http://cruel.org/wsb/burroughs.pdf
カットアップで記録を破壊し書き換えることで、現実を本当に変えられる(そしてそうすべきである)と主張していたバロウズには、具体的に変えたい記憶(現実)があった。でも、そういう記憶は、カットアップしても、破壊されなかった。破壊されるどころか、各断片がもとの記憶の全体を呼び起こすポインタ/ハッシュ値になってしまった。カットアップすればするほど、それはますますその記憶のかけらをいたるところにまき散らすだけだったということだ。
(中略)
記憶を自分の都合のいいように改竄してしまう人には、ぼくたちみんな出会っている。中には自分のまちがいを認めるのがいやで、ウソをついている人もいるけれど、本当に自分の記憶を改竄して、なかったことをあったことにしてしまっている人はたくさんいる。一方で、スターリンや中国共産党みたいに、オーウェル式に記録をすべて書き換えることで、たとえばトロツキーをいなかったことにしてしまったりする例もたくさんある。
でも、この両者は同じものではない。スターリンが公式記録を書き換えたようには、自分の記憶は書き換えられない。そしてこの両者は、なかなか両立しない。書き換えようとするその行為自体が、記憶の中で実際にあったできごとを一層はっきりさせてしまうからだ。つまり、変更前と変更後をちゃんと理解していないと、十分な書き換えはできなくて、その変更前の状態を知っている限り、自分の記憶は残ってしまう。自分の記憶を書き換えるには、ゆっくりと、すこしずつ、自分で気がつかないうちにやらなきゃいけない。記録があるという記憶まで抹殺しなくてはならない。意識的にカットアップなんかをして、記憶を書き換えようとしているうちは、絶対に自分の記憶は――そして自分にとっての現実は――なくならないのだ。
この文章を読んだ時、俺ははっとした。そうなんだ俺も同じことをやっていて、だから俺はバロウズの小説にハマっていたのだということに気が付いた…いや気が付かされた。
俺は地元の三流大学を卒業後、とあるゲームスクールに入学した。大学も好きで入った訳でもないし、自分が好きなことを学びたかった。あとは社会に出るのがたまらなく怖かった。
で、俺はゲーム業界に入ったのか。いや挫折(笑い)したよ。大学でも言語は学んだし、成績は「優」だった。でも全然通用しなかった。あの三流大学でのプログラミング授業なんかママゴトに等しい、そう感じた。それよりもなによりも俺はアルゴリズムの立て方が下手だった。それでも前期はなんとかやり過ごせた。しかし一年の後期での皆の自主制作を観た瞬間、もうダメだと。学校とはいえ「公の場」のディスプレイに「萌えアニメ」画を「壁紙」にする、端末周辺に人形を置く。そんな連中に負けた自分がそこ(学校)に居るという現実に耐えれなかった。
それでもまだ自分には可能性があるのでは?と考えた末、一旦ブランクを入れて考え直そうと思い、当時通っていた精神病院に書いてもらって休学することにした。休学中は最悪だった。うん、ダメだ、この時期についてはまだ自分で文章化するほどに整理がついていないようなので止めよう。
で学校辞めて、いくらかのブラブラ無職生活を経て就職活動。開発でなければどうにかなんだろ、という甘甘すぎる考えでIT業界に書類を出しまくるが当然の如く落ちまくった。でも幾つか引っかかってなんとか社会に潜り込むことが出来た。
でさ、面接で当然「空白期間の4年どうしていましたか?」訊かれる訳だ。それに対して俺は「大学卒業後、スーパーで社員になるつもりで(4年間)働いていました」と。これは以外にも成功した。大学在学中と休学中にスーパーでバイトしてたから色々突っ込まれても対応できたし。俺はどうしてもあの空間に自分が居たという事実を認めたくなかったんだ。これは面接に限ったことじゃなくても改ざんする。経歴を語る場面において全て無かったことにする。俺は脳からあの記憶から消したかった。
でここで最初の引用文だ。俺が経歴を語る場面に置いて、改ざんした経歴を語れば語るほど、あの学校に居た記憶が呼び出される。対外的にはできるけど、自分の頭は騙せない。語れば語るほど屈辱に満ちた時間が蘇る。俺はバロウズの小説の「カットアップで現実を変える」に希望を感じながら、引用文のような事実に無意識で共感していたからこそ、(バロウズの小説に)惹かれていったのだと今更ながらに思った。
でも、俺は改ざんすることを止めない。馬鹿としか思えないが、バロウズの「カットアップで現実を変える」という銘を信じて、俺は脳から消して見せる。それを宣言したい、そして整理したいために匿名ダイアリーに書いた。
以上、駄文終了。