はてなキーワード: 説明責任とは
今話題になっているあいちトリエンナーレについて個人的に思うことが色々あったので書こうと思う。細かいことを話して特定されると普通に死ぬのでぼかすが、一応運営ボランティアとして展示に参加している。
クソ長い。
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最初に断っておくと、今話題になっている「表現の不自由展・その後」についてだが、私はぶっちゃけ見ていない。今となっては炎上が勃発した時点で見に行っておくべきだったと後悔しているのだが、いやだってまさか3日で終わるとは思わねえもん。
と、いうのも事前のボランティア研修とかで「表現の不自由展・その後」に注目している人は私の知る限りほぼ皆無だったからだ。一応警備対応とかの事情で説明は受けたがそれについて「楽しみだ」とか「心配だ」とか言っている人は居なかった。別に目を逸らしていたとか重大性を認識していなかったとかではなく、ちゃんと理由もある。
他の人は知らないが、個人的には「表現の不自由展・その後」については「色んな理由で各地の展示会から撤去された作品を集めてみました」くらいの認識だった。面白そうな企画だ、地獄のデスマッチ感がある。しかし確かに面白そうだが、言ってしまえばそれだけなのだ。
話が変わるが我々ボランティアが研修で何をやっているかと言うと、作品の知識を蓄えるのではなく、自身の感性に従って自由に鑑賞する、所謂対話型鑑賞とかVTS(定義は微妙に違うのだが)と呼ばれているものを実践している。具体的にどんな感じかというと、背景知識はほぼなしで作品を見て
「画面は綺麗だけど、人物の顔が悲しそう、破局を予兆しているのでは?」
などとそれぞれの感性や経験に基づいて解釈を語りあうのだ。これが結構楽しい。例えるなら深夜のファミレスでオタクが集まってエヴァ最終回について語り合っている状態に近い。割と何分でもやっていられる。
だがそういった観点から見ると、「表現の不自由展・その後」があまり魅力的でないことは分かってもらえると思う。「近代化」、「ジェンダー」、「作家自身の半生」、トリエンナーレには複雑なテーマを持った鑑賞しがいのある作品が沢山出品されている。「表現の不自由展・その後」は企画としては面白いがある意味「企画落ち」なのだ。事前に具体的な作品内容が分からなかったというのもあるが、それ以上掘り下げようがない。寧ろ中止になった今の方が色々語れる。
そんなわけで「表現の不自由展・その後」がここまでの話題になったのはかなり意外だったし、多くの人にとってあいちトリエンナーレの第一印象がそれになってしまったのは少し残念でもある。
さて「表現の不自由展・その後」の中でも特によく燃えていたのが慰安婦と昭和天皇絡みの展示だと思う。政治的にインパクト抜群だからだ。だがここまで千字くらい駄文を読まされて大分心と頭が冷え切っているところだと思うので、少し冷静に展示のコンテクストについても考えて欲しい。
「表現の不自由展・その後」は「あちこちの展示会で撤去されたやつを集めて展示する」というコンセプトで行われている。よってこの企画で展示されているのは慰安婦像それ自体ではなく、あくまで「どっかから撤去された慰安婦像」なのだ。
ソウルの日本大使館前に慰安婦像が設置されたとき、メディアはこぞって大使館と慰安婦像が一緒に映った映像を放送したと思うが、あの報道に対して「不快だから映すな」と怒った人は居ただろうか。まあ居なくはなかったかもしれないが、多分映さない方がもっと怒られるだろう。怒らないのはそれが「大使館の前に慰安婦像が設置されたという報道」だとコンテクストも含めて理解しているからだ(勿論どちらの場合も制作サイドの意図は別にあるのだが)。
今回の展示ではそこのコンテクストがおざなりにされたまま、日本に実物の慰安婦像が展示されているというインパクトと、SNS上の断片的な情報で事態が拡大してしまった感がある。
また若干話が大きくなるが、余裕があったら歴史的なコンテクストについても一度考えてみて欲しい。慰安婦像というと直ぐに反日というイメージに結びつけがちだが、何故そう思うのか。
そもそも慰安婦なんて居なかったと考えている人からすれば一応理屈は通っている、悪意のある捏造ということになるからだ。
しかし、詳細については諸説あるが、そういうものが存在したということだけについては歴史的資料も揃っているし、両国の見解も一致している。つまるところ歴史に認められているのだ。
負の歴史を展示し続けることは未来に生きるだれかにとっての悪意になるのか、日本を始め第二次世界大戦に関わった各国には慰霊碑やモニュメントがある、ドイツやカンボジアには国内の虐殺を記憶するモニュメントがある、それを見て不快になる人はいるだろうし、寧ろ不快になるべきなのかもしれないが、ならそれらは排除されるべき悪意なのか、そもそも悪意は無条件に「悪」なのか。
場所によって反応も変わる、オバマは広島の原爆資料館に行ったが、アメリカでスミソニアンがエノラ・ゲイ展示をやろうとしたときは退役軍人たちから大バッシングが来た。そういった反応の違いは展示の意味、ひいては歴史の意味に影響を与え得るのか、得ないのか。
そして誰の、誰に対する悪意なのか、人の属性は一つでないし必ずしもはっきり分類出来る訳でもない、あなたが引いた「味方」と「敵」の線など気にも留めず他人は好き勝手踏み越えて生きる。例えば、韓国人男性と日本人女性が慰安婦について議論しているとして、彼らは一体どの立場にいるのか、そこに存在する先入観は何か。
話が大分概念的になってしまったが、何が言いたかったかというと、コンテクストというのはそれだけ膨大で複雑なのだ。
勿論コンテクストには政治性だって含まれる。慰安婦像が純粋に歴史的なモニュメントというより政治的に使われているのは明らかだし、恐らくそれは大半の日本人のせいではないので、あんな一触即発なもの見たくも聞きたくもない、というのは分かるし別に普段はそれで構わないと思う。
ただ死ぬほど暇なときにでも少し考えてみて欲しい。メディアの報道を見ていると日韓で政治的な同意が得られれば慰安婦像は撤去されていると考えている人もいるようだが、その必然性はない、だって歴史に認められているから。というかそれで撤去されたらマジで純粋なプロパガンダだったって言っているようなものだからやめろ。
像はコンテクストの中で存在し続けるし、今回の展示もそのコンテクストの一部である。
批判するにせよ擁護するにせよそこに対する考察がなければそれはインパクトに押された感情任せでしかないだろう。
それでも慰安婦像許せないし完全に撤去したいんだけどっていう人はどうすればいいかって?そこも歴史に学ぼう。
アメリカでコロンブスとかリー将軍の像が次々撤去されているのはニュースで聞いた人もいるだろう。時代の変化とともに歴史観は書き換わる。虐殺や奴隷制擁護者としての側面が評価され、彼らは英雄ではなくなった。もはや歴史に認められていないから像だって撤去される。
個人的には英雄として評価されていた歴史も含め展示するのも面白いんじゃないかとも思うが、少なくとも公共の場のモニュメントとしてはふさわしくないと判断されているのだ。
つまり慰安婦像を撤去したいのなら何らかの方法で歴史観を書き換えれば良い。そして歴史学の徒は全力で戦って阻止すれば良い。
トリエンナーレ運営が「表現の不自由展・その後」の公開を取りやめたことについて、ネット上では様々な意見が飛び交っている。これについては「脅迫に屈した」とか「作家に許可をとっていなかった」とか確かに色々と問題がある気はするのだが、津田総監督や大村知事が会見で言っていた「安全管理上の問題」という観点からは正直仕方がないと思っている。
第一に展示施設自体の問題だ。あいちトリエンナーレには複数の会場があり、「表現の不自由展・その後」が展示されていたのは愛知県文化センターの8階、所謂「県美」だ。関係者の名誉のために言っておくが、日本は災害が多いだけあって美術館や博物館といった文化施設の安全管理にはそれなりに注意が払われている。耐震設備に水害対策、防火設備、さらには盗難や破壊防止のための監視員や監視カメラが多くの施設で導入されている。
