はてなキーワード: 仮想現実とは
彼女は元々オタク趣味の友達だった。容姿はあんまり良くない。コンプレックスだったんだろう。
VRChatにハマって2ヶ月、もうVRChatでしか会話できなくなってしまった。
元々共通の趣味をやらなくなり、VRChat以外のゲームをやめ、小説やイラストを書くことも辞め、VRChat内で出来た男性の友達数人と、実のない話をし続けている。これは私が寂しいという話に尽きる。
仮想現実は仮想現実でしか無いのだが、飯もろくに食べずVR内で寝て、仕事をしている時間はずっと眠いんだと。きっと彼女には仕事をしている自分が仮初で、VRの世界の自分が本来の自分なんだろう。
割り切れてるならまだしも、のめり込みすぎてる状態でVRに生活を持ち込むのは現実との境がなくなりそうだし、事実彼女にとっては既にそうなんだろうなと思う。
もちろん、食わず嫌いはよくないと思ってVRChatで彼女の元を訪問してみたら、知らない男性と2人で添い寝をしているところだった。終わった、と思った。
貴方はVRのガワを被って色んな人や男性と親密になって遊びたかったんだなぁと何となく理解した。ごめん。
VRChatは私には合わなかった。彼女は「コンプレックス抜きで普段話さない人とおしゃべりできて楽しい」んだそうだ。私は悪いが正直現実で知り合う人との会話のほうが楽しい。自分から趣味の集まりに顔を出して有意義に話をするほうが好きだ。VRChatで出会う人、全員がそうではないと知ってはいるが、程度が知れているように思う。私はそう感じてしまうのに純粋に楽しんでいる彼女に対して、貧しさを知るようだった。反対に他人を色眼鏡で見ている自分も感じて辛くなった。
私は現実を大事にしようかなと思う。友達にも恵まれているし彼氏だっている。どこぞの誰との人間関係を見るよりプロが作った映画を友達と楽しむ方がいい。
見た目と健康も大事なので今から筋トレして寝る。遅くなったなぁ。
ぐだぐだ書いたけど、友達を失ったと自分に言い聞かせてるだけで、しんどい。友達のことをそんな奴だと思ってなかった、って話なんだろう。
・孤独感を覚えている
・右と左の対立を深く感じておりそこに固執すると陰謀論が発展していく
・何かが起きると何かのせいにしたい。政治のせいにするのは手っ取り早い。
・政治家を自分とは違う生き物のように思っている。自分たちと政治家の対立を意識している。
・自分の人生の代替人生を陰謀論で楽しんでしまう。フィクションに向かず仮想現実に向かった形。
・現実が辛い
・人間の弱い部分につけこんで、陰謀論でコントロールしようとする人が少なからず居る
・若い人のほうがハマりやすい。コントロール化に置かれやすい。過激な思想に感化されやすい。
・世の中は複雑だが単純化する陰謀論は分かりやすく簡潔であるため、アンパンマンのアニメのような中毒性がある
・昨今は歴史をネットで知るため、浅い陰謀論者が増えた。「知識のない陰謀論者」の大生産時代なのではないか
・普段政治などに興味が無い人は知識もないので、興味を持ったときに陰謀論に振り回されてしまう
・「病気や政治に詳しいインフルエンサー」を十分に注意すること。
・誰かを誹謗中傷しないこと。した瞬間に自分の中に対立を生んでしまう。
・英雄症候群にハマらないこと。
それでめちゃくちゃバッキバキとか脈打ってるとか強いオスだってアピールされるとマジでチンポが欲しくなる
エロ漫画の女のように発情して顔を擦りつけたり、舌を差し出して舐めたくなるんだ
そういう理想的なチンポなんかまずないだろうし、そういうの持ってる奴が俺に振り向くわけもないし、そもそも現実では男でいいと思ってる
デジタルの海に漂う我々は、気づかぬうちにその巨大な生態系の一部となっている。インターネットという名の巨大生物は、日々刻々と成長を続け、その触手を我々の生活のあらゆる隅々にまで伸ばしている。
スマートフォンを手に取る度、SNSをスクロールする瞬間、検索エンジンに問いかける一瞬一瞬。これらの行動のすべてが、インターネットという巨大生物に栄養を与えている。我々の興味関心、行動パターン、そして個人情報までもが、この巨大な存在の糧となっているのだ。
