリアになっていくと思われますが、夏ごろまでに、ルクセンブルグのデービスとワトソンの件が結審すると思われますので、それを待ちたいと思います。現在のところ、私はこのような例(大量監視)に対する判例は明確になっていないものと考えております。」
「ではあなたの見解では、司法判断は、拮抗した二つの潜在的な議論の方向性があって、我々はそのシチュエーションを詳しくは存じませんが、デービスとワトソンの司法判断が今年後半に出れば、よりよい方向性が示されるかもしれないということでしょうか」
アンダーソン
「またストラスブールのビッグブラザーウォッチアンドリバティの件もございます。この件は結審がいつかは私は知りませんが、少なくとも、基本的に二つの見解があるということでございます。(この、反対意見がある、ということを認められないのがわが国の与党)一つは、大規模なコンテンツへのアクセスは、たとえ機械によるものであっても間違っていて、非常に強力な規律に従った場合でも、人々のプライベートな生活に実際に、最小限の介入することも許されない、という見解。またもう一つは、より実践的な、これは程度の問題であって、どうしても必要な場合には、その場合に応じて必要な程度のプライベートへの介入をすることは仕方ない、とする見解です。」
「個人的な情報について簡単に伺いたいと思います。それが可能であれ、不可能であれ、医療に関する情報のような英国市民が一人ひとりもっている情報についても、大量監視によって収集される危険性はありますか。」
アンダーソン
「私は法的にはそれは排除されていないと考えています。どちらにせよ、それが正当化されるかどうかは、第一に、国務大臣がサインをしたかという点、第二に裁判所がそれを認めたかどうかという点に依存すると考えております。(一般人は監視の対象にはならないわけであります。と安倍、金田ならいうところですね)」
「現在の法案で、この大量監視の対象には、子供も含まれる可能性があるという理解でよろしいですか」
アンダーソン
「くりかえしますが、法的にはその可能性は排除されておりません。(わが国でしたら、子供が監視の対象になることは考えられないわけでありますというところだね)」
「では、このような内国安全やテロリズムに関する調査が、子供を対象にして行われるなどということは到底正当化できないということには同意していただけますか」
アンダーソン
「データセットの対象の件に関しては、私の所掌するところではないので、お答えは差し控えさせていただきます。個人情報の用途につきましては、私が知る限り、情報局のコミッショナーのほうで数年間保管され、そのレビューを受けることとなっていると承知しております。彼に聞くのが適切であると思います。」
んで、いちおうケナタッチ氏も、2017年の報告書で、とてもではないが、完璧ではないが、監視委員会の設置など、最低限の修正がされたことは歓迎したい、というような報告をしていますよ。おそらく、次回の報告書で、日本は名指しで批判されると思いますが、わが国の官房長官はじめの面々はカエルの面にしょんべんで、いっさい気にされないと思いますがね。
あと、大事な点ですが、日本を除いた全ての先進国は、個人通報制度を留保していないので、共謀罪に限らず、国の法律により、国際人権規約に反する扱いを受けた場合には、国連に直接、個人で通報することができます。日本が各国が持っている共謀罪を導入するとされている今回の法案に対して、ケナタッチ氏は、裁判所がほとんどチェック機能を果たしていないという現在の司法制度の問題点を指摘していましたが、人権理事会はそもそも個人通報制度の窓口ですから、この点についても日本には厳しく当たってくると思いますよ。
追記:これによって、イギリスの野党はすごいって言いたいわけではないので、そこはもにょるわけですが。特に、この法案に対する労働党の腰砕けっぷりはひどいもんで、テロが頻発する内情を勘案して、おおっぴらに反対することができずに、アンディ・バーナムあたりが、労働党のクセに、積極的に法案通過に協力してるのはもうなんだか終わってるなぁとは思っているわけです。
ちなみにこの法律の成立によって、英国で行われる全てのインターネット通信の記録が残されることになり、イギリスの事業者は大臣→裁判所の求めに応じて全ての暗号を復号する義務を負うようになります。つまり、ある個人のAさんがインターネットで何を買ったか、何を検索したか、どんなSNS発信をしたか、全てのログを取って、必要に応じて解析する、という立て付けの法律ですので、まぁオーウェルよりひどい、という意見も当然でしょうが、ここで言いたかったのはあくまで、国連の特別報告者にコメントされたからって英国政府は抗議なんてしてないってことと、最低限英国政府は、法案が何をするのかについてはごまかさずに正面から示している、という、この2点です。労働党が「確かな野党」的ポジションにいる、ということが言いたいわけではないわけ。まぁ本当に最低限の修正だけはしたんだろうけどね。
http://www.itmedia.co.jp/business/spv/1702/14/news040.html
[窪田順生,ITmedia]
このITmediaの記事では名指しされていないが、「著名な女性評論家」とは大宅映子のことである。
大宅映子「あのー、メディアっていうのは中立公正なるものを皆さんにお伝えするっていう。そのためにはしっかりした裏付けというのがあるとされている、皆の共通認識として。で、それをしないと捏造と言われて社会的批判を受けるわけですね。
でも今の状況を見ていると、現場、その場の意見に対して、〔トランプ大統領が〕頭からバーンと、嘘であろうがなんだろうが〔オルタナティブ・ファクトを使いまくって自分に都合の悪い話を〕否定してしまうっていうのがまかり通ってるということがね。しかもそれがネットで拡散するっていう。
それで私思ったんですけど、企業の中でもありましたよね。広告でやはり動いているから、ネットの。自分のところの企業に有利になるような偽情報を出すっていうような問題になったりしていますよね。
で、それをどうにかするっていうと、じゃあどこで本物か偽物かっていうのを、今〔ファクト・チェックの格付けをやって〕三角とか黄色とか、プラットフォームがそれを出すっていうのも逆に危ないですよね。判断がね。」
関口宏「そう、そこにもオルタナティブっていうのがありますからね……」
大宅映子「そうそう。そうすると基本的には私たち一人一人が、メディアリテラシーっていうか、判断力がなければいけないんだけれど、こんないろんなことを全部自分で判断なんかできるわけがない。」
