はてなキーワード: 平原とは
移動が遅い → 意外と速いが、例えばレースカーとかに比べると遅い。遅い理由は戦車は重いから。重い理由は装甲や砲を積むから。
キャタピラ → 大きく2つメリットがある。1つは荒れ地(不整地)を走れる。2つはタイヤより接地面積が広いので分散して支えられるので、戦車が重くできる=より強い装甲や砲が積める。
砲台がついている → 戦うには必須。
色が地味 → 発見されにくいようにしてる。発見されないで先に敵を撃破するため。
車高が低い → 発見されにくい、撃たれても当たりにくいため。
中も狭い → 車高を低く・車体を小さくするため。ただし狭すぎると中の人が疲れたり装填(弾のリロード)が大変だったりなのでバランス。
→ 今と予見しうる将来においては、はい
なんであの形がいいんだろう
→ いろんなアイデアを試していたが、試験や実戦を繰り返している間で、この形が最適だとわかってきた。
例えば、弱い大砲をいっぱい載せるより強い大砲を1個載せたほうが強いよねってのが実際に戦ってみてわかった。
(興味があるなら、冬戦争 KV1 SMK で検索すると良い)
ただし、将来も同じとは限らない。
例えばバギーに砲台乗せた方が移動早そうなのにね
荒地を乗る前提なのかな、あれ
→ そう。荒地を走る前提。戦争では道路は大砲とかですぐにぶっ壊れるし、残ってる道路も敵軍が地雷をどんどん埋める。
(ただしお国柄によって、タイヤでも走りやすい平原・砂漠地帯の国とか、まだ破壊されてない道路を素早く走って駆けつける防衛戦略の国とかで、タイヤの戦車というのもある)
ここまで書いてなんだけど元増田は実はこういうこと全部知ってそう
「弱者男性は女のいないところで幸せになってください」が言われてたときにも思ったことだがな。
人間は高度な社会性機能を備えた生き物であって、性感開発して自己フィードバックで幸福ホルモンを自由に分泌できるようになったとしても、それに憧れる人はいない。
独りよがりの幸福を達成にするには、自分の社会性をセルフで殺すことが必要不可欠だからだ。
マリオをクリアすれば友だちに自慢できるし、恋人と水族館デートすれば恋人が喜んでくれる、結婚につながれば周りも祝福してくれる。このような承認欲求こそが幸福と、ひいてはそのバーチャル・シミュレーションであるゲームのゲーム性の根幹なのだよ。マインクラフトで平原をすべて畑に変えれば誰かが「すごい」と驚いてくれる。ツリー元の文脈で言うと、真に面白いカードゲームとは、自慢できるカード、局面、戦略を備えたルールとカードセットのことであるといえよう。
銀髪メイドとガールズバンドが渋滞していた24年4月期、意外と粒揃いだった。
Unnamed Memory、アストロノオトはまだ未消化。
フル3DCGのレースもの。レースシーンの見せ方がいまいちだからなのか主人公成長の描き方が下手なのか盛り上がらないまま終わってしまった。
素材は良いのに調理が残念パターン。3Dぽさを感じさせないキャラクタのモデリングは良いだけに勿体ない。
令和のくぎゅう枠。令和にくぎゅうとか正気かと思ったがくぎゅうは大正義だった。胸がキュンキュンお耳ピコピコ。
他の同棲キャラはハーレム要員かと思いきや、ルームシェア相手みたいな扱い。
安定の男性ボーカルOP+低予算=残念枠。FateとSAOの影響を受けすぎていて大丈夫かと心配してしまう。二期は無い…よな。
リリース当時に「最近のソシャゲ難しい…」と思った程度のエアプなので初見お断り・ファン向けに見える。3DCGモデリングは悪くないが、全員違う顔なのに何故か同じ顔に見える不思議。
ほぼ全員を同等に扱おうとしたせいなのか、山も谷もない無限の平原のようなストーリー展開は毒にも薬にもならない苦行。作品を通して描きたかったものは結局何だったのか。Pも登場するが何か良いこと言ってる風でやってることはただの後方腕組み彼氏に見える。
最終話のライブシーンが一番力を入れていた(?)ようだが実写ライブのカメラワークを意識したのか、アニメライブ特有の派手に動かすような演出が無い分、映像としていまいち面白味が…。もうちょっとやりようがあるでしょうと。ただでさえ歌モノが被ったこのタイミングでこれはなかなか辛い。
一番人気っぽく見える無理心中強要地雷系キャラ(?)がどうして出てこないのか不思議だったけど二期で出るっぽいのでそっちに期待します。
3DCGアニメとしてはよく言えば味がある、悪く言えば古臭い感じは当初こそヤバそうに見えたものの、中指立ててけの勢いで押し流してしまったのでやはり謎の勢いがある作品はめちゃくちゃ強い。何年か後に二期とかあると嬉しい。
シーズンを重ねても変わらない安定の面白さ。カズマさん何気に気が回るし優しいよね。
揺れる百合戦争な感じで面白いのだけど制作スケジュールが破綻してしまった。原作買います。
ほのぼの枠。東北ネイティブじゃないのでどの程度正しい発音なのかよくわからんが、何かが違う気がする。
異世界転生ものだと「精神年齢は身体年齢に馴染む」というありそうな気がする理屈で精神が身体に合わせて若返る傾向があるが、本作は精神年齢そのまま身体だけ若返るというあたり面白くなるのかも、と思ったのだけど普通にほのぼのギャグ枠だった。
デートしてデレさせるという温いコメディの皮を被って容赦ないドシリアスをぶっ込んでくる温度差に風邪を引きそうになるシリーズも気付いたら5期。