我々が無意識のうちに提供する膨大なデータは、インターネットの血液となって循環している。検索履歴、位置情報、購買行動。これらのデータは、巨大テクノロジー企業によって収集され、分析され、そして商品化される。我々は知らず知らずのうちに、この巨大システムの中で役割を果たしているのだ。
もはや我々の日常生活は、インターネットなしには成り立たない。情報収集、コミュニケーション、娯楽、仕事。あらゆる面でインターネットに依存している。この依存関係は、まさに共生と呼べるものだ。我々はインターネットに養分を与え、インターネットは我々に便利さと快適さを提供する。
この巨大生物との共生関係から逃れることは、もはや不可能に近い。技術の進歩と共に、インターネットはさらに我々の生活に深く根を下ろしていく。AIの発展、IoTの普及、仮想現実の台頭。これらの技術革新は、我々とインターネットの関係をさらに密接なものにしていくだろう。
我々は既にインターネットの養分となっている。この事実を受け入れ、いかにして共存していくかを考えることが重要だ。自身のデータの扱いに敏感になり、デジタルリテラシーを高め、テクノロジーと人間性のバランスを保つ。これらの努力こそが、この新たな生態系の中で我々が主体性を保ち続けるための鍵となるだろう。
インターネットは我々を飲み込んだ。しかし、我々もまたインターネットを形作る一部なのだ。この相互関係の中で、いかに自己を保ち、より良い未来を築いていくか。それが現代を生きる我々に課せられた使命なのかもしれない。
https://anond.hatelabo.jp/20240923064442
これ読んでなるほどなと思った。「VRに子供が夢中になると怖い」なんて話も聞いたりする。
これは恐らくVR=現実逃避というイメージがあって、VRという技術とはズレた概念化しているんだろうと思う。
Wikipediaで「バーチャルリアリティ」を見ると
と冒頭にある。これは現時点での実際にできることの一例ではあるけど、VRというものの本質ではない気がする。
東大のバーチャルリアリティ教育研究センターのサイトではこう書かれている。
後半はこれからの話ではあるけど、こちらのほうが自分にはしっくりきた。
VRとは現実から離れるものではなく、現実と繋がる技術だと思ったほうが分かりやすく感じる。
それはAR(拡張現実)とかMR(複合現実)では?と言えるかもしれないが、そこで線引してしまう事自体どこか違和感がある。
これらは現行の技術で実現可能なハード及びソフトの制約、限界によって引かれた線でしかない。
特にこれから先、ハードとソフトが更に進化していく中で、VR技術そのものは現実の置き換えではなく、現実とのリンクをより強固にしていくと思われる。
そうなっていった時に「仮想現実」みたいなイメージは陳腐になってしまうだろう。まあ言葉そのものは形骸化してくだけなので他の言葉がまた生まれるかもしれないけど。
なるほど、ありがとうございます
現状VRと呼ばれているものがVirtualとは程遠いものだと理解できたので「仮想現実」とは呼び続けますがこれをVirtual Realityと呼称するのをやめようと思います
「Virtualの意は"Almost particular things"であり日本語における"仮想"ではない」という事実が呈示されたとき、現在VRと呼ばれているものに対して解釈する方法は「"仮想現実"という解釈が正しく、これに"Virtual Reality"という名称を付けるべきではない」か「"Virtual Reality"という解釈が正しく、これに"仮想現実"という名称を付けるべきではない」しかないと思うのですが、そのスタンスの差で増田とはわかりあえないなと思いました
職場の50代の人は普段はおとなしいし仕事もそこそこできる人なんだ
ただ最近特に愚痴っぽいというか、ちょっとでも自分に関係することや自分の知っていることに対して誰かが言及すると、猛烈に感情を高ぶらせることがあるんだよね