姜尚中「うーん。まあひとつの試みとして、〔プラットフォームによるファクト・チェックを〕やってもいいんではないか、と僕は思いますけどね。」
大宅映子「うーん。やっぱり事実は一つにしてほしいです、はい」
以降、他の論者へと発言が移る。
〔〕は引用者による補足。
大宅はトランプ大統領がオルタナティブ・ファクトを使っていることと、企業がインターネットで偽の情報を流していることを批判している。
しかし同時に、大宅は誰かが特権的・独裁的に情報の真偽を決めることにも批判的だ。インターネットのサービスは、プラットフォームの運営会社が偏向していることもありうる。そのため、その運営会社に事実判定の権限を委ねることは逆に危険だと指摘している。
最後のところで出てくる「事実は一つにしてほしいです」という発言はちょっと早口だった。大宅は主張をまとめようと急いだ感じがあって、ここで何を言おうとしていたのか視聴者に伝わりづらかった。
しかし、ITmediaの窪田順生がこの箇所を抜きだして『「ファシズム」(全体主義)以外の何物でもない』などとレッテルを張るのはあきらかな曲解である。
そもそもこの「事実はひとつ」というフレーズは、大宅がスタジオで発言するより前に、VTRの中で山田健太(専修大学の教授、言論法)がコメントしているものだ。この文脈を踏まえずに大宅を非難するのは適当ではない。
VTRでは、ジョージ・オーウェルの小説「1984年」が現在アメリカでベストセラーになっていることを紹介、そしてワシントンポスト(1月25日)の『"もうひとつの事実"は"1984年"の「現実操作」を連想させる表現だ』という一節を引用して、これがどういう意味なのかを山田に解説させている。
山田健太「本来事実というのは一つのはずなんですけど、その事実を否定するために「もう一つ事実があるよ」ということを言って、最初の本来あるべき事実を覆い隠すという意味であります。
このVTRが流れた直後だという点を踏まえるならば、われわれは大宅の「事実は一つにしてほしいですよ」という発言を正しく理解することができる。すなわち、『「もうひとつの事実」なんて言って「嘘」をゴマかす政府はどんなヤバいことをするかわかったもんじゃない』という意味なのである。
従って、ITmediaの窪田順生がやっていることは曲解であるし、これをあたかも「著名な女性評論家」によるオリジナルの発言であるかのように説明するのも間違いである。
ITmediaの記事はくだらないので、いちいち論評するつもりはないが、ここからさきは私見を述べさせてもらう。
番組中では言及がないが、山田教授のコメントはおそらく『1984年』に登場する「二重思考」を念頭に置いている。
二重思考(にじゅうしこう、ダブルシンク、Doublethink)は、ジョージ・オーウェルの小説「1984年」に登場する思考能力であり、物語の中核をなす概念。それは「相反し合う二つの意見を同時に持ち、それが矛盾し合うのを承知しながら双方ともに信奉すること」[1]である。作中の例でいえば、舞台となっている全体主義国家では民主主義などは存立しえない、という事実を信じながら、なおかつ、国家を支配する「党」が民主主義の擁護者である、というプロパガンダをも同時に信じることを指す。
二重思考は作中の全体主義国家オセアニアの社会を支配するエリート層(党内局員)が半永久的に権力を維持するため、住民(中間階級である党外局員ら)および自分たち自身に実践させている思考能力である。二重思考を実践していると、自分自身の現実認識を絶えずプロパガンダと合致する方向へと操作し、しかも操作したという事実をどこかで覚えている状態となる。
「二重思考」とはニュースピーク(新語法)による単語であり、オールドスピーク(旧語法、我々の知る英語)に直せば、「リアリティー・コントロール」(真実管理)となる。
「二重思考」についてはWikipediaの項目を読んでもらえば十分だろう。事実がたくさんあると考えたり、そのたくさんある事実をすべて同時に信奉しようとする態度こそ、オーウェルがこの小説で批判した二重思考である。
『1984年』の世界では、政府がでたらめなプロパガンダをおこなったとき、国民はその嘘や矛盾に目をつむって忘れてしまうことが要求される。だから、政府が言うことはどれもこれも必ず事実となる。そしてすぐ次の瞬間、政府が先ほどと明確に異なるようなことを事実だと述べ始めたとすれば、国民はそれをもう一つの事実なのだと納得して信奉しなければならないとされる。
「事実はひとつ」という前提は、この二重思考に陥らないために必要なものである。われわれはこの前提に立脚することで、複数の矛盾する話の中から、何が事実であり何が虚偽であるかを探ろうとする。これは政府がでたらめなプロパガンダをおこなったときに、国民がそれに抵抗するための最も根源的な力となるのだ。
『ズートピア』はオーウェルの小説『動物農場』のディズニー流のアップデートである。舞台こそ農場という本来動物がいるであろう場所から都市、街に移されて、動物たちの文明化もはるかに進んでいる。また、田舎と都会という多層的な背景を採用し、人間社会の複雑さがさらに反映され、戯画化されている。戯画化で思い出したが、古くから動物を擬人化させて描かれた物語は数多くあり、日本でも代表的なのはその名の通り、『鳥獣戯画』であろう。その中でも『動物農場』がモチーフとされていると断定できるのは、こと権力の逆転が物語の節目として描かれているところだ。さらに、『動物農場』の結末が、「動物主義」という思想を掲げながら搾取的な社会構造が生み出されたのは、人間とほとんど見分けがつかない"2本足で立って歩く豚"であることを考えると、もはや『ズートピア』は『動物農場』の続編的な作品ではないのかと思えるほどだ。
しかし、私が主に取り上げたいのは『ズートピア』と『動物農場』の相違そのものではない。『動物農場』のアップデートであるなら、そもそも『動物農場』という作品が生み出された背景がそうであったように、『ズートピア』もまた同様に"子供向け"に戯画化されたものではない、ということだ。つまり、ある一定のディズニー並びにハリウッド作品を観る際にどうしても想起してしまう"勧善懲悪"とも呼ばれる単純な力関係に留まる作品として論じてしまうのは、この作品が描いている(我々が住む"先進国"社会に酷似した)社会形態のを、グロテスクなものとして描いているという事実を見落としてしまう、ということだ。