しかしテロや大人数による襲撃までは対応出来ないというのが現実だろう。海外の博物館ではそういった事態も想定して手荷物検査などを実施しているところもあるが、日本でそれをやるのは割に合わないと言わざるを得ない。
第二に運営側の問題。最初に言っておくがあいちトリエンナーレのような文化事業というのは基本的にクソクソ&クソ金がない。
確かに税金から拠出の予算10億は大金だ、これだけあれば50回くらい安心して老後を過ごせる。しかしそれでアーティストを100人くらい呼んで75日間展示会をやれと言われたら難易度はルナティックだ(他に寄付金とかもあるので実際の予算規模はもっと大きいはずだが)。
よって私も含めた運営スタッフの多くはクオカード1枚で半日働くボランティアである。加えて事前に結構勉強もしないといけないし、当然交通費とかも出ない。
これだけ聞くと何が悲しくてそんな苦行をとか思われるかも知れないが、最初に言った通り美術館とか博物館とかも含めて文化事業は取り敢えず金がないので、もうそういう人たちがいないとほぼ成り立たないのだ。そこで講習会とかバックヤード体験を餌にこじらせ教養オタクたちをボランティアとして釣っている、というか釣られている(※個人の感想です)。言っていて悲しくなるし話が逸れるのでそこら辺は省くが、つまるところ何が言いたいかというと、テロとか起きると我々はタダ働きの挙句何も出来ずやられる。勘弁して欲しい。
最後に若干抽象的な話になるのだが、良くも悪くもあいちトリエンナーレは寄せ集めというのがある。
運営側の細かい事情は知らないが、直前までどんな作品が出るか分からなかったりしたので、少なくとも運営と作家が一体となって特定のテーマに沿った展示を作るという感じではないと思う。恐らく「情の時代」とかいうぼんやりしたコンセプトに基づいて作家を招待して展示スペースを用意している感じだ。
「表現の不自由展・その後」だって別に運営が企画した訳ではなく、かつて行われた「表現の不自由展」を招待しただけだ。
展示施設の職員に至ってはそれを公務員の業務として受け入れているだけである。
よって、運営の中心スタッフ、末端のボランティアスタッフ、施設や関連団体のスタッフ、さらに作家間で一人一人が一つ一つの作品に全て賛同しているとかそんなことはあり得ない。まあそれはある程度の規模の組織では当然のことだと思うし、そうでなければ大規模で多様性のある展示会なんて開けないだろう。なので断っておきたいが、会場とかSNSで関係者に絡んで「トリエンナーレの見解」とやらを聞き出そうとしてもそんなものはない、せめて総監督に聞いてくれ。
そんな緩い結束でつながっている人々を「脅迫に屈しない覚悟」に巻き込むのは正直言って無理がある。
それらを踏まえてトリエンナーレ運営の対応はある程度仕方なかったとは思うのだが、しかしそうせざるを得ない状況には大きな問題がある。
先述の通り、施設や組織の問題でテロや脅迫に対応することは出来ないし、安全上の問題を考えると「表現の不自由展・その後」の展示中止は仕方ない側面もあると思う。
しかし考えてもみて欲しい、そもそも武器とかガソリン持った奴相手に対抗できる団体・個人がこの国にどれだけいるのだ、極真空手の総本山とかか?結構な大企業だって本気で襲撃されたら対応出来ないことの方が多いだろう、必然的にそれを仄めかす脅迫の時点で相手側の要求を飲まざるを得なくなる。
暴力による権利への挑戦に対しては個人レベルでなく、社会全体として対抗しなければならないし、行政側には憲法に基づいてその義務がある。
最初に特定されたら困るから匿名で意見すると書いたが、そもそも身の危険を感じて発現を躊躇しなければならない状況自体がおかしいのだ(勿論それとは別に自衛はするが)。
また、津田総監督が会見によると脅迫と並んでまずかったのが「電話」らしい。
抗議の電話でまず事務局の回線がパンク、結果つながらなかった人たちが県美や文化センターに掛け、何の対策もしていない職員が罵声を浴びせられる、しかも公共施設なので切らずに対応しないといけないという事態になったらしい。所謂「電突」と呼ばれるものだ。
ネット炎上とともに話題になることの多い電突は、市民による集団的抗議の形態とも見做せるが、一方でインターネットという新興メディアによるメディアスクラムともとれる、特にやられる方からすればそうだろう。
確かに組織には説明責任がある、取材と報道の自由もある。けどそれが対象となる人々の生活を過度に制限するようになればそれは権利が守られている状態とは言えないし、何かしらの法にも触れそうなのだが、恐らく相手が不特定多数ということで対策が難しいのだろう。スクラムを仕掛けた側を罰しろとかではなく、対象となった側を守る為の社会整備は必要だと思う(と、ずっと前から言われている気はするのだが…)。
誤解しないで欲しいが、ここでいいたいのは抗議をするなということではない。
表現の自由というのは反論されない権利などではない、ただやり方の問題だ。
話がまた大きくなるが、個人的にはどれだけ平和主義を語っても「戦い」なんてものはなくならないと思っている。政治も、経済も、受験も、スポーツも、婚活も、創作も、結局は「戦い」なのだ、ただそれをいかに物理的な暴力を伴わず決められたルールの範囲内でやるかが、人類が積み上げてきた理性とか法治とか文明の指標なのだと思う。
抗議は存分にやればいい、カウンターとなるアートを作成しても良いし、ネットに長文を書き込んでも良い、署名やデモでも良い。そして表現の自由と言っても万能ではない、脅迫罪、威力業務妨害罪、侮辱罪、名誉毀損罪、プライバシー権、著作権…憲法に定められた公共の福祉の概念に基づいてそれを規制する法律なんてごまんとある。そのうちの何かに抵触してそうなら訴訟という手もある。ただやるからには全て合法的にやれというだけの話だ。
pixivで気に食わねえ解釈を見つけたら自分の解釈を倍の質と量で投稿して相手の筆を折るのが仁義というものだろう。すまない今のは完全に個人の意見だから忘れてくれ。
じゃあこの場合どうしたらいいのか。
少し話が飛ぶが比較のため「コンビニエロ本問題」について話させて欲しい。「コンビニエロ本問題」とは女性客などからの抗議を受けてコンビニから18禁の本が撤去されている事態のことだ。あれを表現の自由と結び付けて語る人もいるが、私はそうではないと思っている。
何故ならあくまでコンビニは民間の営利団体だからだ。コンビニ業界に詳しい訳ではないので話半分に聞いて欲しいのだが、もしコンビニ側が「エロ本を撤去しないとタピオカを積んだトラックで突っ込む」とか脅迫を受けているならば、それは許すべからざる犯罪だ、しかし多分そうではないだろう。
抗議が原因と言われているが、恐らくより正確には「エロ本絡みの抗議や客足減退に対してエロ本の売り上げが割に合わない」が原因なのだと思う。
コンビニで18禁本を最後に買ったのはいつだろう、正直質はともかく量と利便性はネットの方が格段に上だと思う。正確な売り上げは知らないが、エロ本だけで月々1兆円くらい純利益が出ているなら、あの容赦のないコンビニ業界が Permalink | 記事への反応(15) | 22:16
検定不合格教科書とかいうトンデモ本が野放し状態でベストセラーとかなっちゃうこの国で、穏健派のごく普通の編集者が「よくわからんけどやめろって言うならやめるわ。どうでもいいし」と言っただけのことでなぜそこまで勝利宣言できるのかはわからない。
まあ、娯楽じゃなくて知育だと言うからにはどういう意図があってのことか説明責任はあるよね、とは思う。何も説明することなくただ取り下げただけなのが余計にアレなんじゃないの。
結局知育なんて建前で、娯楽なんでしょ?と。出版社もそれでいいじゃん。堂々とそう言おうよ。娯楽としてなら全力で守りたいよ俺も。「娯楽こそが子供の知的好奇心を育むのだ」って、はっきり言おうよ。娯楽がまず先にあって、知育は後から自然についてくるんだって言おうよ。
一連の騒動を経て本日放送のワイドナショーで松本人志さんが「松本興行」の設立を吉本側に提案したと言われていた。具体的には、社内に別部署として、松本興行を作り自分が保証人として不祥事に関わった芸人達を引き受けるとのことだ。
