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ネット民戦慄! 表現の自由を脅かす”ゾーニング破り”とは? - トゥギャッチ
非実在腐女子エリコちゃんに(物陰から)説教をかまそうとしたり、その勢いで著者である小野ほりでいさんに(物陰から)因縁をつけたり、ちょっと前に大炎上した痴漢関連の話を思い出したりするエントリである。
追記:くっそ長いです。制限オーバーして最後にトラバにはみ出すくらい。
冒頭にリンクした記事では「エリコちゃんがTwitterに投稿したBL風の二次創作マンガが炎上する」という事件から
ここで、腐向け二次創作画像のツイートが炎上したエリコちゃんはこう言っている。
(エリコ) でも、プロフィールでちゃんと注意書きしたのになんで炎上したんだろう?
(ミカ先輩)こういうネタのゾーニングは、リツイートにリツイートが重なってぐだぐだになっちゃうからね。
(エリコ) ゾーニング?
(ミカ先輩)ゾーニングというのは、情報の発信者や仲介者が表現物を「見たくない人・見せるべきでない人」にまで行き届かないよう配慮したり工夫したりすることよ。
ここでは、「エリコちゃんはプロフィールに『腐向け二次創作注意』『18歳未満の方の閲覧はお断りします』って書いて【ゾーニングをしているはず】」で、それが「RTによってぐだぐだになった」という見解で書かれている。
そもそもTwitterというのは、「発言ひとつひとつがTLに流れていく」前提のツールではなかっただろうか。
とくにRTされた発言は、いちいち「この人はどんな人か」を確認するすべなどない。
「この人はどんな人か」から切り離され、発言だけが一人歩きする。Twitterはもともとそういう特性を持ったツールだ。
ようするに、「鍵なしでやってる以上、プロフィールの注意書きが読まれる前に発言だけ見られるのは当たり前のこと」である。
なんぼプロフィールに「腐向けだから注意してね」って書いてましたよ、と主張しようが、Twitterというツールの特性上無意味に終わる可能性は高いのだ。
そういう、かなりの勢いでほかの事を犠牲にする作業を受け手にさせるのって、
「ゾーニングしてた」って言えるんだろうか…?
それは「目をつぶってれば見えないでしょう」と同じではないんだろうか。
この記事後半では、悪意の第三者である「ゾーニング破り」という人の存在が提示される。
まあ、古くからある言葉で言えば晒しだ。晒しするような人そりゃあ厄介ですよ。
悪意からRTするような人最悪ですよ。そうだそうだ!怪人ゾーニング破りがみんな悪い!!
そうだろうか。
昔エイズ検査促進CMのキャッチコピーで、「カレシの元カノの元カレを、知っていますか」というのがあったが、それと似ていると思う。
私たちは、「フォロワーのフォロワーのフォロワー」のことまでは知らない。
エリコちゃんのTLにいるのは、彼女のプロフィールを読んで了解したフォロワーがほとんどだろう。
そのフォロワーがエリコちゃんのイラストを好ましいと思い、RTしたらそのフォロワーにつながるだろう。
だがその先は?