「グロテスク」が具体的にどういう性質を指してるかは後に詳しく取り上げるとして、まずは『動物農場』との相似を洗い出そう。『動物農場』では既存の権力の持ち主である人間を打倒しようと農場内の長老である豚が呼びかけた後、その長老と同じ種である豚が主導となり人間の打倒と、権力の奪取を果たす。権力の逆転が描かれた後、そこからさらにその権力が腐敗し、かつての権力の持ち主と酷似していく様を描いている。『ズートピア』でも同様に、権力の持ち主である肉食獣を追放し、草食獣が権力を得る。しかし、その後の社会様相の腐敗として描かれるのは、『動物農場』のそれとは違うものである。この肉食獣が追放される背景は、砂川秀樹が「男色は近代社会化以前には受容されていた」という言説に対する反論として、近代社会以前から否定的に捉える見方があったことを挙げ、それが近代化社会以降にゲイに対する「病理フレーム」が形成されたことの背景にあるという指摘していたケースと酷似している。すなわち、ズートピアという街にあてはめるなら、冒頭の子ども劇において近代化・文明化というものを"進んだもの"とする言説が背景にあるからこそ、その言説が暗に導き出す"野生"というスティグマが、肉食獣という属性に表象として充てられた、というわけだ。草食獣であり小動物であるジュデイが警察官を、肉食獣の子どもが税の査察官を目指すということを、それぞれの属性と"相反するもの"への志向(だからこそ"自由"や"可能性"の提示となる)として挙げられていること自体に、すでにこの世界を形成する言説の中に、後に肉食獣が「病理フレーム」の中に収められることを暗示している。
『ズートピア』と『動物農場』でそれぞれ権力の腐敗の在り方が違うのは、『ズートピア』が主題として据えているのは、差別が未だ存在する社会においての振る舞いであり、また、そうした社会と対峙することの難しさであるからだ。だが一方で『動物農場』と共通しているのは、たとえ既存の社会構造の不当な点を糾弾したものであったとしても、新たに権力に座する者が、特定の属性を以てして社会的地位を不当に貶めたり、あるいはその逆に持ちあげたりすること。つまり、権力の立場にあるものが、いち個体が否応なしに複合的にまとうあらゆる属性の中から任意の属性を持ち出したり、あるいは見出したりして、それを根拠に権力側の良いように用いることそのものが社会の腐敗を招く、と指摘している点にある。こうしたケースは今日の"先進国"社会においても行われている。そのあらゆるケースの中でも、創業者であるウォルト・ディズニーが、かつて「赤狩り」と呼ばれたハリウッドにおける排除運動に加担していたという記憶を持つディズニーにとっては、なおのこと無縁ではないだろう。なぜなら、その赤狩りこそ、『動物農場』が受容されたのと同じ背景の中で起きた現象なのだから。つまり、『動物農場』が、"反スターリニズム、反ソ連"として受容された時代のイデオロギーの中に回収された結果招いた、「赤狩り」という別の形での全体主義化を経た後の問題提起をする為、違った様相の社会の変化を描く必要があったのだ。では、その必要とはいったいどういう形のものなのか。
まず、そもそもの『ズートピア』(原題も"Zootopia")というタイトルから振り返ってみたい。誰もがその語感から、動物園("Zoo")とユートピア("Utopia")を連想するこのタイトルと、それが充てられた都市の姿や本編内で取り上げられている問題とを照らし合わせると、この名前が一種のミスリードを引き起こそうとしていることは誰の目にも明らかだろう。しかし、このユートピアに対するミスリードを行おう、という意図が製作者側にあることを考えると、一方でユートピア思想そのものを全く信じていないであろう、という可能性が高いものとして浮かび上がってくる。つまり、この作品世界はそもそも、主人公にとっての、あるいはそれに感情移入するであろう観客が考える様なユートピアを描こうという意図の下では成り立っていない、と考えることも決してできなくはない。では、それなら反対にディストピアを描こうとしていた、とするのもまた違うだろう。それこそオーウェルが『動物農場』の後に出したディストピア小説『1984年』で問題としているような、監視カメラシステムを駆使した管理社会は決してネガティヴなものとしては描かれていないし、作中で市長と並び権力の象徴として現れる警察だって、最後にはジュディに味方する。ズートピアに張り巡らされている権力構造が、一様に悪しきものに還元されるものとして描かれていないところを見ると、『映画クレヨンしんちゃん モーレツ!オトナ帝国の逆襲』において大人たちが夢中になる昭和の街並みのように、ユートピアを模したディストピアを描いている、とするのものまた違う。では何を志向していたかといえば、ただひたすら身も蓋も無く、我々"先進国"における社会の現在の姿を炙り出すことにこそ本作の力点がおかれていたのではないだろうか。
オーウェルが『動物農場』で描いたようにユートピアへの志向がある種のディストピアを生み出し、また『1984年』でディストピアは一方で誰かにとってのユートピアであることを描いてきたこと、さらに言えば今までのディズニー作品やハリウッド作品が数多く生み出してきた作品へ寄せられた批判を鑑みれば、主人公ないし観客のユートピアを描くことで何かの可能性を見出そうとする、虚構の作家なら誰もが夢見る境地との決別こそが、今のディズニーが走っている地点ではないか、とすら思える。だとするなら、管理化・全体化社会の兆しとして表象される監視カメラとの関係、後半で肉食獣と草食獣とが分断されてしまったと言われる前から存在する、小動物と大型動物との"棲み分け"をあからさまに感じる都市デザイン(マジョリティとマイノリティの形成はマクロでいうところの都市デザイン、ミクロでいうところの建築様式という、物理的な段階からすでに反映されている)、朝礼時には着席を強要しながら、大型動物に合わせて設計されてるが為に、ジュディが座ると署長の顔すら見えないサイズ感の机とイスが、ジュディが"認められた"後も変更は行われず、それどころかジュディとニックに同じイスを共有させること(1人分の席に2人が座らされているのである)や、かつてジュディに偏見としかいいようがない対応をしてきたことに対して何も悪びれもしなければ、むしろジュディに対して冗談を飛ばすほどの親密さを示してみせる警察署長の態度、そして何より権力に対して何も批判的な態度を持てそうにない警察という組織が持つホモソーシャルな性格をあけすけもなく描いているのは、それらに対して作品内で明確な批判が行われないということの薄気味悪さも含めて呈示しているのではないか。
