はてなキーワード: 玉石混交とは
Xの規約変更だとか、ウォーターマークとか、いろいろ目に入ってくるが結局の発端は「生成AI」だろう。
なのでここから先、どれだけ読んでもらっても「生成AIを滅ぼす方法」を求めている方のご期待には添えない。
これはあくまでも、絵師界隈で生計を立てていきたいが、生成AIが存在するこれから先の未来に不安を抱いている絵師に向けたものであり。
小説家界隈に住む私が、実際にイラストを勉強する過程で感じた二つの界隈の違いを言語化し、それを元に考察した一つの提言を届けたい。そういう趣旨のものだ。
これから先、イラストで食べていくことに不安があるのなら「オリジナルキャラクターを作れ」。
ただ単にオリジナルのイラストを量産せよ、という意味ではない。
あなたの頭の中にある「キャラクター」を絵という形で出力し、世間に認知させ、あなたではない第三者がそのキャラクターのイラストを描くようになることを目指す。という意味だ。
乱暴な言い方をするなら「絵を描かされる側から、絵を描かせる側にシフトすることを意識しろ」といった感じだろうか。
Vtuberのママ(キャラクターデザイン)を想像してみてほしい。
だいたいあんな感じの立ち位置が、私の想像力の範囲で今後も生き残っていける絵師の一つの形だと思っている。
なぜ、絵師はオリジナルキャラを作るべきなのか。その理屈を語る前に確認したい。
絵師界隈の方々は「同じクリエイターなのに、どうして小説家界隈はあんなにも生成AIに対する反応が薄いんだ?」と思ったことはないだろうか?
むしろ小説生成AIの方が、イラスト生成AIより先に世に出ているはずだ。
だが、実態として小説生成AIに対し、敵意や危機感を抱いている小説家は少数派だろう。
ではなぜ、小説家界隈が生成AIに対して他人事のようなスタンスになりがちなのか。
(以後、市場や、顧客、マネタイズシステム全てを包含した『社会』という主語を用いて記述する。)
そして、私が見るに絵師も小説家も、大多数がこの両界隈の違いに気づいていない。
その違いは
『社会』は小説家には「作品」を求め、絵師に対して「技術」を求めている。
この一点に尽きる。
誤解を恐れずに言えば、『社会』は絵師に対してほとんどの場合「作品」を求めていない。
絵師界隈のトップレベルの方々は、おそらくこの違いを認識しているように見受けられるが、逆にトップクラス以外の領域では認識していない人の方が多数派。というのが私の所感だ。
(一方で小説家界隈はトップクラス層もこの違いを認識していない人の方が多数派だと思っている。というか、クリエイターは全業界で「作品」重視で活動していると認識してそうな気がする。)
この違いがどういうことか、わかりやすい事例をあげよう。
例えば、ある無名の絵師がイラストコンクールで最優秀に輝いたとしよう。
その絵師は名声と得て、イラストの依頼が殺到するかもしれないし、あるいは協賛企業から何かしらの商業イラストを描く契約を結ぶかもしれない。
だが、肝心の『最優秀賞に輝いた絵』そのものがマネタイズの中心にはならないと思う。
あってせいぜい、短期的な限定グッズのデザインになる程度のはず。
おそらく絵師側も最初から「その絵」で稼ごうとは思っていないはずだ。
だが、小説界隈は違う。
企業も、小説家本人も、基本的には「その小説」で稼ごうとする。
2003年にスニーカー大賞に選ばれた『涼宮ハルヒの憂鬱』は、2024年現在も市場に流通し続けているのが代表的な事例だ。
受賞した作品を脇に置いて、その出版社の編集が提案した全く別の小説を書かせる。というのは無いとは言わないが、そういう流れになると小説家側からはあまりいい印象は持たれないだろう。
つまり、同じ賞レースでも絵師界隈は「技術を持った人」を探し、小説界隈では「作品」を探している。というのがなんとなく伝わったはずだ。
「金を出すから自分の代わりに理想の絵を描いてくれ」が絵師と『社会』の関係の主流で
「印刷、流通を代わりにするから、その売り上げの一部をわけてくれ」が小説家と『社会』の関係の主流なのだ。)
つまり、『社会』が絵師に求めているのは代筆能力という「技術」であり、「作品」は依頼者の頭の中にある物を指すのだ。
さて、ここまでで絵は「技術」が求められ、小説は「作品」が求められている、というのは理解してもらえたと思う。
ここで一旦、生成AIの話に戻そう。
『現行の(少なくとも日本国の)著作権法は「作品」を保護してくれているから』に他ならない。
また一つ具体的な事例を挙げよう。
かつて、「ハリーポッター」シリーズを学習したAIにオリジナルの「ハリーポッター」シリーズの新作を書かせる。という試みが海外で行われたことがある。悪意ある第三者がこれと同じことをしたとしよう。
もしその第三者が「ハリーポッターシリーズの新作」と銘打ってソレを売り出せば、著作権法は容赦なくこの第三者を断罪する。
では、それを避けるためにキャラクターの名前をオリジナルに変え、タイトルもオリジナルのものに変えて販売したならどうか。
ソレは「よく似た別の作品」の一つになり下がるだけだ。
書いたのがAIであろうと、人間であろうと重要視されるのは「作品」だから、そこの模倣がされない限りは脅威になりえない。というのが小説界隈の人が意識的にしろ、無意識的にしろ生成AIに対して抱いている感情だろう。
むしろ、広く開かれて文化の発展に寄与するべき。というのが基本スタンスだ。
「技術」をお金にしている絵師界隈からすればたまったものではないだろうが、これが実情だ。
「技術」の保護に舵を切るなら、それは著作権法ではなく特許法の領分になるが、特許の理念は「知財でビジネスを支援すること」なので、おそらく企業と繋がりのないアマチュア絵師は生成AIユーザー以上に苦しむことになると思う。
これまでの話を統括すると
・現代の絵師は「技術」を求められ、肝心の「作品」は依頼者の頭の中にある。
・現行の著作権法はその「技術」を保護していないし、「技術」の保護はアマチュアに優しくない。
これから先、代筆家として誰かのために絵を描くという「技術」を売る領域は生成AIに食い荒らされるだろう。
そんな未来でも絵師として生き残りたいのなら、依頼者の頭の中にある「作品」ではなく、あなたの頭の中にある「作品」を生み出すことを考えるのが良いのではないか。
という話だ。
企業依頼でPRキャラを描くという現行の関係性から、企業が「自社製品をあなたのオリキャラに使わせてください」みたいな関係になるのが、そこそこいい感じの未来予想図だと思わないだろうか?