この提案自体は漢気と愛情に溢れ、私も支持するのだが、会社組織としては実現不可能だろう。仮に、形はつくれたとしても望んだ機能を吉本社内で持たせることは不可能と思う。
なぜなら、吉本興行という会社組織の中にいる以上、最終的には吉本が責任を負うし、そのために吉本側も最終的には自社の”組織の論理”を優先せざるを得ないからだ。この”組織の論理”の優先度はどこの会社でも同じだし、責められるものでない。いいとか悪いとかない。
ではどうすべきか。私も会社経営に携わる実務家の一人として具体案を考えてみた。
まず、吉本側に兼業を認めさせた上で、松本さんが松本興行を会社(株式会社)として設立し、代表取締役に就任。出資額は松本さんが株式の過半数を握り、残り半分を参画する芸人の方々(今回の不祥事関係者)で折半(手元資金がない方には松本さんが個人融資)。
設立後、松本興行と吉本で包括的な業務委託契約を結び、芸人業務を受託する。契約期間中は今までのコンビ名、芸名も使用可とする(吉本側としてもリスクとメンツを考えれば、この条件飲むかと)。業務委託契約を独占的なものにするか、吉本以外からも受託可能にするか、また仕事量の最低保証などはすべて交渉次第(復帰までいろんな仕事した方がいいから独占にしないほうがいいかも。けど交渉は急いだほうがよいかと)。
いずれにせよ、今後、松本興行に入る仕事は全て松本さん経由で受託。当然、松本興行独自のコンプラ、広報機能も持たせ、当然所属芸人の業務上の最終責任は松本興行とし、説明責任も果たしていく(世論を納得させるためには広報のトップは松本さん本人。そしてできれば、松本さんが個人資産を突っ込んで久保利弁護士を顧問につけ反社に対して鉄壁のディフェンスを築く笑)。
一方、吉本側は松本さんの兼業を認め、松本興行と交渉を開始する条件として、松本さんに吉本本体の取締役就任を打診するのがいいかと。そうすれば、吉本と松本興行が共存共栄になるように仕事をまわしていきやすいだろう(利益相反の調整はデリケートそうだけど)。
その後、松本興行として仕事をコツコツこなしていき実績を積み、世に対する禊を済ませてたら、会社全体を吉本に売却すればいい。その時、設立の際に出資した芸人の方々には、今回の不祥事で逃した収入を補って余りある金銭が手元に入るだろう。もちろん芸人としてのキャリアも維持できる。長期的には経済的にプラマイゼロ。今回の極限状態は芸事にはプラスだと思うので、人生経験全体として収支をプラスに持っていけるだろう。
別のシナリオとして、松本さんの人望で松本興行のビジネスが急拡大する可能性もある。その時にはビジネス感覚に優れた尻アイドル倉持由香さんや元NGT山口真帆さん、女優の能年玲奈さん等、若くして芸能ビジネスの根幹に触れる貴重な体験をされた方々を巻き込みながら、新しい総合芸能事務所として覇を唱える。。。というのは私個人の妄想で願望だ。
以前、明石家さんまさんが12年ぶりに島田紳助さんと共演した際、お互いの過去を話すなかで「笑顔で地獄を見たらもう勝ち、人生」と言われていた。
自業自得とはいえ、今回の不祥事に関わった芸人の方々は地獄を見ている最中だと思う。
ただ、けじめをつけていく限り取返しがつく状況だと思うし、上記のようにやり方次第では芸人としてのキャリアに厚みをもたらすチャンスにもできると思う。
実際世の中がどう変わったかといえば
「自分は暴力団関係者じゃない」っていう誓約書みたいなのを書かなきゃならなくなった
もちろんそんなのウソ付けるわけだからつまんねー儀礼だなとは思う
大きい会社・上場企業なんかは暴力団と関係を持たないように様々な努力を要求されるようになったけど
条例もそんな重いわけじゃないから「やってますアピール」程度だ
この程度でも効果はあるんだろうと思う、実際暴力団は縮小傾向で半グレが増えてるって話だし
つってもこれは「事業者が」「その人に金を渡す時」にやるやつだ
https://www.police.pref.osaka.lg.jp/seikatsu/boryokudan/1/6879.html
なにげに暴力団から金を受け取ることは禁止してないと思うんだが
もちろん心象は悪いので説明責任は発生するかもしれないけど
ちょっと騒ぎすぎというか、まず何が悪いか理解してる人どれだけいるんだろうね
今日の日本は民主主義国でなく、独裁国に足を向けていると言っても、ほとんどの人はピンっと来ないと思う。
そもそもの話、独裁制の何が悪いかすら、論じれる人は少ないだろう。
他にも民主党と聞くだけでアレルギーのように怒り出す人とか、共産党はダメだという人もいるが、まあ、それは置いておこう。
野党がだらしない、とよく言うけれど、国会のシステムをご存じだろうか。
衆院は自民党と公明党で約300、他党で約150だ。倍の人数がいる、君ら、多数決で勝てるのか?
実のところ、負け戦で戦っているんだよ、野党は。進撃でいう調査兵団だよな。
負けるとわかっていても、ずっと国民を信じて、戦ってくれているんだ。
これって、それだけですごいことだと思う。少なくとも、僕は真似できない。
どんなに論理的に相手を説得しても、安倍さんの言うことしか聞かない自民党には梨の礫なんだよ。
人の説得って難しいでしょう?営業やったことある人はわかると思う。凝り固まっている人は特に。
野党はずっと、悪法が成立する時間を遅らせようと頑張ってきた。
秘密保護法も安保も働き方改革も、全部、野党は、負けるのがわかっているから、時間を遅らせようと必死だった。
なぜって?僕らを信じてくれているからだよ。
一緒に自民党を与党から蹴落として、日本で働く人たちを法律で幸せにするために、頑張ってるんだ。
僕らを待ってくれているんだ。
簿記や会計、統計やってる人なら、公文書不正や統計不正がどれだけひどいことかわかるでしょう。
説明責任、アカウンタビリティーなんて言葉も流行ったことがあったね。
隠さなければならないということは、悪いことが潜んでるってことはわかるでしょう。
今、この選挙は岐路だと思う。
日本が先進国から転落し、没落するのか、それとも、自国の政治に対する見識の甘さを反省して、正しい選択をするのか。
選挙にいかない、与党に投票する、与党に加担してデマを流す、それらすべては日本を貶める行為だ。
でも、あなたたちには自由がまだある。権利がある。その権利が、明日にはなくなるかもしれない。
その権利を失わないようにするためには、野党に票を投じるしかない。少しでも、自民党与党の戦力を削ぐしかないんだよ。
自分の信念を信じて、どこに投票しても、大丈夫な国であってほしかった。
僕は後悔したくないから、どんなに野党が嫌いでも、野党に投票する。
どうなるかはわからないけど、これ以上ひどい国になる、自分の国が没落していく姿や、同胞が苦しむ姿はもう見たくないんだ。
このまま、安倍政権が続けば日本が没落することだけは間違いない。
それを阻止できるのは、野党だけなんだ。
退職直後・転職直後は自分がなぜそのような行動に至ったのか冷静に書けないと考え、メモをとってあたためる程度にしていた。1年経った今、
に触発されてメモを見直しながら振り返ることにした。一般化しようとせず、なるべく自分個人の事情を書き留めたい。
私が誰かなどと邪推することではなく、自らの職場改革あるいは自らの転機にエネルギーを使ってほしい。無駄な心配かもしれないが、あまりに盛り上がってしまったら当記事は削除するかもしれない。ビビリであることを許してほしい。だからこそ詮索しないでほしい。
振り返ると、これが不満の大きな部分を占めていた。
私が働いていたのは、過去に倉庫か保管室だった場所を改造したフロアだった。年がら年中暑い。空気が悪い(雰囲気ではなく、空気の質が悪い。二酸化炭素濃度が高かったのではないか)。掃除が行き届いていない。トイレがきれいでない。天井が低い。いわゆる工場であるため、昼休みにも敷地の外に出ることは難しく(禁止されてもいないし不可能でもないが)、閉塞感が強かった。