だとするなら、本作が「子供向け」であるが為に、権力に対して批判的な態度を伴っていない、とするのは、少々早計ではないだろうか。確かに、ディズニーは子どもを含めた幅広い年齢層の支持によって成り立っている。しかし、その中には子供と呼ばれる低い年齢層の観客もいれば、それこそ子供の頃からディズニーに触れ続けた高齢の観客だっている。そうした状況の中で、こと任意の年齢層の観客だけ取り出し、それにのみフォーカスをあてようとするのは、作品がもつ性質を見誤ることに繋がるおそれがある。「子ども向け作品だからしょうがない」とするのは、すでに子供の在り方を規定づけるものでしかないのみでなく、未だ巨大資本によって子供たちが社会へ"馴致"されるべきだとすることへの別の形での肯定にも繋がる。しかし一方で、ディズニーが「子供向け作品」の地位に就いていることも、決して無視していいものではない。ならば、なぜディズニーはずっと「子供向け作品」であり続けたかを問わねばなるまい。結論から述べれば、それは「グロテスク」だからである。
これまで述べた「グロテスク」の定義は、マサキチトセが自身の論考のタイトルに用いた『排除と忘却に支えられたグロテスクな世間体政治としての米国主流「LGBT運動」と同性婚推進運動の欺瞞』 http://ja.gimmeaqueereye.org/entry/23399 に依っているところが少なからずある。しかし、ここで取り上げたい「グロテスク」については、美術的観点からのものである。どういうことかというと、ディズニーがアニメ製作者としての名前を不動のものにしてからずっと追及してきたのは、デザインと動きの"かわいさ"である。"かわいい"とされるものは、その多くが直線的なイメージではなく、曲線的なイメージによって、硬質なものではなく、柔軟なイメージによって構成される。これらの美学の根本を辿れば、動物や植物をあしらった、古代ローマの美術様式の一つである、グロテスク様式に辿り着く。ツイッター上で「モフモフ」と公式アカウントで形容された『ズートピア』を形成する美的様式は、根本からして「グロテスク」なものなのだ。この2つの「グロテスク」がピタリと重なり合うのは言うまでもなく、主人公ジュディの造形や仕草であり、冒頭に警察を夢見る彼女に暴行を働いたキツネ、ギデオンがウサギが(警察官を目指すに値しない)弱者たる徴として挙げた「鼻をヒクヒク」させる動きが、権力関係が決定的に転覆される場面の直前に配置されていることからもわかる。
「かわいい」は弱者の徴である。それ故に、その「かわいい」を極めたディズニーは、今日のアメリカを象徴し、公的な権力からも寵愛を受ける地位を築き上げた。つまり、『ズートピア』は、その地位を利用しつつ、現在のアメリカをはじめとする先進諸国の社会形態の描く"多様性"の脆さと「グロテスク」さを描くことと、またそのヒントや問題は、明白に誰かに取り上げられているわけでなくとも、世界のいたるところにある、この2つを描くことを目論んでいたのではないだろうか。その一例として、コロンビアの女性シンガーであるシャキーラ演じるポップスター・ガゼルのモデルとなっている動物であるブラックバックは、オスにしか角が生えていないこと。つまり、ガゼルはトランスジェンダーのポップスターであるということが、作品内で明確に言及こそほとんどされていないが造形として現れていることから見ても、決して拭い去れるものではないと私は思う。
「私は、人間はなるべく平等であるべきだと信じている。一定の上下は必要だろう。指示する人と、指示される人の区別があるのも仕方ない。でも所得で10倍も差をつける必要はない」「私が脱税すれば即座に拘束されるが、富裕層は優秀な会計士を雇い、富を海外に移して堂々と税を回避できる。この国では(富裕層と庶民では)ルールが違うんだ」
197 名前:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイ aac1-You7)[] 投稿日:2022/07/19(火) 06:27:52.30 ID:ONGENtUb0
リツイート含む
https://pst.klgrth.io/paste/qtqmu
山上容疑者のものとされるアカウントの全ツイート(リツイート含まず) - Togetter
https://togetter.com/li/1917657
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補足
650
748
> RT @fmn_fq: 人生、マイナスからのスタートをどうにか0に戻すのに必死になってるだけという感覚がある Jun 30, 2022
なんだけどツイート主(@fmn_fq)が怖ろしくなったのかそのツイート消した それで1減った
https://web.archive.org/web/20220717073227/https://twitter.com/333_hill/
https://web.archive.org/web/20220718135626/https://twitter.com/333_hill/
テレビ朝日、日本生まれのパレスチナ人にデタラメな字幕を付けて世論工作していることをばらされる… [931948549]
//greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1698926528/
//twitter.com/meempls/status/1713584858243506447
twitter.com/meempls/status/1713587331477737839
ガザ住民がハマスを批判しているとしている日本語字幕は間違ってるという内容
元動画はテレ朝231014放送のサタデーステーション
サタデーステーション 動画 10月14日 - 動画 9tsu - 9tsu.cc
0068番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイ 21d2-/OhJ)2023/11/02(木) 22:02:24.53ID:O7FtBSks0
こういうの吹き替え音声で元言語の音声潰れてること多いから誤訳かどうかも分からんのが普通だと思って
元の10月14日のサタデーステーションを確認してみたが吹き替え音声あっても一応アラビア語?の喋りは聞き取れるな
「ハマス」って言ってることしか分からんから真偽を確かめられんけど
0075番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイ 21d2-/OhJ)2023/11/02(木) 22:07:17.62ID:O7FtBSks0
いやいや、元増田に
「もちろん単語としては、どういう意味があるのかは知っているのだが」
と書いてあるのでそれではズレてる。
オーウェルのは、単語自体が抹殺済みか、単語から(都合の悪い)意味は去勢してあるって話っしょ?