ゲームはアスナ(バニーガール)が出るまでガチャをぶん回したところで満足した程度のエアプなので期待したのだけど、世界観も設定も何一つ語らない、主人公のアニメに於ける立ち位置も定め切れていない、一昔前のソシャゲアニメのような内容で正直微妙。薄い本で見かけるキャラもいない…ユウカは一瞬だけ出たけどあれは一体何だったのか。
異口同音に皆、エデン条約編が面白いと言ってるので今回はエロゲ共通ルートでフラグを立てなかった時のノーマルエンドみたいなものなのだろうと理解した。
次(?)に期待します。
競輪の魅力を伝えるとかじゃなくノリと勢いで競輪選手なったけど勝負の世界って大変だよねという話。
ギャンブルに対する悪いイメージを自然に漂白したあたり、ウマ娘はコンテンツとしてめっちゃ上手いんだなあと変な感心してしまった。
見てる内に癖になってくる枠。こういうのでいいんだよこういうので。本当に。
すまんがその石を…しまってくれんか…ワシには強すぎる…。2人とも極端にピュアッピュアで泣いちゃったよ。
この頃は面白かったんだということを思い出した。まさかあの9号とのバトルがこんなに長引くとは誰が思っただろうか。
続きは劇場3部作な辺りに大人の都合を感じる。このために頑張って上手く膨らませたのだろうなと。
しかし振り返ってみると1クールもかけるような話だったのだろうか。
このシリーズの演技、声に乗せる感情の機微を他作品に比べ意図的に強くしてるように感じる。なので余計に思ってしまうのか、人間的で良い性格をしてる久美子の演技はやはり素晴らしいの一言。
話題になったアニオリ展開は原作未読勢的には何の文句も付けようもなく納得するしかない展開だったように思うが、原作勢的に色々思うところが出るのも理解はする。とはいえあの麗奈が決めたのならきっとあれが最善だったのだろう(となってしまうので麗奈を使ったのは上手いと思う反面、狡いとも思う)。
内容的にハードだったりドシリアスだったりする時もあったのに何故か最後はちょっと良い話みたいなラブコメで巻き取ってしまうのが謎に凄いシリーズ3期。
いい最終回だった。泣いてまうやろ。
SFで青春でロードムービーでファンタジー。なんだこれ???なんだけど決して悪くない作品だった。でもなんだこれ???
蒼井翔太には大変申し訳ないが、やれやれ系主人公の性格の悪さを声質がより強調してしまっていてヘイトが多く溜まってしまうのでかなり上級者向け。蒼井翔太にはもっと格好良いキャラやって欲しいです。
時々出てくる頭脳ゲーム枠。流し見る分には好きだったけど、ノゲノラの壁は厚く高いことを教えてくれる。
お仕事ものはエンタメと生々しさのラインを何処に引いてバランスを取るかが面白さのポイントだと思うが、本作はファンタジーなエンタメ寄り。新人女性声優周りで醜聞とかの生々しいネタをやろうとするとリアルが洒落にならなさすぎるから仕方ないね。夢も希望も無い芸能界の汚い話は推しの子がやってくれるし、こういうのも良いのでは。
声優ラジオ要素はほぼオマケなのでタイトル詐欺気味。最終回の収録演出は好き。なんやかんやでちょいちょい泣いたよ。
原作は1話だけ連載開始時に読んだ記憶。その後ほぼ話題を聞くことも無かったので微妙なのかなと思ったけど、主人公がブレブレしてて結局お前どうすんだよなあたり面白いと思う。
1たす2たすサンバルカン!
前シーズンまでの記憶が薄らいでるけど、安心して見られるというのは良いね。
意外と面白くなった枠。期待薄だったけど見続けてると面白くなっていくの、大変よいと思います。
チート無双というよりは地味に仲間を集めていく系。面白くない訳ではないが…(好みの問題)。
なんだこれ???枠。変人図鑑を見せられているような…。なんだこれ???
フェルン(違う)が可愛い枠。こういうのでいいんだよこういうので。
またもや制作スケジュールが破綻してしまった。全力でギャグをやる魔王様ほんと好き。クぅイック♪クぅイック♪
安定のお兄さま枠。作画も間の抜けたBGMもシリーズで一貫してて大変よい。シュールにギャグをやるお兄さまほんと好き。
無職転生は人生。まとめて視聴したせいか何度か泣いてしまった。ルディは十分すぎる程に経験を積んで成長したし、前世のツケももう払ったんじゃないだろうか。
ルディにはもう幸せになって欲しい。師匠かわいすぎて死ぬかと思った。
今風な話をやりつつ青春な感じもしつつ綺麗に纏められちゃったなあ枠。ちょっとハードな展開しても良い感じに終わるストレスを残さない配慮が良い。
これが噂のSPY×FAMILYですか(違う)。2クールっぽい。
大陸アニメ枠。作中で登場する言語(文字表記)は中文そのままでその時だけ字幕表示タイプ。作画やエフェクトは日本のそれと大差ない、どころか下手な低予算作品より遥かに美しい。
しかし会話テンポや妙に多いギャグシーンが10~20年前の日本アニメのようで、ちぐはぐ感が物凄い。
なお話は全くわからんというか説明されても多分理解できないぐらい難解な気がする。
再アニメ化、どうやら新エピソードとかじゃなく最初から作り直しっぽい。所々記憶の残滓がある。
ロレンスさん、初っ端から死にそうな目に遭いすぎじゃないですかね…。
当該発言を庇うつもりはまったくないけど、事実関係が違うのはどうかと思うので。
『「そろそろ薬で男性の性欲をコントロールすべきでは」准教授の訴え』へのコメント
この人、人文系じゃないよ。専門はタイの政治、つまり政治学者であって、政治学は社会科学系なので、文系ではあっても人文系ではない(文系は、文学・哲学・歴史学などの人文系と、政治学・社会学・経済学などの社会科学系におおまかに分類される。もちろん境界的な研究領域はあるけど、下で書いたようにこの人は直球の社会科学系)。