私はコーティングをしたりシミュレーションを回したりする仕事を担当してはいなかったという前提は書いておくが、メモリは2GBのデスクトップPC。いま、自分のメモを見て目を疑っている。隠れて自腹で購入したメモリを増設してなんとか4GBでやっていた。PCを作っていた会社とは到底思えない。デスクトップだから当然会議には持ち歩けない。働き初めて数年経ってようやく会議室にシンクライアント端末とプロジェクターが置かれたのだが、継ぎ接ぎの対策だ。持ち歩けないデスクトップPCであれば物理的に紛失するリスクがないという考えなのだろう。それでどれくらいの開発能力と機会を損失していることか。
とにかく、自分のある行動が他人の貴重な時間を奪っているという意識が無い人が多数を占めていた。
会議は5−10分遅れが常であった。席まで呼びに行ったことが何度あったか。机では常に誰かの電話が鳴り響いていた。電話が完全不要とは言わないが、代替手段ならいくらでもある。メールはとりあえず「関係者」全員に送る慣習があった。連絡したという証拠と言い訳を残したかったのだろうと、今は振り返る。
人事評価で明らかなのは労働時間という指標だけだ。評価の面談で、君は残業時間が他の人に比べて少ないと何度言われて何度憤りを抑えたことか。褒められこそすれ、咎められるとは全くの心外である。半期ごとに目標を書き、前回の目標に対する達成度をレビューする。面談はあるが、それがどのようにエスカレーションされて最終的にボーナス・昇給にフィードバックされているかは見えなかった。きっと、上司やそのうえの上司にどれだけ気に入られているかというのが実際の指標だったのだと思っている。
ところで富士通の人は8:30-12:00のエセフレックスと書いていたが、私の職場はさらにひどく8:30-15:00だった。辞めた翌年度から名ばかりの裁量労働制になっているはずで、その不満たるや想像したくもない。
とかく一般論になりがちなこのトピックだが、ここでは社員(事業部で働いている人)に対する説明責任について書いておきたい。
失敗したプロジェクトについて「これは失敗でした」と認め説明することがなかった。失敗だと認め、なぜ失敗したのかを不完全なりにも分析して説明して次に活かす、その説明をする責任がリーダやマネジメント層にはあると私は考えている。期ごとに社員が集められて行われる事業部説明会(名前は忘れてしまった)では、絵に描いた餅のような目標が掲げられて、各社員に求められているものが分からないままがんばるぞー!と全員で拳を掲げて終わるのだ。私は頑張るという言葉が嫌いだ。実質的に何も言っていないからだ。
まだまだ書き足りないことがあるけれど、一般的になり始めてしまったのでここらへんで止めておくことにする。ご要望があれば他の要素も書き足そうと思う。
自分がその組織で働くことを決めたその決断を正当化し、その組織以外の市場での自分の価値が低いと評価されることを恐れていたのだと思う。そして、環境は人を変えてしまう。良い方向にも悪い方向にも。ほんとうに恐ろしいことだ。私は最後のほうで体調と心の調子を大きく崩してしまった。逆説的だが、それがきっかけで退職・転職を決断したことになる。
悪いことばかり書いてきたが、NECで働いて得たもののおかげで今の仕事を楽しく熱中して出来ていることも確かだ。その点では感謝している…と書きたいところだが、やはり感謝すべきは腐らずに気合を何度も入れ直していた自分自身だろう。幸いにいま、筋肉体操でいう「きついけど、つらくない!きついけど、楽しい!」という状態にある。
ただ、やはり9年は長すぎたな。4、5年で良かったと思う。
元々はあちゅう大好きで、半径5メートルの野望を読んで日々のやる気が少し増して楽しくなって、ブログとかTwitterとか、言葉に救われることも多くて。
noteもなんどもサポートしたし有料マガジンの登録もして、サロンにも入ってた。
例えば、アンチというより批判的なTwitterやらの内容を「アンチ」と一括りにしているところ。
批判というよりただ人を見下して悪口言って口ばかり(と私は思ってる)の某自称インフルエンサーと仲良くしているところ。
はあちゅうのことを応援しているのに、彼女の周りで起きていることに対してフォローも説明もないこと。
自分が受けた批判やバッシングは、相手の実名を挙げてでも色んなところに晒しているのに、1番知らせるべき(と私は思う)内容についてスルーしている。そんな彼女に、お金と時間を使うことの意味がわからなくなった。
彼女は「アンチ」「攻撃される」と言うけれど、冷静に客観的に見れば「これはおかしくないか?」って事実を述べているだけの人が多いと思う。
そして、この文章もそうだけれど、決して彼女のアンチになったという訳ではなく、ただ失望して時間(著作を読む、サロンに参加する等)とお金(サロン費、著作購入費用、note購読費用その他)をかけるのをやめた人がいるということだけ。
そんなの、彼女を攻撃しようという意図がなくとも「これまでこの人応援してたけど好きじゃなくなったから本は買わない買わない」「この芸人面白かったけど人を貶すギャグで笑いをとるから見たくない」って思うのと同じことだと思う
もちろん悪意を持って彼女を攻撃している人もいるのは分かっているけど、その悪質な「アンチ」と、そうではない人達を全部一括りに「アンチだから視界に入れない聞かない説明しない」という、彼女の態度にただただ不信感。
少なくともTwitterではあちゅうとエゴサかけて出てくるものについては、一括りにしてブロックして耳を塞げばいいものでは無いと感じている。
狙って炎上しているとか故意的にブロックしているとは思わないからこそ、応援し続けるのはしんどいと思ってしまった。
読み直すと全くまとまりなく意味がわからないけど、好きだからこそこの人の二転三転する話の内容や、お金を払って彼女と成長しようとしているファンに対しての説明責任を放棄している姿勢が、ただただ残念。
noteの購読も解除したしTwitterInstagramのフォローも解除した。サロンはだいぶ前に辞めた。
彼女だって何かのきっかけで嫌いになった人なんて死ぬほどいるんだろうし、必然的なその連鎖の中に自分も身を置いてるだけだと思う。
誤字ではない。
居眠り「した」のではなく「されて」受験に落ちた人がいる。この理不尽さを誰かに吐き出したく、殴り書きさせて頂く。
身分はぼかして書くが、とある国立大学の大学院における選考会議の様子を把握できる者だとだけ言っておこう。
言うまでもなく選考過程を漏らすのは御法度である為フェイクも多々入れるが、多めに見てほしい。
詳細を記す前に、まず大学院の選考方法を説明する。といっても甚だ単純で、基準は基本的に「教授が忙しい間を縫って面倒みてやってもいい論文が書ける学生と判断したか」の一点に尽きる。こう書くと随分いい加減に思えるかもしれないが、基本的に研究というのはプロ同士であっても「こんなの研究と認めたらこの分野崩壊するわ!」とか平気で批評しあう世界なので、ましてやペーペーの学生の研究に価値があるかなど真剣に議論しても満場一致の答えなどでない。よって、直接面倒を見て博士論文指導をする教授に一任されるのである。無論、ある程度外国語技能や専門分野の知識のチェックはされるが、レベルの高い大学ほど論文が全てという傾向は強い。何か国語話せようが知識が凄かろうがあまり関係なく、教授に「この研究は自分、ひいては業界の役に立つ」と思わせるのが肝要である。当然、コネによる入学や担当教授の暴走を防ぐ為に「副査」と呼ばれる、一緒に論文をチェックする人もいるが、副査は指摘すべき点がない場合はまあ無難な点数を出す。担当教授(主査)と違って、専門分野ではないから評価が難しいし専門家が採るといってる者を落とす理由がないからだ。よっぽどのことがない限り、主査が入れる気があるかどうかで可否が決まる。