ニュースピークの説明部分はうろ覚えだから記憶曖昧だけど、確か
「free」って単語だったら自由主義・自主的な意味合いは辞書に載ってなくて無料とか関係ないとかそういうのしかない、というような
まあ、《せめて「概念」とか「アイデア」ぐらいにしとけば》って書いといて言うのもなんだけど、単語やアイデア単発だと本当に意味ない。
http://cruel.org/wsb/burroughs.pdf
カットアップで記録を破壊し書き換えることで、現実を本当に変えられる(そしてそうすべきである)と主張していたバロウズには、具体的に変えたい記憶(現実)があった。でも、そういう記憶は、カットアップしても、破壊されなかった。破壊されるどころか、各断片がもとの記憶の全体を呼び起こすポインタ/ハッシュ値になってしまった。カットアップすればするほど、それはますますその記憶のかけらをいたるところにまき散らすだけだったということだ。
(中略)
記憶を自分の都合のいいように改竄してしまう人には、ぼくたちみんな出会っている。中には自分のまちがいを認めるのがいやで、ウソをついている人もいるけれど、本当に自分の記憶を改竄して、なかったことをあったことにしてしまっている人はたくさんいる。一方で、スターリンや中国共産党みたいに、オーウェル式に記録をすべて書き換えることで、たとえばトロツキーをいなかったことにしてしまったりする例もたくさんある。
でも、この両者は同じものではない。スターリンが公式記録を書き換えたようには、自分の記憶は書き換えられない。そしてこの両者は、なかなか両立しない。書き換えようとするその行為自体が、記憶の中で実際にあったできごとを一層はっきりさせてしまうからだ。つまり、変更前と変更後をちゃんと理解していないと、十分な書き換えはできなくて、その変更前の状態を知っている限り、自分の記憶は残ってしまう。自分の記憶を書き換えるには、ゆっくりと、すこしずつ、自分で気がつかないうちにやらなきゃいけない。記録があるという記憶まで抹殺しなくてはならない。意識的にカットアップなんかをして、記憶を書き換えようとしているうちは、絶対に自分の記憶は――そして自分にとっての現実は――なくならないのだ。
この文章を読んだ時、俺ははっとした。そうなんだ俺も同じことをやっていて、だから俺はバロウズの小説にハマっていたのだということに気が付いた…いや気が付かされた。
俺は地元の三流大学を卒業後、とあるゲームスクールに入学した。大学も好きで入った訳でもないし、自分が好きなことを学びたかった。あとは社会に出るのがたまらなく怖かった。
で、俺はゲーム業界に入ったのか。いや挫折(笑い)したよ。大学でも言語は学んだし、成績は「優」だった。でも全然通用しなかった。あの三流大学でのプログラミング授業なんかママゴトに等しい、そう感じた。それよりもなによりも俺はアルゴリズムの立て方が下手だった。それでも前期はなんとかやり過ごせた。しかし一年の後期での皆の自主制作を観た瞬間、もうダメだと。学校とはいえ「公の場」のディスプレイに「萌えアニメ」画を「壁紙」にする、端末周辺に人形を置く。そんな連中に負けた自分がそこ(学校)に居るという現実に耐えれなかった。
それでもまだ自分には可能性があるのでは?と考えた末、一旦ブランクを入れて考え直そうと思い、当時通っていた精神病院に書いてもらって休学することにした。休学中は最悪だった。うん、ダメだ、この時期についてはまだ自分で文章化するほどに整理がついていないようなので止めよう。
で学校辞めて、いくらかのブラブラ無職生活を経て就職活動。開発でなければどうにかなんだろ、という甘甘すぎる考えでIT業界に書類を出しまくるが当然の如く落ちまくった。でも幾つか引っかかってなんとか社会に潜り込むことが出来た。
でさ、面接で当然「空白期間の4年どうしていましたか?」訊かれる訳だ。それに対して俺は「大学卒業後、スーパーで社員になるつもりで(4年間)働いていました」と。これは以外にも成功した。大学在学中と休学中にスーパーでバイトしてたから色々突っ込まれても対応できたし。俺はどうしてもあの空間に自分が居たという事実を認めたくなかったんだ。これは面接に限ったことじゃなくても改ざんする。経歴を語る場面において全て無かったことにする。俺は脳からあの記憶から消したかった。
でここで最初の引用文だ。俺が経歴を語る場面に置いて、改ざんした経歴を語れば語るほど、あの学校に居た記憶が呼び出される。対外的にはできるけど、自分の頭は騙せない。語れば語るほど屈辱に満ちた時間が蘇る。俺はバロウズの小説の「カットアップで現実を変える」に希望を感じながら、引用文のような事実に無意識で共感していたからこそ、(バロウズの小説に)惹かれていったのだと今更ながらに思った。
でも、俺は改ざんすることを止めない。馬鹿としか思えないが、バロウズの「カットアップで現実を変える」という銘を信じて、俺は脳から消して見せる。それを宣言したい、そして整理したいために匿名ダイアリーに書いた。
以上、駄文終了。
翻訳は、村上の作品を組み立てる原理だとさえ言えるかもしれない。
彼の作品は翻訳されているだけでなく、翻訳についてのものだと考えられるのである。
村上的ストーリーにおける至上の愉しみは、とても普通の状況(エレベータに乗っている、スパゲッティを茹でている、シャツをアイロンがけしている、など)が