Synodosでも色々タイ情勢に関する記事を書いてらして、普通に面白いのでみんな読むといいと思う(正直、これらの記事を通して認知してた人だったので、twitterでの発言を見て「Oh......」となってしまう感じ。作者と作品は……別だから……!)>https://synodos.jp/expert/toyamaayako/
筑波大の「人文社会系」というのは、人文系と社会科学系の教員が所属する集団という意味であって(cf. https://www.jinsha.tsukuba.ac.jp/about)、そこに所属しているからといって人文系の研究者とは限らない。同大学の「数理物質系」に所属しているからといって物理学者とは限らない(数学者や化学者かもしれない)のと同じ。
大学も貢献してますよ感出すためだけにジェンダー系のポスト設けてあげてるのにどんどんヘイト集めるからかなり煙たいだろうなぁ
上述の通り、専門はタイの憲法とかクーデターとかそういう話なので、ジェンダー系のポストで採用されたわけじゃなく東南アジア研究とか比較政治学とかの枠で採用されてる人。大学のウェブサイトに載ってるご本人の研究キーワードが「憲法改正と民主化、政治の司法化、汚職取締と民主化、新しい強権的政治リーダーの登場と体制変動、政軍関係、立憲君主制の国際比較研究」だからね。ゴリッゴリの政治学者ですわ。ジェンダー研究は門外漢やろ……
学者が専門外のことでいっぷう変わった発言をするの、みんな心当たりのあることだと思う。統計力学の分野で名を上げた大阪大学大学院理学研究科物理学専攻の教授が財務省についてどんな発言をなさっているか、皆さんはよくご存知でしょう。
学者は同時に市民でもあるので、学問の追求者として厳格であっても市民としては偏見まみれみたいな人は大勢いるんすよね。ほら、国際日本文化研究センターの助教の人だって本業の日本中世史ではマトモだったじゃないですか。
上述の通り、現代タイ政治の分野では有名なセンセなので、たとえばタイでまたクーデターが起きたりしたらそういう場に出てくることもあるだろうし、それは全く問題にすべきではない、とは思う。不適切な発言してる理系研究者でも、たとえばノーベル賞の解説番組なんかに出るのは全然問題ないだろうし。
「人文系」という定義の話だけで外山先生の所業に関しては何も言及していないのだが、ご専門が「タイの憲法学」と聞くと、憲法学という括りではあんまり大差ないかもしれない
すまんこれはこちらの説明も悪かったんだが、彼女は憲法学者でもないんだ……憲法学は法学の下位区分だけど、このセンセの場合は憲法そのものの研究というよりも、憲法で決められたシステムがどんなふうに現代タイの政治に影響しているかを論じているので憲法学者ではなくてあくまでも政治学者なんや……
(「9条を素直に解釈すると自衛隊は違憲になる」みたいなのが憲法学で、「9条の規定がどんなふうに与野党対立に影響しているか」みたいなのが政治学)
いわゆるダメな人文系の代表格としてあげられるのが社会学者なんだか社会科学だから人文系じゃないは通らないでしょ。むしろ哲学や倫理学の人たちはこの手の狂い方する人少ない気がする
それは、まず社会学を「ダメな人文系」扱いしてバッシングしてた人たちがカテゴリエラーを起こしていただけなのでは??????
何で他者によるカテゴリエラーの責任を呼び間違えられた側が取らないといけないんですか??????
政治学や社会学はふつうは人文系には分類されない、のは単なる事実ですが??????
文系内部の細かい違いがわからん場合は、人文系とか社会学とか言わずに素直に文系って言っておけばよいのでは。社会学者でも何でもない文学研究者や歴史家が社会学者って言われてる光景、浜の真砂ほど見たので。
社会学は社会科学ではないというのは分かるけど人文科学と社会科学の線引きは何なのだろう?法学や政治学や経済学など社会科学は「技術」を論ずるもので、人文系は「価値観」を論ずるみたいなこと?
人文学に分類されているものが人文学で社会科学に分類されているものが社会科学です(進次郎構文)
……いやマジでこれはそうとしか言えない。文学・哲学・歴史学・宗教学ってだいぶ違うし、伝統的に人文学にまとめてます以外の説明はしづらい……(アジアの本質って何ですか? って聞かれてる感がある。日本とパキスタンとモンゴルとインドネシアの共通の本質……? とりあえずヨーロッパやアメリカではないです、あとワールドカップでは同じ地区で予選してますね、みたいな……)なので、線引きがわからんって人は、こういうもんだと割り切って「人文学に含まれる学問リスト」を丸暗記するか、無理に人文学とかの言葉を使わずに個別の学問の名前で呼べばいいと思います。
何を思って増田がこれ書いたのか分からんが、学部とかどうでも良くて差別的な発言するって教育者としてどうなの?てだけの話です/コロンブスの時と良い、最近話をわざわざややこしくする人多いね。
盗人猛々しいな。話をややこしくしてんのは政治学者を人文系の学者と誤認した連中だろ。そいつらが間違った認識を振りかざしてなけりゃ訂正記事書く必要もねえんだよ。話をややこしくしたくないなら間違った事実認識に基づくコメントをつけんじゃねーよ。
カテゴリ分けがどうでも良いなら指摘されたら直せば良くないですか??????
「外山准教授を人文学者やジェンダー研究者と間違って呼ぶ人がいなければこんな増田を書く必要はなかった」という当然のことを忘れないでもらっていいですか??????