BLなんて反吐が出るほど嫌いなファンとつながっている可能性は。
二次創作イラストが「嫌いな人、望まない人、見てほしくない人の目にはいる」可能性は、怪人ゾーニング破りのような「悪意ある第三者」よりも、そういった「好きだと思った善意の人」からの可能性のほうが高いのではないか。
その意味で、Twitter上でのゾーニングと言うテーマを扱うとき、「ゾーニング破り」という悪意の存在だけに焦点を絞るのは片手落ちだと思うのだ。
これは腐向けだけに限らない。多くの「不適切な」ものに共通である。
少し横道ではあるが、二次創作BLのゾーニングについてはもうひとつ厄介な問題が付きまとう。
「男女恋愛の二次創作と、BLの二次創作は同等のゾーニングでいいのか?」である。
これについては本当に腐女子間でも各々の思想があるから一概には語れない。
数年前までは「キャラを勝手にホモにした妄想するなんて異常だよ。異常性癖は隠すべき」なんて言い回しが腐女子間の「マナー」として語られていた。
上記の言葉がすんなり受け入れられる人も今もいるかもしれないし、
「いや、ホモが異常って言ってるわけじゃないから、女の私がホモを妄想することが異常って言ってるだけだから」と言う向きもあるだろう。
ゾーニングについても、
「男女恋愛より嫌がる人が多いんだから、BLのゾーニングは男女より慎重になるべき」という向きも、
「同性愛描写のタブー視に加担するのは嫌だ。男女恋愛と同等のゾーニングで十分」という向きもあると思うし
「いや、っていうか男女二次がゾーニングに無関心すぎるでしょ。BL見習って、エロや人を選ぶ絵は見えないようにしろよ」って人もいる。
個々の考えについてここでは意見しないけれど、問題のややこしさについてはお分かりいただけると思う。
腐女子の一部は、しばしば他者の作品、嗜好に対し激烈な拒否反応を示すことがある(「地雷」と呼ばれる)。
それを「見たほうが悪い」で済ませるかどうかについても、腐女子間では議論百出である。
対外的にも、対腐女子的にも色々な問題に悩みながら、ためらいながら、己の安寧と衝動と、自分の絵を広く見てほしい気持ちと、見知らぬ他者の平和の狭間で揺れ続けるのがゾーニング問題なのだ。
エリコちゃんはこういう。
なにがいいたいかっつうと、いろいろ我々もフクザツなのだ。
長々語ったが、ぶっちゃけ多くの腐の感覚はミカ先輩とエリコちゃんが以下に言うとおりだとは思う。
(ミカ先輩) でも怒られて嫌な思いをするのは結局こっちだから、どういうふうに工夫できるか自分で考えないとね。
…(中略)…
(ミカ先輩)まあ、そのへんの基準は人によって違うけどね。
ただ、気をつけないと怒る人は内外にいるってこと。
(エリコ)私は怒られたくない。
その通りである。怒られたくない。
ゾーニングに対する意識は前述のように多岐にわたる。単純に考えの足りない人もいるかもしれない。
だがしかし、きほんてきに、静かに暮らしたいのだ多くの腐女子は。
実際のところ、腐女子界隈で多くとられている措置は、さらに以下のようなものがある。
①「不適切な画像を含むものとして設定する」にチェックを入れる
②「表垢」と「裏垢」を使い分ける
③privatterなどの外部サービスを利用する
①はTwitterのデフォルト機能である。受け手が「不適切な画像を表示しない」設定にすることにより、サムネイルの表示にワンクッションはさませるもの。
ただ、おそらくBLは見たくないけど男女(or百合)のエロは見たいぜ!って人は不適切な画像も表示させている可能性が高く、「設定してないおめーが悪いんだろ」という理論は成り立っても自衛としては不十分とみなされることがある。
②は、鍵をかけておらずイラストも過激なものを投稿しない「表垢」を作り、主な交流や雑談をそこで行う。
そこで知り合い、年齢が確認できる人だけ鍵つきの「裏垢」フォローを許可する、という方法である。
BLっぽさがあきらかな作品やエロなどは「裏垢」に投稿することで、幅広い交流とゾーニングとを同時に行うのである。
③は、要するに「作品を見てもらうのにワンクッションはさむ」と言う方式である。
- Privatter - share your long tweets to your followers only