突然非日常(不思議な電話を受ける、魔法の井戸に落ちる、羊男と会話する、など)へ変貌するのを見ることだ。
言い換えるならそれは、登場人物が存在論的に盤石な立場から完全な異世界へと投げ込まれ、
たどたどしくも二つの世界の間をとりもつことを余儀なくされる瞬間だ。
村上作品の登場人物はある意味でいつも、根底から異なるいくつかの世界のあいだで翻訳をしている。
言い換えれば、彼の全作品は翻訳の作業を劇に仕立てたものなのだ。
村上の車の後部座席に戻ろう。
多くの企業の本社や、巨大な船のかたちをしたラブホテルを通り越していく。
およそ1時間後、風景は急峻な山道になり、私たちは村上の家に到着した。
木の生い茂る丘の上、山と海の間にある、こぎれいだが平凡な外観の二階建てだ。
靴をスリッパに履き替え、村上に連れられて彼のオフィスへと入る。
自らデザインした小部屋であり、『1Q84』のほとんどはここで書かれた。
同時にそこは彼の膨大なレコードコレクションの住処でもある。
(10000枚くらいだろうが、怖くて実際に数えてはいない、と彼は言う)
オフィスの幅広い壁二つは、床から天井までアルバムで覆いつくされている。
山々に向けて突き出している窓の下、部屋の端には巨大なステレオスピーカーが君臨している。
室内のもう一つの棚には村上の人生と作品にまつわる思い出の品々がある。
彼が『海辺のカフカ』で殺人者として想像したジョニー・ウォーカーを描いたマグカップ。
はじめてマラソンを完走したときの、くたくたの彼を写した写真(1991年ニューヨーク市にて、3時間31分27秒)。
壁にはレイモンド・カーヴァーの写真、グレン・グードのポスター、ジャズの巨匠の肖像がいくつか。
村上がもっとも好きなミュージシャン、テノールサキソフォンのスタン・ゲッツの写真もある。
私はレコードをかけてもらえないかと頼んでみた。
『1Q84』の始まりを告げ、その物語のなかで繰り返し鳴り響く曲である。
それは速く、アップビートで、劇的──まるで普通の曲が5つ、ペンキの缶のなかで決闘しているかのようだ。
同時にそれは熱狂し、ねちねちとした、暴力的な『1Q84』の冒険の主題曲として、もっともふさわしい。
村上はその奇妙さを買って「シンフォニエッタ」を選んだという。
「オーケストラの後ろにトランペットが15人いた。変だった。すごく変だった……その奇妙さがこの本によく合う。この物語にこれ以上よく合う音楽は思いつかない」
彼は何度も何度もその曲を聴いて、そして開幕のシーンを書いたという。
「シンフォニエッタを選んだのはまったく人気がない音楽だったからだった。でも本を出版してから、日本では人気が出た。小澤征爾さんに感謝されたよ。彼のレコードがよく売れたからね」
「シンフォニエッタ」が終わると、私は最初に買ったレコードは何か覚えているかと尋ねてみた。
彼は立ち上がり、棚をごそごそと探して、一枚のレコードを手渡してくれた。
「The Many Sides of Gene Pitney」。
カバーを飾るのは、華やかな姿の Pitney。60年代前半のアメリカのクルーナー歌手である。はまだらのアスコットタイに艶のある赤いジャケットを着て、髪型は崩れ落ちる波を凍らせたようにみえる。
村上は13歳の時、このレコードを神戸で買ったという(当初のものは擦り切れたため、何十年か前に買い直している)。
針を下ろすと、流れ出す Pitney の最初のヒット曲「Town Without Pity」。
劇的な、ホルンの即興とともに Piteny の歌声が黙示録的な叫びを歌う。
「若者にはつらいことがある、たくさんある/分かってくれる人がほしい/助けてくれよ/土と石でできたこの星が壊れるまえに」
終わると村上は針を上げ、「バカな歌だ」と言った。
『1Q84』を書いているあいだ、『1984年』を読み直したかと尋ねてみた。
彼は読み直したといい、それは退屈だったという。
(これが悪い評価だとは限らない。野球のどこが好きかと尋ねた際、彼は「退屈だから」と答えた。)
「始まりはいつも暗く、雨で、人々が不幸せそうにしている。コルマック・マッカーシーの『The Road』は好きだし、よく書けているけれど、でも退屈だ。暗いし、人間が人間を食べるし……ジョージ・オーウェルの『1984年』は近未来小説だけど、この本は近過去小説だ」
『1Q84』について「我々は同じ年を反対側から見ている。近過去なら退屈じゃない」
「オーウェルと僕はシステムについて同じ感じを受けていると思う」と村上は言う。
「ジョージ・オーウェルは半分ジャーナリストで半分小説家だ。僕は100パーセント小説家だ……メッセージを書くことはない。よい物語を書きたい。自分は政治好きな人間だと思うけれど、政治的メッセージを誰かに向けることはない。」
とはいえ村上はここ数年、彼にしては珍しく、政治的メッセージを大々的に言明している。
2009年、批判のなか彼はイスラエルでエルサレム賞を受賞しに行き、そこでイスラエルとパレスチナについて語った。
この夏、彼はバルセロナでの受賞式典の機会を利用して日本の原子力行政を批判した。
一度目はまったくの被害者としてだったが。
バルセロナの演説について尋ねると、彼はパーセンテージを少し修正した。