初代ガンダムの描写を批判するのはいいけど、「これだから萌えアニメは」とか言ってたらおかしいし突っ込まれるでしょ? マジでそのレヴェルの話であるのを分かってほしい。萌えアニメの定義がわからんなら「これだからガンダムは」とか「これだから日本アニメは」って言っとけよってこと。
そんな「アジア系以外の一般のアメリカ人視点では日本人はチャイニーズ扱いされがち」とか「非オタ以外の一般人視点では宇崎ちゃんはエロ漫画扱いされがち」みたいなこと言われても……
スコットランドの平原の真ん中に黒い羊がいるのが見えた。 天文学者:ここの羊はみんな真っ黒なんだね。 数学者:少なくとも1匹の羊が居て、さらにこっち側の片面が黒いということが分かるだけさ。
ぼく「そこはイングランドです」
「走らない馬を叩くな」とは、無理に結果を出そうとするよりも、状況を見極めて冷静に対応することの重要性を示しています。力ずくで問題を解決しようとするのではなく、相手の状態や環境に配慮して行動するべきだという教訓です。
昔々、中国の広大な平原に、一人の若き馬飼い、李という名の青年がいました。彼の家族は代々馬の育成と調教を生業としており、李もまた優れた馬飼いとして知られていました。
ある年、李のもとに特別な馬が送られてきました。その馬は他の馬よりも美しく、体力も抜群で、まさに「一等馬」と呼ばれるにふさわしいものでした。しかし、問題が一つありました。その馬はどんなに訓練しても、まったく走ろうとしなかったのです。
李は馬を走らせるために、あらゆる手段を試しました。ムチを使い、声を荒げ、様々な訓練を施しましたが、馬は微動だにしませんでした。焦りと苛立ちが募る中、李の師匠である老馬飼いが訪ねてきました。
師匠は李の話を聞くと、静かに微笑んで言いました。「李よ、馬を叩いても走らないなら、それには理由があるのだ。まずは馬の気持ちを理解し、その原因を探ることが先決だ。」
李はその言葉に従い、馬と一緒に時間を過ごし、その行動や反応を観察しました。そして、馬が過去に大きな怪我を負った経験があり、その傷が原因で走ることに恐怖を感じていることを知りました。
李は焦らず、馬の恐怖を少しずつ取り除くために、優しく接し、信頼関係を築くことに努めました。やがて馬は李を信頼し、自らの意志で走るようになりました。その後、この馬は平原一帯で最も速く、最も勇敢な馬として名を馳せました。
この経験から「走らない馬を叩くな」という諺が生まれました。これは、強制や力ではなく、理解と共感をもって問題に対処することの大切さを示す教訓として、多くの人々に語り継がれるようになったのです。
先日ヤフー知恵袋で「〇〇から✕✕までまっすぐ抜けられる道ないですか?」って質問したんだよ
本来〇〇から✕✕までは県境跨いで遠回りしなきゃ行けないんだけど、俺は車じゃなくて自転車だから、オフロードでも林道でもいいから抜けられる道ないかな?と思って知恵を募ったわけ
そしたら6件回答がついたんだけど、そのうち2件が「直線の道なんてあるはずない」だったんだよね
うち一人は
「道路というのは同じ高度で敷かれることが多いので、まっすぐというのは難しいですよ」
みたいに親切に答えてくれてるんだけど、そしてたしかに正しいこと言ってるんだけど、
まっすぐってそういう意味じゃないのわかるじゃん!っていう
もう一人は
「地図読めねーの? 平原かトンネルでもない限り道はまっすぐにはならないぞ」
とか煽ってすらきた
6人中2人これだったんで、めちゃくちゃ驚いた
親には国公立大の学費を払ってもらい、月数万円の仕送りを貰っていたが別に太い実家ではない(と思っている)
就活は氷河期とリーマンショックの間の世代で大学を出て就職は普通にできたから運は良かった方だ
学生の頃にバイト代を貯めて韓国とタイに行き、日本と違う空気や文化やメシに触れるのが楽しかった
地方の安月給の会社に就職してからも通勤途中でよく読んでたのは海外旅行のweb記事で、それによく出てきたのが会社辞めて世界一周してる人たちのブログとかだった
なんだかんだ5年で会社辞めることになって、退職届出した時に貯金が250万ほどできており、ふと世界一周できるな?したろ!
行きたい所は3つだけ決めていたが、ルートは未定で、基本的に現地で次の目的地への交通手段を手配する感じだ
最初の目的地はネパールで、上海から昆明まで40時間超の長距離列車で移動し、そこから飛行機でカトマンズに入る
漫画版神々の山嶺を読んでエベレストを見たかったので、ベースキャンプへのトレッキングをした
4500mを超えたあたりからクソしんどかったが生のヒマラヤは鮮烈だった
そっからインドに行き、一ヶ月ほど時々腹を壊しながらカレーを食べつつインド人に騙されたり頻繁にボラれたりし、スリランカからシンガポールへ飛び、シンガポールから第二の目的地タイのバンコクへ陸路で移動する
その後ビザが必要なミャンマー以外のインドシナ半島各国を麺や焼き飯を食いながら一周し、次は西へ行きたいと氷入りのビールを飲みながら思っていたところ、マレーシア航空のドバイ行き格安チケットを見つけたので予約し、ドバイではオイルマネーの力に驚嘆し、世界一高いビルのブルジュハリファは入場料が高かったので外から見た
飛行機で紅海対岸の禁酒国家イランへ、イランは旅人には親切にしろと刷り込まれているムスリムの国なのでいい所だが、テヘランのバスで男にケツを撫でられる
後で知ったがゲイがバレると当地では死刑になるので外人をターゲットにするそうだ
イランは当時も経済制裁の影響でatmでのキャッシングが使えず、米ドルを街中で両替するのが面倒なことと、酒が無いので1週間くらいで出国することにし、バスを乗り継ぎアルメニアに抜けて飲んだワインはクソうまかった
当時まだグルジアだったジョージアはワインもうまいが料理がとてもうまい、元栃ノ心さんがワインの輸入するそうでがんばってほしい
シュクメルリが話題になったがヒンカリ、ハチャプリ、ほか名前もわからん料理などどれもうまかった