仮に企業がお金をケチって生成AIでそのオリキャラを勝手に使えば、容赦なく著作権法で断罪できる関係性になる。
(他に思いつくのは、大昔のゴッホだ、フェルメールだの時代のように一枚一枚の絵そのものを「作品」として『社会』に売りつけて生計を立てる道。あるいは自分自身を「作品」にしてパトロンから庇護を受けて好きに絵を描く道、あたりか。現代で言えば、前者は同人誌即売会でイラスト集を売っている人たちで、後者はお絵描き系配信者としてファンの投げ銭で生計を立てつつ、絵を描いている人達だろうか。)
逆に、このことに気づかず、「技術」を守ることに執心し続けると、どこかでとんでもないことになるのではないか。私はそう思っている。
絵師界隈で育った人達は気づいていないかもしれないが、小説家界隈で育った私から見て、あなた達が確立している「技術の体系化と共有」の文化は素晴らしいものなのだ。
YouTubeでは多くの絵師がプロアマ問わず、自らの技法を公開しているし、有償の場になれば更に本格的かつ専門的な技術を共有しあっている。
おそらく『社会』が絵師に「技術」を求めていたからこそ、惜しげもなく場と資産を提供していたことで出来あがった土壌だろう。
無数の技術が公開されているから、その中で自分好みのものを取捨選択し、組み合わせることで理想の個性を形成できる。
私のような「最初から絵のプロになる気が無い人間」にも成長の手順が提示されているのは、非情にありがたかった。
ここからは、若干小説界隈のネガティブな内容に触れるのだが、ご了承いただきたい。
(しかも生産性がない話なので、絵師界隈の方はここから先を無理に読む必要はない。
ただ、この先の話を読んでくれた絵師から、こういう界隈の中で私はどうやっていくと良いか、そういう意見を貰えたら嬉しい。)
例えば炎の熱さを表現するにあたり、絵ならば「暖色の与える印象の理論」だとか「ぼかしによる蜃気楼の技術」といったものがあり、ある程度体系化、共有された技術があるはずだ。
だが、小説家界隈ではそういった表現技術を「作家の個性」として、共有せずに個人のものへと抱え込む道に発展してきた。発展してしまった。
我々は百の作家がいれば、百人が別々の言葉で炎を描写し、実際にどれが最も読者に熱さを感じさせられる表現だったのかを検証しなかったのだ。
我々小説家は今日も、読者が本当に熱を感じてくれるのかわからずに炎を描いているし、可愛さがちゃんと伝わっているかわからずに美少女を描いている。
「技術」を体系化しなかった、というのはつまりこういうことだ。
では「技術」を語らない小説家界隈が新人達に何を語っているのか。
それは「作品の作り方」だ。
現在、小説家界隈で新人達に向けて語られているのはおおよそ上記の要素であり、それらをまとめると「作品の作り方」となると思う。
これもまた絵に例えるなら
「ラフ、下書き、清書の順番で書くと良い」とか、「線画と塗りは別レイヤーに分けたほうが良い」とか、そういうレベルの内容だと思ってくれていい。
それを十数年以上、場所を変え人を変えこんこんと語り続けている。
SNSで無数の新人作家たちに向けて情報発信をしている高名な小説家達も
「自分達が教えられるのはいわば『就活の履歴書の正しい書き方』だけだ。その内容は個々人で書くしかない」
みたいなことを常々言っている。
(で、まあ「特定の効果を与える技術」ではなく「作品を作品たらしめる作法」という名目なもんだから「not for me」の概念が適応されにくく、「正しい」「間違い」で定期的に燃えている。)
つまり、小説家界隈は「作品を完成させる」ことを教えることが主流であり、その質を技術によって高めることには非常に無頓着なのだ。
私の推測だが、これは絵とは逆方向の『社会』からの圧力と発展によるものだろう。
絵師には「技術」を求める以上、まぐれではダメだ。再現性がなければお金にはならない。
極論だが、出来が良ければまぐれでもお金にできる。そのまぐれの一つを拾い上げて市場に売り出せばいい。
だから『社会』はできるだけ多くの「作品」が出来上がる環境作りを自然と行ったのだろう。
「作家を作る」ことは頑張るが、「作家を育てる」ことはしない。
「プロになるつもりはないが、もっと上手くなりたい」という人間に対しても、絵師界隈の先達は「技術」を提供し、成長の道筋を照らしてくれる。
だが、小説家界隈では「プロになる気がないのなら、あなたの好きに書けばいい」の一言で終わる。
私のような無才な人間からすると、暗闇を手探りで歩くような感覚だった。
まあ、小説家界隈が無才に厳しいだけなら良いのだが、最近この界隈の「作品重視」の傾向が業界全体の問題として表面化してきているように思う。
その問題とは、端的に言うと「作品が増えすぎた」ということだ。
「小説家になろう」では毎年開かれているネット小説大賞という賞レースがある。
2013年に開かれた第一回では応募作は「1,135作品」だった。
これが五年後の第六回では応募作はほぼ10倍の「10,156作品」になった。
そして、今年の第十二回に応募された作品は「20,826作品」と、その数は恐るべきペースで増えている。
一般の新人賞公募と違って、小説投稿サイト主催の賞レースは過去に落選した作品も全て再応募する作者は少なくないからだ。なのでおそらく「作家」の増加数はこれほど極端ではないと思う。
だが、この仕組みと過去作を再応募し続ける風潮こそ、小説家界隈が「技術」を軽視していることの証左であり、問題の根源だ。
賞レースの選考員は一万以上の無数の石の中に隠れた玉を探すわけだが、さっきも言ったように、ネット小説の賞レースは過去に落選した作品も継続して応募されている。
つまり、玉と石の比率が一定ではない。拾い上げられた玉は減るが、石はそのまま翌年、また翌年と残り続ける。
そうなると、単純に選考員の負担が年々増えていくのは想像できるだろう。
ただでさえ、小説は受けての時間を奪う媒体だ。短編でも一作につき五分から十分。長編なら余裕で一作一時間を超える。
選考員を増やせば個人単位の負担は軽減されるだろう。だが、人を増やせば今度は運営の出資が増える。
必ずどこかしらが負担を負うことになる。
そして多分だが、小説家界隈……というかネット小説業界は、このリソースの限界をとうの昔に迎えてしまっている。
だが、玉探しに必要な労力は年々増え続けている。
ならば、別の所で手を抜いて調整するしかない。
連載継続するかどうか早めに決めよう。
といったふうに。
ざっくり言うと「プロ作家のサポートにかかる労力を削る道」も考えられる一つだ。
私の未来予測では、今後も出版社側の玉探しの労力は増加し続け、それと負の相関に基づいて出版社からプロ作家へのサポートの質は低下し続けるだろう。
作家が出版社を信頼しなくなれば、出版社は心置きなく作家を使い捨てられるようになる。
これを 『才能の狩猟社会』みたいなことを誰かが言っていた。希望の無い話だ。
「技術」を『個々人の個性』として体系化せず、共有しなかった小説家界隈。
「作品」を完成させることだけを重視し、質より量を推し進めた小説家界隈。
これはその一部で実現しつつある最悪の未来予想だ。
わかるわ。
はてなの連中は結婚相談所=例のオタクの人ぐらいしか知識がない。なんか的確なアドバイスをして、きちんとマッチングしてくれると思ってる。
確かにそういうところもあるし、すげースパルタなとこもあるし、基本放置なとこもある。そしてほとんどの結婚相談所は基本放置だよ。
非モテが結婚相談所に行って何が起きるか?自分で申し込みして数人と会って、当然のように何も起きず、俺には向いてなかったなといって退会する。これだけ。
結婚相談所に行けなんてアドバイスは何のアドバイスにもなってない。結婚相談所は玉石混交だからだ。そして大半が石だ。何も知らないのに勧めてもおそらく金と時間をドブに捨てるだけだ。
俺みたいになるな。
マッチングアプリやってると男性からのいいねが来るんだけどさ、時々ふざけてんのかこいつってレベルのアホとエンカウントするんだよね
清潔感のかけらもない。見るだけで不快なので迷惑料を支払ってほしいくらい。
人気の同性会員のプロフィール見れるだろ!お前が勝負するのはそいつらやぞ!