特に、この大学は絶対博士号をとらせる大学(学生向けのキャッチコピーではない。国がそういう事業の一環として認定し、補助金も多く出している)である。博士課程というのは卒業すれば博士号がでるわけではなく、むしろ在学中にとれない人の方が多く、所謂「満期退学」になりその後何年も経ってから博士号をとるのがスタンダードなのは有名な話だが、この大学は殆どの生徒にとらせるべく指導するというわけだ。これが何を意味するか。めんどくさいのだ。博士号とらせなきゃいけないからといって、基準が緩くなったりはしない。日本ではなかなか貰えない博士号を、確実に取らせなければ怠慢と言われるのである。当然、教授の負担は大きく、できれば採りたくないとさえ考える人も多い。そのうえ、この大学は方々から国にスカウトされてきた研究者が教授になっており、それぞれ現役で研究に励んでいる。というか、研究所に大学がくっついているという状態なので、教授はそれぞれ優秀故に「自分は研究者」という意識が強く、彼らにとって学生の指導は副業である。職人と丁稚奉公みたいな関係、というと分かりやすいかもしれない。本来自分の研究だけでお金を貰える人が、そんなにできるなら学生も見てよといわれるわけである。当然給料はいいし研究費もたんまり貰えるが、まあやりたくない。大学側も研究でも成果を出してほしいので、毎年わずかな生徒しか入れず、教授たちはそれぞれ数年に一人担当すればいい方だ。つまり、採ったら最後責任が重いし採らなくてもそんなに怒られない。故に、プライドが高く研究意欲のある教授がと重い腰をあげた時点で合格というわけだ。だいたいこんな風にして合否は決まる。
長くなってすまない。本題に入ろう。
居眠りしていたのは主査(実際に面倒を見る予定の人)ではなく、副査(担当しないが論文チェックはする人)だった。
長々と書いた通り、この大学で学生を採るというのはめんどくさい。しかし、おとされた学生は幸運にも主査に合格点を出された。何人かいる副査も無難な合格点、人によっては少し高めの合格点をつけたりもして、問題なく入れるはずだった。しかし、一人の副査が、法外に低い点数をつけたのである。理由は定かではない。何故なら、点数を発表した会議でその教授は爆睡しいたからである。
これがもし、何がおかしいという顔で鎮座していたならあるいは、合格を出した主査の姿勢を問い直す必要もあったかもしれない。
自分が採るわけでもない生徒にとんでもない低い点数をつけた、まではもしかしたら研究へのこだわりであったかもしれない。いくら自分が面倒を見なくても、こんな学生を入れては国立研究機関の名が廃る、とかそういう信念のもとの行動だったのかもしれない。主査の教授のメンツに泥を塗ったと嫌われても、他の教授に非常識な奴と白い目を向けられても、研究のレベルの低い生徒を入れるわけにはいかない。ありえない行為に騒然となる会議室で、それでも己の信念に基づいて何が合格に足らないのかを雄弁に語ろう。そういう覚悟と純粋さ故の頑固さがこのような事態を招いたのかもしれない。もしそうだったなら、研究所内での自分の立場など顧みない、人間関係など研究においては関係ない、そういう研究者としての誇りある人物だといえるのではないだろうか・
しかし、そんな一抹の擁護の可能性を吹き飛ばす爆睡。一般企業なら上司から爆弾を落とされるレベルの、爆睡。ヤバいと思った隣の席の教授に、つついても声をかけても、起きないと確信される、爆睡。一切の説明責任を拒否する、爆睡。
採る予定だった学生を予想外に落とされ愕然とする主査、ドン引きする他の教授、眠り続ける副査。
あまりにあまりな顛末に、良心的な教授の間では「あれは狸寝入りだったのではないか」説まで出始めた。「本当は私情で落としたので、何故こんな点数をつけたのかと追及されるのを逃れる為に、あんなことをしたのではないか」「学生の論文の出来に嫉妬し、しかし無理に難癖をつけるのはプライドが許さず、苦肉の策だったのではないか」「本当は気が小さい人で、主査のメンツを潰すのがしのびなかったのではないか」という憶測が飛び交ったが、定かではない。個人的には、そんな深い事情はなく、なんか気に入らなかったからじゃないかと思う。学生も
気の毒だが、寝てた人の点数でも考慮せざるを得ないのが、寝てた人を怒れないのが、寝てた人でも教授になれちゃうのが、国立研究所である。一例だけで申し訳ないが、国費をかけて研究者を増やそう!という研究所でこういうことが起こり得るのが今の研究者の現実の一端である。
同人界隈、特に腐向けジャンルでは学級会と呼ばれる一種の炎上がある。
大体はマナーや迷惑行為に物申したツイートがバズり、それに対していろんな人が(特に強めな)意見を呟いてTLがその話題で持ちきりになるようなことが多い。
我々オタクと言うのはこういう学級会が好きなのだ。とかく己の意見を表明したがる。
気持ちは分かる。身近な問題に対してそりゃあ一言物申したくなるというのは当たり前の感情だろう。
だが一度立ち止まって考えてみてほしい。
その学級会、炎上に加担して結果的に自ジャンルを面白おかしく貶める危険性はありませんか?
今の時代、一旦バズってしまえば己の手が届く範囲を超えてネット中に広がる。
あっというまに他ジャンルのオタク達やライトな作品ファン層、非オタの人々にまで届くのだ。
そして、そういう広がり方をしたものは往々にして元のツイートの真意から外れた質の悪い噂や、センセーショナルな部分だけを取り上げた面白おかしいお話へと変貌する。
リバ、つまり受けと攻めが逆転する作品形態のカップリング表現、性癖の一つだ。
切っ掛けはとあるサークルさんがイベント参加を取りやめる、と告知したことだった。
その告知にはなぜ参加を取りやめることになったのか、原因が丁寧に書かれていた。
簡単に言えば、その作家さんがリバ表現を含む作品をメインカプで配置されたイベントで頒布すると告知したところ、心無い一部の人間が誹謗中傷のメッセージを送ったのだった。
ここでリバという存在が云々・イベント運営会社のスペース配置への配慮が云々、などと語ることは避ける。
腐女子において受けと攻めに関する話題は限りなくセンシティブなものであり、この手のトラブルは昔から無数に繰り返されている問題なのだ。
一つ言えるのはそこにどんな理由や考えがあるにしろ、サークルや作家に対して己の願望や性癖を押し付けたり、誹謗中傷や非難する行為が許されるわけがないということだ。
そう、このサークルさんはそんな酷い悪意をぶつけられ、とても傷ついたことだろう。
今まで理不尽に与えられてきた苦しみが丁寧に説明された告知文は、そんな思いを誰かに伝えたかったのだろうと思う。
急なイベント参加取りやめについて、ファンの読者の方々に説明責任を果たそうとしたのかもしれない。
けれどこのツイートはその後「学級会」を巻き起こし、思わぬ展開を招いた。
まず、同じジャンル内のサークルさん達が次々と該当ツイートをRTし、今回の酷いメッセージ攻撃に対してかなり強い言葉で非難を表明した。
同人とは、創作とは、地雷とはかくあるべきとそれぞれの自論を展開した。
その内容に関して間違っているとは全く思わない。どう考えたって酷いメッセージを送ってきた人間が悪く、サークルさんは被害者である。
しかし過激でセンセーショナルな反応はあっという間にジャンル全体を学級会と怒りで燃やし上げ、すぐにジャンル外にまで燃え広がった。
広がるにつれて内容は背びれ尾ひれがついて過激になっていく。
例えば「A×B民が間違えてリバ同人誌を買って、サークルに文句を言ったらしい」だとか
「A×Bでスペース取ってそのカップリング以外の頒布物を並べたら誹謗中傷されたらしい」とか
「A×BはリバOKサークルを追い出そうとするらしい」なんていうものもあった。
「A×Bの人がB×A本を買って文句つけたとかwwwwさすがA×B民度が低すぎ頭悪いwwwww」
こんなツイートがジャンル外に広がっているのを見て、私は悲しかった。
サークルさんに誹謗中傷のメッセージを送った人間は最悪だし、許せないし、同じジャンルの人間だと思いたくもないけれど、彼らはこのジャンルにおいて絶対的に少数、片手の指で足りるほどだろう。
実際、今回の件だってツイートでは全員満場一致で「誹謗中傷メッセージがおかしい!好きなものを好きだと言って何が悪い」と言っている人しかない。みんな同じ意見だ。
殆どの人は常識をもって、ちゃんとルールを守って、地雷があったって静かに自衛をして、好きな作家さんに応援メッセージを書いて、楽しく好きなカップリングを楽しむ方法を理解している。