黒海沿いに移動して、パンがクソうまいトルコでカッパドキアとイスタンブールを回り、ボスポラス海峡を渡ってようやくヨーロッパへ入り、ブルガリアでヨーグルトを食べて元琴欧州鳴戸親方の生地ヴェリコタルノボを歩いた
ヨーロッパはさすがに文明的で、旅するのに快適であまり苦労した覚えがない
バルカン半島経由で北上し、ポーランドから船でスウェーデンに渡り、ノルウェーでサーモンを食うため北極圏の町トロムソに行き、魚屋で買ったサーモンとオスロで買っておいたスシライス(カリフォルニア米)を炊いて寿司を作って、ホステルで一緒になったドイツ人カップルに振る舞いながら500mlで1本700円くらいするシロクマのラベルの缶ビールを飲んでいたところ、オーロラが出たので見られたのは幸運だった
ノルウェーは物価が高すぎたためオスロ空港で出国前に2晩ほどベンチで寝てたら警備員に注意される
インドで知り合ったスコットランド人学生を訪ねてライアンエアーでオスロからエジンバラへ、夜ギグに行こうと言われて半地下のクラブへ連れて行かれる
さっきまで壇上でサックスを吹いてたシュッとした青年が普通にアンフェタミンを勧めてきてびびったが、すでにエールで酔っ払っていたので楽しかった事しか覚えていない
そこからメシと酒がクソうまいバルセロナへ飛び、夜な夜なバルでセルベーサを飲み、昼はパエリアを食ったりおやつにバレンシアオレンジをかじり、マドリードの安宿の屋上テラスの藤の椅子に座ってチーズとハモンで赤ワインをやりながらどこに行くか迷っていたところ、サウジアラビア経由エチオピア行きのチケットがあったのでアフリカに入り、大地溝帯に沿って南下し、ケープタウンまで陸路で移動することにした
アフリカはどこの国も同じで当然黒人ばっかりでメシがまずく、衛生状態も治安も悪く交通機関もクソだが、ヤリまくって産みまくって死にまくるという原始の人間の生活を見られたほか、やたらと多い子供は汚いがかわいかった
あとサバンナは最高にきれいで、朝焼けの露に濡れた草原が輝く景色は忘れがたく、ライオンやキリンやゾウは動物園で見るのと全く違う美しさだった
ナミビア、ボツワナ、南アフリカはサブサハラの中でも経済が強いのでそれなりに文明的な旅ができたが、ナミビアの乗合バンのエンストはしょっちゅうで、止まったバンを乗客みんなで押しがけした
乗客同士で一体感が生まれて面白い体験だったが、ライオンのいるサバンナで夜中2時に止まった時はヒヤヒヤした
ケープタウンで久しぶりにうまいワインを飲みながら南米行きのチケットを探して、カタール経由ブエノスアイレス行きを見つけ、カタール航空の機内食のハーゲンダッツが久しぶりのまともなアイスクリームだったので感動して3個も食べた
アルゼンチンは肉とワインがメチャ旨く安いので、毎日安ワインを1本ずつ開けた
チリのワインも当然うまく、フロンテラというのが安くてお気に入りだった
このワインは日本でも飲めるが、やはり現地と味が違うような気がする
アルゼンチンやチリはバス網が発達していて、車内は三列シートが基本でゆったりでき、パーサーがいて食事やワインのサービスもあり快適だったが、普通に丸2日バス移動とかがあり広すぎである
南部パタゴニアの名峰フィッツロイやチリのパイネでトレッキングをして、道中一緒になった日本人女性に恋をするが思いは伝えられずそのまま別れた
この人とは帰国後たまに会ってメシを食う仲だが、一度冗談ぽく結婚しないかと言ったら、お前のような貧乏人とは結婚する訳ないと言われた
チリを北上してアタカマ砂漠の星空を見て、それから三番目の目的地ウユニ塩湖へ向かう
昔ポカリスエットのCMでビートたけしが立ってた鏡張りの景色で有名な所で、ちょうど日本の大学の春休みシーズンだったため、ウユニの街は日本人学生だらけでちょっと辟易したが、さすがに見渡す限り鏡張りの光景や遠近感の無くなるほど遠くまで広がる塩の平原はめちゃくちゃにきれいだった
そのあとペルーへ移動しマチュピチュに行ったが、すでに遺跡を腐るほど見ていたのでやや感動が薄かった
ペルーあたりからラムが安いので、全世界同じ安心安全のコカコーラを買って毎晩ラムコークを飲んでいた
バスを乗り継ぎエクアドルのグアヤキルに行き、ガラパゴス行きの飛行機を待つ
グアヤキルで数日滞在した安宿から15分くらい歩くと、カラフルな家がびっしり建つ丘があったので、ぶらぶらしていたらおばちゃんに呼び止められる
スペイン語はほぼわからないが、この先に行くと死ぬ的な事を言っているようで、あとで調べたらその先には有名なスラムがあった
別に一人で帰れるがおばちゃんの息子らしき人にホテルまで送ってもらう
グアヤキルは新婚旅行で訪れた日本人夫婦が強盗に遭い、旦那さんが殺された事件があった所である
ただしガラパゴス諸島は観光地のため、先進国並みに治安は良く、物価も同じくらい高い
アシカやウミイグアナがうじゃうじゃおり、進化論で有名な鳥のフィンチも数種類見てリクガメも写真に撮れたのでとても満足した
南米本土に戻って北上を続け、コロンビアのボゴタでオーパーツの黄金ジェットを見たが絶対あれは魚だと思う
このあたりで日本を出て1年少々経過しており、だんだん旅に飽きて働きたくなってきたので日本へ帰るチケットを探しはじめ、フロリダを経由してニューヨークから日本へ帰還した
成田の「おかえりなさい」のサインを見て泣きそうになり、缶コーヒーとコンビニのざるそばがうますぎて泣いた
使った金は約200万円、1年1ヶ月の旅だった
今はちゃんと再就職していい年になってしまい、結婚して子供ができたりして、出張以外でなかなか海外に行くことはないが、たまにあの頃は楽しかったなあと思い出す
前もって言っていくとゼルダ特集私のお休み中のゼルダの大冒険は一旦今日までのプレイまでとして
今日はさー
守衛さんにさっき挨拶したら今日誰も来てないよーって言うじゃない。
私はここぞとばかりにラッキー!と思いつつまた増田を書いているんだけど、
4日ってさ
働き方改革なのかこんな時だけ誰もいないわ。
私にとってはじっくり増田とちょっとお仕事ができていいんだけどそうそうに仕上げて早く終わってゼルダするわ!