ていうか他撮りされない位交友関係がないのかなって思われるからマイナス。
課金してんだろ?本気になれよ。じゃなきゃ即刻辞めろ時間と金の無駄すぎる。
プロフ見ると「顔に自信がないので」とか書いたりアピールしたりしてる。知らんて。ジャッジはこっちでするからとりあえず見せてみろ。
というか顔で切られるレベルのやつはリアルに会えるパーティーとかIKEA。どうせ課金してんだろ?もったいないて。
しゃらくせえ。女々しい。失せろ。
雰囲気で押し切ろうとしてらっしゃる小賢しいところが鼻につきますわ。
よく見せろやそのボケた顔をよ。
その需要はニッチすぎるからまず痩せろ。肉に首を埋まらせるんじゃねえ。
せっかく他撮り写真があっても好感度がプラスにならん。汗臭そう。
プロフに書いてること読めば分かるだろってことを聞くなー。あと性格のマッチング考えろー。
学校だったらお前と増田は声も交わしてないような領域だろうがー。いいねの無駄やでそれ。
もう本当に…いや男性から見たクソ女会員もいるんだろうけどさ、男性会員にクソ多いわ。
玉石混交って言うけど玉と石の差がエグいわ。ついでにいうと玉の方は胡散臭え。ほんまに本人の写真かアンタ?
同じ話題で初対面のやりとり押し切ろうとしてるの笑えますわ↷ぁ
いいねしすぎて誰が誰やか分からんくなってるやないかー!キャパの概念を覚えようね♡
誰彼構わず興味を持ったらすぐいいねしちゃうガバガバフィルターの末路♡見極め雑魚♡
追記②
とりあえずペアーズではできたよ😡
プロフィール編集画面に「他の男性会員のプロフィールを見る」ってボタンがあるがな!最大手ナメんな!
見れなかったらそれはお使いのアプリのせいです。
100作もあるから読むの大変にみえるけど、一作が3000から4000文字程度の第一話だけなんで案外読める。
お勧めは第三会場。
ジャンルが混在しているのと玉石混交なので、あらすじで読む読まない決めると良いかも。
https://ncode.syosetu.com/s2961i/
タイトルとあらすじだけならここに
酔っ払ったので色々吐き出そうと思う!
10年近く勤めた某SIerを辞めて、1年くらい一応無事に過ごしている。
これくらい同人界隈にいると同人誌やイベント、サークル文化の変遷やら事件やら、まあ色々なものを見て来ている。
歴が長くなると昔と今を比べたがる人も多くなる。
「最近の同人誌は無味乾燥なものが多い、あとがきすら無い」というご意見を見た。
「これこれこういう構成でこういうものを載せたら同人誌になる」
というセオリーがある程度出来上がっているし、非常に作る敷居は低くなっていると思われる。
(ここでこの作り方についての昔話をすると長くなるのでまた別の機会に)
昔の同人誌は作り方や指南書が少なく、(マニアックな雑誌の特集ではあったとは思う)参考が既に同人活動している先輩からの伝え聞き・先方の同人誌のみという時代も確かにあった。
自由度はあったと思う。凄かった。
「凄かった」というのは昔は悪い意味でも凄い本が多かったのだ。
自分が見た例をいくつか紹介する。
・「表紙は完成しているのに中身(本文)が未完成」
今同人誌を買っている人でこれを見た人は殆どいないし、今こういう本ほぼ見ないと思われる。良い時代になった。
昔は「イベントに合わせて本を出す」事に意義があったのと表紙で判断して購入する(しかない)環境であった為、表紙だけ綺麗に仕上げて中身は下書き状態(ハンターハンターの下書き掲載…と言えばわかる方も多いだろうか)で発行している本もあった。
・「表紙と中身(本文)が別ジャンル」
マジであった。
流石に丸々別ジャンルという本は少なかった(あったんだよ…)が〇ジャンルの表紙で〇の話の後に急に「今ハマっている×ジャンルの漫画・トーク」が挟まっているとかは割とあった。
・「書き手の近況や同ジャンル者同士の対談や語りのPが何Pもある」
極めるとこれだけで本を出しているサークルもあった。
今より作者のアイドル性が高かったように思う。トークが面白いと「サークル●●のトーク」だけで価値があるのだ。
因みにこのトーク内容はジャンルに関するもの…では無く作者の近況だったりする方が多かった。
Twitter(X)でこの文化はほぼ絶滅したと思う。良い時代になった。
・「本文内にサークル紹介・次回イベント参加情報・既刊宣伝がある」
これで5~6P、いや下手すると10p以上は使っているサークルもあった。
NAVIOやPixivはTwitter(X)は無い、個人サイトさえ無い時代なのである意味当然なのだが、自分のサークルの活動状況を知らせる媒体が限られており、発行物に含ませるしかなかった背景もある。
実際にサークル紹介Pは作っておけるので、コピーのコピー(データでは無く実物のコピー)を延々してそのPだけ画質が悪くなっているのもまあまあ見た。
「新刊は●●Pと書いているが、このサークルは宣伝Pが大体6Pぐらいあるから、実際の漫画・小説は〇〇Pか…」という悲しい推察をしながら買った経験をしている人は自分だけでは無いと信じたい。
当時はまだ問題性が周知されておらず黙認されていたが今やるとアウトの事例。
「他漫画のトレース」というのは例を挙げると「ジョジョの漫画の絵やコマ割をそのままトレースして髪型や服装だけジャンルキャラクターに変換させてジョジョの名場面をジャンルキャラに喋らせる」というものだ。
ファンロードという雑誌の「今月の見たいものand見せましょう」というパロディ企画で用いられたり、朝目新聞でこのようなパロディはファンアートとして有り、広く用いられている為、
これもだいぶ議論の余地はあるが、上記の例に沿うと「ジョジョの漫画の絵柄のみを似せて描き、ジャンルパロディとして自分の考えたストーリーを描く」なら現在でもまあまあ見かけるし、問題にまではなっていない。
「同人誌のタイトルに歌のタイトルを使う」迄は著作権侵害に当たらないが、歌詞や楽譜は音楽の著作物になる。
https://www.riaj.or.jp/f/leg/copyright/music/qa_internet.html
イメソンとして歌詞丸々書いたり漫画小説内で使いまくった同人誌多かったよマジで。