飯食いながらする話じゃないよなーと聞き流しているけど、なんとなくだがわかってきた
ようするに、自分の立場でこれ以上何もできないってことへの憤りがあるんじゃないかと
殆どが被害妄想が要因なんだが、本人は「あいつ煽ってる」ととらえるらしい
工事関係で新技術としてAIや仮想現実を取り入れた事業をみたときとか、言葉の端々に「なんで俺が理解できないことをお前はできるんだよ」ってニュアンスが含まれていた
別にあなただって勉強して学べばいいんじゃないかなって思うけど、そういう気力や体力がないんだろう
けれどその経験すら陳腐化しているうえに極めたわけでもないから、付け焼刃みたいな浅い話しかできなくなっちゃってると自覚しているんだろう
本人も求心力がないことをわかっているけどどうしようもなくて、意地でも怒りをぶつけようと変なことで怒り出す始末
とりあえず敵認定しちゃえばネチネチ攻めて相手が折れれば勝ちったパターンなんだろう
最近そういう口調が増えていると感じる
そうすると「同じことしか言わない中途半端なイキリおじさん」が爆誕しちゃう
俺が一番気になったのは、ふつうの人がある時期を境に勝手に変になっちゃうこと
理屈はどこにでもあるけど、身近な普通な人がそうなるのは怖いよな
俺も気をつけなきゃ
あるいは、この経験があったからのちの体験にスムースに繋がったとか。
ゲームボーイってあっただろ?
多分、人生におけるポータブルなデジタルデバイスの原体験ってあれだったと思う。
持ち運び出来て、画面を見ながら操作することを当たり前のこととして捉えるための原体験。
それがゲームボーイだった。
あれがあったから、その後の技術革新で登場した液晶付きの携帯電話、さらにその後に登場したスマートフォンなども違和感なく使うことが出来た。
思うんだけどね。
もしもバーチャルボーイが成功していた世界線というものがあったとしたら、その世界ではもっと仮想現実のためのデバイスが普及していたんじゃないかと。
人々が違和感なくゴーグル越しに世界を見ることを受け入れていた原体験を持っている世界。
そういう世界ではもっともっと仮想現実デバイスが売れていたと思う。
俺の答はこれ以外にありえない。
もし本当にある日異性が消えたら、私はまず「自分が眠っている可能性を考える」だろう。
ひとまずインターネットを立ち上げてみて、文字が読めればそこは現実だ。
そしてインターネットに並ぶ無数の異性消失情報を目にし、次に考えるのは「ドッキリの標的にされた可能性」だ。
ひとまずは悩んでますよというポーズをしながら目を瞑って作戦会議だ。
あとあと馬鹿にされないような形に気をつけて道化を演じつつ、ドッキリのコストに負荷をかけようとして、いつも行かないような駅にでも行こうと家を出る、直前で足を止める。
もしも本当に全ての異性が消失していたら、世界人口の半分が消えるという大パニックだ。
というか、インフラ施設の当直員や夜行バスの運転手が消えたとしたらどうなるのかを考え、引きこもることを決めるだろう。
もしかしたら我が家の周りも既にクリスタルナハトが始まっているかも知れない。
窓やドアの施錠を確認し、板をうちつけるまではいかずとも目張りぐらいはしておく。
家中の武器になりそうなものを足元に集めた状態でインターネットに再び潜る。
24時間ちょうど異性が消滅していたことが世界中で話題になるだろう。
偶然か、神の奇跡か、裁きの時か、きっと大きな混乱が巻き起こるはずだ。
その中にいるはずなのだ。
「世界が仮想現実であり、if sex=0 deleat time=1dのようなコードが入力されたに違いない」という仮説を元に検証を始める集団が。
私はそこに合流する。
何故なら神の存在を信じるよりも、その可能性を追求したほうが現実的に感じられるからだ。
確証バイアスによって集団幻覚で終わらせる者達、パニックのままに暴れ続ける暴徒、ここぞとばかりに勧誘を始める宗教家、様々な連中が出てくるだろうが無視する。
世界が仮想空間であり、リバースエンジニアリングによって我々人類にも神に等しいチートを手にする機会があるかも知れない。そのチャンスに私は合流するからだ。
答は出るのだろうか?