中でもプライベッターは、画像・テキストどちらも投稿でき、公開範囲を全体・ログイン限定・フォロワー限定・フォロー限定…などと細かく設定できるため、最近非常に好まれている印象がある。
「ログイン限定」は、Twitterにログインしている人なら誰でも見られるのだが、作品を見るためにprivatterをTwitterに関連付けするというワンアクションが必要になるため、ある程度「見たくない人の目に入ってしまう」事態を防げると目されている。
さて、長々と腐女子とゾーニングにまつわるエトセトラについて語った。
もしかしたら「いや、そういうディティールはいいんだよね。あの記事は『ゾーニング破り』っていうならず者を告発するのがメインでしょ?」とお思いの方がいらっしゃるかもしれない。
いや、そうなのだ。そう思う。
でも、正直、私は小野ほりでいさんの、「そういうディティール」を捨て去った記事が苦手なのだ。
ぶっちゃけこれが言いたい。すみません増田の癖に。しかも腐った増田の癖に。
小野ほりでいさんの「エリコちゃんとミカ先輩」記事は、よくネット上で話題のいろんな「微妙な問題」をばっさりと切る。
私も彼の記事を読んで「だよね!超納得、すっきり!よく言ってくれた!」と思ったことがある。
だがしかし。前述の「腐女子とゾーニング」問題のように、自分が当事者としてかかわっている問題になると、どうも読後のモヤモヤが残るのである。
記事の言ってることは、決して間違ってない。
けど、私が実際に見ている世界には、もっと細かくいろんな問題があって、その中でなんとかバランスをとろうとしているのだけどな…といいたくなってしまう。
privatterがどうこうとかそら興味ないだろうし、知らなくても彼の記事は正論として成り立つ。
でもさあ。でもさあ…
なぜ、細かいことはよく知らないのに、ミカ先輩は正論を言えてしまうのだろう。
それは、悪役を作り上げ、「名前をつけた」からだ。
前述の通り、ゾーニング問題は「善意の第三者」によって破られることもあるが、
このリツイートした森山ゴリ夫という人の「こういうのって気持ち悪くない?」というコメント…。
これは明らかに「見て不快に思う人に見せる前提」で共感を集めるためにやっている面があるよね。
ややこしいところを全部ぶっとばして、誰もが「わあこいつはどうよ」と思える悪役を持ち出す。
そして、その悪役に「ゾーニング破り」と言う名前をつける。
こうなれば、読んだ人間の気持ちは一致するのだ。そうだ、ぼくたちの敵は「ゾーニング破り」って名前なのだ。
どうして痴漢された話は「自慢話」になるの? - トゥギャッチ
痴漢問題について「自己責任論によるストレス隔離」という「名前」を掲げて切り込んだ記事も、
最後はこうなる。
そうだ。そうなんだけど、その通りなんだけど。
ネット上では、自分で好きで記事を読んでおきながらブログを読んで殴りかかってくる人もたくさんいる(私みたいに)。でも読んだ人がどう反応するかは自由だ。その倫理観は人による。
また、痴漢問題における社会的周知や認識の共有も進んでいるとは言いがたく、「無理やり聞かせる」と「なんとか一緒に考えてくれとお願いする」の境目はどこだって話もある。どこに不快を感じるかは人による。
けれどもそういうメンドクサイことは語られない。名前がつかないから。
そして、「自己責任論によるストレス隔離」という「名前」周りの事象だけが語られ、きれいにまとめられる。
でも、そっからが。
ミカ先輩よ、あなたが今丸めたそこからが、懲りずに炎上しくすぶり続ける本質なのではないか。
あなたは、そこを見ない振りして「キャッチーな名前」をつけ、そこから一点突破で論を構築する。
そして「これは正論」「すっきりしました!」と多くの人から賞賛を受ける。
あなたのつける名前はわかりやすく、理論にはそつがない。その問題に詳しくない人にもすっとしみこむ。
すっきりしたか?そうか?ボロッボロ大事なことが落ちてないか?
そして、これがいちばん引っかかる。
その、「すっきりしたキャッチーな名前」を得た人たちは、もうその問題を「解決済み」のフォルダに入れてしまうのではないか。
そして、問題の渦中で苦しみ続ける人を見て、「ミカ先輩があんなにきれいにまとめたのに、まだ苦しんでるのか。ばかだなあ」と思いはしないだろうか?