つーかさ、
個々になってお正月特番私の増田ゼルダスペシャルで申し訳ないのよね。
そんな気配すら感じさせてしまうほど、
昨年末までの私のゼルダ何をやっていいか分からなかった問題勃発中で、
急にここになって進研ゼミで習ったところがテストに出るような感じで
攻略サイトはちなみにその時の突破口の糸口としては見ていないけれど、
突然シーカーセンサーを塔に設定するってのをしていなくて、
ずーっと道なき道を無地の空白の地図を四神獣向かって行っていたけれども行けるわけ無いわよね。
やることがいっぱい!
何私のゼルダの伝説こんなにやることがたくさんあったの?って。
まずハートとがんばりゲージに余裕が出てきたので、
砂漠も体力押しでどんどんひんやりスイカを食べつつ進められるし、
塔の上から見晴らしの良いときは遠くに赤く光るまだクリアしていないお代の祠が光っているところに目指してパラセールで直接出前よろしく飛んで行けるようになったのも大きいわよね。
前だったら、
遠くに赤く光る未踏のクリアしなくてはいけない祠を見つけてもがんばりゲージが足りなくて飛んでいけないのを
今ならどんどん行けるのよね。
ハートがたくさんあってハートがゼロになってやられても復活しやすくなったから結構プレイが雑になってきているわ。
つーかその反面
なに?家買えるの?村作れんの?って
私は薪割りに忙しい毎日なのよ!
ゼルダやること多すぎない?
あとそう!
四神獣のゾウさんも難しくて無理!って思っていたけど
強い武器とか知らないうちに泉の姉様にも防具強くしてもらっていたから
結構強くなっていた私のリンクで圧勝あちゅー間に勝つちゅーの!
あと地図の端っこに行ったらどうなるのか?ってマイロマンも達成!恐ろしい地の果てだったわ。
これだけは言っておくわね。
恐ろしい地の果て。
なにしろ
私はゼルダの伝説の中で薪集めて家買って村作ってって
忙しくなるのよー!
マジゼルダやることいっぱいありすぎて本筋の四神獣倒すどころじゃなくなってきたわ。
ある程度手前で出来ることをやっておいて強くしておいた方が得策って感じじゃない?
たぶんあの人たち強いと思うわ。
あと、
今私がやってるこのゼルダの100年前の話を題材にしたゲームも出てんじゃん!
なにー!
それやんなくてどーすんのよ!ってそれも思ってしまったけれど、
チケット交換で買えない他社のソフトなので私は桃鉄に使えないと言って怒る人と同じレヴェルで怒りたい気分の山脈に向かってヤッホー!って叫ぶわ。
毎月お小遣い貯めて
買える貯まった頃にはきっとクリア出来ているはずなので
それもまた楽しみよ。
遠い道のりよ。
ゼルダ買ってから3年の月日が流れ何やっていいか分からなく何もしていない時間を取り返したいわ!本当に。
まずは今日は薪割りよ!
みんな応援してね!
うふふ。
思わずみりんの瓶を勢いよく水戸黄門さまがどーんとかざすようにかざしてしまいそうよ。
聞いてみりんは使ってないってー
みりんを10回言って首の長い動物はゾウって言う感じを地でいく感じよ。
ゼルダ漬けだったわ結局。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
俺は違うと思うが。
時オカだよなあ?
トライフォース、ゼルダ、ガノンドロフといった基本的設定の丁寧な再構築。
多彩なアイテムを用いた謎解きながら子供でもクリア出来る程よい難易度。
不気味の谷を有効活用したあの時代のゲームだけが出せるホラー感。
無限な世界の広がりを感じさせるハイラル平原を中心としたマップ配置。
多彩な種族の牧歌的生活とその破滅を王道的ファンタジー世界観。
そして何より寄り道要素が必要以上に多くなく、コピペ的な部分がほぼない。
数合わせの要素がないっーか「アレもコレも全部入れたい!入り切らない!」って感じなの。
ブレワイはなんつーか「やたら世界を広く見せるために水増ししといたのねん」みたいな所あるやん?
そこの差だね。
変な虚栄心がなく、それでいてクソほど広大に感じる。
ブレワイは日本ゲームの集大成みたいな感じで祀られてるけど、そこが良くないんだなあ。
日本ゲームの最高傑作でランキング作るならブレワイのが上に来やすいかも知れない(まあ俺が3票持ってたとしたら、ドラクエV、SEKIRO、東方紅魔郷に入れるけど)。
でもゼルダの中で一番を決めるってなら、お山の大将として君臨すべきは時オカなのよね。
わかる?