もうブログなんてやらないだろうと思っていた。
約18年前、mixiなるブログが流行った頃。やってみたはいいものの、まるで続かなかったからだ。
最初は楽しかった。いわゆる「映え」を、誰に言われるでもなく既に取り入れて、活用していたと思う。
でも次第に、そういう「仮想現実」や「虚構の世界」に違和感を覚える。
自覚したのは、始めて一週間くらいだっただろうか。私は、全消しした。
今思えば若気の至り。
でもやっぱり、嘘は嫌いなのだろう。
アメブロ、GREE、Facebook、Twitter、LINE、note、いろいろあるけれど。
18年経った今も様々な媒体のブログが存在していることに正直驚いている。
私が何周もして周回遅れで合ったような古くささを覚えながら、その中に私が知りたかった情報があることにも気付く。これを玉石混交というのか、古今東西というのか、はて、これ如何に。
奇しくも、ちょうど水瓶座月間。
年末年始にかけてのあの重苦しい居心地の悪さ、昨晩から今朝にかけての激しい変化、他の方はどうお感じになられたのか、また平気だったのだろうか。私などはイライライライラ、自分でも驚くほどにとにかくイライラが大爆発でございました。
何これ?
というのが今の気持ち。
最近になりどうやら私は、自らが水瓶座生まれであることに誇りを持っているらしいことに気付く。占いは興味はあるが特に詳しくないし、スピリチュアルには見向きもしない。今の関心事といえば哲学、禅、心理学、美術、音楽。
難しいお話は然るべき機関でやればいい。J-STAGEやCiNiiのような情報論文検索サイトなるものがあるはず。
よって、全ては私調べの情報を元にして興味のあるものを取っ掛かりに心ゆくままゆらゆらとしてみたい。真偽も大切だが、自身が良いと思うものを追求していきたい。さすれば、自ずと真実のみが残ると信じている。
自動運転のAIは仮想現実の世界で気が遠くなるほどの学習機会を得て実際の現実世界での運転に役立てている。
こうしたシミュレーターを人間による自動車教習でももっと役立てて欲しい。
自動車の運転が出来る・出来ないの境目を隔てる壁というものは確かに存在する。
どれだけ運転をしても、その知的能力の壁を超えれないものは運転をするべきではない。
といってもその壁は決して高いものではない。
ある程度の理性と、簡単なパズルゲームを解ける程度の知能があれば超えれるものだ。
しかし、現状の自動車教習のシステムではその壁を顕在化することが出来ていない。
路上教習では、実際の運転の世界とはかけ離れた運転をすることがその原因だし、
その特殊運転をしている限り、現実の運転が出来るかどうかの判断をすることが出来ない。
交通における状況判断能力とか、その判断に基づいた運転が適切に選択できるかどうか?
を路上教習という普通の交通からは切り離された特殊空間では判断することが出来ないからだ。
A地点からB地点まで移動してください。
というカリキュラムを運転者自身が考えて実行するという訓練を受けさせないといけない。
とはいえ、そのようなことが今すぐに出来ないであろうということも当然わかる。
建前が現実よりも価値があるものとして捉えられることが多い日本という国では
そのような実践教習を実現するのは高いハードルが数々と待ち受けているはずだ。
だったら、シミュレーターによる実践的な自動車運転の機会を増やすべきである。
それは座学と教習所内での運転講習の時間を削ることで実現可能なはずだ。
標識の意味など、◯✕で答えさせるよりもシミュレーター内で実践的に覚えさせるほうが有益だし、
それと同時に実践的な運転方法をドライバーが学ぶことが出来るのだから一石二鳥だ。
そして、そのシミュレーターでの運転を見ることにより、本当にどうしても運転免許を発給出来ない対象というものを発見できるはずだ。