そう、ほとんどの人はマナーを守って楽しんでいただけなのだ。なのになんで、ここまで言われなくてはいけないのだ。
簡単だ。センセーショナルな炎上案件がジャンル外に轟いてしまったからだ。
外からみたら、あ~またあのジャンル炎上してるよwwwジャンル民度wwwなんて反応は至極あたりまえなのだ。
さて、話を戻す。
酷い行為への許せない気持ち、とても分かる。特に同じジャンルや好きな作家さんだったのならば、ふざけるな私にも一言物を申させろと思うだろう。
けれどそのセンセーショナルなまでの過激な怒りをネットに投下してしまう前に、どうか一度、少しだけ冷静になってはくれないだろうか。
そのツイートは炎上に加担していないだろうか、表現された怒りは過激すぎないだろうか、火に油を注ぐ行為になっていないだろうか。
その話題がジャンル名を伴ったまま面白おかしくセンセーショナルに切り取られて、遠くまで広がってしまう可能性は無いだろうか。
その先で自ジャンルが面白おかしく貶められる道具として使われる可能性はないだろうか。
内容によるけど、サービスの説明だなんだかんだと事細かに全て言うわけがない。
言われなかったって、聞かなかったじゃんとも
逆に言えるわけでもあるので、
聞かないってことは感心が低いとも言えるだろうでしょ。
まあその場合「こっちはプロじゃないからそんなの普通知らないという」逃げ口上をお客さんは持っているので
説明責任だけを追求されることになる。
となると説明するわけだがお客さんの方に感心がなければ大抵意味がない。
説明不足というのはだいたい得てして難しいのだ。
簡略化したところにクレームが発生しがちなので詰む。
これはサービスという自身の構造的な欠陥なのではないかと思う。
(なぜなら同じ説明しようとすると知識がイコールになる必要があるので、
結局のところ、この手のクレームはだいたい詰むようになっている。
なんか上手な返し方とかないのかな。知りたい。
具体的な業務でいうと、
普段なら美容院や理容院、病院とか、オーダーメイドなサービスのところ、あとはサービスセンター窓口か。
もちろんはこれは一例でどんな業務でもあることだと思う。
もう少し互いに寄り添えばいいだけなのになと思う。
全ては忙しい日本がいけないんだと思う。
肉体だけで考えようとするからそうなるんだよ。
頻繁にベストプラクティスが変わっちゃうような、たとえばReactやらVueみたいなやつの情報だったら、古い本などを参考するよりは、コミュニティの評価やソースコードを追ってったほうがいいし、
マーケティングのフレームワークを学びたいなら、断片的なweb記事をみるよりはそこそこ売れている本を読むほうがいいし
あるいは誰それがなんと言ったみたいな情報であれば、Twitterでも実名の人を信頼するし
アカデミックな理論を業務に取り込みたいなーと思ったら査読付きでそこそこ引用されている論文をやはり信頼して読んでみる気になるし
一回だけ使うワンライナーみたいなどうでもいい話ですぐ試せて副作用がないならgoogleで一番上にでてきた情報で試してみるのもいいし。
人文系は研究対象として地理的にローカルかつ繰り返しはあるかもしれないけど一過性の現象を主に扱う以上、
研究内容自体がごくごく限られた人にしか興味を与えずほとんどは歴史的資料の価値すらなく消え去っていくものが大半だと思う。
ここが人文系が宇宙共通の普遍的真理を研究対象とする積み上げ塗り替え式の自然科学や数学と大きく違う点だけど、
国際的な基準による客観的な研究評価が難しいとなると、目的と効果について国民に対する明確な説明責任が求められる、
科研費などの税金ベースの競争的研究資金の枠組みに組み込んでいいものなのかは正直疑問なところではある。
政府(主に財務省)が文系学部の縮小の方向に動いているのも、こういうこういう見方をされている側面が強いんじゃないだろうか。
ではなかった。
「めんどくさいな」、「いやだな」、「理不尽だな」、「早く終わらないかな」
だった。
怒られている最中、泣きもした。泣くのは罪悪感の表明ではなかった。
むしろ相手に罪悪感をなすりつけ、叱られを早めに打ち切るためのテクニックであり、
効果の如何にかかわらずよく使った。頭ではっきりそこまで打算してはいなかったが、意識化ではぬけめなく計算していたはずだ。
ずるかった。ずるい子どもだった。でも当時はずるいのは高所大所から反撃の余地なく子どもを詰められる大人のほうだと感じていた。
現在の己をかんがみるに、最低でも九割くらいは自分に非があったのではないかと思う。
上は政治家から下は会社の同僚に至るまで、やらかし事例をそれなりに見聞きした。日本の近現代史、特に旧日本軍の「失敗」をつまみ読んだりもした。
それでなんとなく感得したことがある。
謝っているときも謝っていない。
謝り方を知らない。
ネットとかでよく見かける文言だ。ネットでよく見かける主語の大きい言葉はうそだったり不正確だったりするものが大半だけれど、これに関してだけは肌で真実だとわかる。なぜなら自分もそうだから。おそらく、人生を通じて本当に心底相手に対してお詫び申し上げたことがないから。謝るにしろ謝らないにしろ、我が身のかわいさしか考えたことがないから。
日本人は、謝れないとして、責任を取りたがらないとして、なぜそうなのか。
人災には因果があり、理由がある、ということをしんじつ認識できていない。
百万歩ゆずって因果があったとしても、それは前世の業めいたもので、自分の手では届かないどうしようもないことであり、どうしようもなかったのだから、私個人は悪くない。そういう責任逃れの前提があらかじめ内面化されている。
私は関係ない。
私は意図していない。
機序は知らないがその面倒ごととしての「結果」は私とは関係ないところで発生した災害なのだから、私を怒らないでくれ、叱らないでくれ。
そういう意識がある。
そういう意識が怒られの前触れを察知したときに怒られ者にどういう感情を引き起こすか。
「めんどくさい」だ。
だから避けようとするし、早く打ち切ろうとする。それが空虚な謝罪や姑息な謝罪逃れにつながる。
そうすることで失敗を原因を直視しないままうやむやに過ぎ、次なる大災害の種を育んでしまう。人災だったものを天災に変えてしまう。
新潮45の件もそれなんだろうな、と思う。
最悪なのは、謝られる側も「ちゃんと謝れなさ」に最適化されてしまっている風土だ。
原因やプロセスに向き合わないままうやむやに終わらせることに慣れてしまっている。
口では「原因究明を」「まだ終わっていない」「説明責任」などと欧米から輸入したような言葉を吐くが、結局一歩も進めず忘れてしまう。
ちゃんと謝れないでいい空気を保存しておいたほうが後々自分も謝る立場になったときに都合がいいのだ。
そうやって多分、日本人はこれからも同じ小規模な失敗を積み重ねていき、いくらか貯まったところで大惨事を引き起こすのだろう。
そういうことをえんえんと繰り返すのだろう。
「独り言にて(ツイッターID:@hitorigoto4me)」です。
先日こんなエントリーを書きました。
PCデポの記事についてヨッピーさんにあれこれ聞いた話(前編)
https://anond.hatelabo.jp/20180902034231
で、わざわざ書くような事ではないかもしれませんが、ツイッターでヨッピーさんにブロックされました。
ただ、これは私がPCデポに関するツイートをやめる意思はなく(止められる筋合いもないですが)、ブロックしない限りそれがヨッピーさんに届く可能性はあるよ、という内容のツイートをした結果です(誰にもメンションを付けていませんが、エゴサの鬼であるヨッピーさんには当然補足されていると思います)。
そのため、単純にヨッピーさんは私のツイートをもう見たくないというだけの事で、それ以上の意味はないと理解しています。
ちょっと無粋かな、とも思ったのですが、書き留めておこうと思った事があります。
先般、ヨッピーさんとのやり取りを終えたのですが、最後ちょっとドタバタがありました。
(きちんと終了宣言をしており、ブロックで逃げられたという話ではありません、一応。)
そこでずいぶんヨッピーさんに悪者にされたような気がするのですが、当のヨッピーさんが書いたブログはなかなか酷い出来でした。