今は歌詞を引用するにしても、ちゃんとジャスラックに許可を取って歌詞使っている同人誌を見た。強い。
他ヘイト創作や特定キャラへの過度なネタやらまで列挙すると個人の好みの問題になるので取り上げない。
勿論挙げた中の例でも「それが好きで買っていた」人もいるだろう。
これまで宝石屋でいろんな種類の宝石がそれなりにバランスよく取り揃えられていたのを買っていたけど、
いきなり鉱脈が発見されてめちゃくちゃ大量の鉱石が供給されてきたような感じかな。
鉱脈自体が巨大なので、これまでなかった宝石なんかもいろいろあって全体的にはバリエーションが豊かになったんだけど、
一方でルビーだけ大量に固まってるところ、エメラルドだけ大量に固まってるところ、みたいなのもあるし、
そもそも鉱脈なのでまさに玉石混交、宝石屋も加工が追いつかなくて原石をそのまま売るようになったので、
沈殿し濾過される過程を経て初めて「上澄み」という表現に適切さを感じるので、単純に序列の上の方、といった、ただ「上位」の言い換えみたいな用法には違和感があります。
適切な使用例としては、たとえばコミケに参加する玉石混交のサークルの中で非常に優れたサークルを拾い上げる、みたいなケースで「上澄み」と言う、みたいなケースです。この場合はまさに「混濁した中から見極めて、上の方だけをすくいあげて」という過程が感じられるので納得ですが、客観的な数値で優劣や強弱判断がつくようなケースで上位のものを「上澄み」と言うのは(つまり「クヴァールは上澄み」みたいな言い方は)あまり適切な用法とは感じないです。
ここでは、CBDやCBN、CBGなどのカンナビジオール系製品ではなく、CBP、10-OH-HHC、THXEなどのサイコアクティブ系のカンナビノイドを購入する際に気をつける事を書きます。
厚生労働省のサイトを確認して、購入しようとしている商品が違法ではないことを確認しましょう。
違法な商品を業者が売っていることはめったにないですが、稀に商品の消し忘れなどで残っていることもあります。また、規制が発表された成分をセールなどで売っている場合があります。そのような規制ギリギリの商品をショップ側へ厚生労働省が警告したケースもあるので購入をおすすめしません。
こんなの売ってるショップどれも信用できねーよと言う意見はごもっともですが、その信用できないショップの質も玉石混交です。
・自社サイトを持っている
・CoAを表示している
このあたりが最低基準です。メルカリやペイペイフリマのような出品基準の低いサイトのものはおすすめしません。
サイコアクティブ系のカンナビノイド商品におけるCoAとは、THCが入っていない証明書のようなものです。こんなの
Δ9-THCがND(未検出)となっていることを確認しましょう。
この数字だらけの書類の見方は難しいのですが、Cliantに販売業者名が記載されているCoAはその業者が自社検査している証明なので、信頼度の高いCoAであることを覚えておくといいと思います。
みんな大好きSNSのX(旧twitter)を使ってその業者の情報を入手しましょう。商品のレビューは製品が提供されているパターンもあり当てになりませんが、ショップ自体の雰囲気はつかめるはずです。
当たり前ですが、振り込みでトラブルになったり、警察や麻取に挑発的な言動をする業者を選ばないようにしましょう。
実店舗があるかどうかはオンラインでの購入に関係ないですが、実店舗を持っている業者の方がガサ入れ率が高いと私は思っています。
以上が私がカンナビノイド商品を購入する際に気をつけていることです。個人的主観を含んでいますが、エンドユーザーは法令を遵守している限り、逮捕されることはまずありません。
コロンブスMVには確かに深刻な問題があるけど、この機に乗じて企業が人文系の専門家を雇用していればこんなことは防げたはず、って言ってる奴ら何なの?
「倫理観」(別に他の言葉でもいいがここでは仮にそう呼んでおく)みたいな複雑なものを一人の専門家がなんとかできると思ってる?
そもそも人文系って一括りに言うけどあまりに範囲が広すぎるしレベルも玉石混交だよね?
それに専門家だからといって信頼できない、市民の意見に寄り添えって言ってたのむしろ君たちだよね?
だいたいなんで人文系の専門家にまともな倫理観があるって前提なんだよ。
一人で解決するんじゃなくて調べたり他の専門家の協力を仰いだりする役割だから問題ない、とか言うかもしれないけど、そういうことが適切にできるかどうかだって結局同じことだよね?
だいたい、企業活動との両立なんて複雑な課題にコミットできるの?単なる言いっ放し、僕は忠告したよね?で済ませるつもり?
どうすんのさ。
それに教養が大事とか無教養とか好き放題に見下してくれちゃってるけど、そっちこそ差別意識てんこ盛りじゃねーか。むしろコロンブス側じゃねーか。
むしろ人文系の研究者コミュニティにこそそいつらの「倫理」をチェックする「専門家」が必要なんじゃないの?
そういうとこだぞ、そもそも信頼されないのは。
俺だって今の日本企業の倫理観は大いに問題あると思ってるよ?人文系に頑張ってほしいと思ってるよ?でもさ、現実の人文系がこんなんじゃいつまでたっても変わらないよ。
結婚しました!って職場の人なり友達なりから言われて、「アプリの人だよ!」って教えてもらったとき、皆は正直、どう感じてる?
私はああそうなんだ~ってサラッと流して、気まずくならないよう別の話をする…
30超えて周りにもどんどん多くなってきたからもうリアルじゃ言えないんだけども。あれ結構気を遣うしダルくない?
たった10年前でもネットの友達ってうさん臭く見られた時代だったよね。2000~2010年代で「ネット経由で恋人を作りました」って、親や友達には伝えることがかなり勇気要るものだったと思う。
男でヤリモクじゃなくてまともにコミュ力あるレアポケモンって一瞬で売れるじゃん。仕事頑張っちゃいましたそろそろ結婚するかって35手前の奥手な人ね。
女で30超えてマチアプで本気で結婚相手探してるって…なんかもう触れられないよ。本当になんでそうなるの?
