ではなかった。
「めんどくさいな」、「いやだな」、「理不尽だな」、「早く終わらないかな」
だった。
怒られている最中、泣きもした。泣くのは罪悪感の表明ではなかった。
むしろ相手に罪悪感をなすりつけ、叱られを早めに打ち切るためのテクニックであり、
効果の如何にかかわらずよく使った。頭ではっきりそこまで打算してはいなかったが、意識化ではぬけめなく計算していたはずだ。
ずるかった。ずるい子どもだった。でも当時はずるいのは高所大所から反撃の余地なく子どもを詰められる大人のほうだと感じていた。
現在の己をかんがみるに、最低でも九割くらいは自分に非があったのではないかと思う。
上は政治家から下は会社の同僚に至るまで、やらかし事例をそれなりに見聞きした。日本の近現代史、特に旧日本軍の「失敗」をつまみ読んだりもした。
それでなんとなく感得したことがある。
謝っているときも謝っていない。
謝り方を知らない。
ネットとかでよく見かける文言だ。ネットでよく見かける主語の大きい言葉はうそだったり不正確だったりするものが大半だけれど、これに関してだけは肌で真実だとわかる。なぜなら自分もそうだから。おそらく、人生を通じて本当に心底相手に対してお詫び申し上げたことがないから。謝るにしろ謝らないにしろ、我が身のかわいさしか考えたことがないから。
日本人は、謝れないとして、責任を取りたがらないとして、なぜそうなのか。
人災には因果があり、理由がある、ということをしんじつ認識できていない。
百万歩ゆずって因果があったとしても、それは前世の業めいたもので、自分の手では届かないどうしようもないことであり、どうしようもなかったのだから、私個人は悪くない。そういう責任逃れの前提があらかじめ内面化されている。
私は関係ない。
私は意図していない。
機序は知らないがその面倒ごととしての「結果」は私とは関係ないところで発生した災害なのだから、私を怒らないでくれ、叱らないでくれ。
そういう意識がある。
そういう意識が怒られの前触れを察知したときに怒られ者にどういう感情を引き起こすか。
「めんどくさい」だ。
だから避けようとするし、早く打ち切ろうとする。それが空虚な謝罪や姑息な謝罪逃れにつながる。
そうすることで失敗を原因を直視しないままうやむやに過ぎ、次なる大災害の種を育んでしまう。人災だったものを天災に変えてしまう。
新潮45の件もそれなんだろうな、と思う。
最悪なのは、謝られる側も「ちゃんと謝れなさ」に最適化されてしまっている風土だ。
原因やプロセスに向き合わないままうやむやに終わらせることに慣れてしまっている。
口では「原因究明を」「まだ終わっていない」「説明責任」などと欧米から輸入したような言葉を吐くが、結局一歩も進めず忘れてしまう。
ちゃんと謝れないでいい空気を保存しておいたほうが後々自分も謝る立場になったときに都合がいいのだ。
そうやって多分、日本人はこれからも同じ小規模な失敗を積み重ねていき、いくらか貯まったところで大惨事を引き起こすのだろう。
そういうことをえんえんと繰り返すのだろう。
クレーマーに謝ろう
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丸山眞男ファンか? 日本人がそれを繰り返すのは同意だ。 その点期待するのは諦めちゃったなー。 もうリバタリアンとして生きてくことにした。
財務省がバブル崩壊後の失策を、失策とバレぬよう悪手のまんま20年近く維持してきたみたいな?