「市民として言いたいことはあるし、求められればはっきりと言う。あのときまで原発について明確に反対する人はいなかった。だから自分がやるべきだと思った。自分にはその責任がある」
演説に対する日本の反応は概ね好意的だったという。
人々は津波の恐怖が改革への媒介となってくれることを、彼と同じように、期待していたのだ、と。
「これは日本にとって転機になると、日本人のほとんどが考えていると思う」
「悪夢だけれど、変化のチャンスでもある。1945年以来、僕たちは豊かになるために働いてきた。けれどそれはもう続かない。価値観を変えなければならない。どうやって幸せになるかを考えなければならない。お金でもなく、効率でもなく、それは人格と目的だ。いま言いたいことは1968年から僕がずっと言っていることなんだけれども、システムを変えなければならないということ。今は、僕たちがまた理想主義者になるべきときなんだと思っている」
その理想主義はどんなものか、アメリカ合衆国をモデルケースとして見ているのか、と尋ねた。
「いま、僕たちにはモデルケースがない。モデルケースを作り上げなければならないんだ」
地下鉄サリン事件、阪神大震災、そして今回の津波……現代日本の数々の災害は、驚くほどにまで村上的だ。
地下での暴力的な衝動、深く隠されたトラウマが大量破壊を引き起こすものとして現れ、地上の日常を襲う。
彼は深さのメタファーを多用することで知られる。
登場人物たちはカラの井戸に降りていき、東京の地下トンネルに生きる闇の生き物に出会う。
(彼は別のインタビューで、井戸のイメージをあまりに何度も使って恥ずかしくなったため、8作目以降、できるだけ使わないように心がけたと話している)。
毎日机に向かい、集中力に満たされたトランス状態の中で、村上は村上的キャラクターになる。
それは、自らの無意識の洞窟たる創造性を探検し、見つけたものを忠実に報告する、普通の人物である。
「僕は東京に住んでいる。ニューヨークやロサンジェルスやロンドンやパリのように文明的といっていい世界だ。
魔法じみた状況、魔法じみた物事に出会いたければ、自分の中に深く潜るしかない。だから僕はそうしている。
魔法的リアリズムとも呼ばれるけれども、自分の魂の深みのなかでは、それは単なるリアリズムだ。魔法ではなく。
書くときには、非常に自然で、論理的で、リアリスティックで、合理的に感じる。」
執筆しないとき、自分はどこまでも普通の人だと村上は強調する。
彼の創造性は「ブラックボックス」であり、意識的にアクセスすることはできないという。
彼はシャイであり、メディアにあまり登場したがらない。道端で読者から握手を求められた時にはいつも驚く。
人が話すのを聞くほうが好みだと彼は言う。
実際に、Studs Terkel の日本版のようなものとして彼は知られている。
1995年サリンガス事件があったとき、村上は被害者65人と被疑者らを1年かけてインタビューし、
その結果を分厚い2冊組の本として出版した。
のちにそれは『Underground』として、大幅な簡略化をしたうえで英語に翻訳された。
この会話が終わったとき、村上はランニングに誘ってくれた。(「僕が書くことについて知っていることのほとんどは、毎日のランニングを通して学んだ」と彼は書いている)
身軽で、安定していて、実践的だ。
たがいの走り幅がつかめて1、2分たつと、村上は自分が単に「丘」と呼ぶところに行ってみないかと尋ねてきた。
それは試合の申し込みか警告のように聞こえた。
そんな言い方をした理由はすぐに分かった。
というのもまもなく「丘」を登り始めることになったからだ。
もはや走るというよりは、急な坂にさしかかって足をとられているというほうが近く、
地面が傾いたランニングマシーンのように感じられた。
道の終わりに向けて一足踏み込むと同時に私は村上に向けて「大きい丘でしたね」と言った。
そこで彼は指をさして、先にジグザグ道が続いており、私たちはまだほんのひと曲がり目を終えたにすぎないということを教えてくれた。しばらくして、二人の息が切れ切れになってくると、このジグザグ道には終わりがないのではないかと心配になってきた。
上へ、上へ、上へ。
しかし、やっとのことで、私たちは頂上に着いた。
海ははるか下に見えた。
それは秘められた巨大な水世界、日本とアメリカのあいだの、人が住まない世界だ。
その日見たかぎり、水面は静かだった。
そして私たちは下りを走り始めた。村上は村を通る道に誘ってくれた。
大通りのサーフショップ、漁師の家がならぶ界隈を通り過ぎた(彼はそのあたりの庭に古くからの「漁師神社」があるのを指差して教えてくれた)。
空気は湿っていて塩のにおいがした。
私たちは並んで浜まで走った。
村上がかつて名もない翻訳者だったころセントラルパークでジョギングをともにしたジョン・アーヴィングについて話をした。
セミについても話をした。
何年も土のなかで生き、地表にぽっと出て、わめき、最後の数ヶ月を木の上で過ごすのは、どんなに変だろうかと。
走り終えて家にもどると、私は村上の来客用バスルームで着替えた。階下で彼を待つ間、食堂のエアコンの風を受けて立ち、大きな窓からハーブと低い木のある小さな裏庭を見ていた。
最初それは鳥 – おそらくはその飛び方からして変な毛をしたハチドリのようにみえた。
が、すぐに2羽の鳥がくっついているようにみえだした。