学生や職場で見つからないことはあると思う。男女容姿関係なく、真面目な人ほどそうなるんよね。
それなら街に行きつけの居酒屋の1個でも作らない?バーでも何でもいいけど、要は人間関係できるとこだよ。
さみしいなら話し相手作ればいいじゃん。コミュ力足りないなら一足飛びにラスボス倒そうとしないでコツコツレベル上げすればいいじゃん。
ほんでカラッと彼氏ほしー!!って言ってたら結構飲み会誘われない?知り合いの知り合い~とかで、面倒なやつもあるけど玉石混交でしょ出会いなんて
独身で20~30代前半のフリーの期間ってすごい楽しいやんか。仕事頑張って、繁華街繰り出して終電気にせず飲んだりしてさ。
結婚しなきゃ!って突如焦って、最終手段がアプリって、何?人生の前半で何をしてたの?紹介してもらう友達の一人もいないの?
マチアプは割り切ってセックスする相手見つける場所、ならわかるけどさーそれで結婚相手見つけたって親に言うの?
どんだけうまくいっても、生きてきたコミュニティで番を見つけられませんでしたって、それまでじゃない?周りも「あっ、全然偏見ないよ!」って言ってるの、ほんと?
敗者復活戦みたいにギラギラしてる人たち、こわいよ…
マチアプでの出会いで行ったお店(つまり払われた金額だよね)や相手のスペックをすごい測る女ほどああだったこうだった~ってデートの話をたくさんするよね。
率直に言って、20代終わりで30が見えてきた子、腰掛けのつもりが気づけばお局…になっているアラサー以上に本当に多い。受験も就活もどこか手を抜いた人たち。
おめかししてデートで女!として扱われる時間っての気持ちよさをたくさん味わいたいってことならわかるよ。でもその瞬間ってお互いオスメスでしかない…
というか本当に、相手のスペックって何?何様なんだろう…。学歴も年収も気になるなら自分で身に着ければいいじゃん。
Twitterにたくさんいる婚活女性様たちのサクサク評価、すさまじいよね。レジュメで切る大企業の人事かって。
彼氏だと思ってた男に雑に扱われた泣 次いこ~~とか延々似たような話繰り返して嘆いている子ほど本気で仕事してない傾向にあるの何なんだろう。暇なの?なのに親指一つで結婚相手見つけようとしてんの?
煽りじゃなく、お見合いが当たり前の時代に生まれていた方が幸せだったんだろうなって女性、多すぎないか…
私が前時代的なんだろうなとは思うけど、いつからマチアプって人前でべらべら話せる、恥ずかしいものじゃなくなったの?
私は指輪とか式も簡素に済ませたよ。キラキラしたデートなんて全然なかったから自慢話も特にないふつーの結婚。芸能人でもあるまいし…
学生時代の友達からスペック()高い男と何人もデートしてる話長々聞かされて愚痴っちゃった。あと結婚式ではどう言われるかは普通に知りたい。
↓追記
途中まで面白い意見も多かったのに、羊水腐ってるとか気持ち悪いコメント多くなってきたからもうコメ返控えるね。コメくれた人たちありがとう
インスタントな評価システムがなければ、承認欲求や外面にとらわれることもない
本当に「好い!」と思った増田には熱いトラバをぶら下げればいい
「違うだろ」「俺の方が詳しい」と思った増田にも熱いトラバをぶら下げればいい
実際どっちが洗練された人間かは、文章の書きぶりややりとりから伝わってくるだろう
そもそもなぜはてブがあるとブクマ数勝負になってしまうのかというと
いいね機能と同じくWebのくせして一方通行の評価システムだからだ
その上いいねと違って必ずしもポジティブな反応を示す指標じゃないくせに双方向性もないから、注目を集めても「どう注目されているか」の判断が伝わらない
丹念に内容と反応を照らして判断していけば自分なりにそこで起きていることを解釈できるが、そもそも「本文読んでない」みたいな分断が多々混ざっていて情報価値が薄い
結果として玉石混交ならまだマシで読む価値のないゴシップ的クズ情報ばかりになるが、それを脇に置けばとにかくバズる
ここがバズを利用して商売をたくらむ情報サービス事業者にとってはミソなんだろう
実際のところは、ツッコミどころの多い、瑕疵のある極端な言い分ほどブクマを集めやすいが
そういった狂った人間ほど注目をあつめて承認欲求を満たして、ブクマ数スター数という定量的指標によって権威化されてしまう
トラバのように相互に言及可能な場なら解決するかと言うと、5chが決して健全なコミュニケーションができる場になっていないことからわかるように、それほど単純なことではないが
俺はWebで重要なのは、読み手がより妥当な理解へと着地できるように、多少荒々しくてもいいから論をぶつけ合えることだと思っている
だからベランダから投石するがごときブクマカは滅せねばならぬし、はてブはあくまで自分の興味関心をメモとともに記録する公開ブックマークとして利用するに留めるべきだと思う
井戸端冷笑会議のために使っている人は、トラバやらブログのコメ欄といった、やりあえる表に出て意見を書き込むべきだと思っている
一時期は増田が完全にはてなダイアリーの実験場だったけど、現在は玉石混交ながら主要な日記サービスになっていると思う
中身は大したことないが、より外部から来る人が多くなった昨今は一つの日記の質が上がっているとすら思える
少なくともてにをはがしっかりとしている
長く居座る人もいるが基本は流動的なので新陳代謝もそこそこある
逆にブクマはどうだろう
15年ほど前ならそこそこ便利だったはずなのに、いまはブクマでしか生きられない人でしか構成されていない
なにより、100文字程度で世の中を舐め腐った気持ち悪い文章を書くことで悦に浸るという、Xですらもはや流行らない考えに妄執しているのが時代遅れすぎる
それを望んで就活してその結果として大学で働いてると思うんだけど、生活保護受給者レベルの異常大学生の相手させられて狂っちゃう人ってなんで出てくるん?
そもそもそういった狂ってる人を救ってあげたいっていうメサイア・コンプレックスを満たすために大学で働くことを選んだんじゃないの?
そうじゃないなら、自分が大学生だった頃の経験から窓口に来る人間が玉石混交と呼ぶのも嫌気が指すほどの核廃棄物混交になってるのは分かりきってるじゃん?
クラスメート・バイト仲間・サークル・他大学の交流先、あちらこちらでキチガイムーブ自慢をしてくる大路全裸ダッシュ族と親睦を深めてきた思い出があるやろ?
そういう経験に照らし合わせれば大学で働くってことは狂気の世界に秩序を生み出そうとする仁術に他ならないことは嫌でもわかるじゃん?