品格が違うのよ。
Minecraftみたいにいきなり平原に放置されて目的も方法も何も与えられないのが田舎
マリオみたいにゴールが明示的に示されてとにかく右に進めば良くてほどほどの困難が待ち受けるのが都会
他にゲームがなくてMinecraftだけが与えられてたら渋々遊んでみて夜になったらクリーパーにぶっ殺されたりして
Youtubeで解説動画を見ながらだんだんと面白さが分かってくると思うんだけど
Minecraftとマリオが同時に提供されたらほとんどの人がマリオで遊ぶしマリオの方が面白いと思うだろう
一方でMinecraftにドハマりするととんでもない装置やとんでもない建築を始めたりして
それでもまだまだ面白さに底が無い
マリオは全クリしたら基本的にやることはなくなって後はRTAぐらいしかなくなる
マリオメーカーとかあるけど、ぶっちゃけLittle big planetの方が出来が良かったよね
平等から階層へ、男女平等から著しい男女不平等への転換は、一般に農業と関連しており、このことはグレーバーとウェングローにかなりの問題を突きつけている。彼らは選択に関心があるため、唯物論的な議論を避けたり、環境が人々の選択を条件づけ、制限する方法について考察したりすることに固執しているようだ。
農業は、約1万2千年前から世界の多くの場所で独自に発明された。狩猟採集民は食料を共有し、持てる以上のものを所有することはできなかった。しかし農民たちは定住し、畑や作物に投資するようになった。そのため、一部の人々が自分の取り分以上の食料を手にする可能性が生まれた。
やがて、凶悪犯やいじめっ子の集団が集まって領主になることもあった。窃盗や略奪、家賃、小作料、労働力の雇用、税金、貢納、什分の一など、さまざまな方法でこれを行った。どのような形であれ、このような階級的不平等は常に組織的暴力に依存していた。そしてこれこそが、ごく最近まで階級闘争が対象としてきたものなのだ。
農民は狩猟民族にはない弱者だった。彼らは自分の土地、畑を開墾し灌漑するために費やした労働、そして作物の貯蔵に縛られていた。狩猟採集民は離れることができた。農民はそうではなかった。
しかし、グレイバーとウェングローは、農民が余剰を生産し、蓄えることができたからこそ、階級社会、搾取、国家、そして偶然にもジェンダーによる不平等が可能になったのだという、この物語に立ち向かった。
2012年、考古学者のケント・フラナリーとジョイス・マーカスは『不平等の創造』という素晴らしい本を出版した。彼らは、世界のさまざまな地域で農業がどのように不平等をもたらしたかをたどっている。
しかし彼らは、その関連性は自動的に生じたものではないと主張する。農業は階級を可能にしたが、多くの農民は平等主義の社会で暮らしていた。農業の発明と階級の発明の間のギャップは、数世紀単位で測られる場所もあれば、数千年単位で測られる場所もある。
フラナリーとマーカスはまた、地元の凶悪犯や領主が権力を掌握しても、後に打倒されることが多いことを、注意深い実例を通して示している。多くの町や都市では、エリートが考古学的記録に現れ、その後何十年も姿を消し、また現れる。事実上、階級闘争は決して止まらないのである[5]。
ジェームズ・C・スコットフラナリーとマーカスの壮大な比較研究は、人類学を根本的に変えた1954年のエドモンド・リーチの著書『ビルマ高地の政治制度』や、アナーキスト政治学者であり人類学者でもあるジェームズ・C・スコットの研究において先取りされていた。[2009年、スコットは『統治されない技術』(An Anarchist History of Upland Southeast Asia)を出版した。同書は数世紀にわたる東南アジア全域を対象としている。
スコットは、平原の王国の稲作農民の多くが丘陵地帯に逃亡したことに関心を寄せている。彼らはそこで、「焼畑」移動耕作者の新たな民族集団として再出発した。彼らの中には、より小さな階級社会を作り上げた者もいれば、階級を持たずに生活した者もいた。そのすべてが、下の王国や国家からの絶え間ない奴隷化や軍事的襲撃に抵抗しなければならなかった。
ある意味では、グレイバーとウェングローはリーチ、スコット、フラナリー、マーカスの仕事を土台にしている。ウェングローは結局のところ、フラナリーとマーカスが要約している考古学の変化の一端を担っている。そして『万物の黎明』には、スコットの影響が随所に見られる。
しかし、グレイバーとウェングローは、一方では技術や環境と、他方では経済的・政治的変化との間にある、他の著者たちの結びつきを好まない。
フラナリー、マーカス、スコットの3人は、テクノロジーや環境が変化を決定するのではない、と注意深く述べている。それらは変化を可能にする。同様に、穀物農業の発明が自動的に階級格差や国家をもたらしたわけではない。しかし、それがそうした変化を可能にしたのである。
階級関係と階級闘争技術と環境の変化は、階級闘争の舞台を設定した。そして、その階級闘争の結果が、平等と不平等のどちらが勝利するかを決定した。グレーバーとウェングローはこの重要な点を無視している。その代わりに、彼らは常に、そのような変化を即座に必然的なものとする段階論の粗雑な形式を問題にしている。
この生態学的思考に対するアレルギーが、彼らが人類の進化に関する新しい文献を扱おうとしない背景の一つであろう。
これらの文献はすべて、人類となった動物たちが、自分たちの住む環境、自分たちの身体、競合する捕食者、自分たちが発明できる技術、生計を立てる方法に対して、どのように社会的適応を築いたかを理解しようとするものである。偶然にも、彼らはその生態系と状況に対処するために平等主義的な社会を築いた。それは必然的な結果ではなかった。しかし、それは適応だったのだ。
一方、グレーバーとウェングローは唯物論者ではない。彼らにとって、生態系や技術について考えることは、彼らが望む選択や革命を不可能にする恐れがある。例えば、古代メソポタミアに関するスコットの本が、特に穀物農業が不平等をもたらした物質的な理由を強調しているため、彼らが満足していないのはこのためである。
これは些細な問題ではない。私たちが今直面している気候危機は、人類が新しい技術と新しい環境に適応するために、社会をどのように変えていくかという問題を浮き彫りにしている。平等や人類存続のための政治は、今や深遠なまでに唯物論的でなければならない。
グレーバーとウェングローが環境や人間存在の物質的基盤にほとんど関心がないことは、これまで見てきたとおりである。
同じように、彼らは階級という概念や、階級関係や階級闘争についての議論をほとんど宗教的に避けている。グレーバーは確かに、そしておそらくウェングローも、階級関係と階級闘争について理解している。彼らは、階級が何をするのか、そして実際、自分がどの階級の人間なのかを知っているが、階級関係を社会変革の原動力として扱うことはできないし、また扱おうともしない。
これと同様に目を引くのは、グレーバーとウェングローがジェンダーの社会的構築に対して関心を示さないことである。彼らはミノア・クレタ島における母系制のほぼバコフェンを再現する一方で、女性は養育者であり、男性はいじめっ子であるという家父長制的なステレオタイプを散見する。
不平等は常に私たちとともにあったというのが彼らの主張であるため、グレーバーとウェングローは、人類の性別による不平等の起源についてほとんど何も語っていない。
男女関係の進化については、基本的に3つの学派がある。まず、進化心理学者たちであるが、彼らの主張は非常に保守的である。ジャレド・ダイアモンド、ナポレオン・シャグノン、スティーブン・ピンカーは、不平等、暴力、競争は人間の本性の基本であると主張する。彼らは、男性は進化によって他の男性と競争するようにプログラムされているため、強い者が女性を支配し、より多くの子どもをもうけることができるからだと言う。これは残念なことであり、幸いにも西洋文明はそのような原始的な感情を部分的に手なずけてきたとピンカーは言う。
偉大な生物学者であり、トランス活動家であるジョーン・ラフガーデンは、こうした考えを『薄く偽装されたレイプ物語』と正しく表現している。このような議論は実に忌まわしいものであり、そのためだけにグレーバーやウェングローが否定したのは間違いない。
非常に長い間、フェミニスト人類学者の間では、第二の学派の考え方が支配的であった。この学派もまた、女性と男性の間の差異を本質化し、女性と男性の間に何らかの不平等があることをあらゆる社会で当然のこととして受け入れていた。
私たちが支持するのは第3の選択肢である。歴史学、人類学、考古学の記録に顕著な特徴がある。人々が経済的、政治的に平等な社会で暮らしていたほとんどの場合、女性と男性も平等であった。また、経済的に不平等な階級社会が存在したところでは、そこでも男性が女性を支配していた。
私たちにつきまとう疑問はこうだ:なぜなのか?