飛ぶというよりはふらついているといった感じで、体の一部がそこかしこから垂れ下がっているようだった。
最終的に、それは大きな黒い蝶だと私は結論づけた。
見たことがないほど変な蝶だった。
浮かびながら、異星の魚のようにひらひらしつづけるその姿に幻惑させられ、
私はそれを既知の何かに分類したくなりかけたが、成功することはなかった。
それはひらひらと、およそ村上と私が走った道を引き返す形で、山から海に向けて飛び去った。
蝶が去ってまもなく、村上は階段を降りてきて、食堂のテーブルに静かに腰を下ろした。
見たこともない奇妙な蝶に遭遇したことを伝えると、彼は自分のボトルから水を飲み、私を見上げて言った。
「日本には色々な蝶がいる。蝶に会うのは変なことじゃない」
インターネットの発達で、紙の本や雑誌は滅びる――そういわれてから何年たつだろう。そしてそろそろ事態が動きはじめたかと思われる節がある。まずグーグルが世界的にすさまじい量の書籍の電子化に乗り出した。コンテンツはこれでかなりの蓄積ができた。またリーダー機器の面では、日本では未発売だがアマゾン・コムがキンドルという電子ブックリーダーを発表し、一定の成功を収めている。流通も、アマゾンの電子ブック販売や、アップルのiTunesストアなどが手法をほぼ確立しつつある。
だがその過程で、電子メディア特有の問題も次第にあらわになりつつあるようだ。それを示す事件が最近立て続けに起きている。
アマゾン・コムのキンドル用に、オーウェル『1984年』『動物農場』の電子ブックを買った人は、6月に驚愕した。版元に問題があったから、としてこれらの本が手元のキンドルから勝手に消し去られていたのだった。いったん買った本や雑誌やソフトが、自分の本棚やパソコンから勝手に消し去られるなんて、これまでは物理的にもありえない!
アマゾンは、この対応について平身低頭し、二度とやらないと宣言した。が、そもそもそんなことができるということ自体に多くの人が戦慄した。そしてその舞台がまさにそうした情報統制社会の恐怖を描いた『1984年』だったとは、なんたる運命の皮肉か。
一方アップルは、オンラインのiTunesストアで販売されるiPhone/iPod用のソフトの健全性に、たいへん神経を使っている。わいせつ語が入っているソフトは、軒並みアダルト指定を受ける。先日、なんと普通の英語辞書がこれを理由に改変を要求され、ストアへの出店を拒否された。アップルは対応のまずさを認めたものの、方針にはいまのところ変化はない。
わが国では動画投稿サイト、ニコニコ動画が同様の問題を示した。酒井ノリピーの昨今の騒動を受けて、彼女の替え歌を歌唱ソフト『初音ミク』に歌わせた動画が投稿された。ところがなんとその歌唱ソフトのメーカーであるクリプトン・フューチャー・メディアが、そんなことに使われたら自社ソフトのイメージダウンだ、と称して削除を要求したのだ。
当然ながら彼らはそのコンテンツについて何の権利ももっていない。が、信じられないことに、ニコニコ動画を運営しているニワンゴは、この無根拠な抗議にあっさり応じて、問題の動画を削除してしまった!
ニワンゴの経営陣でもある西村博之がこの対応に疑問を述べ、その後同社は、問題の動画を復活させた――投稿者に対する自主検閲を促すコメントつきで。
ネットは著作権無視の違法コピーが横行する面ばかり取りざたされることが多い。でもじつはデジタルコンテンツの真の問題は、コントロールができすぎてしまうことなのだ。今回取り上げたケースが如実に示しているように。
これはネット法学の第1人者ローレンス・レッシグの10年前からの主張だが、それが急激に現実味を持ち始めている。紙媒体では物理的にできなかったことが、デジタル媒体では平気でできてしまう。そのとき、いま当然と思われている権利や自由があっさり破壊されかねないのだ。
いま多くの日本のコンテンツ運営業者は、抗議があればそれが正当なものだろうと不当なものだろうと、人に不快感を与えてはいけません、といった低級なお題目の下に問題のコンテンツをとりあえず消して、ほとぼりが冷めるのを待つ、というのがありがちな対応だ。ニワンゴの対応はその好例だろう。ブログの罵倒合戦くらいならそれでもいい。
だがデジタルメディアが紙媒体を置き換えるなら、紙媒体で建前にしても重視されている規範をどう維持するのかも考えるべきだ。目先の個人的な快・不快なんかより重要なことが世の中にはあるんだから。デジタルコンテンツも、それを考えざるをえなくなりつつあるのではないか。そしてそれを私企業の倫理だけに任せられないとしたら、どんな規制がありうるだろうか?
じつは今年、そのヒントになりそうな出来事がもう1つあった。脳科学者の肩書で各種メディアに頻出している茂木健一郎が、ネット上のボランティア執筆による百科事典ウィキペディアでの自分に関する記述に文句をつけ、それをかなり我田引水なかたちで大幅に書き直した。それに対して項目執筆者たちはひるむことなく、ウィキペディアの執筆ルールに基づいて茂木の苦情に形式的には対応しつつ、ほぼ従前の記述を復活させて、誠実な対応とメディアとしての中立性を見事に両立させたのだ。
こうしたネット上の自主的な倫理や規範も多少の可能性があるのでは? むろん、それがどこまで公的な権利保護の規制を補完代替できるかとなると、まだまだ考える必要はあるのだが。