なんなん?
高卒だとしても、高校の頃に学生気分を拗らせ狂いまくっていた同級生達の姿を通して、学校で働くことのヤバみを感じ取れたりしなかったんか?
別にボッチだろうがなんだろうが、むしろボッチの奴らの方がより岡目八目的に、学生という立場を盾にしてくる連中に社会秩序という概念が微塵も存在しないことはよく見えていたのでは?
狂った奴らの相手をしたかったから意外の理由があるなら、そりゃお前仕事を選ぶのが下手くそ過ぎるよ。
先日、「コンビニ、カウンター越しの卒業式」という、拙い私小説風の文章を初めて投稿した。ここは様々な文章が入り乱れると聞いていたため、誰かの目に留まるだろうかと思い、数日。自らのページを開いてみると、あたたかいコメントが数件。また、意味の分からないコメントもあった。玉石混交という雰囲気を感じさせた。
あれは私の実体験だ。鬱病を拗らせ、通信制高校にもう一年在留することになった18歳。今日もこの時間まで眠れず、独りスマホに文章を打ち込んでいる。アルバイトはコンビニエンスストアだ。これが私の住んでいる田舎にしては、意外と高時給なのだ。低賃金労働、というわけでもない。シフトも融通がきく。非常に働きやすい環境だ。
ほぼ単位は取り終わっているので、(残るは体育のみ。)家で予備校も通信学習も取らず、もくもくと勉強する一年がもうすぐはじまる。というか、今からでもやれよ、と言われてしまえばそこまでだが。
自分のペースで、とか、頑張ったね、とか。沢山ではないが、心温まるコメントがあった。勿論、癪だという人がここには、いや、世間には沢山いることを知っている。それでも、数件の応援だけで、意外と人間って生きながらえることができる。
昨日のジャンプ買った?
・ 「アイシールド21」という作品にはひとつの欠点もないと感じる信心深い人
増田もそう思ってるよ。嘘じゃない。
看過できない仕上がりだったとも思っている。
なのでここにその旨のお気持ちを記録しておく。
・今回の読切に少しでも思うところがあった人
・「アイシールド21」という作品全体を通じて積年の思いがある人
向けの内容である。
・筆者について
・はじめに
・読切のストーリーについて
・作画について
・まとめ
の順で触れていく。
あと言っておくが「アイシールド21」の21周年は心から祝っている。
おめでとう。読切企画を実現してくれた関係者各位、先生方、心からありがとう。
・往年のアイシールドファン。連載開始から最終話までリアルタイムでジャンプで読んでた
・連載後半は2ちゃんのアイシスレ見たりもしてた(本スレがアンチスレを兼ねる様相で当時はおどろいた)
かきおろし読切の制作が決定したという作者の告知があってからこの日をずっと楽しみにしていた。
完結して十何年もたった作品の続きが読める、
こんな奇跡はまたとない。
発売日、即ジャンプ買って読んだ。
………………。
昨日からSNSは「アイシールド21が読めて嬉しい!」といった歓喜の声にあふれている。作品名でトレンド入りもしている。
いちファンが作品に真剣に相対したいち記録となることを信じてせっせとこれをネットの海に流している。
まずあの話、どうでした?
…とは思えなかった。
というか読切では当然のように「ヒル魔とセナ、双璧のW主人公」みたいな雰囲気が醸されているのだが、
という確認がなされないまま作られている印象だった。
ヒル魔というキャラクターが大いなる魅力や影響力をもっている、そのこと自体に異論はない。
彼の求心力とある種のカリスマ性が、読者並びに各種ファンダムを今なお牽引していることにも異論はない。
(原作者が格別の思い入れを注いでいることにも、この際異論はないものとする)
それでも、少年漫画としての「アイシールド21」に考えをはせるなら、第1話の構造からいっても、
この物語は「アメフトを通して描かれる小早川瀬那の成長譚」でなくてはならないはずだ。
……にもかかわらず、本作はそこをぶらしていった。
連載半ばから、ヒル魔は悪い意味でどんどん主人公化していった。
そしてそれが改善されていないどころか、全面化していたのが今回の読切だった。
思えば、最終話の落としどころはまだマシだった。
セナの結末とは別のレイヤーで、ヒル魔の着地点を描いていたからだ。
最京大・炎馬大・バベルスという別の進路をとり、三国志の道を選ぶ。
ここの3人が対等なライバルとなる結末は、
にもかかわらず読切で披露されたのは
「セナvsヒル魔、NFLにいくのはどっちだ!?」対決………って、
武蔵と栗田の立場がなさすぎて、あんまりじゃないのか????????
(※さらに言うなら武蔵に至っては読切に影も形も出演がないの、本当にあんまりだったと思う。回想の円陣にもいないとはいったい…。
※この点について「読切から興味をもった読者に武蔵の存在を伏せたかった・ネタバレを防止したかったからでは」という擁護意見も目にしたが、
そうであるなら円陣では後ろ姿で顔が見えないように描いたりすればいいだけだし、現在軸の観客ポジションにはいてもいいはずである。
読切の大筋を
という骨子にするのならせめて
セナ率いるドリームチーム vs デビルバッツ創立時メンバー3人が再結成するドリームチーム
…みたいな構図にはできなかったものだろうか。
さらに「AIをしのぐのは人間の勇気」みたいなテーマを(是非はともかく)導入したいのだったら、
半端にセナを主人公とせず、いっそいさぎよく「読切なので主人公はヒル魔です。セナは脇役として登場してもらいます」などとして構成してしまうほうが、
まだ「作者のエゴ」と「読者」と「読切作品としての完成度」、すべてに対して誠実な仕上がりをみたのではないだろうか。
このあたりの整合性のとれていなさ、ちぐはぐさが、読み味の違和感、納得感の薄さにつながっているように思う。
(※余談だが、アイシールドがスポーツマンガとして傑出している点であり特色のひとつに、
「天才と凡人」というテーマを残酷なまでに描いているところが挙げられると思う。
それを思うと、読切からその要素が完全に排除されていたのも惜しむべき点だった。
その意味においても、読切では
「身体能力においてはある種の天才であるセナと、今度はそれに挑む身体的凡人ヒル魔」
といったふうにセナとは別の視点≒ヒル魔視点から描いてしまうほうがいっそ面白かったんじゃないだろうか。
原作者のヒル魔描きたい欲も、キャラファン読者の需要も両方満たされただろうし
本作の新たな面を見せることができたんじゃないか、等々。
後述するが、原作者と編集者はそういった検討すらしなかったのだろうか)
「セナvsヒル魔の試合」という今回の読切が、アニメ最終話の追認に近いものになってしまっていることにも絶望しかない。