私の発言は古いものを使用しているし、相変わらず一番のポイントだった8/20の背景は都合の悪い事をカットしてあるし、私とのやり取りはなんだったのかな、と。
なんなんだよもう、と言いたいのはこっちです。
(ブログへの反論の一部は「追記」のエントリーに書きました。)
私にミスがあったのは事実で、そこを責められる事に反論はありません。
ただ、それでも全体として、私はそんなに文句を言われる筋合いはないと思うんですよね。
大原則として、私が私の文責(匿名ですが)で書く文章に対してヨッピーさんの検閲を受けるいわれはないからです。
下書きを見せたのは100%善意であって、私の誠実さ、公平さを証明するためのものでした。
と言っても私とヨッピーさん以外はこの経緯を知らないので、ここでざっと紹介しておこうと思います。
しかしツイッターは長文に向かず、私は長文を書く傾向にあるので、ヨッピーさんからメールでやり取りしようと提案がありました。
私はそれを了承し、以降メールでのやり取りになりました。
最終的に、ヨッピーさんが「T部長に確認してるんだから間違いはないと考えている。違うというのなら当事者の証言をもってこい」というような返答しかしなくなったため、それ以上続ける意味がないと判断してやり取りを終えました。
当事者の証言を求める割に、まさに当事者であるケンヂさんのツイートを提示しても「それはよく分かりませんが」と流してしまうので、それ以上何も答える気はないんだな、と判断しました。
その時私はPCデポに対して問い合わせをしていたので、その回答があり次第まとめの文章をどこかに公開し、それで終了とすると伝えました。
つまり、やり取りを終了するのは私から切り出した事で、文章を公開する前から終える事は決まっていました。
私がヨッピーさんを怒らせて、そのせいでやり取りが終わったという事はありません。
メールでのやり取りを始める前、ヨッピーさんからはメールの内容を公開してもいいとの話を受けていました。
そのため、私はまとめの文章を書くにあたって、メールの内容を引用するとしてもヨッピーさんの了承を得る必要はなかったと言えます。
それは、ヨッピーさんがメールでケンヂさんからのメールを一部引用していたからです。
ヨッピーさんのメール内容を引用するのは問題ないとしても、ケンヂさんのメールに言及した場合、どこまでOKかというのを確認する意味がありました。
なので最初は引用可能な範囲を尋ねたのですが、ヨッピーさんからは下書きを見せるよう求められました。
それで確認すると。
断る事もできましたが、それはそれで手段の1つなので、私は了承しました。
そして下書きを送った際、私は事実関係に明らかな間違いがない限り訂正には応じないと伝えました。
そして帰ってきたメールで、注釈を入れるよう求められたわけです。
注釈を入れるという了解は取ってないので、本来応じる必要はありません。
ヨッピーさんの言い方を借りるなら、そんな事は事前に言ってなかったのに、下書きを見せたらいきなり言い出したわけです。
しかし、ここは私のミスなんですが、「後編」で引用した部分しか見えていなかったので「このくらいならいいか」と応じてしまいました。
あの分量が来ていたのを知っていたら、断っていました。
そして見えていた分の注釈を追記して公開したところ、ヨッピーさんの抗議を受けた、というのが流れです。
メールの後半が省略して表示されていたのを見落として、入れる事を了承していた注釈を全部は入れていなかったのは事実です。
これは私のミスです。
なので、指摘を受けてメールを全文見ていなかった事が示された時点で「出先なので戻り次第確認して対応する」と返信しました。
ところが、ヨッピーさんはそれに対し「もう遅いし自分で書いたから対応しなくていい」と言ってきたわけです。
私はその必要もないのに下書きを見せ、事前に話のなかった注釈の挿入にも応じています。
注釈も当初確認できていた分については盛り込んでいるわけで、そこだけ見ても私が悪意を持って注釈を入れなかったと判断するのは無理筋です。
悪意があったのであれば注釈なんて全部無視しますし、そもそも下書きを見せたりしません。
ミスはあったとしても、私はやり取りを通じて、ヨッピーさんからの求めには誠実に対応してきました。
それを、たった1つ、しかもこんなミスでそこまで責めるの?と思うわけです。
しかも、自分で書いたというブログを読んだら、これがまた酷いわけです。
私の発言は過去のツイートから引っ張ってきており、メールでやり取りした内容、まとめで公開した文章もほとんど反映されていません。
私が対応した部分には触れず、「約束したはずの、僕の注釈が入ってない」と全く対応していないような書き方をしています。
2回に渡る解約ではケンヂさんが怒鳴って明らかにおかしな手続きに導いた事はスルーですし、8/19のアポ取りでは揉めた事までカットしています。
挙げ句の果てに、新しく出てきた背景を無視して「PCデポの要望だった」と主張しているんですね。
それで私には「反応を見る限り多くの人にはご理解頂いたみたいですし自分の説明責任は果たしたと思ってる」と伝えてきました。
そりゃあ、ヨッピーさんの都合のいいように事情を取捨選択して書いたら、ヨッピーさんのファンは納得するでしょう。
でも、背景を大分カットしているのもさる事ながら、今回のやり取りで新しい事実関係が出てきた事をスルーしているのは何なんでしょう。
しかも、ケンヂさんが不当な要求をして口論になったという話です。
8/20に店頭へ行く話に直結しているのに、そこを書かないで説明責任は果たしたとか、何の冗談でしょうか。
また、当時そう信じるのが妥当だったとしても、出てきた新事実を踏まえて「今」どう思ってるんでしょうか。
メールで尋ねた時も答えてもらえませんでした。
T部長は最初ケンヂさんが来る事を前提に身分証の提示を求めました。
これは私の憶測でもなんでもなく、ケンヂさん本人の語った事実です。
それを受けてPCデポ(T部長)がお父さんを連れてくるよう求めたのですから、この一連の流れをPCデポの責任だとするのは無理があります。
背景を無視してはいけないと私が繰り返し書いているのは、そういう事です。
身分証を持ってくるよう伝えなかった、としていますが、最初にケンヂさんに求めているじゃないですか。
対象がお父さんに変わっただけで、なんで不要になると思ったんでしょうか。
私の主張を憶測だと切り捨てる前に、新たに明らかになった事実を元にきちんと経緯を再検証してほしいと思います。
ヨッピーさんのブログは事情を知っていると「何言ってんの?」というレベルなのですが、さっき書いた「ファンは納得するでしょう」というのに思い至った時、疑問が解けた気がしました。
要するに、ヨッピーさんのブログは私の文章への反論ではなく、ヨッピーさんのファンに向けた文章なんです。
というのも、ヨッピーさんにとってはファンを抱えている状態が最も大切だからです。
ヨッピーさんはライターですが、フリーランスで、かつ専門分野を持っていません。
ここで言う専門分野とは、科学や技術、歴史、政治等、特定のジャンルについて凄く詳しいという意味です。
文章力は非常に高いですが、専門性のある内容を語る事はできないのです。
もちろんそれを責めているわけではありません。
ネットメディアは広告収入に大きく依存しており、広告収入にはPV(ページビュー、広告の入っているページの表示回数)が必要です。
そしてヨッピーさんはそのPVを集める能力がとても高いです(あと話を聞くタイプの取材も)。
だから専門がなくてもやっていけるのです。
ヨッピーさんの持つPVを支えているのはヨッピーさん自身の人気です。
忘れられないために発信をし続けないといけませんし、同時に自分の価値を毀損させてはいけないのです。
なので、自分の知名度を上げた記事について、情報の切り取りやおためごかしを使ってでも、誤りを認めるわけには行かなかったのだと思います。
このスタンスは、少し前にあった「広告記事のタイトルにPRの文字を入れるか問題」にも現れています。
ヨッピーさんは(その後入れるようにしたんだったと思いますが)入れなくてもいいという立場でした。