私が、小野ほりでいさんの記事をあまり好きになれない理由はこれである。
名前をつけてやる。
名前をつけて、それでその問題がすべて解決したかのような印象を(小野ほりでいさんの意思はともかくとして)受ける人がいる。
名前のつかなかった細かい細かい、しかし容易には解決しない問題は積み残したままに。
そして記事を読んだ人たちは、本質を理解した気分ですっきりして立ち去り、問題の渦中にいる人は苦しみ続ける。
今上で思いっきり批判したことを、自分でひとつやってみたいと思う。
性暴力、冤罪、男性の立場、女性の立場、男性差別、女性差別、都市の過密、労働形態、子供の保護…
痴漢問題を語る切り口は無数にあり、ひとたび話題に上るとそれぞれの人間がそれぞれの立場からそれぞれが気になる切り口について語るので、基本的に収拾がつかない。
11月はじめ、「痴漢されない女子の特徴」というエントリが大炎上した。
http://cild.hatenablog.com/entry/2015/11/05/072629 - 2015年11月5日 07:55 - ウェブ魚拓
例に漏れず私も大変なアンチになったので、上記リンクは魚拓である。
ところでこの記事に対する反応はすさまじかった。
老若男女を問わず、みながブログ主の性犯罪に対する無理解と、性差別意識を叩きに叩いた。
前述の通り痴漢問題は無数の立ち居地と切り口から語られ、全会一致など到底ありえないはずだが、ことあのブログに対するコメントやブコメに関しては、殆どの人が意見を一にしていたのではないかと思う。
ブコメは増え続け、言及記事が連日ホッテントリに上る、祭りの様相だった。
あの、「無理解と差別意識に満ちた邪悪なブログ主」という悪役を得て、我々は性別を超え立場を超え「団結」したのだ。
彼を叩いている間、我々は仲間でいられたのだ。
そして、正直に告白する。
「団結」できたことが私はうれしかった。
己の考えとはまったく異なる意見を、私の目には無理解と保身としか思えないブコメを、痴漢関連のエントリではたくさん見る。
けれどあの記事に関してだけは、どのコメントを読んでも納得がいき同意できた。
ミカ先輩は非常にたくみに、ややこしい問題をスマートに言い表す。
そして、炎上しゴタゴタするはずの話題について、「同意」「正論」というコメントが並ぶ。
喧々諤々しているところより、すっきりした結論と、それに対する同意の中にいられたほうがいい。
同じ考えの人の中で、自分もまた同じ考えを書き込む。
自分の感覚の「正しさ」を、「団結」が――わかりやすい理論と、同意コメントの多さが――保証してくれる。
しかし、前述の通り、ミカ先輩の言うことは、「スマートで誰でも同意できる」代わり、「ややこしくてなかなか解決しないこと」をしばしば捨て去っている。
本当は、そこに取り組み続けることがもっとも大変なのに。
だから、思うのだ。
彼女は、「問題に真摯に取り組む姿勢」を捨て、その代わりに我々に「団結」という快楽を提供してくれているのではないか。
それは、いわばポルノだ。
「団結」と言う名のポルノだと思う。
「団結」は一瞬の快楽をもたらしてくれるし、あまり興味のない問題ならば「読んですっきり」できる。
それが悪いことだろうか、と言われたら私は答えに窮する。
世の中の問題のいちいちに、「真摯に」かかずらわってるほど我々は暇ではない。
腐女子がゾーニングにどんだけ頭を悩ませてようが、二次創作に興味のない人は「私に迷惑かかんなきゃいいよ」ってなもんだろう。
でも、どうか、時々でいいから、振り返ってほしいのだ。
あなたが「団結ポルノ」ですっきりしたあとに、点々とこぼされている、ややこしくて、一概には言えなくて、どうにもならない問題があることについて。
それに取り組み続けている人がいることについて。