アニメのアイシールドはあらゆる意味で筆舌尽くしがたい出来栄えなのだが、満を持した読切がそれと今さらカブるって、そんなことがあっていいのか。
村田先生、みんなご存じ、少年漫画界屈指の超絶技巧ハイレベル画力の持ち主。
すなわち『ワンパンマン』のようなアップデートされた村田先生の作画で、
…というファンの期待は儚くも裏切られた。
今回の読切の作画、
……そうか……。
初期からずっと絵がうまくて、
どんどん画力が凄みを増していって、
20巻あたりになってくると最強に脂がのってきて、
強いこだわりや作品愛を感じられて、
あのすばらしい絵が、だいぶ淡泊でラフな方向へ変わってしまった、
そんな、あの頃の絵柄…
遠くにいるキャラには顔描き込みさえなく、
そんな、あの頃の絵柄…
それを誰も指摘しないままジャンプでお届けされていた、
そんな、あの頃の絵柄………
…………そうか………。
掲載日もガチガチに21周年に合わせているわけではなさそうだし、
読切制作告知はずいぶん前に行われていたし、
そんなこまごまとしたミスをチェックして修正する手間すら…惜しかったのだろうか。
もしや、アイシールド、描きたく……なかったのだろうか。
憶測にすぎないけれど、したくもない想像が膨らんでしまう作画がただただ悲しい。
なぜこんなにも失望感が大きいのか。
失望感を覚えるということは、
そもそも「アイシールド21」という漫画に何らかの幻想を抱かせるような霧でもかかっていたんじゃないだろうか。
その正体は何か。
理由をたどると「原作・作画の分業制でつくられた作品であること」が挙げられると思う。
そもそも、原作者の稲垣先生のほうはそこまでキャラの扱いに手厚いタイプではないと見受けられる。
かと思えば突飛なタイミングで再登場させたり、
桜庭のアイドルヘアや阿含のドレッドをある日突然無慈悲に剃り上げてファンを阿鼻叫喚の渦に叩き込んだり等々
(事実アイシ、ドクターストーン、トリリオンゲームと3本つづけて大ヒットを飛ばしている優れたストーリーテラーであるわけだし、どれもとんでもなく面白いし)
バックボーンを想像させる表情や振る舞いなどの魅力を付与して、
色んなキャラの色んな一面を描きまくってくれた。
別冊として出たデータブックでは各校の全チームメイトの顔カットを100人単位で書き起こし、
人物紹介には毎巻のように「ウォーリーを探せ」のようなぎっしり楽しい一枚絵を用意し、
神龍寺戦完結巻にいたっては、カバー絵などの余白をフルに使って、
アイシはただストーリーが面白い・アメフト題材に新規性があるというだけではなく、
そういう層のファンを獲得したという意味でも、商業的な成功をみた。
これは原作・作画別れているからこその、やや特殊な事例であると思う。
それは村田先生が魔法をかけてシナジーを起こしたキャラなのだ。
そして時を経て、魔法は解けていった。
何かのきっかけで、のっぴきならない理由で、本作を作画することへの情熱が失われてしまったのかもしれない。
読者にそれを知るすべはない。
ともあれ、作画による丁寧なフォローや補足はされなくなり、ありし日の熱量は失われ、
原作がある意味むき出しとなった結果が、連載終盤のアイシールドともいえる。
読切でも、魔法は解けたままだった。
そのことが残念でならない。
長々と書いてきたが、ぶっちゃけ少し真面目に作品に相対していればこのくらいのことはいくらでも思い浮かぶはずと思う。
なのにお出しされてきたのは、
そういう出来栄えの読切だった。
これに関して「編集者何やってんだよ」という視座を欠くわけにはいかない。
読切をつくるとなって、まともな打ち合わせの一つもしなかったのか?
批判されている点は?
少しリサーチすれば情報や感想は玉石混交いくらでも掘り出せるはずだ。
それを作品化するとして、最良の形とは?
精査していればもう少しブレや迷走は防げたはずだ。
編集者は作画クオリティ面にまでは口出しできないかもしれない。
にしても、あきらかな作画のミスを校閲し指摘することはできるはずだ。
「どうせ手を抜いたって、愛がなくたって、ファンなら喜んでジャンプを買い、涙を流してありがたがるだろう」
と、作品の知名度にあぐらをかいた編集部によって読者全員がナメられていること、
それが記念読切から透けてみえてくることが、作品を愛読してきた者として慚愧にたえない。
期待は捨てているけれど、改めて言いたい。
そして少しでも反省したなら俺らに誠意を見せてくれ。
すなわち、ファンもアンチもぐうの音も出ずに拍手喝采してしまうような、素晴らしいクオリティに練り上げた「アイシールド21」短期集中連載とか企画してください。金とアンケートならいくらでも出します。わあわあ言うとりますが未だにアイシールド大好きなんです。よろしくお願いします。ほんとマジで。
ちょっとネガティブすぎるなーと思うけど、実態としてはそんな感じなのかな。
>リベラルの人たちは能登についてしばらくちょっと黙っててほしい
という話だけど、
ない想像力を働かせて考えてみる。
谷本県政時代から引き続く工業団地などの企業誘致、北陸新幹線。そして延伸へ向けた馳知事の尽力、などなど。
こうした地域の経済振興や観光アピールや公共事業、過疎対策をいろいろやってくれたからなのかな。県政評価は高いと思う。
県民しては、とりわけ28年も知事を務めた谷本には強くお世話になった感が強いのだろう。
でも谷本さん自身は当初、革新政党系の支持を受けて初当選したというのをさっき調べて知った。当時、森喜朗が推していた農林族の対抗馬を破った経緯もある。
2003年の能登空港の開港や小松空港の国際線就航などは、森喜朗が尽力したといわれているけれど、谷本とは不仲だったという。
2022年の谷本知事引退の際に、再び新たに農林族の山田が出馬することになり、保守分裂という事態に陥ったが、森喜朗は自分が育ててきた馳を推すことに決めた、という内容の記事もさかのぼってみた。そして行政側は第一次産業への理解が厚い山田を推す動きがあった一方、谷本は事実上、馳に自分の後継として信を託したという記事もみた。
そう考えると、保守王国石川県というけれども、一枚岩じゃなかったけれども鋭く対立もしていなかったというのも今後の復興を考えるうえでは、いろいろと興味深いと思った。
そんなところへ、ワイドショーやらSNSで、インテリ風吹かせた連中が、能登の限界集落は遅かれ早かれ滅びる運命だったのが早まっただけで
この際、復興過程では、そういうところを切り捨てて優先順位をつけるべきだ、とかいう雑な議論が耳に入ってくると、それは地域の人間としてはイラっとくるのかもしれない。
想像だけど。
余談ーー
また初動に関して、「馳知事はよくやっている」論も、わからなくもない。
馳氏は谷本県政時代に後回しにされていた地震被害想定など、災害リスク軽減のための取り組みを見直そうと着手していたことは事実で、