グレーバーとウェングローはこの問いに取り組んでいない。彼らは性差別について何の説明もしないし、男女関係がどのように、あるいはなぜ変化するのかにも関心がない。しかし、彼らは性差別主義者ではない。彼らは何度も女性抑圧の事例に触れているが、それは一過性のものである。彼らの関心事の中心にはないのだ。だから、私たちには印象的な一致に見えるが、彼らにとっては蜃気楼なのだ。
グレイバーとウェングローの説明の重要な部分は、農耕と階級的不平等、そして国家の出現との関連を軽視しようとする決意のもと、階級的不平等や戦争、さらには奴隷制さえも存在した狩猟採集民のグループに焦点を当てている。考古学者は彼らを「複合狩猟採集民」あるいは「複合採集民」と呼んでいる。
グレバーとウェングローは、先史時代の人々が無国籍で平等主義的であったか、暴力的で不平等であったかのどちらかであったという証拠として、これらの人々を取り上げている。それは証拠が示すところとは違う。[7]
典型的な例は、フランツ・ボースによって研究されたクワキウトル族と、カナダの西海岸、コロンビア川とフレイザー川の近隣の人々である。この川と海岸では、莫大な数のサケが遡上していた。限られた数の隘路や漁場を支配する者は、莫大な余剰を蓄えることができた。コロンビア川のギャレスがその一例だ。少人数で10万ポンドのサケを獲ることができた日もあった。
それは例外的なことだった。場所によって差はあった。しかし、沿岸部や河川全域にわたって、サケの資源が豊富であればあるほど、考古学や文献記録には階級間の不平等が表れている。富の不平等はしばしば極端であった。また、これらの人々は複雑な軍事技術を持っており、大勢の戦士を乗せ、数人で何カ月もかけて作るような大きなカヌーを使っていた。
事実上、農民が田畑に囚われていたように、これらの人々は漁場に囚われていた。そして農民と同じように、サケ漁師たちにとって貯蔵は不可欠だった。考古学上の記録を遥かに遡ると、彼らの骨や歯を調べると、年間の食生活の40%から60%がサケからもたらされていたことがわかる。サケは数週間しか獲れないので、その食生活の大半は乾燥サケによるものだったに違いない。
農民と同じように、環境的制約と新技術が階級社会の可能性を開いていたのだ。こうした過程は、『万物の黎明』にはまったく見られない。そのかわりに、50年前の学部生がクワキウトル族について語った、浪費的で貪欲なポトラッチの饗宴の民という、お決まりの説明がなされている。この説明は、その後の膨大な研究成果を無視している。
天然痘と梅毒で人口の6分の5を失い、金鉱探鉱者によって征服され、そして蹂躙され、最終的にはカナダ政府によってポトラッチの宴が禁止された人々の中で、あの無秩序な宴は、権力にしがみつこうと必死だった支配階級によって管理された伝統的な生活の祭典であったことが、今ではわかっている。深い物質的な悲劇が、非合理的な茶番劇として語られている[8]。
西海岸の漁民だけが「複雑な採集者」だったわけではない。世界中には他にも例がある。しかし、それがいかに少ないかは注目に値する。さらに考古学者たちは、現在より7,000年前より古いものはひとつも見つかっておらず、14,000年前より前に戦争があった証拠もない。
複雑な採集民の数が少なく、その起源が新しいのは、技術の問題かもしれない。確かに、カリフォルニア沿岸のチュマシュ族が不平等と戦争を発展させたのは、紀元600年以前に大型の外洋用板カヌーの建造を習得してからである。
彼らは「複合型採集民」の第三の例として、フロリダ南部のカルーサ族を選んでいる。ある意味では、これらもまた、支配的な首長、戦士、階級格差、奴隷制度、高価な戦争用カヌー、海の哺乳類、ワニ、大型魚の漁業に依存する漁民であった。
グレーバーとウェングローは、カルサ人を「非農耕民族」と表現している。しかし、彼らが認めているように、カルサの漁民はもっと大きな政治の中で支配的なグループであった。他のすべての集団は農耕民であり、カルサ人の支配者に大量の食料、金、奴隷にされたヨーロッパ人やアフリカ人の捕虜を貢納していた。その食料によって、カルサ族のエリートたち、そして300人のフルタイムの戦士たちは働かずに生活することができた[10]。