タイトルにPR表記を入れないで読んでもらうというのは、要するに読者を騙しているわけなので、筋論としては入れる方が正しいです。
しかしヨッピーさんはPVの量が武器なので、それを受け入れたくなかったんですね。
筋よりもPV、となってしまったのは、先ほど触れた専門性にも起因していると思います。
広告記事は通常の記事よりギャラが高い事が多いのでやりたいわけですが、ヨッピーさんの広告記事は、割とアレなんです。
ちょっと古い記憶で語っているかもしれず、そこは恐縮ですし全部がそうだと言うつもりはないんですが、アレというのは、広告する対象について知識もないし興味もないという事です。
頭皮エステ機器の記事だったと思うんですが、全く関係のない知り合いの引っ越しの話を延々として、最後に「あっそうだ」と使っているところの写真を数点載せ、製品の特性も売りも何も紹介しない、というのがありました。
ただ、ろくに使いもしない記事でその商品を魅力的だと思う人がいるでしょうか。
それって広告なんでしょうか。
レビューには勘所というものがあり、ある機能がどういいのか、過去の製品からどう進化したのか等、業界を長くウォッチしていないと書けないものが多いです。
ただ、それでも先ほどの記事が成り立ったのは、ヨッピーさんがPVを集められるからです。
数年前の記事なので、当時はいかにターゲット層に届くかではなく、どれだけのPVが見込めるかで広告を取れた時代だっただけかもしれませんが。
ともかく、知識量で勝る他のライターに競争で勝つため、PVを減らす施策は認めたくなかったのだと思います。
だから、あのブログにおいては物事の正しさや正確さなんてどうでもよく、ファンに向けて「俺は正しい」と説明し、ファンを繋ぎ留めておければよかったんですね。
一応フォローしておくと、詳しい内容は忘れましたが、どこか場所、地域(自治体?)を紹介するという広告記事がありました。
「行ってみた」という体験型の記事で、これはヨッピーさんの特性に非常にマッチしており、良記事でした。
特定方向に振った知識量を求められる記事でなければ、ヨッピーさんはとても良い仕事をされます。
単純に、得手不得手、向き不向きがあるというだけの話です。
ヨッピーさんは多分、ずっと私との対話を切り上げるタイミングを見計らっていたのだと思います。
私に落ち度があったら徹底的にそこを責めて私を悪者にし、自分の正しさをファンに見せる、そういうタイミングです。
都合よく私がメールの確認をミスったため、ここがチャンスと思ったのでしょう、徹底的にマウントを取りに来ました。
なんでこんなに怒ってるんだろう、と思ったのですが、ファンに向けて怒っていると見せる事が大事だったんですね。
ヨッピーさんはツイッターで「もういいです」等、私との対話を切り捨てるような内容のメッセージを送ってきました。
しかし、繰り返しますが、私は既にやり取りを終える事を伝えていました。
何も言わなくてもやり取りは終わるんです。
しかも、私がそれまできちんと対応してきたプロセスを無視し、私がミスに対応すると言っているのにそれまで断ったわけです。
そしてブログでは相変わらず時系列無視、事情を都合よく切り貼りとやりたい放題です。
ヨッピーさんとしては、ファンが読んで納得し、ファンとして残ればOKなのでしょう。
それが「多くの人にはご理解頂いたみたいですし」という発言につながっているわけです。
ただ、それって「信者ビジネス」と言われるイケダハヤト氏と同じ道ではないですか。
ぶっちゃけた話、私のような第三者が調べた程度で疑義が見つかり、突っついたら新しい事実(しかも展開に大きく関わっている)が出てきたという時点で、この件に関してヨッピーさんの発揮した取材力は知れているわけです。
協力を依頼したのはケンヂさんなのに、当のケンヂさんから事情を全部話すほど信用されていなかったという事です。
T部長からも話してもらえていなかったという事は、両者に取材したのにどちらからも重要な話を聞けていなかったわけです。
それで胸を張って取材したと言えるんでしょうか。
これはヨッピーさんのライターとしての特性だと思うんですが、相手が好意的に話をしてくれている時は素晴らしい記事を書けても、複雑な事情を深掘りするのには慣れておらず、何か隠している人から事情を聞き出すという事はできないんじゃないでしょうか。
認知症で老人ホームに入っている父親を連れてくるよう要請されたなんて、本来は秒で断る話です。
そこをケンヂさんがそう話したというだけで信じ、経緯を確認しなかったし重要だと思わなかったというのは、その程度の取材力しか発揮しなかったという事です。
ただ、それでも私を責めれば人気を維持できると考え、機を逃さず、私に対応する暇を与えずにブログを書き上げた、その嗅覚と手腕は見事です。
新聞が間違った事を書いて、SNSで叩かれるというのは日常的に見られる光景です。
それをおろそかにした時点で、ヨッピーさんは信者ビジネスに堕ちたと私は感じました。
オモシロ記事を書く能力はずば抜けて高いので、そっちに注力していれば良かったのに、と思わずにはいられません。
冒頭で無粋かも、と書いたのは、私は別にヨッピーさんの商売の邪魔をしたいわけではないのです。
直接ファンからお金を集め始めない限り、実害はほぼないとも言えます。
ただ、信者ビジネスのダシに使われたのかと思うと、これくらい書いてもいいんじゃないのかな、と思った次第です。
以上です。
するとタケモトさんは容赦なく、露骨にきな臭いバイトを紹介してきた。
「じゃあ、これだな。近くに『スペースハウス』ってマンションあるだろ? そこに一定期間住むだけでいい、簡単な仕事だ」
タケモトさんの言うとおりなら確かに簡単なバイトだが、さすがに鵜呑みにはできない。
人を住まわせた上に賃金まで出すなんて、雇う側にメリットがないからだ。
どう考えても“裏”がある。
「部屋内の不備とか、使い心地とかのアンケートを書く、とかですか?」
俺はあえてバカっぽく質問をして、タケモトさんから答えを引き出そうとする。
「うーん……まあ、そうだな」
歯切れの悪い返答。
この時点で、何か裏があることはほぼ確定だ。
今度はやや強気に出てみよう。
「タケモトさん。俺は多くを要求するつもりはありませんが、説明責任は果たすべきだと思いますよ」
「そうは言ってもなあ、オレが説明できるのはそこまでなんだよ。そこの管理人が具体的な説明をしなくてなあ」
どうやらタケモトさんも、このバイトを怪しんでいたようだ。
だが、それが何かは分からないらしい。
「さすがに、そんなものを紹介するのはどうかと思いますよ……」
「普段はこんなの絶対に紹介しねえよ。お前がテキトーに余ってるもんでいいと言ったから、ダメもとで出してみただけだ」
今後、職業斡旋所で働くことがあったとしても絶対にやめておこう。
俺はタケモトさんを見て、そう思った。
「まあ、いいや。やりますよ、それ」
何はともあれ、俺はそのバイトをやることにした。
それに、このバイトが意味する“裏の目的”、その見当はついていた。
「え!? マジか、お前……」
「おいおい……もしかして、“それ”狙いで請け負ったとか言わないよな?」
「違いますって」
俺が生まれる前からある程度には古いマンションなので警戒していたが、意外にも中は小奇麗だ。
むしろ、実家では兄弟で一部屋を使っている状態だったので広いとすら感じる。
“裏の目的”よりも、住みやすさの方が俺にとっては問題だったので、これで安心だ。
まあ、あからさまに怪しいから、俺じゃなくても勘付いたと思うが。
そこは恐らく「事故物件」ってやつだと俺は見当をつけた。
バイト仲間にオサカってのがいるんだが、そいつから聞いたことがある。
事故物件に住み、そこで何の問題も起きなかった場合には事故物件扱いじゃなくなるらしい。
そうすれば、他の部屋と同じ家賃にできる。
雇う側が仕事の内容について最低限しか説明しなかったのも、雇われた側がウソをつく可能性を恐れたからと考えるなら辻褄は合わなくもない。
というわけで、タケモトさんが言ったとおりこれは簡単な仕事ってわけだ。
俺はオカルトだとか、そういった類のモノは信じちゃいないからな。