今回の震災に間に合わなかったいうのは事実だとしても、馳知事だけの責にするわけにはいかないだろうと思う。
あと、今回初動の遅れの原因のひとつとして、石川県や北陸地整が本来事前に取り組むべき道路啓開計画が未整備だったという指摘もある。
総務省は去年の段階でいくつかの地整や県に対して是正勧告を出していたから、いくら県政2年目の新人知事といっても知ってはいたと思う。
これって建設業者など指名業者と事前協定をし、迅速に予算を執行するうえで超重要なんだけど、結果としては後回しになってしまった。
ただ、去年から道路啓開計画に着手していたとしても間に合わなかった可能性が高い。
そういう意味では、馳知事はよくやっている、あんまり叩くな、という県民の気持ちはわかる。
一方で、発災直後の対応を外野があれこれ批判しているうちに、交通インフラの問題は解消しつつあり、あれよあれよという間に復興モードにスイッチが入っていく。
復興初期段階のスピード感というのはものすごく早いので、初動の問題点はいろいろあったにせよ、そんなことの検証にあまり時間を割いている余裕はなく
これからがれきの処理やら広域の自治体間協力も必要になってくるなど、馳知事には復興の手腕が問われることになる。
という感じであるので、震災後一ヵ月になろうとしているこのタイミングでは、
県民はもっとポジティブに前向きに物事をとらえたほうがいいんじゃないかと思う。
多分、震災3か月後には初動の失態なんて議論は過去のものになって、もうしていないと思う。
disられていじけて、保守がますます保守に、というルサンチマン丸出しのネガティブなスパイラルもわからなくもないけど、
だからと言って、何も知らない外野がわーわー騒ぐのは止めようもない。ましてやネット空間なんて。
しかし、外野の意見のなかには、今後国や行政がどう動こうとしているのかのヒントもあるのも確かなはず。
そこは地元の人間だけではルサンチマンを越えられないかもしれないけれど、災害復旧のプロセスで入ってくるさまざまな他者(民間の支援企業だったり、NPOだったり、コンサルだったり)との対話の機会が今後増えてくると思う。
よそからきた民間の経験などを踏まえて、外部の冷静な視点で意見を再整理してゆく、ということもまた大切と思う。
そして、実際、国や行政が復興モデルに着手し始めると、とりわ予算をつけることが前提となると、行政としては長々と議論してもらいたくないので、予算執行を急ぐのが世の中の常。
復興公営住宅にしても行政が「これならすぐに着工できますが」と提示されたものから復興が進んでいくなかで、ただでさえ経済的に苦境に陥っている被災者に、地域を出てゆくか、受け入れるかの二者択一で選べという形で行政主導が突き付けられる、というのが東日本の教訓としてある。
しかもスピード感のある復興とか国や県はかっこいいことを言い出すに決まっているので、恐らく震災半年後くらいには被災者は決断を迫られる。え?そんなこの状況でまだ決断できない、という被災者も多かろうに、行政は「受け入れるひと、この指とまれ」方式なので、行政の提案を受け入れた人だけが救済を得られ、地域を出て行った人はどうなったかは統計すらないというのが実態となる。
それこそ、発災直後はヒーローにみえていた馳知事が、復興期には被災者に苦渋の選択を急がせる役人顔をするかもしれない。
心理的メカニズムとして馳はヒーローだというマインドがどんどん強固なものになって、ますます保守保守していくなかで、次に復興の話がやってくる。
ルサンチマン的な心理的メカニズムから解脱して悟りを開いている人が何人か周りにいればいいんだと思う。
そういうことの萌芽を、今の時点で何も知らない外野がわーわー騒ぐ言葉の端々にちょろっと見出せることがあるかもしれない。
先日、被災地域ではようやくボランティア活動が本格的に開始されることになった、というニュースをみた。
外部の人間がこれからわんさか入ってくる。これまで入っていただいていた100くらいのNPO団体も含めて。
そのなかには、東日本含め、過去の復興の経験を持つ人も多くいるはずで、そういう方々と交流をする機会が増えるんじゃないかなと思う。
外部の人間は玉石混交で、なかには、インテリ風な意見を持つ人もいるかもしれない。
間垣の里なんてどうでもいいんだよ、堤防なんだよ生命の安全第一なんだよ、とかね、中にはいるかもしれない、例えばだけど。
そういうときに、その意見もちょっと違うよね、と言ってくれる人もまた外部の人だったりするので、不協和音のなかだからこそ貴重な意見も拾える。
そのときに、いちいちルサンチマンに陥っていると、聞く耳をもたなくなって、聞けるはずの意見にも耳を閉ざしてしまうことにもなりかねない。
とはいっても、これといってどうしようもないことかもしれないけれど。
もうブログなんてやらないだろうと思っていた。
約18年前、mixiなるブログが流行った頃。やってみたはいいものの、まるで続かなかったからだ。
最初は楽しかった。いわゆる「映え」を、誰に言われるでもなく既に取り入れて、活用していたと思う。
でも次第に、そういう「仮想現実」や「虚構の世界」に違和感を覚える。
自覚したのは、始めて一週間くらいだっただろうか。私は、全消しした。
今思えば若気の至り。
でもやっぱり、嘘は嫌いなのだろう。
アメブロ、GREE、Facebook、Twitter、LINE、note、いろいろあるけれど。
18年経った今も様々な媒体のブログが存在していることに正直驚いている。
私が何周もして周回遅れで合ったような古くささを覚えながら、その中に私が知りたかった情報があることにも気付く。これを玉石混交というのか、古今東西というのか、はて、これ如何に。
奇しくも、ちょうど水瓶座月間。
年末年始にかけてのあの重苦しい居心地の悪さ、昨晩から今朝にかけての激しい変化、他の方はどうお感じになられたのか、また平気だったのだろうか。私などはイライライライラ、自分でも驚くほどにとにかくイライラが大爆発でございました。
何これ?
というのが今の気持ち。
最近になりどうやら私は、自らが水瓶座生まれであることに誇りを持っているらしいことに気付く。占いは興味はあるが特に詳しくないし、スピリチュアルには見向きもしない。今の関心事といえば哲学、禅、心理学、美術、音楽。
難しいお話は然るべき機関でやればいい。J-STAGEやCiNiiのような情報論文検索サイトなるものがあるはず。
よって、全ては私調べの情報を元にして興味のあるものを取っ掛かりに心ゆくままゆらゆらとしてみたい。真偽も大切だが、自身が良いと思うものを追求していきたい。さすれば、自ずと真実のみが残ると信じている。